慰撫




 磁軸から地上に帰ってきた5人は、とりあえずギルドに向かった。
 ルークとしては早くアクシオンを休ませたかったのだが、そのアクシオンが着替えを主張したのだ。確かに傷は治っているとはいえ血塗れの服でうろうろするのも目立つし、宿で入浴するのも辛そうなので、ギルドで体を拭いてから休みに行くことに同意した。
 大丈夫ですよ、と言うアクシオンを背負って歩いていると、行き交う人にじろじろ見られている気がした。
 「…恥ずかしいんですけどね…」
 ぶつぶつ言いながら、顔を埋めるようにしがみついてくるので、ルークはそっと背中を揺すった。
 「おんぶは恥ずかしい?」
 「背中に切り傷というのが。まるで逃げ損なったみたいじゃないですか」
 「そっちかい」
 確かにおんぶをしていると、アクシオンの背中に斬り傷があるのが丸分かりだ。いい歳した男が背負われているという状況よりも、敵に背中を見せたと思われる方が恥ずかしいと思うというのは、実にアクシオンらしいとくすくす笑うと、アクシオンも耳元で小さく笑った。
 「でも、後悔はしてませんよ。これはある意味、勲章ですから。間に合わずにルークを死なせてしまっていたら、もっと自分が恥ずかしい」
 至極満足そうな声に、ルークは一瞬足を止めて、また歩き出した。
 「…だったら、俺は史上最低に恥ずかしい男なんだな…惚れてる相手を死なせちまった」
 「俺が勝手にやったことですよ。それに…」
 溜息のような声が耳元をくすぐり、ぞわりとした感覚に肩を揺すった。
 「…宿屋には、ルークも泊まって下さい」
 「俺は別に怪我もしてないし…」
 「でも、泊まって下さい。さもないと、俺も泊まりません」
 「脅しか!」
 「そうです」
 あっさりと返事をされて、ルークはまっすぐ前を向いた。もうじきギルドに着く。
 怪我の一つもしていない自分が宿に泊まる、というのは非常に気が咎めるが、ふらふらなアクシオン一人を泊まらせるというのも、やはり落ち着かないのでアクシオンのためならしょうがないか、と自分を納得させる。
 かつてのようにまだ冗談半分だと思っていた頃ならともかく、男でも本気で好きだと自覚してしまった今、同じベッドで休むのは極力避けたいところではあったが、これだけ弱っている相手にどうこうできる根性が自分に備わっていないことも知っているので、まあ大丈夫だろう。
 「…まあ…しょうがないよな。アクシーがちゃんと休むところを確認しないと」
 「そうですよ。一緒に来なければ、抜け出してルークを探しに行きますからね」
 「だから、脅さなくても一緒に行くって」
 そうしてギルドに着いて、ルークとアクシオンは水場に直行した。もう肌寒い時期になっているので、井戸の水そのまま浴びるのは寒い。
 お湯を沸かしつつ、二人で着替えとタオルを取ってくる。ぬるま湯にしたたらいを横に、アクシオンはぶつぶつ言いながらぼろぼろになったケーシーを脱いでいった。
 「このサイズが施薬院に売っていればいいんですが。無かったらしばらく私服で白衣ですね」
 「別にそれでも良いじゃん」
 「全部白衣の方が気分が引き締まるんですよね」
 そうして現れた裸体は血まみれだった。眉を顰めたルークにアクシオンは笑いかける。
 「傷は残ってませんよ。痕だけです」
 「…本当に、大量出血だったんだよな…」
 「なかなかいい切れ味でしたよ。精製技術があるとは思えないんですが」
 あまり絞らずたっぷりと湯を拭くんだタオルで体を拭くと、すぐに真っ赤に染まった。
 何度も洗い流し、たらいの湯を換えて拭き取る。
 口は元気そうだがやはり立っているのが辛いのか、アクシオンはほとんど座ったまま体を拭いていた。
 髪も流してタオルで水分を吸い取って、新しい衣服に着替えたら、もう死んだとは思えないような姿になっていた。
 それでも。
 死なせたのは事実。
 それも、勝手に突っ走って、敵に無防備な姿を晒したルークを助けるために。
 ぎゅっと握り締めた拳をちらりと見て、アクシオンはルークのマントの裾を引いた。
 「ルークも着替えて下さい。俺の血が付いてますし。早く洗わないと落ちにくいんですよね、血って」
 「…いや、もう、早くアクシーを宿屋で寝かせたいからさ。俺のマントは濃い緑だから目立たないし、後でもいいや…って、ちょうどいい」
