ペイントレード




 本パーティーが探索に出たかと思えばすぐに帰ってきて、何やら石版貸し出しの交渉に向かうというので、ネルスはその間に『ペイントレードの下準備』をすることにした。
 7階の棘床まで連れていき、ネルスが自分の体を傷つけているのを平然と眺めながら、アクシオンは淡々と言った。
 「ショークスに知られたく無いんですか?でも、知っておいた方が良いと思いますけどね。1階の蝶だのネズミ如きだのにすら、一撃でも掠ったらもう死ぬような体力にまで削っているってことは、言っておかないと危険だと思いますが」
 ネルスはアクシオンを振り返りもせずにこちらも淡々と己の体に傷を付けている。アクシオンも返事は期待していなかった。どのみち、返答されてもアクシオンには聞こえないし。
 アクシオンにペイントレードの原理は分からないが、HPを削った分だけ敵に与えるダメージが大きい、というのは理解したので、自傷行為そのものを止める気は無い。
 ただ、この行為をショークスに知られないように行動しているネルスの感情が全く理解できないだけだ。
 それにしても、面倒な下準備だ。これさえなければ、二人で泉周辺にでも行って鍛錬させるのに、癒しの清水はHPまで強制的に回復する。いちいち棘床で痛い目をするか、アムリタで回復するか、1階の夜清水に頼るか、しか無い。
 今はおそらく2層の敵にしか通用しないような威力だろうから、1階の清水付近で頑張って貰えば良いのだが…それ以降は面倒なことになりそうだ。
 まだ先の話だから、それはその時考えればいいのだが。
 己の体だから分かる、ぎりぎりまでHPを削っておいて、ネルスはアクシオンに近づいた。
 「完了ですか?では、糸で帰ります」
 敵に遭うと面倒なので、アイテムを使用して地上に帰る。
 そうしてアクシオンは17階に向かうべくルークたちに合流し、ネルスとショークスは二人で1階奥に挑むことになった。

 迷宮の入り口で退屈そうに待っていたショークスが、ネルスの姿を見て目を輝かせる。
 「終わったか?もう行けんだな?」
 貴方の帰りを待ってました的な満面の笑みからネルスは目を逸らした。もちろん、ショークスが待っていたのはネルスそのものではなく、腕を鍛える機会だと分かってはいるのだが。
 <行くぞ>
 「おぅっ!やぁ、楽しみだなぁ」
 階段を下りて、冒険者たちが踏み荒らした小さな空間に降り立ってから、ショークスは首を傾げてネルスを顔を覗き込んだ。
 「何かよ、お前、顔色悪くねぇ?」
 <…いつものことだろう>
 「まぁ、そう言われりゃあそうなんだけどよ」
 ショークスは何度か瞬いたが、どこからともなく光が射し込んでいるとはいえ夜の森である。顔色の判別も、そう自信がある訳でもなし、ショークスは納得し難いながらも歩き出した。
 抜け道を通って清水付近へと向かい、出会った敵はモグラ1体だったのでペイントレードを使うまでもなく弓で射倒せた。
 「やっぱよぉ、何かおかしくね?息も早ぇし、動きがどっか変な気がすんだけど」
 <どうでもいいことだけは鋭いのだな>
 「あ、鋭いってこたぁ、やっぱどっか無理してやがんな?何だよ、調子悪ぃんならまた今度にすりゃいいんだぜ?何も無理するこたぁねぇんだし」
 <俺はさっさと鍛えたい。そして…>
 「へいへい、冒険者を皆殺しに、な」
 んー、と顔を覗き込むと、避けるようにふわりとネルスが下がった。
 何かがおかしい。
 何かを誤魔化しているという気配がぷんぷんだ。
 「調子が悪ぃ時にやるこたねぇと思うんだがなぁ。早く強くなりてぇって気持ちは分かるんだけどよ」
 うーん、と腕を組むショークスに、ネルスのうんざりしたような<声>が聞こえた。
 <焦っているつもりは無い。ペイントレードは最高峰の呪いだ。代償もある>
 「…呪いのために、何かやってんのか?」
 良く聞けば、うんざりというよりは怠そうだ、というのが正しい気もしてきたので、ショークスは顔だけでなくネルスの体も上から下までじろじろと眺めた。
 漆黒のローブに包まれていて、よく分からなかったが。
 また反射的にネルスの脳裏に血と傷のイメージが湧いて、すぐに閉じられた。
