画策の結果




 サナキルは煮詰まっていた。
 考えがぐだぐだになる、という誤用の意味でも、結論が出せる状態になった、という正当な意味合いでも、煮詰まっていた。
 トドメを刺したのは、エルムのぼそぼそとした報告だった。
 何でも、ほとんど全滅しかけたところを、自分が死んだら背後のピエレッタが攻撃を受ける、という一心で耐えきったらしい。
 それを聞いたカースメーカーの少女は不可解な踊りを舞っていたし、バースは男泣きに泣いていたがサナキルにとってはどうでもいい。
 重要なのは、『自分が死んだら、大事な女が殺されるので生にしがみつく』という部分だ。
 アクシオンの言った「ルークが悲しむから死なないようにする」というのにも通じるものがある。
 要するに、ジューローにも大事な女がいればいいのだ。
 まあ、問題は、そんな女がいそうにないことなのだが。
 だがそれも解決した。
 ジューローが動かないというなら、こっちから動けばいいのである。
 宿から出ずにひたすら鍛錬しているような男だ、どうせ意中の女などいるはずもない。こっちがあてがってやっても問題無いだろう。
 仮にジューローが最初はその女に興味が無くても構わない。単純に、女との行為そのものが生きる糧になればいい。男同士だが、このギルドの恋人たちも、「生きていることを確かめる行為でもある」と言っていたし。
 ということで、サナキル的には完璧な計画だった。
 ジューローに女をあてがい、性行為を<生きて帰った褒美>にする。そのうち、女に情が移れば、生きて帰ることそのものを喜ぶようになるだろう。
 たったそれだけのことで、ジューローの生存確率が高くなるなら、試してみる価値は十分にある。
 
 ファニーは、サナキルの部屋でいそいそとシャツを畳んでしまっていた。
 「ファニーをお呼び下さるのは久しぶりですね〜若様〜。すっかり嫌われてしまったのかと、ファニーは辛かったです〜」
 この国に来てからというもの、すっかり邪険にされて、なかなか話しかけてもくれなかったのだ。もっとも、こういった身の回りの世話はそれなりにしていたが。他人にやらせるのが当然の若様は、自分では自分の衣服の管理すら出来ないし。
 ただ、同じ部屋にいると、冷たい視線が付いてくるので、サナキルが不在の間にこっそりと行うのが常だったので、こうしてまともに部屋に呼ばれるのは、本当に久しぶりだった。
 「ファニー。お前は、僕の召使いだな?」
 「はい。ファニーは若様のメイドであるのが、第一義です〜」
 小さな椅子に腰掛け、足を組んだサナキルは、当然のように頷いた。
 「では、お前は、僕の命令を聞く義務がある。そうだな?」
 「はい、もちろんです、若様」
 サナキルが、こうして改めて確認するのは、非常に珍しい。若君にとっては、それが『当然』のことであって、わざわざ言葉にする必要も無いことだったからだ。
 「お前がサヴァントスから手ほどきを受け、サヴァントスに操を立てているのは知っているが、僕が望めば、お前はその体を差し出す。それも合っているか?」
 ファニーは、一瞬声を失った。
 次の瞬間、かぁっと頬を赤くした。
 まずは、サヴァントスから手ほどき、というのが、何を意味するのかに思い至ったこと、そして更には少女趣味なことに処女を捧げた相手であるサヴァントスに想いを寄せていることを言い当てられたこと。
 グリフォール家の執事長であるサヴァントスは、護衛の役目を負うメイドたちの手ほどきは全て一人で行っているので、ファニーが特別なわけでは全くない。相手はただの義務としてファニーを教育したのだ。
 それを理性では分かっていたが、それでもファニーにとってサヴァントスは特別な存在だった。
 こんなところまでサナキルに付いてきたのも、サナキルの命令に従うのも、全てはサヴァントスの期待に応えようとしてのことだ。
 己の主が、想定以上に聡明であることは、役目を暴かれたことで分かっていたつもりだったが、そこまで知られているとは思っていなかったファニーは、ただひたすら狼狽えた。
