クイーンガード・ダークマターの一日




 朝7時。
 鐘の音で目覚める。
 「…しまった…寝過ごした…」
 窓から外を覗くと、しとしとと雨が降っていて薄暗い。いつも鳴く小鳥の声も聞こえない。
 そうでもなければ、いつも通りの時刻に起きただろうに。
 だが、きっと毎朝鍛錬するのが日課となっているあの男は、いつも通りいつもの場所で待っていただろう。
 約束を特に言葉にしているわけではないが、さぞかし嫌味を言われるだろうと思うと、朝から頭が重かった。
 もっとも、雨が降っている日はどうも苦手で、いつでも頭が重いのだけれど。

 7時半。
 食堂に行く。
 …と、途中の廊下で長に出会う。
 「おはようございます」
 きっちり挨拶したにも関わらず、横をすり抜けようとしたら長は手にした杖で彼の頭を叩いた。
 「…痛いです」
 「ダークマター。クイーンガードたるもの、身だしなみにも気を使わぬか!」
 彼は、自分の体を見下ろした。
 任務に就くにはぎりぎりの時刻であったため、適当に普段の服装をして、軽い鎧を着けているつもりなのだが。
 長は、ぐいっと彼の首のあたりを掴み、マントの留め金を直して、背中に回ってびしっと引っ張った。
 「陛下の御前に出るまでに、寝癖も直しておけ!」
 「えーと…はい。善処します」
 ぺこりと礼をして、憤然と立ち去る長を見送った。なんだかんだ言って服装を直してくれたのに、礼を言うのを忘れたのに気づいたのは、とっくに食堂に着いてからだった。
 「すみません、遅れました」
 すでに空いている食堂で、カウンターから賄いのおばちゃんに声をかける。
 「あいよっ!おはようさん、ダークマター様っ!」
 「おはようございます」
 「今日は、パンケーキとカボチャのスープとフルーツヨーグルトとサラダだよっ!」
 「パンケーキ」
 思わず、ふにゃっと笑った彼に、おばちゃんはウィンクして見せた。
 「きっとあんたが喜ぶだろうと思ってね。ちゃんと取っておいたさ」
 「はい、ありがとうございます」
 「それにとっておきのアカシアの蜂蜜を付けたげるよっ!特別サービスだよ!」
 「ありがとうございます」
 山盛りのパンケーキにたっぷりと蜂蜜をかけて貰って、彼はまたふにゃっと笑った。
 彼は本当に美味しそうに、幸せそうに食べるため、食堂のおばちゃんのアイドルであった。
 トレイの上に朝食を乗せて貰って、彼は窓際の席に座った。両手を組んで祈りを捧げた後、もくもくとパンケーキを平らげ始める。
 「ここ、いいかしら?」
 彼が目を上げる前に、前の席に女僧侶が座った。
 オレンジジュースとヨーグルト、サラダのみのトレイを置いて、やはり祈りを捧げる。
 それから、おもむろにヨーグルトの中の果物を取り分けて彼の皿にひょいひょいっと入れた。
 山盛りになった果物に当惑している彼をよそに、女僧侶はヨーグルトを口に運んだ。
 「あぁあ、朝って調子出ないわぁ」
 ダイエット、と言うのでもないが、食の細い彼女は、食堂のおばちゃんからはあまり好かれていない。やはり、おばちゃんも自分の作ったものを喜んで食べてくれる人の方が好きなものである。
 簡単な食事をさっさと取り終えた女僧侶は、改めて目の前の彼を見た。
 「あら、ダークマター、すごい寝癖よ?」
 「長にも言われた」
 自分では見えない前髪を弄ると、女僧侶の目が異様に輝いた。
 「ちょっと待っててね。私がやってあげる」
 返答も待たずに立ち上がり、ハンカチを手にカウンターに向かった。
