炎の魔人
10階の磁軸柱を抜けたネルスたちは、改めて正面を見つめた。まだ開けていない扉が真正面にある。外見は他のものと変わりなく、特に装飾が施されていることもない。けれど、地図の空白具合から言って、この奥に炎の魔人がいるのは間違いなさそうだった。
「10階に鳥の巣があるという情報を得られたのは幸いでした。鳥の巣を探していて、魔人の巣に入り込んだ、と言えばいいんですもんね〜」
ファニーが地図をくるくると丸めて背嚢にしまい込んだ。もう、ここからは、地図を書き込む余裕があるかどうか分からない。
ちなみに、鳥の巣、というのは、女の子が喜びそうな綺麗な羽を持つ鳥が10階にいる、という誕生日イベント用情報である。本当は、北西の方角、という情報も得ているのだが、そんなことはサナキルには言わなくてもいいだろう。北、という方角自体は同じなのだし。
「さて、再確認するぞ。まず、バースが耐熱ミストを使う。エルムはアームボンデージ、俺はヘッドバッシュ、ファニーはアイスショット。ピエレッタは病毒をかけてみて、かかりが悪ければ次から睡眠だ」
「メディカやテアリカの用意もばっちりです〜」
「…最悪、逃げるがな」
ネルスは唇を歪めた。騎士道とはほど遠い人生を歩んでいたので、強敵に背中を向けることに何の感慨もない。かなわなければ、鍛えて再挑戦すればいいのだ。5階の時と違って、今すぐどうこうしなければならない理由があるわけでもなし。
そうして、彼らは正面の扉に向かった。
扉を開けても、すぐには魔人の姿は見えなかった。
まだ広場が続いている。ただ、奥から風は吹いている気がした。
「…意外と…冷たい風を感じます」
「でも、時々あっつい塊も来るで?」
てっきり熱気に覆われているだろうと思ったのに、何だか妙な具合だ。
周囲に気を巡らせつつ、ゆっくりと歩いていくと、予測通り奥の奥に真っ赤な巨体が見えた。
「…裏切られた気分じゃわい」
バースが「やれやれ」と言うように首を振った。
丸々とした赤い体躯に顔らしきものが乗っているが、目の位置からは角が生えている。頭からも2本の角が生えており、一体どこに目があるのだろう、と思う。
頭部からは黒くさらさらとした髪が生え、肩のあたりでばっさりと切られたように途切れていた。
顔や手足があるように見え、全体的には人に似た形なだけに、さらさらとした黒髪と奇妙な部分から生えた角が、魔物を悪意を持って人間の形に仕立てたような、不気味な印象を与えた。確かに、戦った衛士たちが、「黒髪、おかっぱ、角」というインパクトを語るのも理解できる。
目も無いくせにこちらを認めたのか、魔物が軋るような声を上げた。
「…予定通り、行くぞ」
声が口から出る。敵を認めて手を挙げる。
姿だけではなく、動作も「人間」に似ていた。
各地、各時代の呪いについての文献を読んだことのあるネルスとしては、あまり嬉しくない推測も脳裏に過ぎったのだが、今、目の前の生物は明らかにこちらに敵意を持っている。
戦って倒すしかないだろう。
たとえ、倒しても、またすぐに蘇る存在なのだとしても。
やはり、炎の魔人は予想通りに、いや、予想以上に強かった。
受けたダメージを回復させるのが間に合わない。ピエレッタの病毒は、かかることはかかるが、すぐに消えてしまう。
バースの回復だけでは間に合わず、各自でメディカを飲むが、その分攻撃の手が減るということになる。
まずい、退くか、と思ったが、相手は逃してくれそうにも無かった。
バースもエルムも倒れ、手の空いたピエレッタがネクタルを振りまく。
辛うじて立ち上がったエルムにファニーがメディカを飲ませた。
魔人も無傷では無い。そもそもが体が赤いので分かり辛いが、体から血を吹き出している。
あと半分。だが、その半分が遠かった。
「ピエレッタ、逃げられるようなら、逃げる準備をしろ」
その声を断ち切るように、魔人の腕がネルスを弾き飛ばした。
