森林の破王




 ジューローは不機嫌だった。
 いや、いつでも見かけ上にこやかな時が無いので『いつものこと』のようにも見えるが、今日はまた一段と不機嫌だった。
 まあ、その気持ちが分からないでもない、と隣に立つサナキルはこっそりと溜息を吐いた。
 9階に上がれたかと思うと8階に降りる羽目になり、その8階がまた棘床に埋め尽くされているときた。もちろん、何をどう見れば分かるのかはいまいち把握できないが、ともかくショークスが「この辺りなら大丈夫」という指示をしてくれるので、ダメージは無しに通り抜けることは出来る。しかし、普通の道をざくざく通っていくのとは、やはり速度も疲れ方も異なる。時には不本意ながら踊るような妙な姿勢で爪先立って歩かざるを得ないこともあるし。
 その棘床だらけの場所もようやく終わり、9階の新しい区画へと通じる階段も見つかり、ぼろぼろになりながらも階段近くのショートカットも通すことが出来た。
 ようやくこれで10階へと登る目処が立ったというものだ、というのに…リーダーは依頼を幾つか受けてきてしまったのだ。おかげで、更に進むのではなく、既に踏破した部分での戦闘を余儀なくされている。そりゃもうジューローの機嫌も悪くなるというものだ。
 「プリンセスの宝石など、バースたちに任せておけばよかろう」
 ジューローの機嫌を取るつもりはないが、サナキル自身もそのような依頼には興味が無い。そんな面倒なもの、従者に任せておけばいい、という感覚である。
 だが、リーダーは気にした様子もなく、いつものようにへらへらと笑って地図を振った。
 「ま、だから1層の宝石掘りはあっちに任せたよ。幸い1層は冒険者も多くて情報も集まってるし、大体どの辺が怪しいか分かってるしな」
 逆に言えば、この辺りは冒険者の姿がぐっと減っているし、そんな精鋭ギルドは壁面の鉱石らしき部分など気にしていないので、自分の足で確かめるしか無い。
 もっとも、採取レンジャーであるクゥたちが、ある程度はあたりを付けてくれているが。
 「良いじゃないですか。この国で冒険者をするからには、姫の覚えが良くて損は無いはずです!頑張って下さい!」
 ついでに、余計なおまけも付いてきている。
 どうせ6〜9階まで宝石を探すのなら、ついでに他の依頼も片づけてしまおうと言う魂胆である。
 薬泉院の助手は、妙齢の女性にも関わらず宝石そのものには興味が無いようだったが、主目的である枯れた森の痕跡とは別ルートの寄り道をしていても、文句は言わなかった。ただ、とやかくやかましいだけだ。
 サナキルとしては、これだけ巨大な樹木の内部で、一部の立木が少々枯れようがそれがどうした、と言いたいのだが、もしもその枯死が何かの病で、世界樹まで枯れるような事態になったらこの国は滅びるかもと脅されたので、仕方なく付き合っている。自分には無関係な国とは言え、無辜の民が滅亡すると言われればさすがに騎士として尽力するより他無い。
 もっとも、今回の同行でも、原因は確定しなかったが。ただ、何かがひっかいたような傷跡が幹にあることから、ただの病ではなく魔物の仕業である可能性があるとは思った。この剣と盾でどうにかなる相手をどうにかしろという依頼ならば、七面倒臭い学術用語を並べ立てられても我慢が出来る。
 おそらくジューローも同じだろう。いつも通り眉間に皺を寄せて助手がガラス瓶に試料を採取するのを見ていたが、幹の傷跡はしげしげと眺めていたから。
 しかし、その場で魔物が出ることもなかったので、単に助手の女性を護衛して帰るというだけのことである。ジューローが速攻で興味を無くしたのも無理はない。
 そうしてようやく7階まで戻ってきたところである。後はこの階で石を探し、6階に降りて助手を磁軸まで送って、6階でも石を探せば完了だ。
