猟犬ミニスターの冒険
「じゅ…!」
酒場の親父は、でかい声を張り上げてから、慌てて口を閉じ、周囲を見回した。一瞬は、冒険者たちの視線が集まったが、すぐに元の喧噪に戻ったので、少し身を乗り出して続ける。
「18階だとぉ!?お前ら、浮き島に着いたのが3日前だったよな!?」
「いや、着いたのはもっと前だけど。探索始めたのが3日前」
「同じことだ、あほう!」
酒場の親父は、まじまじとカウンターに座った男を眺めた。
相変わらず、どこか頼りない雰囲気をまとった吟遊詩人は、ちびちびと黒エールの泡を啜って眉を顰めた。
「うーん、いつものエールの方が旨いなぁ。これはこれで良いんだが、もうちょい軽やかな方が俺好み」
「これは一気に飲むもんなんだよ。そんなちまちま舐めてるから苦ぇんだ」
「あちらに、いつもとは違うタイプの酒樽が並んでいますね。どこの国のものですか?」
「あぁ、ありゃあ東国から仕入れたんだ。もうじき武術大会があるから、東国人も増えると思ってな」
この時期になると、各国から腕自慢の猛者たちが集まるため、酒も各地のものを集めるのだ。ついでに自分も飲み比べて楽しんでいるのは内緒。
酒と輸送費の金勘定を頭の中でしてから、話が逸れていることに気づいた。
ぐいっと身を乗り出し、ルークの耳元で囁く。
「そりゃあよ、あんま早ぇとやっかみもすげぇからよ、適当にフェイク入れとく方がいいが…それにしても、マジか?たった3日で18階に行ったのか?」
「18階の磁軸柱を起動したってだけだって」
いつものように、驕ることなくへらへらと言って、ルークは懐から地図を取り出した。
親父に見せながら、指で辿る。
「ほら、17階はやたらと狭かったんだよ。とは言っても、奥には魔物の気配があったから、たぶん上から降りてきて地図を埋めることになると思うけど」
親父が見ても、確かに17階の地図は少ししか描かれていないと思った。しかし、16階は普通に探索しているのだ。異常な早さと言うしか無い。
「いや…お前ら、本気になったらこの程度軽いってことか?いつもは依頼をこなしてっから、時間がかかるだけで…」
そういえば、いつもは酒場にこまめに来て依頼をチェックする彼らが、この3日間は来なかったことに気づいて、酒場の親父は絶望的な顔になった。
何せ、彼らはこの棘魚亭最高のギルドである。彼ら名指しの依頼も受けているのだ。彼らが、今度から依頼なんぞ無視して探索を進めることに特化しま〜す、なんて言われたら、依頼が遂行できなくて酒場の信用がた落ちだ。
「や、ある程度見当付けてから依頼を受けようと思っただけだって。てことで、依頼見せて」
気軽に手を出したルークに、ほっとして親父はカウンターの下から紙挟みを取り出した。
「まずは、お前ら名指しの依頼だ。こりゃあ俺の口からは言えねぇ。信用問題だからな」
秘密めかして言ってやったが、ルークは特に乗っても来ず、普通に続きを聞いているので、親父はちょっとがっかりしながらも、わざとらしく声を潜めた。
「公宮に23時。これ以上は、俺の口からは言えねぇ。行きゃあ何で言えねぇのか分かるはずだ」
「あいよ」
ルークの方も、メモも取らずにそれ以上詮索しなかった。
「他には?」
「あぁ、そうだなぁ…食材の依頼とか…例のふられ男が、今度は砂のバラが欲しいとか。それに、チェスの駒、こりゃあ薬泉院で聞いてくれ、それから、宿屋のお嬢ちゃんに新鮮な空気を吸わせたいってのと…あ、も一つ、公宮からの依頼。これは、普通に大臣に聞いてくれりゃあいい。あ、いつものシトト商店からバッソの材料ってのもあるな」
たった3日で、随分依頼が増えたことだ。
もっとも、デイドリームが新しい階層に辿り着いた、という噂は、もう6日前から流れているので、こんなものなのかもしれないが。