エルムはくらくらと歪んだ視界と、遠くの方で聞こえる悲鳴に眉を顰めた。
ずきずきと体中が痛む。
息を吐きつつ、ぐるぐる回る目を伏せた。
右に見えるのは、爺ちゃんの伏せた姿。
左に見えるのは、リーダー。その後ろの茶色い塊は、ファニーだろう。
敵が前にいるのは分かっていたが、それでも首を捻って背後を見た。
いた。
まだ、立っている。
暗紫のローブをまとった少女が、蒼白な顔でネクタルの瓶を抱えていた。
エルムが振り返ったのに気づいて、強ばった顔を動かし、悲鳴のように声を上げた。
「なぁ、誰から蘇生させたらええん?蘇生しても、一撃で死ぬんよ、なぁ、誰から蘇生させたらええんよ!」
あまり記憶には残っていないが、エルムもきっと蘇生されては殺され、蘇生されては殺され、と繰り返したのだろう。
ネクタルだけでは、蘇生してもほとんどHPが無い。けれど、回復をする前に、敵の攻撃が来てしまう。きっと、今のエルムもその状態だ。
もしも、僕が死んだら、とエルムは思った。
それは簡単に想像出来る光景だったが、次の魔人の攻撃でエルムは潰され…ピエレッタだけが残される。誰も遮る人間がいないのだから、ピエレッタが誰かを蘇生したとしても、間に合わず、攻撃はピエレッタに向かう。
揺れていた地面が、一つになった。
「…僕が、守りますから」
遠く、近くに聞こえる音も、全て意識から追い出す。
ただ、真っ赤な<人>に似た魔物を見つめた。
「…あれは、僕が、殺すから」
魔人と同じく、真紅に染まった鞭を握り締めた。
ひゅ、と鞭が鳴った。
エルムの足が、地面を蹴る。
「…殺す、よ」
ひゅるひゅるひゅる。
鞭が、魔人の頭に巻き付いていく。
とん、とエルムが地面に降りた音は、ごきり、という何かが折れた鈍い音に掻き消された。
エルムは脇腹を押さえ、足を引きずりながらピエレッタの元に向かった。
まだ少女は蒼白な顔でネクタルの瓶を固く抱き締めている。
見開いた目の前で、エルムはぎこちなく笑ってみせた。
「…もう、大丈夫ですから」
ぎしぎしと首を動かしたピエレッタは、ようやく、「え?」と呟いた。
「大丈夫ですよ」
エルムはもう一度言って、ピエレッタの手に触れた。強直している指を解して、ネクタルの瓶を取り上げる。
また足を引きつつ、赤い巨躯の方へ歩いていく。
「エルムくん、危ない!」
悲鳴を背中で聞きつつ、エルムはうっすらと笑いを浮かべた。
足下にある、一抱えほどもある丸い部分を、さらさらとした黒髪を手に巻き付けることで引き起こした。
「ほら、ね。…生きていたら、こんな角度には、曲がりませんよ」
がっくんがっくんと揺れるそれから手を離すと、ぐしゃりとイヤな音を立てて地面にぶつかった。
エルムは自分の荷物からメディカを取り出して飲んだ。
耳鳴りが無くなると、ここはひどく静かだった。
この広場には、生き物の気配がまるで無い。
エルムと、ピエレッタを除けば、だが。
こういう静かな場所は好きだな、と思いながら、魔人の頭から鞭を巻き取り、しまう。
ようやく理解したのか、地面にへたり込んでいるピエレッタに手を差し出した。
「…帰りましょう。奥に進むのは、サナキルさまたちに任せたらいい」
ピエレッタの見開いた瞳から、涙がこぼれた。
「…い…」
エルムは手を出したまま、首を傾げた。
「い…生きとるんやねぇ…うちら、生きとるんやねぇ…」
「えぇ、生きてますよ」
他の3人は死んでるけど。
「うち…もう、ほんまに、今回ばかりは駄目やと…」
鼻を真っ赤にさせて、ずずっと啜り上げたピエレッタに、エルムは当然のことを言うが如くに告げた。
「僕が、守りますから。ピエレッタさんは、僕が、守りますから」
「……へ?」
何か、凄いことをさらりと言われた気がして、ピエレッタは自分に手を差し伸べている年下の少年の顔を見上げた。
ひどく真面目な顔の少年は、照れた様子も気負った様子も無く、「帰りましょう」と言うのと同じ調子でまた言った。
