エッセー 2


今日の作文      2001.05.02

 人は(まわりの)人によって、はじめてその(自分自身の)存在が確認できるそうです。

 ──────(まず余談から)──────

「我思う、故に我あり」これはデカルト哲学だったでしょうか、それと矛盾するようにも聞こえますが、必ずしもそう(矛盾する)とは限りません。

 我思う..とは、単に唯心論的思考の出発点に過ぎません。つまり自分自身の知覚や感覚があるから世界の存在が知覚できるわけで、自分自身が存在しなければ世界が有ったとしても全く無意味だから、世界が存在しないのと同じだと、確かそのような意味だったと思います。

 極論すれば自分が消滅してしまえば、世界も消滅してしまうということです。客観的に考えれば自分の死後も世界は存在し続けるでしょうが、果たしてそう言いきれるかどうか。少なくとも自分の死後には、この世の存在を見届けることはできないはずです。してみれば、この世は一切合切が私自身に付き合ってくれている幻かもしれません。つまり、世界は私の消滅と同時に消滅するものかもしれません。

 昔の人は、自分が死んでも、家が残る、子孫が残る、名が残る、と考えたようです。徳川時代やその前の鎌倉時代や、さらにそのはるか前の(中国)漢の時代もそうだったようです。つまりは孔子の教え(儒教)に従っているわけです。孔子は紀元前500年頃の人ですから、すごいですね。

 先に記した唯心論的思考は、この儒教的精神とはかなり異なります。私はどちらかと言えば、自分が消滅すれば同時に世界も消滅すると考えるほうです。しかし、この事をこれ以上考えるのはよしましょう。

 ──────(ここから本論)──────

 最初の「人は人によって初めてその存在が確認できる。」これは最近に聞いたことですが、言われてみれば確かにその通りと思います。自分自身がどのように生きていても、まわりの人が居なければ、自分自身の存在を確かめようがありません。
 仮に無人の山中で一人で住んでいる事を想像すると、いかに衣食住が足りていても、人との交渉がなければ、話し掛けることもなく話し掛けられることもなく、たぶん耐えられなくなるでしょう。修行か何かのように、ある一定期間ならば、耐えられるかもしれません。しかし、それはいずれ娑婆に戻れるという将来の希望があるからです。
 死ぬまで人との交渉を絶って生きることは、人には決して耐えられないはずです。もし耐えられたとしたら、思考する必要もなくなるでしょうから、これでは山にはえている木と変わりません。

 つまり、妻や子や親兄弟、または友人や隣人が居て初めて、自分自身が存在しえるのです。この事を忘れないようにしましょう。(考えるまでもなく、実に当たり前のことのようですが、はっきり意識したのは、今日が初めてかもしれません。)



人はなぜ...     2001.05.27

 人はなぜ(または何の為に)生きるのだろう、こういう書き込みを、ある個人ホームページのBBSで見ました。私も若い頃そう考えたときがあります。そのホームページは夫婦のある問題をテーマとしたもので、作者は40代と思われる既婚女性です。

 そのBBSでは未婚か既婚かを問題にするのはおかしいとの話題もありましたが、女性でも男性でもおおよその年齢と、未婚か既婚かはその人を知る上で重要なことと思いますので、このように紹介しました。BBSへの書込みも同年代かそれよりやや若い既婚女性が多いように思いした。
(話のテーマによっては、男女にかかわりなく結婚経験の有無は重要な関心事となります。そのホームページのテーマは、やはり未婚者では扱いにくいはずで、既婚者でないと机上の空論と思われるでしょうから。)

人はなぜ...シニア世代に向けて、こういうテーマは、合わないかもしれません。
しかし40代なら、こういうテーマも悪くないように思います。

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 人はなぜ生きるか、これは難しい問題ですが、そう考える人にとっては重要な問題です。そういう事を考えない人もいるかもしれませんが、そういう人にとってはどうでも良いことでしょう。私は人生のある時期にそういう事を考えるのは良い事だと思います。むしろ、本来は思春期に考えるべきものでは、と思います。

