下準備




 ネルスは、目の前の『余分な一人』をじろりと見た。
 豊満な肉体の錬金術師は、胸を反らして腰に手を当て、恐れげもなくカースメーカーを見つめ返した。
 「私もさ、ラブラブ二人旅を邪魔するのは気が引けるんだけどさ、しょうがないじゃない、レベルアップするにはこれが手っ取り早そうなんだから」
 「ラブラブじゃねぇよ!」
 「別にラブ未満でも良いけどさ、とにかくちゃっちゃとレベルアップしたらバイバイしたげるから、そんな目で睨まないでよ」
 ショークスに睨まれてネルスは目を逸らした。
 「ネルス、お前だって分かってっだろ?もしペイントレードで落とし損ねたら、錬金術師の大爆炎で一掃ってぇのは便利だって」
 <そもそも通じる場所に行けば良いではないか>
 「その通じる場所を探すにも便利だろうが。効率よくレベルアップ出来るよう、なるべくたくさん敵が出て、なおかつ一発で落とせる敵しか出ねぇとこ」
 <…急ぐものでもなし、二人でゆっくりレベルアップしていけばよいというのに…>
 「俺たちは二人きりじゃねぇの。ギルドに所属してんの。そのギルドのメインが頼んでんだから、協力すんのが筋だろうがよ。俺たちもギルドの金でいい装備買って貰ってんだしよ」
 <…分かってはいるが>
 「分かってんなら、文句言わねぇの。…てことで、どこ行くよ」
 面白そうにショークスとネルスを見ていたグレーテルが、考えるようでもなく指を立てた。
 「そりゃ7階でしょ?8階の清水に近いし、棘床あるし、敵は多いし」
 「リーダーにも勧められたけどよ。んじゃ、そこ行ってみるか」
 <…棘床か…>
 「あん?お前、よく行ってんじゃねぇの?どんなとこ?」
 <…行けば分かるが…お前には、行かせたくないな>
 「何じゃそりゃ。みんな行ってんだろ?」
 「痛いからね。…えーと、メディカの用意OKっと。んじゃ、行くわよ」
 さらりと言ってグレーテルが歩き出したので、ショークスもその隣に並ぶ。ふよふよとネルスが追い、二人が並ぶ背中に呪いの視線を送る。
 年齢差はあるが、美男美女の取り合わせに意識を閉じても嫉妬の波動が漏れてしまう。
 視線を感じたのか、ショークスがぽりぽりと首筋を掻いた。
 「あのよぉ、あんた錬金術師なんだし、後ろにいてくれよ。レベルはあんたが上だが、HPは俺らの方が高いし」
 「そぅお?ならそうさせて貰うけど」
 あっさり言って、グレーテルは歩調を緩めてネルスに並んだ。
 それはそれで、この女まで守るつもりか、とじりじりと胸が焼ける。
 横に立ったグレーテルが、面白そうに横目で見た。
 「あのさ、私はあんたたちにそういう興味は無いの。むしろ、二人がくっついたら面白いのにって応援してんのよ?」
 「面白いって何だよ」
 「あら、他人の恋愛ごとって面白いじゃない。ルークとアクシオンもくっついたみたいだし、リヒャルトとターベルもいい感じだし、次はあんたたちかな〜って」
 「タ、ターベルは、もうそこまで!?え?いつの間に!?お兄ちゃんは許しません!」
 「だぁいじょうぶよ〜。どっちも奥手だからすっごく穏やかな進展具合だし」
 「ターベルが…うぅ、ちゃんと彼氏が出来たらいいとは思ってたがよ、でも、実際他の男のもんになると思うと、何か複雑…」
 ショークスがぶつぶつぶつぶつ呟きながら、磁軸から出て密林を歩き出した。その背中を見ながら、ネルスは漏れないように考える。自分たちがくっつけばいい、という話題に対しての反応のなさはどう考えればいいのか、と。
 ネルスのこれまでの感情は、凪いだ水面であった…と自分では思っている。
 カースメーカーという一族らしく、感情の動きというものをとことん排除していたため、何かに対する欲求とか執着というものも大して無く、母の仇をとる、というのは、生きる目的でもあったが、もはやそれしかないのでそのために生きている、とでもいうが如き自然な自分の一部であった。
