地上にて




 地上に帰ってきて、本当は経過を執政院に報告するべきなのは分かっていたが、すでに深夜どころか夜明けに近い時刻であり、こちらも疲れている…ということで後回しにすることにした。
 ここは宿屋でゆっくり…と言いたいが、あの宿のチェックアウト時刻は5時である。今行っても寝る間もなく叩き出されるのが目に見えていたので、とりあえずはギルドに向かった。
 「こう、何つーか、地上に戻った途端、疲労が押し寄せるってのは、やっぱもう年ってやつなのかね」
 探索をしている間は、どれだけ広大な土地をノンストップでうろうろしていても気にならないが、地上に戻ってくると、たかが世界樹入り口からギルドまでのほんの数百mが怠い。
 「しっかり汚れを落として、マッサージしたいわ」
 もう半ば目を閉じているカーニャの腕を掴みつつ、グレーテルは自分の頬を撫でた。睡眠不足も徹夜もお肌の大敵だ。
 「公衆浴場に向かう、ということも可能ですが」
 冒険者の街なので、汚れを落としたい人用に公衆浴場はほぼ全日営業だ。もっとも、夜は割高だが。
 「やだ〜、もう、寝る〜」
 「…では、ともかくはギルドに帰って、少し何か食べて、ゆっくり宿に向かう、というところでしょうか」
 「だな。何か温かいもの作るわ」
 アクシオンの「リーダーが何もそんなことしなくても…」という呟きは、聞こえなかったことにしておいた。元々、リーダーなんて雑用係だと認識しているので、作れる人間が作ればいい、というくらいの感覚でしか無い。ちなみに、アクシオンは料理に不自由なので、代わることが出来ず余計に気が咎めるらしい。
 ともかくは寒い部屋に帰ってきて、カーニャは毛布にくるんで転がしておいて、簡単にスープを作る。
 その間にグレーテルは取って帰った素材を全員の荷物から出して、また種類別に仕分けし直した。リーダーが執政院に報告に行くとして、残りのメンバーは商店に行ったり酒場で依頼の確認をしておけばいい。
 保存用のもさもさしたパンと、鳥と卵のスープを腹に収めてから、宿屋に向かった。
 ちょうどチェックアウトの連中が出て行っているところでロビーは混雑していたが、受付はすぐに空いた。
 「個室3つとダブル1つな〜」
 「はい、どうぞ。すっかりダブルで定着しましたね。またスイートもよろしくお願いします」
 「へいへい」
 鍵を受け取り、他の3人と手を振って別れ、当然のように付いてきたアクシオンと部屋に入り。
 マントをハンガーに放り投げて、ベッドにどさりと転がった。
 「はぁあああ〜〜」
 盛大に息を吐くと、余計ずっしりと体が重くなった気がした。
 ルークのマントを整え直し、自分の白衣も吊ったアクシオンがベッドの逆側に浅く腰掛ける。
 「お疲れさまでした。マッサージしましょうか?」
 「ん〜」
 ルークは手の甲で自分の目を覆った。まだ日は昇っておらず、ランプの灯りが無ければ真っ暗だ。
 「ん〜…それより、精神安定剤」
 「は?…えっと…調合しましょうか?あまり…お奨めは出来ませんが」
 アクシオンが躊躇いがちに覗き込んできたのが分かったので、目を閉じたまま引き寄せた。
 胸の上に感じる重み。顔に触れる滑らかな肌と柔らかな髪。
 思い切り息を吸って、また吐いた。
 「あ〜…落ち着く。俺専用、精神安定剤」
 散々歩き回ったことよりも、モリビト精鋭部隊と戦って守護鳥を倒して、モリビトの少女と渡り合った、という精神的な疲労の方が強かった。
 かなり割り切ったつもりではあるが、それでも異種族を殲滅して脅迫した、という事実に変わりは無い。やってる間は良かったが、こうして地上に戻ると、もっと良いやり方があったのではないか、と胸が重くなる。
