太古の盟約




 落ちては階段を上がり、また落ちては階段を上がり…と繰り返していると、意図せずにブーストが溜まっていたので、雷王に喧嘩を売ってみた。
 時間はかかったが、無事こっちが死ぬことなく倒せた。
 そこまで探索が進んでいるというのに、未だ先への道が見つからない。
 いったん帰って、ネルスたちにカボチャ掃除を頼み、こっちはとりあえず休養することにする。
 武芸大会まであと3日。
 どうせなら勢いづけるためにも19階への階段の目途が立っている方が嬉しい。
 いつもは進展具合をあまり気にしていないアクシオンも、少し焦ってきているようだった。何せ、薬泉院の院長から「重病の少年への薬に使うから黄金の羽を持ってきて欲しい」という依頼を受けたのは、随分前の話になるのだ。18階現在、そんなものを落とす鳥がいないため、19階の魔物に期待をかけているのである。というか、そうでないと、少年の命が危ない。
 ネルスたちがカボチャ退治をしていると、いつの間にかシトト商店で凄い鞭が開発されたらしい。持ち込んだ素材に触発されたらしいが、何せお値段が破格であったため、すぐには手が出せなかった。
 毎日レンジャーが採集に勤しんでいるとはいえ、まだ20万enほどである。さすがに後10万以上をすぐに稼ぐのは難しい。
 相変わらず本人たちの怪我はないがTPぼろぼろ、という状態で帰ってきたネルスたちとタッチして、18階に向かう。
 どうせ倒すならこっちの奴にしとけば良かった、と思いつつ雷王の尻を追っていき、落とし穴に落ちた。
 「まー、とりあえずは新しい道だよなー」
 これまで落とし穴から落ちてきた部分は、主に地図の上の方である。おそらくこれで新しい区画に入れたとは思うのだが…またしてもさっくりと元の道に戻される可能性もある。
 少々うんざりしながらも進んでいくと、今度こそ、上へと向かう階段を見つけた。
 「…っしゃ」
 思わずガッツポーズしたが、いやいや、と首を振る。まだ油断は出来ない。ひょっとしたら、先には更に落とし穴があってまた戻ってくるかもしれないし。
 だが、先へと進んでいくと、奥の方に上へと向かう階段らしきものが見えてきた。
 思わず、皆で歓声を上げる。
 これで心おきなく武芸大会に向けて調整が出来るというものだ。
 足取りも軽く階段へと向かっていると。
 直前で羽音が響き、目の前に翼の民が降り立った。
 「立ち去れ、土の民よ。ここから先は、我らの領分だ」
 ルークの足が、一瞬止まる。
 イヤな既視感に眉を顰めてから、ゆっくりと深呼吸した。大丈夫、今回は、言葉を交わすこともなくいきなり敵対しているわけじゃあない。話し合えば、何とかなる。
 ジューローが振り返り、ルークの顔を見てから、意味ありげに自分の腰に目を落とす。
 刀にものを言わせてもいいが?という意見を目だけで告げているブシドーに、ルークは苦笑して首を振った。
 目の前の翼の民は、丸腰に見える。そういう意味では容易いが…問題は、この一人ではないし、そもそも力尽くで通るのは主義では無い。
 えーと、どうするかなぁ、とばりばりと髪を掻いたルークを、翼の民は油断の無い目つきで睨んできている。どうやら一歩も引く気は無いらしい。
 武術大会も目前だし、とりあえず帰って公宮に報告するか?と考えてから、その公宮の謁見の間を思い出した途端に、連想で公女の言葉も思い出された。
 一度咳払いしてから、翼の民に告げる。
 「太古の盟約に基づき、上帝の言葉を告げる。我らに天への帰り道を開け 」
 翼の民は、上半身を仰け反らせた。
 まじまじとこちらを見てから、勢い良く大きな翼をばさりと広げた。
 「盟約の言葉を持つ土の民が来た!」
 叫びながらそのまま飛んでいく。
 一体、誰に向かって叫んでいるのか。ひょっとして、見えないだけで階段の上には翼の民が集結しているのか。
 ともかくは、古い伝承の言葉が変質していなかったことに安堵する。
 「お互い、通じる言葉で良かったよ」
 「ひょっとしたら、思っているほど古い伝説でも無いのかも知れませんしね」