 様子を見に来たグレーテルに、アクシオンと自分の服の処理を頼んで、ルークはアクシオンに背中を向けて座った。
 「えーと、もう、おんぶでなくても良いんですが」
 そう言いながら立ち上がったアクシオンが眉を顰めてルークの肩に手を突いた。
 「おんぶと、腕を組んで行くのと、ルークとしてはどっちが恥ずかしくないですか?」
 「俺は別に恥ずかしくないし。何だったらお姫様抱っこでも…」
 「いえ、それはさすがに。…とりあえず、腕組みでお願いします。どうしても駄目だったらおんぶをお願いするかも知れませんが」
 アクシオンとしてはおんぶというのは矜持が傷つくのだろうか、とルークは立ち上がって手を腰に当てた。
 「はい、お手をどうぞ」
 「お手というか、腕というか」
 茶々を入れながら、アクシオンはルークの腕に自分の腕を絡めた。
 ほとんどしがみつくようにして歩く姿は恋人同士のようにも見えたが、どう見ても顔色が悪くて辛そうなので、あまり喜んでもいられない。
 間柄を知っている他の冒険者たちにからかわれたりしながら、ゆっくりと石畳を歩いていって、本当はそう遠くもない宿屋に辿り着いた。
 まだ日が高い時刻であったので、受付の糸目は暇そうだった。
 「これはようこそ。御久しぶりです」
 「一泊。風呂はいらない、メシは…」
 「後で考えます。今は全く欲しくないですね」
 「特別料理を作って、お部屋にお届けすることも出来ますが?」
 さすがに糸目も冒険者相手のプロ、一目でアクシオンの調子が悪いのが分かったらしい。それでも特別サービスを売り込むところが、プロ中のプロである。
 「後で考えますって…あぁ、そうそう、冷たい水を水差しに一杯とコップを部屋にお願いしたいですね」
 「スイートなら、そのくらいはサービスで付いてきますが、お部屋はどのランクで?」
 「なら、スイートで」
 「おい」
 突っ込んではみたが、どうせ一つベッドで休むのなら、ダブルもスイートも一緒のような気がしてきた。聞けばスイートには簡単な水場も付いているというし、こんな時くらい贅沢をしてもいいだろう。
 結局スイートに決めたので、糸目の心からの笑顔で鍵を渡された。
 「水差しは、まもなくお持ちいたします」
 案内のメイド(そんなものが付いたのは初めてだ)が、一礼してから部屋の扉をしめた。
 その部屋には、二人掛け用のソファとテーブル、それにコートや武器を掛けるための木の形をしたポールが立っていた。どうやら、ベッドはもう一つ奥の部屋らしい。活けられた花からほのかに香りが流れ出している。とても冒険者向きの宿とは思えない。
 ルークはマントを脱いでその辺に引っかけた。アクシオンも柔らかい緑色のセーターを脱いでシャツになった。
 くつろげる姿になっていると、メイドが重そうな銀の水差しと繊細にカットされたグラスを2つ持ってきた。銀の表面に水滴が浮いているところをみるに、ただの水ではなく氷入りらしい。さすがはスイートだ。
 優雅に礼をして出ていったメイドを見送って、扉に鍵をかける。
 「さて、と。アクシー、水飲む?」
 「いいえ、飲むのはルークです」
 「俺?」
 「えぇ。とにかく一杯飲んで、それから水場に行って」
 何のことだ?と思いつつ、ルークは言われた通り水を一杯飲んで、水場に向かった。
 陶器で出来ているらしい洗面台があり、横の壷には綺麗な水がたたえられていた。水草だのコケだのが無いところを見るに、どうやら毎日取り替えているものらしい。
 アクシオンが背後から近づいて、静かに言った。
 「吐いて下さい」
 「は?いや、いきなり吐けって言われても」
 「吐けるでしょう?…吐きたい気分のはずです」
 そんなこと言われてもなぁ、と陶器の洗面を見つめる。クリーム色のそれにはヒビ一つ無く、これを傷つけたらいくら取られるんだろう、とぼんやりと思った。
 冷たい手が首筋に触れた。
 「アクシー?」
 「失礼」
 頭を下げろ、と言われているようなので、素直に手の力に従って少し身を屈める。
 もう片方の手が、ルークの口に延びてきた。
 冷たい指が唇を割って忍び込み、ぐいっと舌の奥を押した。
 「…ちょっ…!」
 慌てて細い指を掴んで己の口から引き出す。無理矢理吐かせようって何だ、俺はいつの間にか毒でも飲んだのか、と振り返ると、アクシオンが苦悩に眉間を寄せた顔で呟いた。