 若い頃にもそういう事をあまり考えなかった人もいるかもしれません。そういう人は考えることを避けていたのかもしれません。孤独になれば人はいろいろ考えるものでしょう。しかし孤独になることを避ける人もいます。テレビや娯楽で孤独を避けているようにも思えますが、しかし他人のことは正確には分かりません。考えない人のことをあまり考えても仕方ありません。

 考える人のことを考えてみます。若い頃はそういう事を考えたとしても、30代、40代ではあまりそういう事は考えない場合も多いでしょう。考えないのは答えを得たからではありません。その頃は仕事においても家庭においても最も充実しているときで、考える必要がないからでしょう。(これは私の体験から言っているだけで、普遍的なこととは言いません。)
 昔の誰かが言ったように、「人生は重い荷物を背負って歩くようなもの」、これを実践している人は割と多いと思います。そういう人は「人はなぜ、」とはあまり考えません。つまり毎日がランニングのような人は、人生をあまり考えないものです。それはそれで別に悪い事とは思いません。
 しかし、そのときは考えないが、ある種のつまずきや、あるいは病気や失業など逆境に陥ったときに、考えるかもしれません。

 また家庭で、子育てに忙しい場合は、たぶんそう考える暇はないでしょう。(こう書くとまたカチンと来る人も居るでしょうか?しかし、世にはいろんな言説が飛びまわっているわけですから、聞き流せる気持ちのゆとりも必要でしょう。)
 しかし、子育てが終わって目標が見えなくなって急に落ち込む人も居ます。そういうときにまた「人はなぜ...」と考えるかもしれません。

 そう考えること自体は悪い事ではないと思います。しかしあまりその事ばかりにとらわれるのは、あるいは不幸なことかもしれません。結局は何か目標とか目的とかが見出せないから、あるいは逆境を感じたりするから、そう考えるのではないでしょうか。
 これは考えても分からないことではあり、結局は無意味だという結論も、特には否定はしません。また、考えている人も考えていない人も、そのことに対する答えはたぶん持っていないでしょう。しかし、無意味だと結論付けるのは少し待って下さい。急いで結論を求める必要は無いではありませんか。

 繰り返しますが、それを考えることは悪いことではありません。しかし、考えないで済むほうが幸せかもしれません。最も簡単な方法は、何か目標とか目的とかを持つ事だと思います。仕事でも、あるいは趣味やその他のことでも、何か目標のようなものがあれば、それにまい進できます。実現までに至る道のりがやや遠い方が良いでしょう。
 特に趣味的なことで、例えば登山や旅行やその他で、紀行文を書こうとか、または写真集を作ろうとか、そういう目標でも頑張れる場合もあります。しかし、今更そんなものは見出せないという人も居るかもしれません。また、それがどうしたと考え、そういう事がひどく無意味に思えて、人生の目標とはなり得ない場合もあるでしょう。

 人生の目標、今更そんなことは無理と思えば、ならば社会参加はどうでしょうか?人は人に奉仕することで、それが生きがいとなり得るように思います。つまり自分を必要とする人に奉仕するということです。奉仕であっても報酬はいただきます。つまり仕事ですね。
 仕事の目的は稼ぐこと、日々の糧を得ること、儲けること、それも結構でしょう。それに飽き足らない人、またはそれでも生きる意味を見出せない人は、仕事を社会への奉仕と思うようにすることです。またはそのような仕事をすることです。同時に仕事は社会参加でもあります。お説教じみたお話になったかもしれませんが、そうではありません。単に私の考え(思い)を述べているだけです。同意非同意はあなた(読む人)の自由です。

 (まとめますと)究極的に生きる喜びを与えてくれるもの、それは人々に(または社会に)奉仕することではないでしょうか。奉仕と言っても無報酬の慈善活動ではなく、奉仕して報酬を得ること、つまり仕事です。主に仕事は収入を得る為かもしれませんが、それだけではありません。つまり社会に奉仕するという意味もあるわけです。そういう思いを持ちやすい仕事と、そうは思いにくい仕事もあるかもしれません。しかし、仕事は自分で選べるものです。むずかしく考えることはありません。仕事で自分を必要とする人がいる、そう思えればそれで良いのです。



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