 「何でそこまで隠すかなぁ。俺はお前の相棒なんだし、どんな風に下準備するのか知ってた方がいいと思うんだけどなぁ」
 <アクシオンもそう言っていたがな>
 「だろ?ぜってぇそうだって。何隠してやがんだよ」
 <…ペイントレードの代償で少し怠い。それだけだ>
 「ぜってぇ、それだけじゃねぇし」
 ぶつぶつ言いながらも、ネルスがうっかり意識を開けることは無いと踏んだのか、ようやくショークスは諦めて獣道へと向かった。
 <お前は、余計なことは知らんでいい>
 かすかな独り言のような思念がショークスに届いたかどうかは知らない。
 ネルス本人にも、どうしてここまで頑なにショークスには知られたくないと思うのか分からなかった。言ってしまう方が合理的だとは思うのだが…きっと知られたら五月蠅いだろうからな、とネルスは言い訳のように思った。
 傷は痛くなど無い。
 この傷が敵を殺すことが出来ると思えば、いっそ悦ばしいほどだ。
 そう、ペイントレードはカースメーカー最大の攻撃技で、恥じることなど無く、むしろ誇らしい技であるのに…奇妙に後ろめたい気分になるのは何故だろう。
 意識して思念が漏れないよう閉じつつ、ネルスはショークスの後を追った。
 
 「あんまり変わんねぇなぁ」
 2層の敵が出るというので景色も変わるかと思ったら、全く植物層は変わらないので拍子抜けだ。
 ぽふぽふと歩いていると、ウーズたちが茂みからうにょりと出てきた。
 「おっし、来たぞ!」
 <ペイントレード>
 ぐにゃり、と視界が歪んだ気がして、ショークスは目を瞬いた。殺気、というのでもない、何か死の気配とでも言うようなものを嗅ぎ取って、ショークスは身構えたが、ネルスの怠そうな<声>が響いた。
 <…終わったぞ>
 「へ?一撃?」
 油断無くずりずりとウーズに近づいてみたが、オレンジ色をしてぷるぷるしていた塊は、なにやらぐんにゃりとただの粘つく液体になって草地にへばりついていた。
 「すげぇっちゃすげぇけど…何かこう…おかしな感じだったな」
 背筋が震えるような気配に、ショークスは眉を顰めてもぞもぞと体を捻った。
 <ペイントレードとはそういうものだ>
 「すっきりしねぇ」
 <怖いか?呪いで死ぬのは>
 「や、達成感がねぇっつぅか、何かこう、やったぜ!って目に見える効果がねぇんでピンとこねぇっつぅか」
 自分が殺したので無いにせよ、たとえば錬金術師が炎で焼き殺したのなら、目に見えて敵が死ぬ姿が見える。
 けれど、いきなり何の気配もなく敵が潰れるのは、どうもおかしな感じだ。
 <お前の目には見えぬだけだ>
 「あ、お前には見えてんの?いいなぁ」
 <別に見えて面白いものでもない>
 「…あ、そんな感じの黒い塊なんだ?」
 <あぁ、俺の意識から見えるのか>
 「うん」
 黒い霧のような塊が見悶えする敵の姿を包み隠したかと思うと、霧が消えていった後には倒れ伏す敵、という光景が流れ込んできて、それがネルスに見えているペイントレードの効果なのだと知る。
 「まぁ、見えたからって、さっぱり分かんねぇことに変わりはねぇけどな」
 ペイントレードがどんな下準備をして、その結果としてどんな原理で敵を倒すのかは教えて貰えない。ショークスは何となく納得出来ないまま、また歩き出した。
 「ま、いいや。そのうち分かっだろ」
 <お前に理解出来るかどうか>
 「いや、詳しい理屈まで分かんねぇでもいいけどさぁ。でも、お前がどうやってんのかが分かった方がいいかなぁ。…何か調子悪そうだし」
 <…別に…>
 「ほら、そうやってすぐ閉じるし。だいたいおかしいんだよ、いつもは割と筒抜けなのに、これだけめちゃガード堅ぇんだもんな」
 <お前には関係無い>
 「関係なくはねぇだろ」
 <俺が死ねば攻撃力が無くなってお前も死ぬからな>
 「そんなこと言ってねぇだろ!?お前が死んだ時点で糸使って帰りゃいいんだから、んなこたどうでもいいんだよ!そうじゃなくて、お前がしんどそうだと…」
 <あぁ、俺が怠いとお前まで怠いのが通じるのか>
 「そうじゃなくて!お前が、調子悪いのが、イヤだっつってんの!」
 何で分からないんだ、とショークスは足を踏み鳴らしたが、ネルスはすとんと意識を閉じた。それからじっくりとほんの少し隙間を開けて思念を通す。