 「お湯、ちょっと下さいな」
 おばちゃんも会話は聞いていたのだろう、快くハンカチにお湯をかけ、軽く絞って寄越した。
 ひたすら黙々と食べ続ける彼の背後に回り、女僧侶は彼の頭にハンカチを置いた。
 「…熱いです」
 「ちょっと我慢してね」
 …本当に熱いんですけど、と心の中で泣きつつ、彼は食べることに専念した。
 女僧侶は楽しそうに彼の髪を濡らしていき、それから指で梳いていった。
 「んふふふ〜ふふふ〜」
 鼻歌を歌いながら弄っていた女僧侶が「出来たわ♪」と手を離したのは、勤務時刻ぎりぎりになっていた。
 彼は慌ててトレイを手に立ち上がり、カウンターに返しに行った。
 「あらやだ、ちょいと!可愛いじゃないの!おーい、皆、見に来てごらんよ!」
 「あ、あの…急ぐんですが…」
 「あーら、いやだ!」
 「可愛いわ、ダークマター様!」
 「今日一日、その頭でいなよ!」
 しつこいようだが、彼は食堂のおばちゃんのアイドルであった。
 結局、始業の鐘が鳴った後に食堂を飛び出した彼が、自分の髪型を確認する暇は無かったのだった。

 8時。
 訓練場所に走ってやってきた彼は、配下の傭兵たちに謝った。
 「すまない、遅れた」
 ざわついていた傭兵たちは、更にざわめきを大きくした。
 「隊長〜!何ですか、その頭は!」
 「?えっと…寝癖が酷いからって、ソフィア僧侶が…」
 思わず髪に手をやって、触れるものに首を傾げた。頼りない薄く柔らかい何か。
 ぷちっと引っ張って千切れた物を見て、彼はますます首を傾げた。
  何故、俺の頭に花びらが付いているんだろう?
 「あのね、隊長」
 大柄な傭兵が、溜息を吐きつつ彼の肩を叩いた。
 「遊ばれてます」
 「駄目っすよ、隊長!ちゃんと嫌なことは嫌!って言わなきゃ!」
 「隊長が言いにくいようなら、俺たちが言いますから!」
 彼は困惑してもう少し丁寧に自分の髪を触ってみた。細かい三つ編みが結いこまれているような気はする。それと、何故か花びらの感触と。
 「えーと…つまり、この髪型は…?」
 また、気の毒そうに肩を叩かれる。
 「女官の髪型です」
 ちょっと想像してみた。
 己の顔に、女官の髪型。おまけにピンクの花付き。
 「…悪趣味だな…ソフィア僧侶…」
 顔を顰めた彼に、何故か部下たちは握り拳で力説した。
 「いや!すっごい可愛いっすよ、隊長!」
 「その辺の女官より、よっぽど似合ってますぜ!」
 自分を慕っている部下が、気を使っているのは分かった。
 気の使い方の、方向性としては間違ってる気はしたが。
 「解いてから、訓練に入りますか?」
 んー、と彼は考えた。
 しかし、すでに遅刻したことだし、結われた髪は落ちてこず、動いても問題ない、むしろ便利なようだったし。
 「面倒だから、このままでいい」
 「隊長がそんなんだから、遊ばれるんですよ…」
 部下の溜息を意味は、よく分からなかった。

 12時。
 訓練終了。
 雨は霧雨に変わっていて、訓練に支障はなかったが、服はじっとり濡れてしまった。
 汗はあまりかいてなかったが、服が張り付いて気持ち悪いので、部下に混じって水場に行った。
 そこでは、傭兵たちが上半身裸になって水を浴びてはタオルで拭いている。
 同様に鎧を脱いでいくと、部下たちが彼を取り囲んだ。
 「俺たちが壁になってるので!安心して脱いで下さい!」
 「なぁに、他の奴らにゃ髪の毛一本たりとも見せませんとも!」