「僕が、貴女を守ります。…それでも、まだ怖いですか?」
ピエレッタは両手をひらめかせた。ちょっと一踊りしてから、まじまじとエルムを顔を見つめる。
「な…涙も引っ込むわ、そんなこと言われたら」
ピエレッタは、両手でぱしぱしと自分の頬を叩いた。
「あかん、しっかりせな。うちの方が年上なんやし」
自分に言い聞かせるように呟いて、エルムの手を借りてすっくと立ち上がる。
「ほな、帰ろか。…あ、でも、その前に、その赤いのんから何か素材が取れんか、やってみよか」
「そうですね…ちょっと、よく分かりませんけど…角、とかですかね」
とりあえず、今のは自分を慰めるための言葉なのだと解釈して…というか、解釈することにして、ピエレッタはしゃきしゃきと歩き始めた。
たぶん、本当にそれ以上の意味は無いのだろうと思う。本当に愛の告白だったら、誤魔化したことを怒るとか悲しむとかするだろうが、横で歩いているエルムは、ピエレッタの反応を見ても平然としているし。
第一、エルムはまだ16歳の少年なのだ。惚れたはれたにはまだ早い。
前衛が後衛を守る、という言葉に、それ以上の意味を読みとるのは危険だ。
とにかく、エルムに心配をかけないように、もっとしっかりしなければ。
エルムとピエレッタの二人で3人の死体を引きずって糸で入り口まで帰ると、もうアクシオンがルークと来ていた。ショークスもいるので、どうやらそこから状況が伝わっていたらしい。
「はい、お疲れさん。よくやったな〜、ネルスが死んでから状況が分からなくなってたから、やばいかと思ってた」
ルークが二人からひょいと死体を受け取る。
アクシオンが、まずはバースを蘇生させた。キュアは自前でやれ、ということだ。
ネルスとファニーの蘇生を済ませ、アクシオンはエルムにキュアをかけた。
「すみません、炎の魔人がいた広場や奥は、全くチェックしていませんが…」
「あぁ、いい、そりゃこっちでやるわ」
軽く頷いてから、ルークはエルムの頭をわしわしと撫でた。
「よく頑張ったな」
見ているはずは無いのだが、ピエレッタを最後まで護りきったことを誉められたような気がして、エルムは頬を染めた。
「…はい」
小さく頷いたエルムを、バースも抱きしめた。
「よーしよくやった、さすがはワシの孫じゃ!女性を守るのは、騎士道の基本じゃしの」
「うん、そうだね」
あぁ、なんだ、後衛だから、というのもあるが、単に女性一般が守るべき対象なんだ、とピエレッタは納得してから、ちょっぴりだけ不快になったのを押し殺した。自分だけが守られる対象である、と勘違いしないように、と思っていたはずなのに、そういう現実を突きつけられたら不愉快になるなんて、本当はそう思っていないことの証だ。それでは困る。
だから、その不快になった部分は「無かったこと」にして、ピエレッタは魔人から取ったものを先生に見せようとした。
面白いものが取れました!と報告するつもりだったが、目の前でカースメーカーの師匠は恋人と抱き合っていたので、声をかけられず素材はまた荷物にしまいこもうとした。
「あぁ、それはこちらで交易所に売っておきますよ。そちらはどうぞ帰ってゆっくりして下さい」
アクシオンの言葉に甘えて、そのまま手渡す。
「ほな、帰ろか。せいぜい2時間くらいのことやのに、えらい疲れたわ」
「…そうですね…あまり、良い気分では無いのは、確かです」
エルムも、ぼんやりと同意した。ゆっくりと手を握ったり開いたりする。
今までも、鞭で敵を殺してはいたのだが、あんな風に明らかに即死させる目的で鞭を使ったのは初めてだったのだ。知識として知ってはいたが、首の骨をへし折る感触は、あまり好んでしたいものでは無かった。
視線を落としていると、にゅっとピエレッタの顔が視界に入ってきたので飛び上がった。
「エルムくん?大丈夫?今日は、エルムくん、何度も死んだしねぇ。はよ帰って、ゆっくりしよ」
「…そうですね。帰って、熱いお茶でも飲みましょうか」
