桜の園へ




 雪に埋め尽くされた景色を見ていると、ジューローの足が止まった。
 「…こりゃあ…どうするかなぁ」
 リーダーの、呆れたような声がした。何があったんだろう、と何とかジューローの脇越しに見る。
 階段だ。
 それは、まあ良いとして。
 最初は、何が違うんだろう、と分からなかった。何せ不安定な姿勢で見ているし、階段は薄暗かったから。
 だが、よくよく目を凝らしてみると、階段は見えるものの、その両脇が何やら動いているように見えた。壁に触手系の敵でもいるのか?と、更にじっと見ていると。
 頬に風の感触があった。
 「…まさか…壁が無い、のか?」
 「なんだよねぇ」
 ルークが灰色の髪を掻き回しながら答えた。
 「確かに、よーくよーく考えると、もう15階分も空に向かって上がってきたんだし、これだけの高さのところにいるのも、不思議じゃ無いんだけど。こう目にすると、うわあああって感じだよな」
 吟遊詩人の癖に貧困なボキャブラリーだな、と心の中だけで呟いてみたが、空間を透かしてみたサナキルも、一番に思い浮かんだのは「うわああああ」という悲鳴だった。
 「落ちたら…死ぬ…よな?」
 「えぇ、死ねますね。完膚無きまでに粉々に死ねますとも。きっと一瞬で痛みも無いでしょうから、死に方としては悪くないですが」
 相変わらずメディックの癖にドライなことだ。
 「ま、見ててもしょうがねぇよ。ロープ出してくれ。俺が行く」
 「あいよ」
 ショークスがロープの一端を自分の腰に縛り付けた。その逆端を、ルークが氷柱に縛り付ける。最悪、落ちてもロープがあれば下までは落ちない…はず。
 「んじゃ、行ってくらぁ」
 気軽に言って、ショークスは身軽く階段の中央を飛ぶように登っていった。
 しゅるしゅるとロープが解けていき、どんどん短くなる。
 「30mで足りたらいいけど」
 ルークが心配そうに言ったが、何とか全部無くなる前に、ロープの動きが止まり…また動いて、ぴん、と張られた。
 まさか落ちたんじゃ、とサナキルは緊張したが、ルークはそのロープの張り具合を確認して頷いた。
 「うん、いい手がかりになるな」
 階段の中央に伸びていくロープを見ていると、上からショークスが降りてきた。
 「おう、上はまた樹が一杯でよ。とりあえず適当な幹に縛ってきたぜ」
 「サンキュ。んじゃ、皆で行くか」
 ルークがそう言ってから、ジューローとサナキルを見やった。その視線に、ジューローがサナキルを降ろす。
 ジューローの体から手を離し、一歩踏み出そうとして…かくりと膝が折れた。
 「あ〜、まだ駄目か。ジューロー、行けそう?」
 「暴れなければな」
 針を刺すどころか錐をねじ込まれているかのような痛みに足をさすっている間に、また担がれることで合意がなされたらしい。そりゃ置いて行かれるのも困るし、ジューローに嫌がられないのも嬉しいが…あの姿勢はあまり望ましくないのも確かだ。
 「一応、俺とアクシーが後ろから行くよ。姿勢崩したら何とか助ける…つもりではあるけど」
 本気でジューローとサナキルが転がり落ちた場合、この二人では支えられるかどうか、ちょっと自信が無い。かといって、ショークスも腕力という点では似たり寄ったりなので、斥候、本隊、殿、としては妥当なところだろう。
 ジューローがまた同じ姿勢で持ち上げた。慌ててジューローの服を掴む。
 だが、階段を2歩上がったところで、サナキルは悲鳴を上げた。
 「ジューロー!待て、この姿勢は怖いぞ!」
 平面を歩くのと同じ姿勢のはずだが、階段を登られると、一段と上半身が頼りなく、しかも周囲の空がはっきり見えてしまい、不安定さがひしひしと感じられた。
 ジューローの肩から転がり落ちたら、もうおしまい。
 自分が掴んでいるのは服の端、という非常に頼りないものである。これで安心して運ばれろ、と言われても、無理だ。
