『それだけは勘弁してください』

 大勢のウンディーネが勤める、姫屋。その昼下がり、のんびりのようでそれでいて忙しない時間。百年以上の伝統ある歴史を持つこの水先案内店だけあって、その屋内を沢山の人が行き来している。広い踊り場、玄関、長い廊下。建物内のどこをとっても、その大きさは見れば誰もが納得するほどの奥深さを醸し出している。
 その中を、やや早足で歩く一人の女性の姿があった。制服の隙間から覗かせる細い足、すらっとした体格、煌くように揺れる長い黒髪。すれ違うほとんどの人が、会釈を投げるほど。それは、現在姫屋でNo1の実力を誇る、三大妖精が一人である晃。かかる声もそのままに、ただひたすらに急ぎ足。
 その足が向かう先は、彼女の愛弟子が一人、そして姫屋の跡取り娘である藍華の部屋。今日は個別で訓練を行う予定であったのだが、急用のために中止の旨を伝えにいくところであるのだ。約束の時間にはまだ早いのだが、急用の方は待ってくれない。
「まったく、間が悪いものだな……」
 やや苛立ち気味に、彼女はぶつぶつと呟く。普段から客の予約等で時間がなかなか取れない晃は、それこそ藍華への個人指導の機会などなかなか無いものだ。それがこうして急用に潰されたとあっては、理不尽な気分を味わわずにいられない。
 やがて、目的の部屋にたどり着いた。本来なら非番である事もあり、今の時間は藍華もゆったりしているはずだ。それとも後にある個別指導に備えて何かしらのトレーニングをしているだろうか。そんな事を考えながら、晃は部屋の扉をノックし、即座に開けた。
「藍華、すまんが今日の練習は……」
 気が急いでいてか、部屋への侵入と事情説明が同時になる。が、そこで彼女が目にした光景は、ベッドの上に寝そべり、お菓子をほおばっている藍華の姿。それだけならまだしも、あちらこちらにそのカスが散らかっている。一目見れば、踏み入って歩き回りたいとは決して思わない。そして、その部屋と同じように、藍華自身の格好の乱れようといったらなく、外部の者には絶対に見せられるものではなかった。
 一瞬で状況をとらえ、頭の中で整理した晃は、これまたわなわなと震え出すまで2,3秒も必要としなかった。もちろん、不意の侵入者に藍華が振り返り、態勢を立て直したのもほぼそれと同時である。
「藍華! お前というやつは、また部屋をこんなに散らかして……!」
「うわっ! 晃さんノックも無しに入ってこないでくださいよ!」
「五月蝿い、ノックならした! まったく、何度言っても言ってもお前はちっとも変わらないな。いいか、ウンディーネたるもの普段の生活から改めるよう、意識を持ってだな……」
 ガミガミガミと晃の説教が部屋に響く。ノックそのものは侵入と同時に行ったもので、当然藍華の耳に入ってきたはずはなかった。いやそんな事より、突如やってきた嵐のような晃に、ただただ藍華はぼーぜんと、その大声に耐えるしかなかったのであった。

「……と、この辺にしておこう。いいか、ちゃんと心に留めておくようにな」
 やがて、晃の話がまとまり終わる。どんな嵐にも終わりはあるのだ。
「はあい、分かりました……ふあー……」
 やっと解放される、と藍華は思わず大きくのびをしてしまったのがいけなかった。腕をめいっぱい天に伸ばし、しかも口をたるませたくつろぎモードは、晃の目にばっちりと留まっていたのである。
