『366』

 さらさらと、頬をなでる風が同時に髪も撫でてゆく。どこまでも深く真っ青な空から、自由に光を照らす太陽により、ネオ・ヴェネツィアのそこかしこがきらきらと光る。
 眩しく輝く水面に目を細める。長く三つ編にしたブロンドの髪を揺らしながら、アリシアはデッキにてひと時の休息を味わっていた。
「気持ちいい風ね……」
 彼女は、この場所が大好きだった。海に面した、ゴンドラの到着口、そして人々がARIAカンパニーへと帰ってくるための玄関口。賑わうように吹き抜ける風が、それぞれを歓迎する。彼女の眼下でゆらゆらと揺れる白いゴンドラが、気持ち良さそうに手招きする。ひとたび繰り出せば夢のような時間を満喫できるのだが、ここに立っていても、目を瞑るだけで脳裏を駆け巡る素敵な光景。
「こ、こんにちは」
「あらあら?」
 頬杖をつき、うっとりと目を閉じる彼女に呼びかける声があった。一瞬ゴンドラが本当に喋ったのかと錯覚したアリシアであったが、声は下方向ではなく右から聞こえてきたものだと認識するに至る。顔を向けてみれば、そこにはややこわばりながらも見知った顔があった。
「あらあら、アリスちゃんいらっしゃい」
「はい。……お邪魔します」
 ぺこりと頭を下げながら、アリスはぽつりと付け足した。申し訳なさそうな、それでいて恥ずかしそうな声で。
「お邪魔?」
「えっ、と。アリシア先輩があまりにも気持ち良さそうにしてたので、声をかけるのをためらってたんですが……」
 ごにょごにょ、と説明を続ける。一瞬首をかしげたアリシアであったが、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「うふふ、気をつかわせちゃったかしら。今日はどうしたの? 灯里ちゃんかしら?」
「あ、はい。灯里先輩から本をお借りする予定だったんですが、今日はオフだったこともあり、散歩がてらに寄ってみました」
 言われてみれば、アリスはゴンドラでARIAカンパニーまでやってきたわけではなかった。散歩がてら、とは言うがオレンジぷらねっとからここまで、気軽にやってこられる距離でもない。そういえばアリスの趣味は散歩であると、アリシアは以前灯里から話を聞いた。趣味のついでの用事済まし。そこはかとなく、楽しみを抱いて歩く彼女の姿を想像して、アリシアは妙に嬉しくなった。
「……どうしたんですか?」
「ううん。それにしても困ったわ。灯里ちゃんには、さっきアリア社長と買出しを頼んだところだったのよ」
「ついさっき、ですか?」
「アリスちゃんがやってくるちょっと前だったと思うわ。もうすぐしたら戻ってくるとは思うけど……中で待つ? 美味しい紅茶があるのよ」
「ですが……」
 笑顔でおいでおいでするアリシアに、まぁ社長を抱えたままアリスは躊躇った。というのも、アリシアがこうしてのんびりしているのは、忙しい仕事の合間をぬった、束の間の休息時間。それを自らの相手となって潰す事に申し訳なさを感じたからである。
 ところが、アリシアはそんな心を察したかそうでないか、やはり笑顔でにっこりと笑った。
「うふふ、遠慮しないで。アリスちゃんとゆっくりお話できるいい機会だから、お相手してほしいわ」
「あ……。は、はい。でっかいごちそうになります」
 話相手となりたい。こう言われて遠慮してはアリシアに失礼となる。そう感じたアリスは迷わず頷いていた。変わらない笑顔についつられた、という事でもあったりするが。
「まぁーっ」
「あらあら、もちろんまぁ社長も一緒にね」
 自らを主張するが如くの一声。当たり前のようにアリシアはそれを受け入れる。
「それじゃあ、お邪魔します」
「まぁ」
 結局はやや遠慮がちに、アリスはARIAカンパニー内へと足を踏み入れるのであった。



