東方人、見参




 その女性は、ぴんと背筋を伸ばして食事をしていた。耳には、吟遊詩人の歌が喧噪に途切れながらかすかに届いていた。
 「兄上」
 「どうした?小桃」
 眉を寄せた断髪の女性に、目の前にいた眼鏡の男は顔と皿を見比べた。
 「口に合わなんだのか?」
 「いえ。…何やら、戯れ歌が聞こえて参ります」
 「耳障りか?しかし、あれも職の一つとなれば、邪魔をするのも大人げない」
 小桃と呼ばれた女性はふるふると首を振った。それにつれてはらはらと舞った黒髪を指先で整えてやり、眼鏡の男は遠く吟遊詩人の方を窺った。彼らが生まれ育った土地とは音階すら異なっているのではないかと思える曲調であったのでどうも落ち着かず、あまり耳には入れぬようにしていたのだが。
 「我らが向かうエトリアにて、武士道の秘伝の書が見つかったとか。それを手に入れた冒険者の一味の歌のようにござります」
 「ほう、秘伝の書、か。この地で見つかるのは珍しいのぅ。…本物とは思えぬな」
 眼鏡の男…小桃の兄、文旦は眉を顰めた。文旦は現在漢方医であるが、かつては小桃と同じくブシドーであった身である。偽物が横行するのは、些か不愉快だ。
 「兄上。ないとめあ…というのは、どのような意味にござりましたでしょうか」
 「ないとめあ…ないとめあ…確か、ないと、というのは夜であったかの」
 文旦は腰からくたびれた黒い書物を取り出しぱらぱらとめくった。柔らかく使い古した紙をめくり、小さな文字を追う。
 「ふむ。…悪夢、じゃ」
 「悪夢にござりますか。…悪の一味に相応しい」
 きり、と小桃は眉を上げて立ち上がった。文旦は、慌てて小桃の残した焼き鳥を頬張った。
 「女将、勘定!」
 もごもごと口を動かしながら文旦が銭を出している間、小桃はきりりと前を見据え、腰の刀に触れていた。
 「我ら武士道の秘伝の書を持つなどと騙る一味なぞ、我が刀の錆にしてくれる!」
 …小桃は。
 少々、思いこみの激しい女性であった。

 小桃にとって、吟遊詩人などというのは下賤の輩であり直接口を聞くのも憚られるような相手であった。そのため、直接情報を聞くこともなく、ただ漏れ聞こえる噂だけが<ナイトメア>の情報源であった。
 曰く。<破滅の歌声>との二つ名を持つ吟遊詩人が率いるギルドである。ちなみに、吟遊詩人が率いている、という時点で、小桃にとっては無頼の徒も同然であった。
 曰く。<男殺しのアクシオン>という情婦がいつも横にいる。むしろ、この情婦がリーダーを操っているという噂もある。他にも<ウワバミ>だとか<紅の牙>だとか呼ばれる妖艶な女たちが付き従っている。
 曰く。先行する冒険者ギルドを陥れ、殺人の罪で告発した。
 曰く。技能を持つレンジャーを囲い込み、大量に採集してくるせいで金を持っている。それに釣られた若手の冒険者が取り巻きになっているので、誰も彼らに逆らえない。
 聞けば聞くほど、邪悪な一味である。
 ここはまだエトリアより離れており、かなりの妬み嫉みが入った噂であるのだが、小桃はそうは取らなかった。
 「何と忌まわしき奴ばらにござりましょうか!そのような輩が我ら武士道の秘伝の書を手に入れるなど…悪用される前に、討ち果たさねばなりませぬ!」
 「小桃がそう言うなら、この兄は共に行くとも。…しかし、かなりの使い手のようじゃ。拙者も立ち会ってみたいものだの」
 「兄上は、もう刀も持たれぬ身、この小桃がお守り申し上げますゆえ、何卒、前にはお出にならぬよう…」
 「そうであったの」
 文旦は苦笑し、腰に携えたただの木杖に触れた。
 怪我をした、だとかそういう深い事情があったのではない。ただ、小桃が心配であったため、医術の道を志しただけのことである。
