エスバット
15階の探索で面倒なところは、夜にならないとしっかり凍らない水面があることだった。完全に水ではないのだが、昼に行くといかにも氷が薄く、踏み込んだら割れそうなのだ。では水面を避けて行けばいいかというと、その両脇は氷柱が密集していて渡れそうにもなく、結局は気温が下がっている時間帯に探索を進めるしか無かった。
探索が夜に限るとすると、普段は朝から夕にかけて探索をするのが習いのサナキルたちにとってはつまらないことになる。もちろん、夜に行けば良いのだが…既に早寝早起きという健康的な睡眠サイクルになっているので動かすのが辛い。
「え〜、ということで、一個依頼を受けてきた」
帰ってきた縛りパーティー、起きてきたサナキルたち全員で朝食を取っている場で、ルークが発表した。
「何でも14階から抜け道があって、氷王の墓ってのを探すんだとさ。まぁ、差し迫った必要があるんじゃないが、伝説の王の墓があることが証明されると、公宮研究族が嬉しい、って感じ」
ルークはひらひらと依頼の紙を振りながら、面白そうに言った。吟遊詩人としては、過去の伝承が証明されれば楽しいし、ネタにもなるので積極的に受けたいところだ。
「氷王?」
ミーティングには顔を出しているフロウが、その単語を聞き咎めた。
「知ってる?」
「いいえ…どんな伝説があるのかしら?ただ冷たい人、という意味?」
「や、俺もまだ、集めてるところではあるんだけど…」
ルークは公宮で聞いてきた話を思い浮かべてみたが、今のところは単に氷系の術に優れていた錬金術師なのかなぁ、くらいでしかなかった。
もしも興味があるならフロウも連れていきたいところではあるが、行き先が14階では、氷の術式が通じにくい敵が多いためそこまでの余裕は無いと判断する。
「ごめん、はっきり場所が分かったら、また改めて案内するわ」
そうフロウには謝っておいて、昼間はその墓地探索、夜は15階の探索を進めることにした。
先に終わったのは、15階の探索の方だった。
終わった、というか、中断して帰ってきた、というか。
この先しか進むべき場所は無い、というところで、あからさまな殺気を浴びせられたのだ。
「以前から、ちょくちょく警告は受けていたしな」
ネルスは怯えた様子もなく、平然と言った。
相手の姿は見えなかったが、殺気の質は魔物ではなく人間だという言葉に、すぐに、何度も警告をしてきた二人組を思い浮かべる。
「しかし、何故だ?先を越されたく無いと言うならば、自分たちが切磋琢磨すればよかろうに」
自分たちが先に進めないからといって、他のギルドの足を引っ張るなど言語道断だ。
サナキルの真っ当な意見に、ルークは苦笑してから少し眉を顰めた。
「実は…イヤな噂があるんだわ。噂っつってもギルド長なんで、結構な確率で真実なんだけど。…15階で見つかる死体の中には、背後から銃で撃たれた痕っぽいのが残ってるのも含まれる」
普通に受け取ると、魔物ではなくガンナーに殺された死体が多く混じっている。そういうことだ。
それがあの爺ちゃんかどうかは断言できないが、この状況からしてそうである可能性は高い。
「そこまでして、何で上に行かせたくないのか分からないが…」
「本人たちに聞くのが、一番手っ取り早いですね」
まあ、結局はそれ以外に無いのだが。
「レンとツスクルを思い出すなぁ。…あ、エトリアでも長に雇われた二人組が、途中で立ちはだかったんだよね。奥に行って、真実を暴くなっつって」
ルークは溜息を吐いて、懐かしい思い出について説明した。
あの時は、ラスボスに雇われる、という分かり易い理由があった。しかし、今回は公宮が妨害してくる理由が無い。
そりゃあ絶対とは言わない。ひょっとしたら<公女反対派>なんてものがあるかもしれないし。大公が復活するのは困るって勢力なんか普通にありそうだ。