 モリビトとの共存の道があったのではないか、という苦悩と、あっちが仕掛けて来るんだ、俺は何も悪くない、と投げやりな気持ちとが混在して襲ってくる。
 けれど、こうして腕の中にアクシオンを抱き締めていると、ささくれ立っていた心が少しずつ落ち着いてくるのが感じられた。
 「…アクシーいなかったら、挫けてたかもなぁ」
 しみじみと呟くと、首筋に吐息を感じた。どうやら溜息らしいそれに、重い瞼を開く。
 「何?」
 「いえ……意外と、そうではないだろうなぁ、と思いましたもので…ルークは、自分で思っているよりも精神的に強い方ですよ。きっとね、俺がいようといまいと、自分で道を選べる人です。…無論、そう仰っていただけるのは、俺としても自尊心をくすぐられるので嬉しいと言えば嬉しいのですが」
 「それは、買いかぶり」
 人生から逃げ回った結果ここにいるだけだと自覚している吟遊詩人は、うっすら自嘲の笑みを浮かべてまたアクシオンを抱き締めた。
 「本当ですよ?もしもルークが精神的に弱い方なら、とっくに俺が、汚れ仕事を引き受けてます」
 お飾りのリーダーを盛り立てて、自分がモリビト殲滅を担う、と当然のように言い切るメディックの耳に囁きかける。
 「そうじゃないから、一緒に泥を被るって?」
 「えぇ。モリビトに悪鬼と指さされようと。世間一般の人に罵られようと。ヴィズルが死を願っているのだとしても。ルークが石を投げつけられるのなら、俺はその隣にいます」
 「…あ、やべ、欲情した」
 「…俺は、真面目な話をしているんですが」
 「俺も真面目に欲情しました」
 いくら疲れているといえど、大好きな相手を抱いて、更に可愛いことを言われればうっかりその気になってしまうのが男の悲しいサガというやつである。
 「モリビト殲滅は、キリが良いとこかなぁ」
 「ルークがそう思うなら、そうじゃないですか?」
 「うああ、判断するの、俺?」
 「そりゃそうでしょう」
 今この瞬間、すごくしたい、というのは確かだが、冷静に考えて、今が適切な時期、というものでは全く無いことも分かっている。
 何で俺は自分で自分を縛ってるんだ、と後悔に襲われつつも、手を出したらもっと後悔しそうなので、ルークは拳を握り締めて耐えた。
 「えーと、沈静、沈静…」
 「…それ、体には良くないような気がしますが…」
 「いいの、目が覚めたら適当に抜いとくから」
 ルークは思い切って起き上がり、適当に服をその辺に放り投げて下着だけになった。布団に潜ると、同じく下着だけになったアクシオンが隣に滑り込んできた。
 「とにかく寝ないとな」
 「…まだ心の準備が出来て無かったのも事実ですが…あっさり止められると、それはそれで微妙に複雑な気分です…」
 ぶつぶつ呟きながら、アクシオンが腕に抱きついてきたので、逆の腕を背中に回した。
 半ば眠り込みながらも、ぼんやりと会話する。
 「…ルークの好みは、今現在の俺の顔、なんですよね」
 「そうだなぁ…10代前半から半ばくらいが好みだったのかなぁ、俺って…あぁ…ロリコンだぁ…」
 「俺も成長する予定なんですよね…どうしよう、また成長抑制かけた方がいいんでしょうか…」
 「アクシーは、可愛いよ、うん…すっごく、俺好み…」
 「…基礎美容はばっちりとしても…手を入れた方が良さそうですね、これは。容色の衰えで捨てられる、なんて事態は我慢なりません。…ルークを殺さずに済ませるためにも、努力はしておきます」
 「んー…俺は、アクシーがアクシーだから好きなんだなぁ…」
 「甘いですね。俺が髭親父になっても好き、なんて言えたら、それはただの理想家です。俺は現実家なのであらゆる事態を想定して最悪に備えますよ。…あぁ、今初めて、母の職業を嬉しいと感じられました」