 「えーと、磁軸柱から階段に通じる細い通路に沿って鉱脈っぽい地面がある、と」
 ルークが地図を見ながら、レンジャーの言葉を確認する。
 とは言っても、助手を含めても鉱石が分かる人間がいないので、あからさまに剥き出しになっていない限りはよく分からない。
 普通の地面と何が違うのだ、とぶつぶつ言いながらも、一応下を見ながら歩いていく。
 9階からの階段を降り、磁軸柱に通じる道へと抜けると。
 通路の奥から、こちらを窺う気配がした。
 いつも、ここを通るとこちらを追跡してくる魔物である。慎重派なのか、たいていこちらが通り過ぎた後で追ってくるので、あっさり振り切ることができるため、わざわざ戦ったことはない。
 今日も、すぐ目の前にいるというのに、まだ飛び出しては来ない。おそらくはその辺の雑魚に比べれば強大な魔物だろうに、何だって人の背後を取ろうとするのか。
 どうせまた階段まで早足で歩けば追いつけまい、とサナキルが階段の方を見やっていると、リーダーがのんびりと声を上げた。
 「あ〜…あれの後ろっぽいわ」
 「は?」
 サナキルももう一度その魔物の方へ視線を返す。
 茂みに隠れた…というか隠れ損ねた巨体に大きな角、爛々と光る目…そういうものを観察した後に、その茂みの近くにある岩が僅かに光っているのが分かった。ただの岩ではなく、宝石に近い鉱物が混じっているのだろう。
 「…戦うのか?」
 興味が無かったジューローが途端に生き生きとして振り返る。
 「強いんだよなぁ、あれ…特に、頭のてっぺんから振り下ろされる攻撃が、すっげーやばいらしいんだが…」
 ルークは顎を撫でながらしばし魔物を眺めた。
 10階に向かう、という目的だけを考えれば、無理に戦うべき相手でも無い。
 けれど、公女の誕生日、というのは当然先延ばしに出来るものではなく、やるならさっさとやらないと、こっちが宝石を持って帰るのを待っている街の職人の皆様に悪い。
 「ぶっちゃけて言いますと、俺かジューローに攻撃が来ると、一撃で死ねるでしょうね」
 「死人が出ちゃったら、私、蘇生しますよ!もっとも、採取した瓶も放り出しちゃいそうですけど」
 薬泉院の助手が、どーんと請け負ってはくれたが、また上まで採取に行くのも面倒なので、出来れば大人しく見ていて欲しい。
 「つまり、僕が攻撃を引き受けたらいいのだな?」
 「…成功した試しが無い癖に、よく言う…」
 挑発して、その後パリィすれば…と考えたサナキルに水を差すようにジューローがぼそりと呟く。
 何か言ってやりたいのは山々だが、確かに強敵相手に守り切れた記憶も無いので、あまりその辺は突っ込まないことにする。
 「一撃目は防御していろ。その間に、僕が挑発する」
 どうしても、相手の気を引くのに間が空くのだ。というか、防御すればいいのに、攻撃をしたがるジューローも悪い。…まあ、そこで防御するような性格なら、もっと生き残っているだろうが。
 「ま、やってみるか。どうにも駄目なら諦めて階段までダッシュ」
 リーダーが、そう決断した。
 よし、とサナキルは盾を構えなおした。
 今日こそは、ジューローを守りきってみせる。
 「糸はお渡ししておきます。もしも我々が駄目そうなら、お一人だけでも脱出して下さい」
 アクシオンが渡した糸を不満そうに握って、薬泉院の助手は一歩下がった。
 メディックなら回復くらいして欲しいが…どうやら鞄の中には枯れ森の研究用の道具ばかり入っているらしい。
 「さぁて。んじゃ、サナキルは挑発、ジューローとアクシーは防御、俺は猛戦歌するからショークスは適当に攻撃。どうせ俺より先に動くし」
 「次からパワショ撃つぜ。…ま、レベル1だけどよ」
 歌が始まるまで待とうという気は欠片も無いショークスが、さっさと弓を構える。
 「んじゃ、行きますか」
 「よし、来い、魔物!このサナキル・ユクス・グリフォールが相手だ!」
