10年後




 キタザキは、黒髪を肩のあたりで断髪にした若いメイドによって屋敷の中を案内されていた。
 「こちらです」
 通されたのは、この屋敷の主の部屋だった。
 「おぉ、ようこそおいで下さった」
 主は尊大な物言いだったが、車椅子に座っているせい…だけでなく微妙に上目遣いで、どこか卑屈な感じがした。
 黒髪のメイドが一礼をして、素早く主に近寄り、その膝の上の黄金色の織物の位置を直した。
 その、どこか『主とメイド』というには馴れ馴れしいような空気を感じとって、キタザキは密かに眉を上げた。

 そうして、メイドが出ていった後、話を聞き終えたキタザキは、目の前の人物を見下ろしながら、溜息を吐いた。
 てっきり別の用件だと思ったのに、まさか、そんな用とは。
 「だって、ワシ、他に思いつかんし」
 拗ねたように言ったのは、初老の男だった。頭頂部は禿げていて、耳のあたりから下だけの白くか細い髪がたらりと伸びている。血色は良いが皺の入った顔だけが見えていて、後は黄金色の毛皮や飾りで埋め尽くされている。
 若い頃の病気で下半身が萎えていて、車椅子に乗った男爵は、また拗ねたような口調でキタザキに言った。
 「そりゃ、ワシはこんなだし、元々、妻とはただの契約だし。ワシはあの美人を妻に出来る、妻はワシの金を自由に使える。でも、ワシが生きてる間はワシのものなんじゃから浮気はするな。そういう契約じゃったのに…」
 要するに。
 男爵は、妻の浮気を疑っているのである。
 そこまでは、まあいい。
 若くて美人の妻を得た男には、よくある話だ。
 ただ、問題は。
 「それで、何で死んだ真似なんですか」
 「だって、そしたら妻の本音が聞けるじゃろ?24時間以内に男を連れ込むようじゃったら、契約違反として追い出すつもりじゃ」
 あぁあ、とキタザキはこめかみを揉んだ。
 何でまた、そんな突拍子も無いことを思いついたのやら。
 ふと、思いついて、キタザキはカマを掛けてみた。
 「そういえば、ここを案内したメイド、彼女は随分、貴方に良く仕えているようですが…まさか、今度は彼女を妻にしたい…と?」
 「違うよ。そりゃクララは良い子だ。動けぬワシに色々話を付き合ってくれる。妻の浮気も、それで知ったんじゃ。けど、さすがにあんな若い子がワシの妻になってくれるとは思っとらんよ」
 「はぁ、なるほど」
 その「なるほど」は別の意味だったが、同意を得たと思ったのか男爵は勢い込んだ。
 「じゃからな?頼むよ。金ならいくらでも出す。ワシを24時間仮死状態にしてくれ」
 「あのメイドは、この話を?」
 「いや、全く知らんよ。ワシだけの考えじゃ」
 「…メディックとしては、些か不愉快ですが…」
 だが、キタザキは頷いた。
 「まあ、その方が、はっきりするでしょうな」
 いろいろと。


