『始まり』

 海上を風が吹き抜けてゆく。太陽と浮島からの熱によって温もりを得たそれは、海に点在する建物や水上を行き交う船にぶつかり、それらを暖めていた。その海からの風を受けるARIAカンパニー近海にて、灯里は目を細めながらゴンドラを漕いでいた。一日の合同練習も終わり、いつもの練習仲間である藍華やアリスと別れた後、アリア社長と共に帰ってきたのだ。
 既に日は傾き、紅の光に水がてらてらと照らされ、ARIAカンパニーが真っ赤に染まる。その反射した光が眩しくて、目を大きく開けていることはできない。それでも、夕暮れが見せる赤の神秘に、灯里はうっとりと頬を染めているのだった。
「夕陽、眩しいですねアリア社長」
「ぷいにゅ〜」
 射してくる光のように柔らかで、吹き付けてくる風のような温かい微笑みを携えながら、彼女はゆっくりと舟をすすめてゆく。
 今日一日の終わり、昼という時間の終わり。これから訪れるのは夜である。ゴンドラを横付けすると、灯里はアリア社長と共に舟を降りた。光の眩しさに少し足を踏み外しそうになったが、無事に到着、である。
「そうだ、アリシアさん今日は遅くなるって言ってたっけ…」
 そういえば、と灯里はゴンドラをつなぎとめながら記憶を辿った。人も多く場所も遠い。いつもの仕事とは少々事情が違う大仕事ではある。そういった話が舞い込み、ひっきりなしに客が訪れるARIAカンパニー。それは、数多くいるウンディーネの中でも三大妖精と呼ばれる一人、アリシアの存在がそれをさせているのであった。
 だが、さすがに遅くなるといっても真夜中ではない。いくらなんでも、真っ暗では観光案内もそうそうできようもないのだ。考え事をしていた灯里が顔をふと上げてみれば、先ほどまで赤々と射していた陽は、既に水平線にさしかかろうとしていた。もうしばらくすれば辺りに夜の帳が下りるであろう。
「あ……」
 海の景色に、灯里はまた一つ思い出したことがあった。風に吹かれてザザーンと響く波をBGMに、丁度あの時もこんな時間であった。いや、これよりやや後の少々暗い時間、彼女が先輩であるアリシアに迎えられた……。
「……そうだ。アリア社長、ちょっと手伝ってもらえますか?」
「にゅ? ……ぷいぷい」
「えへへ、ちょっといいこと思いついちゃいました」
 にかっと笑う灯里に、アリア社長は首を傾げた。たとえるならそれは、小さな子供が悪戯を思いついたような、けれども悪気のあるものではなく、幼馴染にびっくりパーティーを開催しようとする、そんな企みを含んでいる。しかしそれでいて、言いようの無い純粋さが見え隠れ。しばらく見ていたアリア社長は、
「にゅっ」
 と、自然に頷いてしまうのであった。

◆◇◆◇◆

 紅の夕陽を背に受けて、自らが所属する会社“ARIAカンパニー”へと進む一層のゴンドラがあった。その漕ぎ手は、長く束ねた金色の髪を揺らしながらオールをさばいているアリシアである。
「ふう、思ったより早く終わったわね。沢山だったから少し疲れちゃったけど……」
 ぽつりと言葉を漏らすその顔は笑顔で、傍から見ればきっと疲れを微塵も感じさせないであろう。オールを扱うその手も、たるみを思わせない、さらりとした動きをしている。当然のように、ぎっちら、ぎっちら、という音に不安な軋みなどまったくない。
 本日すべての仕事を終えてこうも清々しい姿となれるのは、彼女がそれを楽しんでいるに他ならない。周囲の人が彼女に見惚れたりするのは、単に三大妖精が一人であるというわけでもないであろう。
「灯里ちゃんには遅くなるって言ってあるから……びっくりするかもね、うふふ」
 普通の人ならば、多少帰る時間がずれたところでそう驚くものでもないのだが、ARIAカンパニーの社員は別である。とは言っても、変だとかそういう話ではなく、ごく普通の事も何倍にとらえ、別種の感動とすることができる。それは彼女らの特権だ。
 そうして、ゆっくりゆっくり、彼女のゴンドラは水上を進んでゆく……。