 いつもなら自分が背後から忍び寄るのに、どんっと茂みに踏み込まれて魔物は僅かに逡巡した様子を見せたが、すぐに吠えた。
 頭上から振り下ろされた一撃を、何とかサナキルは盾で受け止めたが、ショークスのすぐ近くにまで吹き飛ばされた。
 「…さすが坊ちゃん、何とか耐えたな〜」
 「正直、もう一撃を受け止める自信は無いぞ」
 強力な一撃で、腕から肩にかけての骨が砕けたらしい。体力の1/3まで削られたサナキルは、右手の剣を腰に収めて、左腕に添えた。
 「ショークス、アザステ頼む」
 「キュアかけます」
 メディックの癒しが体に満ちていく。しかし、毎回これでは攻撃できるのがジューローとルークだけになってしまう。
 「パリィ出来ればいいんだが…」
 攻撃を受け止めるのではなく、何とかして逸らせようと、サナキルは両腕で盾を構え直した。
 ジューローの斬撃が魔物の肉に食い込む。何とか攻撃は通じるが…逆に言えば、ジューロー以外の攻撃は、さしたる効果を上げていない。いつものことながら、ジューローが死んだら一気に戦線が崩壊しそうだ。
 いや、だからこそ、守り抜かなくてはならない。もちろん、死んで困るのはジューローだけではない。メディックが死んでも壊滅状態だ。
 サナキルは歯を食いしばり、次の一撃に備えた。
 魔物の重い攻撃が、今度は斜めから振ってきたので、何とか盾で直撃をかわす。
 「…よし!僕が攻撃を引き受ける!」
 後は、挑発しているにも関わらず、他のメンバーに攻撃が行くことが無いのを祈るだけだ。
 いつも背後を狙うような魔物でありながら、意外と単細胞であったのか、敵はサナキルの挑発にすっかり乗っていた。
 一度だけサナキルとジューローの両方をなぎ払う攻撃をされたが、その分威力が低く、何とか二人とも生き残った。
 後はひたすらサナキルを狙ってくるので、盾でかわしていくだけだ。
 ダメージがサナキルに集中しているので、アクシオンも時折キュアをかけつつ攻撃をすることも出来ている。
 そうして、ジューローのTPが切れて単なる攻撃しか出来なくなった頃。
 ようやく破王が倒れた。
 ジューローが無言で刀を鞘に収める。
 博識なアクシオンが何か素材が採れないかと死体を弄くり、ショークスは奥の岩肌を間近で眺めている。
 サナキルは、そんな様子を見ながら、盾を地面に付けた。さすがに腕が痺れてこれ以上構えておくのは辛い。
 騎士たる者、盾を身から離すべきではないのだが、金属のガントレットを装着したままでは腕をさすることすら出来ない。
 盾から外して解放された腕を、ゆっくりと上下させていると、アクシオンが戻ってきた。
 手を差し出したので、無言で腕を伸ばす。
 「…明らかな傷は無いようですが、筋肉と靱帯が熱を持ってますね。帰ったら冷やした方がいいでしょう」
 詳細に検分したメディックが、そう診断を下した。
 幸い、この国は冷やす材料には事欠かない。宿に帰ったらゆっくり雪水にでも浸けよう。
 背嚢に荷物をしまったリーダーが歩いてきて、くしゃりと目元を綻ばせた。
 「坊ちゃん、よく頑張ったな〜。全部攻撃受け止めてくれて、ご苦労さん」
 「それが僕の役目だからな」
 ジューローやアクシオンが受けたら一撃で死んでしまう攻撃でも、サナキルなら何とかかわすか受け止めることが出来る。そうしてその分、皆は攻撃することが出来る。
 ようやくサナキルが思い描いていた防御が出来たのだ。
 今日こそは胸を張って「守った」と言える。
 自尊心に胸を膨らませながら周囲を見ると、ジューローは相変わらず苛立った調子で地面を蹴っていた。その唇は歪み、どう見ても機嫌が悪い。
 何が不満なのだ、今日は最後まで生きて攻撃が出来たというのに。
