ピースオブパズル 2
うっすらと壁自体が輝いているような不気味な質感の廊下を、彼らは歩いていた。
いつもなら、先頭に忍者であるグレッグがいて、前方の気配を探りながら進むのだが、今は違う。彼らのリーダーが確固たる足取りで先頭に立っているのだ。
まるで、全ての罠の位置を知っている、とでも言うかのように。
まるで、敵に遭うはずがない、とでも言うかのように。
ダークマターの口からは、意味の全く分からない、だが荘厳な雰囲気だけは伝わるような歌が流れ出ている。それは廊下に殷々と反響しているのだが、何故かそれを聞きつける敵はいなかった。
むしろ、敵が避けているかのようだ。
一番に文句を言いそうなクルガンも、眉を顰めただけで何も言わなかった。何せ彼は先ほど周辺の廊下を一周した際に、散々敵と遭遇していたのだ。それがこんなにも静かだということは、ダークマターの歌が何某かの効果を出しているとしか思えない。
迷った風もなく進んでいたダークマターが、仲間を振り返った。
「最短距離で奥に行く前に、ちょっとここでご挨拶していくから。皆、殺気を出したり、ちょっかい出したり、無礼な口をきかないこと。怒らせると厄介だからね。…本当は、俺だけで行きたいんだけど…」
「不許可」
最後尾からの短い返事に、ダークマターは苦笑した。
「そう言うと思ったから、一応あんた達も入れるよ。くれぐれも粗相が無いようにね」
白い手が、軽く握られて上がった。
扉をノックする。
「ロード。ロード・リーウェン。ダークマターです」
返答は無かったが、気にせずダークマターは扉を押し開ける。
部屋に踏み込んで、僅かに眉を上げた。
後について入ってきた彼らも息を飲む。周囲の様子とは全く違う豪奢な室内に驚いたのではない。いや、古風で荘厳な王の居室のような装飾は、確かに驚くべき対象であったが。
そこには、5人の先客がいた。
一人は貴族風の男。白い上着を優雅にひらめかせている。
2人は女。胸の大きく開いた真紅のドレスを着て、どちらも凄みがあるほどの美貌であったが、鋭く長い爪と、真っ赤な口元からこぼれる牙が、人外の者であると告げていた。
そして、その彼らと相対して、一組の男女がいた。
迷宮の中では当然の姿でありながら、この室内では浮いているごつい鎧を着込んでいる。
貴族風の男がさほど力を込めたようでもなく手を振れば、冒険者の男の巨体がダークマターの方に吹き飛んできた。
「ウォルフじゃねーか!大丈夫か!?」
慌てて抱き起こしたリカルドの背後から、サラの手が伸びる。
治癒魔法を受けて、ウォルフの顔に赤みが戻った。
冒険者の女の方は、まだ戦っている。肩で息をしながらも剣をかざし、目はぎらぎらと燃えて貴族を睨んでいた。
裂帛の気合いと共に打ち込まれた剣をふわりと避け、彼女の手首を握り、軽々とぶら下げた貴族が、ようやく彼らの方を向いた。
その白い顔に不気味なほど艶やかな紅唇が薄く開いた。
「これはこれは。長く凪いだような時の中、二組ものまれびとを迎えるとは、本日は何と奇妙な日であることか」
「お久しぶりです、ロード・リーウェン」
数歩進み出て、ダークマターが優雅に礼をした。
身藻掻く女のことなど意識の端にも上っていない、といった風に、ロードは目を細めて彼を見た。
「何、いつになっても友のおとないは嬉しきもの。ゆるりと過ごすが良い」
「それは有り難いお言葉なんですが」
ダークマターは僅かに唇を歪めた。その背中に緊張が漂っているのが、背後の冒険者には見てとれた。
不死者の王であるヴァンパイアロードに『友』と呼ばれるリーダーに驚きつつも、この様子からして、やはり自分たちが口を挟むのは危険だ、と直感的に理解できて、彼らはただ見守っていた。
無論、彼らのリーダーの身に危険が迫れば、相手がたとえ何であっても一致団結して立ち向かうだろうが。
「ロードのお食事を邪魔するのは心苦しいのですが、その食材は、満更見知らぬ仲でもないもので…出来ましたら解放していただけませんか?」
