雪女の正体
一晩ゆっくり眠った後、いつも通り朝食を取ったら、リーダーから今後の指針が示されるだろうと思っていたら、その朝食の場にリーダーがいなかった。
サナキルたちが眠っている間に、バースたちが2人組がいた広間以降を探索したはずだが、そっちも戻ってきていない。
おかげでジューローとショークス、レンジャーたち、という妙な取り合わせで朝食を取る羽目になった。
いや、別に悪くは無いのだが…出来れば、今朝はジューローと顔を合わせたく無かった。何というか非常に…恥ずかしい。
敵であればヒトを殺すことなど簡単だと思っていたのに、そんなものでは無かった。まるで、自分まで死に神に生命力を吸い取られたかのような徒労感がある。指先から砂になって崩れ落ちてしまいそうな感覚だった。
女王を守る聖騎士として、誰にも言えないような失態だ。
けれど…ジューローは、何も言わないのに理解してくれた。一緒だと言ってくれた。
それがとてもとても嬉しかったし…同時に酷い後悔にも見舞われた。
生き抜くためとはいえ、こんな想いをしてきたなんて。命を奪い金を奪い自分が生きて……そりゃ今でも、自分が生きるためとはいえ他人を殺すことを肯定は出来ない。けれど、こんな想いをしてまで生き抜いたジューローを尊敬するべきだと思う。
けれど、サナキルはそんなジューローをずっと責めてきたのだ。
人を殺したことも。そして、ジューローが自分の身を守らないことも
今になってみれば分かる。人を殺したこともないサナキルに、理想論でなじられるのは、それはむかついたことだろう。
人を殺したことで、こんな気持ちになるのなら…自分が積極的に生きようという気にならないのも当然だ。自分が生きることで、他人が死んでいくなら、自分の生死は神に任せよう、と自棄になるのも分かる。
ジューローの気持ちが僅かなりとも分かれば…今までの自分の行動が、非常に恥ずかしくていたたまれない。
まるで、剣を握ったこともない学者に、剣術とは、と講釈を受けさせられているも同然ではないか。
ジューローは、よくサナキルを馬鹿にしたような態度を取っていたが、それもむべなるかな。
あぁもうどうしたものか。
謝罪するか?…非礼は詫びるべきだが、今更どう言えば…。
顔を上げたサナキルは、正面に座ったジューローと目が合って、慌てて俯いた。視線をスープに向けて、ちまちまと口に運ぶ。
今、ジューローは出会った時と同じ姿だ。つまり、上半身裸ということだが。
顔は見ないようにして、ちらちらとジューローを確認する。
大きな刀傷から、小さな刺し傷のようなものまで、全身を埋める傷は、今まで生き抜いてきた勲章だ。そう考えると、傷跡も誇るべきものにも思えるが…それでも、それが増えていく様は見たくない。
機械的に朝食を食べ終え、皿が空になったので顔を上げると、椅子に斜めに腰掛けて天井の方を睨んでいるジューローが、いつものような憎々しい口調で言った。
「意外と図太いな。他人を殺そうと、腹は減る、ということか」
「…そう言われれば、そうだな。…うん、そうだ。生きている限り、空腹になるんだ」
夕べは、とても何か食べるような気分にはならなかったのに、旨いと思ったわけでは無いとはいえ、胃に朝食を全て収めることは出来た。
サナキルは、机の上に手を載せて、まっすぐにジューローを見つめた。
そのジューローは、まるでそっぽを向いているようではあるが、神経はこちらに向いているのがサナキルには感じ取れた。
「僕は、お前を守らなくてはいけないからな。そのための体力は保持しておかないと」
ふん、と鼻で笑われたが、サナキルはずっとジューローを見ていた。
ジューローはいつものように苦虫を噛み潰したような表情で、がたんと立ち上がった。
「…俺を守ると言うなら、役にも立たん剣なんぞ抜かずに、盾だけ構えていろ」
また鼻で、ふん、と言って、ジューローは部屋を出ていった。
追いかけてどうするというのでも無いので、そのまま見送ってから、サナキルも立ち上がった。リーダーたちが帰ってきたら、また降りてくればいい。
食器を片づける、という思考が全くないサナキルは、そのまま階段へと向かった。
自分の部屋に戻り、何となくベッドに転がる。
ジューローの言い方はあれだったが、言っていることは正しい。パラディンは皆を守る職業である。パラディンが盾ではなく剣を使い始めた時点で、もう何かが間違っているのだ。
最後まで皆を守り抜くにはどうしたらいいか。
