『夜明け』

 部屋の中を薄ぼんやりと白い光が照らしている。
 ぼーっとした頭でその光源に目を向ける。窓から見える海の向こう、靄の向こうに遠慮がちな白みが認識できた。もうそろそろ太陽が顔を出そうという時間である。
「もうこんな時間……もうすぐ夜が明けちゃいますね……」
 ぽつり、と漏らしたその一言に、ただ自身の回想が混ぜ返される。頭の中でぐるぐるぐる回るのは、寝に入る前のその日一日の出来事。正確には、灯里や藍華との合同練習、そして……。
「はぁ……」
 これまで幾度と無く吐き出されたため息が、無遠慮に空気を重くしてゆく。ずしり、ずしりと体にのしかかる。
 それに耐えかねてか、アリスはむくりと体を起こした。軋むような首の動きで向こうのベッドを見やれば、最も敬愛すべき先輩の後頭部が確認できる。ゆっくりと上下に、寝息に合わせて動いている。と、それを見ているうちに彼女の瞳から滴が零れ落ちてきた。はっ、とそれに気付いたアリスは慌てて目をこする。ひとしきりそれをごしごしやった後、目線を自分のベッドへと戻した。
「はぁ……」
 さっきから数えて二度目、ため息を吐き出す。不毛な時間がつむがれてゆくのを感じる。気分を変えようとアリスはのそりとベッドから降りた。光を見た窓へと歩を進め、外の景色を眺めに入る。微かに聞こえてくる鳥のさえずり、そして薄ぼんやりとした雲。はっきりとしないその景色が、実に自分に合っていると自負の念に入る。
「どうして……私はあんな事を……」
 何度も何度も自問自答し、重ねてきた言葉。声にした回数など数えたくも無い、という意識の中、無意識にまた彼女は一つの回想に入っていった。それもまた何度したかもわからないもの……。

◆◇◆◇◆

「よぉーし、今日は舟謳(カンツォーネ)の練習いってみよーっ」
 灯里、藍華、アリスの三人が集まっての合同練習。が、今回はいつもとは主旨が違う。ゴンドラを漕ぐのが大抵の練習内容であるが、今日は藍華が宣言したとおり舟謳…カンツォーネである。ちなみにこの台詞自体、過去に晃達先輩がしたものと内容が同じでもある。
 それはそれとして、三人は今町外れの岸辺に立っていた。海が近いため、絶え間なく小さな波がちゃぷちゃぷと打ち寄せる音が響く。ただ、人通りが少ない……というよりは人の通り道ではないため、彼女らが誰かと出くわす確率は相当に低い。そういう場所をあえて選んだのであった。
「さすが藍華ちゃん。ここなら、誰かに聞かれて恥ずかしい思いをすることもないよね」
「ていっ」
  ぴしっ
「いたっ。どーしてたたくのぉ?」
「灯里ぃ、あんた何言ってんの。ここだと自分たちの声がちゃんと聞けるでしょ? 人に聞かせる前に、まず自分らで聞くの!」
「なるほど、でっかい名案です」
 頷くアリスにやや得意げに指揮をとる藍華。普段の練習でも彼女が仕切ることが多いのであるが、なるほど理にかなっているしちゃんと練習を考えている。ここらへんしっかりしているのは、藍華本来の性格か、師匠である晃ゆずりであるかもしれない。
「そっかぁ……。隅々まで歌声を聞くことによって、その人の煌く声を見つけて、皆で伸ばして輝かせていこうってことなんだね」
「恥ずかしい台詞禁止!」
「ええ――っ」
「っていうか、でっかいわけわかんないです」
「ええーっアリスちゃんまで? えっとね、煌く声ってのはその人にとって得意な部分、音程だったりテンポだったり……」
  パンパン!
