ダイアリー   ここではテーマを絞らず、その時々のことを書くつもり

113:近代短歌 投稿者ニキ  2009/11/08(日) 09:43
 木下利玄、しばらく前に初めて知った名だが、明治生まれの歌人。活躍したのは明治末から大正期で、「心の花」と「白樺」によったらしい。「心の花」は一般には馴染み薄いと思うが短歌結社の一つだとか。
 どういうきっかけで知ったか覚えていないが、古い岩波文庫に「木下利玄全歌集」というものがあった。今日、神保町の古本屋でそれを買った。1977年第3刷とあったから、すごく古いのでもなかった。それでも旧字旧かな遣いだ。
 短歌自体もインターネットに少し出ていたから、おおよその傾向は分かっていた。作られたのは与謝野晶子や斉藤茂吉より少し後らしい。ただし左の二人は利玄より長生きしたからその後の作歌もある。
 斉藤茂吉から新しい短歌という事で賞賛されたらしい。その事はともかく自分としては、分かりやすい短歌と思って関心を持った。作られたのは大正期だが口語短歌だ。現代短歌の本も少し持っているが、今のところ木下利玄の短歌の方により多くの親しみを感じる。
 

112:気負わず 投稿者ニキ  2009/08/28(金) 23:52
 あまり気負っても書けないし、書く時間もあまり無いから、気楽にいくらか断片的にでも書いてみる事にした。

 「蜻蛉日記」の面白さは、現代の熟年夫婦にも当てはまるような気がする、そんな所にあると思う。客観的には平安貴族と現代人とに共通点は少ないはずだが、ほとんど離れかかった夫婦関係だがそれでもやはり別れるわけに行かない中途半端な心持ち、そんな点が現代の熟年の、不思議な夫婦関係に似ているように思うから。こう書いてしまうと、いきなり結論を書いてしまったようで、実も蓋も無いが、それでももう少し書きすすめよう。また、現代の熟年夫婦が皆そんな関係とは限らないだろうけど。

 堀辰雄は「かげろうの日記」というタイトルで、その話を元にして小説を書いている。それは「蜻蛉日記」の上と中に相当する内容で、大筋は一致しているが、最大の違いは短編小説として無駄の無い文章で、過不足なく書いている点だろう。元の「蜻蛉日記」を読んだ後では、いくらか文章を削りすぎのようにも思うが、テーマを絞って書けばああなるものかもしれない。
 室生犀星も「かげろう日記遺文」として書いているが、こちらはほとんど犀星の創作と言って良いと思う。それでも大筋は「蜻蛉日記」に沿っていると言えるか。また、堀の小説と同じように、下巻の内容をほとんど採っていない。と言うより終わりの方はほとんど創作だけになってしまう様だが、実はこれをあまり読んでいない。

 堀のその短編小説と比較すれば、「蜻蛉日記」はやはり日記と思える。つまり短編として過不足なく、寸分の狂いも無い、と言う様な文章ではない。どうでもいい様な事も書いているように思える。それで返って、現実にあった様な、臨場感と言うのは変だが、それに近いものを感じる。
 「蜻蛉日記」は、日記とは言っても、日記のように書かれたのでなく、回想録として、ある時期にまとめて書いたものと推定されている。後世の研究者が推定したものだが、江戸期の本居宣長もかなり研究したらしい。
 小説や物語のように、まとまったストーリーや面白い話があるのでないが、それでも中巻の最後は一つのクライマックスだ。籠っていた山寺から連れ戻されて、それまでの話とは無関係に、何でも無かったかのように、周りの人との関係など、淡々と書き連ねる所は、なかなかの文章作家という気がする。あくまでも自分の体験や周囲の人との関わりを書いて、基本的にフィクションは無いと思うが、いくらかの脚色や単純化はあるだろう。

