芸術の春
いつもの通り、ルークは新しい階層での探索を本格的に始める前に、3日間の休養を宣言した。
とは言っても、リーダーは忙しい。新しい階層が宙に浮かんだ浮島だったという公宮への報告だとか、エスバットへの報告だとか、新しい武具の確認だとか、依頼の確認だとか。色々と細かくやることが多いので、ほとんどが報告書と格闘することになった。
さて、リーダー以外は、さしてやることが無かった。
何をしようか、とサナキルは桜を眺めながら考えた。
3日間はそこそこ長い。けれど、近隣の国に遊びに出るほど長くも無い。
季節は春。外に出るには絶好の日和だ。
窓を開けると、風が吹き込んで桜がはらはらと散ったので、慌てて閉めた。その一瞬の間でも、裏庭でジューローが鍛錬しているのが見えた。あの男は、休養期間だろうが探索期間だろうが、行動が変わらない。
つまらない男だ、という評価も出来るが、尊敬も出来ると思う。何より、見ていて、いつもと変わらないことに安心するし。
窓越しに見るのも疲れて、サナキルは上着を羽織って階下に降りた。
「若様、お出かけですか〜?」
すぐさま声をかけてくるメイドは、心底鬱陶しいと思う。けれど、相手も仕事だ、それを認容するのも主の務めだろう。
「散歩だ」
「お供いたします〜」
どこに行くとも、何をするとも、あてがあるのではない。そぞろ歩きに他人は邪魔だが、ファニーなら気配を消して付いてくるだろう。
本当は裏庭に降りてジューローを眺めてから出ていくつもりだったが、ファニーがいるので正面玄関から出ていった。
ファニーがジューローを嫌っているのは知っているし、この関係に反対しているのも知っている。まあ、だからといって、行為を止めるつもりも無いが、わざわざ小言を食らうことをする趣味も無い。
まったく、何でそんなに反対をするのだろう。ジューローは、そりゃ口は少々悪いが、浪費癖も無いし嫉妬で正妻を毒殺するようなタイプでも無いし、愛人としては一族の妾たちに比べて極端に劣ることは無いと思うのだが。というか、愛人選びに難があるのは一族の血だ。僕だけが悪いんじゃない。
ぶつぶつと頭の中だけで文句を言って、サナキルは賑やかな方に足を向けた。
普段はあまり人通りが多い方には行かないのだが、何となくそういう気分だった。
冒険者用の実用的な武具や薬の店に混じって、他国民向けのお土産屋のようなものが立ち並んでいる一画で、足をゆるめる。
さすがに海に面した国だ。貝殻細工の人形のようなものが店先に並んでいる。きっと真珠を使ったような値段の高いものは、店の奥にあるか、そもそも冒険者区画には無いか、どちらかだろう。
サナキル自身はパラディンだが、確かに冒険者というものは荒っぽくて治安を乱す存在だと分かっている。…まあ、仮にここで強盗が発生したら…周り中の冒険者に袋叩きに合う可能性もあるが。
店先の貝殻人形を眺めていると、店主が客の品定めのためか奥から出てきた。そこにいたのが育ちの良さそうな坊ちゃんと付き従うメイドであったため、警戒を商売人の笑みに変える。
「いかがでしょうか。この繊細な細工は、女性への贈り物にぴったりでございまして」
「しかし、土産には向いておらんようだな。旅の間に欠けそうだ」
紅色の貝は、確かに繊細ではあったがその分薄くて、ぶつけでもしたらすぐに欠けそうだった。確かに、女性には喜ばれそうな…というか小さな女の子には喜ばれそうな品えはあるが、持ち歩きたいとは思わない。
「でしたら、こちらなど如何でしょう。我が国の海は荒いですが、底に眠る貝は極上でして」
さりげなく店主はサナキルを店の中に誘導した。上客と見て、さらっと逃げられないようにしたのだろう。
壁に掛けられた額を見て、サナキルは首を傾げた。ちらりと見た時には薄暗い何かに見えたのに、次に見た時には白い煌めきを感じたのだ。
まじまじと見ると、それは貝の内側の虹色に輝く皮質を利用した絵のようだった。陽の光によって、色が変わって見えるのだ。
「確かに、我が国には無い技法だな」
ローザリアは内国で、湖はあるものの海には面していない。貝もまた、せいぜい小型の二枚貝で、このような輝く皮質は持っていなかった。
「そちらはお求め易い価格となっておりますが、粒の揃った真珠のアクセサリーもございまして」
店主が更に奥へ引き込もうとしたが、サナキルはしばらく壁の額を見つめた。
しばらくして、うん、と頷く。
「久々に、絵を描きたくなった」
「え…若様、画材はお持ちになっておられませんよね〜?」
「無論。買えば良かろう。何、大作を描こうと言うのではない。3日間の暇つぶしだ」
