初ミッション
朝。寒くはあるが、なかなかに天気が良さそうな日だった。…もっとも、早朝で、まだ日も昇っていないので断言できないが。
夜着に上着を羽織っただけの姿で、サナキルは階下の食堂に降りていった。
がんがんと鍋が叩かれる音で起こされただけあって、そこにはすでに朝食が並んでいた。
ごく自然に上座の椅子を選んで座っていると、他の面々も降りてくる。
「若様、しっかり食べて下さいまし〜」
「むぅ…あのような固いベッドでは眠れぬ…」
待っている間にまた眠気に襲われて、半ば目を閉じて座っているサナキルに、ファニーがスプーンを差し出す。
「若様、スープだけでも〜」
「しっかり食っといてくれよ、若様。いざって時に体がまだ寝てます、なんて言われても知らないぞ」
これから探索に行くのだ。本当に眠いのなら、サナキルは置いて別のメンバーを加える、などとルークが言ったので、サナキルは首をかくんかくんと揺らしながらも半目で睨んだ。
「僕も武人だぞ。いつでも戦えるに決まっている」
「そうは見えないから言ってます」
ルークの口調が咎めるようではなくからかいを含んでいたので、サナキルは怒りはしなかった。
メディックが自分のスープをこくりと飲んでから、小首を傾げて聞く。
「スープを温め直して貰いましょうか?覚醒させるには、脳の体温を上げる必要がありますし」
「いや、いい。僕はこのくらいの温度に慣れているからな」
熱い、というよりも温いになっているスープを、ファニーから奪い取ったスプーンで啜った。
「…若様は猫舌でしてな」
こっそりとアクシオンに小声で言う爺をじろりと睨む。
確かに、サナキルは熱いものに慣れていない。それは幼少時から、過剰に「はーい、ふーふーして飲みましょうね〜」と冷まされてから口に運ばれていたせいだ。
普通の料理もたいていは毒味の後に運ばれるので、祈りを捧げて口にする頃には冷めているし。
だから、そもそも、熱々の料理、というものを口にする機会が無かっただけのことである…が、好きなときに食べられる、という事態になっても、今更熱いものを口にしようとも思わなかったが。
「そうですね、そうやってしっかり自分の手を動かしていたら、目も覚めますよ」
「今から動くにしては、随分と少ない食事だ」
「や、こんなもんでしょ。あんまり腹いっぱいだと動けないし…」
「腹部に打撃を食らった時にも、胃腸が膨れ上がっているのは危険ですしね」
「…いや、食事時にそれは止めて」
可愛い顔をしていても、メディックはメディックだ。平然と内臓破裂の危険性について講義を始めそうだったので、ルークがさっくりとそれを止めた。
何故吟遊詩人などという浮ついた職業の者と、堅実かつ理論派な職業代表のメディックが夫婦なのだろうと思っていたが、これでなかなかうまくいっているらしい。
家柄で結婚が決まるのが当然の世界にいるサナキルだが、世の中の大部分は自由恋愛というもので結びついているという知識はある。異なる階層の者が共にいるなど、軋轢の原因だと思っていたが、好奇心を刺激されるということもあるのだろうな、と寛大に受け止めることにした。
そのあっさりとした朝食を終えて、一息ついてから出立する。
部屋を出るところで、軽くキスをして別れの挨拶をしているリーダーを何となく見ていたら、ファニーに腕を引かれた。
「若様、若様、教育に良くないですぅ〜見ちゃ駄目ですよ〜」
「何が良くないのだ?一般庶民の普通の姿では無いのか?」
「えっと…庶民の姿ではありますけど〜…一般かというと〜そうでもないような〜」
はうーと眉を寄せてもぞもぞと言葉を濁すメイドはさっくりと無視して、サナキルはにやけた顔のリーダーと、にこやかな顔で手を振っているアクシオンを見比べた。部屋の中では、朝から一言も喋っていないブシドーが、こちらには興味なさそうに窓の外を眺めていた。
「お待たせ、さ、行こっか」
道はリーダーに任せて、きょろきょろと周囲を楽しく眺めていたサナキルは、辿り着いた場所がどう見ても迷宮入り口では無いので一瞬目をぱちくりとさせた。
その店の扉を開けながら、ルークが振り返って呆れたように言う。
「いや、坊ちゃん、まともに剣や鎧持ってきてないでしょうが。せめて盾くらい持って家出して欲しかったな〜」
「む…大きな荷物は持つな、と爺が言うものだから…」
「一般人に身をやつす、と仰られたので…」
「まあ、グリフォール家の家紋入り盾なんて持って来られてても困るか」
自分で言っておきながらあっさり納得したらしいルークが店に入る。
「お早うございま〜す。新入り冒険者でーす」
新参者の癖に慣れた口調で挨拶をしながら入っていくルークの後に付いていく。
中では朝早いのに小さな女の子がカウンターを拭いていた。
「あ、いらっしゃいませ!初めての方ですね!」
「そ、初めまして。朝早くで悪いけど、ちょっと見せて貰えるかな」
「大丈夫です!この店は冒険者の方々のために24時間営業ですから!」
頭に付けているひまわりは、やけにでかいし季節柄造花で間違い無いだろうが、一体何のためにそんなものを着けているのだろう、とサナキルはしげしげとその少女を観察した。
店番が出来るくらいには頭が働くのだろうが、偽物の花を得意げに飾るあたり、あまり頭が良いようにも思えない。そういうことは3〜4歳の幼女のすることでは無かろうか、とサナキルは思った。