 <俺の調子がどうであろうと、お前に何の関係がある>
 「誰だって、一緒にいる奴の調子が悪かったらイヤだろ!?」
 <分からぬな。赤の他人の調子が悪くて、何の関係がある>
 「赤の他人じゃねぇだろうが!一緒に来てる相棒じゃねぇか!」
 <勝手に相棒扱いするな>
 ふ、と息を吐いたネルスは、ぴたりとショークスの口が止まったので振り返った。顔を隠しているのでよく分からないが、少し俯いて、握り拳がぷるぷるしているところを見ると、怒っているらしいとは見当が付いた。
 普通にしていてもこれだけ五月蠅い男が、怒ったらどれだけ怒鳴り出すのか、と考えただけでもうんざりしたが、見ていてもショークスは拳を握ったり開いたりを繰り返しただけで、何も言わなかった。
 「…そりゃ…勝手に、俺がそう思ってるだけだけどさ」
 意外と小声で呟いたので、ネルスは眉を上げた。小声、というより、弱気な声。
 <何故、そこで傷つく?俺が相棒では無いというのが、そんなにショックなのか?分からぬ。俺には分からぬ>
 「…分からなくて、いいよ、別に」
 <どう聞いても、いいよ、とは思っていないだろうが。相棒だと言えば満足か?>
 「さぁ…俺にも、分かんね」
 それきり黙って歩き出したショークスの後を追い、ネルスは何度か思念を送る。
 <おい。お前が黙っていると落ち着かぬ。何を考えている>
 けれど、ショークスは無言でぽふぽふと歩いていく。
 一体、何が起きたんだ、とネルスは考えてみるが、その考えがまとまる前に、茂みが揺れた。
 「敵…って、うわ、なんかでかい!」
 <蜂と…これは初めて見るが、確かナマケモノだと聞いたな>
 アザーズステップを使ってペイントレードを施し…蜂は落ちたが、ナマケモノは生き残った。
 剥き出した歯で凶暴に笑い、ナマケモノが剛腕を振るう。
 「…うっわ!」
 肩口から腹までざっくりと切り裂かれて、危うく崩れ落ちそうになりながらも、ショークスは何とか弓を構えた。もう一回攻撃されるとやばい。それまでに倒さないと。
 弓を引くと、傷口も裂けて血が吹き出したのを感じたが、何とか引き絞って矢を放つ。
 ナマケモノが地に倒れ伏したのを確認して、ショークスは息を吐いた。
 「…あんだよ、お前のペイントレードで倒せ切れねぇのもいんのかよ」
 <そのようだな。あれはHPが高いようだ>
 震える手で背嚢を探り、メディカを取り出して飲み干す。
 「あ〜…死ぬかと思った」
 あぐらをかいて、塞がった傷を撫でる。
 <大丈夫か?>
 「まぁな。でも、残ってるメディカは何かすっげぇお高そうな奴なんだけど」
 <使え。薬は使うためにある>
 「そりゃそうなんだけど。いっぺん出て、安くて手軽なのを買っとくかな」
 よいしょっと掛け声と共にショークスは立ち上がった。少々傷は残っているが、動けなくは無い。
 「えーと、ここから奥の部屋に入って鹿を避けて抜けたら、また一方通行で元の区域に戻れるっと」
 手元の地図を見て確認していると、ネルスの思念が届いた。
 <何故俺を責めない?確実に倒せる予定が、怪我を負う羽目になったのに>
 「何でネルスが悪いんだ?」
 きょとんとした声は、本当にまるで分かっていないようだったので、ネルスは少し目を細めてしばらく様子を窺ってから、もう少し詳しく解説した。
 <だから、この区域の敵は、俺が倒せる予定であったろう?ペイントレードで倒し損ねたら、前衛のお前が攻撃を受けることになる>
 「いや、んなこたぁ、最初から分かってるじゃねぇか」
 <ペイントレードを信用していなかったのか?>
 「や、そうじゃなくて、全部が全部倒せるかどうかなんて分かりゃしねぇし。俺のアザーズステップだって、成功率は100%近いはずだけど、何かの弾みでミスるかもしんねぇし。何が起こるか分かんねぇって覚悟はしてるよ」
 <攻撃を受けるのは、まずお前なんだがな>
 「そりゃそうだろ。そのために俺が前にいるんだろ?」
 <何故、それが当然のことのように思うのだ?そこまでする理由が無かろう?>
 「そうか?」
 ショークスは首を傾げてしばらく考えた。