食材、と呼ばれた白百合の姫は、顔を真っ赤にして一層激しく身藻掻いた。だが、折れそうなほどに手首を握り締められ、堪えきれない悲鳴が細く口をついた。
「ふむ。…久々に温かき血潮に触れられると思うたが」
初めて自分がぶら下げているものに気づいた、とでも言うような目で、ロードはグレースを頭から足の先まで数度眺めた。
「まあ良い。友の希望とあらば、意に添おう」
寛大な笑みを浮かべて、ロードは軽く手を振った。
また彼らの元に人間の体がリンゴででもあるかのように、ぶん、と飛んでくる。
慌てて抱き留めたリカルドが、ぐえ、と短く呻いた。グレースそのものは軽いかもしれないが、何せ全身フルプレートに包まれているのだ。それを真正面から受け止めるのは、騎士の力を以てしても楽ではなかった。
「ありがとうございます、ロード・リーウェン」
もう一度、ダークマターは頭を下げた。
そして、自分の首筋を指さしてみせる。
「紛い物でよろしければ、供しますが?」
ロードは真紅の瞳を細めて彼を見た。穏やかな顔は、まるで幼子を愛おしむような表情で、一瞬彼が不死の王であることを忘れさせそうであった。
「良い。さして空腹というのでも無いのでな」
ロードは一歩下がり、楽しそうに腕を組んだ。
「だが、我が召使いは飢えているようだ。相手をしてやってくれたまえ」
その両脇を抜けて、二人の美女がダークマターの前に進み出る。
「ヴェスパと申します」
「アニータと申します」
「主の御命に従い、貴方様の血を頂きたく存じます」
「では、参ります」
色めき立った背後の仲間を手で制し、ダークマターは首を傾げながら目をロードに向けた。
淡い水色の虹彩の中、針のように瞳孔が小さくなった。
「よろしいか?」
簡潔に問えば、ロードは重々しく頷いて見せた。
「良い。そろそろそれらにも飽きてきたところゆえ」
「…また?俺を悪者にするのは止めて下さいよ、ロード」
呆れたように軽口を叩いて、ダークマターは腰の刀を抜いた。迫る鋭い爪を止めて、もう一体の爪もかわす。
美女の口から、長い牙が剥き出しになった。元が人型の美女であるため、いっそう陰惨なイメージになる。
「ダークマター=パトロフネス。参ります」
言って、ふわりと体を躍らせた。無造作に投げ出されたように見える体が、2体のヴァンパイアの腕をかいくぐり、懐に飛び込む。
腰の回転をそのまま刀に伝え、美女の細い首筋を薙いだ。
「きぃえええええぇぇぇぇ!」
絶叫と共に、栗色の長い髪を靡かせて頭がごとりと重い音を立てて床に落ちた。
だが、首から血を吹き上げながらも、その両腕は抱き締めるようにダークマターの体に巻き付く。
それを見て、艶やかな微笑を浮かべたもう一体のヴァンパイアが爪を伸ばしてきた。
「神よ、我が敵を撃ち抜く複数の気に実体を与えたまえ!」
ダークマターの手から、気の塊が十数発撃ち出される。
それに弾き飛ばされた美女が身を折っている間に、同様に背後の体にサバレッツを撃ち込み自由の身となったダークマターが刀を手に踏み込んだ。
「願わくば、汝に安らかな眠りが訪れんことを」
ぽぅっと金色に光った刀身が、美女の首に食い込んだ。
崩れ落ちたヴァンパイアの体が、見る間に埃にとなって散った。
刀を収めてロードに向けば、不死の王は傲然と手を叩いた。
「ふむ、腕は落ちてはいないようだが。戦い方が、多少変わったかね?」
「それは、まあ。器が違えば、戦法も違います」
息も乱さずヴァンパイア2体を葬ったダークマターは、ぶすっとした表情で髪を掻き上げた。
ロードはそれを目を細めて眺め、長い爪を顎にやった。
「人は成長する。我らとは異なる存在だ。だが、そなたは…」
ダークマターは、ちらりと背後を見た。そして、やや固い声でロードのセリフを遮る。
「知ってます」
「そうか。…人の子の『永遠の命』とは、脈々と受け継がれる血の流れ。悠久の時を経てなお広がり続ける旺盛な繁殖力こそ、人の子の特徴。それを放棄してまで望むものがあったのかね?」
