氷結湖




 エルムから依頼されたカーマインは、意外とあっさりと引き受けた。あまりにも「さも当然」と言った風に受けられたので、エルムが心配になるほどだった。
 しかし、カーマインは、そんなエルムの様子の方が不満だったらしく、「あぁん?」と威嚇のような声を上げた。
 「何だ?お前、この俺が、お前の頼みを引き受けねぇとか思ってたのか?」
 「いえ、そうではなくて…おそらく、かなりの確率で、引き受けてくれるだろう…とは思ってましたけど…」
 エルムがあわあわと手を振るのを見て溜飲を下げたのか、カーマインはすぐに寄せていた眉を開いて肩をぺしぺしと叩いた。
 「だろ?お前は頭良いんだから、俺がクリムの代わりにお前をべた可愛がりしてんのに気づいてっだろうしな」
 死んだ弟に似てるので、エルムを弟代わりにそりゃもう贔屓にしている、というのはエルムも分かっているし、ひっそりとそれを当てにしていたのも確かだ。
 しかし、こうも明確な言葉にされると、カーマインを利用しているようで、少々気まずいものがある。
 困ったような顔になったエルムの肩を、またぺしぺしと叩いて、カーマインは馴れ馴れしく肩を抱いた。
 「んで、何で『予想外!』みてぇな顔してんだよ」
 「…はぁ…」
 エルムは、どう言ったものか、としばし考え込んだ。カーマインは口調は乱暴だが、こういう時には急かしたりせず待っていてくれるので、思う存分言葉を選択することが出来る。
 「えっと…ソリ、の依頼ですけど…探索に使うソリ、なんて、規格外…って言うか…面倒だろうと思うのに、何だかとても…普通に引き受けられたので…」
 「こんな簡単に安請け合いして良いのかよ、この男…って思ったか?ふはははは、この<カラーズ>リーダー、やる時はやる男だぜ!」
 不意に高笑いされてエルムがびくっとしていると、カーマインはすぐに笑いを収めて片目をつぶって見せた。
 「…てのは冗談として、だ。お前らの国じゃあどうか知らねーが、俺らにとっちゃあ氷面を滑るソリなんざガキの玩具よ。荒削りなもんでよけりゃガキでも作れらーな」
 ローザリアにも冬はあるが、完全に凍り付く湖、というものはほとんど無い。厳冬になった場合で、山の方ならあり得るだろうが、エルムは見たことがなかった。まあ、エルムはほぼ家で寝たきりだったので、かなり情報に疎いが。
 それと比べて、この国は北方なだけに寒さが厳しく、世界樹の中でなくとも普通に湖が凍り付くのだろう。そうしたら、子供たちがソリで滑って遊ぶこともあるのだろう。
 エルムにはちょっと想像出来なかったが、子供用のソリが作れるのなら、大人が5人乗れるようなソリも同じように作れる…のかもしれない。
 「組立式って依頼だったな?ま、それもお茶の子さいさいって奴だ。任せとけって」
 どーんと請け負ったカーマインの顔が自信満々だったので、エルムもほっとして僅かに笑った。
 それが受けたのか、わしわしと髪の毛を掻き回される。
 しばらく可愛がられてから、エルムが乱れた髪を手で整えていると、カーマインが案外と真剣な目で覗き込んできた。
 「ただし、気を付けろよ?聞いた話じゃあ、しっかり凍り付いた湖らしいが、それでも氷にゃ分厚いとこと薄いとことあるんだ。ここいらが完全かちこちでも、ちょっと離れたとこは水の流れの関係だか植物の関係だかで妙に薄いってこともある。で、下手に周囲が分厚いだけに、氷が割れて落ちちまった時に凍った面の下に浮かんじまった場合にゃ出て来られなくなって死ぬこともある。…昔、ダチがそれで春まで浮かんで来なくてよ」
 その時のことを思い出したのだろう、カーマインの眉がびくりと痙攣した。
 「ま、それ以前に、氷水に落ちたらそれだけで死にそうになれるしな。気ぃ付けろよ?」
 春まで浮かんでこないって何だろう、冷たい水の中にいるってことは、死体は冷凍保存状態で綺麗だったんだろうか、などと想像していたエルムは、カーマインの言葉に、今度は氷水の温度を手に思い浮かべて身震いした。ちょっと冷たい水が背中に落ちただけでもびくっとするのに、いきなり全身に氷水が触れるなんて息が止まりそうだ。
 もちろん、文字通り息が止まるし心臓も止まる可能性があるのだが、エルムにはそこまで想像できていなかった。
 「…気を付けます」
