女の子には大切な事
アクシオンがせっせと掃除したおかげで清潔ではあるのだが、それでもやはり堅い床に毛布にくるまって寝たカーニャの目覚めは最悪だった。いつもの習慣で日の出前に目覚めてしまって、他の連中がまだぐっすり眠っているのを見てもう一度寝直そうとしたものの、体がぎしぎし言って眠れず七転八倒したため余計に機嫌が悪い。
男連中がさっさと身支度したのを追い出して、カーニャはのろのろと着替え始めた。
洗いもしない同じ服を着なくてはならないなんて、ぞっとする。
けれど、他の着替えもないので我慢するしか無い。せめて部屋着だけでも新しいものを買えたらいいのだが。
それでも皮の衣装に腕を通し、欠けた鏡に向かって軽く化粧を施した。
そして、昨日のように髪を結おうとして…何度やってもうまくいかないのにイライラする。
背後に気配を感じた。
グレーテルが上から覗き込んで、自分の口紅を差したらしい。
鏡を占領している自分が悪いのだが、気を取られた途端、また髪が滑り落ちてきて、カーニャは叫んだ。
「あ〜もう!邪魔しないで!」
叫んでも、イライラは収まらない。
それどころか、余計に胸のあたりが熱くなった気がする。
「もうっ!何でこんなところで寝なきゃなんないのよ!髪の毛ぐちゃぐちゃじゃない!何にも揃ってないなんて、最悪!」
「自分の身だしなみのお道具くらい、自分で持って来なさいよ、女の子なんだから」
グレーテルが呆れたように言った、その内容が正しいのは理性では理解していたが、怒り沸騰モードのカーニャには全く役に立たなかった。
「うるっさいわねぇ!お金さえあれば、最新流行の化粧品くらい買えると思ったの!」
田舎の手作り化粧水のようなものを持ってきたくは無かったのだ。
エトリアに着いたら、何でも揃うと思っていたのに。
カーニャは足を踏み鳴らしながら、また二つに髪を分けようとした。うまくいったと思ったのに、手を離すと後ろがたるんでぽやぽやになっているのが手に触れた。
「あ〜もう!イライラする!」
何度目かの叫びを聞いてか、こんこんとノックがされた。
「あの〜、どうかされましたか?」
「お嬢ちゃんがヒス中なだけよ〜」
「うるっさいわねぇ!入ってくんな!」
「…はぁ…」
カーニャは一度全部髪を降ろして猛烈な勢いでブラッシングした。
「自分で出来る髪型にすればいいじゃない。三つ編みなんてどう?」
「いやよ!」
後ろで束ねただけの髪、あるいは二つに分けて三つ編み…幼い頃からずっとしてきた<簡単な髪型>なんて、今ここでするのは何かに負けたような気がする。何にかは本人にもよく分かっていなかったが。
グレーテルが肩をすくめて立ち上がった。
「お茶でも入れてくるわ」
そういう彼女の髪は、一本の三つ編みという簡素なものだった。それでもそれがださいとは見えなかったし、むしろ彼女の美貌に理知的な雰囲気を加えている。
出ていくグレーテルを見向きもせずに、しばらく格闘して。
またノックがされたので、カーニャはブラシを放り投げた。
「…もうっ!邪魔しないでって言ったでしょ!」
「…ほら、やっぱ怒ってるって」
ぼそりと聞こえたルークの声に、眉をきりきり上げて振り向くと、鼻にいい匂いが流れ込んできて思わず胃が鳴った。
「でも、温かいうちに食べないと」
全く気にした様子もなく、にこやかにアクシオンが盆を持って入ってくる。
カーニャの視線に、とぼけた返事を返した。
「あぁ、ここには共同の台所が付いてるんですよ」
そんなことは聞いていないのだが、盆の上で湯気を立てているスープは魅惑的だ。
カーニャはとりあえず髪を一つ括りにして手を出した。
「…分かったわよ。先に食べてあげる。冷えると不味い肉なんでしょ?」
「ま、ねー。パンはさすがに買ってきたけどな」
盆の上には5人分のスープとパン、それに野草と焼いた肉が乗っていた。
朝から肉なんて、と言いたかったが、どうやらハムも卵も望むべくもないようだったので、体力のため、と諦める。
皆で盆を囲み、質素な食事を始めた。
ネズミの肉は軟らかかったが妙な臭みがあったし、スープに入ったモグラの肉は筋張っていたが、アクシオンの言う通り、なかなかうまく調理されているようだった。
「…まあ…食べられないってことは無いわね」
「これからイヤって言うほど食べられるがな」
「勘弁して」
たまに食べるのならまだしも、毎回これはイヤだ。
「下の階層に行けば、新しい食材が見つかるかも知れませんよ」
「…それ以前に、ちゃんとしたところでメシが食えるくらいの冒険者になりたいぞっと」
「えー、それじゃルークはもうご飯作ってくれなくなるんですか?」
「いや、アクシオンのご希望とあらば作りますけどね、鹿のステーキでもローストビーフでも」
何で男同士でいちゃいちゃしてんのよ、と、むかつきながらも、興味を引かれて問うてみる。
「牛がいるの?」
「野牛って言うか、暴れ牛って言うか…普通の牛じゃないけどな。俺たちくらいじゃとてもじゃないけど会う前に逃げられたら御の字ってくらいの相手だが、一応<牛>らしいのがいる」