 じっと横顔を見つめていると、視線に気づいたのかジューローがこちらを向いたが、すぐに顔を背けた。声もかけられたくない、という態度に、わざわざ怒らせることもあるまい、とサナキルは小さく息を吐いた。
 宝石らしきものを岩肌からえぐり取ったショークスも合流して、下への帰路に就く。
 後は、大した出来事は無かった。
 磁軸を抜け、広場で薬泉院の助手と別れ、ルークたちは酒場や店に回っていくということで、サナキルとジューローは先に宿へと帰ることになった。
 樹海の中では、一応隊列に気を付けているのか、ちゃんと歩調を合わせるジューローだが、こういう場面では全くサナキルのことを意に介せず、すたすたと後ろも振り向かずに歩き出した。
 普段なら、サナキルも軍人歩調できびきび歩くのだが、さすがに今日は鎧と盾が重い。ふぅ、と一つ息を吐いて、ゆったりと歩き始めた。
 何だってあの男はあんなに機嫌が悪いんだろう、この僕に守られるのが不満なのか?しかしパラディンが盾となるのは当然のことであって、他の誰にも出来ない技なのだし、そもそも守られなければブシドーはすぐに死ぬし…などと考えに耽りながら足を規則正しく動かしていると、疲れたという自覚の前に宿に着くことが出来た。
 早く鎧を脱いで部屋着でゆっくりしたい、と階段を上がっていく。自然と足下だけ見ていた視界の上隅で何かが動いた気がして顔を上げると、ちょうどジューローの部屋の扉が閉まるところだった。
 ブシドーは鎧が薄い分、重い鎧を脱ぎ捨てた時の開放感、というやつとは縁遠いのだろうな、と、別に自慢するところでもないことを考えながら、二つ先の自分の部屋へと帰っていく。
 盾を下ろし、手早く鎧を脱いで手入れは後回しにしようと部屋の隅に固めておき、部屋着になってベッドに転がった。
 じわり、と体の節々に痛みを感じる。
 熱を持った肩や肘に、ずきずきと脈が通うのがはっきりと分かる。
 冷やさないと、しかし、もう少し横になっていたい、と目を閉じていると、扉がノックされた。
 控え目なそれを、どうせファニーのものだろう、と投げやりに「入れ」と言うと、扉が開いた。
 「失礼」
 その声が、女性のものではあるがファニーではなかったため、ぐるりと体を反転させた。
 「こんなものでいいのかしら…凍らない程度に冷やしたつもりだけれど」
 自称雪女は、机の上に金属製の盥をごとりと置いた。洗面器よりも大きな器に、なみなみと水が入っている。女性が持つにはかなり重そうだが、フロウが置いた盥からは、水滴一つ跳ねなかった。
 何故、フロウがそんなものを持ってきたのか、というサナキルの不審そうな目に気づいたのか、フロウは薄紫色の唇を開きかけたが、結局笑いの形にしただけだった。
 「…必要、なのでしょう?」
 「確かに、メディックには、そう言われたが…」
 まだアクシオンは宿に帰っていないはずだ。ショークス経由ネルス、という線もあるが、もしもそうならそう言えば良い。
 先の宿に帰ってきたメンバーと言えば…ジューローしかいないのだが、わざわざサナキルのために水を用意するような男とも思えない。
 「もしも、水が温くなったら言って頂戴。いくらでも冷やすから」
 「いや、面倒をかけずとも、その辺の雪でも放り込めばよかろう。休んでくれ」
 フロウはまた面白そうに唇を上げた。
 「この水、わざわざ井戸から汲んだ水を沸騰させて、また冷やしたものなの。もしも傷があったら、悪い菌が入ってはいけないでしょう?だから、窓枠の雪なんて駄目よ。汚れが入ってしまう」
 誰だ、そこまで用意させたのは。
 …まあ、この過保護っぷりはファニーだろうが…おおかたジューローから聞き出したのだろう。それにしては、自分で部屋に持ってこないのがおかしいが。
 サナキルは部屋着を半分脱いで、肘を盥に浸けた。ついでに布を浸して肩に掛ける。
 まだその場にいるフロウに、何気なく問いかけてみる。