ルークが少女に武器を見せて貰っている間に、サナキルはバースに聞いてみることにした。
「爺、何故あの娘は偽物の花をあんなに目立つように飾っているのだ?」
仮にあの花が本物だと言うなら理解できる。この寒い時期に夏の花を手に入れられるというのは、裕福かつ園芸に秀でた庭師を抱えているというステータス表示になるからだ。
「そうですなぁ…もう、この爺には若い女の子の気持ちは分かりませぬが…大事な方からのプレゼントであるやもしれませんな」
「む…そのような事情があるのか」
「いえ、爺の想像でございますが」
サナキルは首を傾げながら、他に偽物の花を飾る理由を考えてみたが、やはり思いつかなかった。ファニーに聞いてみようかとも思ったが、ファニーはひまわり少女に勧められた銃を眺めているところであったので声はかけずにおいた。
「…そうですね〜、このタイプは扱ったことないですけど〜、基本の仕組みは同じなので〜」
台詞は危なっかしかったが、非常に自然な動作で弾込め動作をしてみたファニーが、指先でくるりと回して火銃をホルスターにしまった。
「エルムは鞭だな」
「僕は…手持ちのが、ありますが」
「見せて」
少し躊躇ってから、エルムが腰に下げた鞭をルークに手渡す。
「俺は、あんまり鞭って見てないけど…これ、殺傷用じゃないよな?」
「えぇ、そうですね…武器、ではないかも…知れません」
エルムの喋り方は、一言一言考えながら絞り出されるようなものであったので、サナキルなどは非常にイライラするのだが、ルークは普通に頷いた。
「じゃ、これは普段用にしといて、別に武器としての鞭を買うってことでいい?」
「他の方…優先、で、いいです。…お金が、残れば、で…」
「前衛の武器を買わずに何を買う」
笑いながらルークはカウンターに武器を並べていく。
「おい」
「何?坊ちゃん」
「お前には冒険者としての経験があると思って任せていたが、それは聞き捨てならんぞ。まず優先するべきは防具であろう。生き残ってこそ、次に繋がるというものではないか」
サナキルにも、攻撃で敵を倒さなければ結局こちらの傷が増える、くらいのことは分かっている。だが、それでも防御がしっかりしていれば、その傷は少しで済むはずなのだ。
ルークはぽりぽりとこめかみを掻いたが、そのままサナキルの肩に馴れ馴れしく腕を回して少しだけ店の入り口の方へと押しやった。
「…坊ちゃん、正直、ここには手頃な防具が無い。おそらく、自分で素材を持ち込まないと、より効果的な防具も作って貰えないってとこ」
小さな声で耳に囁いておいて、ルークはくるりと身を翻してカウンターへと向かった。
「ま、坊ちゃんの言うことも正しいけどね。てことで、バックラー3つ頂戴な」
「ありがとうございます!」
「後は…メディカ3つねー」
「はい!…えっと…しめて680enになります!」
「ありがと。んじゃ、探索行って来るから、素材持って帰ったら買い取りよろしく〜」
「はい!お気をつけて!」
ばいばい、と少女に手を振って、ルークは自分のスリングを腰に下げて店を出た。
各自自分の武器を腰に下げ、前衛はバックラーを腕に着ける。
「何故前衛だけなのだ?この程度の小さな盾ならば、お前たちにも扱えるだろうに」
「坊ちゃん、残り所持金20enなんですって。4人死んだら、もうすっからかん!ってね」
「はぁ?20en?」
鸚鵡返しに呟いてみたが、それがどういう意味を持つのかは、サナキルにはよく分からなかった。隣で爺が「ぐえ」と呻いたのには気づいたが。
具体的な金額の多寡は分からなかったが、要するに金が無い、と言っているのだろうとは見当付いた。
金など、いくらでも出てくるだろうに、とも思ったが、ここには両親もおらず、売り飛ばすべき装飾品の一つも持ってきていない。そもそも、金が必要、という感覚すら無かったので、身軽に出てくることを優先したのだ。
それでもグリフォールの名を出せば、いくらでも金を差し出そうという人間が出てきてもおかしくないはずだが、とは思ったが、せっかく一般人に身をやつそうとしているのならば、そのやり方に従うのも面白いかもしれない、とサナキルは暢気に思った。
「ま、迷宮の中に魔物が出て、その素材を売り飛ばせば幾らかにはなる。少なくとも、今夜の宿代くらいにはなるわな」
「や、宿代くらい…なんですか〜」
「んー、そうだねぇ、50enくらいは儲かるといいねぇ」
「厳しいですぅ〜…若様〜お帰りになりたい時はいつでも言って下さいましね〜。ファニーはいつでもお供いたします〜」
またしても士気を下げようとするファニーの言葉は聞き流しておく。
サナキル他は迷宮の位置を把握していないので、ルークが先頭に立って歩いているのだが、その隣にサナキルは並んでいた。
そのサナキルをちらっと見て、ルークはへらっと笑って自分の頭を押さえた。
「そうだ、坊ちゃん、あのヒマワリがどうこう言ってたろ?」
「よく聞こえていたな」
カウンターで少女と話していて、こちらを振り返りもしなかったのに。
「ま、バードだからね」
「そうか、耳聡いな。それで、何故なのだ?何故あの娘は紛い物などを大っぴらに見せている?」
「や、あれ、ただの飾りでしょ」
軽く肩をすくめたルークが、どう言おうか、と言うように首を傾げた。