「俺にはありません。でも、『彼』にはあったんでしょう」
その酷く疲れたような声音に、彼の背後の冒険者たちは身じろいだ。
彼らには全く理解できない会話が交わされている。
だが、何故かそれが『ダークマター』という存在の核心を突く内容であることが理解できた。
ドゥーハンの入り口に、記憶を失って現れた彼が、一体何者であるのか。それは誰も知らなかった。
仲間にとっては、ただの冒険者の一人であったし、クルガンにとっては元クイーンガードの同僚、ただし種族が変化している、という存在。
その彼が、迷宮下層を知り尽くしたように歩き、司教ですら聞いたことのない魔法を操る。そして、不死の王に友と呼ばれる。
つい先日まで、彼自身にも分かっていなかったろう記憶が、雪崩式に呼び起こされているのが、彼らにも分かった。
それが良いことなのか、悪いことなのかは判断出来なかったが。
静かに交わされる会話を半ば呆然と見守っていたグレースが、突如己を取り戻した、とでも言うかのように、彼らの間を縫って最前列に飛び出した。
「あの人はどうなったのですか!?ユージン=ギュスタームは、今、どこにいるのですか!?」
ちらり、とロードがグレースを見た。その視線は、確かに調理人が太った豚を検分する際の目に似ていた。
「ふむ、君はそんなことが知りたかったのかね。他人にものを尋ねたいのならば、いきなり居室にずかずかと入り込み剣を向けるような真似をするものではない」
諭すように言われてグレースの青白い頬が、かっと赤く染まった。
目を落とし、唇を噛み締めながらも、震える声で謝罪する。
「先ほどの非礼は謝罪いたします。ですから、どうぞ教えて下さいませ」
相手は一見貴族風の男とはいえ、その実体は不死の王だ。人間ではなく、魔物である。彼女のように敬虔な神の使徒にとっては滅ぼすべき相手でありこそすれ、助力を乞うべき相手ではない。
だが、それでも己を曲げてまで頭を下げる姿に、リカルドやサラは感動した。
彼らのリーダーに言葉添えを頼みたかったが、ダークマターはいつでも2者の間に割って入れる微妙な位置に立っている。そこまで行って囁くのは躊躇われて、ただ熱い視線のみを送った。
ダークマターがちらりと彼らを振り返る。
視線の意味を理解したのだろう、僅かに苦笑気味に唇が歪んだ。
だが、ちらりとロードを見たのみで、口は開かない。
しばしの沈黙の後、ロードが面白そうに眺めているだけで何か行動を起こす気配が無いと見て取って、ダークマターは渋々介入した。
「ロードがこの部屋から出ることは稀なはず。ならば、彼と契約したのはロードでは無いと思いますが…」
「おぉ、友よ。何故、私の楽しい時間の邪魔をするのか?せっかく彼女の顔に浮かぶ様々な感情を眺めていたというのに」
大袈裟に嘆くロードに、ダークマターは直裁に言ってのけた。
「悪趣味すぎます、ロード」
これまでの腫れ物に触るような態度からすれば大胆すぎるように思える発言に、背後の仲間たちは一斉にぎょっとした。
だが、ロードはまた面白そうに喉を反らせるばかりだった。
「そう言うな。人の子の感情は、熱く、そして目まぐるしい。永遠に凪いだ流れに身を置く者にとっては、たまらない刺激なのだよ」
「理解は、します。でも、賛同はしません」
「そうであろうな。そなたは昔から、殊に女性の心の機微に疎い」
「…余計なお世話です」
ぶすっとした声で言われたそれは、どこか拗ねたような響きがあった。
それにくつくつと笑いながらロードは長い爪をかちりと鳴らした。
「確かに、私はあの人間とは契約を交わしていない。だが、多少の情報なら知っておる」
「ならば、それを…!」
バネ仕掛けのように身を起こし、ずいっと迫ったグレースの顔の前に、長く鋭い爪が突き出される。
一瞬たたらを踏んで立ち止まるグレースに、ロードはにこやかに言った。
「私の退屈を紛らわせよ。ならば、教えてやらぬでもない」