サナキルの頭の中には、既に何かのイメージが渦巻いていた。
「絵の具は…ランツェル産が手に入るとは思えぬからな。売っているもので妥協せねばなるまい」
筆。キャンバス。イーゼル。パレット。
必要なもののリストを頭の中で並べている間に、ファニーはちらちらと店主の表情を伺っていた。どう見ても、客ではなくなった冒険者に、店主がどう出るか測っているのだ。
「絵をお描きになられる?さすがに、この店には、そのような品は置いておりませんで」
「ふむ、そうだろうな。どの辺りに店があるのだ?」
「少々お待ちを」
店主は一度奥に引っ込み、カウンターでさらさらと紙にペンを走らせた。
「東の門からこう出まして、通りをまっすぐ参ります。しばらく参りますと、小さな噴水がございまして、そこを南に折れますと、小さな店が並んでおりまして、右側の数軒目に店先に額を並べております店がございまして、額と共に画材も商っておりますようで。もう少し大きな店となりますと、北門から出たところにございますが、少々入り組んだ区画でして地元の者でなければ厳しいもので」
「そうか、では行ってみることにしよう」
「お気をつけて」
店主から紙を受け取り、サナキルはさっさと店先へと向かった。
店の半ばまで出てきて見送っている店主を振り返る。
一銭にもならぬのに、最後まで笑顔を崩さなかった店主を見つめ、それから店の看板を見上げた。
「ファニー。この店の名を覚えておけ。国に帰る際には、この店で土産を買うことにする」
「分かりました〜」
ファニーが看板を確認しているのを後目に、サナキルは東の門に向かって歩き始めた。
店主の地図通りに店はあり、必要最低限のものは手に入れてきた。
キャンバスを枠に張り、釘を打つ。本当はこの倍の大きさで描きたかったが、もう休養の一日目も半分以上が過ぎているので、妥協せざるを得なかった。絵の具もそう多くは無いし。
象牙色のキャンバスを前に、しばらく考えていたが、思い切って筆を滑らせた。
普段のサナキルは、夕食をゆっくり摂り、更に食後のお茶もゆっくり嗜むのが常だったが、今日はみっともなくならない程度に速度を上げて夕食を片づけた。
食後のお茶もそこそこに階段を上がり、自分の部屋へと曲がると、ちょうど後ろから付いてきていたジューローが、自分の部屋の前で立ち止まった。
ちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らしたジューローが、奇妙な顔になってまた振り向いた。
やや顔を上げて、すん、と鼻を鳴らしたところは、いつもの嘲笑ではなく、何か別のことを考えているような表情だった。
「…何の臭いだ」
ジューローが、もう一度鼻を鳴らした。
どうやら、嗅ぎ慣れない臭いが、自分の部屋からではなくサナキルの部屋から流れていることに気づいたらしい。
「見るか?」
サナキルは扉を開けて、ジューローを視線だけで招いた。更にきつくなった臭いに顔を顰めつつも、ジューローはサナキルの部屋へと歩いてきた。どうやら好奇心が勝ったらしい。
数歩入って、自分の手で鼻を覆った。
サナキルは気にせずスモッグを頭から被り、筆を手に取った。
「お前も、たまには芸術に親しむといい」
「…芸術、とは、恐れ入る」
ジューローは口の中だけで呟いた。目まで痛くなってきたのは、絵の具の成分のせいか、その色彩のせいか。
サナキルの前にあるのは、真っ赤な何かだ。まるで壁に内臓をぶちまけたようなグロテスクなそれに、自然と眉が寄る。
しかし、その絵には言及せず、ジューローは痛む目を瞬いた。
「窓を開けろ」
「開けたらサクラが散るからな。慣れればどうということはない」
素焼きの壷に入った桜は、ベッド近くに寄せられている。ジューローにとっては、この淡い色合いが目に馴染むのだ。あんな真っ赤な何かではなく。
やはり東国人と西国人の感覚は違う、と溜息を吐きかけて、息を吸うだけで喉に刺激を感じて咳払いしつつ、ジューローは部屋を出ていこうとした。
「お前も描くか?筆が一本余っている。やはり安物は駄目だな、すぐに毛がばらついて」
その描きづらい筆を寄越す神経が、実にサナキルだ。
しかし、そのサナキルも、差し出した筆が手に取られたので吃驚した。
「…しばらく、俺はこの部屋には入らんぞ」
うんざりしたように言われて、サナキルはしばらく考え込んだ。
それは良かった、と返すべきだろうか、それとも、それは困るとでも言えば良いのだろうか。
探索に出ない、ということは、当然褒美を与える機会も無いので、ジューローがこの部屋に来る必然性は無いのだが…あぁ、夕べ、一つ借りになってるか。
