女王陛下のプティガーヅ



 オティーリエの日誌。


 わたくしは、ソフィアの声で目を覚ました。
 身を起こしてそちらを窺うと、ダークマターのベッドにクルガンが潜り込んでいた、とのことらしい。
 だが、気にしているのはソフィア一人のようで、ダークマターはどうでもよさそうに着替え始めたし、クルガンも面倒くさそうにソフィアをあしらっている。
 そのうち足音高くソフィアがこちらに戻ってくると、ダークマターは小さく肩をすくめながらクルガンの胸をとんと叩き、クルガンもダークマターの頭を軽く叩いた。それで、二人の間では決着が付いたらしい。
 「もうっ!せっかくダークマターが一人で寝ると言っているのに、邪魔をしちゃ駄目でしょうに!」
 いったい、誰のために怒っているのやら。

 魔力の充実したわたくしたちは、酒場で『じゃんけんまんの挑戦』なる依頼を受けた後に、迷宮に向かった。
 B2Fに降り、昨日の続きで左側の通路を選び、梯子を伝って下へ行く。
 ふと空気を嗅ぐように僅かに上向いて、ダークマターが鼻をすんすんと鳴らした。
 「…血の匂いがする」
 つられてわたくし達もあたりの空気を嗅いだが、少なくともわたくしには黴びたような迷宮独特の匂いしか感じられない。
 「大丈夫、鮮血じゃないっぽい。でも、肉が腐った感じはしないしー…あぁ、でも胆汁っぽい匂いがするから内臓はもう腐りかけてるかー…ここの気温を鑑みるに、死後1日から2日ってとこかな」
 ………。
 なんと言うか…鋭敏な嗅覚だと褒めれば良いのだろうか。
 ますます犬のような子だ。
 まだ首を傾げて何かを考えているようなダークマターの、淡い水色の瞳が冷たく煌めいた。
 「それから、これは……上の祭壇と同じ、だね」
 細めた目と吊り上がった唇の両端は、微笑みの形でありながら、凄絶、というのに相応しい表情である。
 「なら、あいつがいるのか?マクベインとかいうフードが」
 「いない。あの男の匂いはしないよ。特徴的だったからね、あの匂いは」
 わたくしには分からなかったが、そんなに酷い匂いがしただろうか?あの男は。
 「すえた血と肉、風化した骨の匂い、それに防腐剤独特の匂い…あんまり動いてて欲しいものじゃなかったからねー」
 軽く肩をすくめながらさらっと言うには似合わない内容だ。
 それでは、まるで…防腐処置を施した死人ではないか。
 わたくしは、それには触れずにダークマターに問うてみた。
 「貴方の嗅覚は鋭敏なのですね。生まれつきですか?」
 「いえ。色々な薬剤を嗅ぎ分けられるよう、訓練されましたから」
 言ってから、冗談のような調子で、
 「あぁ、訓練されたのはクイーンガードの方ですけどね。俺は、どの物質がどんな匂いがするかの記憶があるだけです」
 と、付け加えた。
 ……返答に困る。
 ちら、と目を向けると、やや眉を寄せて不機嫌そうになったクルガンが口を開いた。
 「で?その腐乱死体推定が、どっちの方から臭うんだ?」
 「あっち」
 ダークマターの指さした方の扉を開けると、そこは通路になっていて、扉が並んでいた。
 「んー。どの部屋からも匂うような気がする。これ以上の確定は出来ないよー。犬じゃないんだからー」
 十分、犬並の嗅覚だと思うが。
 「仕方がありませんね。一つ一つ開けてみましょうか。もしかしたら生存者がいるかもしれませんし」
 「鑑別ブレスレットがあるかもしれませんし」
 「混ぜっ返すな!」
 クルガンに殴られて、ダークマターの口から場に不釣り合いな明るい笑い声が漏れかけて、慌てて手で自分の口を覆う。敵の注意を引くのに気づいたのだろう。
 「あの…へい…リーエは、こちらでお待ちになりますかな?」
 扉の前で、ユージンが扉脇の壁を手で指した。
 「何故ですか?わたくしも共に参りますが…」
 「いえ、その。中にあるのは、腐乱死体推定、ということですので、我々で確認しても良いかと思いまして」
 ごほん、と咳払いをして、ユージンはどこか気まずそうに言った。もちろん、わたくしは腐乱死体に慣れていることはない。だが、今は冒険者なのだから、そのようなことを言ってもいられまい。
