女王陛下のプティガーヅ
オティーリエの手記。
地下二階の激戦の後、わたくしたちはゆっくりと骨を休めた。
若い女性の悲鳴は気にはなっていたが、こうして一晩休んでしまえば、緊急事態であればとうに収束しているであろうし、一時間二時間遅れたところで変わりは無いように思えたので、目覚めた後すぐには出かけずに、ゆっくりと準備をしていくことにした。
あの戦闘の反省を元に、わたくしとレドゥアは魔法の強化をすることにした。
魔術の中心はわたくし、僧侶魔法の中心はレドゥアである。ダークマターも僧侶魔法を得ているが、彼はいずれ侍となり前衛に立つ予定である。魔法石の材料も少ない今は、一人に集中してレベルを上げるより他無かった。
そして、わたくしたちがそれぞれ魔法を強化して戻ってくると、宿屋ではダークマターが美しい玉を放り投げて遊んでいた。
「ダークマター?」
「あ、へ…じゃなかった、リーエ。ちょいと酒場に行ったら依頼が出てたもんで〜。クルガンと一緒にちゃっちゃとやってきました」
ほいっと放り投げられたものを受け止め子細に検分する。これは…冒険者の魂が宿ると言われているものでは無かっただろうか。
ダークマターはひょいっと肩を竦めて太股の投げナイフを叩いて見せた。
「それ、侍の玉なんで、その気になったら侍にはなれるんですが…武器が無いもので。刀でも手に入れたら、転職させて頂きます。…つーか、俺が前行くと、誰かが下がらないといけないんですよね〜」
ね〜、という言葉と同時にわざとらしく顔を覗き込まれたクルガンは、聞こえなかったように明後日の方向を向いた。どうあっても後衛に回る気は無いらしい。
「ランスの類を手に入れれば、私が騎士に……それこそ、玉が無くては転職もままならぬが」
ユージンが挙手したが、すぐに自己完結してがくりと肩を落とした。
わたくしたちは属性の縛りがあるため、そう簡単には転職出来ない。だが、転職したいという不純な動機で迷宮に巣くう悪しき者を見逃すわけにはいかない。たとえ友好的に見えても、相手は闇に落ちた者たちなのである。わたくしたちに友好的でも、街の者にまで友好的とは限らない。排除しておくに越したことはないのである。
「うむ、私も錬金術師となりたいのだが、錬金術師では鎖帷子が着用できぬのでな。良いローブが手に入れば良いのだが」
レドゥアも口惜しそうに頷いている。
まあ、何にせよ、ここで愚痴を言い合っていても何も解決しない。
わたくしたちはこのドゥーハンを救うため、前へと進んでいくしかないのだ。
そうして、わたくしたちはカルマンの迷宮へと入った。
まるで、あの戦闘が何ヶ月も前のことのように思える。
二階へと続く吊り橋を渡りながら、わたくしはあのシムゾンと言った男をここで見かけたときのことを思い出していた。
彼は、早くしないと子蛇が生まれる、と言っていた。それは、彼の腹から生まれたあの悪しき者のことであったのだろうか。
哀れな男だ。迷宮に挑む前は、才気溢れる冒険者であったらしいのに、下層で卵を植え付けられたのであろう。おかしくなっても不思議は無い。
「そういえば」
思い出したかのようにソフィアが呟いた。
「私たち、彼のために祈ってもいなかったわね」
ソフィアもシムゾンを思い出していたのだろう。素早く印を切ってソフィアは簡素に祈りを捧げた。
「彼の魂が、安らぎの門をくぐっていますように」
「どうだろうねぇ。あのカエル腹は「神様を見つけられなかった」って言ってたからね〜。天国には行き損ねたかもね」
くすくす笑うダークマターの頭をクルガンがぽかりと叩いた。
「カエル腹、は失礼だろう。死者に敬意を払え」
「ふーん。じゃ、あんたはあれの名前を覚えてるんだ?」
う、とクルガンが詰まった。
まっすぐ階段を見つめて言い切る。
「名を呼べ、とは言っていないだろう。カエル腹は失礼だ、と」
「じゃあ、何て呼べって?」
「あ〜……妊婦腹?」
「…よけい失礼だと思うのは、俺の気のせいでしょうか」
たぶん、シムゾンという男は、天へ召されているのだろう。
もしもこの地に留まって怨霊となっていたならば、今この瞬間に突っ込みに出てこないはずが無かろうから。
クルガンの手書きの地図によると、前回大岩を移動させたことによって、三階へは上から落ちてこずとも直接歩いていけるようになっているだろうとの推測が立ったため、わたくしたちは右のシャフトから下へと向かった。
すると、前回は大岩で塞がれていた通路が通れるようになっており、そこをくぐり抜けると、前回の激戦の跡地へと通じていた。
三階への階段へ向かおうとするわたくしに、ダークマターが声をかけた。
「ちょい待って下さい。もう一個依頼を受けてるんで…」
ごそごそと懐から取り出した薬品瓶に覚えがあった。あのラングとかいう医者から受けた回復薬の入った瓶に酷似していた。
「何かね、やっぱ無茶する馬鹿が多いんですって。だもんだから、二階にも回復場所を作っちゃえ〜って依頼で」
「…まあ、大筋では間違っていないが…お前が言うと、とてつもなくアホな依頼に聞こえるな」
「あんたにアホと言われると、大変落ち込みますよ、筋肉馬鹿さん」
いつものようにじゃれ合っている二人はひとまず置いておくとして。
「では、どうするのですか?また上へ戻るのですか?」
せっかくショートカットで階段近くまで降りてきたというのに。
