「M」

第19章 side-A


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矢口が六本木にくるのは5日ぶりだった。
5日前は、保田、石川と共にオフをこの六本木ヒルズで遊んですごした。
映画を見て、買い物をして、そして最後に食事をした。
夕焼けをバックに高くそびえる六本木ヒルズのメインタワーを見ながら、あの日は楽しかったなと矢口は思い返していた。
あのころはまだ何も起こっていなかった。
たった5日で、彼女の住む世界は激変した。


『あんなロマンチックな体験をしてみたいなぁ』
石川がその日、SF冒険映画を見た後に言った言葉だ。
『いや、私たちは十分ロマンチックな人生送ってると思うよ』
といった保田に対し
『いやまぁそうなんでしょうけど、でも映画みたいなのとは違うじゃないですか?なんだかんだ言っても芸能人ってのも普通の人間で、そんな人間がたまたま目立つポジションについたってだけですよね。基本的なところでは平凡っていうか、他の人と一緒』
『まぁそうだよね』矢口はそう同意した。
『命をかけた勝負だとか、世界の謎をとくだとか、なんかそういう、ありえない体験っていうの?そういうのちょっと私あこがれるんですよ』
『あんたは欲深いねぇ』保田が笑った
『今が幸せなんだからそれでいいじゃない』と矢口も笑った。


今石川が自分の置かれた状況を知ったらどう思うんだろう?
矢口はそんなことを思った。
(おいらはこんな体験はしたくなかったよ梨華ちゃん。みんなといつまでも平凡に、そして楽しく生きていられたらよかった・・・)
たとえ上坂を排除することができたとしても、もう元の生活は戻ってはこない。
このような出来事の後では、モーニング娘。というグループももはや存続できるとは思えなかった。
矢口真里としての生活も大きく変わるだろう。いや、矢口真里でいられるのかどうかすらわからない。
だけど・・・・前に進むしかなかった。
後ろを振り返っても、ただ立ち止まっていても何もいいことは起こらない。前のめりに進むしかない。
それは自分がこの世界に来て、モーニング娘。というグループの一員になって学んだことだ。

人ごみを嫌って、六本木ヒルズの裏手でタクシーを降りた。
それでも人気スポットだけあってたくさんの人が行きかっている。
土曜の夕方という幸福感をあおる時間帯のせいなのだろうか、行きかう人々の表情も楽しそうに見える。
目の前を走りながら横切っていった小さな女の子の笑い声が耳に心地いい。
伊達のメガネの下の大きな2つの矢口の目がつかの間、和んだものとなった

道を一つ渡り、矢口は六本木ヒルズのメインタワーとテレビ朝日の間にある広場へと足を踏み入れた。
階段を下りると広々とした空間が広がっていて、野外カフェの机と椅子が片隅に並び、そこで多くの人々が思い思いの時間を過ごしている。
今日の変装ならばばれることはないと矢口は自信を持っていたが、それでも多くの人がいる空間というのは緊張する。
矢口は自分の長髪の黒いかつらと、横長の伊達メガネを手で確認した。

広場の中央部には巨大なテレビモニターが設置されている。
普段はただの景色としてしか認識されていない大型テレビモニターであるが、今日は人々の注目を集めていた。
ただ通りすがっただけの人も、足をとめてモニターに注目している。
矢口もモニターを見やる。
いつもはミュージッククリップばかりを垂れ流しているそのモニターが、今はテレビ朝日の特別ニュースを映していた。
そしておそらく、他のTVのチャンネルでも同じような臨時番組が放送されているのだろう。
ここに来る途中のタクシーのラジオで矢口はそのニュースを知っていたが、それでもまた注目せずにはいられなかった。
TVでよくみかける女性のニュースキャスターが真剣な表情で原稿を読み上げている。

『・・・・・・メンバーである石川梨華さんの自宅マンションにて、ナイフで胸をさされ、出血多量で亡くなられた模様です。さらに、同グループの矢口真里さん、石川梨華さん、亀井絵里さん、そして元メンバーである市井紗耶香さんが現在行方不明になっています。警察では現在全力をあげて行方不明者を捜索するとともに、石川梨華さんのマンションの管理人の一人である24歳の男性の行方を追っております。この男性は3日前の勤務に姿を現さなかったままその後行方が分からなくなっており、事件にかかわっている可能性が高いものと思われています。なお、今回の事件に伴いモーニング娘。のメンバーは警察の厳重な護衛のもとにあり・・・・・』

大型テレビモニターには娘。の所属する事務所がテナントとして入っているビルと、その入り口に群がる数十人の報道陣が映っている。
そして画面の上部には、加護、矢口、石川、亀井の顔写真が貼り付けられている。
テレビモニターの前では多くの人々がこのニュースに視線を釘付けにしていた。
ほとんどの人はあまりの事態に驚いているという表情だ。
すごく心配そうな顔で画面を見つめている五十代くらいのおばさんの表情が矢口の目に入った。矢口は少し申し訳ない気持ちになる。
だがその一方、ニヤニヤと笑いあいながら画面をみてしゃべっている男子高校生の姿もあった。
彼らにとってはそれは他人事。TVドラマかなにかでも見ているつもりなのだろう。
矢口は不意にそのうちの一人と目が合ってしまった。するとその男の子は少しばかり気まずい表情をして目を伏せた。

行こう・・・・。
矢口は再び歩き始めた。
広場を離れ、広い階段を登り、メインタワーのウェストウォークというエリアに入る。
ここからエスカレーターで5Fまで登れば、目指すレストランがある。
上坂に指定された場所だ。約束の時間まであと15分。

上坂からのメッセージは矢口の部屋のPCに残っていた。
上坂がPCに何かを打ち込んでいるのを思い出した矢口がPCをチェックすると、メモ帳アプリケーション上に携帯電話の番号が書かれていた。
その携帯電話に自宅から電話をかけると、自分の声がした。そう、上坂はその時「矢口真里」になっていたのだ。
上坂は夕方5時に六本木ヒルズのレストランに来るようにと言った。
目的を聞いても彼は何も答えなかった。だが来なければどうなるかはわかるだろう?とだけ言った。
どのみち矢口には行くしかなかった。いや、むしろチャンスだと思った。
彼がそこで何をするつもりかは知らない。だがそこで彼に接触するチャンスがあるなら自分が今考えている作戦を実行できる。
正直なところ、作戦と呼べるほどたいした手段ではない。でも他に方法を思いつかなかった。

(きっと大丈夫・・・)
矢口はそう心のなかで念じながら、上着のポケットの中のネット切断スイッチの存在を、手で改めて確認した。


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『な、何を言ってるんですか!』
娘。の所属事務所の一角で大きな声が響いた。
電話に向かって、統括マネージャーの山本が声を荒げていた。
つかれきった表情をしている事務所スタッフ全員が注目する。
『無茶をさせないでください刑事さん!安倍は普通の一般人なんですよ。警察の人間でもなんでもないんです。そんな危険なことをさせるなんて馬鹿げてる!』

電話の相手は、レインボーブリッジ上を走っている警視庁の覆面パトカーの助手席にいた。
そして携帯電話に向かって冷静に答える。
『お気持ちは分かりますがこうするより他に手がないのです。でなければ行方不明の4人の命が危ない』
『だけど、そんな・・・』
『安倍さんもどうしてもやらせて欲しいと言ってくれています。都内の警察官も総動員で万全をつくしますから』
『しかし・・・・』
山本はただうなるしか出来なかった。

やがて電話をかけていた刑事が携帯を切った。そして、自分達の車から100mほど先を走るタクシーに目をやる。
そのタクシーの後部座席には安倍なつみが一人座っていた。
悲壮な表情で車の窓から外を眺めている。
いつもの安倍ならば、こうやってレインボーブリッジから東京の景色をみると心が踊ってきて、目をきらきらさせて景色を眺めはじめるものだった。
時には矢口に
『なっち、もういい大人なんだからレインボーブリッジくらいで喜ばないでよ』
なんて言われたものだ。
安倍はそんな矢口のことを思い出し、決意を新たにした。
膝の上にのせた鞄を握る手に力が入る。
夕焼けに染まった東京の街並みが流れていく。
美しさとともに、なにか寂しさのようなものを感じさせる景色だと安倍は思った。