 「むぅ…私も同感だが、オティーリエをこの場に一人で残すのもまずかろう。オティーリエには、我々の背後でなるべく目を逸らせていていただくということで良いのではないか?」
 レドゥアの言葉に頷いて、わたくしは彼の背後に回った。そのわたくしの背後にダークマターが付く。
 振り返ると、ダークマターは微かに笑って見せた。
 「背後を突かれると厄介ですから」
 なるほど、ここは迷宮の中、閉めたとしても扉から魔物が侵入してこないとは限らない。
 いつも通り、クルガンが扉の罠と鍵を確認し、ソフィアとユージンが扉を開ける。
 それと共に、むっとするような匂いがその部屋から吹き出した。
 確かに、これは…あまり気分の良い匂いではない。
 彼らの間から部屋を覗くと、そこは小部屋になっていて、鉄格子が入っていた。そして、その奥には…。
 いつもの隊列を取ったわたくしたちの前に、鉄格子の戸をくぐってのっそりと人が現れた。
 両手に持った短剣は、べっとりと血塗られている。
 暗い暗い室内で、辛うじて見えた奥の壁は、やはり血が大量に飛び散っていて。
 床に蹲るようなモノがどんな状態なのか、はっきり見えないことを、わたくしは神に感謝した。
 「邪魔を、するな…」
 きーきーというネズミのような甲高い声が、目の前の人物から漏れる。
 「あぁ、それとも、お前たちも、私の、崇高な、研究に、役立ちたい、と、いうのか?」
 一言一言区切りながら、何がおかしいのかきききと笑う。
 「アコの毒を使ったね」
 わたくしの隣に立つダークマターから、平坦な声で問うた。
 平坦、ではあるのだが…何か肌がぴりぴりと刺されるような気配がする。
 男の笑いがぴたりと止まった。だが、体はまだゆらゆらと揺れたまま、馬鹿にしたように手を振る。
 「それを、聞いて、どうする、って言うのだ?」
 「毒は、どこで手に入れた?自分で?それとも…『誰か』から?」
 わたくしなど息が詰まりそうな心地がすると言うのに、男はまるで気にならないのか、またきききと笑った。
 「さあねえ」
 「そ」
 その単音節と同時に、男の腹に何かが生えた。
 男も、驚いたように自分の腹を見下ろす。
 「言う気になった?」
 優しい声の持ち主を横目で見れば、その白い指には投げナイフが挟まれていた。
 「やれやれ、戦闘開始の合図としては、ややフライングだな」
 騎士道にもとる、と言いたいのか、ユージンが首を振った。
 くすくすと笑いながらソフィアも剣を抜いた。
 男は、自分の腹のナイフを抜き取って、床にからんと投げ出した。ついで、手にしていた何やら奇妙な形のものを口に当てた。
 鼓膜を震わせる不愉快な音。
 それが消え失せる前に、わたくしの背後から、ばさり、と何かが羽ばたく音がした。
 手が引かれ、ダークマターの背後に庇われる。
 ばたんっと扉が開いたかと思うと、ハーピーの群がわたくしたちに襲いかかった。
 「引き裂け!顔を掻き毟れ!目玉を刳り抜け!」
 ききき!と甲高く笑う様は、命令しているというよりも、ただ自分の言葉に酔っているようであった。
 しゅっと風切り音が鳴った。
 妖鳥の老婆のような悲鳴と同時に、クルガンの舌打ちが聞こえる。石化し損ねたのが不満なのだろう。
 わたくしはハーピーたちに眠りを放とうとしたが、それよりも早く、魔物はわたくしたちに飛びかかってきた。
 戦士たちはそれを軽く払いのける。わたくしを目がけてきた者は、ダークマターがナイフで払ったが、何分頭上を越えてくるので完全には成功しない。
 「ちっ!早く刀を扱えるようにならないと」
 刃渡り約10cm程度のナイフでは役に立たないと思ったのか、ダークマターは独り言のように呟いた。
 「クルガン、下がりなさい」
 わたくしの声に、クルガンが素早く後退した。
 「スプリーム!」
 2体の魔物が眠りに落ちる。だが、すぐに後列のハーピーがそれを乗り越えてくる。
 「いきます!」
 ソフィアとユージンがそれぞれ斬りかかる。ソフィアの剣は完全にハーピーの息の根を止めた。ユージンが傷つけた魔物は怒ったように羽をばさつかせたが、直後にレドゥアの放った投げナイフが額を貫き、床に落ちた。
 ハーピーたちは数は多かったが、さほど驚異では無い。
 それから3分後には、わたくしたちは床で眠っていたものを含めて全て駆逐していた。