 二つの異なる種族に伝わる盟約の言葉など、時が経てば経つほど、ずれていきそうな気がするが、ずれが生じるほどの時間が経っていないのかもしれない。もちろん100年単位では無いだろうが、数千年というレベルでもなさそうだ。
 「何だか分からないが、上がってもいいんだな?」
 サナキルが確認してくるので、重々しく承認してやると、嬉々として階段に向かった。新しい区域に向かえるのが嬉しいなんて、坊ちゃんもすっかり冒険者だ。
 …と思っていたら。
 「うわああああ」
 情けない悲鳴を上げて、サナキルがすぐに戻ってきた。
 何か敵でも出たか?いや、敵ならこういう悲鳴にはならないだろう。何だかんだ言っても、これでもパラディンなのだし。
 階段脇の壁に手を突いて、大きく深呼吸をしているサナキルの横を通って、階段を覗いてみた。
 ごく普通に階段があって…そこから先、すっぱり切り取ったように壁が無くなっていた。どこに支えがあるのかも分からないような、石の板が並んでいるだけに見える細い階段が上へと向かっている。
 「…あ〜…こりゃあ…」
 16階に登った時は、夜だった。辺りは真っ暗で、黒い雲が蠢いているのが見えるばかりだった。
 ところが、今日は良く晴れた日中である。青空に白い雲が流れていく様子が綺麗に見える。
 どっちが怖いか、というと、良い勝負ではあるが、どちらにせよ現在いるのが非常に高い場所であり、落ちたら即死できる階層だということをイヤでも思い知らされる光景だ。
 せめて階段に手すりでもあればマシなのに、それすらない。それどころか、石の段がどうやって留まっているのかすら分からない。
 「ま、また俺が行くしかねぇな。ロープ頼むぜ」
 「あいよ」
 ひょっとしたら、どこか割れて抜けるかもしれない。何せ翼の民は飛んで移動しているだろうし、どうやらここを抜けた土の民はいなさそうだから、いつから使っていないのか分からないし。
 そして、もしも落ちるのなら、身軽な人間の方がいい。さすがにサナキルを鎧ごとロープで支えるのは無茶すぎる。
 ショークスは高所恐怖症の気は全く無いらしく、腰に縛ったロープを確認してから、ひょいひょいと階段を登っていった。時々立ち止まって、ばんばんと足を強く踏み鳴らしているのは、おそらく足場の強度を調べているのだろう。
 「…OK、16階に登る時よりゃ近いわ」
 上から楽しそうな声が聞こえてから…ちょっと間をおいてから、付け加える。
 「でもよぉ、この先、進めんのかどうか分かんねぇ」
 いきなり壁でもあったのか。いや、この景色からするに、いきなり地面が無いとか。
 ともかく自分の目で確かめないことには、と、残りの4人も登ることにする。
 「で、サナキル、行ける?」
 ロープがあるので少しはマシかもしれないが、それを全面的に頼るのも厳しい。ショークスの言によると、どうもロープを縛る場所も無いようだから、ロープ持って落ちたらショークスが一人で支えるだけだし。
 「む、無論、僕とて…あの時のように麻痺しているのではないからな。自分の足さえ動けば、普通に…」
 強気の言葉とは裏腹に、顔は青ざめて、声は震えている。誰が見たって、平気そうには見えない。
 それでも、唇を噛み締めながら、サナキルは昂然と頭をもたげて階段へと向かった。
 その後を、ジューローが肩をすくめてから続く。
 サナキルは、まっすぐ前を見たまま、階段に足を乗せた。
 段差はさして大きくは無い。壁さえあれば目を瞑って駆け上がれるほど、ごくごく普通の階段に過ぎない。
 サナキルは、自分にそう言い聞かせて、頭の中で「1、2、1、2」と掛け声を思い浮かべ、それに集中した。
 足の代わりに脳を麻痺させて、リズミカルに足を動かし、半ばほど上がった頃。
 不意に、ひゅういっと風が吹いた。
 バランスを崩すほどの強風では無かったが、集中力を削ぐには十分だった。
 倒れたりはしていないのに、思わず体を前傾姿勢にして…そのせいで、視線を下にやってしまった。