 面白い話はあまり無いが、寺社詣でなどで遠出する話は割と興味深い。また、個人的体験に違いないが、歴史的事実もいくらか書かれてある。しかし、何と言っても「蜻蛉日記」の良さは、平安時代の女流古文で書かれた、雅な文章の雰囲気にある。しかも短歌が文章の間に挿入されている。だから、原文で読まなければ、面白さはなかなか伝わって来ない。
 しかし古文がすらすら読めるわけもなく、意味もあまり分からなく、ここが最大の難点だ。だから、段ごとに注釈を見ながら古文を読んだり、訳文を読んだり、また古文に戻ったり、という具合に読み進めた。なるべく古文を理解するよう努めた。やはり古典の良さは原文にあると思った。

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 蜻蛉作者は、当時から短歌の名手と認められていたらしい。自分にそういう判断は出来ないが、いくらか気付いた事もある。それは、当時の教養人は多分、貴族の間で流布していた本のいくつかを暗唱していたのではないかという事だ。どういう本があって何を暗唱していたか、具体的な事は分からないが、少なくとも古今和歌集ぐらいは暗唱していたのではないかと思う。
 ちょっとした印象でもすぐに短歌にまとめる事ができるのは、多くの短歌が頭にあったからだろう。既存の短歌の一部を踏まえて作歌した場合も多いらしいから。
 また、例えば、自分の心境を、漁師の使う浮きに例えて表現した短歌もあったが、蜻蛉作者が魚釣りをしたとはちょっと考えにくいので、最初は不思議な気がした。浮きと言っても釣り用とは限らず網に付けるものかもしれず、川魚漁など見た経験はあるだろうけど。しかし後で、既存の和歌にそういう表現があって、揺れる心境を浮きに例える事は、当時の短歌には珍しくなかったのかもしれない、と思い至った。他にも、中国の古典の故事などについてもかなり詳しかったようでもあり。

 山籠りした場所は鳴滝と書かれてあるが、そこが現在の京都の鳴滝付近とあまり変わらないとすれば、そう山奥でもないように思う。が、千年前だから、現在とかなり違うのかもしれない。
 山籠りとは、つまり山寺に泊まり込んで、勤行の毎日だったようだが、そうは言っても一人でという事は決してなく、侍女はもちろん従者も何人か同行していた。息子も同行していたが、息子はその山寺からときどき出仕もしていた。
 山寺では、食事は精進料理で粗末なものだから、日に日に息子がやせ細って行くようで、蜻蛉作者にはその事が気がかりだった。だから、都へ行ったとき、魚など十分に食べて来なさいと言っていた。つまり、食物に対する滋養の観念はあったようだ。

 また別の解説などによれば、当時の御所(大内裏)は今の御所より西の方にあったらしく、千本中立売のあたりだったか。今の御所の付近に藤原氏一族の邸宅が多くあったらしい。後の世に御所が今の場所に移ったものだとか。
 下巻には、作者は広幡中川に転居してと書かれてあり、解説などでは、兼家とますます疎遠になった様に言う人が多い。しかし調べてみれば、広幡中川とは今の寺町通荒神口の付近らしく、とすれば兼家邸からそう遠くなく、徒歩三十分ぐらいではないかと思う。それでも当時は草深い所だったのだろう。

 話の時期として前後するが、当時は通い婚の風習が残っていたから、夫婦でも別居する事は普通だった。しかし、蜻蛉作者はしばらく兼家と同居していた時期もあった。第一夫人の時姫も一緒だったが、大きな邸宅で離れた所に居たようだ。寝殿造りの西の対と東の対というぐらいかなと、勝手な想像だが。しかししばらくして、蜻蛉作者はやはりそこを出る事にした。理由としては、自分の従者や下人が時姫の従者や下人と喧嘩をする事が何度かあったから、のように書かれてあった。
 蜻蛉作者は気が強く、意地っ張りな性格だったのだろう。愚痴も多いが、夫である兼家に対して妥協のない態度で、これが蜻蛉日記の基調のように思う。それでも直接に、苦情言ったり非難したりとかは、決して無かった。また別れを言ったのでもなかった。それは、時代の差からだろうし、現代の一般人とは身分が違う、という事もあっただろう。