 だが、その一瞬の隙に。
 ききき!と甲高い声を上げて、男がわたくしたちの間を擦り抜けて、扉を開けた。
 どうやらもともと、わたくしたちが魔物に対応して体勢が整わないうちに逃げるのが目的であったらしい。
 「…逃がす気は無いよ」
 そんな言葉が聞こえたかと思うと、青い影がそれを追った。
 「馬鹿者!一人で行くな!」
 ついでに、慌てたような声もそれを追っていく。
 ………まあ、あの二人なら大丈夫であろう。
 残るわたくしたちは目を見合わせた。
 「あー。この間に、あのあたりを検分した方がよろしいか?」
 ユージンは平気そうに言ったつもりのようであったが、寄った眉を見るに、あまり気は進まないようであった。
 指さす先には血みどろの『何か』。
 レドゥアが思案げに目を細める。
 「私としては、見るにやぶさかではないが…先を越されたとなると、あやつは怒りそうだな」
 確かにそうだろう。なにやら毒が使われていたということのようだし、彼らが帰ってくるのを待つとしよう。
 そう言って間も無しに、扉が開いた。
 当然、彼らが帰ってきたものと思ったが、そこに立つのは、1階でも会ったエルフの男であった。
 彼はわたくしたちを見て、僅かに眉を上げ、それから軽く手を挙げた。
 「また、会ったな」
 「貴方も、この階を探索していらっしゃる?」
 「いや…」
 あいまいに首を振って、彼は鉄格子の向こう側に歩を進めた。
 「惨いな」
 眉をひそめて、しゃがみこむ。そして、誰にともなく話しかける。
 「黒き霊を復活させようという奴らがいるのは、知っているか?黒き霊へ捧げる魂は、聖なる属性を持っていた方が良い。そして、かつ、生命に執着している方が効果が高い。死にたくない、と足掻く魂を、手酷い方法で殺すのが最も早く、黒き霊に力を与える。だから、彼らは」
 言って、何かを手に立ち上がった。
 「聖騎士に目を付けたのだろう。人間は最も生命に執着が高いからな。我々エルフは、寿命が長いだけ、生命に執着が薄い」
 彼は、ソフィアを、厳密にはソフィアの耳を見ながら言った。
 「どうやら君はエルフのようだが、どこの部族の者かな?このあたりのエルフ族に、そんなに耳が長い者はいない。今は見えないが、二人のエルフの男も長かったな。そういう一族なのかね?」
 確かに、彼の耳はソフィアの半分といったところか。我々の感覚で言えばハーフエルフだと思えたのだが、どうやらこの時代のエルフは彼が標準らしい。
 ソフィアは何食わぬ顔で耳に触れた。
 「あら、私の一族は皆このくらい長いわよ?ちょっと、血族結婚が多い部族で排他的だから、どこ出身っていうのは言えないけど」
 「あぁ、なるほど」
 エルフの男は納得したのか頷いた。
 そして、わたくしに手を差し出す。釣られて出した手に、何かが落とされた。見かけの割にはやや重いことから、金属製と推測されるそれは、血にまみれていて詳細は分からない。
 「彼らが崇拝する神の像だ。それを掲げて聖騎士たちを生け贄に捧げたのだろう」
 言われてみれば、それは頭部と胴体を持つものに見えた。
 「騎士たちを生け贄に…許し難い行為だ!」
 ユージンが身を震わせつつ、聖なる印を切った。
 騎士とは国のため民のため戦う者たち。それが、このような陰鬱な迷宮の片隅で、切り刻まれて死ぬなどとは、さぞかし無念であったことだろう。
 それこそが、邪悪な者たちの目的であったのだろうが。
 「あぁ、念のため言っておくが、俺は属性悪だが、彼らのような邪悪な意志に心を曲げてしまった錬金術士とは違うつもりだ。…ま、自分がそう思っているだけかもしれないがね」
 最後の言葉は自嘲するような響きを持っていた。
 「貴方は、何のために迷宮に潜るのですか?」
 彼は、僅かに目を見開いて、わたくしの顔を見た。それから、仰々しく手を拡げる。
 「全てを知るために」
 あぁ、彼もまた、錬金術士と同じ指向を持つのだ。
 この世の全てを解明したい、という神をも恐れぬ大それた望みを抱く者たちと。
 知ってどうする、と言うことは簡単であるが、レドゥアも含めて、この知識欲の塊のような者たちにとっては『知らないこと』そのものが耐えられないのだ。
