「M」
第8章 side-A
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矢口の部屋はがらんと静まり返っていた。
人の姿はなく、ただ電源を入れっぱなしのPCからの静かな機械音のみが響き、モニターの明かりのみが環境光となっている。
やがてモニターに軽くノイズが混ざり始め、それは程なく激しいノイズとなり、画面がほとんど読み取れなくなるまでになった。
そして、ベッドにそれまで無かった人の気配が生まれる。
その気配は、ベッドから起きだし、部屋の中央に立つ。
小さな白い手が電灯のひもに伸び、明かりをつけた。
やがて蛍光灯の明かりの下には、赤いチェックのパジャマを着た小柄な少女、いやもう22歳なのだから少女という表現はあてはまらないかもしれないが、その小柄さゆえに少女と表現したくなる女性が姿を現した。
『ただいま』
矢口は誰にとも無くそういった。
今や、彼女にとってこの世界はかけがえのないものであり、実際のところ現実の世界よりも大事に思っているものだった。
だから、この世界にリンクインしたとき、最近はいつも「ただいま」と言ってしまう。
それは特に意味のない習慣かもしれないし、この世界を現実の世界であると思い込みたいという彼女の願望が現出しているのかもしれなかった。
だが、『おかえり』と言ってくれる人はいつもいない。
この部屋はシステム外の現実の世界とのゲートになっているため、部屋の外の世界、つまりm世界と呼ばれるものとは多少存在が違う。
よってただ一人の人間、まさに言葉の意味通りこの世界でただ一人の生身の人間である西田瑞希、この世界では矢口真里と呼ばれる人間しか入ることはできないようになっている。
そう、この部屋には入ることができないように、他の人間たちは「プログラム」されている。
矢口は部屋の時計を見た。
一つは「A.M. 9:23」、もう一つは「A.M. 11:41」と表示されている
こちらの世界が朝の9時過ぎ、現実の世界が昼前ということだ。
彼女が2時間半を現実の世界で過ごした間に、こちらの世界では夜が明けていた。今日もまた寝不足の状態で仕事にいかなければならない。
今の彼女の体内時計は、この世界からリンクアウトした時間である深夜0時に、現実の世界で過ごした2時間半を足した深夜2時半といったところである。
この状態でまた仕事にいかなければならないというのは正直きついが、それでもやむをえない。
それに今はそれほど仕事が忙しくないからまだましだ。
おととし辺りはそれはもう酷く仕事が忙しい上に、m世界のシステム上の調査事項が多かったのでしょっちゅう現実の世界に
戻って教授と打ち合わせをする必要があった。そのためほとんど寝る時間が取れず、ライブ中に倒れてしまうことも何度かあったほどだ。
矢口は教授の言葉を思い出した。オブジェクト消去はこちらの時間で深夜12時。
仕事の入っている時間でなくてよかったと矢口は思った。
そしておもむろにパジャマのポケットの中を探る。そこにはステッカーサイズの青色のシールが10枚ほど入っていた。
「これをシートから剥がしオブジェクトに貼って手を離す。それだけだ」
教授の言葉を思い出しながら、シートに貼られたシールを見る。
シールを見ているうちに、なんとなく不快な気持ちが矢口の中にこみ上げてきた。
こんなシール一枚でこの世界のものを跡形も無く消去できる。それが物でも、あるいは自分が苦楽を共にし、かけがえのない仲間と思っている人間でも・・・。
自分が大事にしている世界が、単なる作り物に過ぎない。
そんな現実をつきつけられたような気がした。
矢口のシールを握る手に力がこもり、シールの形がゆがんだ。
このまま握りつぶしてしまいたい衝動に襲われたが、すぐに矢口は我に返り、諦めた表情でシールをポケットにしまいこんだ。
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『おいらも一緒に行くの?』
レコーディングの合間の待ち時間。
ソファーに並んで座っている石川に向かって矢口があきれたように話しかける。
『だってぇ、一人で行って昨日と全く同じもの買うなんて恥ずかしいじゃないですかぁ』
『何が恥ずかしいのか意味わかんない』
『2日連続で同じ人形を買うんですよ。こんな恥ずかしいことはないですよ』石川は真面目な顔でそういい切った。
『そっかぁ?』
『だから矢口さんが買ってくださいよ。私が買ったのをみて、矢口さんも欲しくなったって設定で行きましょう?』
『なんでたかが人形を買うのにそんな設定が必要なのさ』
矢口は思わず苦笑した。
そのときレコーディングブースの扉が開き、安倍と道重がブースから戻ってきた。
『ちょっとあんたら、人のレコーディングくらいちゃんと見ときなさいよ』
どうやらレコーディングブースから、矢口と石川が談笑していたのを見ていたらしく、安倍が軽く説教をたれる。
『でもさぁ、なっちはともかく重さんのはねぇ』
矢口が軽く毒舌。
それを聞いて道重は軽く顔をひきつらせた。
『あぁごめん重さん、冗談冗談。冗談だよ』
『どうせ下手ですから・・・・』
『わぁ〜、違うってば。ってゆうか重さんすごく上達してるよ。本当においらそう思うもん、ほんと、ほんと』
『本当ですか?』
道重の表情が明るくなる
『ほんとだよ』と矢口は念をおす。
実際、矢口は道重の上達に関しては驚いていた。
娘。に加入した当時の道重の音程の外しっぷりは本当にすごいものだったが、今ではちゃんと音程もリズムもすぐに取れるようになっている。なにより堂々とした歌いっぷりは、つんくをはじめとしたスタッフの間でもとても評判がいいのを矢口は知っていた。
