クロガネ




 理解できない。全くもって、理解できない。
 3人で警戒しつつもクロガネへの道を歩みつつ、サナキルは釈然としない思いを持て余していた。
 そりゃ、確率論として理解できなくはない。けれど、実際瀕死の遺体を前にして、自分の愛しい相手がああなるかもしれないと分かっていながら、一人置いて行けるという神経が分からない。
 サナキルの歩調に何かが表れていたのか、背後からルークが苦笑しながら言った。
 「いや、坊ちゃん、俺だって、完璧に安心して任せてるわけじゃないのよ?でも、うちのはああいうのだって分かってるから。もう、その辺について悩むのは6年前に通り越しました」
 「6年前?エトリアでも、あんな調子だったのか?」
 6年前、たった1年間だがルークとアクシオンが迷宮に潜っているというのは知っている。その苦難の道のりの末に恋人として成就した、というのも。
 「エトリアでは、一人で特定の魔物を倒してこいっていうギルドからの挑戦というか腕試しクエストが出ることがあってね〜。…いつも、アクシーが行ってたんだわ」
 「…何故、メディックが…」
 ジューローも呆れたように口を挟んだ。
 「俺らん中で、一番、状態異常に耐性があったのがアクシーなんだよ。いや、もう、そりゃ見事なほどに、混乱しても攻撃する相手は必ず敵、恐怖に駆られても立ち竦むことなくやることは攻撃…一人で戦う時って、一番危険なのが状態異常で行動できないことだからさ、アクシーが一番信頼出来たんだよな〜」
 テラー状態になると、必ず動けなくなっていたルークは、その頃のことを思い出して乾いた笑いを漏らした。
 「あ、もちろん、その頃は恋人じゃないけどな。俺の片思い状態。…詳しく聞きたい、というなら、思い切り大恋愛叙事詩を語ってもいいが」
 「いや、いらない」
 「それは残念」
 ルークの口調がふざけていたので、どうせ本当のところは語るつもりは無いのだろうと見当づける。
 サナキルに、そのエトリアの挑戦がどれだけのレベルのものであったのかは分からない。例えば、一人で毒アゲハを倒してこい、だったら、今のサナキルにも出来る。
 けれど、如何に容易いクエストであろうと、途中で何が起きるか分からないのが樹海だ。ひょっとしたら、戻ってこないかもしれない、と思いながら送り出すのは、相当な神経の負担がありそうだ。
 たとえば、僕だったら、どうだろう、とサナキルはふと思った。
 誰か大事な人間が一人で樹海に入るなら……どうもピンと来ない。従者たちがやる、と言ったら、一応は「止めておけ」と言うかも知れないが、それでもどうしても行くと言われたら「好きにしろ」と言いそうだ。
 このパーティーの誰か…ルークやアクシオンが行くと言ったなら、本人たちが大丈夫と言うならそうなのだろうか、と微妙に納得出来ないながらも頷くだろう。今がその状態だ。
 ジューローが行くと言ったら。
 …どう考えても無茶だ。そもそも、行ったら心配どころか、猛反対して行かせない。死ぬのが分かってる相手を、誰がむざむざ行かせるか。
 
 それなりに雑魚も出てきたので、あまり考える暇が無くなった。3人でどうにか敵を倒しつつ、クロガネのいた小道までやってくる。
 遠吠えが響いた。
 彼らを呼び寄せていたのとは別の、敵に対する雄々しい叫び。
 雑魚が出現しているのか?と慌てて走って行ったが、周囲に魔物はいなかった。
 クロガネはある一点を向いて、また喉を反らして遠吠えをあげた。
 「…あっちが、来たのかな」
 ルークが呟いた。サナキルたちには聞こえないが、合成獣と戦っているのがクロガネには分かるのかもしれない。
 爛々と目を輝かせて、その方向を睨んでいるクロガネの前に、ルークは膝を折った。
 「いいか?よく聞け。うちのメディックからの伝言だ。お前の主、フロースガルは生きている」
 クロガネの頭がぴくりと動いて、視線が移った。その真っ黒な目を正面から見つめて、真剣に続ける。