 国を守るため、魔女を倒すため、と言うのに比べて利己的な主張は、一般的には受け入れがたいものであったろうが、わたくしには理解できた。無論、賛同するか否かは別問題であるが。
 だから、わたくしは、ただ頷くのみとした。
 彼は、軽く肩をすくめた。その態度は「分かって貰えるとは思ってなかったよ」と言っているかのようだった。
 「俺の名はウーリ。また会うこともあるかもな」
 そう言って、エルフは立ち去っていった。
 そして、彼と入れ違いのようにダークマターとクルガンが戻ってきた。
 それは良いのだが…やけに大勢の気配がある。
 「ただいまです、リーエ。ベルちゃんまで一緒に来てしまいました」
 「ベルちゃんは止めろ、ベルちゃんは」
 クルガンに叩かれる頭を庇いながらダークマターが説明したのによると、あの悪の錬金術士を追っていたらちょうどベルグラーノ騎士団長に会ったのだと言うことだ。
 ベルグラーノ騎士団長も、この部屋を見ていて、騎士団の者がこのような殺され方をしていることに怒り心頭で、錬金術士が何をしていたのか調べたい、と言うことで、結局一緒に戻ってきたらしい。
 単に錬金術士を城に引き立てればよいようなものだが、わたくしたちの顔を立ててくれたのだろうか。
 「只今、我ら騎士団は忍者共と仲が良いとは言えぬものでな。奴らに尋問を任せられぬという事情もあるのだよ」
 ベルグラーノ騎士団長はあっさりと城の内情を暴露した。
 わたくしの時代にも、騎士団と忍者兵は仲が良いとは言えなかったが。クルガンの顔は確認するまでもない。仏頂面に違いないだろうから。
 それにしても、尋問とは、誰を相手に…。
 「じゃ、どーぞ。俺たちは見てても良い?俺としても、色々と聞きたいことがあるのを譲ってんだからねー」
 そう言いつつ、ダークマターが転がしたのは、あの錬金術士であった。一見ストレインでもかけられているのか、と思えた体だが、よくよく見れば、細い糸で括り上げられていた。
 「まあ、良かろう。ご婦人が見ていて気持ちの良いものではないだろうが」
 ちらりとわたくしとソフィアを見る。
 「その程度で卒倒するような柔な神経は持ち合わせていませんわ」
 ソフィアはけろりと言いのけた。僧侶の中でもソフィアの能力は高かった。すなわち、他の者では癒せぬような者たちが運び込まれる確率も高かったのだ。重傷者を見ている、という点では、ソフィアは確実に『修羅場を見て』いた。
 「わたくしも、見守る義務があると存じております」
 わたくしの言葉に諦めたようにベルグラーノ騎士団長は溜息を吐き、部下の騎士たちに合図を送った。
 騎士たちも面覆いで表情は窺えぬものの相当怒っているのであろう、剣を片手に錬金術士に迫る。
 さて、そこから展開された『尋問』は、クルガンの言葉を借りるなら『騎士の手慰み』らしかった。彼らがわたくしたちをおもんばかってその程度に留めたのか、そもそも騎士たる者、尋問などと言ったことに不慣れであったのかはわたくしには分からなかった。
 騎士が幾筋かの血を流させ喉元に剣を突きつけても、錬金術士は甲高い耳に障る笑い声でのらりくらりとかわしている。
 怒鳴り疲れたのか、騎士の一人が言葉を詰まらせ、一歩下がったのを契機に、ダークマターが一歩前に進み出た。
 「ベルグラーノ騎士団長」
 ベルちゃん、ではなく正式にそう呼んで、彼の前に立つ。
 そうして、この場には似合わないほどにっこりと笑って。
 「あっち向いてほい」
 ひょいっと指先を彼の目の前から横へと流す。
 一瞬、戸惑ったベルグラーノ騎士団長が、不意ににやりと笑った。
 「良いだろう。乗るとするか」
 そう言って、ダークマターの指の方向を向いた。
 ダークマターは当然といった風に錬金術士に歩み寄り、他の騎士にも
 「あっち向いてほい」
 と、指を流した。
 彼らも戸惑ったようだが、騎士団長の頷きを見て、一斉に横を向く。
 「はい。じゃ、騎士さんたちには見えないところで、俺の質問に答えてね」
 語尾にハートマークでも付いていそうな楽しそうな声だ。余程ストレスが溜まっていたのだろう。
 「あの騎士にはアコの毒が使われてるよね?アコの毒って、俺、嫌いなんだよねー。感覚はそのまま、むしろ鋭敏にさせておいて、体の自由だけ奪う。ま、濃度によっちゃ媚薬にも使われるけどさ」