 その会話は、夕方になって目を覚ました時にはほとんど記憶に残っていなかったため、何でアクシオンが熊の着ぐるみを着て「ほーら毛がじょりじょり〜」と擦り寄ってくる夢を見たのか、と歯を磨きながらぼんやりと悩んだのだった。


 アクシオンのマッサージも受けて筋肉を解してから、執政院に報告に行くことにした。素材の売却はグレーテルたちに任せて、アクシオンと二人で向かう。
 「本当は、言葉の裏を読んだりするのは俺じゃなくグレーテルさんの方が適任なんでしょうけど…」
 「ん、アクシーはアクシーなりに感じられたことを報告してくれ」
 「はい、リーダー」
 感情の機微に疎いアクシオンにさえ感じられたら相当だ。そういう判断基準にもなる。
 さて、モリビト殲滅作戦を完了した、と報告したら、長はどうでる、と気合いを入れて向かってみれば。
 しばらく待たされた後に、いつもの眼鏡が慌ただしい様子で入ってきた。
 「あぁ、君たちか。すまない、今、ばたばたしていて…」
 「何か起こったり?」
 「いや…何かが起こった、という確定はしていないのだが…」
 オレルスは曖昧に言葉を濁してから、人差し指で机をとんとんと叩いた。それから息を吐いて、顔を上げた。
 「ともかく、君たちの報告を聞こうか」
 何が起こっているのか気にはなりつつ、ざっと説明する。
 20階でモリビトの精鋭と守護鳥を倒したので、モリビトはこちらの妨害を諦めた。21階への階段は見つけたが、まだ踏み込んではいない。
 小さな質問を挟みつつ説明し終えると、オレルスはどこか上の空のまま机から革袋を取り出した。こちらも中身を確かめもせずに荷物に入れて、次の言葉を待つ。
 眼鏡はルークが提出した地図を見ながら指で机をとんとんと叩いていたが、大きく息を吐いて眉間を指で押さえた。
 「長が、いなくなった」
 「へ?…痴呆による徘徊?」
 「違う!…あ、いや、おそらく、違う」
 「…いや、そういう方向に言い直さなくても」
 オレルスはまた指で机を叩いた。眉間の皺が深い。
 「分からないのだ…長は責任感の強い方だし、いきなり行方不明になるようなことは初めてでな。兵士たちに情報を集めさせているが、街の外に出たという報告は無いし…ただ…」
 「ただ…何。奇声を上げて踊り狂っていた、とか?」
 「そうそう、街の人間には見られたくない姿で…って違う!」
 「うわ、ノリツッコミ」
 「ただ、だな。迷宮に通じる磁軸あたりで見かけた、という情報があるのだ」
 「いや、それって、見かけた、も何も」
 仮にも執政院の長が、この時期に物見遊山で磁軸を見物に行ったとは思えない。ということは、普通に磁軸を『利用』しに行った、ということだろうが。
 「…あのおっさん、元冒険者、なんて話は無いよな?」
 「うむ、ただのおっさんだとしか聞いていない」
 オレルスも相当動揺しているらしい。敬愛する長について機械的な返答をしてから、自分が口走ったことに気づいてすらいないのか、深い溜息を吐いた。
 「せっかく君たちがモリビトたちを殲滅してくれて、誰も踏み込んだことのない階層に入れる、という時に…」
 オレルスが心底心配しているというのは分かったが、ヴィズルに死を願われている推定の<ナイトメア>としては微妙な気分だった。
 本当に『ただのおっさん』かどうかは知らないが、まさか自分の手で殺しにかかるつもりじゃあるまいな、と眉を顰める。
 「街の人間に不在が知られると動揺が走る」
 「兵士に情報収集させた時点で、もう駄目だと思うけど」
 「我々は、なるべく早く長の身を確保したい。もしも迷宮で見かけたら、早く戻るよう言ってくれないか?」
 「そりゃ言うくらいは言うけど」
 想像してみる。
 見たことのない階層でうろうろしている長と遭遇。