戸惑ったグレースが答えあぐねている間に、ダークマターが腰の刀を抜いた。グレースとロードの間に刀を差しだし、硬い声で言う。
「お戯れが過ぎます、ロード。それ以上、何か仰るつもりなら、俺が相手をします」
「ふむ」
一歩引いて、ロードが刀をまじまじと見つめた。そして、扉付近で固まっている冒険者たちをに初めて目を向けた。
「それも面白い。よかろう。全員でかかってくるが良い」
ダークマターが、グレースを庇うように位置移動した。
ロードを見たまま、左手を挙げ、人差し指を軽く曲げた。
簡素な呼びつけに、クルガンが音もなく隣に進む。
「グレースちゃんとウォルフもやるつもり?」
ちゃん付けされて、一瞬ぽかんと口を開けたグレースが、慌ててこくこくと頷く。ウォルフも完全回復して斧を振り回しながら前に出た。
「人数、多いな」
ダークマターは苦笑したが、すぐに顔を引き締めた。
「では、参ります、ロード」
「うむ」
重々しく頷き、不死の王は、白い上着を優雅にはためかせた。
「ルイ姐ダイバ、サラ、グレッグ、ロードの魔法を邪魔して、グレースちゃんとウォルフ、思い切り斬りかかってOK、リカルドフォローしたげて」
クルガンに指示は無かったが、ダークマターに合わせれば良し、と反論は無かった。本当ならリカルドクルガンダークマターで集中攻撃すれば良さそうなものだが、ダークマターと合わせるならともかく、自分に敵意を持っているらしい騎士と呼吸を合わせる気は、クルガンにはさらさら無かった。
まずはルイの詠唱で戦闘が始まった。各自の武器が淡い光を放ち始める。
グレースが防御を考えない姿勢で、大剣を構えてロードに突っ込む。それに併せてウォルフが大斧の重さを感じさせないような動作で同時に斬りかかった。
重い音を立てて、ロードの身に2本の武器が食い込む。
だが、一滴の血も流さずに、ロードがにやりと笑い、長い爪をグレースに伸ばした。
「させるかよっ!」
リカルドが大剣で爪を遮り、金属質な音を立てる。
その間にウォルフがグレースの体を引っ張り、食い込んだ剣ごとロードから離させることに成功した。
一瞬空いたロードの前に、ふわり、と風が舞った。
グレースとウォルフの攻撃とは質が違う。
音もなく忍び寄り、相手も気づかぬうちに首を落とす、そんな攻撃。
風が触れた程度の衝撃しか与えぬまま、ロードの衣装がぱっくりと口を開いた。
「…遠慮が無いな、友よ」
「遠慮して欲しいんですか?」
「まさか。私の方も、遠慮はせぬよ。久々に心躍る思いだ」
同じく、ふわりと質量を感じさせない動きでロードの衣が揺れた。
目の前に繰り出される爪を、刀で払い、身をかわしたダークマターだが、僅かに頬に血が滲んだ。
その掠めた爪を、ロードはわざとらしく真紅の舌で舐め上げた。
「一致率は?」
「87%といったところか」
「まあ、そんなものでしょうね」
謎めいた会話を挟んで、戦闘は続けられる。
そうして何撃打ち合っただろうか。
ロードからは全く血が流れぬため、効果のほどはよく分からなかったが、ぼろぼろになった衣装を見れば、多少は効いているのだろうか、そんな疲弊を感じ始めた頃。
グレースとウォルフの重い斬撃がロードの体に食い込んだ。
「ふむ」
苦悶の表情一つ見せず、むしろ興味深げにロードは彼らを見た。
そうして、次の瞬間。
小さな音を立ててその姿が消えた。
突如支えを失ったグレースが体勢を崩した。同じくつんのめりながらもウォルフがグレースの腕を取る。
「ありがとうございます」
律儀に礼を言うグレースに、もごもごと口の中で言ったウォルフが、大斧をどんっと床に突いた。
「やった…のか?」
「どうでしょう…なんだか…」
敵を葬った達成感が無い。
グレースが窺えば、ダークマターは腰に刀を収めていた。それではどうやら戦闘は終了したのだ、と見て取って、ようやくグレースも剣を収めた。
そうして、はた、と気づく。
「あの…彼を滅してしまっては、あの人の情報が得られないのでは…?」