 独り言のような言葉は、騎士たち及びわたくしたちへの説明なのだろう。
 「アコに浸されたまま、散々切り刻まれたら、そりゃ普通よりさぞかし痛かっただろうねぇ。おまけに意識ははっきりしてる。拷問にはもってこいの薬物だよねー」
 騎士たちは横を向いたままだが、がしゃりと金属鎧が鳴った。怒りを押し殺しているのだろう。
 淡々と言いながら、ダークマターはいつもの投げナイフではなく、懐から短剣を取り出した。それからガラス瓶を一つ取り出して、それに垂らす。
 「だけど、俺は嫌いなんだよね。気づかれないうちに速やかに死に至らしめるのこそ、毒の醍醐味だと思ってるからね。どーゆー目的だったかは聞かないよ。どーせ、苦しめて殺すのが目的だろうからね。てことで、まず、第一問。アコの毒の入手経路を述べよ」
 相変わらず言葉は淡々としたまま、錬金術士の体に、ひょいっとでも表現したいような気軽さで、短剣が突き立てられた。
 先ほどまで、騎士の責めには全く反応しなかった錬金術士が、きーっと甲高い悲鳴を上げて身を捻った。
 「あぁ、ガハール蛇の毒を使ってみました。ガハール蛇ってどんなのか知ってる?普通は毒蛇だと認識されてないみたいだけどさ、喉の奥の方に毒牙があるんだよね。余程ちょっかいかけない限りは、そこまで奥深く噛まれることはないから、危険な蛇だとは思われてないけど」
 わたくしも名前だけは聞いたことはある蛇だが、毒蛇という認識は無かった。それにしても、わたくしたちがここに現れたのは冬。一体、いつ蛇の毒など入手したのだろう。
 「毒性は緩いよ。即死じゃない。けど、すっごい痛いっしょー。主体は筋肉融解毒なんだよね。噛まれたらさ、そこからゆっくりと筋肉が融けていって、骨と皮だけになっちゃうんだよねー。そうなったら、ポイズケアもフィールも効かないよ」
 にっこりと天使もかくやという笑みを浮かべる。
 「今、刺したのが左手っしょ?ま、だいたい肘から先は無くなったと思って貰って構わない。…で、言う気になった?」
 錬金術士の顔色が真っ白になった。
 わたくしも、あまり良い気はしない。肉が融け、骨ばかりとなった腕…彼が無罪放免されることはなかろうが、それでも嬉しくはない事態であろう。
 「あ、念のため言い添えておくとさ、ネズミにちょびっと毒を与えて、抗血清も造ってあるからさ、今ならまだ間に合うかもしれないよ?」
 言いながら、また短剣にガラス瓶から無色の液体をとろりと垂らした。どうやら短剣の中央には深い溝があり、毒を流し込むのに適した構造となっているようであった。
 だが、またどこかを刺すのかという予想を覆して、ダークマターは短剣を錬金術士の顔に近づけた。
 たらり、と液体が見開かれた目に流れる。
 きーーっっ!と激しい悲鳴と共に錬金術士は転げ回る。
 「目が…目がぁっ!!」
 「第一問、覚えてる?アコの毒の入手方法ね」
 「言う!言うから…頼む、血清を!」
 「答えは?」
 「俺だ!俺が、自分で、合成…」
 「じゃ、その材料は?」
 ふと錬金術士が詰まる。
 明らかに、嘘をついているのであろう。
 「じゃ、、第2問ね。…誰に言われて、こんなことしてんの?」
 「べ、別に、俺は、誰の命令も、聞いてない」
 「ふぅん」
 ダークマターが再び短剣を近づけた。
 「もう片方の目も潰しとく?可哀想にねー、錬金術士でありながら、今後二度と自分の目で物事を確認できない、なんてさー。お手々も使えなきゃ実験もできないしねー」
 ころころと笑うダークマターを、追いつめられた小動物の目で見上げ、錬金術士は喉から声を振り絞った。
 「名前は、知らない!本当だ!フードを、被った男が、ここには、楽しい、実験材料が、たくさん、あるって、言ったから…!」
 短剣の距離はそのままに、ダークマターが低く言った。
 「フードの男。…ベルちゃん、他に聞きたいことある?」
 明後日の方向へ向いたままの騎士団長は、口髭を撫でた。
 「さて…」
 「お、おい!答えただろう!?早く、血清を……」
 ダークマターは屈めていた腰を伸ばした。
 短剣を布で拭いつつ、あっさりと言う。
 「あ、それ、嘘だから」
 血清が無い…?