 ある日の昼下がり、主の部屋に入ったメイドは、じきに悲鳴を上げた。
 「きゃああああ!旦那様が!」
 悲鳴に応じて、ぱたぱたと駆けてくる複数の足音を、男爵はぼんやりと聞いていた。
 キタザキに頼んだ薬は、脈も止まり顔色も白くなる。自分では身動き一つとれないが、それでも耳からはよく聞こえていたし、昼食の美味しそうな匂いも感じ取っていた。
 さすがにキタザキの腕前は大したものじゃの〜と思いながら、男爵は一つの声を待ち望む。
 つかつかとはっきりした足音が近づき、手が取られた。
 「む…これは…」
 執事の声だ。この執事は、3年ほど前に雇ったのだが、なかなかに有能な男である。
 「セーラ!施薬院のキタザキ院長を呼んでくれ!」
 そうなるだろうと思って、キタザキには屋敷ではなく施薬院で待機して貰っている。
 「マリー!いつまでも泣いていないで、奥様を探せ!」
 あぁ、やっぱり妻は屋敷にはいなかったのだな、と男爵は思う。
 クララが報告してくれることによると、妻はいつも昼間には屋敷を空け、若者が集まるところに行くのだ、ということだ。酒場に行くくらいは良いのだが、そのごろつきどもが集まれるような家まで用意しているのだとか。
 そりゃ確かに、金は自由に使え、と言ったのは自分だ。
 この自分に、あんなに若くて美人の女が妻として来てくれるとは思っていなかったので、それでも安い買い物だと思っていた。
 だが、妻は最近とみに屋敷を空けるようになり、そのくせ、気分が悪いから、と夜のベッドも共にしてくれなくなった。
 それに比べて、クララは天使だ。
 寂しい心を分かってくれるらしく、いつでも側にいて笑いかけてくれる。
 どうせこの金は使い切れないのだから、自分が本当に死ぬときには、彼女にも何某かは残してやろうか。そうしたら、クララはいつまでも自分のことを思い出してくれるだろうか。
 男爵はそんな甘い微睡みに身を委ねていたが、誰かの苛立たしそうな舌打ちに内心首を傾げた。
 誰だろう、という疑問は、すぐに解けた。
 「ちっ…随分早いじゃないか。よっぽどあの女とお盛んにやってやがったのか?」
 自分の執事が乱暴な言葉を喋るのを、まずその口調そのものに驚いていた男爵は、続いて聞こえてきた声がクララの声であることに驚愕した。
 「どうすんのよ。まだ、何も準備出来てないわよ?今のままじゃ、まだあの女に全部遺産を残すって書いてあるはずだわ」
 「こうなったら、仕方がないな。一応、偽造はしてある。今のうちにすり替えておくしかないな」
 「偽造って…大丈夫なの?ばれやしない?」
 「大丈夫だろう。男爵の筆跡は分かってるんだし、あの女がうろうろしてるのは誰もが知ってるからな。そういうこともあるだろうって思われるだろうさ。ま、お前は、この男のお手つきだと思われるだろうがな」
 「そのくらいは、金が入るんなら我慢するわ」
 何だ、これは、と男爵は思った。
 執事とクララは、何を言ってるんだ。


 キタザキは、見かけ上真剣に<遺体>を確認し、やがてゆっくりと首を振った。
 「残念ですが…」
 わっと一斉にメイドたちが泣き出す。
 「奥様は、まだお帰りにならないのか」
 執事の非難するような声に、何人かのメイドが同じような憤りを見せ、何人かは心もと無さそうに玄関や窓を見やった。 
 気まずい時間が30分ほど経った後、ばたばたと走って部屋に飛び込んで来る音がした。
 「何の冗談なの!?」
 金髪を振り乱したグレーテルが部屋の中の空気に一瞬立ちすくみ、すぐにベッドへと走り寄った。
 男爵の体に触れながら、キタザキを睨む。
 「なに暢気にぼーっとしてんのよ、あんた!さっさと蘇生させなさいよ!」
 「…ご存じの通り、蘇生は魔法ではない。寿命で亡くなった方を生き返らせることなど…」
 「うるっさいわねぇ!ご託を並べてないで、さっさとリザレクションかけなさい!」
 なだめるような表情を取り繕いながら、キタザキはグレーテルと背後のメイドたちを見やった。さて、この奥様の乱心ぶりは、夫を愛している証に見えるだろうか、それとも、単なる貴族の奥方の我が儘に見えるだろうか。
 「もう、試してはみていますよ、ですが…」
 「あぁ、もういいわよっ!マリー!冒険者ギルドに行きなさい!セーラ!お前は施薬院よ!そして、そこにいるメディックに触れを出すの!男爵を蘇生させたら10万yenって言っておいで!今すぐ!」
 「は…はい!奥様!」
 キタザキはグレーテルの背後で、ゆっくり首を振って見せた。リザレクションは効かない。もちろん、仮死状態だから、なのだが、メイドたちには、寿命で死んだので効果無し、だと受け取られるだろう。
 だが、二人のメイドは、キタザキの意味することに気づいてはいただろうが、グレーテルの顔を見て、一目散に駆けていった。
 それを呆然と見送っていた執事が、白い手袋を揉みしだく。
 「お、奥様、お気持ちは分かりますが…ですが、10万yenなどという大金を…」
 「そんな端金が何だって言うのよ!いいから、今すぐ金貨出しておいで!リザレクション1回につき1000yen。袋に詰めなさい!もちろん、10万yenもね!」
 「し…しかし…」
 「さっさとおゆき!一人で出来ないって言うのなら、クララも行きなさい!」
 「は…はい」
 黄金色の髪を振り乱した男爵夫人に恐れをなしたのか、執事とメイドは出ていった。
 他のメイドたちに、メディックが来たらすぐにでもこの部屋に通すよう命じて、グレーテルは時計を睨み付けた。
 「…あぁ、君、奥様に熱いお茶を」
 「いらないわよ!」
 「グレーテルさん、ともかく、ゆっくり深呼吸して。椅子に座って。落ち着きなさい」
 男爵の遺体の横で突っ立ったままだったグレーテルにイスを勧めると、しばしキタザキを睨み付けてから乱暴な仕草で座った。
 「…グレーテルさん、人は、いつかは死ぬ。聡明な貴方にはお解りのはず」
 「……死なないわよ」
 「グレーテルさん」
 「死ぬわけないでしょ、この人が!だって、いつも言ってんのよ!『ワシが死んだら、好きなだけ男を引っ張り込んでいい。じゃが、ワシはお前がばばぁになるまで死んでやらんからな』って!…私、まだばばぁじゃないわよ!まだ若くて美人な私置いて、この意地悪じじぃが死ぬわけないじゃない!」
 グレーテルは泣いてはいなかった。ただ真っ赤な顔で怒鳴っているだけだった。
 「…あり得ないわよ、死ぬわけないじゃない…こんな美人置いて、死にやしないわよ、このじじぃが…」
 自分に言い聞かせるようにグレーテルは拳を握っていた。