 とは言っても後半では、夫を冷たくあしらったり、そのせいか、夫からも、どうも嫌われているようで行きにくい、と言われたり、もっと素直になれないものかなと、読む方として、何度もそう思った。
 

111:(無題) 投稿者ニキ  2009/08/02(日) 22:43
 いずれ改めて「蜻蛉日記」について書いてみたいと思っているが、なかなか書けないでいる。それを読むきっかけになったのは、堀辰雄「かげろふの日記」を読んでからだが、特に面白い話と思っているのではない。ほかに、室生犀星の「かげろふ日記遺文」という小説もあり、これも少し読んでみようかと思っている。つなぎとして、短歌を少々。ただし、「かげろふ..」とは全く無関係。

  朝夕の電車でコックリ女とてもたれる先は若男のみ

  小雨ふり釣り人釣れずそのときに川鵜は魚くわえ顔だす

  尾根道で風雨にうたれただ眠く歩みの先も霧につつまれ
 

110:二人の作家 投稿者ニキ  2009/07/11(土) 22:29
 しばらく前に、テレビなどで太宰治が話題としていくらか取り上げられていた。その前は松本清張だった。今は両方ともあまり話題にならないが、それはともかく、彼らは生年としては同世代らしい。しかし、あまりそんな気はしない。
 松本清張は少し前まで活動していた現代作家のように思うが、太宰はやはり近代文学盛んな頃の、昔の作家というイメージが強い。もっとも、清張は四十過ぎて小説が売れるようになり、活躍したのは昭和の三十年代から四十年代だろう。対して太宰は、戦前から戦中戦後にかけての作家で、四十の頃(昭和二十三年)に没っしたから。
 小説のタイプもかなり違う。生まれたのが同年としても、彼らを並べて考える事はまったく無意味と思う。

 松本清張の若い頃は、一般にはあまり知られていないと思う。自分もあまり知らない。それでも、一説によれば、彼のデビュー作「或る『小倉日記』伝」の主人公は清張自身がモデルの部分もあるとか。しかしその小説にははっきりしたモデルがあり、そういう文学的研究をした人が実在したらしい。しかし、その人の活動の具体的なところは分かるはずもなく、小説の細部はもちろん組み立ても清張のフィクションらしい。と言うよりむしろ作家自身の心情や下積み活動を仮託したものだとか。まあ、そういう見方もできるものかなとは思う。しかし数年後には、売れる小説路線に転向したのではないか。
 