 この男、世界は小桃を中心に回っており、それをおかしいとも思っていなかった。
 
 というわけで、この勘違い兄妹はエトリアにやってきた。
 まずは中央の一番権威がありそうな建物へと行くと、あっさりと「どこかのギルドに所属しないと冒険者として認めない」と追い返された。
 「ふむ、どうする?小桃。秘伝の書を取り返した後、この迷宮へと挑むのなあらば、どこぞに所属せねばなるまいて」
 そもそも、彼らは秘伝の書の噂が聞こえる前からエトリアに向かっていた。ブシドーたる者、己の腕を磨くことを第一義としており、それにはやはり敵を滅するに限る、それでは有名な迷宮に向かってみよう、というよくある経緯である。まあ、それ以外にも、小桃には故郷を捨てる理由があったが。
 「兄上にお任せいたします」
 「そうか。では、そのギルドとやらに行ってみるかの」
 兄はかなり過保護に小桃を育てており、面倒なことは兄がお膳立てすることに小桃は慣れきっていた。もちろん、文旦にとっては、それが苦でもなくむしろ喜びであったので、何ら問題は無かった。…本人たちにとっては、だが。
 そうして東方人が二人で街をうろうろし、どうやら黒猫印のギルドが、現在最も勢いのある冒険者ギルドである、との情報を得た。
 もちろん、それに<ナイトメア>はその黒猫印所属である、という情報も付いてきたが。
 「…む…そのような者たちと同じ所属とは…」
 「まあ、ともかくは参ろうぞ」
 石畳の上を草履でぺたぺたと歩いていくと、ギルドに近づくにつれ、人混みが明らかに冒険者風味になってきた。これが全て冒険者というものか、と文旦が喧噪に眉を顰めていると、小桃が「あっ」と声を上げた。
 「どうした、小桃」
 「…いえ、少し足を引っかけただけにございます…」
 彼らの履き物は、平地を歩くのに向いているが足の裏しか防護していない。石畳の浮いた場所に爪先を引っかけてしまったらしく、布きれ一枚のみでしか覆われていない爪先から、じわりと血が滲み出ていた。
 「おぉ、これはいけない」
 文旦がごそごそと背嚢を探っていると、背後から声をかけられた。
 「あの…大丈夫ですか?」
 小桃が顔を上げると、橙色の髪を後ろで一つにくくった白装束の少女が覗き込んでいた。
 「引き上げてきたところなので、TPに余裕がありますが…キュアいたしましょうか?」
 柔らかく微笑んだ少女の白衣は、少し水に濡れて血が滲んだ跡もあった。十代半ばとも見える少女なのに迷宮に潜っているらしい。相手を安心させるような天使の笑みを浮かべている少女が、敵と戦う姿など想像も付かなかったが。きっと皆に守られて、傷を癒す係なのだろう、と小桃は思った。
 文旦が顔を上げ、相手を認めてからぺこりと頭を下げた。
 「なに、それには及びませぬ。こう見えて、拙者も医術の道を行く者でしての」
 そうしてキュアをかけ立ち上がり、兄妹揃って頭を下げる。
 「ご心配をおかけ申した」
 若草色の瞳を大きく見開いて、少女はおっとりと微笑んだ。
 「いえ、こちらこそ差し出がましいことを申しまして、失礼いたしました。こちらの方もてっきりブシドーさんかと思いまして」
 「はは、かつてはそうであり申した」
 文旦が胸を張り、小桃と共に歩き出す。少女はもう一度会釈をしてから、小走りに駆けていった。見るともなく見送ると、少し離れたところに冒険者の一団がいて、どうやらそれが少女の仲間のようであった。
 「ふむ、あのようなおなごもおるようなら、黒猫印とやらも、そう悪の一味では無いのであろうな」
 先にその冒険者の一団が黒猫印のギルドの階段を上がっていくのを見て、文旦はそう漏らした。