 それが、ショークスと出会ってからは、激しくさざめいてもはや波が立っているどころか嵐状態だ。
 感情が巻き込まれて、まるで普通の人間のように反応した結果。
 これまで感じたことの無かったものにまで悩まされることになった。
 欲求とか執着とか。…ぶっちゃけた話、欲情とか。
 自分にそんなものが備わっているとは思っていなかった分、どうしたらいいのか分からない。
 いや、カースメーカーとして、という意識に縛られて努めて抑圧していただけで、本来の自分には普通に雄としての欲望もあった、ということなのだろうが。
 ショークスの笑い声だの、困ったように顰める眉だの、ちらりと見える首筋だの、案外細い腰だの…何でもないはずのものに、いちいち激しい欲求を覚えて困惑する。
 単に溜まっているのか、とも思うが、隣に歩いている『一般的には極上の美女』には全く反応しないのだから、ただの鬱屈ではあるまい。
 だったら、やはりこれは「ショークスが欲しい」という一言に尽きるのだろうが…だからと言って、どうしたらいいのかはさっぱり分からない。
 触れたい、とは思うが、一度触れたら最後、何をしでかすか自分でも分からない。カースメーカーというものは、他人の意識に働きかけて操るものなのだ。ネルスが本当にその気になれば、ショークスを洗脳して好き放題した挙げ句に愛の言葉を囁かせることも可能だ。
 だが、そんなショークスなど、ショークスではない。
 それが分かっていながら、自分の欲求に負けて洗脳してしまうのではないかとの恐れから、触れることもできない。
 今の時点では、どうしようもない。
 いずれこの欲求も慣れれば薄れるだろう、と、二人で潜り続けていた。二人きりでいることに慣れ、欲しいということに慣れ、叶わぬ苦みを噛み締めることに慣れ。
 そうしているうちに、きっと憎悪や怨嗟と同じく、自分の身の一部となって抑制することが出来るだろう、と。
 だが、目の前に別の人間が出現すると…飼い慣らせると思ったものが凶暴な猛獣であったと思い知らされる。
 ショークスが誰のものでもないうちは、自分もただ見ているだけで済ませられるかもしれない。
 けれど。仮に他の誰かのものになると思えば…その前にさらってどこかに閉じこめて自分だけのものにしたくなる。
 自分の思うがままの言葉を吐くような人形が欲しい訳じゃ無いのは分かっているのに。
 きりり、と爪を立てた肩から血が滲む感触がする。もはや痛みすら心地よい。ほんの僅かとは言え、心の痛みから気が逸れるのだから。
 「んで、これが棘床か?」
 その言葉に顔を上げると、先頭のショークスが絡み合う蔦を前に立ち止まっているところだった。
 「そうよ〜。痛いんだけどね、この先に清水があるから、まずはそこでTP回復させた方がいいでしょ」
 そう。棘床は痛い。
 ネルスは慣れている。8階の清水を飲んで、それから棘床でHPをぎりぎりまで削るのがペイントレードの下準備だ。
 「うええええ。こんなとこ通んなきゃなんねぇのかよ…いてぇよ、これ」
 踏み込んだ足を切り裂いていく棘に、ショークスがうんざりした声を上げた。
 <…運んでやろうか?>
 「そっちこそ。お前、真っ裸にローブなんだろ?いてぇじゃねぇか、おんぶでもしてやろうか?」
 <不要だ。それよりお前こそ怪我をする必要性が無いのだから、俺が運んだ方が…>
 「必要性って何よ、んなもん、誰だって必要性なんざねぇだろ」
 「あ〜、ホントにラブラブね〜。それはいいけど、さっさと行きましょ。噛みつき草に絡まれるのイヤでしょ?」
 脚線美を露にした錬金術師がずかずかと棘床を突っ切っていく。どうせ治ると思って男らしいことだ。
 「おいっ、先行くなよ、あんたは後衛だろ!」
 ショークスが慌てて後を追う。下半身をざくざくと切り裂かれているのを眉を顰めて見ながら、ネルスも後を付いていった。
 棘床を抜け、8階に降りて癒しの清水に辿り着く。
 グレーテルとショークスは水を飲んで傷の具合を確かめている。