「ほう、いかにも退屈してましたって返事だな。反省の色無しか? 藍華!」
「い、いえ、そんな事は。ただずっと同じ格好でいたからで、ほら、人間の身体ってじっとしてるとよくないっていうか、寝返り打つみたいに程よくほぐして……」
「盛大に欠伸をしてそういう言い訳か? ……よぉーし、お前がその気ならこっちにも考えがある」
「な、何ですか」
 いつになく脅し気味の表情。さっきの事もあり、すっかり藍華は反省モードを表に出したがそれももう手遅れ。彼女の心の中では、一体何をされるんだろうとかなりどきどきものであった。
 そして、数秒の沈黙。もったいぶったように口を開ける晃に、藍華は思わずつばをごくりと飲み込んだ。
「今日から一ヶ月……」
「一ヶ月?」
「アリシアと会うのを禁止だ!」
「えええーっ!?」
 先ほどまで響いていた、どんな晃の説教声よりも、藍華は大きな叫びを上げた。ずっと傍観していたヒメ社長が思わずびくっとなるくらいの。それでいて、部屋の空気がこれでもかと震えるくらいの。しかしそれに動じる晃でもない、さすが三大妖精が一人、ということだろうか。
「もちろんそれから」
「ま、まだあるんですか?」
「ARIAカンパニーやオレンジぷらねっとに顔を出すのも許さん。灯里ちゃんやアリスちゃんと会いたければ姫屋まで来るように言え。ああ、アテナに会うくらいはいいぞ。ただし、もちろんアテナに直に会うんじゃなくて、こっちに呼ぶように」
 やや蛇足気味なつけたしであったがために、藍華は頭の整理にやや時間を要した。が、問題はそういう細かい部分ではなく、一番最初に告げられた言葉。“アリシアと会うのを禁止”そのキーワードが数字パズルのように他のパネルをずいっと押しのけていった。
「そ、それだけは勘弁してください晃さん! そんな、アリシアさんに一ヶ月も会えないなんて……私死んでしまいますっ!」
「シャーラーップ! だいたいお前のそういうところがいかん。何かあるとアリシアアリシア……こんないい先輩が近くにいるんだからもっと私を頼れ! とと、そういう話じゃなかったか。とにかく! いい機会だから、いいかげんアリシアにべたべたすんのをやめろ!」
 問答無用。正にその言葉がぴったりであった。こうなった以上は、晃は全力で藍華がアリシアに会いに行く事を阻止するであろう。鎖で姫屋に繋がれた状態になるかもしれない。もしかしたら、部屋から一歩も出してもらえなくなるかもしれない……。
 悲惨な想像が藍華の頭の中をめまぐるしく動く、その時であった。コンコンという柔らかいノックの音。二人がそちらの方に顔を向けてみれば、今まさにキーパーソンとなっていたその人物がそこにいた。
「こんにちは、藍華ちゃん。あらあら、晃ちゃんやっぱりここにいたのね」
「アリシアさん!」
「あ、アリシア!? どうしてここに!?」
「ゴンドラ協会の会合に一緒に行こうって言ってたのに全然顔を出さないから心配になっちゃって。そしたら藍華ちゃんの部屋に向かったって聞いて……」
  ダダダダダッ!
 いつものあらあら口調で事情を話すアリシアに対して、晃は砂塵を巻き上げる犀のごとく、彼女に詰め寄った。
  ダン!