 その所属する一つのギルドが悪なだけで、統括するギルドそのものは悪くないのだろう。だが、配下を律せぬようでは底が知れる、と小桃は首を振った。
 そうして、彼らの後からギルドに入っていく。何故か階段は濡れている。水を打った、という感じではなく、足跡がくっきり残っていて、誰かずぶ濡れの人間が通っていったという気配である。
 そう思いながら階段を上り扉を開けると、予想通り、そこにはずぶ濡れの男がいた。
 緑のマントをぐっしょり濡らし、灰色の髪がぺたりと後ろに撫でつけられている。
 当の本人は気にした様子もなく、眼帯の男と笑っている。
 「…ってことでさぁ、必死で岸に這い上がったら、ズボンの裾を引っ張られてたって訳。かしーん、かしーんなんてハサミを振りかざして来るもんだから、もう転げるように上がってさぁ」
 「お前ら、いつまで経っても素人くせぇなぁ。若手が見たらがっかりするぜ、おい」
 「いーじゃん、良い教訓になるって。14階の花の上では立ち上がるな!」
 「…言わなくても普通は立ち上がらねぇよ」
 ぱたぱたと軽い音がしたのでそちらを見ると、少女が階段を駆け下りてきたところだった。
 手にしたタオルをずぶ濡れの男に掛け、ぐいぐいと腕を引く。
 「ルーク、早く部屋に帰って着替えて下さい。風邪を引きます。…すみません、後でこの辺りにはモップをかけますね」
 「あぁ、気にしなくていい。どうせすぐ乾くさ」
 鷹揚に言った眼帯の男の言葉に軽く頭を下げ、少女はずぶ濡れの男の背中を押した。
 「あの〜」
 入り口で身を小さくしてイスに腰掛けていた若い男が、それにおそるおそると言ったように声をかける。
 「あん?」
 「その〜…すみません、その、取り込み中に…」
 ぼそぼそと言った若者はぺこぺこ頭を下げた。
 「お前らの帰りを待ってたんだよ」
 眼帯の男の言葉に、ずぶ濡れの男は振り返り、首を傾げた。少女も隣で同じように首を傾げている。その視線を見るに、どうやら知り合いでは無いらしい。
 「その…非常に申し上げにくいのですが…お、俺たちは<イシュタル>というギルドで…その…6階に入ったばかりなんですが…」
 「ん?何?敵の倒し方なら私が教えてあげよっか?」
 金髪で豊満な肉体の錬金術師がずいっと前に出た。やはりずぶ濡れの男をさっさと部屋に追いやりたいらしい。
 「…いえ…あ、それも願ったりなんですが…その〜つまり〜…」
 言い難そうにもそもそ言ってから、若者はがばりと土下座した。
 「すみません!何の義理も縁も無いのは分かってますが、宿代貸して下さい!」
 ちょっとした間があった。
 小桃は眉を顰めてそれを眺めていた。
 どうやら見知らぬ間柄にも関わらず、金を貸せとは何というみっともない姿だろう。冒険者と言う者は、自分の手で金を稼ぐものではないのか。
 だが、ずぶ濡れの男は、弾けたように笑い出した。
 「あはははは!どうした、先に武具でも買っちまったのか!?」
 大声で笑ってはいるが、それは馬鹿にしたようではなく、ただ本当に愉快そうに笑っていたので、若者も情けない笑顔になって頷いた。
 「は…はい…持ち込んだ材料で新しい剣が作れて…いつもなら泊まれるだけの金があるって思ってたら、レベルアップしたので料金が値上がりしますって言われて…仲間たちはぼろぼろで、宿で休まないとやばくって…」
 「その新しい剣を売れば、足りるんでしょ」
 ピンク色の巻髪の少女がつけつけと言い、若者は床に伏したまま体を小さくした。
 「カーニャ、んな意地悪言うもんじゃないって」
 ずぶ濡れの男は巻き髪の少女を諫めてから、懐から財布を出した。
 「えーと、500yenあれば足りる?」
 「は、はいっ!十分ですっ!…あ、あの、300yenでいいです!」