 ジューローは無言でそのまま2歩下がった。
 雪面に降ろし、機嫌の悪い声で低く言う。
 「…鳩尾を殴って、気絶させても良いか?」
 あう、と黙ったサナキルは、上目遣いでジューローを見上げた。
 暴れたいわけではない。ただ、もうちょっと安定した姿勢で運ばれたいだけだ。…贅沢言える立場で無いのは分かっているが、それでも、もうちょっと…。
 「ほら、途中で気づいて暴れても困るしさ。それは止めといてやれよ〜」
 リーダーが微妙にフォローになっていないことを言ったが、アクシオンがちょっと困ったように続けた。
 「無理に登らなくても、糸で帰ってサナキルが回復してから、また来ても良いんですが」
 そうだ。磁軸があるかどうか分からないのに、無理をすることは無い。
 しばらく黙っていたジューローが、ちっと舌打ちした。
 少し屈んだかと思うと、膝裏に腕が差し入れられた。
 「…俺としても、こんなところは、さっさと済ませたいからな」
 ごくごく普通に抱き上げられたサナキルは、目をぱちくりさせてジューローを見上げたが、機嫌悪そうに唸られて、慌てて目を伏せた。
 「首に腕を回して、しっかり掴まっていろ」
 え?と驚きつつも、言われたとおりにすると、頭の場所を調整された。
 「動くなよ。視界を遮られると困る」
 「分かった」
 こういうのを、何と言うのだっけ…お姫様抱っこ…?
 いやいやいやいや、たぶん違う。何か別の名称があるに違いない。
 かなり恥ずかしい体勢だ、と顔を赤くしていると、下から続いてくるルークたちと目が合いそうになって、慌てて瞼をぎゅっと閉じた。
 「…おんぶの方が、手が空いて、良いと思うんだけどなぁ」
 「さぁ…抱っこの方が安心するんじゃないですか?視界内に本人が入るから。実際問題、足が麻痺しているなら、あの方が安全でしょうしね」
 ぼそぼそという会話は、よく分からなかった。
 しばらく規則的な振動を感じていて、それから、まだなのか、と目を開いてみて…後悔した。
 夜の闇に浮かぶように、15階の出口が青白く揺れていて、まるで空中に浮かんでいるかのようなそこから歩いて上がってきたのかと思うと目が回りそうだった。
 思わずジューローにしがみつく力を必死なものにすると、小さく唸られてから髪を撫でられた。いや、単に邪魔な髪の毛を除けられただけだろうが。
 それ以降は目をぎゅっと閉じたままだったので、どのくらい登ったのか分からないが、ともかく揺れ方が変わった。ようやく平地になったのだろう。
 「お、ラブラブ」
 「…誰がだ」
 ショークスのからかうような声に不機嫌なうなり声で返したジューローが、ぴたりと足を止めたので、サナキルは目をそっと開けた。
 後ろから歩いてきたアクシオンの顔も驚いたような感じで、ルークは何だか感激しているような表情だったので、サナキルは何度か瞬き、それからようやく前方の光景が驚くべきものなのだろうと気づいて、身を捻った。
 目に入ったのは、ピンク。
 そういえば、頬に感じる風が生ぬるい。
 そこに広がっていたのは、一面の花咲く樹木であった。ピンク色の小さな花に埋め尽くされた樹冠を頂く焦げ茶色の幹が延々と立ち並んでいる。
 「…桜」
 ジューローの口から、呆然としたような響きが漏れた。
 「え?」
 「降ろすぞ」
 ジューローが数歩進んで、サナキルを下に降ろした。案外と、そっと降ろされたのは、ジューローが桜に気を取られていたからだろうか。
 ジューローはそのまま樹木に近寄っていたが、サナキルは降ろされた場所を眉を顰めて触れていた。
 どう見ても、綺麗に整えられた花壇の柵だ。つまり、人工的な区画。そういえば床も平らに敷き詰められた石畳だし、豊かな国の中心部にのみ見られるもっとも手入れされた区画を思わせる。
 何故そんなものが上の方に?いや、神の住処に近づいたのなら当然だと言えるのだろうか?
