花と蜜蜂
本当なら、昼間に行動するのはサナキルたちのはずだった。
しかし、宿の娘を連れて樹海に潜るというのは、やはり昼間の方がいいだろうし、かといって、娘さんを連れ歩くのに男ばかりのパーティーではまずかろう、というリーダーの判断で、ネルスたちが14階に行くことになった。
幸い、後衛はファニーとピエレッタの女性二人である。宿の娘を真ん中に挟み、何かと話しかけていると、最初は緊張しきっていた宿の娘が、次第に笑い声を上げるようになっていった。
15階を通り、14階へと降りていく。
途中で魔物にも出会うが、ピエレッタの睡眠が効いて、ほとんどこちらのダメージ無しで倒すことが出来ているので、娘さんに余計な緊張をさせたりはしていないと思う。
きしきしと雪を踏みしめながら歩きつつ、バースが深く息を吸い込んでみた。
「良い空気じゃとは思うがの。これだけ冷たい空気は、胸を傷めそうじゃが…ここの空気の方が楽なのかの?」
娘は、しばらく困ったように眉を寄せていたが、俯いて言った。
「…ごめんなさい…迷惑をかけて…」
「いや、ワシは若い娘さんと歩けて楽しいがの。…あ、もちろん、これだけ若いと、ワシの守備範囲外じゃ」
最後のは、冷たい目を向けた孫に対する言い訳だ。
「ただ、ワシはメディックでは無いが、ドクトルマグスもそれなりに人間の体だの病だのに通じておる。気道が狭くなるような病には、冷たい空気の方が刺激になるんじゃが、と思うただけじゃ」
その言葉に、娘は何かを思い出すかのような表情になって、首を傾げながら辿々しく答えた。
「えっと…先生が、普通の…ぜいぜい?えっと…それじゃ無いみたいって。息をね、はーってするときじゃなく、すーってするときに咳が出るの」
息を吸い込む時に咳き込むのだ、と言った娘に、バースは頷いた。確かに、普通の喘息ならば、吐くときに息苦しいものだ。
「そんなに、外は苦しいかのう。鉱山地帯に比べれば、綺麗な空気じゃと思うが」
「…その娘は、他人よりも敏感なのだろう」
ネルスが低く憂えるような声音で言った。
「エトリアの長が、正気だったのかどうか、俺は知らぬ。だが、それが言うことには、この世界は、かつて文明が発達し過ぎて空気も水も汚れ、人が住めぬところになった。一部の者が空へと逃れ、この大地に世界樹と呼ばれる大木を植え、それが大地をゆっくりゆっくりと浄化させているのだ、と。もしも、それが本当ならば、この大地は、まだ汚れているのだろう。我らはそれに順応しているが…」
ちらりと娘に目をやる。仮に、順応出来ない人間がいるとしたら、それは純粋であるとも言えるが、その分長生きも出来そうにない。…とまでは口に出来ないが。
代わりに子供にも分かり易いような言葉に置き換える。
「ゴミ溜めのような家でも住める人間と、耐えられぬ人間がいる。お前は後者…つまり、他の者より清潔で綺麗好きだということだ」
「…それ、いいことなの?」
娘のおずおずとした問いに、ネルスは苦笑した。
「分からぬ。綺麗好きは良い特質だと言えるだろうが、実際には苦労も多かろう。だが、お前はこの国に生まれただけ運がよいのだろう。こうして幼いうちから樹海に入れるし、長ずれば自力でここに入れるかもしれぬ。世界樹が近くにない国の鉱山地域などに生まれていたならば、相当苦しい思いをしたであろうが」
「…でも、衛士の人とか、みんなに迷惑をかけてるよ?」
「我らが迷惑がっているように見えるか?もちろん、我らがこの国に来たばかりの頃に、14階に向かえと言われたならば、死ねということか、と叫んだであろうが」
今となっては、14階など大した脅威でも無い。魔物とは遭遇するが、単なる足止めくらいの面倒臭さでしかないし。
「…大丈夫だよ」
エルムがぽそりと呟いた。顔は正面に向けたままなので、娘には少々聞き取りづらい声だったが、辺りが静かなので集中すれば十分理解できる。
「たとえば…僕たちが下宿したことで、パンの数が増えた、毎日の買い物が増えた…そういうことが、君の迷惑になってるかな?」
「…え…」
考えたこともない言葉に、娘は驚いたように立ち止まった。隣のピエレッタに促されて、すぐに歩き出しながら、慌てたように叫ぶ。