「そうさねぇ…坊ちゃん、あの店の名前覚えてる?」
「は?…いや、知らぬな。お前が覚えているのではないのか」
「や、そりゃ俺は知ってるけどさ。シトト交易所。そうじゃなくてね、皆、店の名前なんざ気にしないことも多いわけ。そう規模のでかい店でも無いし、目立つ場所にあるわけでもない。でも、坊ちゃんだって、今日買い物したのは、ヒマワリ娘がいる店だってくらいは覚えてるだろ?言うなれば、あのヒマワリは看板代わりでもあるってこと」
道を歩けばそこにある店が何を売っているのか、というのが分かるようになっているのには、特徴的な看板も大いに効果を持っている。店の入り口に掲げた大きな絵だったり、吊り下げられた意匠だったり、店の前に並べられた商品だったりするが、とにかくこの国のように他国者が流入している場所に、一目で分かる目印というものは不可欠である。
「この国の武具屋は、皆ヒマワリを着けているのか?」
「や、そうじゃなくて。<あのヒマワリ娘のいる店>で話が通じるってのは、結構大事なのよ」
「…分からぬでもないが。店の名前ではなく、そこに属する職人の名の方が重要であることもあるからな」
微妙にずれている気もするが、何となく分かったような気になっているらしいサナキルにルークは苦笑した。
ルークの情報収集によると、あの店は、店主である父親が不器用なのである。もちろん職人としての腕ではない。そんな店ならとっくに潰れている。
職人としての腕は確かではあるが、世間様との関わりに不器用なのだ。
良い武具には、良い腕も必要だが素材も必要だ。その素材の仕入れにも、いろいろと組合上の付き合いがどうたらこうたらで回ってくる率が異なるらしい。で、付き合いの悪い親父のせいで、あまり良い素材が回ってこない=高度な武具は作れない=上級者はもっと大通りのでかい店に行く、ということになっているらしく、せっかく腕は良いのにあまり儲かっていないらしい。娘の方も、あと5年も経てば娘目当てに来る奴もいるだろうになぁ、とは酒場の親父の言葉だが、客寄せと言う意味での看板娘には年齢が足りないし。
どうせならお前らが店を育てる、くらいの意気込みで付き合ってやれよ、新参者、と酒場の親父に言われて、まあ一応顔でも見ておくか、とルークはシトト交易所を選んだのである。
見たところ、武具の質は悪くない。品揃えはいまいちだが、どうせ高価な武具は手が出せない。薬品類は他の店と大して変わりは無い。つまり、欠点はないが、アピールするところも無い店、というのが、現時点でのルークの評価である。
そういう店であることは、本人たちも分かっているのだろう。まだしも客あしらいってものをする娘の方が店に出ているのはそういうことだ。そして、目立つ花を着けているのも営業努力だろう。「あのヒマワリ娘がいる店が」という話題に出れば、それだけ客が来てくれる。
もっとも、確信を持っているわけでもなかったので、サナキルには事細かに説明はしなかったが。
しばらく歩いていって、ようやく大樹の根元に近づいた。冒険者たちが向かっていたり、逆に離れていっている。離れていっている方の人間は、ぐったりしていたり、血塗れだったりと、仮に方向が違っていたとしても、帰り道なのは一目瞭然、という姿であった。
入り口には衛士が立っていた。
「公国証をどうぞ!」
びしっと直立不動で告げた衛士に、ルークがへらりと笑って地図を広げて見せた。
「お疲れさまです。うち、新参者で、その公国証を貰うためにミッション受けてきたとこ」
「あぁ、なるほど。了解しました!どうぞ中へ!別の者が案内いたします!」
「どうも〜」
ひらひらと地図を振って、ルークが階段に足をかけて…止まった。階段脇に付いている金色の飾りに手を伸ばして触れつつ、衛士に聞く。
「この紋章、どう見ても人工だよな。ここまでは公宮が管理してますってマーク?」
衛士の鎧が軽く音を立てた。どうやら首を振ったらしい。
「どうでしょうか…私がここに来た時には、それはすでに付いていました。上の方にも同じ紋章が掲げられていると聞いたことがありますので…元から付いていたものかと」
「あらま、この迷宮って人工物か…へー」
「それはそうだろう。空飛ぶ城への通路だと聞いている。空飛ぶ城が自然のものであるはずがないのだから、その通路も人工であるのは当然だ」
「いやね、何つーか…人工なのはいいとして、自然のものだと偽装する気が無いのか、という…や、益体もないことだからいいわ」
ぶつぶつ言って自分で納得したらしいルークが、改めて階段に足をかける。
「さて…鬼が出るか蛇が出るか…ってね。ま、たぶん出るのはモグラだけど」
サナキルもその隣に並んだ。おそらく何人もの冒険者が一日に何度も何度も上がり下りしているにも関わらず、崩れたところのない堅い感触を踏みしめながら、上がっていく。
サナキルにとって<迷宮>というもののイメージは、薄暗い洞窟か石造りの迷路であった。もちろん、実際に見たことはなく、本の中の話であったが。
だが、階段を上がっていっても、明るさは変わらない。ここは迷宮の最下層であるはずなのに、なぜ明るいのだろう、よほど明るく篝火が焚かれているのだろうか、と思いつつ最後の一段を登ると。
「…何だ、ここは」