 「…すみません。俺のミスです」
 「は?」
 「俺にとっては、モリビトってのは<マンドラゴラのでかいの>くらいの認識でしかありません。だから、叩き潰そうが全く痛痒は感じません。…己がそうだからと言って、ルークがどんな風に感じているのかに全く思い至らなかったのは、メディックとしての俺のミスです」
 アクシオンが気にすることではない、と言いたかった。
 だが、アクシオンの言葉で、一気に記憶が蘇った。
 まるで人間の少女のような姿。
 言葉が通じ、衣服をまとって武器を持った社会性のある集団。
 一瞬で消し炭になり砕け散る体。
 知性のある瞳。
 額に、深々と突き刺さる、矢。
 虚ろになり、光を失う、瞳。
 不意に。
 口の中に酸っぱいものがこみ上げた。
 身を捻って、陶器の洗面を掴む。
 げほ、と咳き込む。
 どろりとした黄色の粘液が胃の腑から逆流した。
 その臭いに刺激されてまた吐く。
 背中をさする手がいなくなったかと思うと、また足音がした。
 洗面にはぁはぁと息を吐いていると、水が差し出されたのでグラスを掴み、一気に飲む。そしてまた吐くと、グラスが差し出される。
 そうして、すっかり喉を灼く感覚が無くなり、ただの水が逆流するようになって、ようやく落ち着いた。
 最後にグラスの水でしっかりうがいをする。
 タオルが差し出され、それで額を拭っていると、濡らしたタオルで髪の毛を拭かれた。どうやら吐物が付いていたらしい。
 今更格好を付けてもしょうがないが、それでも今まで見せてきた中でも最高峰にみっともない姿だったよなぁ、と滅入ってタオルに顔を埋めていると、腕が引っ張られた。
 素直に従って歩くと、奥の部屋のやたらでかいサイズのベッドに座らされた。
 「…すみません」
 まだ苦しそうな表情で、アクシオンがルークの顔を拭いた。
 それでも微かに酸性臭がしたので、着ていたシャツを脱いで足下に落とした。
 はぁ、と溜息を吐くと、冷たい手がルークの頬を撫でた。
 「すみません」
 もう一度、アクシオンが呟いた。
 「何でアクシーが謝るんだ?」
 迷惑をかけているのは、ルークの方なのに。
 「すみません、こういうやり方しか、出来なくて」
 アクシオンも溜息を吐いて、ルークの隣に腰掛けた。そういえば、そもそもはアクシオンの方が弱っていたはずなのだ。
 もう一度溜息を吐いてから、アクシオンは後ろに倒れた。
 高級なベッドは軋みもせず、ただ柔らかく体が沈んだ。
 横目で窺っていると、アクシオンはルークの方は見ず天井を見つめて呟いた。
 「ルークは優しいから、あんな人型植物にも心を砕くんですよね。…俺はむしろ、あれを本気で潰したくてなりませんが。ルークの心を傷つけた、それだけで殲滅に値する」
 いつもよりも低い、呻くような言葉には呪詛にも似た暗い熱意がこもっていた。
 「アクシーは、情熱的だなぁ」
 「狂的だと指摘して頂いても結構です。…自覚はあります」
 「でも…俺も殺せるよ、うん」
 「え?」
 アクシオンが瞬いた。信じられない、という顔で起き上がる。
 その目をまっすぐ見つめて、ルークは静かに告げた。
 「確かにあれは人間の女の子に見えるし、知性もあって話し合いが出来る種族に見えるけど。…でも、殺せる。実際、殺したし」
 ルークは自分の手のひらを見つめた。血の痕は残っていないし、矢で射殺したのだからそもそも付きようも無いのだけれど。
 「殺さなければこっちが殺される、とか、そういうんじゃなく。俺は、俺の意志で殺した。たぶん、これからも、殺せる」
 アクシオンはまだ驚いたような顔でルークの顔を覗き込んだ。冷たい手がルークの手に触れる。
 「ルーク?」
 「殺せるよ」
 「ルーク」
 「あいつらは、アクシーを殺した。俺も戦わなくちゃ、アクシーが傷つく。だから、俺は、戦う」
 もう、交渉できるんじゃないか、なんて甘いことを考えて、アクシオンを危険な目に遭わせたりはしない。
 アクシオンの表情は、何だか痛そうだった。何かに苦しんでいるように目を落とす。
 「…すみません」
 「俺が決めたことだから。アクシーが謝ることじゃない」
 「では、今、俺が何を考えているか、分かりますか?」
 「アクシーが?」
 アクシオンは目を伏せていて、更には口元を手で覆っていて表情が見えない。
