「M」

第14章 side-A


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沈黙が続いた。
矢口は責めるような目で<石川>を見続けた。
彼女は視線を上げず、しばらく何かを考えているようだった。

やがて、<石川>が表情を崩し『ふっ』と声を発して苦笑した。
『なるほどね』
彼女は独り言のようにそう言った。
矢口はただ黙ってみていた。
『やられたな。そうだよな、あんたも匂いを嗅げないんだ。それなのにラベンダーの匂いがどうこうと言い始めた時点で気がつくべきだったんだよな。あまりにあんたが自然なんですっかり騙されたよ』
<石川>の口調はもはや完全に以前の彼女のそれではなかった。
『伊達にタレントなんかやってないってところかい?ははははは!!』
そして表情をゆがめ大きな声で笑い始めた。
それでも矢口はただ黙ってこの相手を見つめていた。
<石川>と全く同じ姿をしたこの相手。だけど今は表情もしゃべり方はまったく違うこの相手。言いようのない強烈な嫌悪感を感じていた。

『なんで分かった?』
ニヤニヤと笑いながら<石川>が矢口に聞いた。
矢口がやっと口を開く。
『梨華ちゃんはあんたなんかとは違う。仕事でミスしても平然と笑ってたり、自分を守ってくれてる人を邪魔扱いしたりしたり、そんな人間じゃない』
『ふ〜ん・・・・まぁ確かにそんな人間ではないわな。所詮コンピューター上のプログラムだもんな。人間ではないよな。ははは!』
『違う!!』
思わず矢口は怒鳴っていた。
相手もその気配に少したじろいだ。
だがすぐに立ち直り、
『何を怒ってんだお前?』
と心底意外そうな表情で矢口を見る。
『・・・・』
その質問に矢口は答えたくなかった。いや答えることができなかったのかもしれない。教授が自分を馬鹿にしていた時のことを思い出したからだ。
『そっか、あんたこの世界の人間もどきに結構入れ込んでるんだよな。この石川梨華だっけ?この娘がいなくなったときのうろたえっぷりったらなかったもんな』
矢口は、なぜこいつが自分のうろたえっぷりをさも見てきたかのように言えるのかと疑問に思った。だがまずその前に、どうしても聞いておかなくてはならないことがあった。
『梨華ちゃんは?』
『は?』
『梨華ちゃんはどうしたの?本物の梨華ちゃんは?』
『そんなのあんたが知ってる通りだよ』
『・・・・』
絶望的な答えだった。予想はしていたが、一番聞きたくない答えだった。
『そう、デリートされたんだよ。跡形もなくな。現実の人間のように骨になって残ることもない。全くの跡形もなくだ。ははは』
この相手のいやらしい笑い声を聞きながら、矢口の心にやっと、石川はもういないんだという実感がわいてきた。それはどうしようもなく悲しく、寂しい気持ちだった。矢口の中では石川はやはりプログラムでもなんでもない。一人の、かけがえのない友達であり、仲間だった。

『あなたがやったの?』
矢口は憎悪の気持ちを隠そうともせずに相手に尋ねた。
その矢口の表情を見て<石川>はむしろ喜んでいるかのように見える。
『そうさ。エレベーターの監視カメラにうつっていただろう。あのときに消したんだ。このシールを使ってね』
そしてポケットから数枚のシールを取り出して矢口に見せた。
銀色に光る5cm四方程度の正方形の小さなシール。色と形は多少違うが、それは矢口が教授からもらった消去シールとほぼ同じものだった。
『このシールをこの世界のオブジェクトに貼ると、おや不思議、そのオブジェクトはこの世界から消えてしまうんだ。それが何であろうとね。どうだい、なかなかいいものだろう。よければ君にもあげるよ。君にも使えるぜ』
<石川>はそう言ってシールを矢口に差し出した。
どうやら自分が同じものを持っていることを知らないらしいと矢口は思った。
『いらないわ』
矢口はそっけなく答えた。
『おや、そうかい』

『なんでこんなことをするの?その前にそもそもあなたは誰なのよ?』
矢口は相手を詰問する。
すると今度は相手が本当に驚いたという顔をした。
『は?なんだ俺のこと知らなかったのか?』
『え?』
その答えに矢口も驚いた。
『なんだよ。とっくに俺が誰なのかなんてばれてるって思ってたんだけどな。なんだ知らなかったのか』
『なんで私があなたのことなんて知ってるのよ!』
『いや〜知ってると思うぜ。一時期は仲間だったじゃないか。なぁ・・・・ノッポの西田さん?』
自分の現実の世界の名前を呼ばれ、矢口は身を固くした。それはこの世界で一番聞きたくない言葉でもあったかもしれない。
だがそれを知っているこの目の前の相手は誰なのだ?
『仲間・・・・・・』
そして矢口の中で一人の男が思い浮かんだ。
『まさか・・・・上坂さん?』
『正解!』
そう答えて、石川の姿をした上坂は嬉しそうな表情をした。