 花びらがぱらぱらと降ってきたので手のひらで受けてから顔を上げると、ジューローが枝を振っているところだった。どうやら折り取ろうとしているらしい。
 生木というのは、そう簡単に折れるものではない。何とかねじ切ったようだが、折れ口はささらになって如何にも醜い。
 「おい、僕の剣を使え。お前の刀では、刃こぼれを起こしそうだ」
 腰に手をやっていたジューローは肩をすくめて、サナキルが差し出すフリッサを手に取った。
 刀の構えをすると何だか妙な感じだな、と思いつつも、あの広刃の剣をぴたりと構える姿は、なかなかに絵になっている。
 無言で振り下ろされた剣が、枝の一つを斬り落とした。
 「意外と控えめなんだな。もっと大きな枝を斬るかと思ったが」
 どうせ持ち帰るなら、枝振りの良いものを選べばいいのに、ジューローが斬り落としたのは、せいぜい50cmほどのものだった。
 「無粋なことを」
 ふん、と鼻を鳴らしたジューローは、ひとまず枝を下に置いた。
 それからサナキルを右肩に担ぎ上げ、左手で桜の枝を持った。
 サナキルは、僕が枝を持つから、荷物担ぎじゃなく抱っこにしてくれないだろうか、と一瞬思ったが、やはりあれも恥ずかしいと思い直して黙っておいた。
 来たところから言えば右手の方向に、いつものように光る磁軸の輝きが見えた。何だか、いつもよりも色が淡くて、桜色のように見えるのは周囲のせいだろうか。
 周辺を調べていたリーダーが、ジューローの持つ桜の枝に片眉を上げたが、何も言わなかった。
 
 磁軸を抜けると、いつも通りの地上だった。15階と行き来していると、随分春めいているように思ったが、桜舞い散る16階から移動すると、まだまだ寒いように思えた。もっとも、今は夜中で、一番冷え込む時間帯であったが。
 ジューローがそのまま歩き出したので、サナキルは足を動かしてみた。痛むことは痛むが、何とか思うように動かせる。
 「ジューロー。降ろしてもいいぞ」
 ちらりと見て、ジューローがサナキルの体を滑らせた。
 足を地に着けた途端、びりびりとした痛みに顔がひきつったが、今更もう一度担げとも言えない。
 このくらいの痛み、騎士たる者が耐えられずにどうする、そもそも『あの時』よりはマシだ。
 ぎこちなく足を動かしていると、ルークが振り返って、困ったような顔で言った。
 「いつも通り、俺たちは酒場に確認に行ってから店に行くつもりだったんだけど…ジューロー、坊ちゃん頼める?」
 いつも、自然とサナキルとジューローが連れ立って帰ることにはなっているが、もしもジューローと喧嘩別れしたとしても問題なく宿に帰ることが出来た。だが、今はサナキルの足がおぼつかない。もしも、ジューローが足を早めたら、完全に一人で置いて行かれる可能性はある。
 「装備さえ戻して貰えば、別に一人でも…」
 「いつものことだ」
 サナキルの言葉に、ジューローの言葉が重なった。
 思わず口をぽかんと開けると、ジューローはイヤそうに、ふん、と言った。
 「掴まるのなら掴まって、さっさと歩け」
 …えーと。
 本当に、あの左腕に縋って歩いて良いんだろうか。
 「僕なら、一人で…」
 言った途端、ジューローがずかずかと近づいて来たので、声が小さくなる。
 左腕が腰に巻き付き、どんどん力を込められたので、自然と足が前に出る。
 「分かった、歩く。自分で歩くから」
 まるで上へと抱えられるような力の入れ方をされると、足に負担はかからないかもしれないが、バランスは非常に悪い。
 仕方がないので、サナキルもちょっとだけジューローの体に腕を回して、ジューローの上着の裾を掴んだ。