「いえ、確かあそこにちょうど良い大きさの水場があったなぁ、と」
あそこ、とダークマターが指さしたのは、あの魔物が出現した広間であった。
わたくしたちは、無言で広間に入る。
重くたゆたう血臭と吐き気を催す生臭さが未だ消えずに残っている。
広間中央のあの魔物の死体は綺麗に溶け去っていたが、代わりにシムゾンの無惨な遺体が襤褸切れのように横たわっている。
他にも死体が累々と積み重なる奥の水場で、ダークマターは手を浸して水をすくった。
少し口に含んで、うん、と頷く。
「とりあえず刺激も無いし、飲用に耐えうる水だし。ここでOKじゃん?」
我々は、無言でダークマターを見つめた。
それから、水場に体を突っ込むようにして死んでいる死体だの、沈んでいる何かの骨だのも見つめた。
だが、ダークマターは気にせず瓶の中身を水場に開けた。
鼻歌まで歌いながらちゃぱちゃぱと水を掻き回し。
立ち上った仄かな芳香に、満足したように頷いた。
「OK。上のと同じ匂いだし。…へい…リーエ、試してみます?」
「…いざというときのために、残しておきましょう…」
クルガンが無言で水場周辺の死体を片づけている。
引き上げられた顔がどろどろに溶け落ちているのを見て、わたくしは、絶対にここの水は飲むまい、と心に誓った。
それから、ソフィアの提案でシムゾンの死体を広間の隅に埋葬した。
ソフィアは僧侶ではないが覚えはあるのであろう、歌うような呪文を捧げる。ユージンは騎士式の、レドゥアもまた祈りを捧げた。
ダークマターはいつものわたくしたちには理解できない言葉でレクイエムを歌い、クルガンは無言で印を切った。
数度顔を見ただけの男だが、見知った相手を埋葬するのはあまり良い気分のものではない。
彼に家族がいるのか、知らせるべき相手がいるのかどうかも分からないわたくしたちは、ただ、彼の魂に、このドゥーハンを悪しき霊から救うことを誓うのみであった。
そうしてわたくしたちは地下三階へ進もうとした。
だが、階段のところで複数の者たちが会話しているのが聞こえた。
甲高い女性の声と、兜で遮られたくぐもった男性の声。
「触っちゃ駄目よ!まだ生きてるんだから!あたしたちの体なんて食い破られるかもしれないわ」
階段を上がっていくと、鮮やかなオレンジ色の髪をした女性が騎士団の者相手に何かを見せていた。
足音に気づいたのか、女性が振り向く。
「あぁ、あんたたちは、あたしの依頼を果たしてくれた冒険者じゃない?ちょうど良かっただわさ。あんたたち、あそこで何があったか知らない?」
あそこ、と指さしたのは、あの巨大な魔物と戦った広間であった。
隠すことでも無いと判断し、わたくしはポポーに昨日の出来事を説明した。
ポポーの瞳がまん丸に見開かれる。
「まぁっ!じゃあ、あんたたち、あいつを倒したって言うの!?信じられない!運が良かったわねぇ!」
彼女は皮肉を言っている気は無かったのであろうが、クルガンが不機嫌そうに唸った。
運ではない、実力だ、と主張したいのであろう。まあ、確かにクルガンは運がよい方では無いが。
ポポーはその丸い身体を揺すり上げて、手にしたピンセットを振り回した。
その先では薄緑色の紐のようなものが揺れている。
「あいつは、その辺の魔物じゃないのよ。ずっと昔から存在する悪しき霊の一つなんだわさ。普通なら、この世界に存在するはずも無いんだから。あれクラスがほいほい出てこられるはずが無いのよ」
「出てこられたら困るけどね。でも、ここは随分と<門>が開きやすく出来てるから」
ダークマターが何でもなさそうに軽く言った。
ポポーは眉を上げてダークマターを見て、それからオレンジ色の髪をくしゃくしゃに掻き回した。
「そうなのよ。この迷宮は闇の力に満ちている…何でかしら、こんな場所が自然に発生するはずがないのに…あぁっ!」
突然気づいたように、ポポーは目を見開いて硬直した。
「やだっ!本当に次元崩壊が起こるかも知れないっ!こうしちゃいられないわ!ちょっと、あんたたち!」
いきなり振り向いて怒鳴られたため、騎士はがしゃんと派手な音を立てて直立不動になった。
「オルトルード陛下に伝えて!」
「は!?何をでありましょうか!」
「のんびりしてんじゃないわよっ!こんな浅い階でこれだけの<闇の眷属>が実体化したのよ!?下では何が起きてんのか、分かったもんじゃないわっ!」
「はっ!直ちに伝えるでありますっ!」
「こらぁっ!あたしを置いていくなっ!」
騎士団が転移する光に包まれたのを見て、慌ててポポーは駆け寄った。
そして、彼女もまた消えていった。
「…残ってるんですけど」
ダークマターがぼそりと呟いた通り、地面にはうねうねと動く薄緑色の紐が残されていた。
「この体色は、昨日のあいつの一部ではあるまいか?」
「ふむ…では、何かの役に立つやもしれんな」
本当に、役に立つのであろうか…そもそも誰がこのような危険なものを研究するのやら。
ダークマターは懐からガラスの瓶を幾つか取り出した。
見比べてから一つを選び、蓋を開ける。
手投げナイフの先で紐を引っかけ、ガラス瓶に放り込んで素早く蓋を閉めた。その上から細いワイヤーで蓋が外れぬようしっかりと封をする。さすがにあれが出てきて胸を食い破られるのは、ダークマターでも嫌らしい。
そうして、ようやく我々は三階へと向かったのであった。