「はいはい、いいかげん始めるわよ!」
 余談に入りかけた状態を藍華が諌める。乾いた柏手が辺りにほどよく響く。アリスは改めて思うに、なるほどここなら灯里先輩の言う煌く声も見つけられそうだ、と変な気持ちにかられた。自然と身が引きしまる。
「さてと、じゃあ一番手は灯里!」
「ええーっ、一番手は恥ずかしいな……」
 びしっ、と指差され、もじもじと灯里が頬を染める。
「ったくぅ、私達はいずれお客様の前で歌うのよ? 今から恥ずかしがってどうすんのよ」
 やれやれ、と嘆きのかぶりをふる。と、それに反応するように手を挙げるものがいた。
「はいっ」
「おっ、後輩ちゃん。積極的でいいことだわ」
 誰かさんとは大違いよねぇ、などと藍華が更に付け足そうとするより前に、アリスはきらんと目を光らせた。
「言い出しっぺの藍華先輩からやるのが筋ではないかと」
「ぬなっ!?」
 予想外の攻撃。アリスが投げかけた最もな案である。もちろんそれを食らうだけでは収まらず、二人の視線が、藍華にじじじっと注がれる。
「……さーいしょーはグー!」
 と、間髪いれずに藍華はグーの手を出した。そして、すかさず次の掛け声に移る。
「じゃーんけーん、ほいっ!」
「ほ、ほいっ!」
「ほいっ!」
  ぱぱぱっ
 咄嗟のじゃんけん開始に対し、あっけなくつられる二人。そして勝者敗者が決定される。果たして敗者は……。
「わーひっ、アリスちゃんの負け〜」
「というわけで後輩ちゃんからね」
「でっかい悔しいです……」
 しげしげと自分の手を見つめるアリス。それはかつておしおきキャンペーンなるものを施した左手。――もしかしたら以前粗末にしてしまった呪いかも――などと微妙に感じながら、仕方なしに気を構える。
 顔を上げてみると、灯里と藍華は既に地面に腰を下ろしてばっちり聞く態勢だ。今更抵抗したところで、この状況が覆ることはないであろう。
「では……でっかい恥ずかしいんですが、歌わせてもらいます」
「わーひっ」
「ひゅーひゅー」
 控えめに告げ、外に聞こえない程度の咳払いを軽く二・三度。たった二人の観客はアリスの歌う準備に、早くも拍手喝采である。いや、ただはやし立てはしゃいでいるだけのようにも見えるが。
 やがてはそれも収まり、辺りが静寂に包まれる。聞こえてくるのは遠巻きに、微かに届いてくる街の喧騒、そして石畳に小さく打ち寄せるさざなみ。後は空気の揺れる音。これならほとんど無音に近い。
 そして……小さな小さな街外れのコンサートホールにて、アリスの舟謳は幕を開けた。
 つとつとと、少々つっかかりはあるが透き通る響きを伴って、それは観客に届いてゆく。
 始まりは緩やかに、しかし心をこめた歌。明るいが、軽快ではなくゆっくりと。
 華奢な旋律が、やがて消えてゆく。そう長い時間では無かったが、それは終わりを告げた。
 自らの口がゆっくりと閉じられる。少し間を置いて会釈するその顔が赤い。まだまだアリスにとって舟謳は慣れたものではないようだ。
 次に辺りを満たすは彼女の先輩二人からの拍手。お疲れ様の言葉の代わり、そして品評会の始まりだ。
「素敵だったよ、アリスちゃん。さすがアテナ先輩の歌をいつも聞いてるだけあるよね。特に中盤、珠玉の光をもったウンディーネが夜の街をきらきらと、光を与えながら案内してるみたいで……」
「恥ずかしい台詞禁止!」
「ええ――っ」
 折角の灯里ちっくな感想が途切れる事にアリスは少し残念そうな顔をする。藍華先輩はもうちょっと遠慮というものをするべきです――と心の中で愚痴りながら。しかし途中、彼女の中で引っかかるものがあった。それが何かはすぐには分からず、次なる品評の言葉を待つ。
「とりあえず綺麗な声ってのは分かるけど……後輩ちゃん、声が小さい! そんなんじゃお客さんに聞こえないわよ。いくら綺麗でも、届かなければ意味ないのよ?」
 以前に三人の合同練習に、姫屋の晃が指導者となって受けたものがあった。その際にも、ゴンドラを漕ぐ際にかける声が小さいと何度も叱咤された事がある。
 アリス自身の体質なのか声の質によるものなのかはわからないが、聞こえるべき相手に聞こえないのは問題である。
「でも藍華ちゃん、私達ちゃんと聞けたよ」
「ばっかねぇ、本当に歌う時はこんなもの静かじゃないわよ。それこそ風がびゅうびゅう吹いてたり人の話し声も混じってきたり」
「ほへぇ、そっかぁ」