 だが、数分後、どうにか頭を落ち着かせてから、改めてサナキルの言葉を噛み砕いてみると…何だか非常に違和感があった。
 要するに、サナキルがファニーを抱きたい、と言っているように思えるのだが…しかし、もしもそうなら、もう少し照れるとか照れを隠して居丈高になるとかしそうなものなのに、単に淡々と確認しているだけに見えるのだ。
 ファニーは、一つ深呼吸をしてから、サナキルを見上げた。
 「はい、確かにファニーは、そのような任も請け負っておりますが…」
 かすかに怪訝そうな響きが混じったのに気づいているのかいないのか、サナキルは鷹揚に頷いて、組んだ足に手を乗せた。
 「では、命令だ。ジューローの女になれ」
 十数秒の間があった。
 「……は?」
 ファニーは、知っているはずの単語の羅列ながら全く意味を感じ取れずに、間の抜けた応えを返した。
 「ジューローの生存確率を上げるために、ジューローの女になれ、と言っている。もしもお前がジューローを恋の虜にするのなら、それもよし、駄目でも女の肉体が生き帰った褒美になるだろう」
 サナキルが更に詳しく己の考えを説明するのを、ファニーはこめかみに指を当てて聞いた。
 一応、理に適っている。
 ファニーの人権は丸無視だが。
 そして、ある意味、肝心のジューローの意志も無視しているが。
 「…若様…」
 口調に混じった諫めるような気配を敏感に感じ取ったのか、サナキルは眉を上げ、組んでいた足を降ろした。しかし、考え直すことはないのか、相変わらず堂々とした態度でファニーを見下ろした。
 「ジューローが生き残ろうという意志を持てば、防御に気を回すだろう。そうすれば、僕も随分と気が楽になる。つまり、僕は、ジューローのために何かをしろ、とは言っていない。僕のためにやれ、と言っているんだ」
 ファニーは、サナキルの命令で動くメイドだ。ひっそりとサヴァントスの命を第一に考えているとはいえ、表向きの主はサナキルであり、そういう欺瞞を後ろめたく思っている部分もあるが故に、サナキルの命令には従うつもりである。
 もちろん、死ねだとか無意味な人殺しだとかには従えない、というか、何とかそういう命令を撤回させるべく説得するが、それ以外は拒否する理由は無い。
 確かに、自分の女としての肉体は、サナキルに利用される道具としての教育もされている。道徳観念だの貞操観念だのを主張出来る立場では無い。
 「どうせお前にとっては、サヴァントス以外なら僕だろうがジューローだろうが同じことなのだろう?」
 サナキルが軽く両手を広げて呟いた言葉は真実だ。
 任務で男に足を広げるのなら、相手が誰であろうと同じこと。
 「了解しました。行って参ります」
 ファニーは首をもたげて、サナキルをまっすぐに見つめた。
 ちょうど、今宵はギルドのメンバーが宴会に出ていて、宿の中に人は少ない。ジューローの部屋の相方であるスムートも、まだ帰っていないはずだ。
 ファニーは、すっくと立ち上がった。
 これは、任務だ。それも、主から直々に下された命令。
 ならば、完遂する事こそが、従者としての喜びのはず。


 ジューローはノックの音に眉を顰めた。鍵は閉めているが、スムートならば鍵を持って行っているはずだ。
 しかし、泥酔して他の者が連れてきたというなら、開けてやらねばなるまい。
 別段スムートに好意も無いが敵意も持っていないジューローは、何の気無しに扉に向かい、鍵を開けた。
 開いた扉の向こうに立っていたのが女であったため、ますます眉間に皺が寄った。
 サナキルのメイドが、一体何の用だ。
 「夜分に申し訳ありません〜。少々お話があるのですが〜」
 「俺には、無い」
 閉じかけた扉が、がつっと何かに当たって止まる。挟んだ足を蹴り出すべきだろうか、と考えていると、ファニーが哀れな調子で両手を組み、上目遣いで見上げてきた。