「とにかく、押し通るってことで問題無いな?」
リーダーとして、全員の合意を取り付けてから、次の議題に移る。
「さて、んじゃ、ドクトルマグスとガンナーのペアと戦う場合に気を付けておくことだが。…エルム、どう思う?」
指定されたエルムが何度か瞬き、顔を赤くして手の中のティーカップを見つめた。
しばらくして、小さな声で喋り出す。
「…回復されます。剣で攻撃されるし…ひょっとしたら、攻撃力や防御力アップされることも…それからガンナーですが…後衛にも攻撃が来ると思います。乱射される可能性もあって…属性攻撃も…」
さすがに同じパーティーにドクトルマグスとガンナーがいるだけはある。だいたいの特性を述べて、エルムは「これでいいですか?」と言いたそうな目でルークを見つめた。
「うん、ありがと。…さ、どっちが行こうか」
おそらくドクトルマグスの技は、頭が役に立たないと使えない。ガンナーは腕が使えないと銃を撃てない。そういう意味では、ネルスとエルムのいる縛りパーティーが行く方がいい。
しかし、後衛が攻撃を受けるという意味では、ショークスとルークの方が防御が硬い。
「回復役としては、俺の方がいいと思います。乱射で大きなダメージを受けた場合、バースさんでは回復が間に合わない可能性があります」
実は、バースの回復はキュア1本。普段の雑魚相手なら、戦闘が終わってから回復するのでそれで問題ないが、高打撃力の敵を相手にするには少々心許ない。
「僕はフルガードを覚えたぞ。ガンナーが誰を攻撃しようと、十分対応できる」
サナキルが優雅に手を胸に当てて、自慢そうに言った。ついに挑発・パリングに見切りを付けて、フロントガード・バックガード・フルガードを覚えたのだ。もっとも、それ以降まだ雑魚としか戦っていないので、どのくらい役立つかは不明だったが。
「…どうするかなぁ…この場合、一点突破の方が良いだろうし、複数攻撃で無くてもいいんだよなぁ…」
雑魚相手ならば、ピエレッタの病毒で一掃出来るため、縛りパーティーが有利なのだが、強敵が二人という想定だと、普通に一撃が重いアタッカーが有利な気がする。
ヘッドバッシュで頭を縛れるか、アームボンデージで腕を縛れるか、は、不確定要素だ。だとすると、サナキルの防御が安定しているような気はする。問題はTPだが…アムリタは今まで使ったこともなく宿屋に預けている。
「…よし、うちが行くか。ネクタルたくさん持ってけば、ある程度はカバーできる」
アクシオンのヒールやエリアヒールで、HP1から満タンまで持っていける。ショークスのアザステも使えば、かなり粘れるはずだ。いきなり全員が死ぬほどのダメージを食らわなければ、だが。
ルークは周囲を見回した。
ピエレッタは少々不満そうな顔をしているが、口に出して反対はしていない。自分の防御が一番薄いのが分かっているのだろう。
ファニーはおろおろしながらサナキルと目を合わせようと躍起になっているが、当のサナキルはそっぽを向いている。若様が危険なところに行くのは困るのだろうが、それを認めると冒険者なんぞやってられないので、さすがにそこまでは慮らないことにしておく。
アクシオンは満足そうだったし、ショークスやネルスは平然としている。
…で、視線を移したルークは、ジューローがやや不機嫌そうなので少々驚いた。てっきり自分で戦えることを喜ぶと思ったのだが、何か思うところがあるのだろうか。
じっと見ていると、サナキルを睨んでいたジューローが視線に気づいたのかちらりとルークを見て、ふっと視線を逸らした。
もしも仮に『思うところ』があっても、素直に言いそうに無い態度だ。さすがに余程イヤなら口に出すだろう、と気づかないふりをすることに決めた。
「さて、んじゃ、こっちが行くことにしたんだが…今夜行くのは止めにしよう」