 階段の隙間から見える木の枝。更にその隙間から…街並みが見えた。ほんの小指の先ほどになっている家々が、自分はとんでもない上空にいるのだと思い知らせてくる。
 ふっと目眩がした気がして、慌てて目の前の階段を手で掴んだ。
 思い切り膝を打ち付けたが、それすら気にならない。
 まずい。
 さっさと登らないと、後ろに3人いるのに。
 上には、ショークスが一人でいるのに。
 だが、目が離せない。
 雲すら下で流れていく。息が苦しい。人間なんて見えないほどの高さで、ちょっと足を滑らせたら、あそこまで…。
 「…おい」
 くらくらと回り始めた視界が、不機嫌そうな声に、回転を止めた。
 ジューローの顔を見たい、とは思ったが、振り返ることも出来そうに無かった。
 「まったく…良い格好だな。犬でもあるまいし、階段に四つ這いで蹲るのが、騎士様の姿か」
 嫌味たっぷりな言葉に、反発する気力は無かった。ただ、ジューローの声が聞こえることだけに安堵する。
 「…ジューロー…」
 「何だ」
 「…動けない…」
 完全に白旗を揚げた声に、ジューローは舌打ちした。
 「そうは言ってもな。ここで抱き上げるのは無理だ。それこそバランスを崩して落ちそうだ」
 おまけに、サナキルは現在、完全装備だ。全身金属鎧ごと階段で抱き上げるのは、非常に危険な賭だ。
 「…無理なら無理だと、最初から言え、この馬鹿が…」
 ぶつぶつ言いながら、ジューローは階段の残りと、今まで上がってきた距離を目で測る。
 ここまで来たら、上に登る方がマシだ、という結論になる。そもそも、あの格好で下に降りていくのも無理だろう。むしろ、下が見えないだけ、よけい怖いとみた。
 サナキルは、階段に押しつけた膝と、掴んだ手に意識を集中した。それでもまだ、体が不安定な気がする。額まで階段に付けてみても、まだ体がふわふわした。
 この手も、足も、一つでも動かしたら落ちてしまう。
 そんな気がして、身動き一つ取れなくなる。
 ジューローより更に下のアクシオンとルークも、サナキルの状態はだいたい把握は出来ていたが、どうしようもなかった。
 「…最悪、どうにかサナキルを乗り越えて行って、サナキルにロープを縛り付けて力尽くで引っ張り上げる、という方法も無いではありませんが…」
 「重いしなぁ。確実とは…」
 万が一、恐怖のあまり暴れられたら最後だ。本人が上がってくれるのが、実は一番安全なのだ。
 石のように固まっているサナキルの耳に、舌打ちと共にジューローの言葉が入り込んだ。
 「おい、目を閉じろ」
 指示通り、ぎゅうっと目を閉じる。そうすれば、景色は見えなくなるが…真っ暗闇では怖いのに変わりない。
 「暴れるなよ?」
 こんこん、と脹ら脛あたりの鎧が叩かれる。何をされるんだろう、と身を硬くしていると、腰をぎゅっと掴まれた。
 「支えておいてやるから、まず左手を上の段に上げろ」
 どういう姿勢になっているのか、ちょっと分からない。けれど、自分が暴れたら、ジューローが落ちてしまう、ということだけは分かる。
 左手を、おそるおそる階段から浮かせてみた。一緒に体ごと浮かんでしまうかのような眩暈に襲われたが、しっかり掴まれた下半身のおかげで、絶対落ちることは無いんだ、と安心出来る。
 手探りで、上の段を掴んだ。
 「よし、じゃあ、次は、左膝を上の段だ。俺を蹴るなよ」
 あまり持ち上げずに膝をずらすと、階段に当たって、かかかかっと音がした。それでも、どうにか左足が、上の段を踏みしめる感触があった。
 「次。右手を上へ」
 額を階段に付けたまま、ふらふらと右手を浮かせて、階段を探る。
 「大丈夫。絶対に上の段はある。後少し伸ばせ」
 宙を切る右手に恐慌状態に陥りかけていたが、ジューローの言葉に安堵して、もう少しだけ指先を伸ばした。
 そんな具合で。
 おそろしく時間はかかったが、目を瞑ったまま、階段を登っていった。
 「よーし、坊ちゃん、後2段!」
 退屈したのか、ショークスも上から覗き込んできて段数を教える。
 「あぁ、手は、もう上じゃない。まだ目は開けずにそのまま這って行け」