「けど、多分声が小さいだけじゃないわね。もっと通る声……発音の仕方とかアテナさんに習った? 傍に居るんだからそれくらいは聞いておくとか、歌を聴いて身に付けていくとか。とにかく人に聞かせるための基礎が抜けてるわ」
  ぴくっ
 またここで、アリス自身に引っかかる事柄が出てきた。さっきと同じ。何か分からないのも同じもやもや。だが、確実に彼女にとって苛立ちという名の重荷を増やした。
「そっかぁ、そうだよね。確かに今は声が小さいとかあるけれど、でも、アテナ先輩と一緒の部屋で、アテナ先輩の歌を何度も耳にしてるんだもん。きっとこれからも凄く上手になれるよ」
  ぴくぴくっ
 更にまた、アリスは引っかかりを覚えた。そして同様に募る苛立ち。さすがに三度目ともなると、その原因もはっきりとしてくる。だがそれと同時に、彼女の中で何かがはじけようとしていた。既に品評だの助言だのは耳に入ってこない。ただ入ってくる言葉、それは……。
「でもただ聞いてるだけじゃねぇ」
「藍華ちゃん知らないの? 地球(マンホーム)のことわざに『門前の小僧習わぬ経を読む』ってのがあってね……」
「私達は小僧でもないでしょ。ともかく後輩ちゃんの場合は、アテナさんという存在が傍に居るんだから、カンツォーネの基礎くらいはびしっとできて当然って思うのよ。ま、華麗なオールさばきのアリシアさんの傍にいる灯里は、絶対にアリシアさんに追いつかないだろうけど」
「あーっ、藍華ちゃんひどーい」
  ぴくぴくぴくっ
 四度目。アリスは完全な引っ掛かりとその正体を認識した。もう間違いない。この不快さとはずばり……。
「藍華先輩、灯里先輩……」
「ん?」
「ほへっ?」
 静かな怒り、そう表現するのがぴったりであった。アリスの全身からくる震えを、藍華と灯里は認識した。その刹那、短時間でたまり切った感情が爆発に至った。
「私はアテナ先輩じゃないしアテナ先輩とは違います。 でっかい人比べなんてやめてください!」
 大声。瞬間に周囲の空気がびりびりと震えたのは言うまでもない。
 前兆はあったが、いつも物静かなアリスがまさかここまでのものを出すとは思わず、間近で耳にした二人は呆然とその場に固まるしかできなかった。
 片や口から大砲のごとく言葉を吐き出したアリスは息が荒い。この静かな場では、普段声の小さい彼女のそれですら十分耳に届く。しかも、第二撃が飛び出すにはそう時間もかからなさそうである。今の状況は一触即発、そう表すのが適当であった。
 更なる言葉が飛び出さずに、ぴりぴりとした緊張の時間がやや過ぎる。ある程度我に返りはした藍華であったが、なだめるために何を言うべきかを必死に考えていた。アリスはアテナとの比較に不機嫌を露にしている。ならばアテナの名を出さなければなんとかなる……。
「あ、えーと、後輩ちゃん大きな声出せるじゃない。こんな調子で舟謳の方も歌えばいいんじゃないかな?」
 と、言い切った後で藍華は早くも後悔の念に駆られる。“しまったぁ、謝罪の言葉を出すのが先でしょー!”と、やはり冷静さを欠いているのは間違いない。だが、ここですかさず灯里が助け舟を出す。
「そ、そうそう。多分発声に対する力の入れ方の問題じゃないかな。今の要領でもう一度歌ってみれば……」
 必死に誤魔化している、という顔ははっきりアリスの目にも映った。ただ、その一生懸命さが彼女の心を和らげていく。もう少しだ、と藍華は更に一押しした。
「灯里の言うとおり! そうすれば今度はアテナさんみたいに……って、わあああ!」
 慌てて口をふさぐ藍華。だが、もう遅いということは火を見るより明らか。一緒になって彼女の口に手をおいた灯里が、恐る恐るアリスを見てみれば、ずずんと黒いオーラが取り巻いている。次第にそれは赤い赤いものへと変貌してゆく……。
「……もういいです。二人ともでっかい顔もみたくないです!」
 烈火の如く怒鳴り散らすと、アリスはすたすたとその場を歩き去っていった。ぽつんとそこに残されたのはもちろん藍華と灯里。ただの一言も声をかけることができず、なすがままであった。



 気がつけば、アリスは自室のドアに手をかけていた。街中をどう歩いて戻ってきたのか、もはやそんな事は頭の中には残っていない。ただ自分でどうしようも出来ないほどのもやもやを抱えている。まるで心の中全体が真っ黒な雲で覆われたような……。果たしてそれを誰が晴らしてくれるのかもわからない。いや、もしかしたら自分で晴らすしかできないかもしれない。ただ今は……時間が解決してくれるのを待つのみ。
  がちゃり
「あら、お帰りアリスちゃん」
「アテナ先輩……」