 骨格が歪んでいて、筋肉の付き方もいびつな彼の体は、見ていて楽しいものではない。
 別に自分の体が疎ましいと思ったことは無いが、あえて他人を不愉快にする必要も無かったので、彼は部下に感謝して裸になった。
 タオルで拭いてから、絞ったシャツをクレタを出して乾かす。
 髪も解こうとして、少し悩んだ。
  どこがどうなっているのか、分からない…
 それでも解いていったら、ついに二進も三進も行かなくなってしまった。
 「…絡まった…」
 困惑してそう漏らすと、部下たちも騒いだ。
 「うわ!何をどうしたらこんなことになるんですかっ!」
 「最初から俺たちに頼んで下さいよ!」
 「す、すまない…どうしようもなければ、切れば良いか、と…」
 「そんな勿体ないことが出来ますかっ!」
 「おーい、レットー!お前、細かいの得意だろう!」
 大騒ぎしつつも、3人がかりくらいで髪を綺麗に解いて貰い、彼は部下に頭を下げた。
 「ありがとう。助かった」
 自分よりも体格の良い部下たちが、次から次へと彼の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
 「このくらい、いつでもしますって!」
 「いや、本当は遊ばれなきゃいいんですけどね…無理でしょうね、隊長には…」
 剣の実力としては遙かに自分が勝っているのだが、社会適応能力は確実に負けている自覚のある彼は、部下の溜息にとりあえず「すまない」と謝った。
 だが、大柄な傭兵は慌てたように手を振った。
 「謝んなくていいんすよ、そのくらいで!」
 「隊長は、俺たちに腰が低すぎです!」
 『強いリーダー』というものが求められているのだろうか。しかし、あまり怒鳴り散らしたり居丈高になるのは好きではない。
 よく分からない『世間』なるものを部下たちにむしろ教えて貰っている彼は、ちょっぴり立場が弱かった。
 謝礼と謝罪は人物間摩擦解消の基本、とロードに教えられた彼は、その2種類の言葉を口にするのに躊躇いはない。相手が食堂のおばちゃんだろうが、配下だろうが、陛下だろうが、だ。
 まあ、よくよく考えると、不死の王に教えられた『人付き合い』というのも、信用できるんだか出来ないんだか、微妙なところであったが。
 悩んでいる彼の背中を、傭兵がばしばしと叩いた。
 「ま、隊長には俺らが付いてるんで!多少ヘマしてもフォローしますぜ!」
 「そうっすよ!隊長は、ちょっとくらい抜けてるとこが可愛いっんすよ!」
 …抜けてる?
 ……可愛い?
 頷きがたいものを感じつつも、彼は、とりあえず部下の好意に感謝するのだった。

 12時半。
 午後は陛下付き勤務のため、自室で着替えた彼は、食堂へ急いでいた。
 そこへ、声をかけた者がいた。
 栗毛で軽くウェーブのかかった髪が可愛らしい女性だ。ただし、目のキラキラから見るに、ちょっぴり気が強そうで、自信家なところを窺わせる。
 えーと、確かこれは清掃に従事する娘の一人だ、と彼は思い出した。
 「あの…!ダークマター様!よろしければ、お時間を頂けないでしょうか」
 彼は空腹だった。
 しかし同時に、空腹には慣れきっているのもまた事実だった。
 面倒くさい。
 本当に、面倒くさい。
 上手に女性をあしらうことの出来ない自分は、きっと昼飯を食いっぱぐれたまま、午後の鐘が鳴ってようやくそれを理由に逃げ出せるのだ。
 そんな未来が見えていながらも、後回しにするとずっと胃が痛いので、さっさと苦痛を味わうことにした。