 「ただし、腹が食い破られて、その…はらわたがほとんど無い。うちのメディックによると、お前のはらわたを代わりに繋げれば、フロースガルは生き残れるかもしれない、と…あ、俺は詳しくは分からないぞ?そんな感じのことを言ってたんだ。…あ〜、つまり、お前のはらわたは無くなって…死ぬかもしれないけど、それでも主のことを思うなら…」
 腰を下ろしていたクロガネが後ろ足を立てた。一瞬ふらつきながらも、昂然と四肢を踏みしめる。
 どうやら、フロースガルの元に向かう決意をしたらしい。
 「待て」
 その立った足下に変色した血溜まりがあるのに気づいて、サナキルは片手を上げた。
 歩いて行くのは無茶だろう。そのくらい分かる。
 ルークが差し出したメディカを素直に舐め始めたクロガネを見て、サナキルは一つ溜息を吐いた。
 「…お前も、騎士の従者なら、騎士にとって盾がいかなる意味を持っているか、分かっていると思うが…」
 苦笑と共に、左腕に着けている盾を降ろした。
 「通常なら、獣に踏ませることなどよしとはしないが、騎士に対する忠義に免じて赦そう。僕の盾に乗るといい。座っていけば、少しは楽だろう」
 盾の裏側を上に地面に置き、クロガネを促す。担架のように運べば、クロガネの負担は軽くなるはずだ。
 その革張りの丸い盾を前に、クロガネは逡巡したようだった。きゅうん、と初めて聞くような頼りない声を上げ、困ったようにサナキルを見上げたが、何を感じたのかぴくりと広間の方を向き、耳を立てた。
 ようやく決心したのか、サナキルに鼻面を押しつけてから、そっとその盾に乗り、蹲った。
 「よし、僕と…」
 「俺だな。ジューローは敵に攻撃して貰わないと」
 ますます攻撃役が減っている状況にも、ジューローは文句の一つも言わなかった。周囲が1人だろうと5人だろうと気にしていないだけではあるが。
 そうして、ルークとサナキルが盾に乗せたクロガネを運んでいき、ジューローはその護衛をしながら歩いていった。雑魚には一度遭遇したが、クロガネの咆哮に怯えたのか、すぐに散り散りに逃げていった。
 何とか広間まで戻ってきて、警戒しながらも進んでいく。
 クロガネが一声吠えて、盾から降りようとしたので、サナキルは慌てて押し留めようとしたが、既に黒狼は盾から飛び降りて弾丸のように走って行っていた。
 しょうがないので、こちらも走って後を追う。
 「…お、何もいない」
 ルークが走りながら呟いたとおり、正面の扉の前には、何もいなかった。ただ乱れた草地が、戦闘を後を伝えるだけだった。
 正面から右に曲がり、瓦礫が低くなった箇所を見つける。
 そこから入ると、元の位置にいたメディックが、こちらに手を振っていた。
 騎士の傍らにはクロガネ。顔をぺろぺろと舐めている。
 「状況は?」
 恋人に会った最初の一声がそれか、とサナキルは思ったが、アクシオンもそれが当然といったようにきびきびと返した。
 「ネルスたちがキマイラを倒しました。今、先に進んで、6階に磁軸が無いか確認に行っています」
 「よーし、オッケーイ!」
 びしっと親指を立てたルークに、アクシオンも同じ合図をする。
 「…あっちが、倒したのか」
 ジューローのいつもの不機嫌に残念そうな気配も混じった呟きに、アクシオンが苦笑する。
 「攻撃力というよりも、カースメーカーの毒が決まったのが勝因のようですよ?もっとも、全員フォースを思い切り叩き込んだようですが」
 「…毒、か」
 ふん、と鼻を鳴らして、ジューローは腕を組んで扉の方を向いた。一応、見張りのつもりらしい。
 「さて、それじゃあ、帰りに備えて、フロースガルを運ぶ準備をしたいのですが…ルーク、マント使っていいですか?」
 「はいよ、奥さん。血抜きと修復はよろしく」
 「最悪、新調しますよ」