 ダークマターは、くくく、と楽しそうに喉を鳴らす。
 「仮にも僧侶だよ?俺。毒なんて持ってる訳ないじゃん。これ、ただの高濃度アルコールだよー。匂いで気づけよ、ばーか」
 心底馬鹿にしたような口調に、錬金術士の顔が、さっと赤く染まる。
 匂いはわたくしも気づかなかったが、あれだけ顔に近づけたなら気づきそうなものだが…錬金術士の顔は、先ほど騎士に殴られて腫れ上がっている。鼻血も出ているようだし、そのせいで匂わなかったのであろう。
 騎士たちは、どこかほっとしたように息を吐いたが、わたくしたちは心の中で一斉に突っ込んでいた。
 毒を持っていない、なんて大嘘を平然と言うものでは無い、と。
 ただ、ガハール蛇の毒を持っていないというのは本当なのだろう。蛇は冬眠中であろうから。
 錬金術士の肩が震えている。俯せた顔からは呪詛のような呻きが漏れている。
 いきなり、それが顔を上げた。
 そこからの一連の出来事は、わたくしの目では全て確認できなかった。
 落ち着いてから考えてみて、このようなことが起きたのであろう、というのを書いてみる。
 まず、錬金術士の口から何かが飛び出した。
 それが触れる直前、ダークマターの顔の前にクルガンの手が伸びて、それを受けた。
 ダークマターのかかと落としが錬金術士の首筋に決まり、錬金術士は倒れ伏した。
 そこまでの出来事は、本当に一瞬のことであった。
 ダークマターは顔色を変え、クルガンの手に鼻を寄せた。
 そして手を覆っていた布を引きちぎるように取り去る。
 「リーエ、クレタをここに!」
 質問はしたかったが、彼の切羽詰まったような表情に、何も言わずにクレタを唱える。
 そうしてクルガンの手を掴み、宙に浮かんだ火球に近づけた。
 肉の焼ける嫌な匂いがする。
 さすがにクルガンは顔色一つ変えていないが、わたくしたちは些か胸が悪くなる。
 必死の形相でクルガンの手を焼いていたダークマターが、ようやく火球から離し、炭化したそこをぺろりと舐めた。
 「…間に合った…」
 言葉の割には強張った表情で、続けてポイズケアとフィールをかける。
 清潔な布で手を巻くダークマターの頭を、クルガンが軽く叩いた。
 「ご苦労さん」
 「…何で、こんなことしたか、聞かないのか?」
 「ん?お前が必要だと判断したんだろうが。なら、そうなんだろう」
 あっさり言い切るクルガンに、ダークマターは泣き笑いのような顔になった。
 白い布で包まれたクルガンの手を、おし抱くようにして、ごめんね、と呟く。
 「私は、説明して欲しいのだが…」
 ユージンの遠慮がちな声がかけられる。
 騎士団長も、興味深そうに目を光らせつつ言った。
 「最初からポイズケアではいけなかったのかね?」
 ダークマターは息を吸い込み、またゆっくりと吐いた。
 「まだ、毒じゃないから。それが、ペールトースの毒の厄介なところ」
 ペールトースの毒。確か、勇者ペールトースは戦場では無敵であったが、嫉妬に狂った奥方が毒を染み込ませたシャツを着せたために死んでしまった、とかいう伝説がある。その毒であろうか。
 「皮膚や筋肉にゆっくりと範囲を広げながら浸透していって、骨に触れた途端」
 ダークマターは説明しつつ、短剣で自分の僧衣の裾を切り取った。しゃあっという音が鋭く響く。
 膝丈になった僧衣を気にすることなく、切り取った布を更に裂く。
 「毒性を持って、骨を一気に破壊すんの。毒を盛ってから効果発現までに時間がかかるって点においては暗殺に便利な毒なんだけど、扱いが面倒で。自分が触れちゃっても、骨が砕けて初めて気づく、みたいなことになるからねー。廃れた毒なんだけど…口ん中で合成したのかな?どーせ自分が助からないと思って、やってくれるじゃないか」
 口元だけで笑いながら、切り取った僧衣に別のガラス瓶から液体を注ぐ。
 何やら酸っぱいような、甘ったるいような、気持ちの悪い匂いが微かに漂った。
 空のガラス瓶を懐にしまい、布全体に液体が染みわたるように揉んでいる。
 そして、ダークマターは気を失っている錬金術士の髪を引っ張り顔を上げさせた。
 短剣を使って、その口の中に布を詰め、もう一枚の布で口と鼻を覆って後頭部で結ぶ。
 「これで、よし、と」
 てっきり、もう毒を吐かれないような処置だと思えば。
 ダークマターは短剣で落ちていたクルガンの手覆いの布を拾い上げ、錬金術士の大腿部にそれを置き、上から突き刺した。