 やがて、真っ赤な陽が沈み、薄い闇が辺りを包み出す頃、アリシアは最終の目的地であるARIAカンパニーにたどり着いた。
 と、いつものように“ただいま”を言おうとしたところで、デッキに立つ人影に気がついた。正確には、丁度船着場から上がった位置。そこに立ちながら、手にやや大きめのランプを携える……それは、ただいまを彼女が告げる相手である、灯里本人。小さなともし火から漏れる光でできた影が、風が吹くと同時ににゆらゆら揺れる。その表情は言いようの無い穏やかさを湛えながら、そこら一帯をふわっとした空気に包み込む温かさを保っている。
 一瞬その姿に心奪われそうになり目を丸くしたアリシアに対して、灯里は緩やかにこう告げた。
「ようこそ、『ARIAカンパニー』へ」
「……灯里ちゃん?」
 アリシアにとっては、なんとも唐突な言葉だった。自分の会社に戻ってきた、にも拘らず“ようこそ”と迎えられたのである。丸くしていた目が、更に丸くなった。
 が、それも束の間。長いスカートの裾を風になびかせながら、灯里はふうーっと大きく息をついた。同時に、さっきまで醸し出していた独特の魅力がさあーっと流れ消えうせる。どうやら相当の緊張感を持っていたようだが、さっきまで微塵もその雰囲気を出さなかったのは上出来である。
「えへへ……びっくりしました? えーとですね、さっきちょっと、自分が初めてARIAカンパニーにやってきた時のことを思い出しまして……」
 照れくさそうに笑いながら、灯里はランプを持つのとは違う手で髪をかきあげる。
「丁度あの時も、アリシアさんがこうやってランプを持って出迎えてくれたなーって。それで、私が逆にこうしてアリシアさんをお迎えしようと思ったわけなんです」
「あらあら……」
 突拍子も無いと言えば、突拍子も無い思いつき。そして、最も注目すべきはやはりその行動の理由だろうか。普段から思いつきによる行動が多いのではあるが、今回においては、アリシアは灯里のその動機がとても気になった。そう思うのは、“初めて”ARIAカンパニーへやってきた時のこと、という理由で十分であろう。
「灯里ちゃん、どうしてそれをやろうと思ったの?」
「はひっ。それは……」
 さっきとは別の緊張した面持ちで、灯里は少々どもりながら喋り始めた。
「長らくARIAカンパニーでお世話になってますけど、初めてここに来た時の気持ち、それを思い出してみようと。ほら、初心忘るべからずって言うじゃないですか。立派なウンディーネになるために、そしてなった時にも、自分のそういう心って大事なんじゃないかって。……って、ああっ、アリシアさんが初心を忘れてるとかそういうんじゃなくって、ちょびっとでも伝わったら嬉しいかな、とかって、その……」
「灯里ちゃん……」
 手と足とを懸命に動かしながら、さながらジェスチャーの如く(ジェスチャーをする必要はまったく無いのだが)説明を行う。その姿に、雪の結晶のように純粋な想いが流れ込んでくるのをアリシアは感じた。
「……それに」
「うん?」
「初めて何かに取り組む時って、宝石の原石ような心を持っていると思うんですよ。これからどう輝いていけるかって、どう磨いていくか次第……いくらでも無限の可能性がある……。常にそんな心があれば、とっても素敵なんじゃないかなって……だから、私はいつもそうありたいなって」
 ひとしきりの話が終わった後、静かな沈黙が流れた。傍に漂うは、ただ穏やかな香りを運ぶ空気。その心地よさにうっとりしながら、アリシアは一呼吸置いた後に、いつもの柔らかな笑みで返した。
「うふふ、ありがとう」
「え? は、はひっ」
 咄嗟の思いつき行動ながら、確たる自信があったわけではなかった灯里にとっては、アリシアのこういった優しい反応が随分と救いになった。
 だがその一方で、アリシア自身思い出すことがあった。それこそが、最近はほぼ意識しなくなっていた想い。灯里がいつもそこにいたことが当たり前になったからこそ、無くなっていたものである。
「うふふ……」
「……アリシアさん?」
「少し、思い出したの。灯里ちゃんが初めてARIAカンパニーにやってきた時に……私は、嬉しかったの。だって、その時からとっても可愛い後輩ができたんですものね」
「アリシアさん……」
 わずかに遠い目、一つ瞬きした後には、先ほどとはまったく違った優しい目をする彼女に、灯里は思わず頬を赤くする。たしか、初めてARIAカンパニーにて迎えた朝、初めてARIAカンパニーの制服を着て、そして食事時にも見つめられて赤くなっていた風景を思い出した。
「今は灯里ちゃんと当たり前のように一緒にいて、とっても楽しい毎日を過ごしてるけど……それも、ここで、あの時から始まったのよね……」
「そうですね……」
 互いに顔を見つめあう。知り合う前、二人は赤の他人であったが、今は先輩と後輩。いや、それとはまた違った間柄でもある。魚にとっての水のように、なくてはならない当たり前の存在。しばし感慨に浸りながら、それでも周囲の風はただ優しい……。