 岩がごろごろしている微妙に荒れた草地の上に、ルークのマントを広げる。フロースガルのすぐ隣には敷いたのだが、フロースガルをその上に乗せる、というのは躊躇うものがある。何せ腹部がすかすかである。何だかそこから千切れそうで怖い。
 だが、アクシオンは淡々と指示をしていった。
 「はい、上半身だけ少し持ち上げますから、マントだけ引っ張って下さい…OK、次、腰のあたりいきます」
 体の下に腕を入れ、ほんの10cmほど持ち上げた隙間からマントを下に引きずり込む。
 少々フロースガルの呼吸は乱れたが、マントを全部入れた時点でも、状態が悪化する気配は無かった。
 そうこうしている間に、草地を踏む足音が聞こえてきた。
 瓦礫の向こうから、顔が覗く。
 「若様!ご無事で!」
 「…あぁ、帰ってきていたか」
 メイドが駆け寄ろうとするのをサナキルが眉を寄せて眺めている間に、他のメンバーは少々早足でこちらに向かってきた。
 「どうでした?」
 「予測通りだ。6階に上がってすぐにエトリアと同じタイプの磁軸がある」
 「…よし!」
 ルークが小さくガッツポーズする。
 サナキルは、ファニーの身体点検を仏頂面で受けながら、他のメンバーを見回した。大して怪我もしていないし、苦労した後も無い。むしろ、強敵を葬った誇りに輝いている。
 もちろん、フロースガルとクロガネの命を助けるためなのだから、この流れに不満は無いが…5階最大の敵と呼ばれた相手を見ることもなく倒されたのは、何となく悔しい。
 もっとも、サナキル以上に苦虫を噛み潰した表情でこちらを眺めているジューローは、更に口惜しい気持ちを持て余しているのだろうが。
 まあ、それでも。
 本当に、これで二人…一人と一匹が助かるのなら、悪くは無い。

 4人がかりでそーっとそーっとフロースガルを運んでいき、階段でちょっと平行にするのに苦労したが、何とか磁軸まで連れていけた。何だか周囲が真っ赤に燃えているように見えたが、熱くはないので、危険では無いのだろうと思う。
 それより、サナキルはクロガネの様子に集中していたのだ。一見、フロースガルに会って元気そうだったが、大怪我していたことには間違いない。
 先ほどまでと同じく、盾に乗せたクロガネに負担がかからないよう気を使っていたので、正直、周囲の景色にまで意識が回らなかった。
 磁軸から飛ぶと、そこにはショークスと白衣の少女が待っていた。
 「先生は薬泉院でお待ちです。さぁ、行きましょう!」
 どうやら、街で待つしか無かったショークスが薬泉院に話を通したらしい。
 薬泉院の助手が先頭に立っていたため、その辺の冒険者たちも皆、道を開けてくれる。
 そうして辿り着けば、アクシオンだけが残り、他の面々は内部には入れなかった。どうやら、これから本格的な大手術が始まるらしい。もちろん、クロガネも部屋に入っている。
 まさか、本当にクロガネの内臓を抜いたりはしない…と思うのだが。
 唇を尖らせて薬泉院を睨んでいるサナキルの肩を、ルークがぽんと軽く叩いた。
 「後はメディックたちに任せよう。俺たちは、帰って飯でも食ってればいい」
 言われてみれば、今日は弁当を食べる暇も無かった。初めて自分が空腹だったことに気づいて、サナキルは大きく息を吐いた。
 皆で連れ立って歩きつつも、サナキルはどうも落ち着かなかった。
 5階で最も凶悪だと言われる敵は、自分たちの手ではないとは言え、一応倒したことになる。つまり、目的である空飛ぶ城へ、また一歩近づいた、ということではあるのだが…どうもすっきりしない。
 敵を倒してめでたしめでたし…とは、なかなかいかないものなのだな、とサナキルは溜息を吐いた。
 せめて、フロースガルとクロガネが無事助かった、という結末なら少しは気持ちよく過ごせるのだが、これで結局クロガネを犠牲にしてフロースガルは助かったが、それでももう冒険者としては生きていけない、なんてことにでもなったら、ますます滅入りそうだ。
 己から生を投げ出すことは、罪だ。
 それは、間違い無い。