「とりあえず…うん、公宮は夜行くとして…ま、適当に押さえとこ」
少なくとも討伐系は無いので、さくさくと依頼引き受け印を付けて、ルークは依頼を自分用にメモった。
ひとまず仕事の話を終えてから、時刻を確認する。
まだまだ23時までは間がある。もうちょっと飲むか、と腰を据えた。
「んー、東国の酒も試してみたいけど…」
「あぁ、ありゃあ東国人向けに置いてあるんだ。武術大会でブシドーが優勝した時のためにな。…ってそういや、お前らんとこにも東国人のブシドーがいるんだよな?うちにゃあ一度も来たことねぇが」
ある程度、デイドリームのメンバーはこの店を贔屓にしている。未成年のエルムでさえ、祖父に付いて店に来たことがある。
けれど、未だブシドーの姿を見たことは無い。
言われたルークは、それに初めて気づいた、という顔で手を止めた。隣のアクシオンと顔を見合わせ、目で会話する。
「そういや…来たこと無いよな?」
「サナキルも来てないと思いますが」
「パラディンの坊ちゃんかい?一度だけだが、依頼を持っていったぜ?ほれ、5階の3日間巡回依頼」
優等生を絵にしたような姿を思い出しながら、親父が口を挟んだ。
依頼が採集品だったりするとレンジャーたちが来ることもあるので、棘魚亭に来たことが無いのは、ジューローただ一人であった。
「お前んとこのブシドーは、どんな奴だ?酒も飲めねぇガキか?」
「まさか。…ただなぁ、ブシドーらしく孤高を保つって言うか、無口っつぅか」
「大丈夫、他の店に行っている、ということはありませんよ。時間があれば、裏庭で鍛錬してます」
「ブシドーって奴は」
ルークとアクシオンの言葉に、だいたい想像が付いたのか、酒場の親父は軽く首を振って両手を広げた。
こんな店をやっているくらいだ。親父自身は、こうやって大勢で騒ぐ方が好きなのだ。ブシドーが孤独を好むのは知っていても、たまには一緒に来て飲めばいいのによ、と思う。
「そういや、いろんな噂ん中に、お前さんとこのブシドーはお尋ね者だってのがあったよな」
「あぁ、あったな…ってぇか、面と向かって言われてた。例の盗賊に」
ルークがくすくす笑いながらエールを飲み干し、周囲を見回す姿を見て、親父は微かな違和感を抱いた。何となく、自分のことならともかく、仲間の濡れ衣は、面白がるより怒る男だと思っていたが。
「本人曰く、東国人の顔はお前たちには見分けが付かないみたいだな、だそうだ。…いやぁ、ホント、東国人ってみんな似てるよなぁ」
この酒場の中にも、東国人の姿はちらほら見える。確かに、武術大会の前なので、それまでよりは東国人が増えている。
釣られて見回した親父の目にも、東国人って奴は、みな似たり寄ったりに見えた。
「基本的に、ジューローは根は生真面目ですよ。もっと力を抜いてもいいと思いますけどね」
アクシオンの評価を聞いて、親父のブシドー像がますます確定した。この酒場にいるブシドーも、そういうタイプが多い。何だって酒を飲むのに、あんな生真面目な顔になる必要があるのか、聞いてみたいくらいだ。
じゃあ、他の噂同様、妬みによる悪質な噂の一つなんだな、と親父は判断した。まあ、流れているのは、根も葉もない噂ではなく、結構真実だったりもするので、完全否定も出来ないが。
「じゃあ、もう一つ依頼追加だ。武術大会のオープニングに、ブシドー限定トーナメントがあるんだよ。もちろん、流儀問わずの完全バトルロワイヤルもあるんだがな。とにかく、ブシドーの技ってやつは綺麗だろ?だもんで、オープニングでまずは派手に行こうってんで設定されてんだが…お前らんとこのも出ねぇか?<デイドリーム>のブシドーが参加となりゃあ客も増える」