 最悪の状況だ、とアリスの頭の中はただその言葉だけを吐き出した。自らがこんな精神状況におかれている原因となった人物が、目の前にいるのだ。もちろんアテナのせいでもあるはずはないのだが、彼女の心はそれを許せそうになかった。
 が、それでも平然と、自身の心を悟られまいと、必死で平静を装う。
「今日はお休みですか」
「夕方からまた出かけるけどね。アリスちゃんこそ随分早いけど……いつもの合同練習はもう終わったの?」
  ぴくっ
 聞かれたくない事を――と思いながらもアリスは気を張ってみたが、顔が引きつるのは止められなかった。せめて不機嫌な顔を見られたくない、とやや俯き加減に自分のベッドへと歩を進める。
「今日は早めに切り上げたんです」
「そう……」
 なんとか誤魔化せた、という少しの安堵感はあったが、自分の中のもやもやは晴れそうにない。もちろんこのままアテナと一緒に居るのも耐えられそうにない。が、外へ出る気分にもなれない。というわけでアリスがとった行動は……。
  ぽふっ
「アリスちゃん……もう寝るの?」
「……はい、でっかいお昼寝です」
「そう……おやすみなさい」
 早々に着替えを済ませた後にベッドへと潜り込む。もちろん顔はアテナとは反対側に向けて。ただの逃避でしかないといえばそうなのだが、ただ彼女にはそうするしかできなかった。それしか優先的な選択肢が出てこなかったのだ。眠りさえすれば、次に起きた時にはもやが晴れているかもしれない……。
 だが……彼女の思惑とは裏腹に、頭の中に何度も合同練習での風景が浮かんできて寝付く事ができない。目を閉じても開いても、ひたすらに頭の中に響く“アテナ先輩のように”という言葉。それをかき消そうと、何度も寝返り(律儀に、アテナの方を向かないように)を打つ。
 そして……何度寝返りを打ったかわからない頃、聞き慣れた声――歌が彼女の耳に届き始めた。昼時間の静寂に響くそれは、今までも幾度となくアリスの心を温め、救ってくれた歌声。さりげない励まし、見えない支えの力。ウンディーネの中でも一番の歌声と言われた、アテナのカンツォーネである。
 が、しかし、今のアリスにとっては、それをとても受け入れられる心境ではなかった。暗雲が更にどんよりとしたものになってゆく。それでも歌声は聞こえてくる。ささやかな気遣いが、ゴンドラのように重く重く、彼女の心にのしかかってゆく。そしてたまらず……
  がばっ!
アリスは布団を跳ね除け、上半身を起こした。
 これにびくっと体を震わせたのはアテナ。彼女にしてみれば、いつものように、本当にいつものように、ただ歌っていただけなのであるから。思わず歌声も止まってしまう。
「アテナ先輩、歌わないでください」
 努めて極めて冷静に、アリスはただそれを告げた。心臓の鼓動も早い。細かい言葉を用意しようとすればもはや心がどうにかなってしまいそうなのである。
「え、でも……」
 当然であるが、それにおどおどと受け応えするアテナ。ここでアリスの心は早くも限界に達した。アテナが素直に“分かったわ”等の肯定返事一つでもあれば、もしかしたら自然に収まったのかもしれない。が、状況はそこまで甘いものではなかった。当然ながら、肝心の経緯を話していないアリスに責任があるのだが、そんな事はもはや彼女には関係なかった。ただ自分の中で沸き起こった、黒い言葉を吐き出すのがすべてであった。
「でっかい耳障りです!」
「!」
 瞬間、部屋の空気が凍りつく。その一瞬の後、アリスは慌てて口を押さえた。本当に一瞬、ではあったが自身の吐き出した言葉を見返す余裕ができたのだ。たった一言……たった一言を口に出すだけで、人間はこうも心を取り戻せるのか、といういい例かもしれない。が、その代償は当然簡単なものではない。事実、アリスは自らが言った言葉の重さをひしひしと感じていた。
 言葉を受けたアテナの表情は、それはもう驚愕などといった生易しい言葉程度で表せるものではなかった。まるで絶望を見たような、それこそ地の底にまで落とされたような、かつてない災いを味わったかのような顔。それを目の当たりにして(これまた見たのは一瞬であるのだが)平静を取り戻すなど、アリスにはもはやできるわけがなかった。
 口元を押さえる両の手に、目からとめどもなく溢れる水滴が落ちてゆく。ベッドにぺたんとついた足ががくがくと震え出す。もうこれ以上の話も、視線を向けることも、何かを耳にすることも、アリスにとって限界であった。
「アリスちゃ……」
  がばっ!
