5対2




 「お待たせしました」
 あっはっは、と暢気に笑いながら、ルークは一本橋の中央付近で待つ二人の女性に手を振った。
 じろりと睨んでくるブシドーの女性に、頭をがりがり掻いて言い訳する。
 「いや、ほら、こっちとしても、魔物じゃなく腕の立つ人間が相手なら、礼を尽くさないといけないと思ってさ」
 「…礼を尽くした結果が、これか」
 皮肉の色がたっぷりなそれに、ルークは喜色満面でアクシオンの肩を抱いた。
 「いっやあ〜、苦労したよ、ホントに!俺の防具までは金が無かったけど、ほら、このアクシーのエンジェルローブなんて最っ高に可愛いだろ!?」
 金色の羽が織り込まれた派手なローブは、どちらかというと女性向けなんだろうなぁ、という形をしていたが、そもそもが10代前半少女に見紛うアクシオンが着ると一段と愛らしく映った。
 「特にこの肩のあたりのひらひらが天使の羽って感じでさ、あぁもう何て可愛いんだ、俺のエンジェルちゃんっていうかもうね」
 ただでさえ不機嫌そうだったレンの眉間に、一段と皺が深く寄った。
 「あぁあ、私も可愛い防具欲しいな〜。これ、ごついのよ」
 「いいじゃん、姐さんのは悪の女幹部って感じで色っぽいよ、うん」
 ディノブレストを指さしたグレーテルはルークの言葉ににやりと笑った。
 「ま、可愛い系を目指す年齢でも無いか」
 「自分は早くこれの威力を試してみたいであります」
 「ちぇ、あたしだけ今回は新しい買い物が無いのよね。しょうがないけど」
 どう聞いても、ショッピング帰りの仲間たちがわいわいと戦利品を見せびらかしている雰囲気である。
 まさか、本気で殺意に気づいていない訳ではあるまいな、とレンはちらりと隣に浮いているツスクルを見やった。
 無表情だったツスクルが、レンの視線に気づいて小さく頷いた。
 「自分が何をしているのか、分かっているのか?」
 おニューのローブを着たメディックを抱き寄せているリーダーが、へらりと笑った。
 「分かってるつもりだよ。俺たちは、先へと進む。あんたたちは、それを妨げようとしている。で、両者ついに激突!って場面だ」
 「…世界樹の迷宮は、謎でなければならない」
 「残念、俺たちの冒険は、これからだ!ってことで、聞く気無し」
 とんっとルークは一歩下がった。完全に前衛後衛に分かれ、戦闘陣形になる。
 「悪く思うな。この街のためだ。君たちには、死んで貰う」
 「悪く思うな。俺たちの好奇心のためだ。あんたたちには、退いて貰う」
 レンの口上を真似たルークに、アクシオンがくすくす笑った。
 「ふふ、ただの好奇心ですよねぇ、まったくもって」
 「あたし、押さえつけられるのって嫌いだから」
 カーニャも軽く言って、ドヴェルクの魔剣を抜いた。同じく魔剣を抜いたリヒャルトがわくわくしているのを隠しもせずに期待に満ちた目でレンとツスクルを見つめる。
 「さぁて、んじゃ、行きますよっと」
 ルークがオカリナを構えた。