「…で、賭も盛大に行われる、と」
「まぁ、そういうこった。どうだ?<デイドリーム>にブシドーありって派手に宣伝しちまえよ」
酒場の親父の考えも分かる。
が、実際にはジューローが本当にお尋ね者だと知っているルークとしては、即断しかねた。いくら東国人の見分けが付かないとはいえ、でもって、どきっ!東国人だらけの武術大会!ぽろりもあるよ(首が)であるとはいえ、目立っていいものか、どうか。
かといって、この話の流れで無碍に断るのも余計にまずい気がしたので、ルークは曖昧に頷いた。
「ま、本人に言ってみるよ。何せ、戦うのは好きだが、それ以外には全く興味無いって感じだからなぁ」
「戦うのが好きなら、いいじゃねぇか」
「金とか名誉とかで動かないんだって。裏庭で自分で鍛錬って方がいいって思ったら、梃子でも動かないな、たぶん」
「そうですね、可愛い恋人に勇姿を見せたい!ってタイプでも無いですしね」
ルークとアクシオンに気乗りしなさそうに言われて、酒場の親父は舌打ちした。全く、欲ってもんが無い奴らだ。
が、ここで押しまくってもしょうがない。
「ま、ぎりぎりまで受け付けてるからよ。何とか気を向かせて参加させてみてくれや。俺も、かの<デイドリーム>のブシドーってのが、どこまでやれんのか見てみたいしよ」
「ん、言うだけ言っとく」
ルーク自身も判断が付かなかった。むしろ、東国人だらけのところに放り込んで、こんなに見分けが付かない男なんです、とやっちゃった方がいいのだろうか、と思わないでもないし。
まあ、それは、ゲルンの街道守備隊が、ジューローの特徴をどれだけ認識しているかにもよるのだが。
いくら似ているとはいえ、ルークやアクシオンが、東国人だらけのところでジューローがどれか分からなくなったりはしない。…たぶん。
武術大会の日程を聞いてから、ルークは酒を終わりにした。後は軽く酔いを醒まして、公宮に行く頃合いだ。
親父も素直に水を出してきたので、失礼をしてはいけない相手が公宮で待ってると見当が付いた。
アクシオンが懐から櫛を取り出し、ルークの髪を梳いた。
「うん、いつも通り、いい男です」
「ありがと」
堂々といちゃついている二人に、親父は、うええと舌を出した。店内でキスしたり触りまくったりといった目立ついちゃつきはしていないものの、長年連れ添った二人ならではの空気はいつでも垂れ流しなのだ。見た目は男女でも、非常に気まずい。
しかし、こいつらがなぁ、と親父は改めて眺めて息を吐いた。
へらへらした吟遊詩人が、実はエトリアの謎を解き明かした<ナイトメア>のリーダーだった、、というのにも驚いたが、その時でさえ、仲間が良かったんだろう、と思ったものだった。そんな幸運は続くものじゃない、ここでも成功すると思ったら大間違いだ、くらいに少々皮肉っぽく見守っていたつもりだったが、実際には、めきめきと頭角を現して、ハイ・ラガードでも最高峰ギルドのリーダーになっている。
そういう親父自身も、こいつらに任せておけば大丈夫、と頭のどこかで思っているところがある。住民としては、冒険者の依怙贔屓は御法度のはずなのに。
今から呼ばれる公宮だって、他のギルドではなく、<デイドリーム>を御指名だ。実力、人格ともに信頼されていなければ、直々の依頼などあるはずもない。
ひょっとしたら、こいつらなら、本当に天空の城にまで辿り着くのかもしれねぇな、と親父は思った。
へらへらと「まあ、適当に行けるとこまで〜」なんて言いながら、天空の城への道を開き、そして。
本当にそうなったら、こいつらは、ハイ・ラガードで世界樹の迷宮が発見されて以降最高のギルドになるのだが。
「ちょっと動かないで下さい…はい、いいですよ」
「ん、ありがと、アクシー。アクシーも…あ、ソース味」