 「まあまあ。ゆとりは持っておいた方がいいって」
 気軽に言って、ずぶ濡れの男が金貨を数え始め…横にいた白衣の少女がそれを取り上げた。
 「ルークは早く着替えて下さいってば」
 「ん、任せた、アクシー」
 あっさり頷いてずぶ濡れ男は階段を上がり始めた。はっくしょい!とでっかいくしゃみを撒き散らして、後から上がっていた巻き髪の少女に嫌がられながら。
 白衣の少女は土下座している若者の前に座って、手慣れた動作で金貨を数えて積み上げた。
 「はい、500yenですね」
 若者は自分の財布を取り出して、それをしまい込んでいく。何やら慌てたような動作に、さっさとこの場を立ち去りたいのではないか、よもやこれは狂言で逃げだそうとしているのはあるまいな、と小桃は眉をきりりと吊り上げた。
 「あ、あの…稼いだら、すぐにお返ししますんで!」
 「良いですよ、無理はせずに、余裕が出来た時で良いです。あるいは…」
 少女はにっこりと微笑んで立ち上がった。
 「無理に返さず、同じようなことをするのでも良いですよ」
 「同じようなこと?」
 「つまり、あなた方も、困った後輩ギルドに宿代を貸せば良いんです。困ったときはお互い様、そうしてやって行けたら良いですね」
 見ている方まで微笑みたくなるような穏やかな表情に、若者の頬がうっすらと染まった。
 「は…はい!必ず、俺たちも強くなって見せます!」
 「無理はせず、着実に、ね」
 「はい!ありがとうございました!」
 何度も頭を下げて出ていく男を見送って、眼帯の男は溜息を吐いた。
 「何か?」
 「まあ、いいけどよぉ。宿代も考えに入れた上で金を使うのが筋だからなぁ。使っても、借りれたらそれでいいって甘い考えになられると困るんだが」
 「すみません」
 あまり悪いとは思っていないような顔で頭を下げて、少女はついでに小桃たちの方にも微笑んでから階段をとんとんと上がっていった。
 それを見送ってから、眼帯の男は小桃たちに声をかけた。
 「さて…と。お前さんたちは何だ?見かけない顔だが…」
 「冒険者志望の武士道と漢方医にござる。何でも、ギルドに所属せねば冒険者として認められぬとお上に言われてたゆえ、ここまで参った次第」
 「…あぁ、ブシドーとメディックか」
 眼帯の男は小桃たちをじろじろと見て、カウンターの下から書類を取り出した。
 「ギルドに所属するには、二つ方法がある。一つは、すでに存在するギルドに加入すること。もう一つは、自分たちで新しいギルドを立ち上げることだ。言っておくが、世界樹の迷宮は生半可な場所じゃねぇ。二人で探索に行けるとは思わねぇ方がいいぜ。自分たちで立ち上げるにしても、最低5人はいた方がいいだろうな」
 「…ふむ」
 文旦は渡された紙を読んだ。辛うじて単語は理解できるが、こちらの言葉に堪能というのでもないので、時間がかかる。
 「ちなみに、主。このギルドには、<ないとめあ>なるギルドがおると聞いたのじゃが…」
 「あぁん?」
 眼帯の男は眉を上げた。胡乱そうに文旦の顔を見てから、階段の方をしゃくった。
 「何だ、気づいてなかったのか。さっきのずぶ濡れ男だよ。…まったく、エトリアで一二を争う最先端ギルドだってぇのに、いつまで経ってもお気楽集団だからな。気づかねぇのも無理は無いが」
 「…は?」
 文旦は、辞書を繰る手を止めた。小桃も目を見開いて眼帯の男を凝視している。
 「<破滅の歌声>…なる二つ名があると聞いておったのじゃが…」
 「すっげぇ音痴でなぁ。一度聞いてみろ」
 眼帯の男は肩をすくめてから、ふと階段の方を見やった。小桃もそちらを見ると、階段からはさっきの少女が降りてくるところだった。薄汚れた布を持っているところを見るに、雑巾で掃除するつもりらしい。