 途端、悲鳴と共に錬金術士が目を覚ます。
 くぐもった声で何かを言いかけた錬金術士の目が、ぎょろりと見開かれる。
 喉が幾度か、ぐるぐると鳴った。
 「うーむ、これでも重要な証人なのでな、死なせては困るのだが…」
 ベルグラーノ騎士団長が、どこか楽しそうに言う。
 ぐげ、と、ついに錬金術士は嘔吐したようだ。
 だが、吐いたものは口中に詰め込まれた布に阻まれ、それを嚥下する事もできず喉を詰まらせるばかり。
 ダークマターは、騎士団長に肩をすくめて見せた。
 「毒じゃないから、死なないんじゃない?運が良ければ」
 「ほぅ?では、何かね?」
 「逆に、毒を食らった時用の薬剤だよ。つまり、催吐剤」
 言葉通り、毒を飲んでしまったときに、速やかに吐かせるときの薬、ということであろうが。
 それを口中に詰め込まれていては、吐き気を催してはそれを吐けず…。
 ダークマターの顔は、笑ってはいたが、どことなく沈んでいた。
 「ま、事故死に見せかけるときに便利だから、こーゆーやり方を知ってんだけどね」
 確かに…これで吐物を喉に詰まらせて窒息死してから布を取り去ってしまえば、ただの事故死か病死のように見えるだろう。
 「ちょっと虐めたくなったから使っただけだよー。適当なときに解放してやってね」
 やってね♪と可愛らしく小首を傾げても、目の前に転がっているのは、背中を波打たせ吐いてはごろごろと喉を鳴らしている錬金術士となれば、少しも和みはしない。
 あぁ、錬金術士の目から、涙ならぬ吐瀉物が滲み出てきている。
 「ふむ」
 その一言に、警戒したようにダークマターは表情を無くした。
 「以前も聞いたが…君は、どこの所属の僧侶なのかな?」
 「以前は、冒険者の出自は問わない、って聞いたけど?」
 「あぁ、だが、王家に害をなす存在は、早めに対処せねばならない役処なものでね。返答次第では…」
 騎士団長はふと言葉を途切らせた。暗に、上手く言い逃れろ、と逃げ道を示されているように感じたが…。
 「彼は、わたくしの護衛です」
 わたくしの言葉に、ダークマターは首を振った。
 「それ、質問の答えになってないし。…ま、いーや。俺も質問の答えとは違うことを答えるけどさ。俺は、元暗殺者だよ」
 さらりと事実を述べる。
 騎士団長にとっては、絶対に見過ごすことの出来ない事実を。
 だが、ベルグラーノ騎士団長が動く前に、ダークマターの前にクルガンが進み出た。
 「勘違いするな。これが暗殺者として訓練を受けたのは事実だが、暗殺者であったことは無い」
 「そして、彼のターゲットはわたくしでした。彼が今後暗殺者となることは無い、と神に誓って宣言できます」
 騎士団長は、わたくしたちの顔を順にじっくりと眺めた。
 わたくしは、彼の目を真っ向から見返す。
 もしも彼がダークマターを『処罰』することになるなら、騎士団と事を構えても良い覚悟で。それは多分、レドゥアやソフィア、ユージンも同じ想いであろう。
 困ったようにこめかみを掻くダークマターに、クルガンは低く言った。
 「おい、お前は暗殺者として人を殺したことは無いだろうが。胸を張っていろ」
 「そりゃ…無いけどさ。胸を張れって言われてもなー、所詮、日陰者だしなー」
 「今のお前は冒険者で、リーエのガードだ。何を恥じることがある」
 「言葉遊びだよ、それ」
 神経質にくすくす笑うダークマターを見つめて、騎士団長は口髭を撫でた。
 「何故、止めたのかね?」
 しばらく、間をおいて、ダークマターがにっこりと笑う。
 「カーカスやカテドラルかけられるのが面倒臭かったから。まずは寺院の奴らを皆殺しにしてから、へ、リーエを殺せば良かったんだろうけど、俺、そーゆーダイナミックな暗殺者じゃなかったから」
 いわゆる「静かな暗殺者(サイレント・アサシン)?」と付け加える。
 騎士団長は苦笑しながら首を振った。
 「それは、暗殺を取りやめた理由だろう。暗殺者を止めた理由は何かね?」
 「え……」
 ダークマターは口を噤んだ。
 困ったように上目遣いに騎士団長を睨み、また目を反らせて足下を見つめる。
 「な、何で、そんなことに興味あるのさー」
 「まずは、君が本当に『元』暗殺者であることの納得できる理由が欲しいこと。それから、後は…今後暗殺者を捕らえた際の参考に、と思ってね」
 「さ、参考には、ならないと思うけどなー」
 「聞いてみなければ判断できないが」