「何故だ?準備さえ整えたなら、早い方が良かろう」
不満そうなサナキルに肩をすくめてみせる。
「氷王の墓地を片づけてからにしようと思って。その探索でレベルアップする、もしかしたら強力な武器や防具が見つかるかも知れない、それからついでに…待ってる相手に肩すかしが出来る」
その昔、エトリアでも二人組を見つけてからしばらく時間をおいて焦らしたことがある。レンツスには効いたようだが、今回はどうだろうか。
「あれだけ寒い中、ひたすら待ってるのも辛いでしょうねぇ」
アクシオンがしみじみ気の毒そうに言ったが、目は笑っていた。おそらくは同じことを思い出しているのだろう。
「それは…騎士道に悖る…ような気がするが…」
サナキルの反論は、自信がなさそうだった。いざ1対1になった場合に正々堂々立ち合う作法は学んでいるが、期日を約束している訳でも無いのに、相手の期待に遅れるな、という項目は思い出せなかったのだ。
「それじゃ、万全の準備が整ってからってことでいいな?はい、解散」
扉の向こうから殺気がだだ漏れなのは無視して、氷王の墓地探しをすることに決定して、朝食後のミーティングは終了した。
縛りパーティーはベッドへ、そしてルークたちはいつも通りの探索に出かけることにした。
しかし、予想に反して、墓地はあっさり見つかった。
13階まで降りることになったが、地図で言えば既に埋まっている場所のせいぜい1/4程度の空間でしか無かったので、ひたすら敵を倒して進んでいくだけだったのである。
子守歌で雪の魔物を足止めしておいて、さっさと通り抜けると、最奥に綺麗に左右対称になった造りの空間があった。
「いかにも有力者の墓地って感じだよなぁ。…寒いのだけが別で」
整然とした空間は、何かの魔物避けでも施されているのか、全く荒れた様子が無かった。
白く降り積もった雪が凍り付くほど寒い以外は、地上の墓地と変わりない。
「…こういうところの宝物は、共に埋葬された副葬品では無いかと思うのだが…」
左右対称に浮いている宝箱を見て、サナキルがぼそぼそと言った。墓荒らしのような真似はしたくないが、他の場所と同じ宝箱なので、絶対駄目という主張もし辛い。
「そうなんだけどさぁ。一応、『見つけたものは見つけた人のもの』って許可も貰ってるから」
ルークはそう言って、軽く死者に謝罪と神への祈りを呟いてから、宝箱を開けた。
「ほい、何か小手」
「うわぁ、悩みますね。そろそろ王冠から別の防具に替えたいけど、踏ん切りが付くほど高性能でも無いという」
失礼なことを言いながら、アクシオンは背嚢に小手をしまった。
それから、ついに奥に向かう。
風は無いのに、身を切るほどの寒さ、という表現を思い浮かべるほど、奥に行けば行くほど気温が下がっていくようだった。
「は…鼻がもげる前に、辺りを調べよっか」
ルークは震えながら告げた。喋るだけで口の周りが凍り付き、あまりの寒さに鼻で息をすれば鼻が痛むし、かといって口で呼吸すれば喉は痛むしで、なるべくならさっさと帰りたい。
ショークスはいつものマフラーを口に当てているが、それも口元でごわごわになってしまっている。
真っ白の雪面に真っ白の柱で構成された墓地は、非常に造りが分かりづらく、しかも歩きにくかった。
何度か滑って転んで皮膚が氷に張り付いて流血沙汰になったので、ついに諦めてジューローはサナキルと墓地入り口まで避難させておくことにした。
ジューローは眉を上げて何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。どうせここに敵は出ず、単に墓の確認だけで面白くないと分かっているらしい。
後の3人だけで墓地を探索し、ついに目も開けられないほど寒い場所に辿り着いた。