 それじゃあ本当に犬みたいだ、とは思ったが、反論する気力は無かったので、サナキルは手で宙を掻いてから、おそらく平坦なのだろう場所へと身を乗り上げた。膝まで地面に上がり、後は足を引き上げたらおしまい、というところで、背後からジューローの鋭い声が飛んだ。
 「まだ目は開けるな。俺が支えるまで待て」
 一体、何だ、と思ったが、ひょっとしたらあんまり進むと危険なのかもしれない、と素直にそのままの格好でいると、ジューローも上がり切ったのか、腕を掴まれて立ち上がらされた。
 「よし、もう目を開けてもいい」
 ようやく降りた許可に、目を開いて…あんまり力を込めて閉じていたのですぐには回復せず、何度か瞬きを繰り返し。
 目の前にあるジューローの体から目を逸らし、周囲を見回して…悲鳴を上げる。
 「うわあああああ!」
 「ありゃま、こりゃまた何とも素敵な…」
 こちらも上がってきたらしいルークの暢気な声が風に流れた。
 最初は、下と同じく桜が咲き乱れているかのように見えた。
 だが、よくよく見れば、桜は下から伸びてきているだけで、上半分は一面の青空。
 そう、登ってきた19階には、壁が無かったのだ。
 まるで、ただの巨大な石畳に乗っているかのようだ。風も吹き、周囲の雲が見ていて分かるほどに流れていく。
 「あんな桜の木だけで支えられるもんかね、ここ」
 「皆で端っこ行ったら、傾いたりしなきゃいいんですが」
 ルークとアクシオンの会話は、どこか楽しそうな響きを含んでいたが、サナキルはその内容にぞっとした。
 目の前の男の体だけが頼り、と言わんばかりにしがみついているのをちらりと見て、ルークは腕を組んで唸った。
 「まー、行ってみるしか無いんだけど…坊ちゃん、行ける?」
 「い…い…行ける…とも…」
 真っ白な顔で、ぷるぷるしながら言われても、全く説得力が無い。
 「20階に磁軸があるの期待して、この階はネルスたちに任せるって手もあるけど…」
 アクシオンは目を細めて上を仰ぎ、肩をすくめた。
 「ここからでは、上の階がどうなっているのかさっぱり分かりませんが…上の階なら大丈夫、という保証もありませんね」
 そうなのだ。この先、上へ上へと向かっているのは確かで、ひょっとしたらずっとこんな景色、という可能性もあるのだ。
 ジューローは、涙目でしがみついているサナキルの背中を無意識のうちに撫でながら、奥を見やった。
 「運ぶことは可能だが…敵が出ると」
 移動さえ出来ればいい、というなら、這っていくなり鎧を脱がせて抱き上げるなりのことは出来る。既に何の疑問もなく、自分が運び役だと思いこんでいる、という部分については突っ込み無しとして。
 問題は、敵が出た場合だ。仮にこの床の端で戦闘になろうものなら、目の前は青空である。そんなところでサナキルが戦えるのかどうか。
 かく言うジューロー自身も、実のところ、高所はあまり得意では無い。サナキルの方がみっともないので、そっちに意識を割いているせいで平気そうに見えているだけなのである。出来れば、こんなところの端の方で、鳥類なんぞに斬り掛かるのは御免被りたい。
 ルークがアクシオンを振り返る。
 「ああいうのって、訓練で何とかなる?」
 「無理でしょう。仮に治るとしても、数日の話じゃないと思います。…ただ、本当に酷い高所恐怖症じゃないとは思うんですよ。本気で駄目な人は、2階の窓から下を見ることすら駄目らしいですから」
 「まー、確かに、俺でもこの光景は、尻がきゅーっとなる気がするしなー」
 しかし、慣れれば大丈夫なのだとしても、その慣れるまでが大変そうだ。
 やはり、ここはいったん退いて、ネルスたちに任せた方がいいだろうか。
 「明後日は武芸大会だし、公宮に報告もしたいし…糸で帰ろうか」
 「…す…すまない、僕のせいで…」
 いつものサナキルからは考えられないほど弱々しい声で呟かれたら、責める気にもならないというものだ。
 「誰しも苦手なもんはあるわな。普通に生活してれば、こんな景色、お目にかかれないんだし…」
 「いいんじゃねぇの?棘床ばっかのとこはこっちが探索したんだしよ。たまにゃああっちが行きたいだろ」