 「おう、アクシオン。こいつらが、お前らのことを聞いてきてるんだが」
 「<ナイトメア>のことを、ですか?」
 アクシオンと呼ばれた少女が小首を傾げて受付の前にまでやってきた。手にした雑巾を足下に置いて、改めて小桃たちを見つめる。
 「先ほどの方たちですね。ブシドーの方は珍しいと思っていたのですが…。<ナイトメア>のアクシオンと申します。リーダーのルークは現在着替え中ですが、御用の向きとあれば…そうですね、5分もすれば、お部屋にお通し出来ると思いますが」
 にっこり微笑む少女に、小桃は脳内の噂を引っぱり出した。
 アクシオン。<男殺しのアクシオン>…リーダーの情婦。
 …どう見ても、その噂と目の前の少女が結びつかない。
 「<男殺しのアクシオン>、という名を聞いたが」
 すっぱり聞いた小桃に、アクシオンはきょとんとした顔を向け、思いついた、と言うように微笑んだ。
 「<熊殺し>の間違いでは?以前、ギルドの試練で<森の破壊者>を一人で倒してきたものですから」
 小桃は<森の破壊者>というのが何か知らなかったが、どうやら熊らしいということは見当が付いた。
 「熊殺し。…熊を一人で?」
 「えぇ。まだ未熟者ですので、クリムゾンネイルまでは倒せませんが」
 「…そんな試練は出してねぇだろ」
 「あれも熊ですから、行けるかな〜と思いまして」
 「今度、別の試練を出してやるよ」
 「楽しみにしてます」
 ころころ笑って、アクシオンは穏やかな顔で小桃を見上げた。
 「他には、何か?」
 小桃は、予想していた展開とのあまりの違いに必死で体勢を立て直そうとしたがすぐには言葉が出ず、縋り付くように兄を見つめた。
 その視線に、文旦がずいっと前に出る。
 「拙者、文旦と申します。これなるは妹の小桃。<ないとめあ>なるギルドが、ブシドーの秘伝の書を手に入れたとの噂を聞き、参りました」
 「あぁ、あれですか」
 あっさりと頷いたアクシオンに、小桃は目を光らせる。
 「どこにあるのじゃ!我らブシドーの秘伝の書、隠匿するとは何を企んでおる!」
 「隠匿…」
 アクシオンはきょとんとした顔で繰り返した。力尽くでも、と腰を落として刀に手をかけている小桃に、焦るどころかむしろのんびりとした動作で眼帯の男の背後を指さして見せた。
 「あそこにありますが」
 「…む?」
 眼帯の男が視線を受けて面倒くさそうに立ち上がり、棚に並んだ本の中から一冊を抜き取って見せた。
 「これだろ?」
 「そうです」
 小桃はずかずかとカウンターに近寄り、眼帯の男が持つ書物を見つめた。文旦も小桃の頭越しにそれを見て、ふむ、と頷いた。
 「一見、本物に見ゆるが、さて」
 「さぁ…本職から頂いたものですから、おそらく本物なんでしょうねぇ」
 セリフだけ聞けば皮肉にも聞こえるが、何せ言ってる本人が人畜無害そうにおっとりと微笑んでいる。
 眼帯の男は、渡して良いものか悩んでアクシオンを見つめたが、アクシオンは、何が起こっているのか分からない、といった顔で、兄妹を面白そうに見守っている。
 あぁあ、取られちまっても知らねーぞ、俺は、と管理長は溜息を吐いた。
 天然Sの癖に、基本的には暢気なのか、と他人事のように眺めていた管理長だったが、また階段が鳴ったのでそちらを向いた。
 「アクシー?」
 帰ってくるのが遅いので見に来たらしい。過保護なのか悋気持ちなのか。
 その場の様子を見て、一目で見知らぬブシドーが秘伝の書を読んでいることを見て取ったらしく、ルークの眉が上がった。
 ひょこひょことやってきたルークを見て、アクシオンの眉も上がった。
 「…もっとちゃんと乾かして来て下さいよ」