 「おぅ、気を付けろよ、マジで。岸のぎりぎりは歩くな。んで、氷の色が周りが違うとこには近づくな。どうしても行くってー時には、棒か何かでつついてみろ」
 そんな感じで。
 ものすごーく過保護にカーマインから諸注意を受けたエルムは、かえって何が最重要なのか分からなくなったまま、とりあえず全般的に気を付ければいいんだな、と思った。


 他の階で石切場から大きな石を運んだり、魔物の巣を確認したりして日にちを潰し、ようやく出来上がったソリを持って12階へと向かう。
 ちなみに魔物の巣にはネルスたちが向かった。後から、どうも母親が子供を見失って怒り狂ってるらしいと聞いて、そんな事情があるんなら子守歌で足止め出来る俺が行けば良かった、とルークは頭を抱えたが、今更どうしようもない。威嚇射撃された魔物は更に興奮していたようだが、とりあえず依頼は完了できた。後からあの辺りを歩く冒険者にとっては災難だろうが…そこまで面倒見切れない。
 ショートカットを使って磁軸からすぐに階段を上がる。
 ちなみにジューローはアクシオン製の上着を羽織っている。ルークも見た東国の上着のようだが、少し綿も入っているのか分厚い生地に見えた。しかし動きを妨げるほどでも無いらしく、ジューローはぶ然とした顔ではあるが文句を言わずに着ていた。
 まずは短い距離の氷面でソリの具合を確かめてみた。
 本格的な組立式で、釘も使わず填め込みのみでソリの形が仕上がっている。滑らかな手触りの枠組みを握りしめ、おそるおそる乗ってみて揺らしたが、ぎしりとも鳴らなかった。
 「エルムの友達は、なかなか優秀ですね」
 満足そうに言ったアクシオンが、羽毛を詰めたクッションをぱんぱんと膨らませて、ソリの座席に乗せた。
 「ほい、じゃあちょいと乗ってみて」
 前衛3人を先に乗せておいて、ルークとショークスはソリの後ろから力を合わせて押し出した。
 いったん動き始めると、ソリは軽く滑り始め、ルークとショークスはつるつる滑る足下に苦労しながら、後ろからソリに飛び乗った。
 男5人が乗っても、ソリはびくともしない。
 軽やかに滑っていくのは悪くは無いが。
 「…けど、方向転換ってもんができないわな、これ」
 たとえ横に扉が見えていても、そちらに向かうことも出来ずに滑っていくだけだ。流砂の時もそうだったのだから、双方向性な分だけマシだと思うしかない。
 「足下つるつる転びながら進むよかマシだろ」
 散々濡れた上に、尻だの足だのに青あざを作ったネルスの姿を知っているショークスは、このソリのおかげでもうあんな目には遭わないだろうと満足だった。
 そうして何度か降りては方向を変えて滑っていって。
 扉を開けてみれば、そこは巨大な湖だった。
 「向こう岸がどうなってんのかすら分かんないのがあれだが…」
 ルークは目を細めて奥を見やった。
 ソリで滑っていったはいいが、途中で穴が開いていました〜とか、奥には凶悪な魔物が待ち受けていました〜とかになったら目も当てられない。
 最悪、皆で飛び降りるしかないか、と腹をくくって、ネルスたちが行っていない場所からソリを押し出してみた。
 そうして、徐々に地図を埋めていき。
 大半は、岸は僅かですぐにまた氷面に出ることになったのだが、ある時、扉付近から滑っていった先は、少し開けた場所になっていた。
 何の気無しに奥へと踏み込むと、すぐ左側から荒い鼻息が聞こえてきた。
 ぱっと振り向くと、如何にも周辺の雑魚とは格が違う魔物がゆっくりとこちらへ歩いてきているところだった。
 退くか!?と一瞬思ったが、右前方に扉を見つけたので、そちらに賭けることにする。もしも扉内にも魔物がいたら…それはその時のことだ。
 「扉へ飛び込め!」
 ルークの指示に従い、前衛が扉を押し開ける。
 入った途端に何かの陰が動いたので冷や汗が吹き出たが、ただのカブトだった。
 ジューローの刀に雷を纏わせながら背後の気配を探ってみたが、地響きは扉直前までやってきて、また遠ざかっていくようだった。どうやら巡回パターンだったらしい。
 カブトを倒し、その部屋の探索を開始する。
 奥に扉は見えなかったが、白一色ではなく灰色がかった岩肌が見えるところやコケなのか緑がうっすら見える部分もあるようだった。
 「衛士が、雪花石膏はこの階にあるっつってたよな?たぶん、あの辺りだと思うぜ」