矢口は研究室の先輩だった上坂のことを思い返した。
矢口の現実の世界の姿である西田が大学4年の春に宗像の研究室の所属となったとき、上坂は大学院の博士課程の2年目の学生として宗像の研究室に所属していた。
宗像の研究室の唯一の学生だった彼の印象は、ただ無口で暗い男というものだった。他の人間と交流することが苦手らしく、西田ともあまり話はしたことがなかった。友人もほとんどいないようで、ただコンピュータをいじることだけが楽しいような典型的な「コンピュータオタク」というイメージが矢口にはあった。痩せぎすで生気がなさそうな外見もその印象に拍車をかけていた。
上坂は西田が研究室の所属になって半年後に、宗像によって研究室を追い出された。詳しい理由を西田は知らなかったが、どうやら研究室のコンピューターを悪用してコンピュータウィルスをばらまいていたらしかった。
西田は上坂とほとんどしゃべったことがなかったので、今目の前にいるべらべらとしゃべる相手と少しイメージが合わないなと思った。だが、仮想世界の中という状態が、彼をこのようにしているのかもしれない。普段はおとなしいのにネット上だとやたらと威勢がよくなる人間と同じタイプなのだろう。
そして今目の前にいるこの上坂の印象こそが、彼の本当の内面の姿だといってもいいのかもしれない。


『あなたが・・・』
『考えてみれば分かりそうなもんだろ。この世界に無断で立ち入ることができそうな人間なんて俺くらいなものじゃないか。そもそもmシステムの基本設計にだって俺はかかわっているわけだからな。宗像だって俺の力無しではこのシステムは作れっこなかったんだよ』
確かに彼は非常に優秀だった。彼が宗像教授の研究室にいることができたのは、私のようにただ真面目だからという理由ではなく、教授についていけるだけの頭脳をもっていたからだと矢口は知っていた。
『どうやって入り込んだんですか・・・この世界に・・・』
『秘密』
『だって、入り込めるはずがない!教授だってそう言ってた!』
『でも俺は今ここにいる』
『・・・・』
『そうだろ?』
研究室にはリンクインカプセルはただ一つしかない。なのになぜ彼がこの世界に入り込めるのだ。
可能性としては・・・・リンクインカプセルが他にもあるということだろうか。それが、mシステムに繋がっている・・・・・とすればネット経由か。そういえば上坂のハッカーとしての腕も一流だったと聞く。
そんな風に矢口が考えていると上坂が再び話を始めた。

『さっき、なんでこんなことをするのかって聞いてたよな。最初はな、俺もこの世界をただ楽しんでただけなんだ。
そりゃおもしろかったよ。嗅覚以外はなにもかも現実世界と同じなんだぜ。
人間は人間らしく振舞うし、雨が降り、こちらの世界だけのTVが流れ・・・もう何もかも現実と区別なんかつきやしないさ。
向こうの世界じゃできないことを色々やったよ。万引きしたり、街でナンパしたりさ。この俺がナンパだよ。信じられるかい?ははははは』
確かに現実世界の上坂にはそんなことは出来ないだろうと矢口は思った。
『だけどな、そのうち現実の世界と同じ事をやってるだけじゃつまらなくなってきたんだ。
そんなことは現実の世界でもその気になればできることじゃないか?そうだろ。
そして、こちらの世界でしかできないことが何かないだろうかと考えた。すぐに思いついたよ。
それは・・・・神になることさ』
上坂は自分の演説に酔っているように見えた
『何かプログラムを仕込めばいいんだよ。そして俺にしかできないことをやるんだ。それで作ったのがこのシールさ。
これを使って意のままにオブジェクトを消す。面白いぜ。ハチ公を消したときの群集のどよめきは滑稽だったよ。
だがな、群集って言っても所詮は人形だ。やつらの驚く顔を見るのにも飽きてきてな』
矢口は上坂が言おうとしていたことを先回りして言った。
『だから・・・・人を消すことにした・・・・』
『ということだ。これが人形とはいえおもしろくてな。消える瞬間に「意味がわからない」って顔を一瞬して消えていくんだぜ。
シールを貼ってからオブジェクトが消えるまでには1秒程度のラグがあるんだが、そのときのやつらの表情がなんともおもしろいんだ。事の状況なんてわかってないはずなのに、何でなんだろうな。まるでこれから起こることを予感したようなそんな顔になるんだぜ。これには興奮したよ』
ゲスが・・・・・矢口は心の中でそうつぶやいた。
『ま、そういうことだ。何もこの世界をぶち壊そうなんて思っちゃいない。俺は俺で勝手にこの世界で好きに遊ぶだけだ。だからお互いうまくやっていこうや』

だが、そんな言葉を信用できるわけがなかった。今の上坂の言葉には矛盾がある。
『なんで・・・』
『ん?』
『なんで梨華ちゃんだったの?』
『あぁ、それね・・・・ふふ』
上坂は嫌な笑いを浮かべた。矢口の背中に悪寒が走った。
『今俺がやってることは一種のショーだと思わないかい?どんなマジシャンにだってできない最高のショーだと思うんだよ』
くだらないことを言う・・・・矢口はそう思った。
上坂が続ける。
『そしてやっぱりショーには観客が必要だろ。そう、この世界には一人しか観客がいないんだよ・・・・・矢口さん、君だ』
『くだらない!!』
矢口は怒鳴って立ち上がった。
だがそれには構わずにさらに上坂は続ける。
『そうそう、そういえば2回目のショーはもう始まってるんだった』
『えっ!?』
『さっき警察の護衛を巻いて、俺がどこに行ってたと思う?』
『・・・・まさか』
嫌な予感に矢口は恐怖した。
『ちょっと千葉の方までね・・・・君と同期だったよな?市井っていうんだっけ?いや、もう苗字が変わってるんだったか』
『さ、紗耶香!紗耶香に何したのよ!?』矢口は怒鳴った。
『本人に聞いてみれば・・・・・・まぁ・・・・聞けたらだけどね』
そして<石川>は薄気味悪く笑った。



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