「わ、付いてました?」
お互いの口をハンカチだの唇だので拭い合いをしている二人を見ていると、とてもじゃないが信じられない。
「いいから早く行け!約束の時刻の10分前に着いておくもんだろ!」
「あんまり早いと、大臣の方が出てくるかな〜って思ってさぁ。…ま、もう行くけど」
そうして、混んだ店内を流石の身のこなしで二人は出ていった。
冒険者の酒場は、この時刻でもまだまだ終わることは無い。
さぁてもう一踏ん張りするか、と親父はばきばきと骨を鳴らして、カウンターの食器を片づけたのだた。
公宮にやってきたルークとアクシオンは、名乗るとすぐにいつもの謁見室へと通された。そこで待ち構えていた衛士の一人に、別室へと連れて行かれる。
5分も経たずに、その人は現れた。
予測はしていたので、ルークは最大限に敬意を払って深く礼をする。
「お初にお目もじ申し上げます。ギルド<デイドリーム>リーダーのルークと申します。ご尊顔を拝し奉り…って続けた方がいいですか?」
「いえ、時間が無いので楽にして結構です」
残念ながらルークの軽口には乗ってこず、公女は生真面目な口調で言った。
許可を得られたので、遠慮なく顔を上げ、ルークはまじまじと公女の顔を観察する。なるほど、ある程度のカリスマは備えているが、畏怖の類の重圧は全く感じない。
ルークの内心の人物評には全く気づかず、公女は口早に続けた。
「頼みというのは、他でもありません。わたくし個人からの依頼になります。わたくしは、他の者のみに危険を冒させていることに居ても立ってもおられず、16階の磁軸に参ったのです」
最悪、とアクシオンが口の中だけで呟いたのが、ルークには分かった。まあ、公女には聞こえていないだろうから、よしとしよう。
「しかし、魔物たちに囲まれてしまい…あわやという時、わたくしの猟犬が魔物たちを引きつけてくれたのです。吠え声に気づいた衛士たちに助けられ、わたくしはこうして無事なのですが、ミニスターはそのまま樹海の奥へと消えたままなのです」
言いたいことはある。
しかし、公女に向かってはっきりとは言えず、ルークは神妙な顔で俯いていた。
「どうぞ、お願いです。わたくしのミニスターを助けては下さいませんか?ミニスターは賢い子です。きっと、上手に逃げていると思うのです」
猟犬とはいえ、犬である。16階で無事でいられる確率は低い。
とはいえ、確かめもせずにそうも言えないだろう。ぐずぐずしている間に、どんどん生存確率は下がるのだし。
ルークはいつものようにばりばりと灰色の髪を掻いてから、溜息を一つこぼした。
「確約は出来ませんが。一つだけ約束して下されば、引き受けます」
「何でしょう?わたくし個人の依頼となりますので、わたくしの力の及ぶ範囲なら…」
僅かに警戒の表情を浮かべながらも、公女はまっすぐにルークを見つめてきた。
同じくその目をまっすぐに見返す。
「いくら優秀とはいえ猟犬一匹を供に樹海に潜る、なんてことは、今後絶対しない、と約束して頂ければ」
一国の公女に向かって馬鹿なこと、とは言えなかったので誤魔化したが、十分意味は通じたようだった。公女は悲痛な顔で俯き、両手をぎゅっと揉みしだいた。
「分かっております…多数の者に心配をかけ、ミニスターの命も危険に晒し…わたくしの我が儘で、皆様にもご迷惑をお掛けすることになりました。わたくしには上に立つ者としての自覚が欠けていたようです」
「いくら下の者が犠牲になっても、当然織り込み済みの事態である、と平然とした顔をしていられるのも、上の者の度量ですからね」
皮肉にも聞こえるアクシオンの言葉に、公女は顔を歪めながらも頷いた。まだ若い女性には辛いことなのだろう。それも分かるが、だからと言って、ふらふらと危険な場所に行かれるのも困る。