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矢口は目指すレストランの前に着いた。
「olives」という名のおしゃれな地中海料理店。
この店は保田に連れられて何度か来たことがあった。
そう、そしてつい5日前にも保田、石川と3人できたばかりの店だ。うさぎの人形がなくなって石川が騒いでいた店。
(偶然・・・・じゃないな)
おそらくあのピンクの人形は上坂が消去シールで消したのだろう。
上坂にとっても初めてではない店だということだ。

矢口は店内に足を踏み入れた。
すぐさまウェイターが近づいてきて、
『いらっしゃいませ。お待ち合わせですか?』
と笑顔で聞いてくる。
『あ、はい』
矢口はそう答えた。
『お相手様のお名前を頂戴してもよろしいでしょうか?』
『え・・・えっと』
矢口は返答に困った。そもそも上坂がどのような姿でここに来ているのかもわからないのだ。
『あの・・・多分もう着いてると思うんで、ちょっと中に入って探します』
そういってウェイターの返答も待たずに店の内部に強引に入り込んだ。

開店間も無い時間であるため店内は比較的空いていた。3割くらいの入りだろうか。店にいるのはほとんどが熟年のカップルだ。
矢口は店の端から一人一人を見回していく。
すると、
『あちらのお客様ではございませんか?』
背後からさっきのウェイターの声がした。
ウェイターのさす方向を見ると、一人の若い男が窓際の奥のテーブルに座っていた。

見覚えのある顔だった。
どこで見たのかと考え、矢口はすぐに思い出した。
今の同窓会ツアーのスタッフだ。たしか照明関係の担当の人だったと記憶している。だが名前までは覚えていなかった。
彼は矢口に気がついた。
そして矢口の方を見て軽く笑って手を振る。

『ご案内します』
ウェイターが矢口を追い越してテーブルへと向かう。
だが、すぐに矢口は早歩きでウェイターを追い越した。
目は男を見据えたままで、上着のポケットから青色のシールを取り出し、シートからはがす。
それでも男はただ座って笑っているままだ。
矢口はシールを男に貼る体制に入った。そして男の目の前で止まる。
(まさか、ひょっとして本物のスタッフさんだとか?)
そんな疑念が矢口の頭に浮かぶ。
(罠?)
ありえることだと矢口が思ったときに、男が言った。
『あれ?貼らないの?』
違う。やはり上坂だ。矢口は動きを再開し、青色のシールを男の左腕に貼り付けた。そしてシールから手を離す。

成功した。
だが矢口はほとんど高揚感を感じることはなかった。
一秒、二秒、、、、そして十秒。時間は経過して行った。だが空間は止まったままだった。
周りの客やウェイターは唖然としてその光景に注目し、矢口はただ立ち尽くし、男は腕にシールをはったままそこで相変わらず笑っていた。

『さてと』
最初にその空気を破ったのは男だった。
男は腕からシールをはがして矢口に返した。
矢口はただ黙ってそのシールを受け取ると、鞄の中に無造作に押し込んだ。
そして何事もなかったかのようにテーブルについた。

矢口の後ろについてきていたウェイターはどうしていいかわからないようだった。
『ジュースください。オレンジジュース』
矢口はそう言ってウェイターを追い返そうとした。
男が、
『あと俺はビールね』
と続く。
ウェイターは助かったというような表情をして去っていった。
周りの客もそれぞれの会話へと戻っていった。

男は笑顔で矢口に話しかけた。
『あんまり驚かないんだな。ちょっとがっかりだ』
『予想はついたから』
『ほぉ』
男は感心したように声をだす。
『あなたはおいらがあなたを消したいと思っているのを知ってる。それなのにおいらを呼び出したってのは、なんらかの対策をしてるってことだと思った。考えられるのはシールの機能を妨害するプログラムかなんかを作動させてるってこと』
『お見事。正解だ。まぁ正確には消去機能を阻害しているだけだがね。俺のシールの変身機能は生きてるぜ』
『でもこれで自分がこの世界から消されることはない。あなたはもうこの世界のものをただ単純に消去シールで消すことに飽きてきているからそれもかまわない』
『お見通しというわけだ』
だが矢口にわかるのはここまでだった。そもそも上坂が何のために自分を呼び出したのかがわからない。
自分の目の前で娘。の誰かを殺したいにしても、いまや娘。は全員厳重な護衛の下にあるはずだ。上坂といえども相当の無茶をしないとメンバーには接触できないのだ。

しばしの沈黙の後、ウェイターがビールとオレンジジュースを持ってやってきた。
そしてディナーのメニューを二人に渡す。
『ご注文はいかがなさいましょう?』
『少し考えますから。後で呼びます』と矢口は答えた。
『かしこまりました』
一礼してウェイターは去っていった。

遠ざかるウェイターの背中を眺めながら男がまた話をはじめた。
『好きなものを注文してくれていいよ。金ならどうとでも手に入るしな』
『そう。でも結構』
矢口は冷たく答えた。彼がどうやってお金を手に入れるかなんてどうでもいい話だ。
『ふん』
男はつまらなそうに息を掃く。
『さて、どうするね。君は俺を消せない。消せない以上、君達の作戦は通用しない。俺を消して、即座に君もリンクアウトし、mシステムと外部ネットとの接続を切るっていう作戦だ。そうすれば俺はこの世界にアクセスできなくなるからな。だが、俺がこの世界にいる以上は、接続は切れない。それは俺を殺してしまうかもしれないからだ』
『そちらもお見通しなのね』
それは見破られているとは思っていたことだった。
事実、矢口のその作戦を利用して、上坂は矢口の注意を加護から上坂の手を離れた消去シールにそらせたのだから。
だが、今の上坂の発言の中に、矢口にとっては重要な言葉が含まれていた。
(上坂は知らない。今おいらが外部とのネット接続を切るスイッチを持っていることを。ならば今度の作戦はうまくいくかもしれない)
問題は、いつ決行するかだ。


『もうやめにする気はないの?』
矢口は一気に踏み込むつもりで言った。
『やめるとは?』
『分かってるんでしょ。おいらの仲間を消すことよ』
矢口は怒りをこめて言った
冷静でいなければならないとは分かっているのだが、それでもつい感情が昂ぶりそうになる。
『あぁあれね・・・・結構厳しくなったよな』
そう言って男は目の前のビールを手に取り、二口ほど喉に流し込んだ。
『ふ〜。やっぱりビールも今ひとつだな。嗅覚ってものが味覚とともに相互作用をなして人間の食欲に関係しているってのがよくわかる。匂いがなきゃビールを飲んでてもなにか味気がないんだよな。そのくせ、酒を飲むと酔っ払らうことはできるってんだからおかしな世界だ』
といって一旦グラスを置く。
『まぁとはいえ食わないといかんな。店にも怪しまれるぜ。お〜い、ウェイター』
男は大きな声でウェイターを呼んだ。


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『すいませんが中に入っていただけますか』
自宅のベランダに立って外を眺めているとそう声をかけられた。
『え?ベランダもダメなんですか?』
保田は驚いてそう答える。
『一応そうお願いします。誰が見ているかわかりませんから・・・・』
今朝、警察の人が護衛についてからずっとこの調子だ。外にでることは厳禁。ついにはベランダまで禁止された。高層マンションのベランダであるにもかかわらずだ。
だがそれも仕方がないのかもしれないと保田は思った。1人が殺され、4人が行方不明だというのだ。保田自身もすっかり憔悴していて、朝から付きっきりのこの女性警察官の言うことに逆らう気にもなれなかった。
ベランダに背を向け部屋に入る。そして後ろ手で窓を閉めようとしたときに、強い風が保田の背後から吹きつけた。

その風に揺らされ、保田の右の耳のピアスが外れた。
落下してベランダへの窓枠のサッシのところに当たり、部屋の中に転がって止まった。
『いけない』
保田はそう言いながらピアスを拾い上げた。
『あ・・・・・』
ピアスにはめ込まれていた青い水晶が割れていた。

『矢口・・・・・・』
保田は顔をこわばらせ、矢口が誕生日プレゼントとしてくれたそのピアスをずっと見つめていた。


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ウェイターが豪華なステーキを2つ運んできて矢口と男のテーブルに置いた。
神戸牛のステーキだとウェイターが説明する。
男はナイフとフォークを手に取って食べ始めた。
矢口もあとに続く。
『地中海料理なのに神戸牛ってのもどうなんだろうな。地中海から牛を連れてくるってのが本筋なんじゃないか』
男はさっきからくだらないことばかりをしゃべっている。
たまに矢口が質問をするが、それらはすべてはぐらかされ、まともな返答がかえってきたことはなかった。
いったい彼が何のためにここに自分を呼んだのか、矢口は未だにわからずにいた。