サナキルは呆然と呟いた。背後から来たバースが出られずにまごまごしているのでルークがそっと腕を引っ張って場所を空けさせたのにも気づかず、周囲をゆっくりと見回す。
そこは、まるでただの野原のようだった。
花が咲き乱れ、青々と茂った樹木が立ち並ぶ。
むしろ外よりも心地よいピクニックに最適な場所に見えた。
「世界樹の迷宮にようこそ。…あんまり理屈は考えずに、ここはこういうところなんだって割り切った方が楽だよ?」
くっくっと喉で笑いながらルークが言ったので、サナキルは呆然とした顔のまま、ルークを見つめた。
この吟遊詩人は、この場所が<迷宮>には見えないことに全く驚いた気配が無い。色々と不可思議でもあるし、興味は惹かれるのだが、どうもあちらの反応の方が大人というか世慣れている感じであったので、サナキルは無理矢理己の好奇心を押し殺し、その大人の反応の方を真似た。
「…そういうこともあるのだろうな」
重々しく頷くと、ルークがまだ喉で笑いながら奥を指さした。
「とりあえず、あそこまでは普通に行こうか。たぶん、そのあたりに衛士がいるはずだから、それから戦闘用の隊列に組み直そう」
「分かった」
今は先頭で道案内しているが、普通に考えて、バードは後衛だ。たまに剣を持つ前衛もいるようだが、ルークの武器はスリングだし。
踏み固められた道を歩いていっていると、後ろからバースがルークに声をかけた。
「ルーク殿は、迷宮に慣れておられるようじゃが…」
「殿はいらないよ、爺ちゃん。こっちも年上に対する敬意を払ってないから。あくまで対等な仲間としてフレンドリーによろしく」
「はぁ…では、ルーク…落ち着かぬのぅ。まあよい。とにかく、冒険者歴は何年ほどに?」
「んー、たった1年。それも、6年のブランクあり。ちょっと情報収集してるだけで、ほとんど初心者と変わりなし、と思ってくれていいよ」
へらへらと笑いながら言う様子は、どう見てもベテラン冒険者の風格などとは無縁だ。おおかたちょっとだけ手を出して、すぐに逃げ出したのだろう、とサナキルはこっそり思った。
「奥方とは、その6年前に?…いや、年齢が合わぬかのぅ」
「ん?アクシー?そうだよ、6年前に…ってーか春で7年だな。昼寝にぴったりの良い季節に出会って、1年で口説き落として…現在に至る、と」
「ほぅ、6年も経って、まだ熱々で羨ましいことじゃ」
「…あの…7年前って…その…」
珍しくエルムがもそもそと聞いてきているので、ルークは首だけ捻って振り返った。
「ん?何、エルム」
「…あの人…幾つ、なんですか?」
「こりゃエルム、女性の年齢を聞くのは失礼じゃぞ」
ルークの顔に、にんまりと悪戯っぽい笑みが浮かんだ。楽しそうに目をきらきらさせながら、数秒前を向いて歩いてから、また首だけ振り返る。
「幾つに見える?」
「そうですのぅ…今は18〜19、といったところですかな」
「爺ちゃん、それだと、7年前に、12歳になる…」
「そうじゃのぅ、さすがにそれは…」
「犯罪?」
バースが濁した語尾をはっきり補足してやってから、ルークはそりゃもう楽しそうに笑った。
「まぁねぇ。俺もよくロリコンとは言われるけど。だから最初は諦めようとしたんだけど、実は19歳って聞いて、うわ何だOKじゃん!ってつい燃え上がっちゃったっつーか何つーか」
「…19…?」
信じられない、といった顔のエルムに、ルークは間違えないようにもっとはっきり言ってやる。
「出会った時が、ね。今は25歳。…見えんだろー?俺のために頑張って今の顔を維持するんだって、そりゃもう努力してて可愛いの何のって」
でれでれとのろけまくるルークの隣で、サナキルは割とどうでもよいと半ば聞き流していた。今のところ、サナキルに他人の恋愛沙汰への興味は全く無い。
「…努力で何とかなるものなんですか〜」
「あ〜、アクシーはルンルンリンクス化粧品の開発者の一人息子だからさ、何か色々と調合してるみたいよ。俺にはさっぱり分かんないけど」
ルンルンリンクスとは何だろう、とサナキルは思ったが、もう衛士が見えてきていたので聞くのは止めておいた。
道の両脇で門番のように立っている衛士の一人がこちらを向く。
「公国証をどうぞ」
「や、それ貰うためのミッション受けたばっかの新参者です。よろしく」
入り口と同じようなことを言うルークに衛士は頷き、もう一人の衛士に軽く手を挙げてからこちらに向き直った。
「さて、ミッション内容は聞いているか?」
「だいたい。今から1階奥に連れて行かれて、地図描きながら入り口まで戻ってこい、だよな?」
「そうだ。地図の描き方は分かるか?」
「エトリアと同じならね」
「ほぅ、エトリアでの冒険の経験があるのか。なら安心だな」
たった1年だけだが、とサナキルが心の中で付け加えている間に、衛士はさっさと歩き始めた。
その後を付いて歩いて行くが、横を向いたりぐるりと回されたり、と段々自分がどちらを向いているのかすら分からなくなってきてしまった。
大きな木で行き止まりになっている場所で、衛士は止まった。
「この辺で良いだろう。それでは幸運を祈る」
「どうも〜」
ひらひらと手を振って見送ったルークに、衛士は苦笑しながら振り返りつつきびきびと歩いていった。もしも後を付いてすぐ歩き出したら押しとどめるつもりだったようだが、こちらが動かないので、さっくりと最初の角を右に曲がっていった。