まあぶっちゃけた話、公女が死のうがどうなろうが、ルークたちに直接の被害は無いのだが、そこから回り回って樹海を閉ざすとかそういう話になると面倒くさい。
しかし、公女が迷宮に入れたり、こうして内密に冒険者が面会できたり…警備は結構ザルだな、とルークは苦々しく思った。直接関係は無いとはいえ、突っ込みたいったらありゃしない。
もっとも、衛士たちが樹海で消耗されているので、それもまた必然なのかもしれないが。
ともかく、もう二度とこんなことはしない、と約束されたので、引き受けることにはした。引き渡すのが死体である可能性も十分あるが。
さっさと部屋を辞去して帰ろうとすると、廊下でいつもの大臣に会った。こんな時刻なのに、元気なことだ。
「おぉ、どうされましたかな、このような時刻に」
「あ〜…いやぁ、翼の民に、イサの流れがどうの、と呟かれたんで、あっちの文化に詳しい人でもいないかな〜と思って」
咄嗟に理由をすり替えると、意外なほど驚かれた。
「お待ち下され、今、姫様をお呼びいたします」
いや、むしろ呼ばれたくないなぁ、ぐずぐずせずにさっさと行けって思われるだろうし、とは思ったが、そうも言えないので黙っているうちに大臣は出ていってしまった。
すぐに現れた公女は微妙な表情を一瞬見せたが、すぐに取り繕って、翼の民の話を始めた。犬も大事だが、父を助けるために必要な聖杯、そしてそれがあると思われる天空の城に関することなら、それはそれで重要事項なのである。
公女による翼の民の伝説、あるいは言い伝えられた合い言葉を書き留めたルークは、こっそり呟いた。
「上帝、ねぇ…また、ろくでもない相手のような気がするわ」
自らを上帝なんて呼ぶ人間が、まともな神経を持っているとは思えない。百歩譲って、本物の神ならば許せるが…生憎ルークは神の存在を信じていなかった。
それにしても。
翼の民との邂逅を、まるで生きた伝説との出会いのように騒いだ大臣が、暴れている魔物のことを18階にいる賢者に聞け、というのは、妙なおかしさがあった。どう考えても、18階なんぞに棲んでいるなら、相手は翼の民だろうに。
それに、香木を取ってこいって依頼もあったし、大臣にわざわざ報告しないだけで、国民の方は、割と普通に翼の民の存在に馴染んでいるのではなかろうか。
まあ、いずれ翼の民に立ち塞がれた場合には、また相談しに来ればいいか、とあまり突っ込まずに帰ることにした。長居すると、公女様のご機嫌が悪くなりそうな気もしたし。
宿に帰りながら相談する。
「さて、どうしようか。ネルスたちは、今18階だよな?」
「そうですね。ショークスに頼めば、連絡は出来るでしょうが」
「どっちにせよ、いったん帰って貰うとして。…どっちが行こうか」
16階の地図は完成している。どちらが向かっても、雑魚相手なら苦労することは無い。
ただ、ところどころ棘床があるのが厄介だ。
アクシオンも、棘床に覆われた通路を思い浮かべたのだろう。少し眉を顰めて言った。
「バースさんのTP残り具合にもよるでしょうが…我々が行った方が無難ですね」
「問題は、サナキルが起きてるかどうか、だが…ま、明日出るのを遅らせたらいっか」
早寝早起きで、5時に起床して朝食後に出るのを習いとしているので、こんな夜中に起こされるのは、サナキルには辛いはずだ。
…たぶん時刻的に、別の意味で気まずいことにはなっていない…とは思うのだが。
なんとなーく、サナキルとジューローの関係が、一歩前進しているのは、見て分かる。二人の距離に、変化がある。肌を合わせた分、側にいることに抵抗が無くなっているのだろう。