 彼女に導かれ、裏庭の水場に行く。
 予想通り、彼女は綺麗な瞳を輝かせてきっぱりと言い切った。
 「貴方が好きです!私とお付き合い下さい!」
 苦手だ。
 どうしようもなく苦手だ。
 どうして女性たちは、自分が「人付き合いが苦手なので勘弁して下さい」と言っても、全然聞き入れてくれないのだろう。「俺みたいな醜いのを相手にしなくても」と忠告しても、聞く耳持ってくれないし。
 その時、彼は同僚の助言を思い出した。
 「そういう時はね、他に好きな人がいるって言うのよ。そうしたら、諦めてくれるから」
 それに従って、彼はつっかえながら、そう言ってみた。
 だが、栗毛の彼女は、諦めるどころか、食ってかかってきた。
 「え!?どなたですか!?教えて下さい…そうしたら、私も諦めがつきます!」
 …全然、駄目じゃないか、と彼は同僚を恨めしく思った。
 さあ、どうしよう。
 実際にはいないんだし、仮に適当な名前を挙げた場合、その人に知れたら気を悪くするんじゃないだろうか。
 「え…と…その…」
 後ずさる分だけ、彼女はずずいっと迫ってくる。
 「私よりも、綺麗な人ですか!?」
 正直、彼に女性の美醜はよく分からなかった。
 陛下やソフィアやクルガンや長は綺麗だと思う。
 ちなみに、前2者はともかく、クルガンという名が入った時点で他の人は変な顔をし、最後の長を聞いた時点で、彼のことを珍獣を見るような目になるのだが。
 どうしよう、と彼はひたすら困惑した。
 その時。
 王宮の内部を通る気配に気づいた。
 「あ、クルガン」
 ぼそり、と彼は呟いた。
 そういえば、朝の鍛錬をすっぽかしてからまだ会ってない。
 一言謝っておいた方がいいんだろうか。
 でも、今、声をかけると目の前の彼女を無視してるみたいだし…と彼女を見た。
 すると、栗毛の可愛い女性は、目がこぼれそうなほどまん丸に見開いていた。
 「あの…今、クルガン様と仰いましたか?」
 自分は、今、何か変なことを言っただろうか?と彼は考えて、ようやく、そう言えば『好きな人』の話をしてたんだっけ、と思い出した。
 そして同時に、同僚の助言をもう一つ思い出した。
 「好きな人がいる」と言う、本当にそれだけで諦めるものだろうか、と首を傾げていた彼に、女僧侶は僅かに頬を染めて続けたのだった。
 「相手がその辺の侍女ならともかく、クイーンガードなら競争相手にはならないって、諦めやすいと思うわ」
 クイーンガード。
 クルガンもクイーンガードだし、ま、いっか。
 確かに、クルガンと敵対出来る人間は、少なくともドゥーハン国内にはいないと思うし。
 そう結論づけて、彼は頷いた。
 「ク…クルガン様…クルガン様ですか…」
 栗毛の彼女は、下を向いてぷるぷると震えていた。
 何か怒らせただろうか、と彼は困惑した。
 「あの…このことは、クルガン様には…?」
 涙さえ浮かべている彼女に、彼は焦った。何故泣くのか不明だ。
 「ま、まだ言ってない…けど」
 後で、口裏を合わせて貰わないといけないんだろうか、と彼は思った。
 「分かりました…!私…私…ダークマター様がお幸せなら、それで…!」
 えーと。
 よく分からないけど、引き下がってくれたようだ。
 彼女は、がっしりと彼の手を握り締めた。
 「ダークマター様も、辛い恋をなさっておいでなのね…私、応援してますから!」
 えーと。
 つらいこい。
 面、憩い。…違うだろうな。
 辛い、濃い。請い。鯉。恋………辛い恋?