最後の最後にゴーグル着用のショークスに任せると、何かを手に戻ってきた。話をするのもそこそこに、サナキルたちと合流して糸で帰ることにした。
地上に帰り着いた途端、空気が暖かいと感じた。春になったとはいえまだまだ寒いはずだが、極寒から帰還すると、初夏に飛び込んだ気分だ。
自然と日なたに足が向き、肩に痛いほどの日差しを浴びながら、ようやく口元に当てていたマントを降ろした。
ルークは大きく深呼吸して、自分の手で強ばった顔の筋肉をほぐした。
「うっはー。さすがにあれだけ寒いと、きついなぁ」
「本当に。帰ったら、サウナを使わせて頂きましょう」
アクシオンも同じように頬をマッサージしながら答えた。
「ショークス、溶けてるか?」
凍り付いた仲間に冗談がてら聞くと、自分の手の中の物を見つめていたショークスが顔を上げた。
「これ、はなっから凍ってなかったんだよな。墓に供えられた花なんざ、持って帰るもんじゃねぇかとも思ったんだけどよ、他に持ってけそうなもんがなかったんで、証拠がてら取ってきたんだが…」
ショークスが掲げたのは、生き生きと咲き誇っている花だった。あれだけの寒さに萎れることもなく、かといって凍り付いて固まったのでもない、ごく普通に生きている花。
「誰が供えたのか、とか、考えない方がいっかな…」
「不老不死で生き続けている花なのかもしれませんよ?」
あの墓地に毎日花を供えに行く人物がいる、というのも、かつて墓を造った時からずっと供えられた姿のまま、というのも、どっちも同じくらいイヤだ。
まあ、少なくともこの花が、今まで見たことのない種類だ、というのだけは確かだから、さっさと公宮に報告すればいいか、とルークは片づけることにした。興味が無いと言えば嘘になるが、それ以上に『これから』のことが気になる。
これで、行ける場所は埋まった。
後は、推定二人組の敵が待っている扉を開けて進むしか無いのだ。
2対5なら勝てるのか。もしも勝てない場合、撤退は出来るのか。もっとレベルを上げてから行った方が良いのか。
色々気になることはあるが、定位置にいる魔物と違って情報が全く無い。自分たちの力を信じるしか無いのだが…。
せめて、防具だけでも良いものにしておこう、と一つ頷いた。
何とか雪の魔物をどつき倒し、いつもとはちょっと違った輝きの白玉を手に入れ、商店に持ち込んでエンジェルローブを作って貰う。
推定ガンナーということで、耐突ミストも買っておいて、もうこれ以上金でどうこう出来ることは無い、という状態にした。
「さぁて…んじゃ、夜になったことだし、そろそろ行きますか」
ルークは、首をこきりと鳴らした。最悪、全滅したとしても、相手は魔物では無いのでいきなり死体を食い散らかされる心配は無い。ということは、ショークス経由でネルスたちに来て貰って回収出来る可能性はある。
もっとも、これは、相手が極悪非道では無い、という前提での作戦ではあるが。
そもそも、勝てば問題は無いのだし。
夜とはいえ、まだ宵の口である。早寝早起きのサナキルも、まだまだ元気だ。
青く染まる樹海に降り立ち、ショートカットを通って扉の前に行く。
ひょっとしたら、待つのに飽きていなくなってたりしないかなぁ、と淡い期待は抱いていたのだが、残念ながら、すぐに殺気がわき上がった。
サナキルが先頭に立ち、扉を押し開ける。
すぐには姿は見えなかった。
じわりじわりと進んでいき、広場の中央付近で人影が見えた。
「…かつて、とても優秀な巫医がいたの」
左側から、若い女性の声がした。剣を構えて、アーテリンデがゆっくりと歩み寄ってくる。
「私たちは樹海に挑み…彼女は倒れた。知っているかしら?天空の城には、神が住んでいる。そして、優秀な冒険者を死後手元に引き寄せるの」
「…そして、彼女は神に愛され、永遠の命を授かった。…だが、それは我々から見れば…」