ふと周りを見渡すと、いつの間にか店内は客で満員になっていた。
若いカップルが増えている。
『この店は何回目?』
男が聞いてきた。
『・・・・2,3回』
矢口はそっけなく答えた。
『この前3人で来てたよな』
5日前に、保田と石川と一緒に来た時のことを言っているのだろう。
『ええ・・・・なんで梨華ちゃんの人形を消したりしたの?』
『特に理由はなかったんだけどな。まぁ今にして考えてみると宣戦布告ってところじゃないかな』
そう言って矢口の目をみて笑う。
矢口が睨み返すと、視線を下にそらし、手に持ったナイフでステーキを切りはじめた。
そしてステーキを縦に横にと細かく切り刻み始める。
明らかに食べるためではなく、ただ切りたいから切っていた。
子供が遊ぶようにして、楽しげに肉をもてあそんでいた。
矢口は鳥肌が立つのを感じた。
『思い出すな・・・・人の肉にナイフを入れる瞬間・・・・』
そういったときの男の目は狂気にゆがんでいた。
(やっぱり狂ってる)
矢口は思った。
事件が公になり、警察の護衛がたくさんつくようになったからといって安心できない。そう矢口は悟った。
ならば、彼を追い出すしかない。
矢口は自分が座っている椅子をすこし後ろに下げた。

『ふん。見ろよ』
矢口が考えていた行動を起こそうとした時、男がレストランの入り口の方を見て言った。
矢口が言われるままに振り向くと、そこにはまた新たな若いカップルが店に入ろうとしたものの満席ということで断られていた。
店の外がわずかに覗けるが、そこではさらに幾組かのカップルが待っているようだった。
『まったく下手な芝居だ。こんな時間にこんな店に、あんな若いカップルが予約もなしに次から次へと来るわけがないだろう』
『下手な芝居?』
男の言っていることの意味がわからなかった。
『芝居さ。よく見ろよ、この店にいる若いカップルを。妙にガタイのいいのが多くないか。女ですらそうだ。まったく少しは頭を使えよお前ら』
言葉の最後の方は店全体に聞こえるほどの大きな声だった。
店中の人間がこちらに注目する。
『な、何を言ってるのよ・・・』
矢口は予想外の展開に狼狽した。
だが、他の客の多くは、狼狽というよりもただ緊張感を高めたという感じだった。
意味が分からないという態度ではなかった。
『まぁ所詮お人形さんってことか。ははは。人を騙すようには作られていませんってね。いやでもそう気に病むことはないかもしれんよ。俺達が住む現実の世界のほうでも、警察なんてそんなもんだ。俺がネット上で色々やってることを見つけられたことなんて一度もないからな』
今度はさすがに意味が分からないという顔を全員がした。
・・・・警察?
ここに警官がいるということなのだろうか。
でもどうして?
矢口にはますますわけがわからなかった。
そんな矢口をみて男は言った。
『さて、そろそろショーの時間じゃないかい、西田さん?』
ショーという言葉に矢口は恐怖を覚えた。
まさか・・・・・。

『おい、そろそろ主役を呼んでくれ。どうせすぐ外で待機してるんだろ!』
そして男が誰へともなく叫んだ。
『早くしないと色々厄介なことになるかもしれんぞ。こっちはまだ3人かかえているんだ』
その言葉を聞いて、隣に座っていたカップルの男の方が席を立ち、外へと走って出て行った。
3人かかえている・・・矢口は今の状況がだいたいつかめてきた。
『呼んだのね・・・・・あなたが・・・。違う、脅迫したんだ・・・・・』
『またまたご名答』
上坂は警察の護衛がついたくらいで止めるつもりは全くなかったのだ。今、警官に囲まれてさえ、続きをやろうとしている。彼の言う「ショー」の続きを。
ということは・・・。
矢口はレストランの入り口に目をやった。
多くの若いカップル、いやおそらくは警官なのだろう、彼らが入り口を封鎖するようにしてこちらを見ている。
レストランの中では、食事中だった一般の人たちが次々にレストランから外へ逃げていた。本物の客もいくらかの割合でいたのだ。
そして、全ての一般人が外に出終わったころに、入り口の警官と思われるの集団の中から、小柄で少女のような童顔の女性が震えながらこちらを覗き込むのが見えた。
矢口は彼女と目が合った。
『なっち・・・』
『矢口・・・』
安倍は変装をしていなかったが、矢口は知り合い相手でも分かりにくいレベルの変装をしているはずだった。だが、安倍はすぐに矢口を認識した。そして矢口の無事な姿を見て、ほっとした表情をした。二人はしばしお互いを見詰めあった。

『彼女が今日の主役だ』
男が矢口にだけ聞こえるくらいの声でそうつぶやいた。
ちょうどその時、安倍が自らに気合を入れるように表情を引き締めると、自分の腕をもっていた婦人警官の手を振りほどいて店内へと強い足取りで入ってきた。
『なっち!来ちゃだめ!!』
矢口は思わず叫んだ。
だが安倍はまったく意に介さずに矢口のところまで一直線に向かってきた。
脚が震えていて、歩き方が自然ではなかった。唇から血の気はうせて、表情は蒼白だった。
それでも彼女はやってきた。
その瞳が揺るぎ無い決意で光っているように矢口には見えた。
そして、矢口をかばうように、彼女の目の前に立った。

そんな光景にしばし全員があっけに取られていたが、やがて熟年のカップルを装ってテーブルに座っていた一人の中年の刑事が、あわてて走ってきて安倍のさらに前に立った。
『危険です安倍さん。少し下がってください』
彼はあわててそう言った。
『どけよ』
男が露骨に不機嫌な顔をして言った。
『あとの3人はどこにいるんです?』刑事が男に聞いた。
『どけって言っている。どかないとあとの3人がどうなってもしらんぞ』男は強気に返した。
『しかし』
『俺は安倍さんと話がしたいっていったんだ。あんたじゃない。どけ』
男はただうなるしかできなかった。
それでも警察官としての立場が、安倍の前から動くことを拒否していた。

『どいてください・・・』
そう言ったのは安倍だった。
刑事が驚いて後ろを振り返る。
『この人が電話をしたのは私なんです。私が話します。じゃないと梨華ちゃんたちが・・・そうでしょう?』
声が震えていた。しかしその表情は、普段の安倍からは想像もつかない屹然としたものだった。
長年付き合ってきている矢口でさえ、こんな安倍ははじめてだと思った。
その表情に気圧され、刑事はだまって身を引いた。

『ふふ。小さいのにたいしたものだ。隣のもそうだけどな』
そう言って男は安倍と矢口の2人を見くらべて笑った。そして安倍を見て続ける。
『しかし、約束が違うんじゃないか?俺は一人で来いっていったはずだぜ』
『それは・・・だって!私だってそうしようとしたの・・・こっそりと抜け出そうとしたの、でも警察の人に見つかっちゃって、事情を話さなくちゃいけなくて・・・。あなただってニュース見たでしょう?そんな状況で一人でこっそり来るなんて無理よ!』
安倍は動揺してまくし立てた。
が、やがて冷静に戻り、
『・・・・ごめんなさい』
謝った。目の前でにやにや笑っている男に対して。
『なっち・・・』
矢口には安倍の気持ちが痛いほどわかった。こんな男に対して謝るのはものすごくいやだろう。だけど、石川と亀井、市井がどこかで捕まっていると思っている安倍は、彼女達の安全のためにそう言ったのだ。
それに、ここに来るのだってどれだけの勇気が必要だったことだろうか。
矢口は胸が熱くなる思いだった。
だが、そんな感傷に浸っている暇はもちろんなかった。