 「風邪引いて、アクシーに看病されるのも乙なもんかなーと」
 「馬鹿言ってないで、乾かす」
 懐から取り出したハンカチで首を拭われて、ルークはへらへらと笑った。細くてしなやかな指が灰色の髪を梳いていき、暖めているつもりなのか手のひらで頬を包み込まれている姿は、何も先入観無しに見れば可愛らしい恋人たちかも…いや、ロリコンの姿かもしれないが、まあともかく、微笑ましいような気もした。実状を知っている管理長は、背中に痒さとも悪寒ともつかないものが這い上がってきて、背中を椅子で擦ったが。
 とりあえずはアクシオンにくっつかれて機嫌を良くしたらしいルークがのんびりと笑いながらブシドーの方を見やった。
 「で、どうしたって?」
 「えぇ、この方たちが、ブシドー秘伝の書を…えぇと、読みたがってるんだと思います。まだ、真偽を疑っている言葉しか聞いてないんですけど」
 ころころと笑うアクシオンの頭を撫でて、ルークは二人の東方人に向き直った。
 振り返った小桃も正面からその視線を受ける。
 仮にアクシオンの噂が少々違っていたとしても、<ナイトメア>の噂全部が歪んでいるのでもないだろう。だとすれば、ろくでもないギルドのはず。
 目の前の男は、ぶかぶかのシャツに袴のように裾の広がった布のズボンという楽そうだがしまりのない格好で、灰色の髪はまだ濡れて房になっている。どう見ても、高名なギルドのリーダーには見えず、その辺の浮浪者と言われた方がまだ納得できた。
 小桃にそんな評価を下されているとは露知らず、ルークは人懐こい笑いを浮かべた。
 「どうも、初めまして。ブシドーかぁ。そう思って見ると、レンと服装が似てるよなぁ」
 そのレンとやらが、秘伝の書を渡した本職なのだろうか。ブシドーから秘伝の書を奪うなど、何と極悪非道なギルドか。
 睨み付ける小桃に笑いかけながら、ルークはカウンターにもたれて管理長から書物を受け取った。
 「これなぁ。何か貰ったのは良いけど、俺たちにはさっぱり分からないしさぁ。ここのギルドの共有財産ってことにしようかって、管理長に預かって貰ってるんだ」
 「…は?」
 文旦が前に出た。どうやら荒事ではなく、冷静に話を進めた方が良いらしいと踏んで、小桃を制しておく。
 「共有財産、と申しますと…決して秘匿はしておらぬ、と」
 「うん。だって、俺ら読めもしないし」
 あっさり言って、ルークはぱらぱらと書物をめくってから、文旦に差し出した。
 受け取った文旦も頁を繰り、内容がどうやら本当にブシドーの技に関することだと言うことは理解した。まあ、本当に秘伝に関することかどうかは、読み込んでみないと分からないが。
 「秘伝の書だぞ?ブシドーにとっては喉から手が出るほどに願い求める宝だぞ?それを、こうしてすぐ手の届くところに置いておくとは正気か?」
 「へ〜、そんなに凄いもんなのか、これ」
 別に惜しそうな響きもなく、純粋に感心している声で言って、ルークは手を出した。少し躊躇ってから、文旦はその手に秘伝の書を戻す。
 「ブシドーなら、みんな欲しがるもの?」
 「そうじゃ。誰もが見られるものでは無いのだぞ!」
 小桃が身悶えながら訴えた。何故武士道を極めんとする自分でなく、価値も分からぬ吟遊詩人如きが秘伝の書を手に入れているのか。
 「ん。じゃ、やっぱ、こうして公開しとくかな。見たい人が見ればいいやね」
 あっさりとルークは言った。
 「…は?」
 どうも完全に意図が擦れ違ってる気がして、小桃はぽかんと口を開いた。
 秘伝の書とは、ブシドーの高みを目指す者だけが見て良いものであって、それを聞いたのに公開するという判断が分からない。