年老いたガンナーは、そこで言葉を途切れさせ、首を振った。
「けれど」
哀しみに満ちた空気が、ひりひりとするような殺気に変わる。
「それでも…私たちは彼女を愛してる。彼女を倒させはしない。<デイドリーム>、ここで死んで貰う!」
がちり、とガンナーの手の中で銃が音を立てたのが、戦闘開始の合図になった。
戦闘は長く続いた。
サナキルはフロントガードに専念し、ジューローは二人同時に鬼炎斬で攻撃する。アクシオンは回復の合間に攻撃をしたが、あまりダメージが出ず舌打ちした。
ルークは耐突ミストを振りまき、耐邪の鎮魂歌を奏でた後は、少々ながらも弓を射た。スキルは無いが、弓自体の攻撃力のおかげで、何とかそれなりのダメージが通る。
ショークスのパワーショットが、地味にダメージを積み重ねていき、アーテリンデが自分の回復をし始めた。
ついでにライシュッツのダメージまで治るのは困るが、それでも相手が行き詰まってきた証拠である。アーテリンデが回復を選べば、その分食らう攻撃も減り、こちらも体勢を立て直すことが出来る。
全員のダメージを回復し、サナキルのTPを回復しておけば、死ぬ心配は無い。
じわじわと追い詰め、ようやくアーテリンデは倒れた。
だが、それで安心は出来ない。ほぼ無傷のライシュッツが残り、既にサナキルはアムリタを消費していたからだ。
それまでは、前衛を守るために盾を操り、猛攻を受けても死なせることなく庇えていたが、それも後残り僅かとなる。
「…やっべぇ、俺のTPも切れる」
ショークスのパワーショットが使えなくなり、ジューローの攻撃もただの斬撃へと変わる。
「…駄目だ、僕も攻撃に移る」
ついにフロントガードを諦め、サナキルは剣を抜いた。
「俺もエリアヒールまでは出来ませんね。単体ヒールならまだ3回くらい」
ライシュッツは銃を乱射するため、複数の回復を要していたのだが、もうそれも出来なくなった。
そこからは消耗戦になった。
銃撃を一発は耐えられるものの、2発、3発となると、死者が出てしまう。
「エンジェルローブじゃなかったら、俺も2,3回死んでたな」
ネクタルで蘇生されたジューローにヒールをかけながらアクシオンが呟いた。
後少し。
ライシュッツは既に血塗れで、後少しなのは分かっている。
だが、魔弾の銃手の目はまだ爛々と輝き、戦闘意欲を失っていない。
こちらは5人とはいえ、一瞬の油断で全滅もあり得るほど疲労困憊していた。
またジューローが倒れ、ショークスがネクタルを使い、ルークが弓を射た。ライシュッツの体は大きく揺らいだが、まだ生き残っている。
アクシオンがキュアの体勢になっているが、これまでの経験上ライシュッツの攻撃の方が早いはずだ。
もしも、ライシュッツが乱射したら。
またジューローが死ぬかも知れない。
サナキル自身は生き残る可能性は高いし、もしもジューローが死んだとしても、その後ショークスとルークのどちらかが弓を射ればライシュッツは死ぬかも知れない。
それでも。
サナキルは、ジューローを横目で見た。
蘇生されたばかりで、まだ頭がはっきりしていないのか、額を押さえつつ立ち上がろうとしている姿は、生まれたての仔馬が立ち上がる様子に似ていてひどく無防備に見えた。
ライシュッツの腕が上がる。
殺させやしない。僕は、ジューローが死ぬ姿を見たくない。
サナキルは、剣を構えてライシュッツの前に躍り出た。
銃が自分の胸に突きつけられるのも構わず、全力でフリッサを振り下ろした。
ざしゅっ
肉を断ち、僅かに骨に当たる抵抗、それからふっと抵抗が失せてまた柔らかいものに剣がめりこむ感覚。
手に伝わる生々しさを噛み締めて、渾身の力で剣を引き抜いた。
顔に、生暖かい滴が降り注ぐ。
ほとんど白目しか見えないようなライシュッツの瞳に黒目が広がり…ふっと焦点を失った。