『それは?』
男が安倍が両手で持っている鞄をさして尋ねる。
『お金・・・・言われたとおりに持ってきました。1000万円』
『なるほど』
そんな要求を上坂がしていたことを今矢口ははじめて聞いた。
だが矢口は知っていた。そんな要求が上坂の嘘っぱちであることを。彼の目的はそんなことじゃない。
『お金が欲しいならもっとあげます。だから梨華ちゃんたちを返してください。お願いします』
安倍はそう言って持ってきたバッグを男の方に差し出した。
だがそれに一瞥をくれると男は言った。
『金なんかはいらない』
『え?』
矢口と男以外の人間が驚きの表情を浮かべた。
『この世界の金なんかいくら持っていても仕方が無いんだ。なあ矢口さん?』
そう言って男は矢口を見て笑う。
『何を・・・言っているんだ?』
警官の一人が誰に尋ねるでもなくそう言った。
その問に対し、男は嬉しそうにしゃべりだした。
『君達におもしろい話をしてあげよう。この世界には2種類の人間がいるんだ。それは人形と神だ。そして神はこの世界に現在2人しかいない。その2人以外はみんな神に作られた人形なのだ』
男は演説をぶるように声を高々とあげて話し出した。
『やめて・・・・』矢口は小さな声でそうつぶやいた。だがその声は男には届いていなかった。
『おっと、これは別に聖書のことを言ってるんじゃないぜ。そんな見えもしない神様の話をしているんじゃない。俺の話の神様はちゃんと見えるんだ。そう、君達人形がまさに今見ているものさ・・・・・・つまり・・・・・俺のことだよ』
『お前が・・・・神だと言うわけか』
別の警官がはき捨てるように行った。
『その通りだ。それからもう一人の神も今ここにいる。ほら、そこの小さな女性だよ。彼女の本当の名前は西田瑞貴。神としての御名って感じだな。矢口真里なんてのは芸名みたいなものだ』
そして男は得意そうな顔をしてその場にいる全員を見回した。
だが、本気で聞いているような表情は誰の中にもなかった。全員が狂人を見るような目で男を見ていた。
『おや?誰も信じてくれてないみたいだな』
そして心外だとでもいうような表情をした。
『西田君、君からもこいつらに言ってやってくれないか。お前らはただの人形だって。我々の世界のコンピューターのなかの1プログラムに過ぎないんだって』
矢口は無視した。
警官達も矢口に注意を払ったりはしなかった。
もはや彼らの間では、男はただの妄想癖の強い犯罪者でしかなかったから、誰も彼の言葉に耳を貸さなかったのだ。

だがその一方で、矢口は上坂の真意を測りかねていた。このような状況におかれて、彼はいったいどうしようというのか?
今は上坂の妨害プログラムが作動しているために、消去シールによってこの世界を脱出することができない。
なのに、なぜこんな無茶をするのか?
例えば逮捕などされて拘束されれば、現実に帰れなくなってしまう危険がある。そうすれば現実の世界の体が餓死してしまうのだ。
ただやけくそになっているだけなのか?
いや、矢口にはそうは思えなかった。上坂が何かをたくらんでいるように思えた。
そして最終的な目標はやはり安倍に違いない。矢口はそう思った。
矢口は安倍をうながして2人で徐々に後ずさり、男との距離を広げて行った。

『じゃあしょうがない。証拠を見せてあげよう』
男のその言葉に矢口は冷や汗が全身から吹き出るのを感じた。
いったい何をするつもりなのか。
上坂の言葉を証明する一番手っ取り早い方法は消去シールで何かを消すことだろうが、今はそれは使えないはずだ。ならば他にどんな方法があるというのか。
その矢口の疑問に答えるかのように上坂が言った。
『俺は神だからね、超能力が使えるのだよ。それを今からみせてやろう』
そして男は左手をジャケットのポケットに入れ、右手を自分の体の正面にもってきた。
そして、手のひらを自分の前方水平方向へ向け、その手を右へ左へと動かす。

この場の全体から緊張感が抜けていくのを矢口は感じた。
いまやその場の全員が男を馬鹿にしたような目で見ていた。
やれやれといった目で隣に笑いかけているものもいる。
男はそんな自分を笑っているなかの一人に視線を固定した。
その上坂にじっと見つめられた20代前半くらいの警官は、汚いものを見たような目をして顔をしかめる。
その時、男がにやっと笑った。


(ボゥッ!!!)
彼からは遠い位置にいた矢口にも感じられた。
息がつまるような熱風が。
男に見つめられた警官が一瞬にして炎の固まりになったのだ。
そして発火してからわずか1秒程度ですべてが燃え落ちた。黒いすすのようなものが空中を舞い、そして溶けていった。
彼の立っていた場所の床と、近くの壁が黒く焦げていた。だが、そこに残ったものはそれだけだった。
誰もが信じられないような表情でその一点を見ていた。あまりの出来事に声もでず、ただ立ち尽くしていた。

『発火温度が高すぎたな』
男が冷静な声でそう言った。
『本当はもう少し燃えるのを見るのを堪能するつもりだったんだがね、温度設定が高すぎたらしい。今度戻ったら300度くらいに設定しなおすこととしよう』
まるで何かの実験でもしているかのようにそう言った。
『な・・・なにをした・・・?』
若い警官の一人がやっとの思いで聞いた。
『いったろ。超能力さ。パイロキネシス。離れた物体に瞬時に炎を点火する能力』男は自慢げに説明する。
『い、いい加減なことを言うな!そんなものがあるわけが無い!!』別の警官が叫ぶ。
(ブオッ!!!!!)
上坂がその警官を見た瞬間に、彼も先ほどの警官と同じ運命を辿った。

警官達はさすがにたじろいだ。一歩二歩と男から距離を置きはじめる。
そして胸にかくした拳銃に手をかけるものもいた。
矢口と安倍も手を取り合いながら窓際まで移動した。安倍の手は震え、目を見開いて男を見ていた。そしてそれは矢口においてすら同じだった。胸のポケットに隠したネットの切断スイッチのことすら忘れてしまうほどに、目の前で始まった出来事の脅威におののき、思考が麻痺していた。

『だから俺は神だと言ったろ』
男はさきほどまで警官が立っていた位置に向かってそう言った。
『まぁ誤解をまねかないように説明しておこうか。君達が考えている超能力というのとは確かに少し違う。この世界は我々がコンピューター上に作った仮想世界だ。だからそのコンピューター上のプログラムによって操作することが出来る。そしてこのパイロキネシスもそこで走っているプログラムの一部なのだよ。俺が何かに目の焦点をあわせて、そしてこのスイッチを押せば』
男は左手をポケットから出し、その指の中にある小さなボタン型の装置を見せた。
そして・・・・・押した。
(ブオッ!!!!!)
上坂の視線の先にいた婦人警官が炎になった。
『燃える』
男は声をあげて笑った。

『貴様ーっ!』
警官の一人がそう叫んで拳銃を上坂に向けた。
すると、上坂はその声の主に視線を合わせた。
警官はその視線の意味におびえ、『ひぃ!』と声をあげながら、引き金を引いた。
(バンッ)
乾いた大きな音が店内に響いた。
そして一瞬ののちに静まり返った。

・・・・・何も起こらなかった。
銃を打った若い警官は体を震わせて、銃をうったままの体制で固まっていた。
歯が震えてカチカチと音をたてながら当たっている。初めて人に向かって拳銃を打ったのだろう。
(カンッ!)
一時あってから、何かが床に落ちる音がした。
その音の鳴った場所を見て、全員の表情が凍りついた。
男はかがみこんでその音の主を拾い上げ、指で挟んでしげしげと眺めた。
それは、拳銃の弾だった。
『まだ分からないか・・・・愚かなやつらだ』
拳銃の弾を指でもてあそびながら言う。
『よし。ではもう一つわかりやすいのを見せてやろう』
そう言って今度はジャケットの内ポケットに手を入れた。
そして男はそこから取り出した。
銀色に光るシールを。
彼は左手の袖をまくった。ひじの下辺りに別の銀色のシールが張り付いていた。
上坂は取り出したシールを台座からはがし、既に貼ってあるシールの上から貼り付けた。
その行為の意味を知っているのは男のほかは矢口だけだった。