ルークはばりばりと灰色の髪を掻いてから、懐から地図を取り出し、おもむろにその場の地形を書き留めた。
「さぁて、それじゃあ探索開始だ。俺は後衛に下がるからよろしく」
「うむ、任せておけ」
頷いてサナキルが前に立つ。エルムがその横に並び、更に隣にバース。ファニーがスカートの裾を気にしながらサナキルの背後に立った。
「それでは行くぞ。…だが、その前に聞いておきたいのだが」
「ん?何、坊ちゃん」
「先ほど、お前は、あのメディックが一人息子、と言ったか?」
「言ったよ?何、アクシーの弟か妹狙いだった?」
「そうではなく。あれが男だとは気づかなかったので、少々驚いただけだ」
「やー、坊ちゃんだけじゃないから。アクシーを一目で男と見破る人間は多くないし〜そもそも俺からにして女の子だと思って一目惚れしたわけだし〜」
へらへら笑っているルークに眉を顰める。
ローザリアは同性婚が認められている国では無いが、完全に禁止されていることもない。歴史上、むしろお稚児衆は貴族の嗜み、だの、戦場に連れていく近衆は少年に限る、だのと普通に行われてきた国でもある。
だが、それはやや後ろ暗い部分というか、こっそり日陰に咲いた文化であって、こうも堂々と男同士で結婚してます、と言われると、眉を顰めざるを得ない。
もちろん、ルークに対して不愉快だと思うことはない。どちらかと言えば、男であるのに女性と見紛う姿で男に従っているアクシオンに侮蔑に近い感情が浮かぶ。
そのサナキルの心の動きが分かっているのかいないのか、ルークはひとしきり<俺の嫁>が如何に可愛いかを歌っていたが、最後ににんまりと笑った。
「ま、そういうわけだから。宿でも俺たちは一つベッドで休ませて貰うけど…聞き耳立てたりしないでね☆」
「そのような下賎な真似はせん」
今度は隠しもせずに思い切り顔を顰めてやったが、バードはへらへら笑っているだけだった。
「さぁて、質問終わり?真面目に探索開始するよ?小動物たちの熱い視線も感じるしね」
暢気そうな言葉に、慌てて周囲の草むらを見つめる。穏やかな場所だが、ここには魔物がいるのだ。
「大丈夫、向こうもまだ警戒してる」
すたすたとあっさり草むらに近づいて、ルークは抜け道が無いか確認した。
念のため左右を確認しつつの歩みなので、見えている分岐にまでなかなか辿り着かない。今頃、もう衛士は入り口に戻っているのだろうか、あまり長い間帰って来ないと、さぞかし腕の悪いパーティーだと侮蔑されるだろう、とサナキルはやきもきした。
「また今度確認するのではいけないのか?」
「ん?坊ちゃん、ひたすら1階でウロウロする気?階段が見つかり次第、2階に上がるなら、どうでもいい道はさっさと潰しておいた方が楽だし」
「…む…」
冒険者の心得のないサナキルにそれが理解できたとは言わないが、それでも1階如きで手こずるというのも確かに気に入らない。
ならばルークの言うとおり、枝葉の部分はさっさと切り落とせるよう1回で終わらせた方が良い。
「ということで、この分岐。帰るにはこっちなんだけど」
「こっちに行くのでは無いのか?」
「や、そりゃ最短距離で帰るだけが良いならそうするけどね。でも、途中に部屋も宝も無かったしなぁ。どうせなら普通に探索もした方が良いかなって」
サナキルは少しだけ考え込んだ。正直、何が違うのかよく分からない。まだ敵も出てきていないし、まだピクニック気分に近いのだ。
「お前に任せる。…そもそも、お前がリーダーなのだしな」
自分の意見が聞かれるのが当然だと見なしていたサナキルだったが、取って付けたようにルークの権限を認めた。要するに、煩わしいことで僕を困らせるな、良きに計らえ、ということだ。
「あいあい。んじゃ、ちょっと遠回りっと」
ルークは分岐で左に折れた。地図上は上側である。この地点から入り口は左下にあたるのでおそらく遠回りになるはずだが、もしも来たのと別の道が見つかるのならそれはそれで有用だ。
やっぱり左右を確認してゆっくりと進んでいったので、他の4人はうんざりしているようだったが、このやり方に慣れて貰わないといけない。まあ、帰りはさっさと歩けるのが分かるだろう。
そうして行き止まりで萎れた花を見つつ、別の道に入った。
どうやら先で折れ曲がっているようだが…ふとルークが足を止める。
「どうした?」
「ようやく敵さんだよ」
「む、敵か。さて、グールかドラゴンか…」
「や、それ死ねるから」
茂みからころころっと出てきたのはハリネズミのようなものだった。
前衛が一瞬「なんだ」と言うように気を抜いたのに気づいて、ルークは手頃な石をスリングで放った。
「ほら、さっさと仕留める!まずは左の1体に集中攻撃!」
「…こんな小動物にか…」
気が乗らないらしいサナキルの横から、エルムの鞭が繰り出された。何本か体表の針が折れ飛ぶ。
「…殺すつもり、だったんですが…」
エルムの声に緊張が混じっている。どうやら一撃で倒せると踏んでいたらしい。まあ、その辺の『本物の』ハリネズミならそうだろう。
「では、ワシが…」
バースのククリナイフもざっくりと食い込んだが、まだ死んでいない。ハリネズミは一声鳴いて体を丸め、棘だらけの体で跳ねた。
「…くっ!」
辛うじてバックラーで払うが、2体目がその隙にサナキルの腕に食い込んだ。
「…何だ、こいつらは!」