『だから自信もって』
笑顔の道重に対し矢口はそう言った。
『はい』道重は心底嬉しそうにそう答えた。
『うん、さゆはうまくなったよ』と今度は石川。
『いや梨華ちゃんに言われてもねぇ』と安倍が道重を見ながら笑顔で言う。
『・・・どうせ私なんか・・・・』
石川ががくっと首を垂れた。
『それはそうと、ちょっと聞いてよなっちに重さん・・・・』
そんな石川は無視して矢口が話し始める。
矢口は昨日のオフの話を2人にした。
石川が買った大きなピンクのうさぎがレストランで消えてしまったこと。そしてそのあと、石川がはんべそを書きながらレストラン中を探し回り、店員さんにも迷惑をかけて矢口と保田がずいぶん恥ずかしい思いをしたことも。
『もうさぁ、店員さんとか困っちゃっててさぁ。「なんで袋だけ残ってるんですか」とかいって梨華ちゃんマジ切れで。そんなの店員さんも知らないよねぇ』
と笑いながら説明する。
『だっておかしいじゃない。袋から人形だけ取り出して持って行っちゃうなんて』と石川。
『きっと、その人形は梨華ちゃんが嫌だったんだよ』と安倍が石川をからかい始める。
『そうだね、人形だって飼い主は選びたいもんね』矢口も参戦。
『だから袋から自分で出て逃げていったんだよ。うん、これで袋だけ残ってたわけもわかる』
『自信満々な表情でそんな馬鹿なこと言わないでください。あぁ私のうさちゃん、今どこにいるんだろう』
石川のそんな台詞を受けて、
『あぁ愛しいうさちゃん、どこに消えちゃったんだろう』
安倍がザ・ピースの石川の台詞をまねて笑った。
『・・・・消える?・・・そうか・・・消えた・・・かぁ』
その表現に矢口は少し引っかかるものがあった。
そして例のシステムエラーとの関連を考えてみたが、考えてもしようのないことであるとすぐに分かったので、その思考は終了させた。
『ん?どうした矢口?』少し考えこんでいた矢口を見て安倍が尋ねた。
『え。あぁ何でもない何でもない』
『最近矢口ときどきどっか行っちゃうよね。大丈夫』
安倍が本当に心配そうな顔で覗き込む。
確かに最近矢口は一人で考え込んでいることが多かった。だがそれは別に飯田のように交信しているわけではなかった。2つの世界の行き来による睡眠不足ももちろんあったが、それ以上に、この世界に自分はいつまでいられるんだろうという不安が日に日に頭をもたげていたのだ。
実験をはじめてもうすぐ2年になる。こちらの世界で言えば7年だ。
この実験を開始するとき教授は「だいたい1年が実験期間の目安だ」と言っていた。
だがその1年はとうに過ぎている。
それはまだ色々と教授が調査したり解決したい問題が残っているからなのだが、それでも中にリンクインしている身からすれば、表面的な問題はもはやほとんど残っていないように感じる。
実験を終了するとどうなるのだろうか。この世界は?今ここにいるなっちや梨華ちゃんや重さんは?そして仲間達は?
矢口はそのことについては、怖くていまだ教授に聞けずにいた。
(できればずっと、このままでいれたらいいのに・・・・)
ふと気がつくとそんなことを考えながらぼーっとしている時が増えていたのだ。
『うん大丈夫!大丈夫!』
矢口はできる限りの笑顔を振りまいた。
『本当?昨日ネット見てたんだけど、最近矢口元気なくない?って書き込みも結構あったよ。きっと娘。が解散するからだとか言って』
それは矢口もいくつか見ていた。ファンの人はよく見てるよなぁと矢口も感心していたのだった。
『いや、それは娘。は解散するに違いない。だったら矢口は元気がないはず。っていうそういうのじゃない。ねぇ、重さん?』
と矢口は、矛先を変えて逃げた。
あいまいにうなずく道重。
『そっかなぁ』と安倍。
やっぱり仲間は騙せない。けど説明もできない。
『そういえば私も昨日インターネットを見てて、もうすぐモーニング娘。が順番に消えてくとか書いてたの見ましたよ』
道重が突然話題を変えた。
『何それ?順番に消えてくって?解散じゃなくて?』と矢口が道重に尋ねる。
『はい。消えていくって。それでなんか、通報だとか逮捕だとかでちょっと騒ぎになってて。おもしろいなぁって見てたんですけど』
『それあれでしょ、悪口サイトでしょ』
『え?・・・・あの・・・・2ちゃんねるっていう・・・・』
『だからぁ、ああいうところは見ちゃだめだよ。悪口かいてるだけで全然ロクなことなんか書いて無いんだから。面白く感じちゃうのはわかるけどさ。一時期おいらあれ見てて精神的にやばくなったんだよ。前にそんな話したでしょ』
『そうでしたっけ?』ちょこんと首を傾ける道重。
『ずこっ!・・・・とにかくやめときな。見るならもっとましなファンの人のページにしなさいって。ん〜でも道重くらいの歳だとそういうページも見ないほうがいいような気もするけど・・・・』
『はぁ・・・・・』
『まぁ重さんは図太いから大丈夫じゃない。私とかはだめなのよね』と石川が割ってはいった。
『でもさぁ、そういうのって本当に逮捕されたりするのかな』と安倍。
『本当にされるらしいよ。なんだっけ・・・・脅迫罪?そういうのになるんだって』
最近またそういうニュースが増えているのを矢口は耳にしていた。警察がその手のいたずら書きに対する対策を強化して、一人でも多く検挙しようと張り切っているらしい。一向に減らないその手の犯罪に対する一時的な見せしめなんだと父が酒を飲みながら解説してくれたのだ。
『へ〜』それを聞い安倍が感心したように言う。
『それこそ自分が消えろって感じだよ』と矢口は冷たく言い捨てた。
『ちょっと矢口きついから』
安倍が笑った。
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