 レンは、ちっと舌打ちした。
 これらがまだカマキリにすら、いや、マンドレイクにすら苦戦して敗退していた頃から知っていた。
 そして、いつまで経っても暢気で素人臭い雰囲気を漂わせていて、たった今も、でれでれと男のメディックに鼻の下を伸ばしながら笑っている男がリーダーなのも知っていた。
 馬鹿にしていたつもりは無かった。
 だが、本気を出していたか、と問われると、是と答えたろうが、死に物狂いだったか、と聞かれたら否と答えただろう。
 モリビトたちの守護鳥を倒したからここにいる。
 それでも自分たちとは格差があると思っていた。
 それなのに。
 相手の前面には薬物の膜が張られ、こちらのダメージはことごとく吸収される。
 バードの奏でた舞曲は攻撃力を高め、またツスクルの与えるバステを早めに解く歌も重ねたらしい。
 錬金術師の放つ爆炎に合わせてソードマンが二人まとめて斬りつけてくる。
 ダークハンターの少女はツスクルから生気を吸い取り、メディックはくすくす笑いながら目玉の付いた杖を打ち込んでくる。
 レンは構えを変えた。
 もしも彼らが自分たちには勝てないと判断して逃げるのならばそれでもいいと思っていたが…そんな余裕を見せる相手では無かったようだ。
 ならば、この街のため、敵を殲滅するのみ。
 まずは、防御の術を使う厄介なのを消す、と裂帛の気合いで踏み込んだ。
 はらり、と赤みがかった金髪が数本宙を舞う。
 間近で、底冷えのする若草色の瞳がレンを見つめて、口元だけが笑を形作った。
 「…その程度で、首を落とせると思ったのか…甘いですね」
 相手の首筋まであと数センチに刀を突きつけているにも関わらず、何故か自分の首筋にひやりとした怖気を感じて、レンは飛びすさった。
 今までいた空間に、矢が打ち込まれる。
 「あや、逃げちゃった」
 けろりとした声で残念そうでもなく言ったルークが、優美な形の弓を下げた。
 所詮吟遊詩人の放つ矢でありながら、舞曲のせいかかなり威力が高い。
 「もーらいっと」
 子供のお遊びのような声で、ダークハンターの少女が大きな剣をツスクルの体に突き立てた。
 僅かにあった傷がツスクルの生気で治っていく。
 「さぁてっともう一撃かな、大爆炎!」
 「チェイスファイア!」
 「…くっ!」
 左腕を上げて、巻かれた炎から目を庇っていると、胸に衝撃を受けた。
 思わず一歩下がると、ツスクルが無言で倒れていくのが目の端に映った。
 だが、気にかけている余裕は無い。
 何故なら、これでカーニャのドレインもアクシオンのヘヴィストライクも自分に向かってくる可能性があるからだ。
 
 そうして。
 一度はソードマンの首を落とすのに成功したが、すぐにネクタルで蘇生されてしまった。
 1対5ではじり貧である。
 ついに床に膝を突いたレンは、口の端から伝い落ちる血を手の甲で拭い取り、呟いた。
 「…我らの、負けだ」
 ふぅ、と誰かが溜息を吐いた。
 ゆらゆらとローブを蠢かせながら、ツスクルが這い寄ってくる。
 「…我らではもう、君たちを押し留めることが出来ぬか…行くが良い」
 何とか笑みを浮かべて見上げた先で、ルークが気まずそうにぽりぽりと頭を掻いていたが、その視線を遮るようにアクシオンが割って入った。
 「勝者の権利として、敗者に一つ、お願いがあるんですが」
 にっこりおっとり微笑んでいる顔は、今は目まで楽しそうに輝いていたが、その方が余計恐い。
 「…何だ」
 この暢気なギルドのことだ、大した<お願い>でもあるまい、とレンは先を促した。
 アクシオンが床を指さしたので、釣られて下を見てから、どういう意味だ?とまた顔を見上げる。
 「色々なね、毒ガスとかその類って、普通の空気より重いので、下に溜まってる可能性があるじゃないですか。もし、この階層も、下に向かったら毒ガスで全滅、なぁんて造りになってたらイヤだなぁと思いまして」
 なるほど、とレンは頷いた。
 どう見てもここは滅びた街である。メディックがその滅びの原因について心配するのも無理は無い。
 「…いや、大丈夫だ、下は…」
 「そこで、ですね。下が大丈夫だって言う証明をして頂きたいんですよね」
 レンの言葉に被せるようにアクシオンは言って、小首を傾げてにっこり笑った。
 そのあどけない笑顔は、まったくもって10代前半の美少女のものではあったが。
 「どうぞ、下に飛び降りてみて下さい。生きてたら、下で両手を振って合図をして下さいね」
 