 ダークマターは、自分の髪を指に巻いたり耳を掻いたり唇を引っ張ったりと、動揺している。
 「……俺じゃなく、他の奴が暗殺者を止めた理由なら」
 「ふむ、まずはそれを聞こうか」
 「そいつは、ちょっと頭のいかれた司教に育てられたんだけどさー」
 その出だしで、わたくしたちにはダークマターが本人のことを話し出した、と分かった。いや、彼にとっては、あくまでクイーンガードダークマターのことであり、他人のことなのかもしれないが。
 「暗殺者に人間の感情なんか必要ない!って感じでー、感情を削ぎ落とされる方向で教育されてたんだけどさ。で、うまくターゲットの護衛として雇われたのは良いんだけど」
 その時点で、騎士団長にも、この話が誰のものかは薄々気づかれたようで、わたくしの顔を確かめるように見やった。
 「そしたらさー、何て言うか…何て言うか…」
 言葉に詰まったのでちらりと彼を見ると、驚いたことにその長い耳は真っ赤であった。
 熟したリンゴのような色の耳が、恥ずかしそうに項垂れている。
 「任務に出て帰ってきたら、皆が『お帰り』とか言うんだよー。で、そしたら、俺も『ただいま』って…5歳の時に司教様に拾われて以来、そんなやりとりしたこと無かったからさー、何かすっごいそれが…なんつーかこう…あったかくってさー…」
 どうでも良いが、彼は自分が『俺』と言ってしまったことに気づいているのだろうか。
 「それから、ちょっとそこを離れる度に、帰ってきたら『お帰り』『ただいま』って。怪我して帰ってきたら、滅茶苦茶怒るしー…あ、それは本気で心配してるってことなんだけどね」
 わたくしは、怪我を見て怒ることはない。心配はするが。怒るのは、クルガンぐらいだろう。
 「そしたらさー、何て言うかさー…それって『家族』かなーって…」
 小さくなった声と、ますます情けなさそうに垂れた耳が、非常に可愛らしい。ソフィアが抱き締めたいのを我慢しているのか、握り拳をふるふると震わせている。
 「そこが帰る場所なんだなーって、この人たちは家族なんだなーって思ったら…やっぱ、殺せないっしょー、家族は」
 そこまで言ってから、目の前にあったクルガンの背中に顔を埋めた。
 「うわーん!めっちゃ恥ずかしいって!何が恥ずかしいって、そんなアホみたいなことに絆されたこと自体が恥ずかしいんだってばーっ!!ちくしょー、司教様、絶対教育方針間違ったぞ〜〜!!」
 多分、司教は聞いてないし、反省もしないだろう。
 それにしても、彼がそういう風に考えていたとは…わたくしは家族と言われて嬉しくこそあれ、不愉快ではないが、ソフィアのように恋愛感情があるものからすれば、衝撃的なのでは無かろうか。
 「良い話だな」
 騎士団長の暖かい声に、ダークマターは、きっ、と目を上げた。
 「なーんにも!結局、そいつは死んじゃったしね。誰かさんは信用してくれなかったし!」
 「…それについては、謝っただろうが」
 「ま、そんなことは、俺には関係ないけどね!どーせ死んじゃった奴の話だし!」
 やれやれ。
 騎士団長は面食らったように、目をぱちくりとさせている。
 それはそうだろう。今まで、照れ隠しで「他人の話」と言っているだけで、実は彼自身の話だろうと思っていたところが、「そいつは死んだ」などと言われたら。
 だが、それ以上の説明はしない方がよかろう。ややこし過ぎる。
 「さて、彼の疑いは晴れましたか?ダークマターはわたくしの大事な護衛です。多少他の者と異なる技術を身に付けているだけです」
 騎士団長は少しばかり考え込んだが、すぐに大らかな笑みを浮かべた。
 「良いだろう。君たちを信用しよう。実はレジーナの件で、君たちに直接礼を言いたい、と陛下が仰ったため、君たちを城に招待せねばならないのだ。陛下の御前に暗殺者を出すわけにはいかなかったものでね。詮索してすまない」
 「御前にですか?」
 「あ、じゃ、何だったら俺は控えておくけどー」
 「構わんよ。君は暗殺者ではなく僧侶なのだろう?だっくん」
 「…だっくんはやめてってば」
 まだ赤い顔でダークマターは苦笑した。
 
 そんなやり取りのさなか、錬金術士は土気色に変わっていた。
 時折身体がぴくぴくするところを見ると、死んではいないのであろう。
 おそらく。





 

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