アムリタは重宝するが、毎回それに頼るわけにもいかない。
今度から、TPを増やす努力をしてみよう。雑魚相手には無駄だが、これからも強敵と戦う機会は多いだろう。
今度からは、最後まで守って…。
そこまで想像したサナキルは、がばっと起き上がった。
壁を透かして見るかのように、隣の部屋を見つめる。
もしも、サナキルがずっと盾を構えているのなら。
サナキルが、これ以上ヒトを殺すことは無い。
一瞬、安堵したのも否定は出来ないが、同時にそれは誰か他のメンバーが、ヒトを殺す可能性があるということにも気づかざるを得ない。そして、それがジューローである可能性が高いことも。
そういう意味なのだろうか。
サナキルには、これ以上、ヒトを殺すな、と言っているのだろうか。
もしも、そうだとしたら…いや、そんなことはあり得ない…かもしれないが…万が一、そうだとして。
ジューローが、そんな風に考えるというのは…ひょっとしたらちょっとは大切にされているということで喜ぶべき…いや、しかし、それはあり得ないか、やっぱり。
期待と、それを打ち消そうという理性とがごちゃごちゃになって、サナキルは両手に顔を埋めた。
けれど、そのごちゃごちゃをかき混ぜていくと、抽出されたのは怒りだった。
ふざけるな。
僕は、これでようやく対等になれたんだ。
僕だけ、飾りものになんてされてたまるか。
あんな想いをするのは正直勘弁して欲しいが、それでも、それをジューローに押しつける気は無い。
人を殺す罪を負うというなら、傷を負わせた剣だけではなく、身を守った盾も負うべきだ。
ジューロー一人に手を汚させはしない。仮に、サナキル自身は盾を構えて、敵を攻撃しないとしても、だ。
絶対に…体だけではなく、心まで守るのだ。
下からお呼びがかかったので降りていくと、バースたちと、ルーク、アクシオンが帰っていた。
お茶が並べられ、いつもの話し合いが始まる。
ルークが一口飲んで、さて、と言った。
「ちょいと情報を集めてきた。まず、天空の城に住む神様の話」
お茶がひどく渋かった、とでも言うような顔で、ルークは続けた。
「まあ、よくある神話系ではあるんだけど、神様は勇者…ってーか優秀な冒険者を愛でている。だから、樹海で死んだ冒険者の中でも、優秀な者は、神の住処に連れて行かれて、愛される。…そう言う風に聞けば、良い話だなーって感じだけど」
ローザリアにも、似たような話はある。若くして亡くなる将来有望な若者は、神に特別に愛されていたからだ、とか何とか。単に、遺族を慰めるための方便だと思っていたが。
「で、その神のところに連れていく役目を負ってるのが、翼の民。どうやら天使の役回りらしいわ。見かけは、ああだけど。で、今のところ、故意に冒険者を殺したってな話は無い」
あくまで運搬役であって、神の意に添う優秀な冒険者をわざわざ殺して神のものにするまでのことは無い、ということらしい。
「ここまでが、一般的に流通してる天空の神と翼の民の話。で、ここからがエスバットの話」
二人から話を聞いていないバースたちに、かいつまんで説明する。
神の御許に連れて行かれた冒険者の中で、特に愛された者は、永遠の命を授かる。ただし、その永遠の命は、普通の人間の目からすると、異形の魔物でしか無い。
「今まで戦った、キマイラとか炎の魔人も、ある意味『永遠の命』を持った生き物だろ?殺しても、2週間で元通りの姿になる。どうも、氷姫もそんな類らしい」
「つまり。これから戦うのは、元人間だということか?」
「ま、そうなるな」
バースたちは、もうその氷姫がいる広間までの道を探索してきていた。後は、広間中央のそれを倒せばいい、というところまで来ているのだが。
優秀な女性の巫医が、一体どんな姿になっているのか分からないが、それを倒さなければ上には行けないらしい。
「エスバットが守ろうとしていたということは、その女性は未だ人間の心を残している、ということか?」
「や、それは望み薄らしいわ。エスバット自身も攻撃されるって言ってるし」
「ぶっちゃけた話、単に死体を材料にして他のものより強力な魔物を作り上げた、という解釈でいいと思います。…エスバットには気の毒ですが」
アクシオンが取って付けたようにエスバットに対するフォローを追加した。
人であった頃の記憶も無く、そもそも人である自覚も無い存在を、ヒトと言っていいのかどうか。
「…死体しか、材料にしないのかしら」