 「は?」
 「頑張って下さい!是が非ともクルガン様のハートをゲッチューですわ!」
 「……は?」
 とりあえず、何を言われているのかさっぱり分からなかったが、彼女が駄々をこねることなく引き下がってくれたのだけは確かなようだった。
 「えーと。それじゃ、俺は午後の勤務があるので」
 「はい…お幸せに…!」
 勤務に幸せも不幸せも無いんじゃないか、と思いつつも、彼は速やかにその場を離脱した。

 どうにか立ち寄ることの出来た食堂では、おばちゃんが特別にサンドイッチを作ってくれていた。
 「これなら勤務の合間に食べられるだろ?頑張ってきな!」
 「ありがとうございます」
 そして、彼はピンクの可愛い包みと共に、執務室に急いだのだった。

 1時。
 陛下と共に執務室。
 女王陛下は、彼を一目見て残念そうに言った。
 「あら、ソフィアが自信作だと言うので楽しみにしていたのですが」
 「…何が、でしょう?」
 陛下の視線は自分の顔より上、髪のあたりのようだ。触ってみて、そう言えば今朝女僧侶が女官の髪型とやらにしたのだと思い出した。
 「えと…訓練時に濡れましたので、解きました」
 「そうですか…次は見せて下さいね」
 次があるのか。
 何故そんなものを見たいのか。
 だが、彼は一言絞り出すのみだった。
 「…善処します」
 これは便利な言葉で、『善いように処理したいと思っている』が、確約はしていないのだ。ロードには、他人に言質を取られたくない時に使うよう言われているが、利用頻度は結構高かった。
 次いで、女王は彼の持つピンクの包みに気づいた。
 「それは、何ですか?」
 「賄いの方が、俺…私の昼食用に包んでくれました」
 「まあ、まだ食べていなかったのですか?」
 「はあ」
 勤務の都合によっては抜くことも多いので、大して気にしていなかったが。
 「構いません、先に食べておしまいなさい」
 お言葉に甘えることにして包みを解くと、女王が侍女を呼んでお茶を入れさせた。
 もきゅもきゅと卵のサンドイッチを食べていると、女王は彼を見て微笑んだ。
 「貴方は厨房の皆に好かれているようですね」
 「はあ」
 彼は恥ずかしくて俯いた。
 「その…食べっぷりが気持ち良いそうで…」
 どうも自分は意地汚くていけない。
 出された食べ物を残すなんて勿体ないことは出来ないから、いつも完璧に欠片一つ残さず食べるし。
 規定の食事以外でも、くれた物は何でも遠慮なく貰ってしまうし。
 クルガンにスコーンを強請るし。
 いや、それは厨房にはあんまり関係ないが。…あ、材料が減ってても、黙認してくれてるってことは、関係してるのかもしれないが。
 だが、いつも飢えている幼少時の記憶が、『今、食べないと食いっぱぐれるんじゃないか?』という不安を掻き立てるのだ。
 …ま、そうやって食べていると、太るんじゃないかという別の不安もあるのだが。
 実際、クイーンガードになった時よりも、絶対体重は増えていると思うが、その分せっせと鍛錬している。クルガンに言わせると「まだまだ筋肉が足りん!もっと食って、もっと鍛錬!」だそうだ。
 女王に見つめられながら、もそもそとサンドイッチを押し込んで、お茶を飲んだ。
 手を拭いてから、書類を手に取る。
 しばらくは、女王のサインする音と、彼の書類をめくる音が室内を満たしていた。
 ふと、女王が顔を上げた。
 「ダークマター?」
 難しい顔で一枚の書類を見つめていた彼は、慌てて返事した。
 「はい。何か?」
 「いえ…貴方の手が止まったようなので、何かあったのかと」
 「まだ、確信はありませんが」
 彼は書類を手にして陛下の元へ歩いていった。