 「マジ治ってっけどよぉ、ここ通るたんびに服がぼろぼろじゃねぇか」
 「まぁね〜。だから、清水だけ狙いなら13階のを使うけどさ。でも、今回は7階に用事があるから」
 「って、またあそこを通るのかよ!結局また怪我すんじゃねぇか!」
 「だから、メディカ買って来てんじゃない」
 「もったいねぇえ!」
 仲の良さそうな会話を聞きながら、ネルスも清水を一口飲んだ。TPが枯渇しているので仕方が無い。
 速やかに清水の回復が全身に回るのを感じる。これまで傷つけてきた肉体が修復されていくのを感じて、ネルスは唇を歪めた。TP回復はいいが、またHPを削らなくてはならない。
 「お、ネルスも顔色良くなってるじゃねぇか。やっぱ元気な方が良いだろ?」
 <…そうでもない>
 HPを削って削って死ぬ直前にまで削って。
 その作業のおかげで敵を一撃で倒すことが出来て、ショークスが傷つかずに済むのなら、いっそ愉しいほどだ。
 ショークスは何度か瞬いて、よく分からない、という顔で首を傾げた。
 「えぇと、元気じゃねぇ方が嬉しいのか?マゾかよ。それとも、これ飲んでもすっきりしてねぇ、とか?」
 <心配せずとも、TPは回復した。ここを往復すれば、効率良く敵を倒せる>
 「…何か、隠してねぇ?」
 <隠す?何を?>
 出来れば、この作業を見られたくはなかったが…そうも言っていられない。今後この清水と上の棘床を利用する機会は増える。だとしたら、ショークスとだけ組んで来る機会も増えるのだから、そろそろ知っておかねばならないだろう。
 <ともかく、傷が癒えたのならば上に行くぞ。ペイントレードの下準備をせねばならん>
 「下準備っていつも言うけどよぉ、ようやく拝めんのかよ。秘密主義なんだからよ、まったく」
 ぶつぶつ言いながらショークスが扉を開ける。
 7階への階段に着く前に敵に出会ったが、グレーテルの大爆炎で吹き飛んだ。
 そうか、HPが満タン状態で敵に遭ったらまずいのだな、と改めて思ったが、ショークス以外の人間が一緒にいるのは気に食わないので、二人きりの時には自分もバトルメイスを使えばいいだろう、と思いこむことにしておいた。
 そうして7階に上がって、また棘床の通路を抜けて。
 「えーと、この辺に抜け道が…あったわ」
 ルークの地図の通り、奥へと抜ける小さな隙間が開いていた。
 そこを抜けると、一面の棘床だった。
 「…うわっちゃあ…ま、この付近は普通の地面だし、この辺りだけでウロウロしてりゃ…って何やってんだよ!」
 すぐ近くに見える棘床へとネルスは移動した。
 その鋭い棘が突き立っている場所めがけて倒れ込む。
 「ちょっ!ネルス!」
 自分の手が切り裂かれるのも厭わず、ショークスが腕を伸ばしてきたのを、ネルスは倒れたまま見上げた。
 <…ペイントレードの下準備、というのは、こういうことだ>
 ショークスの目が丸くなる。
 その間にも、ローブで掴んだ蔦で自分の体を傷つけていく。
 <ペイントレードとは、己の傷のイメージを、敵にも同じように感じさせることだ。傷ついていれば傷ついているだけ、敵へのダメージも多い>
 敵がショック死するほどの痛みを与える。それがカースメーカー最大の攻撃技。
 <心配するな。己の体のことは分かっている。ぎりぎりまで削るが、死ぬことはない>
 完全に癒えていた肉体がぼろぼろになっていく。
 ショークスが心配するだろうと露にした顔だけは傷つけなかったが、そこ以外の場所は切り傷で埋め尽くされている。
 出血では死なぬよう調整した傷は、浅いが全身に及んでいるため、通常の人間ならば発狂するほどの痛みを神経に伝えている。
 <心配するな。むしろ悦ばしいほどだから>
 陶然と見上げた先で、ショークスの顔が歪んだ。ゴーグルを下げ、口布で覆った顔なので分かり難いが、ネルスにはそれが怒りであることが分かった。
 「ばっかやろおおおおお!」
 掴んだ襟首を引き起こして、ショークスは絶叫した。