 まるで恋人が体を密着させて歩いているかのように見えるらしく、すれ違う冒険者が口笛を吹きかけて、ジューローの一睨みで逃げていった。
 
 しばらく歩いたところで、別の冒険者が足を止めてこちらを見ていたかと思うと、早足で近づいてきたので、またこちらをからかおうとする命知らずかと思ってみていると。
 暗いので近くに来るまで分からなかったが、寄ってきたのは非常にジューローによく似た男だった。
 真っ黒な髪を無造作に縛り、上半身が裸で傷だらけ、下半身は妙にぶかっとしたズボンに脚甲。腰に差した得物は、細く反った特徴的な刃物だ。
 なるほど、確かに東国人はよく似ている。…まさか兄弟ではあるまいな。
 「失礼、それは、桜か?」
 「…さぁな。よく似ているが、俺も今日初めて見た」

 東国人同士で、完全に東国語で話されたので、サナキルにはさっぱり分からなかった。
 「よもやこのような地で桜を見るとは…懐かしいことじゃ」
 感嘆の目でジューローが右手に持つ枝を眺めている。そういえば、東国の春は桜のイメージだと言っていた。やはりこの東国人も、桜が好きなのだろう。
 「何階まで登れば、桜が手に入るのかの?」
 「十六階だ」
 「十六階!?…何と、貴殿は相当の腕前と見ゆる。いや、これは失礼つかまつった」

 いきなり目の前の東国人が畏まったので、サナキルは、一体何事だろう、と見つめた。見知らぬ東国人の方は本気で尊敬の目をジューローに向けているようだが、ジューローの方は、何となく困惑したような気配があった。
 「いや…俺だけの力では無いゆえな。…そういう貴殿は、何階まで?」
 「ご謙遜を。いや、拙者はそも冒険者ではござらぬ。近々行われる武術の…何と言うたか、他流試合のようなものが開かれると聞き、是非とも腕試しを、と参った次第。まだ間があるゆえ樹海とやらで修行をしておる」
 「他流試合?」
 「おぉ、聞き及んで無いかの?この国では二年に一度行われる有名な試合じゃと聞いておる。腕に覚えのある猛者どもが続々とこの国を目指しておるわ」

 東国人が豪快に笑いつつも、腰の刀を叩いた時の目が、好戦的なぎらつきを浮かべたので、サナキルは無意識に一歩前に出た。もっとも、装備は他のメンバーの背嚢に入ったままなのだが。
 そこで初めてサナキルに気づいた、と言うように、東国人が少し腰を屈めてサナキルの顔をまじまじと見つめた。
 「ほ、これは愛らしいお小姓じゃ。拙者はどうにも西国の肌は好きになれぬが…こうして見ると、侍らすのも悪くなさそうじゃと思える」
 ジューローが眉を顰めてサナキルの腕を引いて後ろに押しやったので、サナキルはジューローに半分隠れたような形になった。
 「ははは、同胞の稚児には手を出さぬ。…試してみたいは山々じゃがの」
 サナキルに意味は分からなかったが、何となくその口調に嫌なものを感じて眉間に皺を寄せて睨んだ。
 だが、やはり喧嘩を売ってきたとかそのような類の言葉だったのだろう。ジューローが、じりっと片足を後ろにやったのだ。刀を抜く前の動作に、サナキルは上着から手を離して間を取った。
 「ほ、戯れが過ぎたか。では、失礼。試合にて相まみえるを楽しみにしておる」
 さすがに相手もブシドーらしく、殺気には敏感なようだった。さらりと身を引き、手を振って足早に去っていった。
 「何と言っていたのだ?」
 ジューローはしばらく闇を睨んでから、ようやく構えを解いた。
 サナキルの腰を抱いて歩き出したので、サナキルも自然と前に出た。
 足の痺れるような痛みは、少しずつマシになってきている。いきなり足が崩れることは無いだろうが…まあ手を振り払うほどでもない。
 「…武術の他流試合がある、腕試しに来た、と言っていたが、聞いているか?」