「だから、魔物が出るって言ったじゃん。大丈夫、死ぬほどじゃ無いから。次、あっちが攻撃する前に倒しちまえ」
「若様、離れて〜」
ダガーで薙ぎ払い、1体のハリネズミは動かなくなった。大地に転がり、次にまた攻撃する気満々の無傷のハリネズミに、ファニーの銃が命中する。
「うわお、準備に時間がかかるけど、威力はでかいわ」
ひゅうっと口笛を吹いて、ルークは地面から手頃な小石を拾い上げた。
そうして、どうにか向こうの攻撃前に倒すことが出来たのだった。
一人だけ攻撃を受けてぼろぼろになったサナキルに、バースが慌てて駆け寄り癒しを施す。
「…魔物、と言うから、てっきり絵本で見るような代物だと思ったぞ」
全快したサナキルは舌打ちした。サナキルのイメージとしては、薄暗い洞窟に飛ぶ大きなコウモリ、奇怪な姿の石像、毒を持つ恐ろしい怪物…そのようなものを想定していたのだ。まさかこんな小動物が『魔物』だとは思っていなかった。
「あ〜、そうだな、魔物って言っちゃうのは癖かもな〜。…えー、アクシー風に言うと、突然変異で凶暴性を持った小動物って感じ?」
「…魔物、でいい」
ぐったりと地面に座っていると、ルークが足の先でハリネズミの死体を転がした。
「…お、この辺の針が無傷だ」
手早く針を抜いているルークを眺めていると、抜き取った短い針を見せながらルークが解説してくれた。
「こういう感じで、出てきた魔物から武器や防具の材料になりそうなものを取っていくと、色々冒険に役立つものを開発してくれる、と。というか、こういうの持っていって売らないと、金にならないし」
「鹿やウサギを狩って、毛皮や角を売るようなものですかな」
「そーそー。外と違うのは、こっちが狩られる可能性も高いってくらい。…ま、だから狩人じゃなく冒険者がここに来るわけだけど」
「なるほど」
感心しているようなバースを横目で見てから、サナキルは膝に手を突いて立ち上がった。
傷は治っている。
だから痛くはないはずなのに…何故か足に力が入りにくかった。
「若様、お顔の色が悪いです〜。少し休んで行かれた方が〜」
ファニーが胸元から真っ白なハンカチを取り出してサナキルの額を拭いた。
「…無用だ。敵陣の中にいるのだからな」
サナキルは、かすかに震えている手をぎゅっと握りしめた。
たとえ、これが人生で初めての傷であったとしても。痛み、というのを感じたのすら、初めてだったとしても。
「このサナキル・ユクス・グリフォールが、この程度でどうにかなるはずがない」
何故なら、この自分は、大国ローザリアにおいて最も優れた聖騎士団グリフォール家のパラディンなのだから。
「よしよし、坊ちゃん、その意気だ。さっきのは、ちょーっとだけ敵を舐めてただけだよな」
「そうとも、今後は絶対に気を抜いたりするものか」
ちょっぴり皮肉られているとは気づいていないまま、サナキルは盾をしっかりと握り直した。
「この僕が、皆を守るのだからな」
「そうそう。さっきも坊ちゃんが傷を全部受けてくれたおかげで、皆無傷なんだし」
ま、敵がどれを攻撃するか、なんてあっちの気の向くままなので、攻撃がサナキルに集中したのはたまたまだろうが。
だが、その言葉でサナキルの震えが消えた。
ローザリアの盾にして剣であるグリフォール家のパラディンなのである。冒険者というものの集団においても、己意外に誰が盾となることが出来ようか。
「では行くぞ」
雄々しく歩き始めたサナキルの背後で、ルークは案外扱いやすいしそれなりに根性あるよな、とサナキルを判定していた。最悪、敵と一回やり合っただけで挫けられても仕方がないとまで思っていたのだが。
ここは明るく長閑な光景だが、それでもやることは血みどろの殺し合いだ。騎士の華麗な馬上試合とはほど遠い、泥臭い戦いである。きらびやかな世界しか知らない僕ちゃんには厳しいかと思っていたが、まだ大丈夫なようだ。
まあ、まだ誰も死んでいないし、苦戦すらしていないのだが。
探索を続けて進んだ先は行き止まりだった。だが、金色の箱が浮いている。
「は〜、これはエトリアとはタイプが違うな〜」
何故か浮いてゆっくり回っている箱をまじまじと眺める。
「手品か?」
サナキルは箱の上下の空間を手で払ってみたが、糸や何かの仕掛けは全く触れなかった。
「…これも、こういうものだと、納得するしか、無いのでしょうか…」
「そだねー。理屈を考えるのは、お偉いさんに任せとこう」
ルークが箱の上面を弄っていたかと思うと、それがぱかりと開いた。
中から取り出した薬瓶をまじまじと見つめ、蓋を少しだけずらして匂いを嗅ぐ。
「…たぶん、ネクタル。誰か死んだら試してみよう」
ぽいっと背嚢に放り込んで、ルークは手を軽く叩いた。
「はい、んじゃ、元の分岐まで歩くよ。そこまでは周囲のチェックもマッピングも終了してるから、普通にすたすた歩いていってOK」
その元の分岐に戻る前に、今度はカタツムリの大きなものに出会ったが、体の周囲にまとった粘液で攻撃が緩和されるのが嫌なだけで、今度はダメージが散らばったこともあって大して怪我はしなかった。
最初の分岐に戻ってきて、今度は逆側に向かう。
角を曲がったあたりでまたハリネズミが出てきたが、それも難なく倒す。
「見たか、油断さえしていなければ、この程度、僕の敵では無い」
「そうだね〜、うまいこと2匹しか出てないし。…3匹出て集中攻撃受けたら死ねそうなんだけど」