 けれど、死んだ方がマシだ、と思うような生を強要する権利も、サナキルには無い。
 あの時点では自信を持って助命すべしと答えたが、本当にそれは正しいことだったのか。

 だんだん俯いて、己の足下を見ながら歩いているサナキルとは対照的に、ジューローは相変わらず憮然としたまま正面を見つめて歩いていた。
 己が防御に難があることは自覚している。けれど、今日こそは強敵と戦えると思い、それなりに気分が昂揚していたというのに、戦うどころか見ることすらなく、やったことは護衛に人助け。
 ろくでもない、とジューローは唇を歪めた。
 もっとこう、単純なギルドに加わる方が良いのだろうか。人助けなんぞという余計なことはせずに、ひたすら上へと進む強行型ギルドに。
 もうジューローもそれなりに強くなり、一撃で死ぬことは滅多に無い。どこのギルドに行っても、以前ほど邪魔者扱いにはならないはずだ。
 そんな投げやりな思考になっていたジューローに、ルークが暢気な声をかけた。
 「ジューローも、キマイラと戦いたかったか?」
 「…あぁ」
 「ま、2週間ほど待ってね」
 「?」
 ひどく具体的な日数に、ジューローは眉を寄せてリーダーの顔を見返した。
 ルークは平然と葉っぱをぴこぴこさせており、こちらを懐柔しようとか誤魔化そうとかしている気配は無い。ただ、当然のことを言うが如くに説明した。
 「この迷宮がエトリアと同じ仕組みなら、あの手のは14日で復活する。何で、かは俺に聞くなよ?雑魚が幾らでも湧いてくるのと同様に、ああいうでかぶつは14日周期で復活する。殺しても殺しても、何度でも」
 最後はちょっと苦々しそうに呟いて、ルークは軽く肩をすくめた。
 「ま、たぶん、この樹海でもそうだわ。キマイラが出たのも、倒したのも、俺たちが初めてってわけじゃないし。まー、2週間もする頃には、キマイラじゃ物足りなくなってるかもしんないけどさ」
 ジューローがこのギルドに入ったのが、ちょうど2週間前あたりだ。確かに、その頃から比べれば、恐ろしくレベルアップしていると思う。
 まさか、この速度で成長し続けるつもりなのだろうか。
 どれだけ上に行けば空飛ぶ城に辿り着けるのかは知らないが、この速度なら、1年もせずに目的を達成するのではなかろうか。
 ジューローはリーダーを改めて見た。
 いつでもすっとぼけた態度の吟遊詩人。
 けれど、自分たちのギルドが空飛ぶ城に辿り着くことを『当たり前』のように考えていて、決して急ぎはしないし、暢気にも見えるのに、確実に探索を進めている。酒場になど行かないジューローでも、このギルドが、新入りにしてはなかなかやる、から、新入りの癖に最有力ギルドに急成長中、という評価を受けていることくらい知っている。
 少々…余分な人助けをしてはいるが…ひょっとしたら、このギルドに所属しているのが、強くなる一番の近道なのかもしれない。
 ジューローは、そう思い当たって唇を歪めた。
 色々と面倒ではあるが、強くなるためなら仕方あるまい。


 一晩眠って、朝食のために降りていくと、アクシオンが戻っていた。
 疲れた顔はしているが、何とか眠る時間はあったのだろう、疲労困憊というほどではなさそうだ。
 朝食を取りながら、淡々と報告する。
 「一命は取り留めました。もちろん、クロガネの腸は取ってませんよ。ちょっと『騙したな』と言うように吠えられましたけど」
 嘘も方便を実行して狼に吠えられたくらいで気に病むような神経は持っていないので、アクシオンは平然と続けた。
 「腎臓も一個は無事でしたし、肝臓も2/3ほど残ってました。あれ以上食べられていると、太い動脈を傷つけて出血で死んでいたでしょうが、運良く周辺から食べられてましたので…」
 「…よりにもよって、今朝の朝食はレバーペーストなわけだが」
 「美味しいですね。さて、問題は小腸がほとんど無いことなんですが、15cmほどは無事な部分が残っていましたので、それを何とか繋げて、残っていた切れ端は培養することになりました」