 「そうだなぁ…このへたれが、とか」
 自分がリーダーとしては、かなり頼りにならない部類だとは分かっている。冒険者としても、一人の男としても、優柔不断でへたれているのだ。
 ルークは誰も傷つけたくないと思っていて、それは自分が優しいからなのだろうと心のどこかで自惚れていた。
 けれど、違った。
 傷つけるどころか、アクシオンを死なせる羽目になって初めて、自分のそれは『誰も傷つけたくない』ではなく『自分が傷つきたくないがために、うまく立ち回ろうとしている』だけなのだと気づいてしまった。
 どうしようもない男だな、と思う。
 世の中、誰も傷つかずに過ごしていけるはずがないのに。ましてや、冒険者なんてものをやっていて。
 「違いますよ」
 くす、とアクシオンの口を覆った手の下から、かすかな笑いが漏れた。
 「俺はね、喜んでいるんです。ルークが、あの優しいルークが、俺のために主義を変えてくれる、という一点でね。…俺は、そういう人間なんです。だから、すみません、と謝ってます」
 上げられた顔は、どこか泣き出しそうな、それでいて口元は確かに笑っていた。
 「本当に、すみません。ルークが好きになった<可愛いアクシオン>は、こういう人間じゃないと分かっているんですが。こんな性格ですみませんねぇ」
 眉間に皺を寄せながら笑うアクシオンを抱き寄せる。
 肩に触れた顔は、まだ冷たかったが、背中は温かかった。
 手のひらでアクシオンの髪を撫でながら、呟く。
 「えーと。俺もすみませんて言わなくちゃならないんだけどさ。…その〜…ごめん、好き、なのは…」
 「年下で可愛い性格の女の子でしょう?」
 「や、それがその………」
 ひょっとしたら、告げたら逃げられてしまうかもしれないけれど。
 「その…男でも、好きなんだけど」
 数秒の沈黙が重い。
 アクシオンは抱き寄せられたまま、身動き一つせずに呟いた。
 「…そう、なんですか?」
 その心底疑わしそうな声に、思うまま続ける。
 「うん。いや、もちろん、男の方が好きってんじゃないんだけど、アクシオンそのものが好きだから、女の子だろうが、男だろうが、どっちでもいいって言うか。…いろいろ気を配るとこも好きだし、かと思うとすっげ無神経なところも好きだし、心配そうに怪我を治すところも好きだし、嬉々として敵を殴り倒すところも好きだし。アクシオンなら何でも好きって言うか。何つーか、自分でも信じられないくらい、好きになってんだけど」
 また数秒の沈黙があった。
 もしも本気で嫌われたらどうしよう。アクシオン無しでは樹海になんぞ行けそうにもないし、<ナイトメア>は解散だろうか。もちろん、メディック云々を抜いても、アクシオンがいないギルドには、ルークもいる必要性が無いのだが。
 「俺は、男ですよ?顔は、ひょっとしたら女の子に見えるのかも知れませんが、肉体的には完全に男だと分かってますか?」
 「うん、知ってる。一緒に風呂も入ったし、こうしてると、やっぱ骨格が男だなぁ、と思うし」
 アクシオンが、肩に押しつけていた顔を上げた。怒っているだとか嫌悪だとかでは無かったが、嬉しそうでもなくひたすら不審そうだった。
 「だったら…俺は、ルークを慰めることが出来るんでしょうかね?」
 「…はい?」
 ちょっと思いもかけない単語だったので、ルークは激しく瞬いた。
 慰めるって、何だ。
 確かにモリビトを殺してしまって、落ち込んだりもしたけれど、一応自分の中では決着がついた…と、たぶんは思っているのに。
 問いかけるような視線で見下ろすと、間近でアクシオンは至極真面目な顔で解説した。
 「ルークは、かなりのストレスを受けましたよね?それで、その身内に溜まったストレスを解消させてあげたいのですが、仮に俺が本当に女の子だった場合、お相手するのが一番手っ取り早いのに、男なものですから俺にはそれが出来ない。で、胃の内容物を吐かせる、という直接的な手段しかとれなくて申し訳ないと思っていたのですが」
 非常に理論的な言葉の内容を噛み砕く。
 噛み砕いて消化しようとした結果、ひょっとして間違ったものを口にしたんじゃないか、という疑惑に駆られた。
 アクシオンの顔は、ひたすら真面目だし。
 「えー…つまり、その〜…お相手、というのは…」
 「性交ですが」