 「他流試合?武術トーナメントのようなものか?我が国では秋の豊饒祭に合わせて行っていたが、この国でもあるのか?」
 「知るか」
 「そうだな、聞いてきたのはお前の方だな。…いや、僕は知らない。吟遊詩人あたりなら聞いているかもしれないが。…僕は出られないだろうしな。グリフォールの名で出るのは、何かと面倒だからな」
 勝つにせよ、負けるにせよ、グリフォールの名を背負って出るのは、遊び半分では出来ないことだ。探索の合間に腕試し、というノリで参加は出来ない。
 それにしても、武術トーナメントか。あの東国人とそういう話をしていたのなら、きっと唆されたのだろう、と思う。
 ブシドーはどうも単独行動を好んでいるようだし、仲間に守られていなければ何も出来ぬのか、とか何とか喧嘩を売られて、あの様子だったんだろうなぁ、と推測してみる。
 「あの東国人は、それに出る、と言っていたのか?その割には、世界樹に向かっていたようだが」
 「…あぁ。修行に行くのだそうだ」
 まるでサナキルに対して言ったかのように、嘲笑と侮蔑が含まれた響きだった。
 「一人でか?」
 「らしいな。…ふん、どこまで行けるやら」
 鼻を鳴らしたジューローに、いささか驚く。ジューローが、サナキル以外の人間に、悪意のある言葉を吐くのは珍しい。もっとも、本人は目の前にいないが。
 それに、かつてはジューロー自身も、樹海に<仲間と共に挑む>なんて感覚は無かったはずだ。
 だったら、今は、ちゃんと分かっているのだろうか。<仲間>と一緒にいることが当たり前になっているというなら、こんなに喜ばしいことはない。…もちろん、サナキルが共にいることも、だ。
 最初の頃からは考えられない。
 いくら怪我人を頼まれたから、という理由であっても、こうしてくっついて歩くなんてあり得ない。
 急に傍らの体の温度を感じたような気がして、サナキルは頬を赤くして、ジューローの上着を掴んでいた手を解き、指先だけでそっと摘んだ。
 ちらりと目を上げると、暗い中でも仄かに輝いているかのような桜が目に入った。
 「ジューロー。16階は春だったのか?」
 「…俺が知るか」
 ジューローは唸ってから、右手に持った桜の枝を見つめた。どう見ても、記憶の中の桜だった。似た植物ではなく、東国の都に咲く桜そのもの。
 「春なら、お前は、また上着を脱ぐのか?」
 「…そうだな」
 あまりの寒さゆえに上着を着せられているが、本来ジューローは上半身裸で探索していた。春なら、また脱ぐのかもしれない。もちろん、布一枚とはいえ着ていてくれた方が気が楽だが。
 「着ていればいいのに」
 「…お前には、関係ない」
 確かに関係ない。
 関係無いのだけれど。
 「でも、僕は、お前の上着を掴むのが、結構好きみたいだ。だから、着ていると、嬉しい」
 ジューローの腕に縋ったり、首に抱きついたりなんてのは、なかなか恥ずかしくて出来ないけれど、上着をちょっぴり掴むくらいなら出来る。
 ほんの指先だけで繋がっている関係が、ちょうどいいと思う。ジューローが嫌がれば、すぐに離せるくらいでちょうどいい。
 ジューローの返事は無かった。
 サナキルも、こんな言葉に返事があるとは思っていない。むしろ、「だったら脱いでやる」でも「だったら着ておいてやる」でも、驚くと思う。
 返事は期待していないが、好きだと言えたからいいか、と思ってから、自分で慌てて、好きなのはジューローの上着の裾を掴むことであって本人のことでは無い、と打ち消して。
 それから。
 別に、本人のことでも、いいか、と思った。

 宿に帰ると、すぐにファニーが出迎えてきた。自然とジューローの手が引かれ、サナキルは一人になる。