彼女にとって第一の目的はユージンの情報。不死の王と戦うことは、目的ではなくそのための手段に過ぎないのだ。
狼狽える彼女を、ダークマターは凍てついた瞳で見つめた。
「滅する?ロード・リーウェンを?…あっちの世界に行って、本体と戦えば可能かもね」
おざなりに付け加えられた言葉を鑑みるに、それは不可能、と言っているも同然で。
どういう意味か、と表情を引き締めるグレースの目の前で。
部屋の風景がぐにゃりと歪んだ。
慌てて目をしばたく間に。
かすかな風の音ともに、ロードが立っていた。ぼろぼろになっていたはずの衣装すら元通りになって。
不死の王は、大きな動作で手を叩いた。
「なかなか面白き余興であった。それに免じて、そなたの望む男のことを教えてやろう」
興味なさそうに身を引いているダークマターを視界の端で捉えながら、グレースは小さく舌で唇を舐めた。
「お願いいたします」
「その男は、私ではなく他の者と契約を交わした。まだしも私の方がマシであっただろうな。私なら、興が乗れば手伝ってやらぬでも無かったのに」
くつくつと喉を鳴らすロードにグレースの顔がさっと青ざめた。過去形で話される意味を察知したのである。
「…あの人は…」
「2つばかり階段を降りたまえ。私の口から、彼が現在どのような状況か説明してやっても良いが…」
そうして、ちらりとダークマターを見て、肩を竦めた。
「友は反対のようだ。私は口を噤むとしよう」
「あぁ…!」
突如、緊張の糸が切れたように、グレースが両手で顔を覆った。
慟哭が喉を突く。
その隣を、ウォルフがおろおろと落ち着かなく彷徨った。
「俺には、よく分からないけれど」
淡々とした声で、ダークマターが彼らを背後にそっと押した。
サラとルイが、グレースの肩を抱き、彼らの最後尾に落ち着かせた。
「動転してるんだろうね。代わりに俺から礼を述べます」
僅かに目を見開いたロードが、また喉を鳴らした。
「友よ、本当に女性の心の機微が分からぬな」
「分からなくて結構です」
無造作に言って、ダークマターは髪を掻き上げた。
ロードが、その長い爪をダークマターに伸ばした。
その鋭い爪は危険な代物であったが、ダークマターは微塵も動かなかった。
爪をかちかちと鳴らしながら、ロードの手がダークマターの頭に置かれる。
「では、行くが良い、小さき友よ。私の言うべき言葉では無いが…十分、気を付けることだ」
背後の彼らからダークマターの表情は見えない。だが、ロードを見上げるように動いた頭と、僅かに項垂れた長い耳から、きっと困ったような顔をしているだろうと推測された。
「では、行きます。ロード・リーウェン。もう、お会いすることもないでしょうが…」
微かに語尾が震えた。
だが、続いて紡ぎ出された声は、柔らかな温かさに満ちていた。
「良い夜を」
ロードが手を引き、重々しく頷く。
「あぁ、良い夜を。…やれやれ、今宵のワインは苦くなりそうだ」
それきり身を翻し、古風な椅子に身を沈めて瞑想に耽るように目を閉じたロードに、深々と礼をしてダークマターもきびすを返した。
言葉少なに仲間を促し、退室する。
重厚な扉を閉じ、それに凭れるようにダークマターは天井を仰いだ。長く細い息を吐く。
仲間の視線に気づいて、小さなかけ声と共に扉から離れた。
「一応、俺にとっても賭けだったんだよ。あの人が『今の』俺を認めてくれるかどうかは」
全身の筋肉をほぐすように軽い全身運動をするダークマターの前に、グレースが背筋を伸ばして立った。
「ご助力に感謝いたします。ダークマター様」
「様、は止めて。ただの冒険者に付けるべき尊称じゃない」
「ですが…」
言って、クイーンガードクルガンの顔と、ダークマターの顔を交互に見る。二人並んでいるところを見て、ようやく彼女も思い出したのだ。凍てつく瞳、の二つ名を持つクイーンガードのことを。
だが、続きは飲み込んで、グレースは青白い顔のまま、微笑んで見せた。
「私は、下に参ります」