回りくどい説明だが、やっぱり牛がいるらしい。牛なんて鈍重で平和な生き物のはずなのだが、やはり迷宮では全く異なる生態らしい。
空腹は最高のソース、と全部平らげておいて、カーニャはまた鏡に向かった。
ルークは盆を手にし、リヒャルトはにこやかに
「ご婦人の身支度に時間がかかるのは当然でありますから、自分は外で待っております」
と、言い残して出ていった。気の長い男たちだ。カーニャの両親なら、今頃とっくに平手打ちをするか、見捨てるかして出て行っているところだ。
もう一人の男性であるアクシオンは懐から何かの瓶を出した。
「蜜蝋を調合してきました。よろしかったら、どうぞ」
怪訝そうに見ていると、グレーテルがそれを受け取った。
「ありがと。本当はコテが欲しいところだけど、まあ何とかなるでしょ」
「それでは」
アクシオンも出て行ってから、グレーテルはそれの蓋を取って臭いを嗅ぎ、頷いた。
「よっし、ほら、そこ座んなさいよ」
「はぁ?」
それでも言われた通りに座ると、グレーテルが背後に座ってそれを髪に塗り込みながらブラシで髪を分けていった。
「何よ、自分で出来る髪型にしろって言ったじゃない」
「自分でやるんならね」
あっさり答えて、器用に二つに分けた髪を昨日と同じように巻いていく。
そういえば、店では熱いコテで形を付けてたんだっけ、と今頃思い出したが、ここには何も無い。どうするのかと思っていたら、たっぷり付けられた透明のそれが乾いて形を取っていった。
くるくる巻いた髪が少し垂れて、似たような髪型になる。
「ん、まあ、こんなもんじゃない?」
「…まあ…ちょっとごわごわするけど…」
ぱりぱりに固まった髪を恐る恐る触ってみると、何だか一つの固まりのようにぶらぶらと揺れた。
「まあ、しょうがないわね。コテって幾らくらいするのかしら」
「さあねぇ。宿代が払えるようになって、美味しいご飯を食べられるようになってから考えたら?」
「…そうするわ」
とりあえずは、これで我慢しておこう。
溜息を吐いて、カーニャは立ち上がった。
ブラシを片づけているグレーテルに、ふと聞いてみる。
「何で、怒んないの?」
自分は相当癇癪を起こしたはずだ。両親ならとっくに怒っているはず。
だが、グレーテルは肩をすくめて言った。
「だって、他人事じゃない?何で私が怒らなきゃならないのよ」
そういうことか、とカーニャは思った。
グレーテルにとっても、リヒャルトやルークにとっても、カーニャの髪など<どうでもいいこと>なのだ。それに拘るカーニャの意志を尊重していると言えば聞こえは良いが、「したいならそうすれば?」と興味が無いのだ。
「…やっぱ…むかつくわね」
自分がこれだけ拘っているのに。
急に自分が子供じみたことをしているような気がして、カーニャは荒々しく立ち上がった。
かつかつと踵を鳴らして部屋を出ていった後で、グレーテルはやはり肩をすくめて瓶やブラシの後始末をした。
廊下に出てみると、ルークの姿が見えなかった。
「何よ、さっさと探索に行くんじゃないの?」
「あぁ、ルークならちょっとお買い物に行きました」
アクシオンはカーニャの尖った声など気づいてもいない様子で穏やかに答え、壁際で悠然とカップを傾けていたリヒャルトは目を細めた。
「やあ、昨日も思ったが凝った髪型でありますね。お見事」
誉めてるのかしら、と疑問にも思ったが、曖昧に頷いた。
「お、出来てたのか」
ばたばたと走って帰ってきたルークが、懐から何か取り出した。
濃紫色のそれをカーニャに差し出す。
「ほい、リボン」
「…あたしに?」
「そ。いやー、アクシーは白や緑が似合うんだけどなー。カーニャは赤かピンクかなーとも思ったんだが、服に合わせてみた」
思わず突っ立っていると、来い来いと手招きされたので素直に近づくと、ルークの手で二本のリボンが髪に結わえられた。
「あぁ、似合いますね。さすが、ルークの見立てです」
「…妬いてる?」
「いえ、まったく」
「…しくしくしく」
壁に頭を付けて泣き真似をするルークに向かったアクシオンの髪には、白いリボンが結ばれている。どうやらこれもルークの見立てらしい。…何故、男のアクシオンがリボンを付けているのかはともかく。
リボンだって、安くは無いだろうに。
そんなものに払う金があるのなら、宿に泊まるとか良い物を食べるとかすればいいのに。
そうは思っても、何故かリボンなんかに無駄遣いしてしまうリーダーに苛ついたりはしなかった。
髪がうまくいかなかった時に感じていた胸が焼けるようなむかつきは無くなっている。
「さ、それじゃ探索に向かいましょ!ちゃんと地図を完成させて、依頼を受けてお金を稼ぐの!」
「お、やる気満々だな。じゃあ、今日もよろしく!」
「任せといて!あたし、強いもの!」
カーニャは尖った髪をぶんぶん振りながら、皮のブーツを鳴らして先頭を切って歩いていった。
きっと、今日は昨日よりももっと強くなる。