 どうやら採掘場所を発見したらしい。レンジャーたちに任せるのはいいが、あの魔物を何とかしないとなぁ、とルークは顔を顰めた。
 「…あと、薬草っぽいんじゃないかと…」
 アクシオンが指さす先には、雪を割ってちらほら伸びる緑があったが、一緒に何やら赤い物も見え隠れしていた。
 何だ?と目を細めて見ながら近づいていくと、向こうからも動いてきた。
 「…魔物だな。…錦鯉の」
 ジューローが、少しイヤそうに付け加えた単語は、ルークには初耳だった。
 雪の上を歩いてくるものを魚と言いたくは無かったが、どうみても魚面の魔物だ。
 色合いが派手で、今まで戦ってきた魚面とは少し種類が異なるようだ。種類が違うと強さも違う可能性はあるが、幸い一匹で行動しているようなので、何とかなるだろうと踏む。 
 「よし、とりあえず普通に戦うぞ。もし物理が通じにくいようなら、雷付加するから」
 念のため猛戦歌だけは歌っておいて、後は攻撃に転じる。
 「お前の相手は、この僕だ!」
 サナキルの鋭い声に、魔物がそちらを向いた。
 敵の攻撃がサナキルに集中してしまえば、後は楽だった。強靱な顎に並ぶ牙は鋭い上に何本も入り乱れて生えていて噛みつかれたなら肉をごっそりとえぐり取られそうだが、盾でかわす分には問題ない。
 そうして誰も死ぬことなく倒してしまい、アクシオンがサナキルの傷を治している間に、ルークはその魔物の確認をした。
 素材が取れないかと見ていたのだが、口の中に何かあるような気がして、その辺の岩を使って口をこじ開けてみる。
 奥の方の牙に引っかかっているものを何とか取ろうと四苦八苦していると、ジューローが無言で魚面を掴み、力づくでそれを開いた。ばきり、とイヤな音を立てて、顎が外れる。
 「サンキュ…ってうわああ」
 明るい元で見えた『それ』は、骨だった。
 それも、人間の手だ。いっそ完璧に白骨ならいいものを、微妙に腱や肉や爪が残っているのが生々しくてイヤだ。
 その僅かに残った肉部分に、金属の輪っかが残っていた。このせいで肉を全部食えなかったんだな、と思ってから、それが指輪であることに気づく。
 素人のルークに、その手が右手か左手かは分からなかったが、それが薬指であることだけは分かった。
 牙から外した手を指先で摘んで見ていると、アクシオンがそれを取り上げてしげしげと観察し始めた。
 「…爪の間に繊維が残ってますね。おそらく薬草でしょう。依頼完遂です」
 「あ〜…婚約者のなれの果てか…まあ、確実に仇をとれたってのはいいが…」
 どの敵か分からないだろうと思っていたのに、こんな形ではっきりするとは思わなかった。
 そして、こんなにもはっきり、魔物にやられて死んだ、という証拠が手に入るとも。
 「これは依頼者にお届けしましょう。いい記念になります」
 白いハンカチにそれを包み、さっさと背嚢に放り込んだアクシオンに、
 「…記念にはならんと思うが…」
 ジューローがぼそりと呟いた言葉は無視された。
 まあひょっとしたら依頼者もアクシオンと同じく「恋人のものなら欠片でも手に入れたい」という神経の女である可能性も、全くないとは言い切れないので、ルークは突っ込まずにいることにした。もしもそうでないなら酒場の親父から駄目出しが出されるだろう。
 
 ついでに目的のものかどうかは分からないが繊細な花びらを持つ花を摘んだので、箱に入れてしまいこんだ。
 また湖に出てソリで滑っていく。
 すると、少し建物のような崩れた柱のようなものが残る小島に行き着いた。
 ルークたちがその柱を調べに行っている間、ジューローは逆方向を見ていた。
 つまり小島の中央ではなく端側である。雪の積もった島端から、氷面の境界辺りを見下ろす。
 何かが動いた気がして、ジューローは更に身を乗り出した。
 凍り付いた氷面が動くはずが無いのだが、とじっと見ていると、やはり何かが変わる気がした。
 じっと見つめて動かないジューローに、サナキルが近づいて怪訝そうに顔を見てから、同じ方向を見た。
 灰色の氷面に黒い影が差したり、また消えたり…。
 「…魚か?」
 両腕を広げたほどの大きさの影だ。しかし、あの魔物のような形ではなく、普通に細長い魚の形のような気がする。
 ジューローの呟きに、サナキルも少し首を傾げてまた氷面を見つめた。
 「どうかしたかー?」