 もしもこちらの推定が間違っていて、<ナイトメア>に害意など無い場合。
  「素晴らしい!最高の芸術だとは思わないかね!」
 …一人で迷宮最深層に降りた挙げ句にふらふらと見物。
 よほどのスキルが無い限りは死んでそうだが。
 もしもこちらの推定通り、<ナイトメア>の敵になる場合。
  「ここで遭ったが百年目、死ねい!」
 …こっちが死んだら素直に戻ってくれるだろうが。そこまでする筋合いは無いしなぁ。
 「えーと、長の確保って、生死を問わずに…って訳じゃ無いよなぁ」
 「もちろん、頭は付いていなければ困る」
 「手足はいいんかい」
 「いや、サインを貰わねばならない書類が溜まっているからな…右手も必要だな。…最悪、サインの形のゴム印を作るが…」
 やっぱり激しくテンパってるらしい。
 根本的なところで間違っている。
 「いいじゃないですか。長もお年なんですし、いずれは代替わりするはずだったんでしょう?その予行演習と思えば」
 「円満な禅譲といきなり行方不明とでは天と地の差があるよ。いっそ、私を代理として指名するとか何とかはっきりさせておいてくれれば、まだしもやり易かったものを……いや、これはただの愚痴だ。忘れてくれ」
 「色々あるんだなぁ…結構ヴィズル独裁体制だったんだな、エトリアって」
 全ての権力がヴィズル一人に集まっていて、その頭がいなくなると誰がその権力を握るかで紛糾しているらしい。考えてみれば、この眼鏡はただの『情報室長』だ。他の部門の長も同等の権力を持っていて、誰が統括するかは決められないのだろう。
 「まあ、君たち冒険者にまでしわ寄せは行かないはずだ。君たちはこれまで通り、迷宮の探索に勤しんでくれ給え」
 「で、迷宮の中で長を見つけたら『オレルスに権力を譲る』って血書を書かせて後はぶっすりと」
 「…いや、冗談にでもそういうことを言うのは止めてくれないかな…うちも色々不都合があるんだよ…」
 「あぁ、でっかいネズミが入り込んでないとも限らない、と。…ホントややこしいな」
 吟遊詩人としては、こういう騒ぎも面白いし、こっそり掻き回してみたい気持ちもあるのだが、それよりもまだ見ぬ階層への興味の方が強い。
 「ま、こっちはいつも通りぼちぼち行くわ。で、報告をまめにする、と。それでOK?」
 「あぁ、十分だ」
 ノックをして入ってきた女性がオレルスを待っているようなので、ルークもアクシオンを促して早々に立ち去ることにした。
 長がいない、と意識しながら廊下を歩いていくと、確かに執政院の中にはいつもとは少し質の異なる慌ただしさや緊張感が漂っているようにも思う。
 外に出てから、独り言のように聞いてみる。
 「でも、冒険者は基本的に他国者だしな。長がヴィズルであろうが誰であろうが関係無いわな」
 「そうですね。長がいなくなって慌てるのは、基本的には執政院の内部であって、一般市民は何某かの影響があってから不満を言うのではないでしょうか」
 冒険者ではないエトリア一般市民、というやつはヴィズルを慕っているだろうが、それは自分たちの生活が安定していることに満足しているからである。執政院が長代理として今までと同様の施策を行っている限りは、さしたる動揺があるとも思えない。
 「んじゃ、急ぎはしないわな。長探索」
 「ですね。ついで、で良いと思います。…そもそも、出会った時には、ろくなことにならないような気がしていますが」
 今のところ、ヴィズルは仮想敵である。ただの誤解かもしれないが、警戒しておくに越したことはない。
 が。
 ヴィズル失踪→<ナイトメア>新階層探索→<ナイトメア>行方不明→ヴィズル帰還…という過程を辿った場合、ヴィズルの立場って凄く怪しくないか?