ぼそりと呟かれた言葉は聞こえなかったので、サナキルは意気揚々と進んでいった。
下の道を進んでいくと、正面に扉があった。
「何故、このような光景に扉があるのだ。野外だぞ」
「…いや、ここ、野外じゃないし。迷宮の中だし」
確かに見慣れていないと不思議な気がするだろうなぁ、とルークは巨大な扉を見上げた。
何となく。
なんとなーく、イヤな予感はしたが…マッピングをしなければいけない、というミッションを受けている以上、ここにも踏み込まなくてはならない。
先頭にいたサナキルが、ルークの不安など知る由もなく、扉を押し開けた。
中はやはり平穏長閑な光景のようだった。
ちょっとした空間に花が咲き乱れ、まるで庭園のようなそこに、サナキルは息を吐いた。
「ほぅ、なかなか美しいところですな」
「ほわ〜凄いですね〜お外は冬なのに〜」
ファニーがふわふわとした足取りで部屋の中に踏み込み、青い花をぷちんと引き抜いた。
「花輪にしたら、ヒマワリのお嬢さんが喜んでくれそうです〜」
「…手伝った方が、いいですか?」
エルムが歩きにくそうに後を付いた。元々、少々足を引きずり気味に歩くが、これはなるべく花を踏まないように努力した結果だろう。
「若様も、少し休まれては如何ですかな」
「…そうだな、少し喉が乾いた」
グリフォール家の主従たちが花畑に輪になって座っているのを、ルークは頭を押さえながら見つめていた。
ファニーが顔を上げ、怪訝そうに首を傾げる。
「あの〜どうかされましたか〜?」
「…いや…何だろう、このイヤな予感は…と…」
何かがルークの神経を灼いていた。
花畑。
1階。
休むのに適した場所なのに、他の冒険者の影は無い。
そう思いながら見てみれば、奥の方の花畑が踏み荒らされていないのも不自然だ。あれだけ冒険者がいれば、こんなところすぐに土が露になってしまいそうなものなのに。だとすれば、皆、入り口で帰っていっているか…。
「情報収集漏れか?1階でやばい相手はキャリオンクローラーくらいだって聞いてるが…」
がしがしと灰色の髪を掻きむしって、ルークは素早く辺りを窺った。
何にせよ、自分だけ離れた場所にいるのはまずい。
部屋の中央近くの花畑まで移動し、立ったまま入り口に向く。
「悪いけど、ちょっとだけ警戒しててな」
「何か、敵の影でも?」
素早くサナキルが立ち上がって、皮の水筒をしまった。一応武人の心得はあるんだな、と感心しつつ、ルークは言葉を濁した。
「ただの気のせいなら良いんだが…何かやばい気がする」
ぱさり
言い終える前に、かすかな羽音が聞こえた。
「全員起立!」
首を傾げていたファニーも素早く立ち上がる。スカートの上に広げていた青い花がぱらぱらと地面に落ちた。
「毒アゲハだ!エトリアと同じなら、だが。毒が厄介だぞ、全力を叩き込め!」
「サンダーショット使います〜」
ふわりとスカートが翻り、ファニーの手の中に銃が収められた。
サナキルは一歩前に出て、ルークとファニーを庇う。
ぱさりぱさりと軽い羽音を立てて紫色の蝶がこちらに向かってきた。
ただの綺麗な蝶に見えるのに、毒とはな、とサナキルは眉を顰めた。もしも燐粉が毒であるなら、攻撃しても飛び散る気はしたが、その間息を止めておくくらいしか無い。
ルークの小石が一番に飛ぶ。
他の雑魚と同じようにエルムの鞭とバースの剣が蝶を切り裂き…ばさり、と蝶がこちらに向かってきた。
「来るぞ、息を止めとけ!」
そう叫んだルークの口に、燐粉が入る。久々に感じる気管を灼く感触に、ちらりとアクシオンの顔が思い浮かんだ。
腕を振って蝶を追い払いながら前を確認すると、どうやらエルムとバースが吸ってしまったらしい。
どうにか離れた蝶に、我慢していた息が胸から飛び出す。
かはり、と吐いたのは、空気だけでは無かった。
胸を押さえて身を折ったついでに小石を拾い上げ、ルークはスリングを構える。
「癒しを…」
「いや、悪いな爺ちゃん、攻撃してくれ。清浄な空気吸ってれば、すぐに治るくらいの毒なんだ。ただ、倒さないと…やばいけどな」
もう一回攻撃を受けたら死ねる。
孫と自分、それからリーダーの誰を回復するか一瞬悩んだバースが、その言葉に攻撃に切り替えた。
エルムの鞭で、蝶の左半分の群が落ちる。
「サンダーショットいきま〜す」
その場に似つかわしくないのんびりした調子で放たれた電撃が、蝶の右半分を消し飛ばした。
蝶が全て地面に落ちたのを確認して、ルークは息を止めてバースとエルムを引きずって戦闘の場所から離れた。
「こ、この辺りなら、空気も綺麗だろ…」
すーはーすーはーと止めていた分深呼吸していると、徐々に呼吸が楽になってくる。これで死ぬことはないが…後少し遅れていたら危なかった。
まあ2群しか出なかったのが不幸中の幸いだ。
「…なかなか厳しいものですな、迷宮も…」
ようやく落ち着いたバースが、ゆっくりとキュアを調合した。
「まず、爺ちゃんからだよ、元気になってから、僕らの薬を調合して」
爺ちゃん相手にはすらすら喋るエルムの言葉に、バースは手にしたキュアとエルムの顔を見比べた。バースとしては、まずは可愛い孫を癒すつもりだったのだが。
ちらりとルークを見ると、ルークも手をひらひら振って「飲め」と言っているようだったので、バースは
「それでは失礼して」