ジューローと、こうして会話をするのは好きだし、会話無しでも一緒にいるのもまた好きなのだが、自分が言い出した褒美であるところのあれだけは、ちょっと好きとは言い辛かった。何せ痛いし。
サナキルが返事に困っている間に、ジューローはさっさと部屋を出ていった。筆だけで何をするつもりだろう。何だったら絵の具も貸すのに。…まあ、二人並んで絵を描く、なんて、夢でもなければあり得ない光景だが。
3日間の休養期間が終わる。
その最後の夕食の時、リーダーに話を振られたサナキルは、自慢そうに胸を張った。
「あぁ、僕は充実した3日間を過ごしたぞ。まだ乾ききっていないが、完成だと言えるだろう」
「へー。後で見せて貰っていいか?」
「無論」
結局、夕食後にぞろぞろと皆がサナキルの部屋に見学に来た。絵の具や筆はしまっており、イーゼルに作品が掛けられているだけだった。
ジューローは、早々に退散した。最初に見たものから少し色合いは落ち着いていたものの、やはり内臓を思わせるそれは、見ていて何だか妙にむずむずするような違和感がある。
「へぇ…凄いな、金箔が貼ってあるんだ」
「あぁ、それは譲れないと思ってな」
「若様、金箔と言えば、それなりに追加の出費が…」
「あぁ、ブローチを売った」
「若様、あれは母君からのお誕生日プレゼントでは〜〜!」
「…あ、すみません…僕が、ナンバーズの方と取引して…」
「良い。何か謂れがあるものでなし」
サナキルはさっくりとファニーをいなして、自分の作品を見つめた。
テーマは、たぶん、探索。
この世界樹の迷宮に潜った経験を思い浮かべながら描いたのだ。
「技術は分かりませんが…エネルギーは感じますね」
アクシオンの呟きが、おそらく意見の最大公約数だろう。
彼らが目にしているのは、真っ赤な渦。ところどころに黒に見紛う濃紺や深緑が不思議な流れを作っている。
おそらくサナキルは計算してのことだろうが他人が見れば無造作に貼られているとしか見えない大小の金箔が、まるで飛び散る光のようだ。
爆発するエネルギーの塊。
たぶん、そんな絵なんだろう。前衛過ぎて訳が分からないが。
当たり障りのない賞賛の言葉を残して、見物人が次々に去っていく。
何を言われようと、自分の絵に満足しているサナキルが、また飽かずに絵を眺めていると、最後に残っていたルークが声をかけた。
「で、坊ちゃん、これはどこか飾る?」
「そうだな…ジューローが臭いを嫌がっているが、僕の目の届くところに飾りたいしな」
額を作りつけたら、どこか適当なところを探そう、と思っていると、ルークが真剣な声で言った。
「そうだねぇ。これは…ちょっと恥ずかしいし。この部屋に飾る方がいいやね」
「恥ずかしい?」
何だと、そんなに拙作だと言うのか、と、むっとしてサナキルはオウム返しをしてから、ルークの目が笑っているのに気づいた。
失礼なことを言うのに、そのにやけた表情は何だ、と思っているとルークがさらりと続けた。
「いやぁ、何てぇか、『僕の恋人は、こんなに格好良いんだぞ!』みたいなラブラブな空気が漂っててさぁ。あんまり堂々とのろけられると、ほら、思春期の男女もいるし」
「え゛」
絶句したサナキルを見ずに、ルークは絵を眺めながら、うんうんと頷いた。
「やー、これ、卸し焔か鬼炎斬のジューローだろ?しかも…あ、いや、確かにジューローの攻撃力はピカイチだけどさぁ、だけど正直、第3者から言わせて貰うと、当社比150%増し!って感じで。うーん、坊ちゃんの目には、こんなに凛々しく見えてんのかぁ、としみじみ…」
ルークの言葉に合わせて、サナキルの顔が真っ赤に染まっていった。
「ぼっ…僕は、ただ、その…迷宮を探索する、というテーマを考えると、つまり、魔物を倒すことがすぐに連想され…だから、これは、その、魔物を攻撃する、というイメージであって…」
本当に、サナキルに、ジューローの姿を描いているという意識はこれっぽっちも無かった。
確かに、このところエスバット、氷姫と強敵と連戦して、ジューローが派手に卸し焔を放っていたが…ただ、樹海に行く→戦う→自分のすぐ右から繰り出される華麗な太刀筋、というインパクトの問題であって、本当に、ジューロー一人を描くつもりなど無かった。
けれど、指摘されて、ようやくサナキルも自覚する。
確かに目の裏に踊った赤と金の乱舞は、ジューローのイメージなのだろう。
こんなにも攻撃が相手に有効なダメージを与えている、という誇らしく思うような気持ちと、うっとりするような憧憬を込めて、自分が何を描いているのかという意識をする前に、一気に描き上げてしまった。