 「俺の方が、攻撃が早い。俺の方が防具が厚い。俺の方がHP多い。それから、俺はネルスが傷つくの見たくねぇ」
 <…何だ、それは。俺が傷つくより、自分が傷ついた方が良いと?大した自己犠牲精神だな>
 「おうよ。悪かったな」
 馬鹿にしたようなネルスの思念を受けても、ショークスは怒らなかった。
 どこか遠くを見て、呟く。
 「お前だって、誰かが目の前で死んだことがあんだろ?だったら、分かるだろうよ。…目の前でさ、誰かが怪我して死にそうになるくらいなら、てめぇが傷ついた方がマシっての。…いっそ、俺が変わってやれたら良かったのにって後悔するくれぇなら、最初っから俺が盾になった方がマシさぁね」
 ネルスの脳裏に、また同じ光景が浮かぶ。
 冒険者たちに切り刻まれていく母。何も出来ない自分。ただ見ているしかない己を悔やみ、憎み、殺してしまいたいほどの自己嫌悪に陥る感覚。
 <脳天気なように見えて、お前にもそんな経験がある、と?>
 「脳天気って何だよ、おい。俺だって20年も生きてりゃあ色々あらぁな。…まぁ、俺の場合は、死んでねぇけどさ。…でも、だからこそ、俺がその場にいるべきだったと、ずっと後悔し続けてる」
 ネルスは眉を寄せ、そんな自分に気づいて首を振った。
 いつでも脳天気にべらべら喋っている男が、やけに弱気に沈み込んでいるのを見るのは、あまり面白いものではない。だが、本来の己は、赤の他人がどんなだろうと気にしていなかったはずなのだ。何故、こんなに余計な気を回さねばならぬのか。
 うんざりしたような気配が通じたのか、ショークスは俯いていた顔を上げ、いつものように陽気な声を出した。
 「ま、ってなわけで、俺は弓の腕を磨こうとしてんのさ。今度は後悔しないで済むように」
 <お前は、まず「足」を鍛えるんだろう>
 「おうよ、それから、先制ブーストと先制ブロックな。…ま、それからでも遅くは無かろうよ。弓ぃ鍛えるにしても、先制出来んのは役に立つはずだし」
 喋りながら歩いていき、扉を開けると部屋の中央に鹿が佇んでいるのが見えた。
 「…振り切るぜ」
 それこそHPが多い可能性がある敵を避けようと、じわじわと部屋の壁に沿って歩き、別の扉から出ていった。
 ほっと一息吐いた瞬間、敵が現れたが、幸いナマケモノはいなかったのでペイントレードで倒せた。
 ともかくはメディカを買うためにいったん抜けようと進んでいくと、今度はついにナマケモノ入りの敵が出てきてしまった。
 「ま、しょうがねぇ、蜂に動かれるとやべぇし」
 ペイントレードが先に発動するという自信があれば、先にナマケモノに一発入れておいてペイントレードで一掃するのだが、もしも先に相手が動くとそれこそ死にかねない。
 そうしてペイントレードで蜂を落としナマケモノに傷を入れたが、やはりナマケモノが攻撃してきてショークスの体力は半分持っていかれる羽目になった。
 戦闘終了して傷を押さえつつ、ショークスは溜息を吐いた。
 「まぁ、先に俺が動けるから良いけどよ…先制できりゃ問題ねぇのにな」
 <お前はぐだぐだと五月蠅いから、先制出来ぬのだ>
 「これでも神経は張り巡らしてるっつぅの。生まれてこの方レンジャーやってんだぜ、俺」
 <ともかく傷を治せ>
 「や、どうせ出るなら安いメディカで治すからいいや」
 <…下らん節約で命を落とす筋合いはなかろうに>
 「だって、俺、まだレベル足りねぇし、もったいねぇじゃんか」
 仮にHPが0だとしても溢れるような高級メディカしか残っていなくて、ショークスは包帯だけ巻いて歩き出した。
 「まぁ、もうすぐ抜けれっから大丈夫だろ」
 <痛いのはお前なんだがな>
 「そ、痛いのは俺なんだから、ネルスが気にしてくんなくていぃの。つぅか、何?心配してくれてんの?」
 <…傷があると、お前の足が鈍るからな>
 「このっくらいで鈍るような柔な足してねぇよ」
 しかし、一見普通に歩いているようには見えるが、同じように歩いていると息が上がるのが早いのが分かる。
 元の区域の道に出たので、ネルスは渋々提案した。
 <おい。少し歩調を緩めろ>
 「何?早く出た方がよくねぇ?」
 <そんなことを考えるくらいなら、さっさと治して速やかに歩け>