「そんなことないもん!あたし、みんなのお手伝いが出来るの、嬉しいから!」
「…うん、ありがとう。僕も、君のお手伝いが出来て、嬉しいよ。…そういうことだと思う」
ピエレッタも、娘の頭をぽんぽんと叩いた。
「せやね。うちらにとって、こうやって14階に来るんは、嬢ちゃんが買い物に行くんと同じことやわ。行き慣れたとこやから、特別に怖くもないし、それどころか、いつもと違う連れがおったら楽しいやん」
娘は、しばらく考えているようだった。
自分の体質のせいで皆に迷惑をかけている、という自覚と、エルムたちが言うように楽しいピクニック感覚は本当なのだろうか、という疑問と、いろいろ考えた結果。
「あたし、ホントに迷惑じゃないのかな」
「…うん、いつでも、連れて来られるよ」
「お弁当さえ作ってくれれば、なんぼでも一緒に行くわ。美味しいもんな。今度教えてーな」
「うん!」
すっかり笑顔になって、きゃっきゃっと遊んでいる娘を見て、ファニーはしみじみと感動していた。
お付きの自分が言うのも何だが、サナキルならこうはいかない。宿の主に娘がいることを知っているかどうかすら怪しい。
こっちのパーティーで来て、本当に良かった。リーダーの判断は実に正しい。
すっかり元気になった娘は、しばらく雪で遊んでから、糸を使って一人で帰っていった。地上まで戻れば、そこから宿に帰るのは、一人でもいいらしい。
「さて、と。我らはどうするかな」
このパーティーのリーダーであるネルスが、懐からメモを取り出して、眺めた。
「16階で蜂でも狩るか。食材の依頼だそうだ」
17階の伐採場近くで、エトリアで馴染みの素敵な花を発見したため、球根は既に手に入れている。後は、いつも売り払っている素材を手に入れればいいのだが。
その素材の名を見たバースが顔を顰める。
「…食材には見えんのじゃがのぅ」
「まぁな。しかし、エトリアでも奇矯な趣味のデザイナーもいたようだし、刺激的な味を求める料理人もいるのだろうよ」
確かに食べたいとは思わないが、宿屋の樹海料理も素材的には良い勝負が出来そうだし。
そう考えたネルスは徒歩で16階へと向かうことにした。
手に入れた素材を酒場に持っていくのは、バースが立候補した。どうも素材が納得できないらしい。
もちろん、念には念を入れる方がいいので、ネルスもバースに任せた。
酒場に来ている女性の冒険者たちに声をかけながら、バースは奥のカウンターに席を取った。
まずは喉を潤すものを注文しておいてから、さてどう話を切り出そうか、と思っていると、ふと人の気配を感じた。
もう若いとは言い難い女性が、カウンターに手を突き、親父を真剣な目で見つめている。傍らにいるバースの存在にも気づいていないほど、思い詰めたような様子だ。
服装は、普通の一般人のようだ。だが、流行のものではない実用本位のもので、化粧もおざなりだ。よほど、何か気にかかることがあるのだろう。
親父がバースの前にグラスを置くのを待ちかねて、女性は親父に声をかけた。
「ねぇ、まだなの?<デイドリーム>というのは、とても腕の良いギルドだって聞いたのに」
親父が、ちらりとバースの顔を見てから、肩をすくめた。
「そんなに急ぎの依頼だとは知らなかったぜ。何か特別の日に作る料理なのかい?」
「そういうわけじゃないけれど…」
女性が何度か唇を舐めたので、僅かに残っていた口紅も剥げていった。
「あ〜…ひょっとして、これのことかの?」
バースは懐から依頼の品々を取り出した。
「危険な球根、密林蜂の毒針、天鉄の長針、お、揃ってんな。何だよ、持って来てんのなら、最初に言えって」
「一杯くらい飲んでから相談しようと思っておったからのぅ」
バースと酒場の親父が軽口を叩いている横から、女性の手が伸びてきて、さっと布に包んだ品を掴み取った。
「お礼の品は、もう預けてあるわ。ありがとう」
布を畳むのもそこそこに女性は早足で酒場を出ていこうとした。
「おぉ、お待ちなさい。少々話が…」
また爺さんの悪い癖が、と肩をすくめた親父に、バースは低い声で囁きおいた。
「すまんが、食材とした場合の効能を調べておいてはくれぬかの」