「はい、どうぞ」
「どうも、ありがとうございます」
 やや縮こまった姿勢で、差し出された紅茶のカップをアリスは受け取る。
「はい。まぁ社長にはこっちのミルクティーね」
「まぁ」
 まぁ社長は、専用のカップを差し出されて一声鳴いた。アリスはそれを横目に見ながら、湯気を立てる香りと共に、もてなしの器に口をつける。
「……美味しい」
「うふふ、よかったわ」
 いつもの笑顔で反応しながら、アリシアも自分のカップを携えて席に着く。感想を告げるためではなくて、自然に口から出た言葉に、アリスは自分でも驚きである。じーっと紅茶のカップを見てみれば、紅に写る自身の顔がそこにあった。透明感あるそれは、緊張どころかむしろ弛緩しているのが十分に分かった。
 ふと目線を横に向けてみる。ARIAカンパニーのダイニングはいつもすっきりで、プライベートの食事だけでなく、こうして客人をもてなすにも十分に足る感がある。それに加えて、遠目ではあるが、窓からネオ・アドリア海が臨めるというのであるから、人によっては贅沢極まりないであろう。
 アリシアとまぁ社長と、そして自分とを含めて三人だけ。いつもARIAカンパニーの中は、たとえば朝のうちは同じ状況なのだろうと思い至り、先輩である灯里と自分を重ねてみる。
「…………」
「どうしたの? アリスちゃん」
「いえ……。灯里先輩があれだけでっかい素敵に夢中な理由が一つ分かった気がしました」
「あらあら、うふふ」
 すべてを察しているかのように、アリシアは相変わらずの笑顔。まぁ社長はまぁ社長で、出されたカップをずずずずず、と器用に飲み続けていた。和みのひと時……このまま時を忘れてしまいそうである。
 ちらり、とやや上目遣いにアリスは視線を送る。特に何を喋るわけでもなく、ただアリシアは紅茶を片手に笑顔。何か話があったのではなかろうか、とアリスは思ったのだが、今のこの時が心地よい。そう感じて、やはり何も言えずに紅茶を啜るのみである。
 その向こうで彼女の目に、カレンダーが飛び込んできた。今月の日程。びっしりと書き込まれたそれは、アリシアのもの(ARIAカンパニーのプリマはアリシアしかいないため)であろう。
「毎日お忙しいんですね……」
 緻密なスケジュールを察してか、アリスはまた思わず声に出してしまう。彼女の目線と言葉の内容を察して、アリシアは紅茶を静かに置いた。
「うん? ああ、そうね。今日もあと二組のお客様を迎えにゆくのよ」
「この後、ですか」
「ええ」
「でっかい大変です」
 既に時間としてはとうに昼は過ぎた。今から二組を案内するとなると、下手をすれば終了時には日がすっかり沈んでいるかもしれない。普段の仕事がこのようなペースで、なおかつARIAカンパニーの業務の大半をきりもりしているのだから、アリシアの働きぶりは察するべきであろう。
「アリシア先輩、そんなに大変で疲れませんか?」
「大変は大変だけど、楽しいから」
「それは分かってますが……」
 以前会いに行った時に聞いたグランマからの教え。それは人生を楽しむという事。アリシアが今の地位にあるのも、すべてはそこからだとも聞いた。しかし、限られた時間の中で幾人もの常にそのような心をいつまでも持ち続けられるものだろうか。
「実を言いますと、私は自信が無い――というよりは、でっかい不安があるんです」
「うん?」
「今でこそ、灯里先輩や藍華先輩のように、懇意にしてくれる先輩達と合同練習を重ねる日々でありますけど……時間に追われるという概念は無いんです」
「うん」
「ですから、夢中になってゴンドラを漕いでて時間を忘れることはあれど、他から……たとえばミドルスクールに通っていても、時間の余裕を失うなんてことはでっかい未経験なわけです」
「うん」
「ですから、本当に時間に追われた時、果たして自分がどういう行動に取れるか、想像もつかないんです」
「うん」