 「何勝手なこと言ってやがんだよ、こん畜生!んなこと一言も言ってくれなかったじゃねぇか!んなやり方だって知ってりゃあ絶対んなことやらせやしなかったのに!ふざけんな!何がペイントレードだ、何が痛みを感じないだ!自分の体傷つけておいて悦ばしいも糞もあるかってんだ!あんたも知ってたのかよ!」
 ほとんど息継ぎ無しに叫ばれたセリフの最後は自分に向けたものだと理解して、グレーテルは肩をすくめた。
 「えぇ。アクシオンから聞いてたから。だからここに来てるんじゃない」
 「あぁんの糞メディック!」
 もう一度吠えて、ショークスは慌ただしい動作で腰を探った。
 ネルスの襟首を掴んだまま、逆の手でアリアドネの糸の留め具を外す。
 「…ちょっと。私は置いてかれるわけ?…まあ帰還の術式あるからいいけどさ」
 目の前から消え失せた二人を見送って、グレーテルは溜息を吐きつつ術式の準備をした。


 <…ショークス、落ち着け>
 襟首を掴んだまま、ショークスは全速力で走ってギルドに帰っていた。周囲の人間の視線など感じているとも思えない。
 <ショークス。落ち着け、と言っている。俺なら自分で移動するから…>
 全く聞いている気配は無い。
 正直、ショークスが怒るだろうとは思っていた。真っ当な男な分、自らの体を傷つけるというようなカースメーカーの技とは相容れない。
 だが、ここまで頭に血が上るとは予想していなかった。せいぜい怒って自分を怒鳴るくらいだろう、と。
 まさか同行者を見捨ててギルドに怒鳴り込みに行くとまでは…怒鳴り込みに?…誰を相手に?
 <…ショークス?>
 ギルドの階段を駆け上がり、<ナイトメア>の部屋の扉を荒々しく開く。勢い余って跳ね返ってきた扉をがすっと蹴って、ショークスは中へと駆け込んだ。
 「糞メディックはいやがんのか!」
 いなければいいのに、とネルスはうっすら思ったが、すぐにその『糞メディック』がゆったりと歩いてきていた。
 「どうされましたか?リザレクションのご用命ですか?」
 襟首だけで引きずって(いや浮いてはいるのだが)来ているのを見れば、そう思うのも無理はないが、妙ににこやかなのを見るに、死んではないのを分かっていてわざと言っているらしかった。
 「てめぇ、ネルスのペイントレード下準備とやらを知ってたんだな!知ってて俺にゃあ言わなかったんだな、こん畜生!」
 「えぇ、まあ。本人が知られたくないようでしたので」
 あっさり頷くアクシオンに、ネルスの体が降ろされた。
 まずい、とローブを伸ばすが間に合わず、ショークスの拳が引かれ、思い切り殴る体勢になった。
 それでもアクシオンはにこにことそれを見守っていたが、拳がヒットする直前に間に人が入ってきたことで空気が一変した。
 その人物は辛うじて顔とショークスの拳の間に自分の手の平を挟んでいたために直撃は避けていたのだが、完全には勢いを殺せず吹き飛んで背後のアクシオンにぶつかった。いや、下手に拮抗しようとしなかった分、パンチの威力を巧く逸らしていたのだが…受け止めたアクシオンは悲鳴を上げた。
 「ルーク!」
 素早くキュアを調合して振り撒きつつ、息を荒げているショークスを睨み付ける。
 「…貴様…殺されたいのか?」
 もしも一般人がこの場にいたならば身動き取れなくなっただろう。それほどの色濃い殺気がアクシオンの小柄な体から噴き出した。
 だがそれに怯むことなくショークスがまた飛びかかろうとするのを、今度はネルスのローブが巻き取った。
 <ショークス!落ち着け!>
 「るせぇ!離せ、ネルス!」
 「…よくも、ルークに…」
 「まあまあまあまあ、アクシー、落ち着きなさいって!」
 あっちはあっちで、飛びかかろうとするアクシオンをルークが全力で抱き締めている。
 奥からクラウドが走ってきてネルスに巻かれたショークスをアクシオンから引き離しにかかった。
 「ショークス!何やってんだ、お前は!」
