「M」

第13章 side-A


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マンションの前にタクシーが横付けされた。
矢口はそのタクシーの内部を目を凝らしてみてみる。
そこには石川がいた。
石川は支払いを済ませると、車を降りて、マンションへと向かう。
そして正面玄関のガラス戸の向こうに矢口の姿を見つけてびっくりした表情になった。

石川の姿を認めて管理人がドアを開く。
そして石川が笑顔で矢口に話しかけようとしたときに、矢口のとなりにいた2人の男女の私服の警官のうちの男性の方が、先んじて石川に話しかけた
『護衛のものはどうしたのですか?2人ついているはずですが』
護衛の姿が見えないことをかなり怪訝に思っている表情だ。
だが、
『あぁ〜えっと、どうしたんだろ?わかんないや』
石川は軽く答えた。
『わかんないって、石川さん!』
女性の方の警官がとがめるような口調で言う。
この2人の警官は矢口の護衛としてついている。そして現在、新旧娘。メンバー全員に警察の護衛が2人ずつついているはずで、それは石川も同じであるはずなのだ。だが、石川の近くにその護衛の姿が見えなかった。
『なんかはぐれちゃったみたい。だからタクシーで帰ってきたの。真里っぺはどうして?』
石川は話をそらすように矢口に聞いた。
『・・・・・ちょっと梨華ちゃんに聞きたいことがあってね』
矢口は真面目な表情でそう答えた。
『ふ〜んそう。じゃぁ部屋にいこっか』
『そうね』
矢口はそう答えた。


『なんか監視されてる感じでやだね』
マンションの部屋に入るなり石川は矢口にそういった。
部屋の前までついてきた矢口の護衛の2人も、部屋の中までは入ってこなかった。二人はいま部屋の前で立っているはずだ。
『監視じゃないよ、護衛してくれてるんだよ。そんな言い方しちゃだめだよ梨華ちゃん』
矢口がとがめるような口調でそういうと
『そうだったね。えへ。ごめんごめん』
と、石川は軽く返す。

石川の部屋に入るのは久しぶりだった。リビングは相変わらずのピンクベースのデザインで目が痛くなりそうだ。
そして床にはざぶとんや雑誌が散らばり、お世辞にもきれいに整頓されているとはいえない。
いつもはそんな部屋のありさまを必ず石川に突っ込んでいた矢口だったが、今日はそんな余裕はなかった。
『どこに行ってたの?』
矢口は立ったまま聞いた。
『うん、まぁちょっと、お買い物』
石川は薄茶色の大きなソファーに身を投げ出しながら答える。
『一人で?』
『うん』
『護衛の警察の人は?』
『だからはぐれちゃったみたい。でね、怖くなってすぐに帰ってきたの』
『そう』
矢口は石川が座るソファーの方へと移動した。
いつまでもつっ立っているのも変だろうと思い、手近な場所に座ることにしたのだ。
ソファーは石川に占領されているので、床に散らばっていたピンクのクッションを1枚拾い、それをソファーの前にあるガラスのテーブルの横の窓側のサイドに置いて、そこに腰を下ろした。

『で、今日は何の話?』
石川がソファーに寝そべったままで矢口に尋ねる。
『うん・・・この前の事件のことでちょっとね』
『そう。わかった。でもとりあえずお腹空かない?ピザでも頼もうよ』
石川はソファーから起き上がってそう提案した。
『いいよ。梨華ちゃんが好きなの頼みなよ。おいらはどの種類でもいいから』
『了解。ちょっと待ってね、確か今朝あのあたりにピザのチラシがあったはず』
そういって、石川はソファーから降り、ピザのチラシを探し始めた。
そんな石川の後姿を見ながら、矢口は頭の中を整理し始める。



その疑念は昨日から確かにあった。
だがそれは、自分がこの世界の人間全員に対して違和感を感じ始めているからだと思っていた。
だから今日のハロモニでの石川のあまりの不調、いやそれはまだいい、それ以上に違和感を感じた石川のスタッフや他のメンバーに対する接し方に関しても納得できなくはなかった。それは自分の問題だと思えたから。
だが、スタジオで聞いたある会話が矢口にその疑念を強くさせた。
安倍と別れた後、トイレの個室にこもって泣いていたときのことだ。