 どのくらいそうしていただろうか、アリシアが“そうだ”と、ぽんと手を叩いた。
「折角灯里ちゃんがこうやって舞台を用意してくれたんだから、それぞれの役になりきらないとね。もうちょっと前からやり直してみましょう」
「ほへ?」
「よいしょ、っと」
  こてん
 言うが早いか、アリシアは自分のゴンドラに体を横たえた。その上で眠るように。
「あ、アリシアさん?」
 何事かと声をかける灯里にも反応しない。が、しばらくすると、ゆっくりと彼女は上体を起こした。片手で右側の頭をかいた後、うーん……と大きくのびをする。
「ふわああぁ!」
 大きく欠伸の声を上げると、左右に首を振り、辺りを見回した。
「あらあら、寝てしまったわ」
「…………」
 微妙に灯里の時とは台詞が違う。が、灯里にとってはそんなことより、その再現性がショックであった。確かに、ARIAカンパニーに到着した時に自分はすっかり寝てしまっていたし、それこそいい時間になっていた。また、その一部始終をアリシアにしっかり見られ、こうも見事に再現されようとは……。
  ずーん……
 灯里自身を、落ち込んだ空気がすっぽりと包む。自分発端のこのイベントではあるが、まさかこういう事態になるとは予想だにしていなかった。彼女にとってはちょっぴりほろ苦い、そら恥ずかしいものとなってしまった。
 と、気まずさに顔を俯けている灯里は、アリシアがじっとこちらを見ている事に気がついた。相変わらずながら微かに笑みをたたえながら、何かを目で訴えている。しばらくはその意図がわからなかった灯里であったが、先にアリシアが言った言葉を思い出した。“もうちょっと前からやり直してみましょう”という言葉を。
 “ああ!”と灯里は心の中で手をぽんと打った。早速当時の情景を思い出しながら、言葉を紡ぎ始める。
「あら……起きたみたいですね。アリシアさん……えーと、アリシア・フローレンスさん」
「あらあら、うふふ」
 少々長い名前、また、普段は気にしないフルネームから灯里がどもる。顔を赤くしながらも続けるその姿に、アリシアは思わずくすりと笑ってしまうのだった。
 しかし次は、最も肝心の場面である。アリシアが今日ここへ戻ってくる時にも、彼女の心をうった、精一杯の灯里の演技だ。気を取り直し、灯里は本当に純粋な気持ちになって、それを告げた。
「ようこそ、『ARIAカンパニー』へ」
「ぷいにゅーっ!」
 突如、白い猫が扉から飛び出してきた。特徴的な光を携える青い瞳と、ふっくらとした体のそれはアリア社長に相違ない。
「あ、アリア社長! もう、中で待っててくださいって言ったじゃないですか」
「ぷいぷい、ぷいにゅ!」
 困った顔の灯里にお構いなく、アリア社長は眉をハの字にして訴えている。打ち合わせにおいては中に入ってくる灯里とアリシアを、当時のように出迎える予定だったのだが、いつまで待ってもこない事にしびれを切らしたのであった。
「あらあら、待ちくたびれちゃったのかしらね」
 二人のやり取りを見つめながら、うふふ、とアリシアは笑う。
「そうみたいですね……」
「ぷいにゅ」
  ぐぎゅるるる〜
 返事をするアリア社長は、同時にお腹でも返事をした。飛び出してきたのは、単に待ちくたびれたというだけではないようである。
「それじゃあ早く晩御飯にしましょう。すぐ作るわね」
「ぷいにゅ!」
 始まりの再現イベントはこれにておしまい。いそいそとアリシアは支度を始めた。その様子を、ちょっぴりほっとしたような、ちょっぴり残念のような、複雑な表情で灯里は見つめていた。と、そんな彼女に気づいてか気づかないでか、アリシアはふいっと顔を向けた。
「灯里ちゃん」
「はい?」
「これからもよろしくね」
「はひっ! こちらこそよろしくお願いしますっ!」
「もちろん、アリア社長もね」
「ぷいにゅっ」
「うふふ」
 改めましての挨拶。それは、灯里という後輩に対して。そして、ウンディーネとしての生活が始まった、ここARIAカンパニーに対して。
 空を仰ぎ見ると、そこには既に数々の星が、その想いを祝福するように、優しい輝きをはなっているのだった。

<始まりの煌きを…>


あとがき:
 ようやく始められました。前々からやってみたいと思っていた、100のお題シリーズをARIAで。…まぁ、ARIAの二次創作自体私にとっては非常に難しいので、出来の保証はしませんけど。
 ところで、書いてる途中に「ここらへんはこういうツッコミを思わないだろうか」なんて考えてると、いちいち説明くさい文章を書こうとしてしまう自分がいます。余計なことなんですよねぇ、多分。ある程度は必要かもしれませんけど、それのために固くなるってのがどうも…。
 とりあえず、この話は“始まり”という事で、初心にかえってみる、みたいな流れを作ってみました。構想には色々あったはずなんですが、まずは、の話で。
 それにしても相変わらず表現力に乏しいなぁ…と思うことしきり。
2006・2・8

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