意識していなかったので、非常に素直に気持ちを表してしまったらしい。
そうと気づいたら、恥ずかしさのあまり座り込みたくなる。
「いや、うん、良い絵だよ。ちょっと開けっぴろげにのろけてるだけで」
顔から湯気を吹き出しているようなサナキルの肩を、ぽんぽんと叩いてルークは部屋を出ていった。
残されたサナキルは、ぎぎぎぎと軋みを上げるような動作で絵を振り返った。
どうやらジューローの似姿らしい炎の渦。
恥ずかしいとは思うが、それでもこれが自分の最高傑作であることには変わりない。何時間眺めてもうっとりできる自信がある。
自分の手で、熱い頬を押さえる。
乾いたら、額を作っていつも目に入る場所に飾ろう。
それにしても。
煌めく金箔を見ながら、サナキルはルークの言葉を思い出した。
「当社比150%増し」
一体何が言いたいのだろう。
これはジューローの輝きの一部しか描けていないのに。
「実物は、もっと凛々しいとも」
誰もいなくなった室内で、こっそり反論してみた。
その頃の隣室。
「何て言うか。こっちは地味だよねぇ」
スムートは、ジューローの手元の紙を見て、先ほど見た真っ赤な渦と比べてみた。
炭を水で溶いて、灰の濃淡だけで描かれたそれは、サナキルの絵を<きちぴー>じみていると思うスムートでさえ、地味すぎると感じるものだった。
ジューローは、ふん、とだけ返した。
描かれているのは、どこかの風景らしい。
高い高い崖に、奇妙に曲がりくねった樹木が生えている。
そりゃまあ、濃淡だけで遠近を表現しているのは凄いとは思う。思うが、やっぱり地味だし、貧乏臭い絵に見えた。
とは言うものの。
「でもさぁ…何となく、この線が、妙に艶めかしいんだよね」
ほぼ画面の中心にある、崖を表す線をスムートは指さした。もちろん、紙には触れていない。もしも汚そうものなら、何を言われるか分かったものじゃない。
ジューローが何度か描き直しているのを見たスムートは、この線が一番大事らしいことを知っている。その満足出来る一線に、描き加えていったのが今の風景画だ。
ただ…切り立った崖のようでいて、岩肌が妙に丸みを帯びているのが、こんな景色は知らないなりに「らしくない」と感じた。
「ひょっとして、これ…裸体画だったりする?」
なめらかな肩。
この岩らしき部分は肩胛骨か?
ということは、ここが腰で…。
スムートは絵には触れないで、指先で線を示しつつ独り言のように呟いた。
ジューローは無言だった。
無言のまま、机から絵を取り上げ、引き出しにしまった。
「もっとじっくり見せて欲しいな。減るものじゃないんだし」
「…ただの風景画に、不埒な想像をするような奴には、見せん」
「ええ〜」
もしも裸体画だとしたら、肩胛骨があるのだから背後からの図だ。何か思い入れでもあるのだろうか。
そして、肩は丸みがあるが、胸から腰へのラインはなだらか過ぎて、腰の張りは足りないように思う。
…つまり、少年の背中からみた上半身、か。
「君って、意外とマニアックだったんだねぇ」
もしも自分が可愛い恋人の絵を描くなら、やっぱり顔を描くけどなぁ、何で背中なんだろう、とスムートは不思議に思う。
ジューローはあからさまに不機嫌な顔で、机の上の筆と炭を、絵とは別の引き出しにしまった。
慣れないことはするものじゃあないな、と口を歪める。大昔、屋敷の床の間に飾っていた水墨画を思い出しながら描いたつもりなのに、何でこんなことになったのやら。
ただ、黒と白、というイメージを思い浮かべた時、夜の闇に浮かび上がる白い何かを連想しただけだ。
それが背中なのは…まあ…いつも、そういう体勢だからだ。
いやいやいや、俺はあれを描いたつもりはない。あくまで風景画を描いたのだ。
そうだ、今度描く機会があれば、桜にしよう。
青い壷に入った桜を見やると、満開ではあったが、やはり床に花びらが散っていた。
指先でそれらを拾い上げると、しっとりと水を含んだような柔らかなその感触に、また何かを連想しかけて、慌てて頭を振った。
屑入れの上で手を開くと、薄紅色の花びらが、はらはらと舞った。
蔓を編んだ薄茶色の駕籠に花びらが引っかかる。
やはり、桜はいい。特に、この色が好みだ。真っ白ではなく、かといって派手な紅ではない、大人しい色合いが東国人の感性に合うのだ。
あんな血のような真っ赤な絵などより、この自然の色合いの方がよほど…。
とりあえず、自分がサナキルを見る時に、桜色という言葉をよく思い浮かべていることについては、気づいていないことにした。