 ドアがノックされ、グレーテルが素早く振り返り立ち上がりかけたのをキタザキが肩を押さえて座らせる。
 入ってきた執事は、盆の上に白い封筒を乗せていた。
 「あの…申し上げにくいのですが、奥様。旦那様の遺書が見つかり、それによりますと、遺産の奥様の取り分は10万yenもなく…」
 「それがどうしたってのよ!そのっくらいの端金、私でも持ってるわよ!あんたはぐだぐだ言わずに金貨を用意すりゃいいのよ!」
 「し、しかし、奥様…」
 おろおろと封筒を見せる執事の背後から、数人が顔を覗かせた。
 「すみませーん、メディックですけど〜」
 冒険者の格好の集団が入ってきて、キタザキを見つけて足を止めた。
 まさかレベル別格のキタザキが先に来ているとは思っていなかったのだ。
 「あぁ、よく来てくれたわね、この馬鹿がリザレクションかけてくれないのよ、だから、お願いするわ。この人、蘇生出来たら10万yen、出来なくても1回につき1000yen払うから」
 「は、はぁ…」
 メディックはあからさまに動揺していた。キタザキが駄目なものを、自分がやって出来るはずがない。
 しかし、仲間に背中を突っつかれて、ぎくしゃくとベッドに近づく。
 じーっとキタザキが見守る、という非常にやりにくいシチュエーションで、ぎこちない動作のリザレクションを行う。
 「…ふむ、リザレクションレベル1。まだまだ研鑽が必要だな」
 「……ど、どうも〜」
 キタザキの評に、冷や汗を掻きながら、メディックはそそそっと後ろ向きに歩いて仲間の元に戻っていった。
 「…ありがと。金貨で1000yen。持っていって。…用意してるんでしょ。さっさと出しなさい」
 指さされた執事とクララが困ったように顔を見合わせる。
 「い、いえ、お役に立てなかったので、俺たちはこれで…」
 重い空気に耐えかねたらしい冒険者がひきつった笑いを浮かべるのに、キタザキはそれらを手招きした。
 「まあまあ、君たちも他のメディックがリザレクションするのを見ていなさい」
 