 背後からのリーダーの声に、サナキルは振り返って返事をした。
 「魚が泳いでいるようなのだ。魔物ではなく、普通に魚のようだが…」
 ジューローはまだ湖面を見つめている。これまでが食うや食わずやの生活であったので、食にこだわりは無いつもりだったが、生き生きと泳ぐ魚影に、刺身がはっきりと思い出された。
 当然、東国以外では魚を生で食べる習慣が無い…というか醤油が無いため、いわゆる刺身を食べたのはひどく昔のことだった。
 「…何とか、釣れんか」
 独り言のつもりだったが、サナキルが応えを返す。
 「針も糸も、餌も無いからな。ひょっとしたらパン屑でも釣れるかもしれないが…釣りをしたければ、今度道具を持ってきて…」
 柱を調べていた3人は、まあ和やかに話が進んでるのならいっか、と二人を放置していたが、ルークはひたすら首を傾げていた。
 「何だっけ、何か引っかかるんだが…」
 「どうかされましたか?」
 アクシオンが手を止めて聞いてきたが、やはり明確な答えが出せずに指を振るにとどまる。
 「湖…氷…魚…何かひっかかるんだけど…何かもやもやと…」
 「すみません、俺は海育ちなので…凍り付くことも無いし、湖自体に慣れてないのでぴんと来ませんね」
 「俺ぁ山育ちだがよ。うちの近所は主に川と滝で、やっぱ分かんねぇけど…ってネルスが何か言ってる」
 ショークスは目を閉じて神経を集中した。聞き取りづらいそれの途切れ途切れの単語として受信した結果。
 「…えーと…魚?見える?氷が……薄い?」
 眉を顰めて呟くショークスの言葉に、ルークははっきりと自分の懸念が明確になって叫んだ。
 「それだ!おい、ジューロー、サナキル、岸から離れろ!」
 ばきっ ばしゃーん!
 振り向きかけたルークの耳に、氷が割れる音が響いた。


 ここの空気はひどく冷たいが、風は無いのであまり寒いとは感じない。もしも釣りをしに来るとしても、いつもと同じような服装で良いだろう。
 サナキルが隣で真剣に釣りについてぐだぐだと口上を述べているのを聞いているうちに、本気でそれを試みてもいいか、などと思案し始めている自分に気づいて、ジューローは首を振った。
 馬鹿馬鹿しい。
 仮に釣りに来るとしても、これと一緒などはあり得ない。
 第一、毎夜…いや、かなりの確率で死ぬので、むしろ頻度は少ない気もするが…ともかく、好き放題されている癖に、以前と全く態度が変わらないというのがむかつく。怯えろとは言わないが、避けるなり何なり、態度を硬化させて然るべきだと思うのだが。
 相変わらずジューローの反応など気にせずにわざわざ近づいてきて構い立てしてくるうざいパラディンの言葉を適当に聞き流していると、島の中央付近からリーダーの緊迫した声が響き、すわ敵襲か!と左手に刀を握り、体を捻り…何の気なしに引いた足の下で、雪が崩れた。
 ただ岸の端が崩れただけのこと、と下の氷に足を着けるつもりが、ぱり、と軽い音を立てて下が割れた。
 氷が割れたのだ、と理解するより早く、氷水に浸った足が鈍い痛みを感じる。
 同じく島の中央へと顔を向けていたサナキルが、音に気づいたのだろう、こちらを振り向き驚愕の表情で腕を伸ばしてくる。
 ジューローは軽く腕を引いてから、左手の刀で、思い切りサナキルの胸を突いた。

 全身が氷水に沈む。
 沈んでしまえば辺りは暗く、一瞬、上も下も分からなくなる。
 何も聞こえず何も見えない状態ではあるが、ジューローはさして焦りもしなかった。
 これで死ぬなら、それはそれでも構わない。
 ゆったりと体の力を抜くと、じんわりと手足の先が麻痺していく気がする。
 頭の芯まで凍り付いていくようなきりきりとした痛みが煩わしい、と眉を顰めた時、脇腹に何かが当たった。咄嗟に腕を締めると、その何かは身藻掻いているようだった。
 腕の一抱えもあるそれは、上から眺めていた魚だろう。
 もう、このまま死んでもどうでもいいか、と思っていたはずなのに、心の中に閃いた「この魚はどんな味なのだろう」という好奇心に、ジューローは自分で苦笑した。
 暗い世界に光が宿る。
 どうやら揺らめくそちらが水面らしいと見当づけて、ジューローはゆっくりと足を動かした。



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