銃が雪に埋まる微かな音は、もっと大きなものが倒れる音にかき消された。
しばらく、無音だった。
いや、単に緊張のあまり、耳が聞こえなくなっていただけなのかもしれない。
数秒後には、サナキルの耳に、自分のものと思われる荒い呼吸音が聞こえてきた。
背後から、何か声が聞こえてきた気もするが、サナキルは動けなかった。
剣に手が張り付いたみたいだ。
目の前に敵はいない。足下に崩れ落ちたものからは、じわじわと真っ赤な液体が染み出し、雪を溶かしながら水たまりを作っていき…サナキルのブーツにまでゆっくりと浸食してきていた。
死んだのだ。
もう、敵は死んで…これで安全。
もう、ジューローが死ぬことは無い。
安堵しているはずなのに、呼吸が落ち着かない。息を吸っても吸っても、足りない。
鼻の奥に鉄錆の臭いが充満する。息が出来ない。
「…おい」
ぐいっと肩が引かれた。
力尽くで後ろを向かされたせいで、ようやく視界から死体が無くなった。
仲間たちは、自分たちの傷を確認してから、背嚢からネクタルを取り出している。
「大丈夫ですよ。すぐに蘇生させますから。もうちょっと情報を得たいですからね」
微妙に優しいんだか人でなしなんだか分からないような言葉を吐きながら、メディックが死体2つに向かう。
目の前のジューローは不機嫌そうな顔で、自分の白い上衣に手をかけた。白いと言っても、今は血塗れで、しかもぼろぼろに裂けていたが。
その上着のなれの果てのようなものを脱いだかと思うと、それがサナキルの頭から被せられた。
一体何をされているのか分からないが、体が動かないので黙ってじっとしていると、乱暴な手つきでその上から頭や顔を擦られた。
始まった時と同じく、何の声かけもなく目の前の白い布が取り去られる。
ジューローはやっぱりこれ以上は無いほど不機嫌そうな顔で、手に持った上衣でサナキルの顔をぐいっと擦った。
見るでもなく見えた上衣は、更に赤く染まっていた。
サナキルはぎこちなく腕を上げようとして…まだ剣を握っていたことに気づいて、鞘に収めた。
それから手袋のまま、自分の前髪に触れてみる。
濡れて房になった髪を指で摘むと、手袋に赤褐色の染みが付いた。
あぁ、血塗れだったのか、と思う。
ライシュッツの血を浴びて、髪も顔も、真っ赤になっていたのだろう。
だから、ずっと臭いがつきまとうのだ。生臭いような酸っぱいような独特の臭いが。
ジューローがかすかに顎をしゃくった。
そっちを見ろ、と言うような態度に、ぎくしゃくと背後を振り返る。
血溜まりから、人影が二つ起き上がってきていた。
まだ耳の中が、ぅわんぅわんと拍動に合わせて鳴っていたので、はっきりとは聞こえなかったが、天空の城の神を倒してくれとか何とか、そんな言葉が聞き取れた。
顔色は悪いが、二人ともちゃんと生き返っている。
だから、人殺しでは無い。ただ、戦闘意欲を失せさせるほどの傷を負わせただけだ。
そう思ってみたが…やはり手は生々しい感触を残していて、鼻の奥には血の臭いが染みついていた。
ぼろぼろになっていたので、それ以上進むことはせず、すぐに糸で地上に戻った。
宿に帰り着いたサナキルは、今日ばかりは素直にファニーが何やかやと世話を焼くのに任せた。
大量のお湯で髪も体も洗い、更には柑橘系の何かが入っているらしい水を吹きかけられる。
熱いお茶を飲んだサナキルは、まだ何かすることはないかと目を輝かせているファニーに、静かに伝えた。
「僕はもう眠い。出ていってくれ」
「そ、そうですか〜…そうですわね〜若様はいつもでしたらもうお休みの時間ですし…。分かりました。ファニーはもう下がりますが、何か御用がございましたら、いつでも何なりとお呼び下さいませ〜」