 「や、やっぱり?って言うか、真面目な顔でそんなこと言うな〜!」
 「お相手、と婉曲に言ったら、言葉の意味を確認したのはルークです」
 「そりゃそうなんだけど〜!」
 アクシオンの顔を見ていられなくて、またぎゅうぎゅうと抱き締める。
 性交のお相手。
 脳味噌がパンクしそうだ。
 というか、別の場所が暴走しそうだ。
 沈静の奇想曲を2〜3フレーズ口ずさんで、ルークはぜいぜいと息を整えた。
 「いや、あのね、アクシー。慰めだとか、そういう理由で体を使おうとか思うものじゃありません」
 「だって、他に俺に何が出来ます?俺はね、ルークが苦しんでるところは見たくないんです。俺に考えられたのは、その原因であるモリビトを殲滅してくるか、ルークの本能を解放させることしか思いつかなかったんだからしょうがないじゃないですか!しかも、女の子だったら、それが楽に出来るのにって、もう、悔しいやら情けないやら!」
 ぼふぅっと音がした。どうやら全力で殴ったが、柔らかなベッドはその衝撃を吸収したらしい。
 「い、いや、そのアクシー…」
 「でも!俺が男でも好きってことは、俺が相手でも問題ないってことですよね?…俺が男でも好きって言っておきながら、性交は出来ない、とか言ったら、口先だけと判断して殴りますよ?いいですか!?」
 「いや、ちょっと待って下さい、アクシオンさん!」
 うひー!とルークは抱き締めたアクシオンの体を見下ろした。僅かに緩めた腕の間から、アクシオンが爛々と光る目で睨め上げていた。どう見ても殴る気満々の戦闘態勢。
 いや、それが問題なのじゃなく。
 「えーと。あのですね、アクシオンさん。肝心なところ、聞いてもいいですかー」
 「何ですか!」
 実はアクシオンもかなりテンパっているのか、いちいち叫ぶような返答だ。
 「いや、だから、その。…アクシーも、俺のことが好き、と。そう取っていいのかな?」
 メディックとして、癒しを与えたいとかそういうのじゃなく。
 アクシオンは目をぱちくりとして、それから、へにょりと情けない顔で笑った。
 「…まさか、本気で気づいてなかったんですか?」
 「いや、うっすらと好かれてるだろうな〜とは思ってたけど、あくまで友情というか仲間というか…」
 「俺は、ですね。自慢じゃないですが、他人を意識したことが無かったもので、好意の境界線が分からないんですよ。だから、いつから仲間としてではなくなったのか、とかそういうことは分かりませんが、ともかく、現在はルークが好きで好きで大好きで、俺のものにならないのなら殺す!…というところまで思い詰めてますが」
 どことなく他人事のように淡々と言われたが、内容はかなり凄い。
 ルークは、改めて腕の中の想い人を見つめた。
 好意は感じ取っていた。
 けれど、自分に都合の良いように解釈してはいけない、と自戒していたのだ。
 そりゃまあ、一般的に言えば、自分が死ぬのも厭わないで庇ってくれたりしてるわけで、かなり好意的だとは思うのだが、それでもひょっとしたらあくまで<仲間>としてなのかもしれない、とも考えられるわけで。
 でも。
 「えーと、一応確認させていただきますが。…俺を抱きたい、とか、そういうことは言わない…よな?言われたら困るよ?」
 「すみません、正直、同性における性交の知識はありますが、全く現実味は無い、というところなので…ルークが好きで、俺のものにしたい、というのは確かなのですが、現実問題として抱きたいとか抱かれたいとかそういう気持ちがあるか、と言われると、考えたことは無い、という結論に」
 「…おい」
 勢いだけはあるが、実際にはあまり考えていなかったと見える。
 ちょっと待て、『俺のことを好き』なのは結構だが、本気で手を出したら「こんなことをするとは思わなかった」とか言ったりしないだろうな、とルークは頭を抱えた。
 ルークも現実問題としては、男同士での知識はあるが実践の欠片もしていないのは確かだが、それでも正直シミュレーションは済ませている。ぶっちゃけ、妄想、というものだが。
 「よく、その状態で、俺のストレス解消のために性交を、とか言えるな〜」
 「…いけませんか?知識はあるんだから、やろうと思えば何とかなるんじゃないかと踏んでたんですが」
 アクシオンのきょとんとした顔を見ていると、何だか笑えてきた。