 「少し、聞いても良いか」
 「答えられることなら」
 「生きて帰ろう、と強く意識したことはあるか?」
 フロウは、一瞬目を見張り、それから推し量るように細めた。
 しばらくの沈黙の後に、フロウはかすかに笑いを交えた調子で軽く答えた。
 「貴方が信じるとは思わないけれど…私、ある種の呪いで雪女なの」
 問いと答えがずれている気がして、サナキルは相づちは打たなかった。その反応のなさをどう取ったのかは分からないが、フロウはやはりさらりと続けた。
 「こんな体で生きていくのも辛いのだけれど…こんな体で死んでたまるか…って言う方が大きいの。だから、死ぬか生きるかという事態なら、何が何でも生き延びたいって思うわね」
 「…そうか。特殊事情だな」
 「参考にならなかったかしら?」
 「うむ。感謝する」
 参考になった、と嘘は言わないが、ともかくは答えてくれた礼を言う。
 フロウの事情が本当なのか誤魔化しなのかは興味が無い。仮に真実だったとしても、サナキルが知りたかったことの答えにはなっていないのでどうでもいい。
 ある意味身勝手な判断だが、フロウも聞き返されなくても気にしていないようだった。むしろ、これ以上深く突っ込まれたら、冗談に紛らわせただろう。
 さて、次は誰に聞いてみよう、と考えていると、ノックと同時に扉がばたんと開いた。
 「若様!お帰りになったのなら、ファニーをお呼び下さいまし!お怪我の具合は…」
 「怪我はしていない。ただ冷やせと言われているだけだ」
 駆け込んでくるメイドに、フロウがふわりと動いた。
 「私は、これで。…冷やしたかったら、呼んで頂戴」
 最後に盥に手を触れていったので、また水温が下がった。氷水のようなそれに眉を顰めていると、ファニーがフロウと入れ替わりのように机の横に立つ。
 「お前、誰から僕の肩のことを聞いたのだ?」
 「たった今、メディックが帰ってきましたので…」
 ということは、これを用意したのはファニーでは無いらしい。
 まさか、なぁ。
 いや、ひょっとしたら、何かの手違いで水を用意しているうちに僕のところに運ばれてきたとか…と色々考えていると、また扉がノックされた。
 今度入ってきたのはアクシオンだった。
 サナキルを見て、少々驚いたように小首を傾げている。
 「随分、手回しの良い…」
 呟いて、近づいてきて盥に手を触れた。
 「ここまで冷たいと、痛くないですか?」
 「いや…むしろ心地よいな」
 「やっぱり、結構炎症を起こしているようですね。…右腕、動かしますよ」
 盥に付けた左腕では無い方を手に取り、ゆっくりと動かしていく。
 「…痛みますか?」
 「少し」
 「こちらも熱感がありますね」
 サナキルは、黙って見守っているファニーをちらりと見上げた。
 「ファニー。卵スープが飲みたい」
 「は、はい、ただいま」
 一礼してぱたぱたと駆けていくメイドを見送って、アクシオンは真剣な目で腕を動かしつつ、独り言のように呟いた。
 「そう邪険にせず、もう少し甘えても良いでしょうに」
 「そんな気にはならんな」
 サナキルにとって、ファニーはグリフォール家のイヤな部分の凝縮に他ならない。もしもファニーが心底サナキルの身を案じているのならば、多少は絆されるというものだが、ファニーにとって自分が『サナキルという個体』ではなく、『グリフォール家の三男』に過ぎないことは良く分かっている。あれは『任務』でサナキルに従っているのだ。そんな相手に心を開くなど危険すぎる。
 鬱陶しい相手を追い払ったサナキルは、アクシオンにも同じ質問をしてみた。
 アクシオンは、今度はサナキルの冷たくなった左腕を動かしながら、感情の籠もらない淡々とした調子で答えた。
 「そうですね。かつては、どうでもいいと思っていましたよ。死とは解放。死にたいとまでは思いませんが、死ぬのをさして厭う必要も無いと思ってました」