一礼して部屋を出ていったファニーを見もせずに、サナキルはティーカップをサイドテーブルに置いて、深々と息を吐いた。
自分の部屋に帰ったジューローは自分で盥に湯を張り、いつも通り適当に拭き取った。
夜着になって刀の手入れをし、壁に掛ける。
静かに立ち上がって部屋を出ようとしたのに、もう眠っているのかと思っていたスムートから声を掛けられた。
「…君、今日は死んだって聞いたけど」
ジューローはしばらく無言でいたが、ぼそりと言った。
「…厠だ」
「ふぅん…あんまり長くトイレを占拠したら皆の迷惑になるからね。何時間かかるか楽しみにしてるよ」
「余計な世話だ」
ジューローは苦く言い捨て、部屋を出た。どう考えても行き先がばれている気はするので、いっそ本当に厠にだけ行って帰るか、とも思ったが、行き先がスムートに何の関係がある、と思い直して、予定通りすぐ隣の部屋へと向かった。
足音から、ファニーが自分の部屋に戻っているのは分かっている。
もしも鍵が閉まっていたら、すぐに帰るつもりだった。これまでの経過からして、ジューローが探索で死んだら、この部屋の鍵は閉まっているはずだったから。
握ったノブをゆっくり回せば、きぃ、と小さな音を立てて、ドアは静かに開いた。
奥の暖炉が、ぱちぱちと音を立て、部屋はオレンジ色に揺らめいていた。
部屋に入って、ドアを閉めても、部屋の主は何も言わなかった。
暖炉に向かって椅子に座ったサナキルは、右腕を肘掛けに突き、頭が斜めに傾いでいる。
ジューローはすたすたと歩いて、暖炉の前のラグにあぐらをかいた。
どちらも無言のままで、暖炉の火を見つめた。
どのくらい経ったか、薪を追加しないので火が徐々に弱ってきた。緩やかに寒さが忍び寄り、ランプ無しでも明るかった室内に翳りが落ちる。
「…そっちに座って良いか?」
サナキルの小さな声に、ジューローは静かに唸った。
「…好きにしろ」
音もなく椅子から滑り落ちたサナキルが、ジューローの隣に座った。
膝を立てて座った体の距離は、まだ80cmほど開いている。
ジューローは、横目でサナキルを見た。
じっと暖炉を見つめている横顔に表情は無く、時折赤く揺らめく前髪以外は彫像のようだった。
白磁のような顔が、いつもよりも暗く見えるのは、真っ白なセーターを着ているからだろう。
まるで、自分は汚れていません、と主張するかのような、真っ白でふわふわのセーターに埋もれた顔が、わずかに動いてジューローを見た。
泣いてはいない。
紺碧の目は濡れてはいなかったが、どこか泣き出す前の幼児を思わせる顔で、サナキルはまた呟いた。
「もっと、そっちに行っても…」
「好きにしろ」
唸るように遮ると、じわり、じわりと距離を測るかのように、サナキルは近づいてきて、20cmの間を置いて止まった。
ゆっくりゆっくり、まるでそうしたらジューローに気づかれないと思っているかのようにゆっくりと指を伸ばし…幾分躊躇ってから、ジューローの袖に触れた。
ジューローが腕を引いたらすぐに外れるくらいの力で袖を摘んでいるサナキルに、ジューローは何も言わなかった。
ぱち…ぱち…
薪が最後の輝きをうねらせ、かたり、と音を立てて崩れた。
青く沈んだ部屋で、サナキルは目を暖炉に向けたまま、吐息のように囁いた。
「…いつか…慣れるのか?」
ジューローは、数秒、黙っていた。
怒らせることは可能だった。
いつものように罵り、嘲笑し、傷つけることも可能だった。
ひょっとしたら、その方がいいのか知れない。
まるで何でも無いことであるかのように、いつもどおりの振る舞いをした方がいいのかもしれない。
けれど、ジューローは見なかった。もしも見たら、意志が挫けそうだから。
白く震えている生き物から目を逸らし、黒い炭だけを見つめながら、静かに答える。
「いや…慣れない。数年経とうと、数をこなそうと…慣れるものでは、無い」