しかし、恋人になったかというと、そんなことはないのも、分かっている。何せルークとアクシオンの寝室は、彼らの真上の部屋なのである。下で騒がしければ、結構聞こえるが、今のところ大人しいものだ。
というわけで、仮に今晩<何か>していたとしても、とっくにジューローが部屋に帰っている時刻だろう、と判断する。
眠りに落ちたばかりなら気の毒だが、16階を彷徨くくらいなら、多少眠くても大丈夫だろう。
宿に帰って、まずはショークスに声をかけてネルスに連絡して貰うと、ちょうど帰って来つつあるところだ、と言われた。随分早い帰りに驚いていると、ショークスは心配するでもなく、欠伸をしながら答えた。
「あぁ、落とし穴の先でカボチャと戦ったんだとよ。死んでねぇけどTPぼろぼろ」
あぁ、とルークも納得した。カボチャ相手なら、属性攻撃がルークの歌付与に限られるこちらと違って、ネルスたちはそれぞれがダメージ源になれる。ただし、TPは使用するが。
さすがにTP切れのまま探索を続けるのは怖い。しかも、落とし穴の先は棘床が多いのでバースのキュアも必要になるのだ。
グッドタイミング、とサナキルとジューローも起こしに行く。幸い、二人とも各自の部屋にいたし、そうぐったりもしていなかった。
手短に公女の依頼を説明する。一瞬、依頼元は隠そうかとも思ったのだが、どうせ他にばらす心配は無い連中だったので、伏せずに告げた。まあ、これがバースあたりだと、相手の気を引くために利用される心配もあるのだが、ほとんど外に出ないサナキルとジューローなら問題無い。
猟犬を救出に行く、と言うと、ジューローは不機嫌に鼻を鳴らしたが、面と向かっては反対しなかった。意外と動物好きなのかも知れない。
「16階の、どこにいるのかは分かっているのか?」
「いや?さすがにそりゃあ無理だ。一応、普通に亀通路の方に行ったらしいが…今の時点で絶対そっちにいるとも言えないしなぁ」
幸い、通路でうろうろしていた亀は、エルムがきっちり絞めてくれている。文字通り、首を絞めて半分の労力で倒したらしいが、伸びきった首が蛇のようで気持ち悪い、とピエレッタに嫌がられて、ちょっぴり悄然としていた。
とにかく、亀がいないおかげで採集組も気楽に奥の採掘場に向かえているし、こちらも亀の動向を気にせず歩けるのは良い。
宿から世界樹へと歩いていくと、途中で会えたのでネルスから通行許可証を受け取った。
さっそく16階の磁軸を使用し、いつものように桜の舞う場所を抜けた。
「…あれ」
樹海は、いつでもそれなりに騒がしい。魔物の吠え声や歩く音、それに木々が擦れる音。
その中で聞くには奇妙な気がするほど日常的な音が紛れ込んでいた。
「今の、犬の鳴き声だったよな?」
「みてぇだな。…たぶん、あっち」
愛玩犬が虚勢を張ってきゃんきゃん吠えているような声ではなく、獰猛な犬が本気で威嚇している声だ。どうやら、姫様の猟犬は元気に生き残っているらしい。
「賢い犬なんでしょうね。もしも魔物と戦ったら、無事では済まないでしょうが、威嚇だけしておいて、相手が怯んでいる隙にうまく逃げてるんでしょう」
また吠え声は途切れた。悲鳴も聞こえないので、うまく逃れたのだろう。
地図で言えば、北東の方角だという見当は付いたので、そちらに向かって歩いていく。
「ってことは、戦う音だの魔物の悲鳴だのが聞こえたら、逃げちゃうかね」
それが自分を助けに来た者たちの音だとは気づかないだろう。だったら、危険を避けて奥に逃げ込むかもしれない。
「なるべく、戦わずに忍んでいく、仮に戦うなら、一撃で沈める、と」
いや、一撃は無理だが。
「サソリや蜘蛛は、大丈夫なのではないか?」
主に音が高いのは、魔物の声または断末魔だ。刀だの矢だのが刺さる音は、大して響かない。
だとしたら、まずいのは鳥の類だろう。