そうして、足を止めなかった女性を追って、酒場から出ていった。
「まあまあ、お待ちなさい。そう急ぐことはありませぬぞ。夕食にはまだ早いことじゃし、この老体に付き合っては下さらぬか」
聞こえないふりで、まっすぐ正面を向いて歩いていく女性の隣に立ち、バースは女性の様子など気にも留めずに楽しそうに話しかけた。
「魅力的な女性に声をかけるのはワシの悪い癖じゃが、それでもワシは一つ一つの愛に真剣なんじゃがのぅ」
「…魅力的?あたしが?」
呆然とした声音で呟いた女性が、足を止めてから、バースを睨んだ。憎悪すら含んだ視線にもバースは怯まない。
「おぉ、ワシのような年になると、あまりに若いおなごはつまらぬからのぅ。肌は良いかもしれぬが、人柄に深みが無い。もちろん、貴方もワシにとっては娘のようなお年じゃがの」
「…あたしは…」
「さぁさぁ、お近づきの印に、ワシが奢ろう。まずは美容師じゃの。その燃えるような赤い髪には、金の櫛が似合うじゃろうて」
泣き出しそうな顔の女性の手を取って、バースは片目を瞑った。
「なになに、ワシの年になると、いきなりベッドインを目的としたりはせぬよ。ご安心めされい。ただ、デートの最後には、ご機嫌な笑顔でキスの一つも貰えれば上等」
「…遊び人」
「そうじゃ、ワシは人生を楽しんでおるとも」
酒場の親父はやきもきしていた。
食材図鑑を見たところ、あれらの素材はどれも毒物に違いなかった。いくら依頼されたからといって、殺人の片棒を担ぐのは非常にまずい。
バースは女好きで遊び人の爺さんではあるが、何だかんだ言って凄腕の巫医である。うまいこと毒を奪ってきてくれればいいのだが…。
そう頭の中だけでじたばたしていると、夜になってようやくバースがやってきた。
「どうなった!?」
勢い込んで身を乗り出した親父に、バースは暢気な調子で答えた。
「何がかの?デートなら、首尾良く行ったが」
「デートじゃねぇって!あれ、ど…毒だったんだろうが」
叫びかけて、慌てて声を落として聞いた親父に、バースは片目を瞑って見せた。
「さてのぅ。依頼は依頼じゃからの。使うかどうかは、彼女次第」
取り上げてないのかよ!と親父は絶望的に天井を仰いだ。
もう駄目だ、今まで築き上げてきた信頼が台無しだ。
親父の様子など毛ほども気にした様子もなく、バースはワインを注文した。
「男というものは、厄介な生き物じゃとは思わんか?釣った魚は、いつまでも自分のものじゃとあぐらをかいておる」
何かに向かって乾杯の仕草をしてから、バースはそれを口に含んだ。
謎かけのような言葉と、バースの様子に、何となく「これは大丈夫なんだろうな」と感じつつも、親父は念を入れた。
「大丈夫なんだな?その、つまり、あの女が殺人者になるってぇことは…」
「さぁのぅ。ワシは神ではないからのぅ。断言は出来ぬよ」
だが、かなりの確率で『そんなこと』にはならないと確信しているだろうバースの表情に、親父はそれ以上問い詰めることは諦めた。
「ま、いずれ話してくれよ…酒の肴にでも」
「いずれ、の」
女は、暗い家へと帰っていった。周囲の家からは、夕食を準備する良い匂いが漂い、煙突からは煙が立ち上っている。
「ただいま」
「遅いぞ!何してやがる!こっちは腹が減ったのにずっと待ってたんだぞ!」
「あらそう。あたしはもう済ませてるから、適当に有り合わせでいいわね?」
自分で食事を作りもせずに、いくら遅くなっても女房が作るのが当然とふんぞり返っている男が、素っ気ない返事に驚いたように振り向いた。
女も、自分で驚いていた。大事な夫が若い女に気を取られているのは分かっている。だから、逃げていかないように最大限の注意を払って、夫好みの食事を作り完璧に掃除をして何もかも夫が心地よく過ごせるようにと努力してきて、それにも疲れ果てて重罪になるような依頼までしたのに、今はもうどうでもよいような気がしていた。
男は、視界に入った妻の様子に目を見開いた。
流行には疎い男の目にも、妻がまとう衣服が相当に高価そうであることは見て取れた。髪も美しく結い上げられ、化粧をした顔は10歳は若返ってみえた。
最近思い詰めたようにやつれてきていた顔が、まるで若い女のように輝いている。