 そんな状況では無い、とは分かっているのに。
 可愛い顔して中身は激しい、でも理論が先に立っていて実際の知識には疎いメディックが、心から愛しいと思う。
 「あ〜もう可愛いなぁ、アクシーは」
 ぎゅむぎゅむと抱きしめると、何となく馬鹿にされている気になったのか、アクシオンがむぅと不満そうな声を漏らした。
 「あ〜もう、こんな可愛い子が俺のものかと思うと、もう、どうしようってな感じ」
 抱き締めたまま、ベッドに押し倒しても、嫌がられはしなかった。そのままぎゅうぎゅう抱き締めて額にキスすると、不満そうな顔で見上げてきた。
 「何で、口じゃなくおでこなんですか」
 「吐いた後だから」
 「しっかりうがいしてたじゃないですか」
 「でも、やっぱ、アクシーにとって、俺との初めてのキスが、胃液の味だったりすると、俺的に一生の不覚と言うか何と言うか。ただでさえ、俺のアクシーとの初めてのキスの味が血とネクタルの味だったりするしなー」
 微妙に、空気が冷えた。
 「念のため、おうかがいしておきますが」
 冷ややかな声に、何かが縮む。
 「あ〜その〜…ごめん、今日、蘇生させるのに口移しでネクタル飲ませたから、それがアクシーとの初めての…」
 無許可でキスしたのはまずかっただろうか、と背筋を冷やしながら曖昧に笑うと、やはり底冷えのする淡々とした声でアクシオンは遮った。
 「問題は、口移しではなく。…その、いちいち、『アクシオンとの初めての』というのは何故なのか、聞かせて頂きましょうか。…つまり、俺とは別に、キスはしている、と。そう仰るわけですね?」
 「い、いえ、俺もさすがに24歳でして、その…さすがに、人生初ではなく、ですね…」
 「…俺は初めてなのに。…両親を除いて、ですが」
 「す…すみません…」
 だーらだーらと背筋に汗が流れる。
 微妙に悔しそうに睨み付けていたアクシオンが、ふと溜息を吐いた。
 「そりゃ、俺が出会う前のことにまでどうこう言ってもしょうがないんですが。…俺、どうも独占欲が強いみたいです」
 「えーと、なら、これから先は絶対アクシオン以外とは何もしませんって誓うんで、許して貰えませんでしょうか…」
 「許すも何も、過去のことはしょうがないでしょう。もちろん、これから先、心変わりでもしようものなら…」
 「しようものなら?」
 「アルカナワンドが血に濡れることになります」
 「うわお」
 くすくすと笑って、ルークはアクシオンの瞼に口づけた。
 脅されているのに、ひたすら可愛いなぁとしか思えない自分の頭も、たいがい春めいている。
 「俺は、そういう人間ですが。本当に、それでも良いんですか?」
 「そういうアクシオンが大好きだ」
 間髪入れずに答えると、アクシオンがほっとしたように笑った。
 ルークの意見など聞いてもいないようだったが、一応、気が引けていたらしい。
 シャツの背中を掴んでいたアクシオンの手が動いて、ルークの頭を撫でた。
 ちょっと首を傾げてルークを見上げ、真面目な顔で聞く。
 「では、しますか?」
 「しません」
 何を、とは聞かずに、やはり間髪入れずに答えたルークに、アクシオンの目が炯々と光った。怒鳴ろうとしているらしい唇に指を当て、ルークはアクシオンの目を見つめながら静かに言った。
 「忘れちゃいけない。アクシーは、今日死にかけて…というか、死んで、出血多量で貧血状態なの。そんな時にするもんじゃない」
 「妙な時だけ理屈を言わないで下さい」
 「だって、これでアクシーがぶっ倒れでもしたら、一生悔やむよ、俺。これから先、する度に、『あ〜、初めての時は死にかけのアクシーに無体なことしちゃったな〜』って思い出すよ。それはちょっと勘弁して欲しいっていうか」
 ただでさえ、初めてのキスがネクタルと血の味なのに。
 「ロマンティストでごめんなー。でも、ホント、大事にしたいって言うかさー」
 「する度…ですか」
 アクシオンは、虚を突かれたように繰り返した。
 一瞬、イヤな予感がした。
 「…おい。まさか、するならこれっきりだとか思ってた?」
 「……いえ、全然考えてませんでした。…そうですよね、恋人になったら、複数回するものですよねぇ…」
 しみじみと頷いているアクシオンの胸に突っ伏す。
 やはり、勢いだけで、あまり今後のことだとか恋人状態だとどうなるかだとかは考えていなかったらしい。