109:再び「蜻蛉」 投稿者ニキ  2009/06/04(木) 00:28
 「蜻蛉日記」など平安時代の日記文学を読むと、当時の貴族の夫婦生活などが描かれている。当時の貴族社会では、通い婚が普通だった。家柄や評判など聞きつけてよさそうな貴族の子女に目を付け(必ずしも顔を見ていないらしいが)、何度も何度も文(ふみ)を送り(その都度返事をもらうようだが)、まず文通で親しくなって、女からオーケーが出れば夜その家に泊まったらしい。
 男は朝になれば自宅へ戻り、昼は自分の生活をし(あるいは出仕したり)、夜に再び女の家へ行くが、三晩続ければそれで一応夫婦関係成立という事になったらしい。
 ここで、文(ふみ)とは手紙のことだが今日の郵便とかなり違う部分もある。つまり平安貴族だから、手紙は必ず自分の従者に持たせたという事。さらにいくらか待ってその場で返事をもらってきた。
 蜻蛉日記作者の場合、最初の文(ふみ)から結婚まで半年ぐらいあったようだが、相手は時の権力者(候補者)の藤原兼家だったから、親も乗り気だったようだ。しかし兼家にとって蜻蛉作者は二人目で、その事は蜻蛉作者もある程度知っていたはずと思う。それでも最初のうちは、二番目の妻という意識はあまり無かったように思えた。つまり当時の女にとって、男に結婚暦あるかどうかは大きな問題でなく、今自分をどう思ってくれるかどうかが大事だった、かのように想像された。さらに地位や経済力も影響しただろう。
 夫婦関係は円満だったかどうかはっきりしないが、蜻蛉作者は順調に一年後ぐらいに出産した。しかしながら、その頃からもう兼家は密かに別の女の所へ通うようになった。つまり平たく言えば、出産前後の頃は、夜の夫婦生活が出来なく成るからの様だった。さらに、後の話によれば、兼家が蜻蛉作者にさかんに文を送り始めた時期は、最初の夫人の出産前後の時期でもあったようだ。
 つまりその様に、力ある貴族の男は、次から次へと新しい女と夫婦関係を持ったようだ。一般的に一夫多妻制と言われるのだろうが、彼らとしては、初めの夫人の了解を取って第二夫人をめとったのでなかった。あくまでも隠れてこっそり別の女と夫婦関係になったのだった。しかも出産時期がそのきっかけに成るようだった。この話は、原始時代はそうだったと言われる一時的な夫婦関係に、一部似た部分があると思えるが、関係あるかどうか分からない。平安貴族の場合は、相手を次々に変えて行くのでなく、同時に多くの妻を持つ点は、原始時代の場合と違う。
 藤原兼家は密かに別の女と夫婦関係になるが、早い時期にばれたようでもある。しかし、その事を蜻蛉作者にあからさまに言うでもなく、「いや何かと宮仕えが多忙だから」など言い訳していたようだ。多いときは七人居たらしい。詳しい事情は書かれてないが、一時的な(おそらく一・二年ぐらいかの)関係の場合もあったようだ。
 息子(藤原道綱)が十九か二十ぐらいになる頃には、兼家はほとんど蜻蛉作者の家には行かなくなっていたらしい。 多分、最初の(時姫と言われた)夫人と一家を構えていたようだ。つまりその頃は、夫人と同居していたかと思われる。

 訂正。日記の最後の方まで、兼家は出てくるのだった。道綱も最後まで居て、恐らくその時はまだどこにも通っていない様だった。日記は上中下の三巻に分かれていて、下巻はやや落ち着いた雰囲気に変るが、中巻よりむしろ夫である兼家の登場回数は多いぐらいとも言える。ほとんど関係が切れたぐらいと勘違いしていたのは、違う本(堀の「ほととぎす」)の内容と混同していたから。

 思うに、通い婚と言われるが、かなり不安定な関係でもあったようだ。「蜻蛉日記」では、結婚後二十年ぐらいで、夫とはかなり疎遠になった。しかし完全に切れたのでもないようで、そのへんははっきりしない。
 また蜻蛉作者は一夫多妻を肯定していたのでもなく、自分だけが夫の妻である事を望み続けた。それでもその思いは叶えられる事なく、頭では分かっていても、気持ちの上で納得できなかったようだ。その不安定な夫婦関係を「かげろう」のようなと書いた。実際には日記として書いていたものでなく、ある時期にまとめて書いた回顧録のようなものだ。かげろうは「陽炎」とも「蜻蛉」とも考えられるらしい。