 「いや、平気だし」
 そう言いつつも、少し歩調が緩んだ。脇腹を押さえつつ無理をしない程度に歩いていく。
 「あ〜、だりぃ」
 <だから治せと…>
 「へいへい。しっかし怪我は治んだけど、服は直んねぇんだよなぁ、メディカって」
 <当たり前だ。どんな魔法を使えば服まで修復出来る飲み薬が出来る>
 「しょうがねぇなぁ。アクシオンが裁縫得意だっつってたから頼むか」
 <新しいのを買えば良かろう。かなり古いようだし>
 ネルスも新しい服だのに拘るタイプでは無いのだが、それでもショークスの服が相当年代物で何度も繕った跡があるのくらいは気づいていた。
 ショークスは苦笑して継ぎ当ての部分を触った。
 「親父のだしな。でも、愛着あんだぜ、これでも」
 <形見だとでも?だったら大事にしまっておけ>
 「そういうのでも無いけどよ」
 しばらく無言で歩いているので、ネルスは眉を寄せた。いつも黙れと思っても喧しい男が黙っていると、どうも落ち着かない。ひょっとして、喋る元気もなくなっているのではなかろうな、と少し傾きながら歩いているショークスを見ていると、思念に気づいたのか振り返って困ったように笑った。
 「悪ぃ、喧しいだろうけどしゃべくってて良いか?その方が気が紛れる」
 <別に構わぬ>
 「ありがとよ。…たって、さぁて何話すかなぁ」
 ほんの数秒考えてから、ショークスはぺらぺらと話し出した。
 「うちさぁ、貧乏だったわけよ。親父もお袋も死んでさぁ、まぁ山にいりゃあ食うのに困るこたぁなかったんだけどよ、それでもそれ以外の必要品を買ったらそれでおしまいっつぅか。んでさぁ、そんな状態で俺らの服なんか買えねぇじゃん?やっぱどうせなら妹たちに小綺麗な格好させてぇしさ。てことで、俺もクラウドも親父の服を適当に着てたってわけ」
 ネルスの脳裏にショークスの兄妹たちが思い浮かべられた。あまりしげしげと見てもいないが…と言うよりも興味無かったのでほとんど覚えていないが、それでもショークスほどぼろぼろの格好では無かったような気がする。
 「だな。たぶん、<ナイトメア>で給料貰って服くれぇは買ったんじゃね?クラウドも俺と似たり寄ったりな格好のはずだったし」
 <ならお前も買えばいい。お前も金は貰うのだから>
 「ま、それにゃあやっぱ鍛えてちったぁ稼がねぇとな」
 <なるほど、そんなことを考えているから、回復薬もケチるのか>
 「まぁな」
 一言で言えば、貧乏性。
 染みついた節約生活のせいで、いくら他人の(いやショークスも属しているギルドだが)金で、自由に使えと言われていても少しでも安く済ませようと考えてしまうらしい。
 <命は金で買えぬ。…死は買えることもあるが。金で助かる命なら、惜しまず使っておけ>
 「いやぁ、カースメーカーっつっても、考えてるこたぁまともだな」
 一瞬だけ、ネルスは浮くのを忘れて地面に足を着けた。夜露を含んだ草の感触を足裏に感じて、すぐにまた浮き上がる。
 <誰が死のうと、俺には無関係ではあるが…お前は死なれると困る>
 「だよなぁ。もっとペイントレードの出が早けりゃ良いんだけどよ」
 そう。
 レンジャーの素早さが必要なだけだ。
 それ以外の理由などない。あってたまるか。
 ネルスは改めてショークスを横目で見た。
 帽子を目深に被り、ゴーグルを掛け、鼻まで引き上げた口布で詳細は全く見えず、さらさらとした金髪だけが特徴のような顔(いや、顔とも言い難いが)。
 ところどころ擦り切れて色褪せたごわごわの衣服は、よく見れば随分と余裕があって、おそらくは体格に合っていないのだろう。最初小太りに見えたのは、衣服がだぶついていたせいらしい。ひょっとしたら中身は案外と細身なのかも知れない。
 一応、これはこれで苦労してきた男らしい。何も考えていない馬鹿だと思ったが、一応いろいろと考えているらしいし。そうと分かると、勝手にこちらの意識だけが読まれるのは困りものだと言えるが…何故かそう危機感は感じなかった。
 「そういやよぉ、ホントに俺の考えはそっちに伝わらねぇわけ?マジ一方通行?」
 ぼんやりとしていたので、どうやら考えていたことが漏れていたらしい。己の頭の中だけで存在したはずの意識と繋がった話題にそう思い、内心舌打ちする。