 渡されたそれをざっと眺めて、女王は柳眉を寄せた。
 「わたくしには、普通の手紙に見えます。何か気になることでも?」
 それは、一見女王の御業を讃える手紙に見えた。
 今、彼が処理していたのは、王宮宛の手紙や投書である。大半は取るに足らない文句や愚痴、それから陛下を賞賛する手紙、ついでに何故かクイーンガードの面々への恋文なんかで占められている。
 その中から、本当に調査や対処を必要とするものを選り分けていたのだが。
 「まずは、この封書がいったん開けられ、また閉じられた形跡があること。それから、この文章で、一見時候の挨拶に見えるのですが、あの地方は土壌の性質から、カイレンの花は青か紫ばかりで赤くはならないという記述を読んだことがあります。だとしたら、土地の者なら、こんな『今年もまたカイレンの花が赤く咲き誇っています』なんてことは書かないと思うので…」
 彼は、陛下の手の中の手紙を指さしながら説明した。
 「それに、なんだか文字が不揃いです。…いえ、俺が言っても信用ならないでしょうが」
 象形文字のような文章を書くことで有名なクイーンガードは、幾分顔を赤くしながら付け加えた。
 それには触れずに、女王はもう一度手紙を読み返した。
 「では、これは他地方の者が…とは言うものの、そのような内容でもありませんし…」
 「はい、それで考えていたんです。大きな文字だけ拾ったらどうか、とか、一番上の文字だけ読んでいくとどうか、とか」
 彼は、失礼に当たらぬよう断ってから、手紙を女王から取り返した。
 気に留めるほどでもないかもしれないが、ひょっとしたら、他の誰かに読まれぬよう神経を使いつつ、助けを求めているのかもしれない。
 地方領主は、強欲で有名だ。一応女王への貢税は滞納していないので罰することは出来ないが、土地の者は王宮に知らされる以上の税を搾り取られているのかもしれない。
 「あ」
 「何か?」
 「紙に、ひっかかりが…」
 裏側から指先でなぞって初めて分かる微少な凹凸。
 ペンの圧力ばかりでないそれを探し、印を付けられた文字を拾っていくと、一つの文章が出てきた。
 「女王陛下…た、すけ、て…領主…へ、ん…赤…ち…の、む…」
 彼は眉を顰めた。
 「…ヴァンパイア?」
 頭の中で自分の予定を検索する。
 明後日なら時間が取れそうだ。
 「陛下、明後日、王宮から離れる許可を」
 重々しく女王は頷いた。
 「許可します。ですが、相手は不死の王。僧兵たちも連れて行きますか?」
 「不死の王?」
 彼は笑った。唇の両端を吊り上げた様子は、嘲笑に似ていた。
 「せいぜい不死の下僕ってとこでしょう。大丈夫、得意分野です」
 ロード本人ならともかく、その召使いたちなど物の数に入らない。自信を持ってそう言う彼に、女王は許可を与えた。
 「では、貴方に一任します」
 「御意」
 言葉に出して地方領主を『処理』するとは言わなかった。だが、仮にも一地方を預かる領主が不死者に成り果てているというのは、ちょっとした醜聞だ。一般国民の動揺を誘う恐れもある。
 速やかに事実を確認して、『処理』する必要があった。
 そして、クイーンガードと言う存在は、その権限と能力があるのだった。

 それ以降は特に問題なく事務処理を終えた。

 18時。
 他国からの使者を招いての宮廷晩餐会があった。
 彼は女王の背後で警備に就いていた。
 使者の視線が、ちらちらと彼に向けられるのを感じる。
 だから、嫌だったんだ、と彼は内心溜息を吐いた。
 どうせ、彼の特徴的な骨格に「これは本当にあの名高いクイーンガードの一名なのだろうか」と疑ってるに違いない。