男の体の輪郭が崩れた。まるですべての骨が一瞬にして溶けてしまったかのように、体がつぶれかけた。
だがそれはごく一瞬で、すぐに再び形を整え始めた。
そしてその形が固まったとき、その場にいた矢口以外の人間は、その現象の意味が全く理解できずただ呆然と見ていた。
つい先ほどまでの恐怖すら完全に去り、考える力さえも奪い去られていた。ただ呆然と見ているだけしか出来なかった。
男の姿はもうそこにはなかった。
だが、代わりに一人の細身の若い女性の姿が出現した。
いや、出現したのではなく、上坂の姿が変わったのだった。だがそれすらもほとんど全員が理解できずにいた。
そこに立っていたのは、そこにいる全員が知っている顔だった。
『り、梨華ちゃん・・・・』
安倍がつぶやいた。
驚愕する全員を見回した後に、石川梨華の姿をしたそれは低い声でつぶやいた。
『貴様らに・・・・神罰を下す』
そして顔をゆがませて笑った。


----------------□



さながら動く地獄絵図のように矢口の目には映った。
熱風が次々に矢口の肌を焦がした。
そしてその熱風が届くたびに、誰かが燃えて消えていくのだった。
矢口は安倍を背後にかばいながら、ただその光景を見ているだけしかできなかった。
警官達は拳銃で応戦した。だが彼らの撃つ弾はまったく通用しなかった。
当たってもただ跳ね返されるだけだった。体を撃っても、頭を撃っても同じだった。

ある若い警官は机を盾にして応戦した。
だが机が燃やされ、そして無防備になった彼はすぐに燃やされた。
ある壮年の警官は背後に回り込み、スイッチを持っている手に飛びつこうとした。
だが一瞬早く気がつかれ、振り返った<石川>に消し去られた。
その後<石川>は、スイッチをターゲットにされることを恐れ、壁際に移動して壁を背中にした。
そうなるともう警官達に打つ手はなかった。

レストランの中では、燃え上がった人間から燃え移った炎が、机や椅子を燃やしていた。
カウンターの上に並べられたアルコールのビンが割れ、カウンターに流れたアルコールの上を炎が走った。
やがて防火システムが作動し、天井からシャワーが降ってきた。
しばらくシャワーに打たれながら、<石川>は店内に入ってくる外で待機していた警官を燃やし続けていたが、やがて天井のスプリンクラーを睨みつけ、燃やした。炎はその勢いを失ったが、まだいくつかは小さな炎となって残っていた。
そしてそのころには店内には警官の姿はなく、その外にも人の気配がなくなっていた。

丁度戦いが終わったころに、戦いの余波で通電設備が異常をきたしたらしく、照明がしばらく点滅した後に完全に落ちた。
店内は窓から入ってくる外の薄い光と、わずかに残っている小さな揺れる炎によってだけ照らされる薄暗い空間となった。
そこに残っていたのは、矢口と安倍と、そして<石川>の3人だけだった。
3人とも、炎が作り出した「すす」とスプリンクラーのシャワーを浴びて、ぼろぼろの姿になっていた。肌は「すす」で汚れ、服は濡れていた。矢口は身に着けていた変装道具をいつの間にか失っていた。
そして恍惚の表情をした<石川>の横顔が、炎の揺らめきを照り返していた。
矢口はそんな<石川>をただ呆然としてみていた。
自分の大事にしていたものが壊され始めた、いや、すでにもう壊されてしまったのだ。そんな思いに打ちのめされていた。
安倍はその矢口のうしろでうずくまり、ただ震えていた。

<石川>が首を少し左に回して矢口を見た。
そしてその下にうずくまる安倍を見る。
とっさに矢口は安倍をかばった。その矢口の動きを感じ、安倍が顔を上げる。
視線の先に自分をみる<石川>がいた。
『ひっ』安倍は悲鳴を上げた。
だが、<石川>はニヤリと笑ったものの、すぐに安倍から目線をそらしてくるりと背を向けた。
そして店内のカウンターに向かって歩き始めた。
矢口は<石川>の歩く姿を警戒しながら眺めつづける。
<石川>はカウンターの中に入り、カウンターの下にあった冷蔵庫を開けた。そして中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しキャップをあけてごくごくと飲んだ。
『熱を受けると汗が出る。汗が出ると水を飲みたくなる。まったくよく出来た入れ物だ』
ひとしきり水を飲んだ後に<石川>はそう言った。

『梨華ちゃんじゃないのね・・・』
さっきまで矢口の後ろでうずくまっていた安倍がそう言った。
いく分立ち直ったのか、あるいは感覚が麻痺したのか、自分の足で立ち上がり<石川>を見ながら言った。
『そうだと言えばそうだし、そうでないと言えばそうでないな』
<石川>はそう答えた。
『4日前からでしょ。最初の誘拐騒ぎがあって、でも戻ってきたときから』
安倍が<石川>を見ながらそういった。
『ほう。なかなか鋭いね。正解だ』
<石川>は嬉しそうに答えた。
『全然違ってたもの・・・』
『はは。我々はね、さっき見せたシールを使って姿を変えることができるんだ』
<石川>は再びポケットからシールを取り出した。そしてそのシールを腕に貼る。
『ほらこの通り』
<石川>が<亀井>に代わった。安倍は目を見張った。
『ほら』
次は石川のマンションの管理人になった。

最後にもう一枚のシールを貼った。
そして代わった姿は、矢口が現実の世界でだけ見たことがある顔だった。
『上坂・・・』
矢口はそうつぶやいた。それは上坂の現実世界での姿だった。
『俺が最初に消したのはこいつさ。現実世界の自分と同じ姿の奴がいるってのが気に食わなくてね。それになんだか、おどおどしてて気持ち悪い奴だった。その時だよ、このゲームの楽しさを知ったのは』
上坂はそう言って、再びミネラルウォーターに口をつけた。

ミネラルウォーターが空になり、上坂は再びカウンターの下をあさりだした。
だがそれに構わず安倍が聞いた。
『じゃぁ・・・さっきの話も本当なのね?この世界が作られた世界で、あなたと矢口はそれを作ったほかの世界の人間だってことも・・・・』
『そうだよ。なぁ矢口さん?』
上坂はそうからかうように言って矢口を見た。
『・・・・』
矢口は何も答えられなかった。
『私達は人形で・・・あなたたちは神だって』安倍がそういい始めたのを、矢口がさえぎった。
『それは違う!』
『おいおい、嘘はいけないよ矢口さん。安倍さんとは友達なんだろ』
上坂が顔を上げてそう言った。
『矢口・・・』
安倍が本当のことを言ってくれという表情で矢口を見る。
『違うの・・・確かに・・・そう・・・おいらと、あいつは違う世界の人間だよ・・・・』
その告白の辛さに矢口の声はかすれ、目からは涙があふれてきた。
『でも・・・神なんかじゃないし、なっちは人形なんかじゃない。同じ人間だよ・・・変わらないの・・・うまれた世界が違うだけ・・・』
『同じ・・・人間?』安倍がそう聞き返す。
『そう・・・そして・・・同じ仲間・・・』
矢口はほとんど消え入るような声でそういった。
『仲間・・・・・』
安倍は矢口の言葉を繰り返しながら、矢口の言葉を心にしみこませようとしていた。
だが、そんな時間は終りを告げた。

『あった!』
上坂がそう叫んだ。
矢口と安倍はそちらに目をやる。
薄暗い部屋の中、上坂が嬉しそうに笑うのが見えた。
そして手元が炎を照り返してきらりと光った。
上坂が持っているのは、大きな調理用のナイフだった。

やはりそれが上坂の目的だった。
矢口は再び安倍の前に体を移動し、安倍を守る体制に入った。
『なっち、絶対動いちゃだめだよ・・・』
背後にいる安倍に向かってそうつぶやいた。
『な・・・・なに・・・・?』
安倍が不安だけで出来たような声をだす。
上坂は手に持ったナイフをじろじろと眺め回していた。
『うん・・・いい感じだ。これならさぞ肉への通りもいいだろう』
上坂の目は炎を照り返して狂気に揺れていた。

この前と同じ状況だと矢口は思った。
だけど、今度は絶対に仲間を守る。
矢口は手をジャケットの内ポケットに入れて、そこに入っているものを確認する。
ちゃんとある。この前とは違う。
そしてもう他に手は無い。これが・・・・・最後だ。

『さて、セカンドステージといこうじゃないか。さっきのゲームでアドレナリンが出まくってるみたいでね。素晴らしい気分だよ。こんな楽しいゲームは現実の世界じゃ絶対に味わえない。まさに最高のエンターテイメントだ』
上坂はそういいながらカウンターから歩き出した。
『だが、やはり超能力まがいの方法よりも、直接手を下すほうが興奮するようだ。見てみろよ、手が震えてきたよ。いまだに昨日の感触が忘れられないんだ。あの瞬間の感触がね』
そして、手に持ったナイフを突き刺す動作をした。
『・・・まさか・・・矢口・・・』安倍が震える声でそう言った。
矢口は何も答えられなかった。
その沈黙が、安倍にとっては答えになった。