 ここは、高層ビルの渡り廊下である。

 「…いや、毒ガスがどうこうでなく…」
 「大丈夫でしょう?ブシドーは食わねど高楊枝、って言葉を聞きました。ブシドーは気合いと根性で生きてるんでしょう?どうぞ、気合いと根性で証明して下さい」
 待て。
 「ブシドーなら大丈夫!気合いです!さぁ、どうぞ!」
 冒険者のものとは思えないようなほっそりした手が、ひらりと廊下の外を示した。
 「…ぬぬ…」
 ブシドーなら平気だろう、と言われているのだ。
 応えねば、ブシドーがすたる。
 レンは横腹を押さえながらよろりと立ち上がった。
 「待って、レン!」
 慌ててツスクルが追いすがる。
 「離せ、ツスクル!私もブシドーの端くれ、精神力でこの程度の高さくらい…」
 「精神力でどうにかなるものじゃないわ!」
 よろよろと端に向かうレン、追いすがるツスクル、という二人を眺めているアクシオンはにこにこしている。
 溜息を吐いたルークが、ぽん、と肩を叩いた。
 「…いや、勘弁しておやんなさい」
 「えー、それでもブシドーなら何とかしてくれるんじゃないですか?」
 「アクシーの冗談は冗談に聞こえないんだって」
 もう一度溜息を吐いて、ルークはすたすたと二人に歩み寄った。
 「どうも、うちのが悪い冗談を言っちゃって」
 はっはっは、とわざとらしく笑いながら、レンと通路の端との間に入る。
 「いやぁ、ほら、ブシドーが千尋の谷をひらりひらりと小さな岩場を足がかりに飛び降りた、みたいな英雄伝を聞いたみたいでね?ブシドーなら出来る!って思ってるみたいでさぁ。吟遊詩人のドラマティック演出なんだよなぁ、ごめんねー」
 軽薄にひらひらと手を振ってやったが、レンはツスクルに羽交い締めされながらも通路の端から下を見下ろした。
 「くっ、窓の縁を足がかりにすれば、私とて…っ!」
 「…や、無理だと思うし…」
 「お願い、レン…止めて…」
 「ツスクルまで私の技量を疑うか!?」
 何だかだいぶ論点が擦れ違って来ているようだった。
 当のアクシオンはもう興味を失ったのか、別の方向の塔群を眺めているし。
 「ねぇ、レン…レンのブシドーとしての技量を疑っているわけではないの…でも…本当に下にガスが溜まっているかもしれないのよ…」
 「え、マジで?」
 反応したルークをツスクルがちらりと見た。
 レンは不思議そうな顔で首を傾げる。
 「しかし、我らが最下層に赴いても、どうもなかったが…」
 「…だって、一番下の階は、窓ガラスが全部入っていたのよ…中は無事でも、外は危険かも知れないし…」
 「うわぁ、そりゃやばいな。マジでガスが溜まってるかもしれない。レンが行かなくて良かったよ」
 大袈裟に胸を撫で下ろしてみせる。
 あくまで、ブシドーの精神力を疑っているのではなく、ガスが心配だったのだ、と強調すると、レンは渋々と頷いた。
 「そう…だな。可能性は、否定出来ん。我らも、外には出ていないからな」
 「有力な情報をありがとう。んじゃ、俺らは先に進むから、ゆっくり養生しててねー」
 さっくりと手を振ってその場を離れようとすると、つん、とマントが引かれた。
 「あん?」
 目で辿ると、ツスクルのローブがこちらのマントを掴んでいるようだった。
 ツスクルは動いていないのに、血の色の鎖がするすると解けた。
 「…これ。貴方にあげる」
 がしゃん、と落ちた鎖とツスクルの顔を交互に見ると、視線でレンを指した。
 「…負けたけど…レンは落ち込んでない。…ありがとう」
 まあ、負けた悔しさに浸る間も無かったような気はする。
 「んー、ありがたく頂いとく。それじゃ」
 「これも。…きっと、最下層で必要になるから」
 こそこそ言い交わして、手のひらに滑り込んできた平たい感触のものを、さっさと胸ポケットにしまい込む。
 「ゆくぞ、ツスクル。千尋の谷で鍛えるために!」
 「…分かったわ、レン…」
 「いや、養生してね…」
 糸を使ったらしいレンとツスクルを手を振って見送って、ルークは改めて胸ポケットのものを指で探った。
 カード大だが、紙の硬さではなく、やけにつるつるしていた。
 何をするものかは分からないが、最下層に着けば分かるかも知れない。
 