 だから、こういう場はソフィアとかクルガンとか見栄えのするメンバーがあたればいいのに、と思ったが、「順番制!」と声高に主張するクルガンに負けたのだ。
 まあ、誰だってこんな堅苦しい席で突っ立っているのは、嫌なんだろうけど。
 ちなみに、ガード長は標準装備として付いている。きちんと、会食の席の方に。
 なんだか『春のせせらぎがどうの』とか『乙女の瞳がどうの』とかいう妙な名前の付いた料理が次々と運ばれていき、ようやく最後のお茶になった時。
 使者が彼の方を見ながら女王に言った。
 「新しいクイーンガードの方が加わった、ということは、我が国でも噂になっております」
 まあ、そうだろうなぁ、と彼は思う。何せ彼は10年ぶりの新規採用らしいから。
 「我が国きっての剣士も、今回随行しております。是非ともお手合わせ願いたいものですな」
 あぁ、そう来たか、と内心溜息を吐く。
 ドゥーハンのクイーンガード、というのは名高い。
 てことは、つまり、それを倒せば、それだけで箔が付くってやつだ。
 そういう面倒なことを申し込まれるのは初めてではない。
 クルガンやソフィアはすでに他国に勇名が轟き渡っている。彼はまだ大して知られていない。しかも、見た目がちょっとあれ。
 彼なら倒せるかも、なんて勘違いをする奴は、たまーにいる。
 でもって。
 「喜んで。ダークマター。よろしいですね?」
 「はい、陛下。お望みのままに」
 穏やかに言われたようでいて、女王の目は「徹底的に叩きのめしておやりなさい」と告げている。
 己のガードを軽く見られては威信に関わる…というのを差し引いても、意外と好戦的なのだ。この女王陛下と来たら。
 困ったなぁ、と彼は心の中で溜息を吐いた。
 もちろん、陛下の御ためには負けるわけにはいかない。
 さりとて『我が国きっての』なんて肩書きを持った剣士を、皆の前でこてんぱんにやっつけるのも後々面倒な気がする。
 どうしようか、と思いつつも、とりあえず相手の実力を見てから考えよう、と思考放棄する。
 そもそも、相手が強ければ悩むことはないし。
 ま、これまでクルガン以上に遊んで楽しい相手に出会ったことは無いのだが。
 
 広間に出て、相手が来るのを待つ。会食用のやたら装飾の多い鎧はさっさと脱いでしまった。
 そのうち、女王陛下の隣には長とクルガンとソフィアが揃う。警護の彼が広間に出る代わりだ。一国の使者の随行員とはいえ、武器を持って女王の近くに来るのである。こちらとしてもそれなりの警戒はさせて貰う。
 ま、剣士とやらの相手をしながらでも陛下を護る自信はあるが。
 というか、クルガンあたりは単純に戦いを見るために来ている気もする。
 相手側の剣士は、広間に来てから、上座のクルガンを見て少し驚いたような顔になった。
 「おぉ、彼がかの有名な『疾風のクルガン』でいらっしゃいますか。是非とも彼にお手合わせ願いたいものです」
 未だ他国には無名の彼などより、名の知れたクルガンを倒したいらしい。仮に倒せたとしたら、『あの疾風のクルガンを負かした』という肩書きは、それはもう大層なものだろうから。
 クルガンの眉が上がった。
 あぁあ、不機嫌だ、と彼はまた心の中だけで溜息を吐いた。
 クルガンがケンカを売る前に、さっさと始めよう、と数歩前に出たが。
 「まずは、そいつに触れてみるんだな。かすり傷でも良い。それが出来れば、俺が出てやる」
 間に合わず、不遜に言い放ったクルガンに額を押さえる。
 しょうがないので、自分でフォローしてみた。
 「クルガンの言うとおりです。もし、私と良い勝負が出来れば、嫌と言ってもあれが出てきます。戦闘好きな男ですから」
 ……あれ?フォローになってるか?