上坂がカウンターから出て、段差を降りてゆっくりと近寄ってきた。
これ以上近づけるわけにはいかない。
『もう終わり・・・』
矢口は上坂を見据えてそう言った。
『終わり?』
上坂は立ち止まり、怪訝な顔で矢口を見た。
『もう終りにしましょう』
真剣な表情で語るように言った。
『何を言ってるんだ?』
『こういうこと』
そして矢口は右手を上坂のいる方向に向かって差し出した。指の間にネット切断スイッチがあった。そのボタンに手をかけた状態で手を水平に伸ばし、上坂に示した。
『なんだ・・・それは?』上坂は少し警戒の色を表情に浮かべた。
『あなたを・・・・殺すボタン』
矢口は無表情に、そして冷たい声でそう言った。

『な・・・』上坂は唖然とした。
『できれば押したくはないの・・・・だから・・・・帰って。自分の世界に』
矢口は上坂を見てそう言った。
『な・・・そんなバカな。俺の真似をしているだけだろう?俺と同じプログラムを作ったとでも言うのか?そんなわけがない』
『同じプログラムじゃないわ。これはただ、この世界を、mシステムを、外部から隔絶するだけの機能を持ったボタン』
その言葉に上坂はしばし何かを考えたのち、合点がいったようにつぶやいた。
『そういうことか・・・いちいちあんたがリンクアウトしなくても、俺を消してすぐにネットの接続を切れるようにってことだ。確かにそのほうが合理的だ』
そしてさらに続けた。
『そして俺がまだリンクインしている時に使えば・・・・きっと俺を殺せる。現実世界の俺ごと・・・・・』
そこまで言って上坂はあわてた。
『ちょっ!ちょっと待て!そ、それはいかんだろ。そ、そんなことをしたら・・・お前・・・・・犯罪者になるぞ』
『そうね』
矢口は表情を変えずに答えた。
『でも、もう他に手が無いのなら、おいらはそうする。これ以上、おいらの仲間は消させない』
そして決意をみなぎらせた表情で上坂を睨んだ。


矢口のその表情に一瞬ひるんだ上坂だったが、やがて空いている左手の方をポケットに入れて向き直った。
『条件は一緒だぜ・・・・』
上坂は再び挑戦的な目に戻り、矢口をみてそういった。
『俺が今この左手の中にあるボタンを押せばあんたは炎に包まれて消える。消去機能が妨害されているこの状況では緊急脱出機構が働かない。よって体が死んだという信号を現実世界の脳は正直に受け取ってしまい、やがて脳は自殺する。お互いが相手を殺せる武器を持っているんだ。状況は一緒だ』
『あなたにできるの?』矢口は臆することなくそういった。
『な・・・なんだと!?』
『あなたにそのボタンは押せない。自分が殺人犯になってしまうというリスクを負えやしない。なぜならあなたには何も守るものがないから。』
『何を言ってるんだよお前は』
『おいらには守るものがある。だから・・・・このボタンを押せる。たとえそれで犯罪者になっても、おいらは構わない』
『お、お前は馬鹿か!?よく考えてみろ、相手はプログラムだぞ。いくら殺しても俺達の世界では罪になりゃしない人権のない人形だろ?そんなものを守るために犯罪者になるっていうのか?』上坂は狼狽して答えた。


『ごめんね、なっち』
矢口は背後で、ただ事の成り行きを見ているしか出来なかった安倍に向かって言葉をかけた。
『でも・・・・おいらにとっては、なっちは、そしてこの世界のみんなは、大事な大事な仲間だからね。・・・お願い・・・信じて』
『・・・・・うん』
「うん」というその一言が、今の矢口にとってはこの上もなく嬉しい言葉だった。


にらみ合いが続いた。
お互いにボタンに指をかけたまま動けなかった。
それはあたかも核兵器のボタンをもってにらみ合っている戦争と同じ状況だった。
だが、そんな冷戦も終りを告げた。
『わかったよ』
上坂がそう言って、左手をポケットから出した。そしてお手上げだというポーズを取る。
『狂ってるやつには勝てない』
そして右手に持ったナイフをすぐそばにあった半ば焦げたテーブルの上に置いた。

矢口は表情と体勢は変えず、ひきつづき上坂を警戒していた。
だが心の中では、やっと緊張から開放され安堵していた。
(よかった・・・・うまく行った・・・・)
本当のところ、矢口は自分の持っているボタンを決して押すわけにはいかなかった。
自分がこのボタンを押せば上坂を追放することはできる。だがきっと、自分は犯罪者として逮捕され、長期間この世界にリンクインすることができなくなってしまう。
そうなればこの世界は滅びてしまうと教授は言っていた。この世界は自分抜きでは成り立たない世界なのだと。
だから、押すわけにはいかなかった。つまり「ハッタリ」だったのだ。
だが、そのハッタリしか矢口には手がなかった。
ひょっとしたら教授は、自分が犯罪者になることもいとわずに上坂を殺そうとしてしまうんではないかと予感したのではないだろうか。だから急いでそのことを自分に教えたのではないだろうか。今、この状況の中で、矢口はそんなことを思った。

『それでどうすればいいんだ』
上坂が矢口にそう聞いた。
『消去機能の妨害プログラムはここで解除できないの?』
『無理だ。あれは現実の世界でしか解除できない。だがお前の部屋まで戻る必要は無い。あの阻害プログラムの効果はこの六本木地区を中心として半径5kmのエリア内だ。その範囲より外に出れば消去シールは使える』
『じゃあそこまで一緒に出るの。あとは、あなたが考えている通りよ』
『なぁ、接続を切るってのは勘弁してくれないか。お前達にはもう手を出さないからさ。お前の目の届かないところで遊ぶだけにするよ。それでどうだい?』
『信用できない』矢口は一瞬たりとも考えることなくそう答えた。
『ちっ』上坂は舌打ちをした。
こんな男を信用できるわけがなかった。

『でもどうやってそこまで行くんだ。外は警官がうようよしてるんじゃねーか』
上坂がふとそう言った。
『それは・・・・』
確かにそうだった。
これだけの騒ぎだ。外では警官、機動隊、それらがものものしい態勢で待っているに違いない。
いや、今この瞬間にも、この店内へ突入する機会をうかがっているのかもしれない。
矢口はレストランの入り口を見た。
相変わらず停電が続いていて、うっすらと廊下の壁が見えるだけだ。このフロア全体から人の気配が無い。
『これを使えばいいんだよ。近づいてくるもの全部燃やしちまえばいいんだ』
上坂がポケットからパイロキネシスのスイッチボタンを取り出した。
『そうね・・・その手があったわ』
矢口は同意した。
『えっ!?』
安倍が驚きの声をあげた。
『だろ』上坂はそう答える。
『違うよなっち。人は燃やさない。警官の人たちが持っているものを燃やせばいいの。そして牽制しながらここから離れればいい』
矢口は安倍を一瞬振り返ってそう言った。
『おれはそんな面倒くさい作業はいやだぜ』
上坂が嫌そうな表情でそう言った。
『おいらがやる。そのスイッチを頂戴』
矢口は空いている左手を前に差し伸べた。
『わかったよ』


このとき矢口は、表向きは緊張を装いながらも、心のどこかで油断していた。
この5日間続いた緊張を考えれば無理も無いことであるが、それらが終りに近づきあることで緊張の糸が少し弛んだのだった。
だから、上坂が自分にスイッチボタンを渡すべく近づいてきた時に、彼がにやりと笑ったことに気がつかなかった。
いきなり自分の右腕を強い力でつかまれた後になって初めて、警報が矢口の頭にたどり着いた。
そしてその遅すぎた警報は、矢口から判断する時間を失わせた。
上坂のもう片方の手が矢口が持っているスイッチボタンにのびようとした瞬間、矢口は反射的に持っているボタンを押してしまった。