その言葉に、鼻白んだようにダークマターは眉を寄せた。
「言っちゃ、何だけど。行けるつもり?」
「分かりません。でも、行かなくては」
挑発的な言葉に、あっさりと返して、グレースはぺこりと頭を下げた。
「では」
きびすを返すグレースをウォルフが慌てて追った。
「待ってくれ、姫さん。せめて不死者にも通じる武器を調達してからにしてくれ」
「…そうですね…」
きり、と唇を噛み締めながらも、その意見の真っ当さが分かるのだろう、グレースは渋々頷いた。
そして彼らにも深々と礼をして、転移の薬を使った。
「ユージンは、10Fか」
彼にとっても追うべき相手であったため、小さく呟いたクルガンを、ダークマターがちらりと見た。
「行きたいなら、あっちと一緒に目指してみれば?」
皮肉な口調に、ふん、と鼻を鳴らして、また彼らの最後尾に付く。
「まずは、この階を探索してからだ」
「ま、その方がいいだろうね。…じゃ、これから最短距離で行くから。各自はぐれないように。特に、壁に勝手に触ったり、扉を開けたりするのは厳禁」
彼らは一斉に頷いた。
「なあ、グレッグ」
先頭に立つリーダーの後を追いながら、リカルドは小声で隣の忍者に話しかけた。
「何だね?」
「前によ、お前、『君が何であれ、付いて行くつもりだがね』って言ったろ?あれ、今でもそう思ってるか?」
グレッグは、まじまじと戦士…いや、騎士を見返した。
「君は違うのかね?」
「聞いてんのは俺だって」
にやにやと笑うリカルドから目を離し、グレッグは彼の主君を見つめた。
孵ったばかりの雛のようであった彼の唯一の主君は、今では得体の知れないものに成長している。
おまけに、忍者兵筆頭なんて代物が付いてきている。
だが、グレッグは、軽く首を振った。
「何故、前言を翻す必要性があるのか、分からんな」
リカルドは、くっくっと笑って、グレッグの肩を叩いた。
「だよなぁ!これ以上に面白い奴とは巡り会えないよな!」
心底楽しそうに笑うリカルドに、グレッグも心からの笑みを浮かべた。
「まったくだ。私も、これ以上の主君に巡り会えるとは思えない」
「俺たちって見る目あるよな〜」
「いや、まったく」
浮かれたような足取りで歩いていく二人の後を歩くルイは、指で額を押さえた。
「男って…」
「あらルイ姐さんこの場合アホなのは男全般じゃないわあの二人が特別アホなのよまあ私もダークマターって底が知れなくて面白いわと思ったけど」
「それは私もそう思うわ。退屈だけはしないで済むわよね」
そして最後尾では。
忍者イヤーで全員分の会話を聞き取ったクルガンが、斜めに30度ばかり傾いていた。
(な、なんとお気楽な連中か…!)
誰も知らない魔術を使ったり、迷宮の地下深くに『俺の部屋』があったり、不死の王に友と呼ばれたり。
問いたいことは山ほどあるというのに、「そんなところが面白い」などと評する仲間に囲まれていては、質問することすら出来ない。
だが、とクルガンは思った。
多分、背後の会話は聞こえているだろうに、自然な足取りで歩いていくエルフの後ろ姿を見て、ふと考える。
このエルフに最初出会ったときの、異常なほどぴりぴりしたところが見られない。その時には、酷く不安定な精神状態だ、と感じたものだったが、今はやや和らいできている。
それはきっと、このお気楽な仲間たちに囲まれているからなのだろう。
彼らと共に過ごした時間が長いから、精神的に安定しているのだ。
それは、見知らぬ環境に放り込まれた動物が、最初警戒を崩さないが、安心できる自分の居場所を見つけてからは、少しずつそこを根城に探索を始める様子に似ていた。
そして。
最初は感情を見せなかった『彼』が、少しずつ笑顔を見せるようになり、冗談すら言うようになった姿にも似ていた。
クルガンは、ゆっくりと頭を振った。
以前の『彼』と今のこいつと。
似て非なる存在の、その理由が、この奥で見つけられれば良いのだが。
それまでは、考えるのは止めておこう。
全ては、この奥に。