 「あの〜助けると思って、ファニーの部屋まで来て下さい〜」
 男手が必要なら、他にもいるだろう、と言いかけて、そういえばその男手はほとんど酒場にいるのだと思い出す。エルムなどは帰っているが、力仕事が必要なら確かにジューローの方が適任だろう。
 ちっ、と相当に機嫌悪く舌打ちをしてやったが、ファニーは怯むことなくジューローの剥き出しの上腕に触れた。咄嗟に身を引いて睨むと、素直に手は引っ込めたが、やはり両手を口元に当てて甘ったるい調子で訴えてきた。
 「お願いですから〜」
 気に入らない。
 こんな風に、男に媚びる女は嫌いだ。
 しかし、ファニーがただの男好きの馬鹿女ではなく、相当に粘っこく己の意志を貫こうとする仕事人であることも理解していたので、ジューローはもう一度舌打ちをして一歩前に出た。
 付いていくつもりがあると判断したのか、ファニーは「すみません〜」などとさえずりながら、ふわふわと廊下を端へと歩いていった。
 「どうぞ〜」
 部屋に招き入れられ、ジューローは苦虫を噛み潰した顔で、そこに踏み込んだ。女性の部屋にありがちな香水臭さは無く、火薬の香りが漂っているのは、まあ悪くない。
 かちり、と鍵が閉められる音に振り返る。
 後ろ手で鍵を閉めたファニーが、にこやかに足を進めた。
 「…何の、つもりだ」
 殺気は無い。しかし、鍵を掛けて何をするつもりかの見当は付かず、ジューローはゆったりと腕を組んだ。残念ながら、小刀の一つも持ってきていないが、いざとなればそこそこに戦えるだけの体術も身に付けているので、そう言う意味での危機感は薄い。
 ファニーの手が動いた。
 油断無く睨んでいるジューローの前で、ファニーのスカートが、ぱさりと床に蟠った。
 「…何の、つもりだ」
 もう一度、同じことを言う。
 スカート以外の上衣もさらさらと滑り落として、白い裸身を露にしたファニーは、武器を持っていないことを示すように軽く両腕を広げた。
 「こういう時、東国ではどう表現するのか、存じ上げませんが〜…お情を賜りたい、と言えば、お分かり頂けます〜?」
 確かに、意味は通じる。
 しかし、問題はそれ以前だ。
 ジューローが動かないのを見て、ファニーは更に前に出た。
 傷だらけの胸板に、そっと身を寄せる。
 ジューローは、まっすぐに前を睨んだまま、3度目の言葉を吐いた。
 「何の、つもりだ」
 「…女性から、言わせるおつもりですか〜?」
 甘えたような声音で擦り寄ってくる裸身にようやく視線を落とし、ジューローは静かに言った。
 「…あれの命令か?」
 瞬間、ファニーの目に過ぎった光を認めて、ジューローは動いた。
 近距離で見えなかっただろうし、まさかそんな目に合うとは想定していなかったのだろう、ファニーは鳩尾に食らった拳に息を詰まらせた。
 「…はっ…」
 白い手が、縋るようにジューローの腕を掴みかけ…力を失って落ちた。


 サナキルは、まだ眠っていなかった。命じた以上、成り行きを確認する必要がある…と考えてのことではなく、ただ眠れなかったのだ。
 今、ファニーはジューローの部屋にいるのだろうか。それとも、自分の部屋に引きずり込んだだろうか。
 ジューローは、ちゃんとファニーを抱くだろうか。
 あの仏頂面で、女を口説いたりするのだろうか。
 男と女が睦まじくしているシーンを想像して妄想に耽る趣味は無いはずだが、どうにも意識がそちらにこびりついて離れない。
 それでも眠らなければ、と溜息を吐いて寝返りを打ったところで、扉が開く音がした。
 ノックもなく、ただ開かれる音。
 そして、鍵がかかる音。
 サナキルは半身を起こしながら振り向いた。
 月明かりは、扉まで届いていない。だが、シルエットでジューローであることはすぐに知れた。
 何だ、ファニーは失敗したのか、とすぐに思う。
 ジューローは怒声も上げず、しばらくそこに突っ立っていたが、サナキルが黙って見つめていると、苛立たしそうに息を吐いてからずかずかとベッドまで近づいてきた。