 その後、平安時代についてもっと知りたいと思い、中央公論「日本の歴史」シリーズをまた読んでみた。その頃の貴族生活についていくらか分かった事もある。庶民の生活についてはなかなか知り難いが、これはやむを得ない。
 平安貴族は何人も妻を持ち、夜は妻の家に通うが、正夫人がはっきりしている場合、正夫人とは同居したようだ。その他の夫人とは別居だが今日的な別居の意味とかなり異なった。
 女は男が通ってくるようになっても、生まれ育った親の家で親と一緒の場合が多かった。そこには姉妹もいて、その姉か妹の部屋に通ってくる別の男も居た、という具合のようだ。さらに叔母などが居る場合もありそんなとき大家族だった。さらに、家族とは言えないが、侍女や従者は多く居た。
 子は女親が育てるのが普通だった。が、女手だけというのでなく、つまり母方の家族で育てたのだった。当然ながら子には息子と娘があり、どちらも母親方が養育するが、先に書いたように、娘は母親の家に残る。しかし息子は結婚する年になると、妻の家に住むのが普通のようだった。しかしそれは入り婿とも少し違うようだ。つまり妻の家の姓を継ぐのでないから。息子はやはり成人して、父親の姓を名乗るのが普通だったようだ。が、このあたり自分としてはっきりしない部分もある。
 蜻蛉日記の場合、作者は藤原倫寧の娘で、夫は藤原兼家で、両方藤原だから、子はどっちの姓でも同じだった。しかし更級日記の場合、作者は菅原孝標の娘で、夫は橘俊通で、息子は橘仲俊と言われるから、やはり父親の姓を継いだものと思う。
 それでも息子は結婚すると実家を離れるのが普通だったらしい。 蜻蛉日記の場合、息子は藤原道綱だが、読者の知らないうちに母親の蜻蛉作者の家から居なくなる。 またその頃、夫である兼家とも疎遠になり、孤独な生活を送るようになるが、代わりに兼家の何番目かの夫人の娘を養女にするようになった。その夫人はその頃は兼家から顧みられなくなっていたようだ。事情はよく分からないが、娘の仕合せを考えると養女に出す方が良かったという境遇だったらしい。
 それはともかく、蜻蛉作者が息子を外に出し、代わりに養女をもらって喜んで養育する、そういう事の理由が以前はよく分からなかった。しかし今ようやく分かった。平安時代はそれが世のしきたりだったのだった。息子は外へ出るが、娘は家に残り年頃になれば夫を迎えるようになる。だから、蜻蛉作者は夫と疎遠になっても、娘ができて老後の不安は無くなったわけだ。 蜻蛉日記では、養女をもらった後はまた兼家が割と通って来るようになるのだが。

 「蜻蛉日記」では、全般的に夫に対する不満や将来への不安が書かれてあるという印象だが、結婚後十年前後の頃は夫がよく通ってきて、比較的円満だった様子が書かれてある。不満や不安ばかりではなかった。やはりこう書いて置かないと片手落ちの気もするから、この事を書き加えた。しかし、あまり仕合せな様子ばかり書いていると人から読み継がれる事が少なかったのでないか、とも考えられる。作者はそんな事も考えて回顧録を構成したか、それは無いだろうと思うが、知りようがない。
 

108:(印象) 投稿者ニキ  2009/05/13(水) 19:13

 冬北陸、照ると曇ると間断なく、雲間に青空 知る人少ない

 (室生犀星記念館で)

 犀星はのち小説家もと詩人、詩では食えぬか世俗の邪推

 犀星の奥方も詩人だったとか、若い写真になぜか惹かれた

 妻なくしその後は娘に世話されて、さらに秘書まで真似はできない

 (沖縄で)

 旅行中、子猫に寄られわーかわいい けど撮るだけでバイバイするしか

 (気分を変えて)

 子育ては一生の仕事、のち気まま そう思うけど誰に言うべき

 花やみどり見れば野外へ出ればこそ 曇り空でもこの初夏がいい
 

107:短歌 投稿者ニキ  2009/04/24(金) 00:41
 急速に短歌に関心持つようになったけど、特に短歌を作ろうと思っているのでない。何か文章を書いたとき、例えば紀行文や日々の随想などのとき、短歌をまじえるのも悪とくないか思ったから。しかし、なかなか短歌など作れるものではなかったが、ネット上で作るコツの様なものを書いた文章を読んで、これなら作れるかもしれないと思って作ってみた。すると幾つかそれらしいものが作れたが、五七五七七にまとめるのが難しかった。またあまりに短歌の常識を知らないでは、まずかろうと思って短歌作りの入門書を読んでみた。また、歌集も買ってみた、俵万智のと若山牧水のだ。するとますます興味わくようになった。それと、前に「日めくり万葉集」という雑誌も買っていた。