思い詰めたような声がした。
暖炉から一番離れて、壁際に椅子を寄せて座っていたフロウだった。
ただの疑問、というには、切羽詰まったような調子を含んでいたため、ルークが促すように手を振った。
「私…その…氷王の墓、というのに行ってみたのだけれど。氷王も、神に改造されて雪女のようにされた、という可能性は無いかしら、と思って。人が人でなくなるようなこと、普通の術では出来ないわよね?」
氷王が雪女のような体質であった、という話はあるらしい。しかし、普通に人間の姿で、普通に王として執政を行い、普通に死んでいったらしいが。
「むしろ、フロウに聞きたいけど。改造された記憶でも?」
ルークの問いに、フロウは明らかに答えるのを躊躇っていた。それだけ悩んでいれば、肯定のようにも思えるが、ルークは黙って答えを待っていた。
フロウは真っ白な手で黒髪を乱暴に払って、足を組んだ。薄衣から足が露になるが、あまりにも雪のように白いので、肉感的な艶を感じない。
「男性が女性になる、という時点で、改造に近いことが行われたのではないかと推測しますが」
アクシオンの淡々とした声に、フロウが弾かれたように上半身を仰け反らせた。
赤い瞳を見開いて、それから両目を閉じ、また開いた。
「いつ、気づいた?」
「まあ、メディックですからね。そのつもりで観察すれば、数日もすれば」
フロウが、また黒髪を払った。だが、それは先ほどのような優美なものではなく、男性的な乱暴な仕草であった。
「参ったな…くそ、男だって分かってるなら言ってくれよ。女の真似するのも恥ずかしいんだぞ」
それまで美しく組んでいた足を無造作なものに変え、フロウは顎に手を突いた。
「じゃあ、正直に話すが。確かに俺は男だった。ごく普通に人間の錬金術師だったよ」
フロウの美しい柳眉が寄せられ、白い繊手を見つめて、それをひらひらと振った。
「トゥエイツに錬金術の材料を採りに行って…遭難した。で、気づいたら…」
「改造されてた?」
「いや、雪女に拾われてた」
そこでようやくフロウはにやりと笑った。
「今まで見たこと無いような良い女で。向こうも俺を気に入って助けてくれて、さぁ街に帰れ、いや俺は帰らない、あんたに惚れた…って。俺も若かった」
一つ溜息を挟んで、続けられる。
「んで、口説いて口説いて口説き落として。相手は、まあ今の俺と同じ状態だ。冷気は吹き出すわ、触ったものを凍らせるわで、寝るには向いてない女だったが、とにかく俺は夢中だった。お前を抱けたら死んでもいい、なんて言い張って」
熱烈な恋愛のろけ話に聞こえるが、何だか口調は苦かった。
どうも後悔しているらしい表情に、サナキルは眉を顰めた。相手が雪女と分かっていて恋愛したのに、何の文句があるのか。
フロウの話が途切れたせいで、室内にはルークが紙にペンを走らせる音だけが響いていた。
ごほん、とバースが咳払いをした。
「あ〜…参考までにお伺いしたいのじゃが。…出来たのかの?」
「爺ちゃん」
「いや、そこは興味があるじゃろ、普通。ワシが特に助平なのでは無いぞ!」
エルムの冷たい突っ込みに、バースはあわあわと手を振ってから、フロウを期待の目で見つめ…視線が下に漂った。フロウは肘を自分の組んだ膝に突いているため、胸の谷間がはっきり見える。
「やった」
すぱーっと言い切って、フロウは口元を歪めた。
「あの女は多分生粋の雪女で、自分の体温調節が出来た。で、俺が抱くときは出来る限り体温を上げてくれたんだ。とは言っても、こっちが凍らないってレベルで、雪を相手にしてるみたいなもんだったけど。それでも惚れてたし、俺もまあ…盛りだったし」
フロウは、ちらりとエルムとピエレッタの方を見て、残りをもぞもぞと濁した。思春期の青少年相手に、冷たくても萎えずにやれた、とは言えなかったらしい。
「数ヶ月は、いわゆる蜜月ってやつだ。幸せだったんだが…」
過去形だ。
おまけに表情を見れば、それを懐かしんでいると言うよりは、後悔しているらしいのは見て取れる。
「けど、体温を上げるのも…あ〜…その…なにするのも、雪女的には体に負担のかかることだったらしくて、だんだん弱ってきて…で、最後」
フロウは黒髪をかき混ぜ、盛大に溜息を吐いた。
「呪いやがった。あいつが死んだ後、俺が山を下りて他の女のものになるのが許せない、だと。あぁ、もちろん、俺は否定したさ。その時は完璧に惚れきってたし、お前が死んだら俺も死ぬ!くらいのつもりだったし。…で、ついに死んだら…俺はこの通り、雪女になってた」