 適材適所で結構なことだと思うが、サナキルは悄然と俯いた。
 しかし、それでもジューローから離れられないあたり、理性でどうにか出来るものでもないのだろう。
 「ま、武芸大会前に、19階を見つけるってのが目的だったんだし、ちょうどいいよな」
 どのみち、今日を最後にジューローは大会前の調整に入らせるつもりだったし。
 そう言っても、やはりサナキルの元気は出てこなかった。

 地上に降り立ったところで、サナキルはジューローから手を離したが、俯き加減で目は真っ赤、肩も落としていつもよりも小幅に歩くところは、まるで目一杯怒られた子供のようだった。
 誰も怒っちゃいないし(ジューローでさえ、文句の一つも言っていない)、体質はしょうがないと思うんだがなぁ、と思いつつも、本人が納得しなきゃ始まらないか、とルークは口を挟まずにいた。
 「んじゃ、俺はちょいと公宮に、翼の民の報告してくるけど…」
 「…僕も…」
 「んあ?」
 「僕も、行ってもいいだろうか」
 「そりゃいいけど…」
 サナキルが公宮に行くのは初めてだ。いや、衛士への訓練とやらで公宮そのものに行ったことはあるが、大臣に報告というのは避けていた節がある。やや自意識過剰気味だとは思うが、グリフォール家の者が冒険者として来ているというのは、公には認識されない方が良いだろう、ということだそうだ。仮にサナキルが樹海で死んだ場合、ハイ・ラガードの公宮が、グリフォール家の三男と知っていて危険な場所に送り込んだ、ということになると外交問題になるとかどうとか。
 分かるような気もするし、そんなこと言って冒険者がやってられっか、という気もする。
 そういうことを思い出して、怪訝な目でサナキルを見たのだが、俯いているサナキルは視線に気づかなかった。
 まあいっか、とルークはサナキルを従えて公宮へと向かった。

 先に宿に帰ったジューローは、いつも通り裏庭で鍛錬を開始した。今日もそれなりに戦ってはいるが、最後が不完全燃焼でどうにもすっきりしなかったのだ。
 鍛錬に没頭し、辺りが暗くなった頃に、刀を収めた。明日は探索に出ないようだし、一日中鍛錬に励むことになりそうだ、とちらりと思う。
 武芸大会、という響きに、心が躍らないとは言わない。
 ブシドーの一人として純粋に、あるいは放逐された一族の末裔としての意地で、己の力を知らしめたい、という欲望はある。
 もしも、このギルドに属する前にこんな機会があったなら、何をおいても参加しようと血眼になっただろう。特に、前座のブシドー限定模擬試合などではなく、その後の限定無しバトルロイヤルの方に。もっとも、その時点で参加してもろくなことにならなかっただろうが。
 だが、今は。
 己の力量以上の結果が欲しいとは思わない。
 大会に参加して、戦いの結果として優勝するなら、それでいい、という心境である。
 もしも、負けたとしたら、それは相手の方が強かった、というだけのことだ。また鍛錬に励めば良い。
 大会前だからといって、特に鍛錬を増やそうとも思わないし、大事を取りたいとも思わない。…まあ、こっそりと、メディックからは「前夜に体力(いやあからさまに精力と言っていたか)を消耗するのは止めておいた方が良いです」という忠告を受けているので、それは素直に聞いておこうとは思っているが。
 俺も随分となまくら刀になったものだ、と自嘲しつつも、悪い気はしなかった。
 上半身を手ぬぐいで拭っていると、建物の陰からふらりと誰かが現れた。はっきりと見えはしないが、体格と歩き方でサナキルだと知れる。
 「どうした。姫君と謁見でもして魂を抜かれたか」
 まだいつもの覇気が無い様子を揶揄したが、サナキルは建物に体重を預けてぼんやりした様子で言った。
 「…ちょっと…塔に上がらせて貰った」
 「塔?」
 一瞬、囚われの姫君の塔、などという図が思い浮かんだが、あり得ないとすぐに打ち消す。
 「…高い場所が…思いつかなかったんだ」
 手ぬぐいを帯に挟み、上着を羽織りながら、サナキルの言った意味を考える。