 微妙に、食事時の内容では無い気がした。
 まだ報告を続けそうなアクシオンに、サナキルはびしりと言った。
 「専門的な話はいい、どうせ分からん。あの騎士は、今後どうなる?」
 「培養がうまく行くかどうかにもよりますが…口から栄養を吸収することが出来ないので、ずっと薬泉院暮らしでしょうね。あ、金銭的な面は心配ありません。ああいうのは、メディック的に、学会に論文提出できるほどの症例ですから、大事にしますよ」
 サナキルは頭を抱えた。
 心配の方向性が、全く異なる。
 そりゃ、薬泉院にいないとすぐに死ねるという状態で、「じゃあさようなら」と放り出されないというのは朗報と言えば朗報なのだが…正直、サナキルはそういう事態は想像していなかった。
 「気になるなら、薬泉院に行かれますか?」
 「話が出来るのか?」
 「えぇ、もちろん。ちょっと腹部がぺっしゃんこなだけで、肺や声帯といった発声系に異常はありませんから」
 上げかけた頭が、またがっくりと落ちた。
 メディックというのは、皆こういう風にずれているのか、それともアクシオンが特別なのか。
 頭を抱えながらも、サナキルは色々と考えてみた。
 相手も仮にも騎士だ。こんな体で生き残りたくなかった、と罵られたりはしないだろうが…胸を張って会えるとも言い難い。
 「…もう少しして、フロースガルの体力が戻ってからの方が良いだろうな?」
 「ものすごーく正直に言ってしまうと、その『もう少し』した後に絶対生きているという保証は無いのですが」
 助かったのが、僥倖。
 今は安定しているが、いつ何時急変するか分からない。
 メディックに淡々と言われて、サナキルは唇を噛んだ。

 朝食を終えてから、薬泉院に行くことにした。どうやら、強敵を倒したということで、3日ほど探索は休憩するらしいので、時間は十分ある。
 あまり気が進まなかったので、のろのろとした足取りだったが、元が軍人歩調なので普通に薬泉院に着いてしまう。
 奥の部屋に案内され、逡巡の後に扉をノックして開けた。
 開けた途端に、扉近くに座っていたクロガネが一声鳴いて、足にまとわりついてきた。
 「あぁ、お前は元気なようだな」
 鼻面を押しつけてくるので、どうも気に入られたらしいと気づく。まあ、主と同じ騎士なのがかなりポイント高いのだろうが。
 ベッドに向かうと、意外と顔色の良いフロースガルが、サナキルを認めて微笑んだ。
 「やあ。良く来てくれたね」
 肩口まで掛けられた布団のせいで、腹部がどうなっているかは分からない。むしろ、見えなくて良かった、というべきなのかも知れない。もしも見えていたら、自分はそこを注視してしまいそうだから。
 サナキルは、どう声をかけるべきなのか分からず、あーとかうーとか唸りながら、フロースガルのベッドの脇にまでやってきた。
 そのまま突っ立っていると、壁際からガゴガゴと妙な音がしたので振り向く。
 置いてあった椅子をくわえて引きずっているクロガネに、自分に座れと言っているのか、と苦笑する。
 「お前は、やけに人間臭いな」
 器用に椅子を持ってきたクロガネに応じて、サナキルはそれに腰を下ろした。クロガネはベッドに頭を乗せて、ぱたぱたと尻尾を振っている。
 目を細めてクロガネの首を撫でたフロースガルが、サナキルを見つめた。
 「クロガネから、聞いたよ。ありがとう」
 「…僕は…別に、何も…」
 何も、出来なかった。
 サナキルは拳を握り締め、膝に押しつけた。
 このサナキル・ユクス・グリフォールともあろう者が、人前でくじけたところなど見せてはならない。唇を噛み、強い視線でフロースガルをまっすぐに見つめる。
 「お…貴方の命を救ったのはメディックで、キマイラを倒したのは別働隊だ。…僕は、何もしていない」
 「君は、クロガネの命を救ってくれたのだろう?私には、それが一番ありがたいよ」