(カチッ)
ボタンが押される音がした。
『はっ!』
『あっ!!』
矢口と安倍が同時に叫んだ。
そして上坂は矢口の腕をつかんだまま動きを止めた。
表情もいやらしい笑いを浮かべたままで固まっていた。
そしてその体は徐々に空間に溶けていこうとしはじめた。
矢口は、自分のやってしまったことに呆然とした。
取り返しのつかないことをしたと瞬時に思った。
だが、それもその一瞬のことだった。

空間に溶けていこうとした上坂の体であるが、それもほんのコンマ数秒の間だった。
すぐに同じ過程を逆に辿って、もとの体に戻った。
そしてその瞳に再び光が点り、固まっていた笑顔が、ますます破顔したものとなっていった。
そして矢口をつかんでいた腕を放し、彼女の体から一歩体を引いた。

矢口と安倍は驚愕の表情で上坂を見た。
『そんな・・・』
矢口はただそうつぶやくしかなかった。
『ふふふ・・・押した・・・・押したな、確かに・・・・はぁーはっはっは!!』
上坂は体をそらせながらこの上なく喜んでいた。
『記録したよ確かに、今君がそのボタンを押したことはね、俺のデータに記録させてもらった』
『ど・・・どうして・・・なんで・・・』
矢口は分けも分からず、ただ狼狽していた。
何故上坂は消えないのか?何を彼は喜んでいるのか?
そんな矢口を見て、上坂は得意そうに語る。
『全くいつも君は俺の思う壺だな』
『思う・・・つぼ・・・・』
『そうだよ。いつも君は俺の思うとおりに行動してくれる。俺はな、君にそのボタンを押させたかったのさ。そうすれば君は殺人未遂という名の罪を持つ犯罪者であり、宗像はそんな犯罪者の上司だ。その状況を作りたかったんだ。これで俺もかなり好きにできるようになる』
『脅迫・・・するつもりなのね』
矢口は強いショックの中、なんとか声を絞り出した。
『協力してもらうだけさ』
そういって上坂は笑った。
『・・・なんで』
矢口には上坂が消えなかったこともわからなかった。
『そんな有線ライン一本で命のからむ通信をするなんて愚かなことを俺はしないよ』
矢口の疑問に答えるように上坂が説明を始めた。
『あの研究所にはそこかしこに俺がこっそりと設置した無線システムがある。だから君がさっき遮断した通信路が切られたところで、別の無線システムが通信を受け継いでくれるんだよ』
『まぁ、無線システムを構築するのは少しばかり苦労したがね。いくら俺でも、mシステム本体とそれに直結した端末PCに直接細工しないと無理だった。だから2度ほど夜中にこっそりと研究室に忍び込んだんだよ。あいつはずぼらな性格だからそれは簡単だった。外部ネットワークからの防壁はえらく頑丈に作ってあるくせに、物理的侵入に関してはてんで無防備だってんだから、迂闊としかいいようがないよな。そうそう、君と鉢合わせしそうになったこともあるんだぜ。夜中突然君が研究室に入ってきたときはびっくりしたよ。なんとか部屋の隅に隠れてやり過ごすことができてほっとしたもんだ』
その時、もし自分が上坂を見つけていれば、何かは変わったのだろうか?
徐々に絶望が支配しだした頭の中で、矢口はなんとなくそんなことを考えた。

『しかしまぁ、少々難しい作戦だったとは思ったんだがね』
上坂は得意になってしゃべり続けた。目標を達成した高揚感で一杯のようだった。
『なんせ、それを押せば君は犯罪者だ。よっぽどの状況を作らないとボタンを押すことはあるまい。昨日、あの小さな女の子を刺したときもそれが目的だったんだぜ。ナイフで刺すシーンを見せるなんて残酷なことをすれば、君はパニックになってボタンを押すんじゃないかと思った』
加護のことだ。
『だがそれは失敗した。君はただ泣きじゃくるばかりで、俺への怒りとか復讐とかそういう感情に支配されてくれなかったからな。だから手を変えた。まず君とおそらく一番仲がいいだろうと思う相手を呼び出し、彼女の命への危機を煽ることにした。そしてさらに、俺と君とが別世界の人間であることをばらすことで、スイッチボタンを出すことの抵抗感をなくさせた』
『あとはそのスイッチボタンを奪おうとすれば君はきっと反射的にでも押すだろうと思った。そのためにはそれは出来るだけ突然起きたほうがいい。だから一度君の緊張感を解いてあげることにした。俺が一旦君になびいたのがそれだ』
上坂は己の作戦の完璧さに惚れ惚れとしているかのようにそう語った。
だが、よく考えればそれはたいした作戦ではなく、たまたまうまく行っただけで基本的には偶然に頼った作戦である。
矢口の「ハッタリ作戦」とさして変わる物でもない。
だが、打ちのめされた矢口にそんな風に事を捕らえる余裕はもうなかった。
上坂を出し抜く方法を考えることも、これからのことを考えることもなく、ただ絶望のふちで暗い深遠を見つめていた。

『そうそう』
そういって上坂は傍らのテーブルの方へと目を移した。
『たしかに昨日あの子を刺したのは作戦のためだったんだかね・・・・』
そしてテーブルにあったナイフを再び手に取った。
その目には再び狂気が宿っていた。
『人を刺すという体験は・・・・・・病み付きになりそうだよ』
そして安倍を見た。

安倍は上坂がこれからやろうとしていることを感じ取り、身を固くした。
だが、動かなかった。いや、動けなかった。
体は後ろに下がろうとするのだが、まるで足が床から生えているように動かなかった。
ただ恐怖の表情で上坂を見るだけしか出来なかった。

矢口はただ呆然とその光景を見ていた。
もはやこの世界は自分のものでも、この世界に住む人間達のものでもない。上坂のものになってしまったのだという思いに、ただ沈んでいた。
上坂がナイフをもつ姿を見ても、何かをしなければという思いよりも、ただ漫然と「昨日同じようなシーンを見たな」と思うだけだった。感情が麻痺していた。

上坂が動き出した。安倍のいる方向に向かって一気に走り寄ろうとしていた。
手にはナイフを持ち、それを体の前で両手で握っていた。
上坂が動き出した瞬間、矢口は加護を失ったときの情景を思い出し、一瞬にして麻痺から解き放たれた。

安倍を守りたいと思った。
そして、今の無力な矢口にできることは一つしかなかった。

矢口は目指す方向に体を躍らせた。


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矢口は、今回は確かに音が聞こえたなと思った。
刃物が人の体に入っていく音を。
だがそれは鼓膜の外側というよりも、その内側から聞こえてきた。
矢口は視線を下にやった。

そこに上坂のもつナイフが自分の胸の中央に刺さっているのが見えた。
その光景に驚きも後悔もなかった。

上坂は信じられないという目つきで自分の手と、そしてその手が握るものが刺さっている場所を見た。
そしてナイフから手を離し、よろよろと後ずさった。
その目を支配する感情は、狂気でも恍惚でもなく、狼狽だった。

安倍は目を閉じて体を固くしていた。だから何が起こったのかしばらくわからなかった。
目を開けると自分の前で上坂がうろたえていた。
そしてその上坂と自分の間に、自分よりも身長の低いその娘がはさまるように立っていた。
何が起きたのかすぐには理解できなかった。だが上坂がうろたえながら後ずさるのを見てその意味を理解した。

『矢口!!』
安倍はそう叫び、矢口の背中に飛びついた。
その瞬間、矢口の体は安倍の方へと倒れてきた。
安倍は矢口を受け止めつつ、矢口の体の正面をみた。そこには深々と大きなナイフが刺さっていた。
刺さっている場所のシャツが急速な勢いで赤く染まり始めていた。
『や、矢口・・・・』
安倍は呆然とそうつぶやくしかなかった。
矢口の足は立つ力を失い、安倍に体を預けつつ沈み込んで行った。
安倍は懸命に矢口の体重を支えながら、自らは床にすわり、
矢口の体を床に横にして、その頭を自分の膝にかかえる格好になった。
『矢口、矢口、しっかりして!』
大粒の涙を矢口の顔に降らせながらそう語りかけた。