 高い場所を求めて、塔に上がった。
 あぁ、つまり。
 「それで?塔でも駄目だったのか?」
 「…あのくらい…平気だったはずなのに…」
 すん、と鼻を啜り上げる音がした。
 どうやら、今日の光景に慣れるために、高い場所を求めて行ったらしい。
 サナキルは貴族の息子なのだから、自分の国の城に行ったこともあるのだろう。これまで城壁で怖いと思ったことなど無かったのに、今日は随分気力を消耗しているようだ。
 「そんなに高くも無いのに…人が小さく見える、と思った途端に、今日の光景が目に浮かんで…」
 ずるずると壁に沿って崩れ落ち、膝を抱えて座り込んでしまった。
 自分で自分が情けないのだろう、頭を膝に埋めて動かない。
 ジューローは裏口の階段に足をかけた。
 「だったら、そうやって戦闘の度に蹲っていろ。置いて行くぞ」
 ジューローの手の中で鳴るノブを回す音に、弾かれたようにサナキルが顔を上げ、慌てて立ち上がった。
 ぱたぱたと走ってきて、ジューローの袖を掴む。
 理性がはっきりしている時には、体にしがみついてはこず、着物だけを掴む様子に苦笑して、ジューローはそのまま扉を開いた。
 「どうせ、武芸大会まで、探索は休みだ。その後のことは、その後で考えればいい」
 ネルスたちは誰も大会には出ないし、見物もしないので、暇だろう。武人ならば、戦闘を見ることも鍛錬の一つだとジューローなどは思うのだが、バースやファニーが『ただのお祭り騒ぎ』と認識していたため出遅れてチケットが手に入らなかったのだ。
 ひょっとしたら、武芸大会に出ている間に、ネルスたちが19階を踏破して、20階の磁軸を見つけて起動すれば、階段を上がらずともいつもと同じような壁のある階で普通に探索出来るかも知れない。
 だったら、思い悩む必要など欠片もない。
 万が一、ずっとあんな不安定な空間なのだとしたら。
 「…お前を置いて行けば良いだけの話か」
 ぼそりと独り言を呟くと、着物を掴む手に力がこもった。
 縋り付くような視線を首筋に感じて、喉を鳴らす。
 悪くは無い。
 こうして、無防備に頼られるのも。
 己の一言一句に反応されるのも。
 まあ…悪くは無い気分だ。
 ひょっとしたら、「俺を守り損ねて死なせるのと、自分が落ちて死ぬのとどっちが怖い?」と聞いてみたら、前者を選んで立ち直る、という可能性もあるが…後者を選ばれると、ちょっぴり自尊心が傷つく気もするので止めておく。
 袖にサナキルをくっつけたまま上へと上がり、己の部屋へと戻る。サナキルも鎧のままだったので、自室に戻った。
 刀だけ置いて、さっさと出てきて夕食のため先に階下に降りてくつろいでいると、階段から派手な物音がした。
 何だ?と見に行くと、サナキルが階段に座り込んでいるところだった。
 「…まさか、こんな階段ですら怖くなったのではなかろうな」
 さすがにそれは面倒見切れんぞ、と眉を顰めていると、妙に無表情なサナキルが、ぼそりと答えた。
 「…目を瞑って、階段の上り下りする練習をしただけだ」
 「馬鹿か」
 もしも本当にあの階段で足を滑らせたら、転ぶだけではすまないんだぞ…というのは止めておいた。この場合、脅しをかけてはいつまで経っても克服しそうにないので。
 代わりに、溜息を吐いてから、サナキルの脇に手を差し入れて、立ち上がらせた。
 「もしも、お前が、どうにも駄目なら…」
 途端に不安そうな顔になって、袖を掴んでくるサナキルから目を逸らし、上からにやにやと見下ろしているリーダーに視線を向ける。
 「…他の連中が、何とか方法を考えるだろうよ」
 ジューローが考えるまでもなく。
 それで、仮に「ジューローが運ぶこと」という決定をされたのなら、それはそれで仕方が無い。リーダー命令なら、仕方なく従ってやる。
 とりあえず、足をひねったらしい馬鹿をメディックに見せるため、ジューローはサナキルを肩に担ぎ上げたのだった。



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