と、まず自分の傷を治した。それからエルム、ルークと治していく。
無事全快したので、ルークはのろのろと立ち上がり…慌てて残されていたサナキルとファニーの方に走っていった。
「おーい、何してんの」
「む?毒なのだろう?」
蝶の死体を埋めようとしていたサナキルが、きょとんとした顔を振り返ったので、ルークはがっくりと肩を落とした。
「…言ったろ…敵さんから素材が採れるって…」
ぶつぶつ言いながら、辛うじて残っている蝶の群から、1枚だけ無事な羽を見つけて拾い上げた。
「相手が強いってことは、それだけ素材も珍しい、つまりハリネズミなんかより高く売れるってこと。…ま、初心者にとって強いってだけで、ベテランには怖くもない相手だけどな」
「そうか、それは気づかなかった」
サナキルは素直に頷いた。
「ん?いや、毒だから埋めようって坊ちゃんの発想は正しいよ?…単に冒険者は金稼ぎにも命がかかってるってだけ」
あまり落ち込まれても困る、とルークは素早くフォローした。確かに、毒の隣粉撒かれたら、それを埋めたくなるのも当然だ。まあ、もう毒では無いが。何故死んだ途端に毒性が無くなるのかはルークの知ったことではない。
「さ、この部屋のマッピング済ませて、続き行こうか」
やはり抜け道も何も無かったので、そのまま部屋を出ていく。
次の分岐で左に折れると、綺麗な清水が流れ落ちていたが、皆で交互に口に含んだだけで、休んでいこうとは誰も言い出さなかった。さっきの出来事が堪えたらしい。
もう一度敵と戦ったところで、バースが重々しい声で告げた。
「キュアは後1回分ですな」
「出口は…いや、入り口はまだなのか?」
「ん?あぁ、もうここまっすぐ抜けたらすぐ」
サナキルには、どこを歩いているのかさっぱり分かっていないが、ルークにはごく当たり前のように地図が完成しているらしい。
後一回戦闘があったら危険だと思うのだが、やはりじっくり丁寧に抜け道を探しながら歩くルークに半ば呆れながら、サナキルは自分もルークの横から道を覗き込んでみた。
「抜け道があれば、分かるものなのか」
「んー、そのつもりで見たら分かると思うよ。…口で説明し辛いな〜。見つかったら、コツ教えるけど」
「そうか。楽しみにしていよう」
うんうんと頷いていると、ファニーがちょんちょんと肘を引いてきた。
「何だ、ファニー」
「若様〜あんまり冒険者みたいなことをなさらなくても〜」
「何を言う、僕は冒険者になったのだぞ」
「ですけど〜…何も若様が冒険者なんてされなくても〜…今日は大丈夫でしたけど、若様が大怪我なさるかもしれないし〜…」
サナキルは、ぐずぐずと言い続けるファニーを無視して、道を歩き始めた。このメイドは、サナキルの意気を挫いてばかりいるのだ。
この僕に何を期待しているのだ。お姫様のように城で飾られていろと言うのか。
もしも探索のメンバーを変えると言うなら、出来ればファニーと離れられないものだろうか。おそらくファニーの方はぐずぐずと一見正当な理由を並べ立てて共にいようとするだろうが…この僕が一人前の男子であるとそろそろ認めて欲しいものだ。
やや早足で歩いていると、ルークがいつもよりは少々早めに抜け道確認を済ませて並んできた。
「ほい、もうあの広場が最初のとこね」
ちょいちょいっと最後に地図の仕上げをして、ルークは地図をポケットにしまった。
さすがに冒険者の出入りも激しいし、衛士もいるためか、その広場に敵の姿は無かった。
入り口の両脇には、先ほど見た…のかどうか分からないが同じ鎧の衛士が立っていた。
「はーい、お疲れさま。地図はこれ」
衛士は受け取った地図をじっくりと見て、うん、と頷いた。
「完璧だ。地図としての体裁もさることながら、これだけ丁寧に探索していながら、誰も怪我をしていない、というのも素晴らしい」
「や、怪我はしたよ。治しただけ」
「TP切れでぼろぼろだったり、死体を引きずって帰ってくるギルドも多くてね。ギルド名を聞いておこうか。なかなか有望だ」
満足そうな声に、ルークはぽりぽりとこめかみを掻いた。
「んー、別に、張り切って探索するような、真面目なギルドじゃないつもりなんだけどなぁ…」
ぶつぶつ言うのを遮るように、サナキルはきっぱりと言ってやった。
「ギルド<デイドリーム>の名を覚えておくがいい。空飛ぶ城に一番乗りするギルドの名だ」
「はは、これは頼もしい。期待しているぞ」
明らかに年若のパラディンが胸を張って宣言するのと、背後のバードがあちゃあと手で顔を覆っている姿を見て、だいたいの力関係を把握したのか、衛士の声には隠しきれない笑いが滲んでいた。
「何がおかしい!このサナキル・ユクス…」
「はいはい、坊ちゃん、男なら不言実行。すんばらしいギルドだってのは、行動で示しましょ」
口元を覆われてむがむが言っている間に、引きずられて迷宮入り口階段まで来てしまった。
サナキルには分からなかった。
何故この迷宮を制覇するという当たり前のことを宣言して悪いのか。
本当は、真剣に探索する気が無いのではなかろうな、とリーダーを睨んだが、全く気にした様子もなく、へらへらとしていた。
何か言ってやりたいのは山々だったが、男なら不言実行、というのも確かに正しいように思えたので、サナキルは口を尖らせながらも何も言わずにルークの後を付いていったのだった。