『だ、大丈夫だよ・・・なっち・・』
矢口は懸命にそう答えた。
かつて味わったことが無い突き抜けるような痛みが自分を襲っていた。
そしてその痛みに意識が朦朧としそうになるのを、必死に堪えていた。
自分は絶対に死ぬわけにはいかないのだ。
自分が死んだらこの世界も終わってしまう。この世界に住むすべての人々も死んでしまうのだ。
だから、自分は生きなくてはならない。
そんな必死の思いを胸に安倍を見た。
そんな生きようとする矢口の思いを感じ取ったのか、安倍は表情を引き締めてうなづいた。
安倍は顔を上げ、
『誰か!誰かいませんか!!お医者さんを呼んでください!!!』
大きな声で必死に叫んだ。

だが答えはなかった。
安倍は何度か出せる限りの大声で助けを呼んだ。
だが、このフロア全体に人の気配が全くなかった。安倍の声はむなしく空間にこだまするだけだった。
やがて、部屋の隅で手を震わせていた上坂が声を出した。
『お・・・お前、馬鹿だろ・・・・な、何を考えてんだ・・・・』
それは安倍ではなく、矢口に向かっての言葉だった。
『い、今ここで死んだら、本当に死ぬんだぞ。現実の世界のお前も。なのに・・・なんでそんな人形を守るために・・・』
安倍は上坂をにらみつけた。
『人形じゃない・・・・』
安倍が上坂に何かを言おうとしたとき、矢口が弱々しい声でそう言った。
『人形じゃないよ・・・・』
それは矢口の安倍に向かっての言葉だった。
安倍はそんな矢口にむかって何度がうなづいて見せた後に、上坂に向かって言った。
『ちょっとあんた!お医者さんを呼んできて!!早くっ!!!』
その命令口調に押されるようにして上坂が答える。
『そ・・・そうだな。こ、こいつに死なれちゃ俺も困る。犯罪者にはなりたくない・・・・わ、わかった』
そしてレストランを出ようと足を踏み出した。

だがその時、上坂の足が止まった。
上坂は呆然とした表情で立ち尽くしていた。
その視線の先にはただこのビルの窓からみえる夜景があるだけだった。
『何やってんのよ!早く!!』
安倍が叫ぶ。
だが、上坂は動かずに夜景を見ていた。
そしてつぶやいた
『消えた・・・』

『な、何を言ってんのよ!』
叫びつつ安倍は上坂が見ている先の夜景を見た。
なんら代わり映えしないいつもの東京の夜の光景だ。
たくさんの高層ビルが立ち並び、夜空を背景にきらきらと光っている。その下には、車のヘッドライト、民家の明かり、さまざまな光がじゅうたんの様に敷き詰められている。
だが何か違和感を安倍は感じた。いつもと少し違うような・・・・・・。
そんな風に訝しげに外を見ていた時だった。東京タワーの向こうに見えていたレインボーブリッジが・・・・・消えた。
『えっ?』
そんな馬鹿な。
安倍は改めてさっきまでレインボーブリッジがあった場所を凝視した。だがそこには何もなかった。
明かりが消えたわけではない。橋そのものがそこからなくなっていた。
『・・・・なに?』
安倍は自分の見たことの意味がまるでわからなかった。
しばらく目をしばたいた後、少しでも事情を知っていそうな上坂に聞こうと視線を戻そうとしたとき、再び視界の隅で変化が起こった。
大手町にたっていた高層ビルがまるごと消えうせた。
『は?』
『ほら見ろ!』上坂も叫んだ。
そしてそのビルの根元で、土ぼこりのようなものが次々に上がるのが隣のビルの明かりに照らされてかすかにうかがえた。

『落ちたんだ・・・物や・・・人が・・・・』上坂がそうつぶやいた。
『な、何?どういうこと』と安倍。
『建物が丸ごと消えた。だからその中にある物や人が地上に落ちたんだ・・・・』
『そ・・・そんな・・・・』
『だが・・・なんで・・・・』

『ぐっ!!』
その時矢口が悲鳴を上げた。
体全体が悲鳴を上げていた。
供給しても次々に外へ流れ出てしまう血液の流れに、その心臓は最後の足掻きをあきらめようとしていた。
『矢口!しっかり!!』
安倍が声をかける。
『ま、まさか・・・・西田!どういうことだこれは、外でものが次々に消えているぞ、これは何だ!?』
上坂の声も悲鳴になっていた。
『この世界は・・・おいらがいなきゃ・・・続かない・・・』
矢口は脂汗を流しながらそう答えた。
『なっ!?なんだそれ!そんなの俺は知らんぞ!』
『おいらが死んだら・・・おしまい・・・・』

上坂の表情は蒼白となった。
ということは、このままこの世界にいれば、自分も消えて死んでしまうということか。今は自分が作った妨害プログラムのせいでこの世界からリンクアウトできないからだ。
そもそもこの世界のリンクインシステムは一定以上の身の危険が迫れば自動的に被験者を脱出させるようにできているので、ここで息絶え絶えになっている彼女もとっくに自動的にリンクアウトしているはずだったのだ。だがそれを自分のプログラムが妨害している。
『ま、まずい・・・やだぞ・・・俺はこんなところで死にたくないぞ・・・・』
上坂はそうつぶやきながら後ずさる。足が何かに当たってバランスを崩しそうになったが、とっさに隣にあったテーブルに手をおいて体を支えた。
だが一瞬のち、そのテーブルが消えた。
上坂は支えを失って無様に転んだ。
『ひーーーっ!』
恐怖に顔をゆがめた上坂は急いで立ち上がって走り出し、店を出て行った。
『ちょっと!!!』
安倍がそう叫んだが、上坂はそのまま姿を消した。

上坂が走り去る足音が遠ざかり、レストランの中に響く音は、矢口の荒い息使いだけになった。
どこか遠くから低い響くような音がした。
おそらくまたどこかで建物が消え去り、そこにのっていたものが落ちたのだろう。
カウンターの棚の上にあるワインやグラスが消え始めた。
窓から見える夜景からは東京タワーが消えていた。


『ごめんね・・・・』
矢口が安倍に向かってそう言った。
『何を謝ることがあるんさ。しっかりして矢口。絶対だれかがすぐに来てくれるから』
安倍はそう言って矢口を元気付けようとした。
だが矢口は力なく首を小さく振った。
『ごめん・・・・・おいら・・・・・・もうだめみたい・・・・・・』
『そんなこと言わないでよ矢口!』
『・・・・・おいら・・・・・・みんなを連れていっちゃう・・・・・・なっちも・・・・・みんなも・・・・・・ごめんね・・・・・』
大粒の涙が矢口の目から零れ落ちた。
それは痛みとか、死の恐怖とかそういう種類の涙ではなかった。
ただ矢口は悲しかった。
自分がこの世界のみんなを道連れにしてしまう事が。
『ごめんね・・・・・・』
『やぐち・・・・・』
『ごめん・・・・・・』
『・・・・・・置いていかれるよりもいいよ』
安倍はそう言って矢口に微笑みかけた。目に涙は浮かべていたが、いつもの安倍の笑顔だった。
矢口はその笑顔をみて少し救われた気持ちになった。

『でも・・・そっか・・・私達ってプログラムみたいなものだったんだ・・・ふふ・・・知らなかったなぁ』
安倍は最後の思い出話をするかのようにそう言った。
『なんか映画の話みたいだね。矢口と一緒にみた映画に確かそんな話があったよね』
『違うよ・・・』
『え?』
『・・・違う・・・なっちは、みんなはプログラムでも人形でもない・・・・おいらにとっては・・・大切な仲間・・・・』
そういって矢口は安倍の手を取って握り締めた。
安倍もその手を握り返す
『うん。わかってるよ。それにいいじゃない?人形だって』
矢口は「え?」という表情で安倍を見る。
『人形だってプログラムだってそんなのどっちでもいいよ。だってなっちは・・・・・生きてるんだから』
矢口はしばらく安倍を見ていたが、安倍がそう言ってから涙ながらに矢口に笑いかけるのを見て、軽くうなずいた。
今回の一連の事件が始まって以来、心の隅で悩んでいたこと、疑問に思っていたことがすべて氷解したように矢口は思った。
やっとわかった。
命はたんぱく質だとか元素だとか、そんなものの組み合わせだから生まれるってものじゃない。
命は、心から生まれるものなんだ。
『ありがとう・・・なっち・・・・』
矢口は笑顔でそういった。
『いままで・・・ありがとう・・・・』

そして矢口は目を閉じた。
安倍の手を握っていた手から握力が消え、
そしてもう片方の手が力なく床へと落ちた。

『やぐち・・・』
安倍は矢口を抱きしめた。



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