 しかしながら、古来の短歌を読んでも意味の分かるものは少ない。それが普通だろうとは思うけど。しかし昔から、分からないながらも多少の関心があったのは確かだ。例えば、「花の色はうつりにけりないたずらに....」や、「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば...」など、昔から覚えているものもいくつかある。まあ、そのぐらいは常識だよと言われれば確かにそうだろうけど。
 それでも現実には古今和歌集など見てもほとんど分からない。石川啄木の短歌にしても同じだ。そんなレベルにもかかわらず、ちょっと作ってみようと思うようになった。しかし自分が目指すのは、あくまでも口語短歌だ。だから比較的、俵万智のものの方に親しみを感じる。昔の、文語で書かれたものが、やはり短歌の本流と思うが、自分は文語で作文できないから。

 少し短歌の本を読んでみれば、アマチュアのあるいは一般の歌人でも(本当は、歌人と言われる人でもそれを職業としている人はごく少数のようだけど)、文語の短歌を目指している人が多いらしい。多分、文語文の言葉の美しさに惹かれるのだろう。本には部分的にだけ文語を使うのも構わないと解説されている。それはそれで結構だが、その為に、短歌はやはり特殊な世界という気がする。
 詩については幾らか知っているつもりだが、詩の場合は、新体詩とか自由詩とか言われるように、現代の詩では口語が主流だ。現代というより、昭和初期の頃から口語が主流のはずで、旧仮名使いの場合はあっても、口語は口語のはず。昭和初期の詩人はある意味、西洋かぶれの傾向があり新しい物好きで、言文一致主義に賛同していたから。それから思えば、短歌はやはり特殊な世界と言える。
 今はむしろ、俳句なら一般的で愛好者人口も多いと思う。少数派の短歌に比べて、俳句愛好者が多い理由もいくらか想像できるが、それは書かないで置こう。

 いずれにしても本格的にするつもりは無く、下手でいいと思っていて、技巧などとは逆の方向で、ちょぼちょぼやって行こうと思っている。繰り返すが自分の場合、あくまでも主流は文章つまり散文で、短歌は添え物のつもり。しかし気が変わって止めるかもしれない。先の事は分からない。
 

106:再び「土」 投稿者ニキ  2009/04/04(土) 20:56
 長塚節の「土」を読んで、ちょっと思った事を断片的にあげてみる。

 最初読んだとき、後半から主人公の勘次が女房の年老いた父親を引き取る事になって、いくらか不思議な気もしたが、再び読んでみれば、勘次は女房の家に婿入りしたのだった。女房の実家なら最初から父親が居て当然だが、いくらか事情あったか、女房の父親は(千葉県)野田の醤油屋に住み込みで働いていた。年老いて体調不調の事もあり勤めをやめ、家に戻ったとの設定だった。

 前後するが、ストーリーについて外観のみ少し書くと次の様だ。最初のうちは、明治終わり頃の茨城県結城郡における小作人百姓の厳しい生活が語られている。それを読んだ夏目漱石に、今の世に農村ではあっても帝都から程遠からぬ所にこのような厳しい現実があるとは全く知らなかった、と言わせた部分である。
 半ば頃から、主人公の生活も少しは良くなったようで、成長した娘の事などが語られる。適齢期になっても嫁に出さなかった事から、村の若い衆の勘次一家に関する噂話が出たり、また、村祭りや夏祭りの様子も書かれている。
 後半は主人公と、女房の父親とのあつれきが主な話となって行くが、息子や娘、つまり女房の父親から見れば孫だが、彼らもかなりからむ。

 主人公は根っからの小作人百姓で、人からあまり誉められる様でなく、むしろ盗癖があったり、対人関係もはっきりせず、もの分かりの良い人物像ではなかった。以前だったら、主人公がこういう人物像では小説自体にあまり興味持てなかっただろうが、今は必ずしもそうではない。
 これはいくらか前に魯迅の「阿Q正伝」を読んでからだ。決して尊敬したくなる人物でなく、むしろ馬鹿なやつだなと思うぐらいだが、こういう人が居て不思議でない歴史的背景があった、と思うようになってから。それでも主人公勘次は「阿Q」ほどには愚かでなかった。