 まあ、何故かショークスに対して不快というのではなく、意識をシャットアウトするのを忘れていた己に主にむかついただけだが。
 「安心しろよ。そんなにだだ漏れってわけじゃねぇから。たぶん、強く考えたことはよく聞こえるし、ぼーっと考えてることは、囁き声くらいにしか聞こえてねぇし。んで、こっちも慣れたから、囁き声くれぇは理解しようとしねぇで流してっから」
 <まあ、今更どうでもいい。…さて、お前の意識が聞こえるか、だったな>
 「そう。何かよく分かんねぇけど、俺とお前の思念波が同じだから通じてるってな話じゃん?だったら逆だって通じてもおかしかねぇし」
 一応メディックとカースメーカーが話し合った結果、そういう推論になっているのだ。
 曰く、赤の他人でも声が全く同じに聞こえる人間がいるように、赤の他人だが思念の波長が全く同じ人間も世の中に存在するのだろう、そして同じ波長なので己のものと同じように近くにいると頭の中に浮かぶのでは無いだろうか、ということだ。
 ショークスは、聞いたときにはメディックってのは面白いことを考えつくなぁ、と単純に感心したのだが、よく考えればそれが正しいのなら逆もまた真であるはずなのだ。
 <それはそうだが…お前の意識は全く読めぬな>
 「何でかなぁ」
 <俺は思念を強調するのに慣れているからな。カースメーカーとしてはもはやそれが普通の状態だ>
 ぼんやりと色が付いた霧を凝縮して一つの塊にするようなものだ。そうしてそれを鋭く尖らせて相手の脳にねじ込み攻撃する。カースメーカーの思念とはそういうものだ。
 だが、一般人の意識は、それほど固定されていない。ましてやショークスの意識など色すら瞬時に移り変わるぽやぽやした薄い気体に過ぎないだろう。おそらくそれを感じ取るのは無理だ。
 「へ〜、そんな感じなんだ」
 ネルスの頭に浮かんだイメージを<見た>ショークスは感心して頷いた。まあ、言われてみれば、己の思考を読むのは難しいかもしれない。ショークスは口数が無駄に多いと言われているが、実際には更にその10倍ほど頭の中では考えているのだ。それをほんの1秒未満で読みとれたら大したものだ。
 「カースメーカーってぇのは、やっぱ頭が商売なんだなぁ。まぁ、それで何で腕だの足だの縛らねぇとなんねぇのかはさっぱり分かんねぇけど」
 <他のことに余計な神経を裂かずに、純粋に思念のみを強調するためだ>
 「えぇっと、あれか、真っ暗闇ん中では、その分、音に集中して耳がよく聞こえるような気がするみてぇなもんか」
 <まぁ…おそらくそのようなものだろうな。暗闇で音に集中したことが無いのでよく分からぬが>
 「夜でも明かるいとこで暮らしてんのか?」
 <そもそも視覚で情報をえておらぬんからな。無論、見ているのは確かだが…必要な時には聴力ではなく思念で周囲を探る>
 「へぇ、便利っちゃ便利だな、それ」
 そんな風に喋りながら歩いていって、雑魚たちを一撃で仕留めながら地上へと帰っていった。
 施薬院は迷宮から近いところにある。もちろん、そのために建てられたのだろうが。
 ショークスはまず若手メディックが売っているメディカを品定めした。
 「えぇっと…俺のHPからしてこっち…でも2本使えばそっちの方が安上がりなんだよなぁ」
 「あの、戦闘中には速やかに全回復出来る方がよいと、一つ上のメディカを買われる方が多いのですが…」
 「や、戦闘中に飲んでる暇ねぇから。敵がいなくなってからゆっくり回復すっから、2本でもいいや。かさばるだけだ」
 <妙なところで節約するな。良い方を買え>
 「平気だって、平気。つぅか、高い方だと性格が邪魔して飲めねぇし。安い奴ならまぁいっかぁって飲める」
 笑いながらショークスはメディカUを数本買った。
 「あ、後、包帯売ってねぇ?巻いてから潜ろうと…」
 「…君には治療が必要なようだが」
 売り子に向かっていたショークスは、背後から聞こえた声に飛び上がった。これでもレンジャーだ。人の気配には敏感なはずなのに、全く気づかなかった。
 「初めて見る顔だね。私はここの院長でキタザキだ」
 「あ…ども。<ナイトメア>に新しく入ったレンジャーっす」