 アテナが呼びかけるより先に、アリスは頭から布団をかぶった。とんでもない事を言ってしまった。ずっと彼女を支えてきたアテナの歌……冗談でもついでもうっかりでも、絶対にあんな言葉は出してはいけない。長らく付き合ってきたからこそ、それを大きく実感している。
 それは単純に、先輩後輩などといったものからくるものではない。アテナが、そしてアテナの歌が、アリスにとって特別な存在であるからこそ、大切な存在だからこそ、これはタブーに他ならなかったのだ。
 そのまま……幾度となく呼びかかるアテナの声はアリスの耳に届くことはなく……そのまま、その日は過ぎていくのであった。

◆◇◆◇◆

「はぁ……」
 深い深いため息。まだ、心の中の暗雲は消えない。回想しただけで悩み事が解消するならばたしかに楽なのだが、思い返せば思い返すほど、ただ重い重いものが胸をはいずりまわる。このままではただの悪循環である。
 窓に向けられた目は、空のどんな雲よりも曇っていることであろう。どんな汚い川より濁っていることであろう。これから自分はどんな気持ちで……。
「うっ……」
 じわっ、と熱いものが目にたまる。映る景色が滲む。もう、何をどうすればいいのかもわからない。先に進めるものが何もない。この世の終わりのような、絶望にも似た顔をアリスが作ろうとした、その時であった。
「――♪」
「これ、は……」
 微かに、それでいて芯に残る、そんな歌声が聞こえてきた。一体何処から……というのはアリスにとっては愚問である。ここオレンジぷらねっとに来てから、幾度となく耳にした歌。聞き間違えようとしても聞き間違えられない……アテナの歌声だ。
  すっ
 歌の主の姿を確かめようとした彼女の両肩に、そっと手が差し伸べられた。これもまた見慣れたもの……アテナの手、である。更にその手をアリスの前に回した後も、歌声はそのまま響き続ける。そして、アリスはただそれをじっと聴きに入る。限りなく優しい歌声を。本当に自分が大好きな歌声を……。
 数分の後、歌の終わりと共に空気の震えは止んだ。恐る恐るながらに、アリスは視線を上に向けた。そこには、歌と同じように優しい笑みを称えた先輩……アテナの姿があった。
「アテナ先輩……」
「アリスちゃん。聴いてくれてありがとう」
「!」
 ありがとう。その言葉が、アリスにとってはとても痛いものであった。
「ごめんね。昼間にアリスちゃんから言われたけど、やっぱり私は歌う事しかできなくて……」
「違うんですアテナ先輩! 私が……全部私がでっかい悪いんです……!」
「アリスちゃん……」
 籍を切ったように、何度も首を振り、目から溢れる涙もそのままに、アリスは必死になって口を開いた。これまでの経緯を説明するために。多少の惑いはあったろうがそれでも変わることなく歌を奏でてくれたアテナに、精一杯の謝罪と感謝の意を投げるために。
 そして……ぐずりながらも、たどたどしいながらも、アリスは事の顛末を説明した。灯里と藍華とSカンツォーネの練習をしたこと。アテナの歌声との比較が表れたこと。自分にとってそれが酷い混乱の元となったこと。そして、自分でも信じられないくらいに酷い事を言ってしまったことを……。
 アテナはただ、うんうんと頷いてじっと彼女の話を聴いていた。終始優しい笑みを称えながら。やがてすべての話に区切りがついた頃に、アテナは一呼吸おいてこう告げた。
「ごめんね、アリスちゃん」
「どうして……」
 “どうして先輩が謝るんですか?”という言葉が出そうになる。が、それをアリスではなくアテナが押しとどめた。話の続きがまだあるのだ、と。
「人と比較される事は仕方ないかもしれないけど、それを受け入れられるのは時と場合によるの。なまじ私が舟謳で有名になっているから、当然いい気がするはずないわ。たしかに、目標であるのはいいかもしれない。けど、いきなり上の人との比較をするもんじゃないわ。ましてや、人によって千差万別の舟謳だもの。アリスちゃんらしさ……それがなくなってしまうからね」