 明治後期の貧しい農村生活は次の様だった。米や雑穀を作るが、貧しいから肥料が不十分で、作柄も十分ではなかった。米は獲れても地主に収め、また金に換える為の大事な作物だから、自分たちの食べるものではなかった。小作農業だけでは収入不十分で、不定期に行商にも出ていたが、寒空につらい労働だった。他に、まれに遠方へ泊り込みで土木作業に出る事もあったが、出費が増えて、期待したほどの収入にはならなかった。
 家は貧弱で着ている物もみすぼらしいが、それでも定期的に風呂には入っていた。地主や富農の家へ行ってのもらい湯だったが。生活は厳しかったが、秩序やしきたりは守られているようだった。子供も学校へ行っていた。死ぬかもしれない程の病気のときは、医者にもかかったようだ。それでも経済力の低さから、十分な医療は受けられなかった。

 半ば過ぎから、主人公は地主に頼まれ開墾作業もするようになって、いくらか生活が安定した。開墾と言っても必ずしも農地にするのでなく、クヌギを植林するための開墾の場合もあったようだ。あまりに人里離れた農地では害獣被害も激しかったようでもあり。
 現に、農村近郊の雑木林はそのようにして作られたものかもしれない。クヌギの植林は薪炭を得る為だろうが、枯葉や雑草から肥料を得る為でもあった。
 主人公は鍬を使う事には自信があった。だから、それで稼げるようになった。が、年頃の娘にも開墾を手伝わせたから、嫁に出す気にはならなかった。そんな様子を村の若い衆から揶揄された。

 幾らか生活も安定して来たから、娘からの求めに応じて和裁の手習いにも出した。娘は農作業に忙しく、たびたび和裁習いに行けるのでないが、それでもそのうち自分の着物が作れるようになった。勘次から生地も買ってもらって、祭りに着て行ける着物を縫った。
 村の娘の着物はだいたい決まっていたようだ。手織木綿の着物にメリンスの帯、それに前垂れをかける。髪も皆に合わせた。最初、前垂れって何だろうと思ったが、ネットで探してみると、江戸時代の町屋の娘はほとんど着物に前掛けというファッションだったらしい。田舎の結城郡にもそういうファッションが伝わっていたものかと思う。
 それにしてもその頃からも、日本の若い人には何でも周りの人に合わせるのが大事だったようだ。自分の中学高校の頃もそうだったのを思い出した。皆と違うスタイルをすると仲間外れにされる事もあった。今でこそ個性が重要と叫ばれるが、昔はそうでなかった。

 主人公の台詞として、「仮借(あったら)もんだ」という言い方が意外だった。「あったらもんな」とは、もったいないという意味だが、昭和三十年代でもそう言う人が居た。それは方言だろうと思っていたが、辞書で見れば、それは標準語だった。「あたら」という言い方が変化したもののようだ。そういう漢字を当てることも初めて知った。

 後半からは義父つまり女房の父親が出てくるが、婿である主人公とは折り合いが悪かった。読めば、女房の実父ではなかったようで、だから代々の田畑は義父のものでなく、女房のものだった。それでも当時の常識や世間体から、義父を親として扱うのが当然の事だった。だから表面的には「おとっつあ」と言って敬った。
 しかし主人公には生まれついた貧困癖から、内心、穀物消費が増えるのが我慢ならなかった。また義父は義父で、住み込みで勤めていた頃は、比較的ぜいたくな食べ物や朝湯の習慣も身に付いていたので、貧農の生活には慣れなかった。それでも経済的な実権は勘次が握っているから、義父が勘次を指図できる立場になかった。