 通路を通り抜けた先は、同じように廊下と部屋に分かれていて、同じように表面がつるつるして取っ手も無いドアも並んでいた。
 どこかにこのドアを開ける仕掛けがあるんだろうなぁ、とメモだけ書いて、先へと進む。
 階段を降りて、更に階段を降りると、また行き止まりになっていた。
 戻ろう、としたところで、何かが動いたのに気づいて振り返る。
 足下で僅かに動いていたそれは、黄ばんだ紙のなれの果てのようだった。
 手に取ろうとしても崩れ落ち、手の中でぼろぼろになってしまった。
 「何か書いてましたか?」
 「んー…何か、は書いてあったけど…全然知らない言語でさ」
 くるくると流麗な線が繋がったり途切れたりしていたので文章なんだろうなぁ、という推測は出来たが、似たような形を思い浮かべる暇もなく崩れてしまったのだ。
 「えーと、紙ってどのくらいで劣化するんだっけ?100年や200年できかないよな?」
 「そうねぇ、そりゃ質によるだろうけどさ、少なくとも1000年単位じゃないの?1000年前でもはっきり読める書は残ってんだし」
 雨ざらしになっていたならともかく、密閉された空間なら、もっと保つだろう。まあ、この辺りは魔物が彷徨く可能性もあるが。
 「せっかくの手がかりだったのになぁ」
 まあ、またどこかでちゃんと保存された資料が見つかるかな、と気を取り直して元の階に戻った。
 そうして進んでいくと、また渡り廊下を経て磁軸があった方の建物へと続いているようだった。
 廊下の途中で、グレーテルがまたウーズの水晶核×2で遠くを見渡す。
 「んー、そうねぇ、あっちの方にも渡り廊下があるみたい。上とこの階ね。もっと下は繋がってるみたいだけど…」
 いろいろ崩れて行き来しづらくなっているらしい。渡り廊下が途中で崩れて無くて良かった、と言うべきか。
 結局、廊下を渡って階段を降りて、更に降りてみたところで癒しの清水を見つけたので、そこを拠点にしよう、ということになった。
 今までの見つけたものとは違って、綺麗に石で丸く囲まれた人工的な清水に、広場にある噴水を思い起こす。
 思い思いに座って休憩しながら、ルークは地図を取り出して眺めた。まだまだ空間の多いそれを重ね合わせて隅に紐を通す。
 「あれ、5枚セットにするんですか?」
 「うん、どうも上下入り組んだ構造みたいだからな。8階から10階のもっとややこしい感じ」
 「その階を探索し終えたら次、っていうのじゃ無いみたいですもんね」
 こういう造りだと、どこまで行ったらキリが良い、というのが分かり辛い。あまりだらだらと長引かせないようにしなければ、と自分を戒めておく。
 「とりあえず、どうっすっかなぁ。この階と上の階とが未探索だ」
 どちらもすかすかな地図を見てルークは首を捻ったが、とにかく清水周辺から埋めていこう、ということにした。もしもついでに最下層への道が見つかれば儲けものだ。
 だが、とりあえずこの清水からの道からは下へと通じる道が見つからなかった。
 もう少し行けるかな、と思いつつも、23階の探索は次の機会にしよう、と帰ることにした。