 眼鏡をかけた初老のメディックは鋭い目でショークスを見た。主にその視線が脇腹に注がれていて、ショークスは居心地悪そうに身を捻った。
 「<ナイトメア>に所属しているのなら、金には困っていないはずだが…」
 「入ったばっかでまだ稼いでもねぇんで、また今度…」
 「帰ってメディックに治して貰うのかね?なら良いが…このまま潜るつもりでは無いだろうね?」
 ショークスは口数は多いが、詐欺師では無い。むしろ心に思ったことを考える間もなく口に出してしまうタイプである。
 ということで、もごもごと口の中で言い訳したがあっさりと見破られて治療室の方に連れ込まれた。
 「うっわ〜!ネルス、助けろよぉ!」
 <しっかり治療しろ。どうせ治療代はギルドに回せる>
 「いや、俺、医者ってぇの自体が苦手なんだよ!まだメディカ飲んでる方がマシ!」
 「そう言わずに、ちゃんと傷を見せたまえ。…この傷で歩いてくるほどの忍耐力があるなら、医者に一つや二つ、どうということはなかろう」
 「全然ちげぇし!」
 ぎゃあぎゃあ言いながらも手早く治療が終わったので、ショークスは目をぱちくりさせた。
 「あれ?あんま痛くねぇ」
 不思議そうに傷を押さえているショークスにキタザキは溜息を吐いた。これまでどんな医者にかかってきたのやら。
 「へぇ…でもやっぱ高ぇんだろ?」
 そうして告げられた値段にショークスは目を剥いた。いや、高額だからではなくその逆である。
 「えぇぇえ!?マジ!?…てぇか、今までが街の医者にぼったくられてたのかよ、俺!」
 「値段が決まっているものでもないからな。メディックの裁量による」
 「うっわ、信じらんねぇ。このっくれぇ安かったら…」
 ふと黙り込んだショークスの顔に暗い陰が落ちたので、どうやらその値段のせいで助けられなかった人間がいるのだろう、と推測は出来た。
 一瞬、何か言おうかと考えたネルスは、己の行為が『慰め』というものだということに思い当たり、慌てて否定する。そのようなことをする義理は無い。
 しかし、その葛藤もすぐに途絶えた。キタザキが確固たる足取りでこちらに向かってきていたからだ。
 「君にも治療が必要なようだが」
 <いらん!…おい、ショークス!不要だとこの男に言え!>
 「あん?やっぱお前も怪我してんの?なぁんかおかしいと思ったんだ、こん畜生」
 ショークスが治療台から滑るように降り立ってキタザキの背後から近づいてくる。にやっと笑って手を腰に当てるという偉そうな姿勢で言った。
 「お前も治療して貰えよ。人に治療しろ治療しろっつったからにゃあ、お前もするべきだ」
 <馬鹿者!俺のはペイントレードに必要なのだ!>
 凄腕のメディックが近づいて来ているので、ネルスは急いで壁際へと退いた。
 困惑した顔で振り返るキタザキに何も言わないショークスに、もう一度念を送る。
 <不要だと言え!>
 「だって」
 ショークスも困惑した顔になってキタザキを見返すと、渋い声で説明された。
 「相当重傷のはずだ。ネズミの一囓りでも倒れるほどに」
 <余計なことを!>
 「え…そんなにひでぇの!?」
 ショークスがネルスに駆け寄る。レンジャーのスピードには抗えず、逃げようとしたが目の前にまで迫られていた。
 ショークスが漆黒のローブをめくろうとした。
 <やめろ!>
 咄嗟に、抑えもせずに思念で拒否する。もしも声ならば大音量と表現されるほどの勢いで。
 「や…い、痛い!痛いって!」
 片手がローブを握ったまま、ショークスは床に崩れ落ちた。もう片方の手で側頭部を押さえつつ叫ぶ。
 「ネルシュ!いひゃいってわぁ!」
 ショークスの反応に、己が思念を攻撃に近いほどに鋭く尖らせて叩き込んでしまったことに気づく。
 だが、同時に。
 舌足らずに泣くような声を聞いて、脳髄から尾てい骨まで何かが走り抜けた。
 もう一度聞きたい、と、それが形になる前に、頭に食らった衝撃に壁に叩き付けられた。
 勢いよく立ち上がったショークスが間髪入れずに拳骨を降らせてきたせいである。
 「痛いっつってんだろうが、こん畜生!」
 一体、今、自分は何を考えたんだ、と呆然としていると、ショークスがくるりと振り向いて診察台の方へ駆けていった。