雷鳥が出たら避けるか、と相談しながら進んでいくと、よりにもよって、通路には鳥が跳ねていた。
面倒だが、鳥が逸れたのを見計らって、子守歌を聴かせる。
2羽ほどかわして奥へと進むと、広場になった空間の奥に、猟犬がこちらを睨んでいた。身を伏せて威嚇をしているが、すぐにでも身を翻して奥へと駆け込みそうな気配だ。
「…しまった、肉でも持ってくれば良かったか」
「口笛…は、主によって合図が異なるかもしれないな」
サナキルも、猟犬との付き合いくらいあるが、グリフォール家のトレーナーが躾けてある犬ばかりであったので、他人の持ち物である猟犬への命令は自信が無い。
「賢いことを見込んで、説得するしか無いんじゃないですか?公女に会ったのは我々ですから、俺とルークが前に出るしかないでしょう。ひょっとしたら、匂いが残っているかもしれませんし」
そう言って、アクシオンは杖をしまって両腕を広げながら、するすると前に出た。猟犬はびくりと耳を立て、更に牙を剥いた。
ルークも、両腕を広げて敵意がないことを示しながら、犬の目をまっすぐ見つめながら言った。
「姫様からの依頼で、迎えに来たんだけどなぁ。素直に付いてきてくれない?」
唸り声は収まらない。あまり時間をかけると、魔物がいつ現れるとも分からない。
ルークは片膝を突いて、来い来い、と手を振った。
「頼むよ、ミニスター。それ以上奥に行かれると、人間じゃ通れない」
ミニスター、という単語に、唸り声が止まった。めくれていた歯茎が、幾分閉じられる。
「俺たちは、姫様に頼まれて、迎えに来たんだ、ミニスター。おいで、ミニスター」
単語を一つ一つ区切るように発音して、猟犬の様子を伺うと、まだ警戒した様子ながらも、じわじわと近寄ってきて、鼻を鳴らした。
姫様と握手でもしとけば良かった、と考えながらも、犬がふんふんと嗅いでくるのをじっとして待つ。
魔物よりマシとはいえ、でかい猟犬に牙を剥かれているのも、あまり気持ちの良いものではなかったが、納得したのだろう、ミニスターは、きゅうん、と一声鳴いて、ルークの手に鼻面を擦り付けた。
「よーし、いい子だ」
もう片方の手で頭を撫でて、ルークは立ち上がった。
「んじゃま、姫さんが待ってるから、そのまま帰るか」
わざわざここまで来て、大して戦いもしなかったので、ジューローは不満そうだったが、口には出さなかった。いくら何でも、犬付きで18階まで登ったり、落とし穴に落ちたりだのは、さすがのジューローもしたくないらしい。
本当に賢い犬らしく、途中で魔物に遭遇しても逃げも隠れもせず、かといって自分も攻撃に参加しようなんて身の程知らずな真似もしなかったため、難なく磁軸まで帰って来られた。
地上に戻り、サナキルたちは宿へと帰し、ルークとアクシオンは酒場までミニスターを連れていった。
「良いか?さすがに直接は返せないみたいなんだ。一端、親父に預かって貰って、それから裏ルートで公宮に帰れるらしい。自分で脱走して、公宮に帰ろう、なんてするんじゃないぞ?」
ミニスターに懇々と言い含めると、どこまで分かったのか不明だが、大人しくきゅうんと鳴いた。
「ま、この親父に、良い肉強請ればいいから」
「うぉい」
酒場の親父に預けつつ、目の前でそう言うと、親父は低い声で突っ込んだ。
「いやぁ、だって、16階で頑張ってたんだもんなぁ。しっかり食べさせてやらないと」
出自を考えれば、確かに良いもの食べてそうだ、と気づいた親父の頬がひきつった。
「んじゃ、後はよろしく〜」
目をキラキラさせて親父に向かって盛大に尻尾を振っている猟犬を置いて、ルークは手を振った。
「くそぅ、お前らにつけとくぞ!」
背後からの叫びは、ぴしゃりと酒場の扉を閉めることで、シャットダウンしたのだった。