 上ずった声を微かにあげながら、アリスは少々に頷く。
「昔はまったく意識してなかったし、今もあまりしてないのだけど……自分が凄い、という事は……謙遜や無意識だけじゃ済まされないのよね。周囲を、ましてや大切な後輩の繊細な心を巻き込んでしまったとなったら……」
「そんな、そんなこと……」
 “そんなことは無い”という言葉を紡ぎたかったアリスであったが、それ以上続かなかった。実際今の彼女がまさにその状態。心を揺さぶられ、かき回されたのであるから。
「無理しなくていいのよ、アリスちゃん。自分の心に正直になってくれるほうが私としても嬉しいの。だから私ももっと自覚しないと……」
 それはアテナ自身の気持ちの切り替えを宣言していた。プリマとして、そして水の三大妖精として、一番の舟謳の歌い手として……。
 アリスにとって、その気遣いがたまらなく痛かった。気持ちを変えるべきはアテナなのではない、自分なのだ。このまま先輩に気をもたせては、それこそただの我侭である。それに、アテナ自身のよさを殺してしまわないだろうか。
 また、今回は解決したとしても今後も同じ問題が出てくるかもしれない。優れた技術を持つ先輩とは、何もアテナだけではないのだ。今後も自分は同じ迷惑を先輩達にかけ、同じ気遣いをかけさせるのだろうか? それにはとても耐えられないと、アリスは思った。

 どれだけそのままでいただろうか。長い沈黙の時間……。そして、やっと落ち着いた心……。その瞳の奥から、アリスは決心の光をともらせる。
「……いいえ、でっかい違います」
「アリスちゃん?」
「アテナ先輩は、今のままでいてください。じゃないと、アテナ先輩でなくなってしまいます。後輩の私を意識してアテナ先輩が心を乱されるなんて……それこそでっかい本末転倒です」
「アリスちゃん……」
「私、もっと強くならなければなりません。そう、周りの人がどうとかに気をとられるんじゃなくて、そこから自分を活かせるように……。じゃないと、アテナ先輩を犠牲にするだけじゃすまないんです」
 心持をようやく切り替える事ができたのだろうか。アリスはたどたどしくなく、いつもの冷静な声をようやく出すことができた。もう大丈夫、そう言わんばかりのしっかりとした表情を伴って。
「犠牲だなんて、そんな……」
「いいえ。あえてこの言葉を使わせていただきます。私、先輩達に知らず知らず甘えていたんだとと思います。アテナ先輩に限らず、灯里先輩や藍華先輩にだって……。支えられはすれど、先輩に迷惑をかけずに成長してゆく。きっとそれがプリマへの道でもあるんだと思うんです」
「アリスちゃん……それだけはっきりと言えるなら、もう大丈夫みたいね」
「はい。でっかい復活です。……ごめんなさい、アテナ先輩。そして……でっかいありがとうございます!」
 窓ガラスに映ったきりっとした目に、アテナは安心して笑みをこぼす。透明な映像の向こう、空と海とが繋がり、溶け出してゆく。
 日の出。一日が本格的に始まろうとしている。先ほどまではすっかり曇っていた彼女の心を晴らすように、陽の光も明るくその部屋を照らしていた。

<陽の射す場所>


あとがき:
夜明け…実は元々イメージしてたのとは…少々違ったような…違わないような…。
まぁそんな事より、一番でっかい違和感を感じるとしたら、多分アリスちゃんでしょう。
多分あの子は、もっともっとよほどのことがないと大声にはならない…でしょうし。
ちょっとね、話が短い気もするんですよね。心情の変化が訪れるのが早いような…。
そんな気がしながらも、でもこのくらいで…多分、彼女は…。
などと思いながらも、アテナさんの歌との関連は、公式の小説版を見る限りでは、
比較されればされるほど、より気を奮い立たせるかそれともでっかい無視か、なんだろうなあと。
それでも…私的にはこの話のように思うんですね。
多分には、師弟関係の難しさ、みたいな。
2006・3・21

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