 「せんせ、悪ぃ、何か捨てても良い紙か布ねぇ?涙と鼻水が気色わりぃ」
 柔らかな薄い紙を一枚渡したキタザキが、鋭い目でネルスをショークスを交互に見つめる。
 ショークスは屈み込んでゴーグルを額に押し上げ、口布は引き下げて思い切り鼻をかんだ。
 「あ゛〜、もう、目から血の涙が出てっかと思ったじゃねぇか、こん畜生。いてぇたらありゃしねぇ」
 「…カースメーカーに支配されている訳では無いのだね?」
 「あぁん?」
 ショークスは紙を丸めて捨て、また元のように顔を隠して立ち上がった。
 「支配って?」
 「彼はカースメーカーだろう?」
 まだ呆然と壁にもたれてショークスを凝視している白髪の男を指さしてキタザキは指摘した。
 「うん、そうだけど」
 「カースメーカーは精神で他人を呪縛する。カースメーカーに一方的に支配されているのなら…」
 後の言葉を濁したキタザキをショークスはきょとんとした目で見た。
 「へ?よく分かんねぇけど…一般論は知らねぇけど、ネルスはそういう奴じゃねぇし。俺も別に支配されてるつもりはねぇし。今のは、たぶん思いっきり拒否られたから痛かっただけじゃねぇかな、うん、たぶん」
 もういちど錐でも揉み込まれたかのような頭を押さえてから、ショークスはけろりと付け加えた。
 「何か知らねぇけど、あいつの思念ってやつが俺に筒抜けでさぁ。今みたいなのは初めてだけど、よっぽど余裕無かったんだなぁ。そんなに治療がイヤかよ」
 けらけら笑って、いつも通りにショークスはネルスに近づいてぽんぽんとその肩を叩いた。
 「あぁもう、そんなにイヤなら無理強いしねぇよ。調子悪かったら自分でメディカ飲むなりメディックに治療して貰うなりしろよな」
 <……分かっている……>
 「ごめんなさい、は?」
 <…悪かった…>
 「何だよ、えらく素直だなぁ。調子狂うじゃねぇか。別に気にしてねぇよ。いきなりローブめくろうとしたこっちがセクハラなんだし。…つぅか、あれか?お前防具も重いっつってあんま着けてねぇけど、まさかその下すっぽんぽんなんじゃねぇだろうな」
 <…下着くらいは履いているが…かなり全裸に近い…>
 「ひょっとして、あのフレアとかいうお嬢ちゃんも全裸?」
 <…そのはずだ…>
 「うわぁお。ローブ破れねぇようにしねぇとなぁ」
 ぺらぺらと喋りながらも、ショークスは首を傾げた。
 何か反応がおかしい。
 呆然としているようで、根本のところでは意識を閉じてこちらに見えないようにしてあって、聞こえる思念はやけに反応が悪い。
 茫然自失、というのが近いが…何がそこまでショックだったのかも分からない。
 「ん〜よく分かんねぇけど、潜れそう?」
 <あぁ…問題ない>
 「そう?じゃ、行くけど…無理すんなよ?」
 <それはこちらのセリフだ。お前こそ、攻撃を受けたらすぐに治せ>
 ようやくいつもの反応スピードに戻ったネルスを見て、ショークスはほっとしたように笑った。
 興味深そうに見守っていたキタザキに手を振る。
 「んじゃ、ありがとうございましたっと。また来た時にはよろしく」
 「あぁ、気を付けて」
 ぺらぺらと一方的に話しかけている(ように見える)レンジャーと大人しくそれにふよふよと付いて行っているカースメーカーを見送って、院長は「ふむ」と頷いた。
 「確かに、支配関係は無さそう…か」
 だが、カースメーカーは閉鎖的な一族で、一般人と関わる際には呪縛で利用するのが普通のやり方だ。一般女性をカースメーカーの呪縛から救い出したことのあるキタザキは、その時のことを思い出して幾分影を落とした。
 『カースメーカーと仲良くやっていく』などという関係など見たことも聞いたことも無い。食人虎と仲良く暮らせるか、というのと同じような確率だろう。虎が人を食べるのが当然なように、カースメーカーも一般人を呪縛することが当然であり、それ以外の関わり方など知らないはずだから。
 彼らは大丈夫だろうか、とキタザキは二人が出ていった扉を見つめた。彼ら二人が良好な関係を築けたとしても…一族が黙っているかどうか。



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