 義父が元気なうちは、菰作りや縄ないで稼げたからお金に不自由せず、孫に小遣いを渡したりしていた。孫は勘次の子だが、年頃の娘のほかに小学生の息子が居た。孫たちはよく爺さんつまり勘次の義父になついていた。勘次は、息子が義父から小遣いを貰っていることを知っていたが、ケチな根性からか、それはそのまま見て見ぬふりしていた。
 主人公だけが義父と折り合い悪かったが、表立って対立することはあまり無かった。ただ、顔を合わせても、ほとんど話すことは無かった。しかし最後の方では、あるきっかけから、本当に義父をいたわるようになった。

 自分も幾らか考え直すようになったのだが、思った事を何でも言葉に出して言うのが、必ずしも良い事とは言えないかもしれない。思っても言わずに居る事も時には必要なのだろう。言葉に出すことで決定的になる事を避けられるから。

 その後、義父も持病が悪化してあまり働けなくなり、先が長くない事を予感させるようになった。仕事が出来なくなってから、義父は念仏寮へ行くようになった。そこは老人クラブのような所だったが、昔の村にはそんなものがあったのだったろうか....
 

105:つなぎ 投稿者ニキ  2009/03/31(火) 23:58
 最近は勤め先が多忙で、ちょっと書けない。本を読むのはほとんど通勤の行き帰りだから、読めなくはない。しばらく前まで、二度目の「土」を時間かけて読んでいた。初回は気付かなかったが、つまり読み落としていたのだろうが、主人公は女房の家に入り婿したのだった。それで年老いた女房の父親を引き取ったのだった。あとは今度の休日にでも書けたら書いてみたい。

 その後、また「更級日記」を読み始めた。ただし現代語訳で。集英社文庫に出ていた「私の古典」シリーズだ。別の本を読み始めると、実は、前に読んだ本の感想は書きにくくなるのだが、更級..はどちらかと言えば、淡々としたものだから、前に読んだ本の印象が薄れる事も少ないだろう。

 更級日記にも、信州・姥捨山の話がほんの少し出てくるのだが、それは、夫に先立たれて子や姪も独立して自分ひとりで暮らしているわび住まいを、姥捨山のような所と書いていた、その箇所だ。姥捨の話は、大和物語かなにかで読んでいたかどうか分からないが、少なくとも古今集にある歌は読んでいただろう。その箇所から、平安時代の人であっても、姥捨の話は遠い昔の伝説と思っていたものと想像される。つまり姨捨伝説は、昔からそういう話なのだ。

 ひとりで暮らしているわび住まいと言っても、平安貴族だから、従者や下婢は居たはず。話し相手になる人が居なかっただけという事だろう。
 

104:書き方 投稿者ニキ  2009/01/24(土) 18:15
 I am a cat. 「我輩は猫である」を英訳するとこうなるらしい。英語では他に言いようが無いのかもしれないが、これだけでは原文のニュアンスが伝わらない、と言っていいかどうか、英語や英語文化に詳しくないから何とも言えない。それにしても日本語には言い方の変化が多い。「である」「だ」「です」、昔風な言い方も加えれば、「であります」「でございます」もある。しかし普通の文章を心がければ、前二者または前三者だろう。「です」は丁寧な言い方で、普通の散文一般には合わないと考えれば、前二者のいずれかになるだろう。「我輩」に至っては「私」「僕」「俺」「儂」と一般的なものだけでこんなにある。文書の場合さらに、漢字で書くかひらがなで書くかのバリエーションもある。

 ちょっと後が続けられないのだけど、気楽に雑談風に。
 実は、漱石の「我輩は猫である」を最後まで読んだことは無かった。以前、新潮文庫版を買って本棚にあるが、これは半分ぐらい読んだはずだが、なぜかそこで中断してしまった。内容もあまり覚えていない。
 ところが最近、押入れから昔買った旺文社文庫版の「我輩猫」を見つけ、それの存在を思い出した。それには年譜や解説が豊富だった。また漱石が、長塚節「土」の推薦文を書いている事も、そこで知った。それで俄然、「土」に関心が涌いて来た次第だ。
 話は戻るが、漱石の「道草」は「猫」と同時期の自身がモデルらしい。ちょっと読んでみようかという気もするが、そのときになったら考えてみよう。
 

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