 いや、長が戻ってから「<ナイトメア>が敵をくい止めてくれたおかげで私は戻ってこられたが…」なんて悲痛な面持ちで喋ったりしたら、あっさり美談で片づけられるか。
 「とにかく、21階に降りるのが優先だな」
 「ですね」
 という結論になってギルドに帰ると、シリカ商店経由酒場で戻ってきたグレーテルたちと合流した。
 何か依頼はあるか、と聞くと、あっさり肩をすくめてグレーテルはメモ用紙を寄越した。
 「上の階層で済ませられそうなのは、サブパーティーにさせればいいんじゃない?この墓参りとか料理の材料集めとか。それよりね、サクヤさんに個人的に依頼されたんだけど…長が行方不明だって?」
 「…普通に酒場にまで行き渡ってるんだな、情報…」
 むしろ、酒場だから、とも言えるが。
 「あの人はこの街にはなくてはならない人なの…貴方達も、是非探してくれないかしら…だって」
 声色を使って、うるうると目を潤ませたグレーテルが両手を合わせてルークに迫ったが、後ろのカーニャは微妙に不本意そうに付け加えた。
 「でも、本式の依頼じゃないみたい。酒場に来る冒険者みんなに言ってるみたいだし、報酬の話は無いし」
 「こっちもだ。眼鏡が長を捜してくれとは言ってきたが、ミッションじゃないみたいだし」
 金も出さずに見かけたら報告しろって、随分冒険者を舐めた話だ。ヴィズルの人徳というものを過大報告しているのだろうか。
 「私は探してあげたいけどね。サクヤさんの頼みだし。未亡人って噂はあったけど、まさか長を慕ってたとはねぇ」
 「相変わらず姐さんは恋愛沙汰が好きだなぁ」
 自分の恋愛沙汰はどうした、と突っ込むのは…止めておこう。色んな意味で怖いし自爆行為だ。
 ちょうど帰ってきたサブパーティーにざっと報告して依頼用紙を渡す。
 「ふむ…このレベル30のぱらでぃん、という依頼は何とかなりそうじゃの」
 「もうちょっとでレベル30にゃ!」
 この猫娘が依頼者ご希望の<聖騎士>かどうかはともかく。
 「乾いた木桃…剣魚の柔ヒレ…ふむ、これなら我らにも」
 「この墓参りも、依頼人に聞いて何とかしてくれ。まさか20階に墓が、とか言わないだろ、たぶん」

 文旦とルークが話をしている間に、ミケーロはふらふらとその場を離れた。
 部屋の隅という定位置にいるネルスのところに歩いていく。陰のように蟠っていた男は、ミケーロを認めてうっすらと笑った。
 「…宿題は、出来たか?」
 「ずっと迷宮にいたんだぜ?出来るかよ」
 うんざりした声を出し、だらしなく足を投げ出してちらりと自分たちの仲間を見やってから、ミケーロはごそごそとポケットから紙を取り出した。
 小さく畳まれているそれは端が擦り切れていたが、皺にはなっていなかった。
 丁寧に広げて、そのミミズがのたくったような文字を指で押さえ、ネルスは頷いた。
 「…ふむ、基本の文字の習得は終えたな。物覚えが良いのは結構」
 「別に…あいつらが素材とか切り取ってる間とか、暇だったし…」
 ぶつぶつと『自分はそんな勉強家の良い子じゃない』と主張するミケーロに苦笑する。ワルぶるのが格好良いと思い込んでいるお年頃なのは分かっているが、行動が立派に裏切っているのだから、何をか言わんや。
 「…それで、もう一つの宿題はどうした?」
 「そんなに2つも3つも出来っかよ!…まあ、清水で一休みする時とか暇だったから、一応聞いたけどよ…」
 ミケーロはまた文旦たちをちらりと見てから、視線を天井に向けた。
 何度か口を開きかけては、あーとかうーとか言いつつ手を何度か蠢かせた後、ぼそり、と話始めた。
 「えーと…あいつらの国に、スラムは無い。でも、みんな金持ちかってーと、そーゆーわけでもない。異国人とか、戦で負けた奴とかの集まる集落があって、それがここで言うスラムみたいなとこになってる。でも、そこはそこで、ゴミ集めとか水売りとか、他の人間が嫌がるような仕事をして金を貰ってるんで、そこだけ貧乏ってのではない。でも、やっぱいったんそこの集落で生まれたら抜け出せねーってのは一緒」
 「水売り?何で水なんか売るんだ?買う奴いんの?」
 「俺もそれ聞いた。井戸を掘っても塩水しか出ねーようなとこに、山とかの綺麗な水を汲んでって売るんだってさ。元手はいらねーけど、重いし安いしであんま儲かんねーから、何も技術の無い貧乏人の仕事だって」
 「へぇ。その辺でただで汲める水が売れんのか…東国って水が悪ぃのかね」