 そして、猛烈な勢いのまま壁に手をつく。あまりの威力に、部屋が揺れたかと錯覚を起こすほどだった。いや、実際ゆれているのだが。
「アリシア、どういうつもりだ……」
「あらあら、晃ちゃんどうしたの?」
「たった今! さっき! 藍華に対して、アリシアに会うのを一ヶ月禁止と言い渡したところだったのに!」
「あらあらそうだったの、ごめんなさいね」
「かーっ、お前はまったく……。まあいい、こうなったら明日から一ヶ月に変更だ。いいな藍華!」
 ぐりん、とこれまた凄い勢いで顔を振り向ける晃。あまりのスピードにびくっとなった藍華であったが、思わずこくりと頷いてしまう。が、途端にうりゅと涙目。今そこに憧れの人がいるというのに、理不尽に一ヶ月も離れ離れになってしまう、会えなくなってしまう。それが彼女にとっては非常に悲しかった。
「ああ藍華。言いそびれていたが、聞いての通りゴンドラ協会の会合があるから個別指導はとりやめだ」
「あらあら晃ちゃん、個別指導の約束してたの?」
「そうだ。明日からまた忙しくなるから、やっと出来た久しぶりの機会だっていうのに……」
 ぶつぶつ、と実に根に持った呟きを晃が放つ。そんな言葉など耳に入らぬかのように相変わらず涙目の藍華に対し、アリシアはうふふと笑った。
「なんでも急な召集なのよね。そうだ藍華ちゃん、よかったら明日、私の個別指導に……」
「お前はだまってろ! っていうか、アリシアに会うの禁止ってさっき言っただろうが!」
「あらあら」
 そういえば、と藍華が思ったのは、相変わらずアリシアは笑顔であるという事。最初はその事を気にも留める余裕がなかったのだが、今ようやく気付くことができた。ただ、藍華と会えなくても平気とかそういう事ではなく、アリシア自身の笑顔は藍華の思惑とは別のところにあるようである。そこにどうも違和感を隠し切れず、藍華は首をかしげてしまうのであった。
「ま、ともかくそういうわけだからな、藍華。じゃあ行ってくる」
「それじゃあね、藍華ちゃん。お邪魔しました」
「あ、はい。行ってらっしゃい……」
  ぱたん
 静かに、部屋の扉が閉められた。本当にいつもどおりの、ちょっとおしゃべりをして部屋を退出した、そんな感覚で。とても、明日から一ヶ月会えないという雰囲気でもない。が、藍華にとってみればやはりアリシアと会えなくなるのは事実。理不尽な事実。思っているうちに段々腹が立ってきた。何故晃の言うとおりにしなければならないのか。何故あることなすこと従わねばならないのか。いっそ反抗して家出をしてみようか。
 だがそれも、無駄な抵抗に終わることは今までの経験から目に見えていた。一時は藍華の思い通りになるかもしれない。しかし、その後にはもっと厳しい報復が待っているに違いない。それを思うと……やはり藍華は涙目になってしまう。
  こんこん
「は、はいっ。どうぞ」
 不意に部屋をノックされる音。誰だろうと思ってその扉が開くのを待ってみれば……。
「こんにちは、藍華ちゃん」
「あ、アリシアさん!?」
 ゴンドラ協会の会合に出かけて行ったばかりの本人が戻ってきた。嬉しさ半分、驚き半分。
「言い忘れてたことがあってね。今日美味しい桃のカクテルが手に入ったのよ。今晩飲みにいらっしゃいな」
「え?」
「一口試してみれば、そこはかとない甘美さに酔いしれること間違いなしよ。まるで奇跡の果実から凝縮された煌きのみをしぼった様……灯里ちゃんと二人で飲んだ時はそれはそれは楽しかったわ」
「はあ」
「ね? いらっしゃいな」
「いや、あ、その、でも……」
 晃に申し付けられた禁止事項を思い出し、もじもじする藍華。さりげなくねじ込まれたうっとり気味の表現にツッコミを入れる余裕もない。と、彼女が返事を搾り出そうとするより先に、猛然と廊下を駆け抜けてくる音が。
  ダダダダダダッ
「すわーっ!!」
 それは、見まごう事なく晃その人であった。陸上選手顔負けの勢いで、彼女はあっという間に藍華の部屋の前、すなわちアリシアの傍に到着である。
「アリシア、用を忘れたとか言ったと思ったらこんなところに!」
「あらあら、ちょっと待っててね晃ちゃん。で、どう? 藍華ちゃん」
「いや、その、どうって言われましても……」
「何の話だ?」