 それはジューローの考えに近い気がする。ジューローも自分から死ぬことは無いが、死ぬのを『死にものぐるいで』回避しようともしていない。
 サナキルが身を乗り出したので、アクシオンはちらりと目を上げた。
 「何か?」
 「かつては、ということは、今は違うのだな?」
 「そりゃあね。ルークがいますから」
 当然のことを言うかの如く答えたアクシオンは、サナキルが怪訝そうな目になったのに気づいたのか、言葉を増やした。
 「俺が死ぬと、ルークが泣きますから。だから、なるべくなら死なないようにしてますよ。それでも時々危ない状態になりますけどね」
 正直、サナキルにはよく分からなかった。
 己が死なないようにすることに、何故他人が関係するのか。
 しばらく考えてから、念のため聞いてみる。
 「もしも自分が死んだら『ルークが浮気をするかも知れないから、自分がイヤな気分になる』ということではなく?」
 「まず言っておきますと、俺が死んだ後でルークが他の誰かと恋愛しようが、それはルークの自由です」
 反論しておいてから、アクシオンはしばし考えて口を開いた。
 「そうですねぇ、ルークが泣くから、というのも、結局は、ルークが泣くのは俺が辛い、という風に、俺がイヤな気分になるから死にたくない、ということになるのかもしれませんが」
 厳密には、自分が死んだ後にルークが泣こうと、アクシオン自身の目でそれを見ることはなく、辛い思いもしないだろうが。
 自分がイヤだから、ではなく、他人がイヤな思いをするから、という理由は、まだサナキルにはいまいち実感出来ないものだったが、ともかく何かの参考にはなるだろうと思った。どうやら、かつてのアクシオンはジューローと似たような思考だったようだし。
 だとしたら、どうしたらいいのだろう。
 ジューローが死んだら、誰かが泣く、と思い知らせてやればいいのか?
 仮に僕が泣くとして…それを気にするような奴か?
 「他人に行動を強要するのは、難しいものですよ」
 まるでサナキルの思考を読んだかのようにアクシオンが言った。
 サナキルの両肩に冷たい布を巻いて、己の手を拭く。
 「Aという行動を避けさせるには、Aという行動をした場合には罰がある、または、Aという行動を避けた場合にご褒美がある、あるいはその両方。条件付けの基本としては、そんなところですね」
 メディックらしく、単純なパターンであるかのように講義口調で言われて、サナキルは、己がぐちゃぐちゃと考えていたことが理論的に説明されたかのような気分になった。
 罰と褒美。
 飴と鞭、という言葉もあるし、その両方の使い分けが出来れば、ある程度他人の行動に干渉出来るかも知れない。
 サナキルは、アクシオンが出ていっても、ファニーがスープを持ってきても、ひたすら考え続けた。
 ジューローが死んだら、ジューローにとって不愉快な出来事が起きる。
 ジューローが生き延びたら、ジューローにとって楽しいことが起きる。
 サナキル的には、死ぬこと自体が不愉快であって、生き延びることそのものが褒美のように思えるが、ジューローにとっては違うと言うなら、別の手段を考えなくてはならない。
 ジューローにとって楽しいこととは何だ?強くなること?新しい武器?しかし、現金を褒美にやるわけにもいかないし…。
 もう一度、アクシオンの言葉を思い返す。
  「ルークがいますから」
 誰か大切な人が出来ればいいのか?そうすれば、その人のために生き延びようとするだろうが…。
 それは非常に有効な案のようには思えたが、死なせないようにするよりも、もっと難しそうだった。



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