 喋り出すと何故か止まらない。アリスは一気に自身の胸の内を打ち明けた。それを聞くアリシアは、ただ優しい笑顔のまま、柔らかな相槌を打ち続ける。ひとしきりの訴えが終わると、しばしの沈黙。そして、それを破るようにアリシアはやはりにこりと微笑んだ。
「大丈夫よ」
「はい?」
 たった一言の結論から、アリスの心が揺さぶられる。簡単な一言。けれども、それが発せられるそこには、必ず優しさと自信に満ちた笑顔がある。アリシアに限らず、アリスはそんな先輩達がとても強く見えた。
「アリスちゃんは、ゴンドラを漕ぐのがとっても楽しいんでしょ?」
「ええ、まあ」
「だったら、その心を忘れなければ大丈夫よ」
「ですが……」
 たしかにゴンドラを漕ぐのは楽しい。しかしウンディーネをやっていくにはそれだけではダメなのだ。一人前として働くには、観光案内を始めとした様々な技術を身に付けなければならない。ただ漕ぐだけで果たしてやっていけるかと言われれば、それはNOなのである。
「もちろんウンディーネがゴンドラを漕ぐだけの職業とは言わないけど……物事はね、それぞれが独立しているようで、みんな繋がっているの」
「はい?」
「一つ一つは別々でも、一緒にこなしていくもの、時と場所を過ごしていくもの。物だったり行動だったり、それは様々。その時間と場所を共有していると、自然と大きな一つに染めたり染まったり……よくあるんじゃないかしら? とても楽しみにしている大きなお祭りが先にあると、それまでの時間が、日々が、作業が、とっても楽しくなるってこと」
「あ……」
「だから、不安にならずに、アリスちゃんの大好き色に染めてしまえばいいのよ。ゴンドラを漕ぐのが好き。お客さんを乗せてゴンドラを漕ぐのも、違った色で好き。舟謳も、大好きなゴンドラを漕ぎながら歌うと、素敵な響きと共に好きに……ね」
 アリシアの話を聞いているうちに、アリスは段々と目が輝いてきた。好きなものが一つあるならば、それに付随するものたちすべてを、好きなものに変えてしまえばいい。これが好き。これに関わるものだからまた好き。更に関係するあれも好き……そんな感じである。
 あれやこれやと考えるうちに、アリス自身が心の中でわくわくしているのを感じた。時間に追われる姿も、果たしてどんなに楽しく時間に追われているのか、それを想像するのがまた楽しくなる。そこで、ふと思い出す。周りをほんわかな空気に包み込む、灯里マジックを。前向き思考、とは違った色の、嬉しい空気。
「……はい、でっかい納得しました。不安に思うんじゃなくて、でっかい楽しいをどんどん考えてゆきます」
「うふふ、その笑顔よ」
「あ、は、はいっ」
「あらあら」
 知らず知らずに満面の笑顔を浮かべていた事に気付き、気恥ずかしくなったアリスはちょっとだけ縮こまる。そしてまた、そんな彼女に終始笑顔のアリシアに見られるのもまた恥ずかしくなる。ちらりと横目でまぁ社長を見やれば、とっくに一息ついたのか、すーすーと大口開けて眠っていた。このままではまともに目線が合わせられるのかと思い立ち、アリスは慌てるように違う話題を搾り出す。
「ところでアリシア先輩、毎日を楽しくする遊びとして、数を数えるというものがあります」
「数を数える?」
「はい。たとえばある苦難を乗り越えた数。それが一定数に達したら、何かご褒美をしてみるとか……です。きっと、違う苦難として写り、大きな糧、あるいはでっかい楽しみと……」
「あらあら」
「えっと、そうですね。苦難とは違いますが、自分なりのルールを立てて通学路を歩いてみると、でっかい達成感ができます。その達成感を何回味わったかで、さっきのご褒美の話が出てくるわけです。ただ、難易度の高いものが多いのでなかなか目標には遠いのですが……」
 再び、堰が外れたようにアリスは喋り出して止まらなくなった。ちょっと話題を変えるだけのつもりだったのが、どんどんと引くに引けなくなったのか、それともある種のクセになってしまったのか……。