フロウは自分の指先で薄衣の胸元を開け、豊かな乳房を見下ろした。
「いやもう何の冗談だ、と。そりゃ女になったら、他の女のものにはならないだろうさ。だからって、仮にも惚れた男にやることか?100年の恋も冷めるってもんだろ?違うか?」
言ってるうちに興奮したのか男らしく椅子に大股開きになったフロウから目を逸らし、サナキルは一応考えてみた。
本当に好きだったら、相手に何をされても平気。
…そういう考え方もあるだろうが…確かに限度はあるだろうなぁ。
はーい、とルークが手を挙げた。
「でも、そのおかげで、愛した女を亡くした悲しみに浸らずに済んだんだろ?実は彼女なりの愛情だったって思わない?」
フロウは一瞬、虚を突かれたような顔になり、しばし無言で考え込んだ。
「…そういう考え方をしたことは無かったが…確かに、悲しんで後を追うって気持ちが、綺麗さっぱり消え去ったのも事実だが…」
でもやっぱり納得できない、とフロウは首を振った。
「たとえば、それが3年で切れる、とかなら、まあ親切って線もあるかもしれない。けど、俺はもう20年ばかりこの姿だぞ?年を取る気配も無い、体質が変わる気配も、もちろん男に戻る気配も、欠片も無い。やっぱり嫌がらせとしか思えない」
「何かヒントは無いんですか?どうやって体質を移したか、とか、元に戻るための方法とか」
ドライなアクシオンが、動機ではなく実際的な解決法について質問した。アクシオンとしては、正直、雪女が何をどう考えてそんなことをしたか、など全く興味は無い。メディックとして、その具体的な理論と治療法が気になるだけだ。
「あぁ…まあ、実は、ヒントは貰ってるんだが…」
フロウは少々気まずそうな顔になって、またエルムとピエレッタの方をちらりと見た。
それに気づいたピエレッタが、賢しげな顔でエルムを見やった。
「エルムくんは、耳を塞いでおいた方がええんやない?どうも下ネタにいきそうやわ」
エルムは少し首を傾げてから、首を振った。
「いいえ、僕も聞いておきます。僕も、体がまともなら、成人扱いで従士になっていた年齢ですから」
「そうじゃのぅ、エルムももうええ年じゃ。ワシが若い頃は…」
「爺ちゃんの話は、後でいいから」
祖父のいつもの武勇伝をさっくり切り捨てた孫は、至極真面目な顔で、フロウを見つめた。
「氷姫と戦うのに、何かの参考になるかも知れませんし…どうぞ、お気遣いなく」
「…いや…参考にはならないと思うが…」
フロウはもぞもぞと言葉を濁してから、視線をエルムからアクシオンの方に向けて一気に言った。
「男と愛のあるセックスをすれば元に戻る、らしい。つまり、あの女が死んだのと同じ状況だ。…あ〜、聞かれる前に言っておくと、俺にそういう趣味は無い。…無い、が、元に戻るためなら背に腹変えられん、と…やってみたことは、ある。もちろん、愛は無いが」
結果を聞くまでも無いだろう。目の前のフロウは雪女であって、男の錬金術師では無いのだから。
アクシオンは真剣な顔で、机を指先でとんとんと鳴らした。
「何某かの方法で、男性が女性の外見に変化している。そして、それが精液を体内に取り込むことで、男性の外見に戻る可能性がある。…つまり、精液でもって<男性>という特徴を取り込む、ということであれば、理屈が合わなくも無いわけだ」
独り言のようにぶつぶつと言ってから、ふっと首を振った。
「駄目か。愛の有無は関係ないな、これじゃあ」
「いや、それが、だ。愛の有無は…たぶん、最後までやれるか否か、ではないかと」
フロウは、先ほどまでの気まずそうな様子を捨てて、同じく真剣に身を乗り出した。どうやら夢か冗談のような呪いの解き方が、一応メディックの視点からは理屈上合致していると認められて、本気で検討する気になったらしい。
「俺にそういう性癖は無いが、この外見だ、男の方から寄ってきたんだ。で、試してみたんだが…凍り付いて…その…ぽろっと…折れた」
何が、とは言わなかったが、男性陣は非常に痛そうな顔で腰を引いた。
「いくら強姦しようとしてきた糞とはいえ、俺も同性として同情を禁じ得ない訳で。…それから、試していないが、おそらくやる方の熱意と愛情、俺の方も相手に熱意を感じていれば、おそらく体温が上がり、最後まで出来る…のではないかと。俺があの女相手に出来たように」