 そうして、更に数パーティーがやってきて、リザレクションを失敗して。
 部屋の中にはメディックが一杯、という状態になったところで。
 「さて、と。すまないが、私にもその遺書を見せて貰えるかな」
 「はぁ…」
 執事が渋々白い封筒を差し出したので、その中身を取り出したキタザキは、眉を上げてそれを読んだ。
 予想通り、よく世話をしてくれたクララに金の大半を残し、執事他召使いたちにも金を分ける、妻は今までさんざん使ってきたのだから取り分は無し、という内容だった。
 怒鳴り疲れたように、ぼんやりと男爵を見つめているグレーテルに、その中身は説明しなかった。
 キタザキは、それをまた封筒にしまい、手を出す執事は無視をしてそれを男爵の手に握らせた。
 「さて…それでは、この内容を、本人に確認していただこうか」
 キタザキは胸から噴霧器を取り出した。
 ぷしゅっと一吹き、男爵の鼻へと突っ込む。
 執事はぽかんとしていたが、慌てて後ろを振り返る。
 だが、冒険者の一団が、興味津々、と言った顔で扉の前にいるため、すぐには動けない。
 がさり、と男爵の手が動いて、封筒を握り潰した。
 「…24時間かかるのでは無かったんじゃな」
 「24時間経過でも戻りますよ。それ以外に、効果を消す薬も用意してあっただけです」
 ごそごそと動き始めた男爵は、手の中の封筒から中身を取り出そうとして…出来なかった。
 「この馬鹿!意地悪じじぃ!あんた、何やってんのよ、人を死ぬほど心配させて!」
 グレーテルが精一杯の力でしがみついてきたのだ。
 「…おぉ、おぉ、すまなかった…お前が、そんなに心配するとは思っておらんで…」
 「馬鹿言ってんじゃないわよ!誰が心配なんかするもんですか!あんたみたいな禿でちびの意地悪じじぃなんか、神様にも嫌われるに決まってんのよ!…あんたは、私が婆さんになるまで離してくれないんでしょ!」
 わんわん泣きながら首に縋り付いてくるグレーテルを抱き締め返していたので、封筒はぐしゃぐしゃになってそのままベッドに落ちる。
 代わりにキタザキが拾い上げて、内容を読み上げた。
 「…ということですが。このような遺書を、本気で?」
 「知らぬ。ワシの書いたものではない。…おぉ、妻よ、そんなに泣くでない…」
 キタザキを振り返りもせず、さっくりと返事だけ返した男爵は、ひたすらグレーテルの背中を撫でていた。
 どうもしばらく動きそうにない、と判断したキタザキは、冒険者たちを押しのけようとしている執事を見ながら言った。
 「さて、冒険者諸君。その執事と、黒髪のメイドを拘束したまえ。…あぁ、念のため申し添えておくと、庭にも冒険者たちが待機しているからね。逃げても無駄だ」
 「「はーい!」」
 冒険者たちは喜んで執事とメイドを捕まえた。
 「執政院に放り込んできまーす」
 「事情は分かるな?」
 「聞いてるだけでもOKっす!」
 「では、頼もう」

 わっせわっせとさらし者にされながら執政院に運ばれていく執事とメイドは、冒険者たちに叫んだ。
 「何で、報酬も無いのに、そんなに嬉しそうなんだ!」
 「そ、そうよ、逃がしてくれたら、報酬をあげるから…」
 冒険者など金で動かせると思っているらしい二人に、一人の錬金術師がにこやかに答えた。
 「ざーんねん。俺なんか、グレーテルさんの役に立てるってだけで嬉しいし〜」
 「だよな〜。恩返しって言うかさ〜」
 「やっぱ憧れだし〜」
 口々に言う冒険者たちに、犯罪者二人はぽかんとする。
 「あれ?何、お前らエトリア新参者?<ナイトメア>って聞いたことない?」
 「し、知ってるわ、そのくらい。エトリアの謎を全て解き明かした伝説のギルドでしょ」
 「…ああ、でもそのメンバーは知らないんだな。冒険者じゃない一般人なんて、そんなもんか」
 「<ナイトメア>の三色の錬金術師グレーテル。その知性と術で三竜も倒した、俺たちの憧れだもんな〜」
 「な〜」
 <ナイトメア>。
 三色の錬金術師。
 そういう知識の欠片はあった二人は、ようやくそれと自分たちの主の奥方が一致して、悲鳴を上げた。
 「えええええええ!?」
 「や〜、お前ら命拾いしたなぁ。グレーテルさんがあんだけ泣いてなかったら、術でぼろくそにされてたんじゃねぇ?」
 「や〜、あの人らしいよなぁ。リザレクションしたら10万yenかぁ。そのくらい、今でも普通に稼げる人だもんな」
 「お前ら、もし成功したら貰うつもりだった?やっぱそこで断るのが男ってもんかな〜って思ったんだけど〜」
 「や〜、それが筋だとは思ったが、10万yenはやっぱ心が揺れるよ」
 そんな感じで。
 冒険者たちののろけのようなものを聞きながら、犯罪者二人は呆然と執政院に運ばれていった。