 「うるせぇよ!だって、あいつ、黙ってたんだぜ!ネルスのペイントレード、どんなことやるか、とか…し、下準備、とか、言っておいて…怪我…い、い、痛いのに…痛いのに…」
 ネルスはローブに念を込めながらも、何度か瞬いた。ショークスが言葉に詰まる、というのは珍しい。いつも何で考えもせずにこれだけ言葉が溢れ出してくるんだというくらい喋っている男なのに。
 アクシオンの方はルークが一人で押さえ込んでいる。体格差もあるし、単純にアクシオンはルーク相手に力尽くで振り払う気は無いというのもあるが。
 「アクシー、アクシー。落ち着きなさいって」
 「俺はね、狭量ですので!ルークを殴られて黙っているほど、人間出来てないんですよ!」
 「まあまあまあ。そもそもは、と言えばだなぁ、アクシーが避けようとしないから、俺が出しゃばったわけで。最初から素直に避けてくれれば、俺も殴られずに済んだんだけどな」
 「…俺が殴られる分には、問題ないと思ったもので…」
 「それは俺がイヤだって。仮にそうなってたら、今頃俺がショークス殴ってる。…とにかく。殴られたって言っても、ちゃんと手で受け止めたから痛くもないんだし、さらっと水に流しなさいって」
 「それは無理ですね。俺はルークに関することは、小指の先ほどの度量も持ち合わせておりませんので」
 などと言いつつも、ゆっくりと力を抜いて口調が落ち着いてきているのが分かった。何だかんだ言って、理性がかなり勝るタイプなのだ。
 それが分かっているのだろう、ルークも背後から羽交い締めにしていたのをくるりとひっくり返して正面から抱き留める形にした。
 抱き合っているラブラブ二人は、まあ良いとして。
 ネルスは巻き取っているショークスを探った。どうやら最初のような力はなくして、いきなり飛びかかることはなくなったとは思うのだが。
 「…ううううううう…」
 <…うう?>
 俯いて呻ったショークスが、ふと息を吸った。

  うわああああああああああん!

 何だ?と思わずネルスの拘束は弛んだが、ショークスは突っ立ったままの姿勢で叫んでいた。

  びええええええええええ!

 あまりの激しさに、ルークの胸に顔を埋めていたアクシオンまで振り返っている。
 「あ〜…やっちゃったか〜…」
 クラウドがショークスから手を離して、後頭部をぽりぽりと掻いた。そして、誰にともなく説明する。
 「うちのは喜怒哀楽が激しいだろ?泣く時も、この具合で、ま〜どこの3歳児だってくらい泣き喚くんだ」
 いい年した男が声も抑えず顔も隠さず突っ立ったままびゃあびゃあ泣いているのを見て肩をすくめ、呆然としているネルスの肩をぽんと叩いた。
 「悪いな。いったんこうなると、泣きやむまで放っておくしかない。下手にあやして泣き止ませると、却って後からしつこくぐすぐす泣くんで面倒臭いんだ。あんたもほっといて休んでくれ」
 <…休め、と言われても…>
 クラウドには聞こえないのも忘れて反論してしまってから、ネルスは改めてショークスを見た。
 <ゴ、ゴーグルに涙が溜まっているではないか…あぁ、鼻水が口布に付くではないか…>
 体を巻いていたローブを外し、ふよふよと動かしてゴーグルをずらしてやり、口布を下げてやる。
 それでもびゃあびゃあとショークスは泣き続けた。
 顔を真っ赤にして涙と鼻水を垂らしながらわんわんと泣き喚く男は、とても美形とは言えない代物だったが、それを放置するのはネルスにはどうにも出来なかった。
 <ショークス、落ち着け。泣きやめ。…くそ、どうしたらいいのだ>
 ローブをふよふよと漂わせながら、ネルスは真剣に考え込んだ。
 ペイントレードを使うための下準備が気に入らなかった。それは分かる。だが、だからと言って、ペイントレードを止める気は無い。これはカースメーカーにとって最大の攻撃技で、これが無くてはショークスを守ることなど出来ないのだ。
 <ショークス。分かった。これからは、お前が見ぬところで下準備をするから…>
  びゃあああああああ!