一体何事だ、と呆けてから、自分の所有物であったはずの女が勝手なことをしたことに対する怒りがこみ上げてきた。
「てめぇ、誰の稼ぎでそんな無駄なもの買ってやがる!」
「あら、これ、全部奢りだわ。貴方も聞いたことがあるでしょ。今、最高に進んでるギルド<デイドリーム>のバースってドクトルマグス。良い人よ。『魅力的な女性がもっと魅力的になるお手伝いが出来るのは、ワシの最大の喜びじゃ』なんて言って、美容師にも連れていってくれたし、この服もアクセサリーも全部買ってくれたの」
女は自分の髪に触れ、それから薄手のコートをするりと脱ぎ落とした。新しいコートを買ったことなど、何年ぶりだろうか。まるで生まれ変わったような気分さえする。
「<デイドリーム>のバース…」
男は呆然と繰り返した。<デイドリーム>の名は、一般人の男でさえ知っている。それだけ有名なギルドだ。ただ、メンバーについてまでは、さして詳しくない。
それでも必死に記憶を紐解くと、どうにかその名が出てきた。
確か、婚約者を亡くしたばかりの女に言い寄ってモノにしたとか、一人で酒場に行ったら必ず帰りは女連れだとか…とにかく女たらしの…爺さんだ。
「…爺に体を売ったのかよ」
「あんたって、本当に下品ね。とっても紳士的だったわ。お食事して、音楽会を観賞して…今度、歌劇団に行く約束をしたの。ほら、南の何とかいうのが来てるでしょ。ホント、素敵だったわ」
うっとりと夢見るように、ほぅっと息を吐いた女は、名残惜しそうに耳からイヤリングを外し、鏡台の箱にしまった。本当は、もっと中が充実していたはずだったが、いつのまにかアクセサリーが消えていったのだ。
汚さないようにスカートの裾を摘みながら移動した女は、ドレスを脱いで、持ち帰ってきたいつもの野暮ったい木綿服に袖を通した。それでも、髪と化粧はそのままだったので、普段とはまるで違って見えた。
女に付いて来ていた男は、おずおずした調子で言った。
「…その、歌劇団、俺が連れていってやろうか?お前、行きたがってたもんなぁ」
「あら、いいのよ。あんたはあの若い娘と行けばいいじゃない」
気のなさそうな返事に、男は顔を蒼白にさせて手を振った。
「だから勘違いすんなって!あの娘は、仕事上の付き合いってぇか、あんな小娘、国立劇場に連れていったら恥かくに決まってるだろ!」
「あらそう?若い娘と話したら、こっちまで若返るような気分になれる、なんて言ってたじゃない。どうぞ、好きなようにしなさいよ。あたしも、素敵な老紳士のエスコートで優雅な気分に浸れるし」
夫しか見えていなかった時には、その大事な夫が若い女に入れあげているのが我慢ならなかった。
だが、自分もまた、まだ男に魅力的に見えるのだという自信を持った今なら、夫が若い女に入れ込んでいるというより、若い女に良いようにあしらわれているのだということが何となく見えてきた。
あの小娘も気の毒に。あんな下品なほど肌を見せた服まで着ておいて、この程度の男(何せ夫なのでどれだけ稼いでいるかなど知り尽くしている)しか捕まえられないなんて。可哀想に、お古のアクセサリーを贈られるくらいが関の山なのに。
「そう言わずに、なっ。今回は、俺の顔を立ててくれよ」
顔の前に両手を合わせる夫を慈愛の表情で見て、女は寛大に呟いた。
「そうね、あまり何度もバースさんを煩わせるのも悪いし…今回は、あんたと行ってもいいわ」
まだ五月蠅く何やかやとデートの様子を探ろうとしてくる男をあしらいながら、女は台所に立った。
スープの材料をざくざくと切り、鍋を火にかける。
女は、ふとポケットに手をやった。
何かごわごわすると思ったら、布に包まれた尖った品が入っていたのだった。
しばしそれを眺めてから、女はそれをぽいっと放った。
竈の火が一瞬燃え上がり、イヤな臭いを立てたが、すぐに外へと流れていった。
かき混ぜたスープの中身は二人分だ。
あんな気取った店で1ヶ月分の食費くらいの夕食を取るのも、まあ良い体験だったが、自分にはやはりこちらの方が性に合っている。
これでいいんだわ、と女は頷いた。
そうして、夫のためにスープ皿を取り出した。