 サナキルはその言葉に眉を上げた。己の命が助かったことよりも、キマイラを倒したことよりも、狼が助かったことが一番嬉しいと言っているのだ、この騎士は。
 滅入りそうだった気分が、怒りに変わる。
 「何を言う!自らの命を大事にせぬ者に、他者の命が守れるか!…無論僕も、この狼が騎士の従者として優秀であり、誉れであることは理解しているが…!」
 たとえ、この黒狼がとても大切な存在だったとしても、自分の命よりも優先するというのはおかしい。そして更には、それだけ大切な存在だと言うならば、全力で守るべきなのだ。守れる自信が無いならば、そも危険に巻き込むのが間違っている。
 サナキルが落ち着いた…というか喚き疲れたところで、フロースガルは目を閉じた。
 「…すまない。…そうだな…私は…己の生に執着していなかった。それが、このざまだ」
 サナキルは息を飲んだ。
 まさかとは思うが…やはりフロースガルはこの状態を怒っているのだろうか。何故死なせてくれなかった、と怨ずるのだろうか。
 「私のギルドは、元はちゃんと5人いたんだ…みんな、とても仲が良くて…」
 フロースガルは、何かを慈しむ目でふんわりと微笑んだ。遠くの思い出を見つめる目が、ふと翳る。
 「キマイラに。…殺されたんだ。…生き残ったのは、私とクロガネだけ。…私は皆の仇を討ちたかった」
 クロガネが、きゅうんと鳴いて、フロースガルの頬に鼻面を押しつけた。
 「分かっていたんだ…5人で倒せなかった相手を、二人で倒そうとするなんて、無茶だということは…けれど、私は、他の者を、私のギルドメンバーとして受け入れることは出来なかった。ベオウルフはあくまであの5人だったんだ」
 誰の手を借りるでもなく、ベオウルフの仇は、ベオウルフで討たなければならない。
 もしも、それが果たせるのなら、この命などどうなってもいい。
 「後のことは…考えていなかったな。…ただ、キマイラさえ倒せたら、それでいいと…思っていたんだ」
 それは、意識はしていなかったが破滅への道だった。心のどこかでは、自分も死んだ3人のところに行きたいと思っていたのだろう。
 サナキルは、騎士フロースガルを見つめた。
 自分よりも遙かに年上で、冒険者としての経験も積んでいる先輩騎士に、きっぱりと言い切る。
 「それは、間違っている」
 理解が全く出来ない、とは言わない。それでも。
 「それでは、クロガネの立場が無かろう。誰よりも、主の身を案じ、主のために己の身を捨てようとする従者がいるのに、己の身を鑑みないなど…それは騎士のなすべきことではない。騎士とは、己に付き従う者の命にまで責任を負うものだ」
 サナキルは、自分がまだ若輩者で、本当の修羅場など経験したこともない甘ちゃんだということは知っていた。自分の理想論など、歴戦の勇者の前では、ほんの児戯に過ぎないことも知っていた。
 けれど、騎士のなすべき道について、それは譲れない線だった。
 顔を真っ赤にして自分を睨み付けている青年を見上げて、フロースガルは微笑んだ。
 柔らかく傷一つ無い白い頬に、細く輝くさらさらの金髪を見ていれば、それがまだ守られる立場の貴族の坊ちゃんだということはすぐに知れたが、それでもその理想論を笑う気にはなれなかった。
 「そうだな…私が間違っていたのだろうな」
 「クロガネに、謝るといい。これから先、二人とも生き抜くことが、亡くなった戦友への何よりの手向けになるはずだ」
 サナキルは、そう言って椅子から立ち上がった。
 その『ただ生き抜くこと』が何よりも困難な道である可能性もあるのだが、それでもきっとクロガネがいる限り、この騎士はもう死の誘惑には駆られまい。
 まあ、いくら素晴らしい従者とは言え、獣に過ぎない存在にそこまで入れ込む神経は、サナキルにはおそらく一生理解出来ないだろうが。



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