それでも、たぶん。
後悔はしないし、これからも使うだろう。
使える技を温存して、誰かが代わりに死ぬ方が、よほど嫌だから。
むしろ、そんな技を使えることを神に感謝するべきか。
そうして、ダークハンターの少年は、魔人の首をへし折った手を開き、護るべき少女の手を取った。
「さぁ、帰りましょうか」
「へ?あの、ちょっと、エルムくん…手…」
ちょっと困ったような声で小さく抗議しているが、振り解かれることもない。
自分よりも小さな手を軽く握って、エルムは素知らぬ顔で歩き始めた。
宿屋の娘お誕生日会は、デイドリーム炎の魔人撃破記念と同時に行われた。
結局、鳥の羽というのは、いくら外見が綺麗で珍しかろうが基本的に不潔です、ましてや魔物のものなんか何の病気を持っているか、というアクシオンの反対により却下された。
他人様の荷物を探るのはルークが却下したので、花を摘むのとベリーを摘むのとどちらか、という話になり、花を摘むくらい駆け出しギルドでも出来るだろ、ということでベリーが選ばれた。
不満たらたらに付いてきたジューローも、まだ見たことのない白馬のような魔物と戦えてご満悦だったので、宴会にも素直に参加しているのは結果オーライだ。
ぱーっと打ち上げをして、宿の娘とも仲良くなったところで、ルークは3日間の休養を宣言した。
だいたい強敵と戦った後には区切りのために休養する慣習にしているのと、一応覗いてみた11階が、いきなり雪に閉ざされた階層だったので色々と防寒具の準備が必要なためだ。
特に、半裸のジューローに、いかにして防具を着させるか、というのに時間がかかりそうだった。
まあ、これまでのところは順調だよな、とルークは思った。
何だかんだ言って、11階に登るスピードは『破竹の勢い』と評されているし、部分的に険悪ながらも大まかには人間関係も良好だ。
11階に上っても、これまで通り2つのパーティーで交互に探索しつつ、採集パーティーに素材を頼めばいい。
ルークは騒がしい周囲を見回した。
もう宿の娘は母と一緒に帰っていったので、酒場には冒険者しか残っていない。お祭り騒ぎに便乗してか、どこのギルドか分からないような面々も大いに飲んで騒いでいる。
戦って、生きて帰って、酒飲んで騒いで。
ルークは、こういう人間くさい営みが大好きだ。自分がするのも、眺めるのも。
隣に座ったアクシオンが、果実酒を舐めるようにちびちびと飲みながら、何気ない調子で言った。
「サナキルとジューローは、帰りました。もちろん、お子さま組も帰ってますけど」
ジューローは元々付き合いが良くないし、サナキルはこういう場所自体が嫌いだ。むしろ、ちゃんと宴会に参加したことを誉めてやりたい。
速度は随分とゆっくりだが、それでも着実に<冒険者>という集団に慣れていっているように思う。
あとはお互いが冒険者として認め合ったら、もう少し仲良くやれるだろうか。
そんなことを言ったら、アクシオンは目を細めてしばらく黙っていたが、グラスの中身をちゃぷちゃぷと揺らしながら呟いた。
「どうでしょう…あの二人、どちらもゆっくり歩み寄る、というタイプじゃないような気がするんですが…俺は、性格判断とか空気を読むとかあまり得意じゃないので断言は出来ませんが…」
そうして、ゆっくり時間をかけて歩み寄って恋人になった二人は、目を見交わした。
「…一気に衝突する?」
「かもしれません」
まったりゆったり平和主義のルークは、うわああ、と頭を抱えた。
今の時点で、お互いがお互いを強烈に意識しているのは確かだが、ジューローはサナキルに関わりたくない、と思っている、あるいはそう装っている。だとしたら、サナキルの方に、あまりジューローにちょっかいを出すな、と釘を刺しておいた方がいいだろうか。
3日間、という暇な時間が出来ることで、余計な煮詰まり方をされたらたまらない。
明日にでも、ちょっと言っておこう。
しかし、時すでに遅かったのだった。