 「というか、恋人、というものになるんですよねぇ…うわぁ、全然考えてなかった」
 は?と顔を上げてアクシオンを見ると、目が逸らされた。
 非常に今更ながら照れているらしく、うっすら赤い顔でぶつぶつと呟いている。
 「そりゃまあ、俺はいつもルークと一緒にいるし、普段と何も変わらないと言えば変わらないんですが、でも恋人なんですよね、契約状態なんですよね、ルークが他の女の人と飲んでたら邪魔しても良いんですよね、でもって、何度も性交する可能性が…ってうわああ…」
 アクシオンは両手で顔を覆った。隙間から見える肌は、ほんのりピンクだが、貧血なのを考慮に入れたら、真っ赤、と言っても良い状態だ。
 「大丈夫か?今更、そこまで考えてませんでした、これからも良いお友達でって言われても、俺は困るよ…っつーか、アクシオンが元気になり次第、イヤだっつってもやっちゃうよ?」
 「うわああああああ……ちょ、ちょっと待って下さいね……何というか、こう、力尽くでもルークを俺のものにしたいとは思ってましたが、殺すまでもなくルークが俺を好きだと言ってくれるという事態は想定して無くて…恋人になる、だとか、お互いあ、あ、あ、あああああ愛し合っている、という理由で普通の状態で性交するという事態は全くの想定外で、どうしたらいいのかぁああ…」
 顔を覆ったまま、ころんころんと左右に転げている。
 意外な姿だ。
 まあ、考えてみれば、時々激しいとはいえ基本的にアクシオンは理性が勝っているタイプなのだ。こういう理性ではなく本能が優位なイベントには対応しきれないのも無理はない。
 …というか、何故ラブラブな未来ではなく壊れ系の実力行使しか想定していなかったのか、問い詰めてみたい気もする。これだけ、ルークの方から一目惚れして、一方的にラブコールを送っていたというのに。全く本気には取っていなかったのだろうか。
 「まあ、俺としてもね、このモリビト騒ぎの決着が付いてからゆっくりと、って方が良いんだけどさ。慰めだとかそういうんじゃなく、もっとこう前向きな気持ちでしたいって言うかさ〜。男同士だから非生産的な行為ではあるんだけどさぁ」
 「…で、ですか」
 ころん、と横向きになって体を丸めて、アクシオンは相づちを打った。
 あまり長い間お預けされるのも困るが、滅入った気分で傷を舐め合うような行為になるのはもっとイヤだ、とルークはとりあえずの提案をしてみた。
 「迷宮の謎を全て解いた時か…いや、それだと100階とかあると困るな。まあ、とにかく、そんな感じで前向きな一区切りの時にでも、是非」
 「…ですか。…ですね、俺としても、もうちょっと心の準備をしておく必要を感じました…不甲斐ない」
 はぁ、と溜息を吐いて、アクシオンはようやく上を向いた。こめかみを揉みながら、うぅと唸る。
 「で、不甲斐ない俺は、知識はあるけど、どうしたらいいのか分からないんですが。…とりあえず、ご希望は?」
 「へ?いや、だから、いずれ…」
 「いずれではなく、とりあえず、たった今の、これ、をどうしましょうか、と」
 アクシオンが困ったように首を傾げつつ、躊躇いがちにルークの後頭部を撫でていた手を外した。そして、それが下がって。
 「…ごめん、押しつけてたわ」
 アクシオンも男なので、下半身に押しつけられているものがどういう状態なのかは理解しているのだろう。
 しかし、男なら、どうしましょうもこうしましょうも分かっているとは思うのだが…それの応用が利かないところが、頭でっかちな理論派なのだろう。
 「とりあえずの、俺の希望は。アクシーが大人しく寝て、目が覚めたときには元気になってることです、はい」
 ちょっと不満そうに寄せられた眉間にキスをする。
 「もっと顔色も良くなって、ちゃんと元気なんだって見せてくれるのが一番嬉しい。アクシーが死ぬかもしれないって考えるのが、一番辛いんだから」
 「…すみません」
 素直に聞き入れるところを見るに、自分の体調が分かっているのだろう。
 出血多量で土気色の顔をして、呼吸も脈拍も早いのだ。出来ればその脈拍の早さは、恋人同士になったドキドキだと解釈したいところだが、メディックではないにせよルークもそれなりに死にかけだとか回復状態がどんななのかだとかを知っている。どう考えても、血が足りない分を脈拍で補っている状態だろう。