 「お前が命じたのか」
 疑問ですらない確認の言葉に、サナキルは頷いた。
 「そうだ。お前が、生きて帰ろうという執着を持つようにな。誰か守るべき人間を作るもよし、女との行為を生き帰る目的にするもよし…」
 「くだらん」
 「くだらんことは無いだろう。生きることこそ、義務であり、正道だ」
 寝衣でベッドに腰掛けているサナキルは、ジューローの表情を窺おうと目を細めた。
 素足に冷気がまとわりつく。自分の呼吸音だけが、部屋に響く気がした。
 怒鳴るならさっさと怒鳴ればいいのに、今日に限って何で大人しいのだろう、とふと思う。
 「くだらんのは、お前のやり方だ」
 いつもとは異なる、淡々とした口調。
 サナキルの正面に仁王立ちしていたジューローが、ゆっくりと腰を屈めた。
 窓からわずかに差し込む月明かりが、ジューローの顔を照らす。
 いつものような眉間の皺はなく、むしろ無表情に近かったが…目の中に、爛々と怒りが吹き荒れていた。
 「主の権限を利用して、女に体を売らせるか」
 「無料だ。喜べ」
 ひどく静かな、それだけにいつもとは異なる<本気>の怒りに気圧されぬよう、サナキルは腹に力を込めて返答した。もちろん、体を売らせる、が言葉のあやであって、問題の本質でないことは分かっていたが、あまり深く考える余裕が無く、反射的に言葉を返すしか無かったのだ。
 「気に入らんな」
 ジューローの手が伸び、サナキルの襟首を掴んだ。だが、締め上げるでもなく、ただその黒洞のような瞳で、サナキルをまっすぐに射抜いた。
 「まったく、気に入らん。…家来に無体を強いるくらいなら…」
 ぎり、と襟首を捻り上げられ、不意に突き放された。
 ベッドに上半身を投げ出すような形で俯せに倒れこんだサナキルは、床に激突した膝の痛みに眉を顰めた。
 「…お前が、やれ」
 背中から聞こえた囁き声の意味は、すぐには分からなかった。


 ざらざらする。
 何もかもが、ざらざらする。
 まるで、掘り出した百合根を土まみれのまま頬張ったような気分だ。
 胃の中も、腸の中も、全てに砂が詰まったように重苦しい。
 ジューローは、ゆっくりと身を起こした。
 怒りのままに行動しても、爽快感は無かった。
 ただ、ざらざらとした何かが残っただけだ。
 それを、<後悔>とは認めたくない。
 気分の悪さは、おそらくまだこれに対する怒りが晴れていないからだ。
 この行為の基になった激怒は、正当なものだと思う。
 ジューローの母は、借金の形に女衒に売られた。
 実際に、母が男に身を売っている光景を見たことは無い。だが、それでも、女が己の意志ではなく男に体を開く、という状況そのものに、深い嫌悪を感じる。
 母の状況が重なるだけに、やや過剰に反応してしまったところはあるが、一般論で言っても、主が家来に己の意に染まぬ行為を強要するというのはろくでもないことだろう。
 そう考えてみても、ジューローの気は晴れなかった。
 その<ただの暴力>であった行為は、決して面白いものでは無かった。
 肉体的に苦痛を伴ったこともあるにせよ(もちろんサナキルは更に数倍の苦痛だったろうが)、精神的にはもう少し愉しいかと思ったのに。
 そのサナキルは、寝台に俯せになり、まるで死んでしまったかのように静かだ。背中がわずかに上下しているので、生きているのは確かだが。
 さぞかし抵抗するだろうと思っていたのだが、驚いてはいたものの、態度でも言葉でも抵抗はしなかった。むしろ静かすぎるほどだった。終始俯せだったので、シーツを噛み締めて声が漏れないようにしていたのだろうが、そもそも耐える理由が無いと思うのだが。
 まさか、本気でその『ジューローが生き残るために性行為を褒美として与える』などというふざけた理屈を自らが実践するつもりではあるまいし。
 いや、頭が悪い…時折聡明だが、時折驚くほど常識外れだ…こいつのことだ、やりかねない、という気もする。