 <だから、泣きやめ。泣くのは止せ、と言っているんだ。ショークス>
  聞いているのか聞こえていないのかも分からないほどひたすら全身で泣いているショークスに、ネルスはおろおろと周囲を回った。
 ちらりと見ても、兄妹は諦めたような顔で話をしているし、もちろんルークやアクシオンが何かしてくれるとは思えない。
 泣き止ませるにはどうしたらいいんだ、とネルスはひたすらぐるぐると回った。
 口を覆えばいいのか?ローブで巻いていてもそれを通して叫ぶし、かと言って手は封じているので動かせないし…他にどうやって口を塞げば…。
 「……あ」
 アクシオンが、思わず、と言うように呟いた。
 「あらま」
 ルークも面白そうに呟き、アクシオンを抱く手に力を込めた。
 ぴたりと止まった号泣に、クラウドたちも振り返って、兄は「うぎゃおうえ!?」と意味不明の悲鳴を漏らし、妹たちは目をまん丸にした。

 口を口で塞がれたショークスは、完全に止まっていた。
 目を丸くしたまま、たっぷり1分ほど経過した後、呼吸が止まっていることに気づいたネルスが口を離すまで、固まっていた。
 <…ショークス?>
 へたり、と腰を抜かしたように床に座り込んだショークスは、まだ呆然と目を見開いていた。
 <ショークス。息をしろ。息を吸って、吐け>
 それでも止まっているショークスに、ネルスは顔を近づけた。
 <自分で呼吸しないと、俺がさせるぞ>
 だが、触れ合うほどに近い唇の感触で、ささやかながら呼吸していることに気づいて、ネルスは舌打ちして顔を離した。
 <何だか知らぬが、とにかくこんなところで座っていても仕方があるまい>
 ローブを巻き付けて引っ張ると、素直にぽとぽとと歩いていつもの部屋の隅までやってきた。
 改めて崩れ落ちるように腰を下ろし、呆然と膝を抱えている。
 その顔の前でローブをひらひらさせてみたが、見開いた目はそのままで、何の反応も無かった。
 ショークスの前に座って、ネルスは考え込んだ。
 これは、どう取ればいいのか。
 一般論として、先ほどの行為は接吻と称されるものだとは理解している。もちろん、キスしようとしたのではなく、ただ泣き止ませたかっただけではあるのだが。
 口づけて、怒り出したり気持ち悪いと罵られたりしなかっただけマシなのだろうか。それとも、完全に思考停止するほど拒絶しているのか。
 <ショークス?>
 「……あう……」
 辛うじて、声が漏れた。
 <あう、ではない。喘がれても困る>
 「あう」
 怒り出すだろうと故意に言ったのに、また弱々しく頷かれてしまった。
 「…あう〜〜〜」
 かと思うと、ショークスは頭を抱えて膝に顔を突っ伏した。
 <ショークス。その反応は何だ。そんな反応では、俺は期待するぞ。期待してまたキスしてしまってもいいのか。イヤならイヤとはっきり言え>
 ますます小さく丸まって、首がふるふると振られた。イヤ、という意味なのか、イヤとは言わない、という意味なのか。
 困った、とは思うが、先ほどのどうやって泣き止ませたら良いのか、と焦る時ほどでは無い。今はむしろ、くすぐったいような微妙な楽しささえ感じる。
 <…ショークス>
 ローブの端でふよふよと頭を撫でると。また「あう」と呻くような返事があった。


 「うー…何となく悔しいような気がします」
 「へ?何で?…まさか、ネルスにちょっと気があったとか!?」
 「まさか。えーと、何と言いますか…人が半年かけてようやく到達したところに、たった2週間で行き着きやがって、みたいな感じでしょうか」
 「…すみません、へたれで…」
 キスするのに半年以上かかった男は、微妙に目を逸らしながら謝った。
 「いえ、その半年を十分楽しませて頂きましたから、良いんですが」
 苦笑して、アクシオンはネルスとショークスを見比べた。
 「…ふむ、ルークを殴った代償は、ヘヴィストライクよりも、催淫剤を仕込む、とかの方が有効でしょうか」
 「…ほどほどにしといておやんなさい…」


 


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