 「いや、だってさ。みんな読みたいんだろ?だったら、誰か一人が持ってるんじゃなく、ここに来れば誰でも見られる方がいいじゃん」
 「い、いや、それはそうかも知れませぬが…」
 「どうせ、見たいってだけで見ても、理解できないもんなんだろ?秘伝っつーからには。レベルの高いブシドーには理解出来る。そうでなきゃ読んでも分からない。で、レベルの高いブシドーなら、これを読みたくて仕方がない。だったら、好きなように見られる方がいい」
 何かおかしいか?とルークは傍らのアクシオンに確認し、「ルークのそういうところが好きです」という言葉にやに下がった。へらっと笑ったままの顔で向き直り、ぱさぱさと秘伝の書を振った。
 「まあ、てことで、君らも読みたいんならここに来て読んでもいい。ただし、ここの財産なので、建物外に持ち出すのは禁止」
 文旦はちらりと小桃を見やった。
 正直、小桃はブシドーとはいえ練達者では無い。あの秘伝の書の中身が完全に理解できるとは思えない。無論、これから研鑽していけば、いつかは理解できる日も来るだろうが。
 「…いつでも、読んでよろしいのか」
 「ここにある限りはな。もし他にも読みたい人が来てたら、喧嘩せず仲良く順番に」
 寺子屋の子供に言うような言葉に、文旦は吹き出した。
 笑いながら、どうやら目の前の吟遊詩人は、悪い人間では無いと判断する。
 「なるほどなるほど。分かり申した!」
 「兄上」
 「小桃。このギルドに所属すれば、いつでも秘伝の書を読むことが出来る、ということじゃ。良い条件ではないか」
 「そうではありますが…」
 小桃は未練がましく書物を見つめた。脳内展開では、悪の一味を討ち果たし、見事秘伝の書を手に入れ、迷宮で名を上げる予定であったのに。
 「どっか、あてがある?」
 「いえ、本日この地に着いたばかりでしてな。執政院よりここに直接参りました次第」
 ふーん、と頷いたルークを、アクシオンが少し眉間に皺を寄せて見上げた。心配そうにルークとブシドーの顔を交互に見たが、ルークに悪戯っぽく笑われて、諦めたように溜息を吐いてから柔らかく微笑んだ。
 「いいですよ。リーダーのお好きなように。バックアップはします」
 「サンキュー。…ってことで、うちに来る?ブシドーって初めてなんで、よく分からないけど」
 「うちに…と申されますと」
 「ギルド<ナイトメア>。まあ、メンバー交代させる気は無いんで、サブパーティーとして…」
 「さぶぱーてぃー」
 そのオウム返しの言葉が棒読みだったので、あ、分からないのか、と言葉を換えてみる。
 「えーと、何つーか、俺たちは5人が主に探索するメンバーなんだ。戦闘が厳しそうなところとか、まだ地図が出来てないところに行くのは、この5人。他に、採集用のレンジャーが3人いる。で、あんたらが入るとしたら、改めて5人の集団を作って、それで探索して貰うことになる」
 兄妹、二人きりで旅をしてきて、何故5人でなければならないのか、とか、それの何が悪いのか、とかがさっぱり分からない。
 だが、<ナイトメア>が評判の善し悪しには関わらず、この地で最も強いと言われるギルドであることは間違い無かったので、文旦は頭を下げた。
 「それでは、よろしくお願い申しあげる」
 「…兄上が、そうご判断されるのならば、小桃は従いまする」
 「うむ。このギルドに所属し、合間で秘伝の書を読むと良い。小桃は強くなりたいのであろう?」
 「はい」
 頷く小桃21歳、兄の文旦25歳。
 こうして、ちょっと思いこみの激しいブシドーと、妹中心のメディックが<ナイトメア>の仲間になったのだった。



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