 やがて、話が一区切りつく。と、今まですーすーと寝ていたまぁ社長がぱっちりと目を覚ました。ふあぁ、と一つだけ欠伸をすると、ぴょこんっと体を起こす。
「まぁくん、おはよう」
「まぁ」
 挨拶の声をかけるアリスに一声応える。更におはようをアリシアが投げようとしたが、ちらりと目線を別方向に投げると、うふふと笑った。
「あらあら、丁度よかったかしら」
「はい?」
 何かを察したような台詞。アリスが首を傾げたその刹那、大きな変化は起こった。
「まぁーっ!」
「あっ、まぁくん!」
 言うが早いか、まぁ社長は駆け出した。ぶいぶいぶい、と軽快音を鳴らしながら、あっという間に扉の外へ姿を消してしまう。そして待つこと数秒……。
「まぁーっ!」
「ぷいにゅーっ!」
「わわわっ、まぁ社長!? ああっ、アリア社長のもちもちぽんぽんがー!」
 建物の外から聞こえてくるは、紛れもなくアリア社長と灯里の声。突如の来訪者に相当慌てているようで、デッキがどたどたと途端に騒がしくなる。
「……アリシア先輩」
「なあに?」
「さっき話した、数えるという事で一つ思い出しました」
「うん?」
 ゆっくりと、もったいぶるようにアリシアに顔を向けた。微笑を浮かべたそこには、やや困ったような、それでいて少々いたずらっぽさが含まれている。
「まぁくんがアリア社長のもちもちぽんぽんにですね」
「うん」
「でっかいがぶりんちょに挑戦した回数が、たしか通算366回です。あくまで私の確認数ですが」
「あらあら」
 いつの間にそんな回数を勘定していたのだろうか。たしかに、会うたびに噛み付いていたのであればそのくらいはおかしくない。
「さてと、灯里ちゃんも帰ってきたことだし、私も、もう少ししたら次のお客様を迎えに行かなくちゃね。アリスちゃんはこの後灯里ちゃんと一緒するのよね?」
「はい。アリシア先輩、今日はお話ありがとうございました」
 椅子を引いて席を立つと、アリスは深々とお辞儀した。
「こちらこそ。アリスちゃんの懸命なお話がたくさん聞けてよかったわ」
 合わせてアリシアもお辞儀。礼儀正しさという点ではお互いに似ている。
「またいつでも遊びに来てね」
「はい。よければアリシアさんもうちに来てください。アテナ先輩と一緒に歓迎いたします」
「うふふ、楽しみにしてるわね」
 互いに笑顔を交し合い、外で騒いでいる灯里達を迎えにゆく。こうして、アリスの楽しみ勘定がまた一つ増えた。

<限られた時間の中に>


あとがき:
 多分この数字、一年のうるう年だと思うんですよね。けどAQUAにはそういう数は無いし……っていうか、うるう年の話を出すのもなんかやだったんで、特に意味はない数値にしました。でもちょっと……多すぎかな? 事実だとさすがにアリア社長の身がもたないでしょうねぇ。
 それはそれとして、あえてアリス&アリシアの会話です。アドリブで真面目っぽい方向の話になってしまいました。……多分でっかい失敗です(汗)懲りずに別の機会を待つとしましょう……(こういうのも問題だけど)
 それと丁度、これを書いた(書き出した?)後くらいに原作でもアリスとアリシアの掛け合い話が掲載された、ってな風に記憶してます。呼び方が“アリシア先輩”ではなくて“アリシアさん”になってましたが(天野先生がアニメ版に合わせたってことかなぁと)うちのサイトでは“アリシア先輩”で、でっかい統一です(笑)
 それにしてもまぁくんがあまり目立たない。でも最初はこんくらいでいいかな?(そういう問題でもないけど)
 しっかし……第一稿作成から1年3ヶ月以上経過してるってなんだよ(苦笑)

2006・9・10

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