自分の推論がメディックの理論として合っているだろうか?と期待の目で見ているフロウに、アクシオンは一度目を閉じ指だけをとんとんと鳴らしてから、また目を開けた。
「要するに、精液が膣内に入れば良いんですね?それなら、試してみることは出来ると思いますが。採取した精液を、ワセリンあたりと混合させて、注射器で挿入すれば良いんですから」
<愛>という部分を完璧に無視して、結論だけを述べる。
合理的と言えば合理的だが、これまで悩んでいた部分をすっぱり無視されてフロウは片頬をひきつらせた。
「…アクシー。いくら人助けでも、アクシーのを使わせませんよ、俺は」
「もちろん、ルークのを提出する気もありませんとも。…バースさんあたりが協力して下さるのでは無いかと」
アクシオンに見つめられて、バースはごほんと一つ咳払いした。エルムから目を逸らし、いかにも真剣な様子で言う。
「無論、ワシとしても、協力するにやぶさかではないとも。まだまだ若い者には負けん」
「では、高純度のワセリンを手に入れてきます。それでよろしいですか?」
フロウはちょっと呆然とした様子で座っていたが、こくこくと頷いた。
「あ、あぁ。もしも、何もせずにこの体が治るものなら、何でも試してみたい」
「あまり過度な期待はしないで下さいね。理屈上、精液の男性データが必要だと推測しただけで、<愛>がどうこうという部分は、俺には分かりませんから」
隣に恋人がいるというのに、<愛>なんて非合理的なもの理解できるか、と言い切ったメディックは、薬泉院に行くため席を立った。
結局。
実験は、失敗に終わった。
ガラスの注射器に入ったワセリンと精液の混合物は、フロウに挿れる前に凍り付いて砕け散ったのである。
「…だ、駄目だ…男の精液が体に入ると思うと…気持ちが悪くて…」
自分の体を治すため、と納得していたはずなのに、フロウは差し出された濁った注射器を目にすると、アクシオンが思わず後ずさるほど体温を下げてしまい、近づけなくなったアクシオンから注射器を受け取った途端に注射器ごと凍らせてしまったのである。
「マイナス何度位になってるんでしょう…おそらく、精子が死滅してるんじゃ駄目でしょうし」
ぐったりとベッドに俯せになって、ぶつぶつと呻いているフロウを見ながら、アクシオンは手にした試験管をくるりと回した。
「単なる医療行為だと思うんですけどねぇ。むしろ、バースさんからだと言わない方が良かったですかね?」
相手の顔が分かるだけに、あの爺さんの精液が入れられるのか、と想像してしまうのが余計いけないのかもしれない。
「俺は…やっぱり一生このままなのか…」
「さぁ…男性と恋でもしてみれば如何ですか?好きになれば、相手が男だろうが女だろうが気にならないですけどね」
「俺は気になるんだよ……」
いつも白い顔を一段と真っ白にさせて、フロウは悲しそうに呟いた。
「あの女が言った通り…俺は一生あの女から離れられないのか…」
男同士で出来上がっている身としては、男と恋愛なんぞ気持ち悪くて出来ない!と言われると少々気を悪くしないでも無いのだが、フロウがあんまりにも悄げているので、ルークはなるべく真面目な声で慰めてみた。
「ほら、氷姫を改造した神様が天空の城にいるって話だからさ。エスバットからも、神様には憤懣ぶちまけて懲らしめてくれって言われてるし、話が出来る相手なら、雪女への改造法とかその解除法とか聞いてみるからさ。何も、この世の終わり!みたいに思い詰めなくても」
「…あぁ…ありがとう…おそらく俺は足手まといだろうから、直接その神に聞くことは叶わないだろうが…頼む」
ベッドの上で、フロウはのろのろと身を起こし、体を投げ出すように礼をした。どうやら下手に望みを抱いた分、駄目だったのがかなりのショックだったらしい。
本当に神がいるのかどうか、話が出来る状況なのか、雪女はその神の産物なのか、と色々不確定要素が多いが、それでも縋りたくなるくらいに追いつめられているのは、確かに気の毒と言えば気の毒だ。
まあ、ルーク個人の意見としては、それよりは男をひっかける方が確実で手っ取り早いとは思うが。しかし、そのルーク自身も、仮に自分がやられる方の立場だったら…非常に躊躇うだろう。
「ま、ぼちぼちやっていくからさ、期待せず待ってておくれ」
折しも季節は春。
北国とはいえ、だんだん暖かくなる季節である。
雪女がいつまでこの国に留まっていられるか分からないが、今まで通り、行ける範囲で頑張るしかないよな、と改めてルークは思った。