 ショークスとミケーロの会話を聞いてネルスはこっそり笑った。ミケーロは、案外とちゃんと聞いてきているようだ。あまり他人と話をしない…というか、馬鹿にされまいと無駄に肩肘張るためまともな会話にならない思春期男子にしては、良くやった方だろう。
 「…それで…その話は、何か役に立つと思ったか?」
 自分が聞いてきたことが、相手の興味を引いているのでどこか自慢そうだったミケーロの表情が、ネルスの言葉に顰め面に変わった。
 また、あーとかうーとか躊躇ってから、ぼそっと小さな声で言う。
 「えーと…どこの国にも、貧乏人はいる」
 「…そうだな、それも一つの教訓だろう」
 「それから、そいつら専用の仕事とかあれば、飢えて死ぬこたねーのかなって」
 「…東国のシステムでは、そうなのだろうな」
 ネルスは、それが見習うべきところなのかどうか、という点については、言及を避けた。
 ミケーロはネルスが言葉を濁したことには気づかず、そのまま続けた。
 「でも、異国人で言葉が分かんねーとか、見かけが全然違う、とかなら別だけど、戦で負けたとかそんな理由なら、他の奴らと全然変わんねーんだから、いくら抜け出せねーっつっても、一度抜け出せたらばれねーと思う」
 「うぁん?」
 ショークスが怪訝そうな声を上げたので、ミケーロは不安そうにネルスを見たが、何も言ってくれないのでたどたどしくも自分の言葉で説明してみた。
 「つまり、えーと……その集落の人間は、みんな俺みたいに肌が黒くて髪が銀色、周りはみんな肌が白くて髪が黒い、とかだったら、抜け出して金持ちになろうとしても、絶対ばれるじゃん?でも、見かけが変わんねーんなら、ばれねーだろ?」
 「ばれると何かまずいのか?そこから出ちゃいけねぇのか?」
 「あいつらの国では駄目みたいだけどよー。でもおかしくねー?戦で負けた、なんて理由、そんなのたまたまじゃん?ひょっとしたら、相手がそっちに入ってたかもしんねーのに」
 ミケーロは膝を引き寄せてその上に自分の顎を乗せた。
 「おかしーよ。ぜってーおかしい。何で、そこで生まれたら、そこから抜け出せねーんだ?…おかしーっつーの」
 自分に言い聞かせているような呟きを聞いても、ネルスは黙っていた。
 沈黙が続いたので、ミケーロはちらりとネルスを見上げた。
 「なぁ、おかしーだろ?」
 「…俺が同意をしようがするまいが、何も変わらぬよ。お前自身が正しいと思ったことが正しい。…それとも、俺が、そんなことはない、当たり前のことだ、と言ったなら、お前はそれを信ずるのか?」
 「ややこしーんだよ、あんたの言葉は」
 ぶつぶつ言って、ミケーロは自分の前髪を引っ張った。
 「俺たちスラムの人間もさ、他の奴らと変わんねーのかな。俺だけじゃなく、みんな自分の名前も書けねーし、計算なんてできやしねーし、頭は悪いと思うけどよー」
 「…では、それが次の宿題だ」
 「げー」
 「…スラムの人間は、一般市民とどこが異なるのか。また、それは何故なのか。…自分の頭で考えることだ」
 ミケーロは何度か口の中でその言葉を繰り返した。
 てれっとした動作で立ち上がり、腰に手をかけ怠そうに言った。
 「分かったよ。考えりゃいーんだろ」
 「…それから、これも宿題だ。持っていけ」
 ネルスが差し出した薄い本を受け取って、ミケーロはぱらぱらとそれをめくった。今まで拾ったことのある本とは違って、大きな絵に大きな文字で描かれている。
 「…子供用の本だ。詰まることなく読み上げられるようになれば言え。他の本を渡す」
 「子供用かよ。…あんた、よくそんなもん持ってんなー」
 「…カースメーカーは言葉を操るからな…幼い頃から、言葉を教育されている」
 「あ、じゃあ、あれってお前の本かよ、可愛いじゃねぇか、この野郎」
 「…おかげさまで、物持ちが良くてな…」
 じゃれつき始めた二人に背を向けて、ミケーロは歩き始めた。他の奴らに見られないように、薄い本を小脇に挟む。
 「…あぁ、そうだ。一つ言い忘れていた」
 ネルスの声に振り向くと、陰鬱な顔のカースメーカーは、まっすぐミケーロを見つめて静かに告げた。
 「…スラムの人間が頭が悪いのかどうかは、俺は知らぬ。だが、お前の頭は上等な方だ。…一般人の中でもな」
 ミケーロの口がぱくぱくと動いた。
 だが、言葉にはせずに、ただ、本を軽く叩いた。
 「読んどく。だから、次の本も用意しといてくれよ」
 


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