 たかが仮に仲間になった、というだけの間柄の男に身を差し出すような偽善者では無いとも思うが、同時にジューローにはよく分からない理屈でもって、それを正当化しそうにも思う。
 特にジューローがどうこうなのではなく、東国人の感覚自体が「おかしい」と思い込んで、修正してやろうと(余計な)義務感を持っているとか。
 「…くだらん」
 ジューローは呟いて、寝台から足を降ろした。
 ぎしり、と鳴ったベッドから離れかけたところで、手首を掴まれ、一瞬柄にもなく心臓が跳ねた。
 目を落とすと、左手首を伏せたままのサナキルが掴んでいた。まるっきり意識が無いと思っていたのに、ただの狸寝入りだったのか。
 「何だ。よもや、もう一度しろ、と言うのではなかろうな」
 「…ここで死なれたら、全く無駄になるからな」
 掠れた声で呟いたサナキルは、ジューローの手首は掴んだまま、上半身を起こしかけ…また伏せた。
 「…くそ、痛いな。…何だってあいつらはこんなことを喜んでやるんだ」
 溜息のように微かな声で罵ってから、サナキルはジューローの手首を離して、見ているジューローが驚くほどの勢いで座った。
 本人の弁通り、相当痛むのだろうが、いっそ一気に動いた方がマシ、という判断らしい。無駄なところで雄々しいことだ。
 思い切り顰めた顔で、足首にまとわりついていたズボンを引き上げる。
 「やったからには、無に帰されてたまるか」
 ジューローには意味不明の言葉を吐きながら、サナキルは足を床に着けた。
 顔が明らかにびりびりとひきつっているが、何も言わずによろめくように部屋の扉へと歩いていく。
 荒くなった息を、扉に手を突いて数秒整えてから、鍵を外して扉を開ける。
 何のつもりだ?とジューローも数歩の距離を保ちつつ扉近くまで歩いていった。
 扉から半身だけ出したサナキルがぴたりと止まったので、ジューローは頭越しに廊下を覗いた。
 「…そこをお退き下さいませ、若様」
 階段近くから、ファニーがまっすぐに銃を構えていた。
 ジューローが気づかなかったくらい、<本気>の殺意を持っているらしい。
 だが、サナキルが邪魔で、ジューローを撃つことが出来ない。もしも、ジューローがあのまま部屋を一人で出ていたら、即刻射殺されていたのだろう。
 「馬鹿を言え。お前の任務が失敗したのを、ジューローに当たるな」
 ふん、と鼻を鳴らして、サナキルは開いた扉を塞ぐように両腕を広げた。
 「次の命令は、こうだ。『ジューローを殺すな』。この僕の行為を無駄にするなら、二度とサヴァントスに会えぬようにしてやる」
 「若様、ですが…」
 「二度言わせるな」
 冷ややかな言葉は、傲慢そのもの。
 主としてはろくでもない類に入るだろうが、その命令には絶対に逆らえないような何かを含んでいた。生まれつき命令する側に育ち、相手が従わないことなど想像もしないような人間だけが持っている何かを。
 ファニーがゆっくりと銃を降ろす。
 「…ご命令に…従います」
 搾り出すような声音で呟き、ファニーはサナキルの背後のジューローを睨み付けた。
 サナキルが、ゆっくりと体をずらす。
 出来た隙間にジューローは体を滑らせた。
 無言のまま、ひんやりとした廊下に出ていき、二つ隣の己の部屋へと帰っていく。
 首筋に視線だけで射殺そうとしているかの如きじりじりとした感覚はあったが、意地でも振り向かず、己の部屋の扉を開けた。
 「ファニー、ぬるま湯とタオルの用意。もしもメディックが帰っていたら、呼んでくれ」
 「は、はい、若様」
 扉を閉める直前、そんな会話が聞こえた。
 男に犯された我が身を嘆くでもなく、怒っているでもない、ただ起こった出来事に冷静に対処している声だった。
 一体、何を考えているのか。
 己の寝台に腰をかけ、ジューローは一つ息を吐いた。
 腹の中には、相変わらず砂か汚泥が詰まっているようだ。
 まったく…くだらない。



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