 踏み出した足に、痛みは無い。
 ファニーがうるさく心配してくるのを手の一振りで黙らせて、別の用事を言いつけた。
 部屋に戻って着替えていると、ノックされたので「入れ」と告げる。
 てっきりファニーだと思ったのに、振り返るとジューローがいた。
 ノックで入ってくることも、そもそもこの部屋に来ることも想定外だったので目をぱちくりさせる。
 あ、いや、今日は守り切れたんだった。ジューローは死んでいないのだから、ここに来てもおかしくない。
 「…えーと…ファニーが来るんだ。もう少しだけ待って貰えると…」
 待って貰って、その後することを考えると、声がだんだん小さくなったが、ジューローはずかずかと入ってきて、机にばさりと何かを置いた。
 床に点々と散らばる白いものを目で追い、机の上のものを見ると、それは桜の枝だった。
 そのままきびすを返すのに、え?と間抜けな声を漏らす。
 「ち、ちょっと待て。ファニーが花瓶を探してくるはずだから…」
 そもそも、ファニーに適当な花瓶を持ってこさせて、それをジューローの部屋に届けさせようと思っていたのに。
 「勝手にしろ」
 「いや、勝手にしろ、じゃなくて。お前は、自分の部屋でサクラを愛でるつもりでは無かったのか?」
 「俺の分は、部屋に置いてある。これは、俺がこの部屋で楽しむ分だ」
 「いや、この部屋で楽しむ分って…」
 ジューローと桜の枝を交互に見る。
 桜の枝は2本だったのか。そういえば、ねじ切ったのと、フリッサで斬ったのとで2本あって、確かに捨て置いた記憶も無いが。
 この部屋は、ジューローの部屋では無いはずなんだが。そりゃ、夜には…まあ…いることもあるけど。
 わたわたしていると、ノックの音がした。
 ドアを開けたのがジューローであったため、ファニーの表情がびしりと固まる。雪女もかくや、という冷たい表情でジューローを睨み付けていたが、ジューローは気にした様子も無くその横を通り過ぎようとした。
 「待て、ジューロー!ともかく、この花瓶はお前の枝を入れておけ!」
 振り返ったジューローに、反論を許さず続ける。
 「僕は、またファニーに持ってこさせるからな。これはお前が使うといい」
 深い青の壷をファニーの手から取り上げてジューローに押しつけると、3秒の間を空けてから受け取った。
 「…まあ…悪くは無い色だ」
 ジューローは呟いてから、2歩ほど歩いて、振り返った。
 「怪我人は寝ていろ」
 それだけ言って、また数歩進み、自分の部屋へと戻っていった。
 その言葉の意味が、今日は何もしないから寝ろ、という意味だったのではないか、と気づいたのは、ファニーが2つ目の壷を持ってきて桜の枝を差していったのを眺めながら、ベッドの上で転がっていた時だった。待っても待っても来ないので、あれ?と会話をリピートしてようやく思いついたのだった。
 もう来ないのなら、普通に寝よう、とランプを消して布団の中に入る。
 月明かりに照らされて、ピンク色のはずの桜の花は、青白くぼんやりと浮かんで、幽霊を思わせた。
 けれど、怖くは無い。
 風も無いのに、ふわりふわりと花びらが落ちるのも、もったいないと思いこそすれ、異様だとは思わない。
 あぁでも、桜が散ってしまったら、ジューローがこの部屋で楽しめなくなるな。せっかく切り口が綺麗な方を、この部屋に置いていったのに。
 桜を長持ちさせるには、どうすればいいのだろう。
 レンジャーなら知っているだろうか。
 サナキルは、一つあくびをして、目を閉じた。
 あぁ、何だ。
 ジューローに聞けば良いんだ。
 もっとたくさん、話が出来るといい。



諸王の聖杯TOPに戻る