 「俺のこれに関しては、沈静の奇想曲でもセルフで歌って、血液にお帰り頂くから気にしなくていいから。あぁ、もう、無駄に集まった血液をアクシーにあげられればいいのに…」
 言いつつ、激しくエロい気がしてルークは腰を離しつつアクシオンの胸に突っ伏した。こういう場合に限っては、無駄に知識があって想像力の豊かな己のバード根性が憎い。
 「輸血なんてして頂かなくても、一晩眠ればすっきりしてますよ」
 メディック的解釈をしてくれてありがとう。
 ルークはさりげなく離れつつ、アクシオンを転がしてベッドの中央に寝させた。
 「ルークは?」
 「まだ眠くはないけど、シャツ洗って用事済ませたら添い寝に来るよ」
 「寒いのでよろしくお願いします」
 アクシオンは基本寒がりではないので、おそらく血が足りないため冷えているのだろう。そう思うとひやりとして、ルークはこくこくと頷いた。
 そうして、言ったとおりにシャツを洗って干し、もちろんその前に他の処理もしてから、ルークは自分の髪や下着を嗅いでみた。よし、もう臭くない…と思う。
 ベッドに戻ってきた時には、アクシオンは眠っているようだった。
 土気色の寝顔を見ながら、しみじみと思う。
 男同士で、本気で好きだと言ったらてっきり逃げられるかと思っていた相手が、実は自分のことを好きだった。こんな幸せがあっていいものだろうか。
 今、手出しをするのは鬼畜だと思うので我慢するが、いずれは自分のものにしてもいい、と許可も貰った…ような気がする。そういえばはっきりOKと言われてはいないような気もしたが、まあ言ったということにしておこう。
 いずれ。
 ってことは、現在は婚約状態か。
 それはそれで凄いなぁ。
 何が凄いのかはよく分からないが、とにかく自分にそんな甲斐性があるとは思っていなかったので、恋人が出来る、という状況すら驚きだ。いったい、アクシオンは自分のどこに惚れたというのだろう、と思う。
 まあ、ゆっくり聞けばいいか、とルークは眠っている恋人の頬を撫でた。
 それがひどく冷たかったので、慌てて自分も布団に潜り込んだ。
 起こさないように、そぅっとそぅっと手をアクシオンの首の下から潜らせ、自分の胸に抱え込むように抱き寄せた。
 早く元通りの元気なアクシオンになってくれますように。
 ひたすらアクシオンを暖めて、ぼんやりとしていると、ふと、そういえば今日はモリビトを殺したのだった、と思い出した。
 何だか遠い過去のように思えるそれは、ほんの十数時間前の出来事。
 あれだけショックだったはずのそれは、今、頭の片隅に追いやられ代わりに占めているのはアクシオンのことだけ。
 まさか、それすらメディックの手管じゃないだろうな、と眉を寄せる。さすがに流れ的にそれは無いだろうが。
 明日の朝、アクシオンが元気に目覚めたら…また18階に行くのだろうか。行かない理由は無い。執政院の思うがままになる必要も無いが、探索を止める理由も無いのだから。
 俺は、殺せるだろうか。
 あの時は、確かに明らかな殺意を持ってモリビトを殺した。だから殺せると思っているが…あの時は、アクシオンの死、という脳が麻痺するような状況下だ。
 慰めのため、だとか、自分のものにするため、だとかの理由がなければ肉体関係にまで踏み込む勇気のないアクシオンと同様に、ルークもまた、アクシオンのため、という理由が無ければ、モリビトを殺す勇気も出ないかもしれない。もちろん、そのまま動かなければアクシオンが怪我をする、と思えば、たぶん殺せるだろうが…。そう言う意味では、少し似ているのかも知れない。対象が違いすぎるが。
 俺に、人間の少女に見える存在を大勢殺した手で、アクシオンを抱く勇気があるだろうか。
 アクシオンの方は全く気にしていないのだから、アクシオンがこの手を厭うことはあり得ないが…それでも、問題はルーク自身の心だ。
 逃げたいなぁ、と、ふと思う。
 こんなことは放り出してしまって、アクシオンと二人で旅に出るのだ。いったん故郷に帰って、母に俺の嫁(男)を紹介してもいい。
 ヒトを殺すことなく、ただのらりくらりと旅が出来たら。
 あぁ、それは、何と甘美な誘惑だろう。



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