 ようやく落ち着いたグレーテルにお茶を勧めながら、キタザキはじろりと男爵を睨んだ。
 「そんな顔をせんでくれ…反省しとるよ」
 「…まあ…グレーテルさんも、悪い。何をしているのか、きちんと説明しておくべきでしたな」
 「だって、この人、私が迷宮に行ったら怒るし…冒険者と付き合うのもいい顔しないもんだから」
 グレーテルは、男爵の金を自由に使える、という契約で妻になった。
 が、実際は、ほとんど自分の金だけで何とかなっていたので、わざわざ男爵に説明していなかったのだ。
 「それで…何をしとるんじゃ、お前は。やはり、若いもんと迷宮に行っておるのか」
 「行っては無いわよ。ただ、錬金術師の塔を作ったの。さすがにお金は必要だったけど…既にあるものを買ったから、そんなに高くは無かったわ」
 「…グレーテルさんは、駆け出しの冒険者、特に錬金術師のための施設を作ったんですよ。ダークハンターは養成所があるし、メディックは我々のところで研鑽する、が、錬金術師は学問でありながら、系統的に教える機関がなく、全て独学に頼っていたのです」
 「私も苦労したもんだから、もっと若い人が、覚えたいときに勉強したり実験したり出来る場所があったらいいな〜って。オレルスも賛成したから、ちょっと助成金貰ってるし」
 妻が何をやっているのか、全く知らなかった男爵は溜息を吐いた。
 正直、自由にして良いと言った手前、とやかく問い質すのは契約違反…というより自分のプライドが許さず、黙認どころかあえて目を逸らしていたのである。
 そこをあのメイドに色々吹き込まれてしまった、というところだ。
 「…ワシは、お前が迷宮に行くのは好かんが、若いもんの手助けをするのは良いことじゃと思うよ、うん」
 「当たり前よ、私、良いことしてるんだもん。エトリアっていう街の役にも立ってるし。私のおかげで冒険者じゃない錬金術師も街に集まってきてるんだから」
 許しを得られたとなったら、すぐにツンケンするグレーテルに苦笑して、キタザキは腰を上げた。
 「さて、私はそろそろ退散するが…グレーテルさんは、今度ゆっくり施薬院に来て下さい。本来、こんな時期にこのようなストレスをかけるべきじゃ無いんですから」
 「え?何?こんな時期って?」
 「何じゃ、病気の兆候でもあるのか?」
 どうやら男爵及びその妻が、さっぱり気づいていないようだったので、キタザキは大きく溜息を吐いて、さっくりと言い放った。
 「ご懐妊…本気でお気づきになっていない?」
 「ごかいにん……って妊娠!?私が!?」
 「まさか、覚えが無い、とは仰らないでしょうに」
 「そ、そりゃ…で、でも、この人、じじぃだし、私もルンルンリンクスで若作りしてるとはいえ38歳よ、もう!」
 「十分お若いでしょう。射精と月経がある夫婦なら、何歳でも妊娠出来ます」
 「…はっきり言うわね…メディックってやつは…」
 グレーテルは額を押さえながら、かつて仲間だった幼い風貌のメディックを思い出していた。
 そして、下腹部を撫でながら呟く。
 「そういえば、何か太ったかな〜って思ってたのよね…」
 「気分が悪い、と言っておったのは、本当だったのか…」
 「んー、そうなのよ、何となくムカムカするもんだから、まあ、ダイエットも兼ねて、食べなくてもいいかな〜って」
 お互い、いい年してるくせに暢気な夫婦を見て、キタザキはもう一度溜息を吐いた。
 「…食生活の指導も込めて、是非、今度ゆっくり施薬院にどうぞ」
 「んー、まだピンとこないけど…ま、調べたら違うかもしんないし。今度行くわ」
 キタザキの見立てでは、すでに5ヶ月に突入しているのだが、まだそれは言わないでおいてあげた。
 ゆっくりと礼をして、すたすたと屋敷の中を歩く。
 背後では、おそらく夫婦が仲直りをしている頃だろう。
 グレーテルは口では男爵を罵るが、その割には夫を愛しているようだし、男爵の方も、それに気づいていることだろう。そもそも、メイドが余計なことを言いさえしなければ、案外丸く収まっている夫婦なのだし。
 屋敷から外に出たキタザキは、春の風に一瞬目をぱちぱちとさせた。
 霞むような空には世界樹の大木が相変わらず青々と茂っており、その根本には執政院や施薬院、冒険者ギルドが立ち並んでいる。
 錬金術師の塔は頭一つ大きく飛び出ており、中では今日も爆発音が響いていることだろう。
 
 エトリアは冒険者育成の街としても知られていて、世界樹の迷宮に挑む冒険者のみならず、それを目指す若者も、まずエトリアへ、が合い言葉になっていた。
 各種職業の訓練所も、徐々に充実しつつある。
 もちろん、街としても力を入れていたが、最初の資金は個人レベルから始まっていた。そう言う意味でも、<ナイトメア>は伝説のギルドだった。
 いずれ、冒険者の訓練所は、黄金男爵と呼ばれる貴族のバックアップも得られるに違いない。
 「悪くは、ないな」
 終わったはずの街だが、まだまだ勢いは盛んだ。
 そして、エトリアが盛んであるからこそ、各地の迷宮を抱える国や街もその解明に力を入れるようになり、更にエトリアの活気が増すことになっている。
 すっかりこの街に骨を埋めるつもりの老メディックは、若者たちの溢れる街を満足そうに見やって、ゆっくりと施薬院へと歩いていった。



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