 商店に向かう前に酒場に寄る。くつろぐためではなく、依頼を確認するためだ。素材を売り払った後に、その素材を求める依頼があったら二度手間になるため、余裕がある時にはなるべく先に確認することにしているのだ。
 「あら、いらっしゃい。…どう?長は見つかりそうかしら」
 「いやぁ、今のところはさっぱり」
 ヴィズル子飼いの二人組が襲ってきたことに関しては、黙っておこう。
 「…そう…」
 伏し目がちに相づちを打つ女将の様子は如何にも心を痛めています、といった風体だったので、少々心が痛まなくも無かったが、事実関係がはっきりするまでは何も言えない。
 「何か新しい依頼来てる?」
 「…そうね、幾つかあるわ」
 何度か大きく目を瞬いてから、女将は明るい声でカウンターの下から紙挟みを取り出した。
 「えーと…お守り代わりにエンジェルウィング…蜂だっけ。幾つ持ってる?」
 「2枚ですね」
 「それから、黄金の皮10枚…」
 「3枚です」
 「うわぁ、どっちも受けると、荷物がかさばりそう」
 ぶつぶつ言っていると、横から覗き込んだグレーテルが、いきなり紙挟みを取り上げた。
 がばり、と音がしそうな勢いに、目をぱちくりさせていると、グレーテルがずいっと身を乗り出して女将に迫った。
 「これ!男爵の依頼ってホント!?」
 「え…えぇ、その…ある意味、有名な方よ。お金は山ほど持ってらっしゃるんだけど、その…趣味がね…黄金好きで…」
 苦笑いしている女将の様子を気にも留めずに、更に畳みかける。
 「独身!?」
 「そうねぇ、奥方はいらっしゃらないはずだわ。少なくとも、今は」
 「…ふふ…ふふふふふ…金持ちの独身の男爵…」
 グレーテルがにやりと笑った。
 ガントレットを付けた右腕を左手でばしりと叩き、ガッツポーズを決める。
 「ターゲット、ロックオン!」
 「…いや、姐さん…相手がどんな男かすら知らないんだし…」
 「おーっほっほっほっほ〜!そんなもの、今から知ればいいのよ!」
 高笑いしているグレーテルを横に、とりあえずこっそりと女将に聞いてみる。
 「男爵、悪い趣味持ってたりはしないわけ?男好きとか、女の皮を剥ぐのが趣味、とか」
 お前が言うな、という気はしたが、ともかく相手が結婚相手として見られるかどうかは確認しておかねばならない。
 「そうねぇ…悪い方じゃあ無いのよ…ただ、ほら、黄金の皮で作った服をまとう、なんて、普通の趣味じゃ無いでしょ?」
 「…成金ぽい悪趣味レベルなら良いんだけどさぁ」
 「ルーク!もちろん、この依頼は受けるわね!?」
 「そりゃあまあ、別に避ける理由も無いけど」
 「もし皮が集まったら、私が持って行くわ!良いでしょ、そのくらい!」
 「そりゃあまあ、別に反対する理由も無いけどさぁ…」
 自分は恋人を獲得して幸せいっぱいなのだから、ギルドメンバーの恋路も応援したいのは山々だったが。
 こういうのを恋路と言って良いのかどうか、という。
 まあ、ひょっとしたら一目で恋の花咲くこともあるかもしれないし、グレーテルもいい大人なんだし、基本的には見守る方向で良いとは思うが、一応バードとして男爵の身辺調査はしておこう、とこっそり思った。