「あぁ臭かった。ねぇ服にも臭いうつってないかなぁ」
加護が大きな声でしゃべりながら洗面所に入ってきたようだ。
「絶対ついてるよ。あぁなんか鼻の奥にも臭いが残ってる感じ。うがいしよ、うがい」
続いて聞こえてきた声は辻のものだ。
そして洗面所の2つの蛇口から水が流れ出したのを矢口は感じた。
「ちょっとののぉ、鼻の中に指突っ込まないでよ」と加護の声。
「だってぇなんか残ってる気がするんだもん」と辻。
「そんなとこに残ってないよ。それより服のほうが心配」
「どれどれ」
「においする?」
「う〜ん、多分大丈夫な気がする」
「よかった」
矢口には何のことやらよく分からなかったが、その後の2人の会話を聞いていてなんとなく状況がわかった。
どうやら誰かが楽屋にフルーツの盛り合わせを持ち込んだらしいのだが、包装されていたその箱を開けた所そこからものすごい臭いがしてきたらしい。どうやら密閉されていたドリアンが詰まっていたらしく、そのにおいは強烈で、辻と加護は思わず逃げてきたらしかった。
「どうしよ、あの楽屋もう嫌だなぁ・・・変えてって言ってみよっか」
と加護が言った。
「うん。でも梨華ちゃんやっぱりおかしいよね。だってあんなすごいにおいのする箱を開けて全然平気にしてたんだよ」と辻。
「鼻がつまってんだよ多分。でも、なんか、昨日からおかしいよね」
「別の人みたい」
「・・・梨華ちゃん、大変だったからしょうがないよ・・・・」
「うん・・・こわいね・・・」
「・・・・」
「よし、あれやろ」
加護が何かを提案した。
「またぁ」
「いいからいいから」
「まぁいいけど」辻がしぶしぶ了解したらしい。
「手のひらと手のひらを合わせて・・・・」
「しあわせ・・・・と」
それは辻と加護が最近よくやっているおまじないだと矢口は知っていた。
二人の手のひらのしわを合わせながら『しあわせ』と唱えるのだ。
昔何かのTVコマーシャルでやっていたことらしいのだが、どこで覚えてきたのか、最近の2人のブームらしい。
さらに世間でも流行らせようと思ってちょくちょくテレビでもやっているのだが、2人いないとできないことなんて流行るはずが無いよと矢口は2人に言っていた。ダブルユーのポーズだってたいして流行らなかってでしょと。だがもちろんそんな矢口の冷静なアドバイスを聞く2人では無い。まぁそんな計算でないところが2人のいいところなんだけどと矢口は思っていた。

「つーじーは生命線長いな〜、長生きするよ。わたしなんかほら、こんなすぐに切れてるんだよ」
合わせた手のひらのしわでも見ていたのか、加護がそう言った。
「でも大丈夫だって前先生が言ってたじゃん・・・」辻が答える。
そういえば「お願いモーニング」という昔やっていた番組でそんな話をしたことがあったと矢口は思い出した。
「ほんとかな〜」
「あんたまだ若いでしょ」
そんな取り留めのないことを話しながら2人は洗面所を出て行った。


そんな二人の会話を聞いていて、矢口の中ではさらに疑惑が深まっていった。
それは決して信じたくはなかったし、自分の考えていることがただの思い過ごしであることを願わずにはいられなかった。
でも、だからこそ、確かめなくてはならないと思った。
それは教授はあり得ないと言った。だけど、今の状態が既にあり得ないのだ。
だから矢口はそれを確かめに今ここに来たのだった。



ピザのチラシを見つけた石川は、復旧した電話を取り管理人室へ電話をかけている。
その後ろ姿を矢口はじっと見つめていた。
細い体に、色黒の肌、なんどもなんども見たことのあるその背中。それが全く知らない他人の背中に見えた。
矢口は意を決して、自分のバッグから一つの包みを取り出してガラスのテーブルの上においた。これではっきりする。

『ん?それ何?』
電話を切った石川が、こちらに向かって歩いてきながら尋ねた。
矢口が机に置いた包みのことを言っているのだ。
矢口は答える。
『例のアロマキャンドル。梨華ちゃん1週間ほど前に欲しいって言ってたでしょ。持ってきてあげたんだよ』
『あぁはいはい。あれね。ありがとう』
そんな約束などしていない。
だが矢口はそれにはかまわずに包みを開ける。
そして一緒に用意しておいたキャンドル立てにキャンドルをセットしてから、マッチで火をつける。
キャンドルに火がともり、やがてかすかに桃色をにじませた煙が立ち昇り始める。
石川はソファーに腰をおろしてその煙をじっと見ていた。

矢口の胸の動悸が高まる。いよいよだ。ここは相手が色々考え始める前に一気に行かなくてはならない。
相手にわからない程度の深呼吸をしてから矢口は切り出した。
『わぁやっぱりこのキャンドル、評判だけあってすごい匂いが強いねぇ。なんかラベンダー畑のなかにいるみたい』
『う・・・うん。そうね。でもちょっと匂いきつすぎない』と石川。
『だねぇ。これじゃちょっと強すぎて、梨華ちゃんの部屋の広さだと匂いがこもり過ぎるかな』
『そうだよ。ちょっと窓を開けようか』
そういって石川は立ち上がり、矢口の後ろにあるベランダへと続くガラス戸を少し開けた。
外から少し涼しい風が吹いてきて、キャンドルの炎が揺れる。
矢口はじっと揺れる炎を見つめていた。自分の揺れる心とキャンドルの炎がまるでシンクロしているかのように思えた。

『真里っぺ、どうしたの?』
ソファーに座りなおした石川は、固い表情で固まっている矢口の姿をみてそう尋ねた。

『あなた・・・・誰?』
矢口はキャンドルの炎を見据えたまま尋ねた。
『え?』
『どうしてなの?』
『ちょっと、何?何言ってるの?』
『・・・・これ。このキャンドル・・・・』
矢口は目でキャンドルを示す。
『ん?』
『偽物・・・・・・。匂いなんかしないの。色のついた煙がでるだけ』
石川の表情があからさまに曇った。

そこで矢口はやっと石川の方を向いた。
『あなた・・・・匂いが嗅げないんでしょ・・・・おいらと一緒』
『・・・・』
『私たちには無理なのよ・・・・嗅覚だけはエミュレートできない・・・・』



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