 答えを聞こうとするアリシアに、訝しげな顔で迫る晃。“うふふ”と笑いながら事情説明を行うアリシアに、案の定といった顔でくたっと俯いた瞬間、晃はがばっと顔を起こした。
「こらこらこら! アリシア、お前は藍華の味方をするのか?」
「あらあら、味方だなんて。たしかに晃ちゃんは藍華ちゃんに禁止って言ったけど、私が会おうとするのまでは禁止しないでしょ?」
「屁理屈言うな! 私は藍華に、ア・リ・シ・ア・と・会・う・の・を・禁・止、と言ったんだからな! アリシアから会ってもダメだ!」
「あらあら、それは困ったわね」
 言ってる割には、それほど困ってないような笑顔を浮かべている。そんなアリシアの言葉で、一連の会話は幕を下ろした。……はずだった。
「それじゃあ藍華ちゃん、今晩灯里ちゃんと遊びに来るわね」
「は、はいっ?」
 何がどうして“それじゃあ”なのかさっぱり分からないが、藍華はつい流れで頷いてしまう。当然ながら、晃はそんなやりとりを流すはずはなかった。
「こらー! アリシア、お前私が言ったことぜんっぜんわかってないな?」
「うふふ、晃ちゃんも飲んでみたいでしょ? 桃のカクテルも一緒に手に入ったリンゴワイン」
「アリシアお前な、この私が酒につられるとでも……」
「じゃあ藍華ちゃん、またね。そろそろ行かないと会合に遅れちゃうから」
「えーい、人の話を聞けー!!」
 怒り狂う晃、それをうふふと笑い流すアリシア。そんな対照的な姿を見せながら、二人は藍華の部屋を今度こそ去っていった。なんだかよくわからないまま、今夜ARIAカンパニーの面々が訪ねてくるのは決定らしい。それでいて、晃が戒律のように掲げた禁止事項は、おそらくうやむやのまま流されてしまうことであろう。げに強きはアリシアの笑顔か。いや、もしかしたら晃は最初から会う事を本気で禁止したわけではなかったかもしれない。ただ思いついた過激な発言をしただけで……。
「やーめた。深く考えてもしょうがないことよね」
 疲れで身体をくたあとさせながら、藍華は扉をぱたんと閉めた。そして、部屋の中を見回してみる。
「たしかに、汚いかも……今夜アリシアさんが来るのよね、となると綺麗にしておかないと……」
 普段から綺麗にしておけば、不意の客により片づけが必要ということもなくなる。藍華はそれをふと思った。これはすなわち、晃が普段から口をすっぱくするほどに言っている事に似ている。もしかしたら、アリシアの意図はそこにあったのかもしれない。
「っていやいやいや、考えすぎだってば。第一アリシアさんは部屋の掃除がどうとかだけを言ってるわけじゃないし……」
「うにゃん?」
 首を振りながらの独り言。ついつい大きくなったそれに、真正面に居たヒメ社長が首をかしげながら一つ鳴いた。
「あ、ううん、こっちのことだから。さーて掃除掃除! でもって早く自主トレに出かけようっと!」
 本日はいつものメンバーで合同練習という日ではなかった。というのも、各々が先輩に個別指導となっていた日であるからだ。しかしそれも、急な会合によりキャンセルとなったことだろう。普段多忙な先輩との折角な機会が失われたのは痛いはずだ。
「……もっと、言う事ちゃんと聞くようにしないといけないかな」
 ふと、本当に何気なく、という意識で藍華は呟いた。それは姫屋における昼下がり。本当に昼下がりの、僅かな時間に起きた出来事であった。

<きっかけは些細なやりとりから>


あとがき:
 さて、あとがきとして何を書きましょうか…。とりあえず、タイトルから思いついたのはこういう話でした。いやさ、話っていうよりは台詞ですかね。誰が誰かに禁止をされて勘弁してくれーってなもの。
 で、読めば分かるとおり、結構色んなものがうやむやに流れてしまっています。恐るべしアリシアさん…(え?そこなの?)
 まぁちょっとした流れからくるもので、話というものは組み立てられる…って何言ってんだ、支離滅裂ですね、私。多分第一稿から相当経ったからでしょうかねぇ…。
 それにしても、ヒメ社長をちゃんと書くことの難しいことといったら…(せめてある程度鳴いてくれれば何とかなるんだけど<笑)
2006・5・10

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