 比較的早く帰ってきたので、寝るにはまだ時間がある。
 何をしようかな、とカーニャはギルド内を見回した。お菓子を作る時刻でもないし、誰か話し相手はっと。
 クゥたちの方へと向かいかけていたら、ふらり、と進行方向を遮った人間がいた。
 「何?」
 「…あ…あのよ〜…その〜…」
 ミケーロは頭を掻いたりそっぽを向いたりしながら足先で床に何か意味不明な文様を書いた。
 よく見れば、うっすら顔が赤いような気もする。
 何だろう、とカーニャは首を傾げた。
 ミケーロは17歳、カーニャは15歳。お似合いのお年頃ではあるのだが、今まで男女として意識したことは無かった。
 何せ相手はスラムの野良猫、カーニャにしてみれば自分より初心者の坊やでしかなく、<男性>という気はしていなかったのである。
 だが、ミケーロが言い出しにくそうに頬を赤らめている様子を見ると、まさかあたしに告白しようとしてるんじゃ、なんて考えてしまって、ちょっぴり異性を意識した。
 「何よ。用があるんなら、はっきり言いなさいよ」
 「あ〜…その〜…な。お前…」
 ミケーロは、ちょっと情けなく銀色の眉を寄せて、カーニャを縋るように見つめた。
 「計算…って、出来る…って聞いたんだけどよー」
 「計算?」
 カーニャは目をぱちくりした。
 ちょっぴり想定していた愛の告白からはほど遠い単語に、うっすら赤くなりかけていた頬が完全に元の色に戻る。
 「計算って、数字の足し算や引き算のこと?そうね、出来るわよ?…あ、でも、すっごく複雑なのは駄目。あたしに出来るのは、単純な帳簿の足し算くらいだから」
 世の中には、同じ数字を使っても、足し算引き算程度の知識では異国語も同然な計算法がある、ということくらいは知っている。昔、街の教会を修復するという建築家がノートに走り書きをしているのを見たことがあるのだ。
 「いや、それでいいんだけどよ。…その…ちょっと、教えてくれねーかな〜って」
 「あたしが?」
 そりゃ素材とか武具の値段の計算とか、今持ってる金でどれだけ買えるか、くらいの計算は出来る。
 が、他人に教える自信があるか、というと、全くない。
 「もっと他に教える人、いないの?」
 「…文旦と小桃の数字、東方語なんだよ。シエルは俺以下だしよ。んで、ネルスも、文章は教えられるが数字は強くないって教えてくれねぇし」
 カーニャは自分のパーティーを思い浮かべた。
 アルケミストやメディックは、細かい計算が得意そうだ。ルークもそれなりに計算くらい出来るだろうし、リヒャルトも育ちが良いのだから知識はありそうだ。
 けれど、大人たちが色々と忙しそうなのも、分かっていた。
 それは恋だったり探索に関係することだったりするが、とにかくカーニャよりばたばたしているのは間違いない。
 今現在、カーニャは如何に暇つぶしをしようか、と考えていたのも確かだし。
 「あたし、他人に教えたこと無いわよ?それでもいいなら、ちょっとだけ」
 「お、おう、サンキュ。…ちょっと、紙、取ってくる」
 カーニャはその辺のクッションを取って座り、しばらく考えた。
 自分も、親に計算法を教えて貰ったはずだ。さて、どうやって教えて貰ったんだっけ。
 ふと光景が蘇ってきた。
 小石を並べて数を数えている自分。
 癇癪を起こして放り出しても、何度でも付き合ってくれた。
 自分が大きくなってからの記憶と照らし合わせると、何だかおかしい気がした。
 あれだけ毎日毎日牛と付き合って、でも全然のんびりなんかじゃなくて忙しくて。
 あたしまで仕事手として数えられているみたいに、退屈なんて思う暇もないくらい仕事を押しつけられた。
 そう、牧場の仕事は、決して暇なんかじゃない。
 なのに、小さな子供の頃、あたしの側には必ず誰かがいた。父さんだったり母さんだったり隣のおばちゃんだったり…決して、時間が余っていたわけじゃあないのに。
 カーニャは紫色の手袋を脱いだ。
 長くはないが綺麗に揃えられた爪に汚れは無い。その手で髪を払うと、牛の糞や草の匂いではなく、人工的な花の香りがした。
 この生活に不満は無い。
 カーニャが求めていたのは、こういう生活だった、と胸を張って言える。
 けれど。
 探索が終わったら、ちょっと実家に顔を出してみようかな、とは、ふと思った。
 またあの生活に戻りたいとは思わないけれど、自分の割り当てのお金を持って、こんなに稼げるようになったんだ、と自慢しに行くのも、まあ悪くない。
 この姿を見たら、卒倒しそうだけれど。
 
 で、ミケーロに計算を教えようとして。
 「…何で、こんなことも分かんないのよっ!」
 「む、無茶言うんじゃねー!こっちはど素人だってんだよ!」
 「2足す5は7だけど、3足す4も7なのよ!当たり前じゃない!」
 「だから、何でだよ!何つーかこう、納得できねー!」
 「な、何でって…何でって…そうなってんのよ!と、とにかく、あんたが納得してようがどうだろうが覚えなさいよ!」
 
 カーニャは、教えるのに向いているとはとても言えない人材だった。



世界樹TOPに戻る