それは自分の弱みでもあるはずだった。
だから言うべきで無いのは分かっていたが…それ以上に、言わなくては、という気持ちが勝った。
その感情を、何と名付けるのか知らない。
同情でも、憐憫でも、無い。
ただ正直に…伝えたかった。
返事が無いのも気にならなかった。
自分の言葉が、塊になって腹の奥に沈んだようだった。
そう、慣れやしない。何人、人を斬っても、慣れることなく、全て身の内に澱となって蟠っている。
いつか、それが内臓を浸食し腐らせていくのだろう。そう確信するほど、黒く淀んだ塊が、体の奥深くに沈んでいる。
ふと気づくと、袖を掴む指の力が強くなっていた。
おずおずと体がまた近づき…金の髪が触れるか触れないかほどの距離で止まった。
またしばしの間があった。
「こ わ い」
呼吸に紛れてしまうような微かな声が、サナキルの口から漏れた。
所詮は苦労知らずの貴族の坊ちゃんのお遊びだ。
人を殺す度胸も無いくせに、偉そうにするな。
色々と、言えることはあったはずだが、ジューローは自分の袖を引き、離れたサナキルの指を握った。
氷のように冷たいそれを手のひらに感じながら、同じように微かに囁いた。
「お れ も だ」
そうして、自分の発した言葉をかき消すように、乱暴な動作で立ち上がった。
座り込むサナキルの背後から抱え込むようにして持ち上げる。
「…わ…」
「暴れるな」
いつものように鬱陶しそうに言ってやって、そのまま10歩ほど歩き、冷たいベッドに落としてやった。
一瞬だけ、スムートの顔が頭を過ぎったが、それがどうした、とジューローもその隣に潜り込んだ。
震えている体を引き寄せると、肩に冷たい顔が触れた。
「…部屋に帰るのが寒いだけだ」
自分がここにいる理由になってるんだかなってないんだか分からないようなことを呟いて、ジューローは天井を睨んだ。
隣の体は、ちょっと躊躇ってから手を回してきた。胸を這うその手が冷たいので、死に神に心臓を撫でられているような気分になったが、振り払いはしなかった。
「今日は、俺は死んだからな」
だから、何もしない、安心しろ…とまでは口にしないが、まあ伝わるだろう、と思えば、サナキルが顔を肩に押しつけてきた。
「…守りたかったのに」
「今度から、アムリタをもう2,3本持っていくんだな」
本当は宿にまだアムリタを残しているのは知っている。ケチケチせずに、全部持っていっていたら、サナキルはアムリタを飲んでひたすらフロントガード出来ていたし、ジューローは死ぬことも無かったし…老人のトドメはサナキル以外の人間が行ったはずだ。
そう、あのリーダーが悪い。
たかが2000en…いや、かなり高価でほいほいと使えるものでは無いが…をケチったリーダーが悪い。
こうして自分がこのベッドにいるのも、何もかもリーダーが悪い。
何とかそうやって自分に折り合いを付け、ジューローは目を閉じた。
隣に誰かがいるというのは、気が立って眠れるものでは無いと思っていたが…まあ、思っていたよりは、そんなに気に障らない。
隣で震えていた体は、だいぶ温かみを取り戻し、緊張も和らいでいるようだった。
ごそごそと動いたかと思うと、ぱさりと軽いものが落ちる音がした。どうやら着ていたセーターを脱いだらしい。
下着になったせいで、直接肌が触れ合う面積が増えたが…別に不快でも無かった。
朝、まだ暗いうちに目を覚まし、眠っているサナキルを置いて、こっそりと部屋に戻ったつもりだったが、寝ぼけたような声でからかわれた。
「結局、朝までトイレに籠もってたんだ?お疲れさま〜」
きっと誤解はされているだろう。
けれど、わざわざ「何もしてない」というのも面倒な上に、「ただ一緒に眠っただけ」と言う方が恥ずかしい気がしたので、ジューローは肩をすくめて無言で着替え始めたのだった。