 自問してみたが、するまでもなく相手の不愉快そうな顔を見るに、失敗した気はする。
 国交にまで影響しなければ良いけど、と後悔しつつ、彼は広間の中央に進み出た。
 「防具も無しとは、私をどこまで愚弄する気か!」
 「えーと…クルガンも防具は着けません」
 忍者と一緒にするのも何だが。
 相手の真っ赤な顔を見て、しみじみ思う。面倒だ、と。
 彼は、戦うのが好きではない。もちろん、いったん戦闘になれば、的確に相手を殺すことに躊躇いはないが、こういう殺さないよう手加減しつつそれなりに戦う、というのは面倒くさくて嫌いだった。
 相手も中央に進み出て、己の名と出自について朗々と口上を述べる。
 一応、聞き終えてから、彼も簡潔に名乗った。
 「ダークマター=パトロフネス、参ります」
 こういう時には、名字を付けてくれてありがとう、ロード、と毎回思う。
 そして、彼は剣も抜かず、構えもせずにすたすたと相手に近寄った。
 一瞬、呆気にとられる剣士の目の前で、両手を拡げて見せる。
 「どうぞ」
 お手並み拝見、の方が良かっただろうか、いや、どっちも馬鹿にしてるように聞こえるか、と悩み中に、剣士は怒り狂って剣を突き出した。
 手元が震えている分を差し引いて、1cm間を開けて避ける。
 相手の得意な距離になるよう、あまり近寄りすぎずに適度に間を空けて立つ彼に、鋭い踏み込みが何度も襲う。
 でも、遅すぎる。
 その上、動作がとても分かり易い。
 あぁあ、面倒くさい。早く諦めてくれないかなぁ、と思いつつ、じっと見つめていると、徐々に剣士の顔から赤みが引いていった。
 ようやく、彼の実力を知り、本気で立ち合わなければならない、と冷静になったらしい。
 とは言え、少しはマシになってフェイントとか使ってくるようにはなったけど、分かり易いことに変わりはない。
 面倒になって数ミリだけの余裕で避けつつ、彼は背後をぐるりと向いた。
 背中からの剣は、一瞬躊躇った後、同じように踏み込まれた。
 それを同じように数ミリで避けながら、彼はクルガンを見た。
 ちょっとは楽しいらしい。笑いを堪えているような顔になっている。
 陛下も同様だ。彼が相手を手玉に取っているのが楽しいらしい。
 好戦的な人たちだなぁ、と彼はまた溜息を吐いた。
 ついでに見た他国の使者は…真っ赤な顔で怒っていた。背後の剣士が後で怒られなきゃいいけど、と、ちょっと気の毒に思う。
 いっそ、さっさと終わらせた方がいいだろうか、と、彼は決断し、実行した。
 腰の刀を抜く。
 自分の肩越しに、背後の剣士の喉元に刃を突きつける。
 それは、一瞬の動作で、他人には認めがたい速度であった。
 「参りました」
 剣士がぽつん、と呟き、剣を下ろした。
 刀を戻して、彼は背後を振り向いた。
 「貴方の剣は、まっすぐですが、その分とても分かり易い。鏡の前で姿勢を確認することをお奨めします」
 怒るかと思ったが、剣士は素直に頷いた。
 なんだか弱い者虐めをした気になって、彼はこめかみを掻いた。
 「よろしければ、攻撃が分かり難い代表との打ち合いを御覧に入れますが」
 「是非とも、お願いいたします」
 頭を下げられてしまい、この人は単に自分の剣に自信があったんだなぁ、と気づいた。きっと、彼が相手では馬鹿にされたような気になっていたのだろう。
 すみません、見た目が悪くて、と心の中で謝りつつ、クルガンに目をやった。
 クイーンガードは、女王に一礼してから降りてくる。
 やる気満々の忍者に、一応釘を刺した。
 「ちゃんと他の人に見えるように、手加減するよう」
 「…努力は、しよう」
 
 ちなみに。
 クルガンの『努力』が保ったのは、たったの1分半だった。
 後はもう、いつも通りに全力で打ち合うのみ。
 きっと他人には風が巻いているようにしか見えなかっただろう。

 女王の制止の声でようやく打ち合うのを止めた彼らに、剣士は深々と礼をした。
 「ご指導、ありがとうございました。自分の未熟さを思い知らされました」
 彼はどう言えばよいか悩んだ末に、おずおずと言ってみた。
 「えーと…またのお越しをお待ちしてます」
 隣で、クルガンが小さく「お前はパン屋の店員か」と呟いた。

 22時。
 ソフィアに警護の引継をして、ようやく自室に戻る。
 侍女が用意してくれていたお湯で、体を拭いて寝衣になった。
 
 22時半。
 剣を磨いていると、ノックがされた。近寄る気配が感じられなかったと言うことは、思い当たるのは一人であったため、彼は立ち上がりもせずに「どうぞ」と言った。
 鍵はかかっているが、全く関係なく忍者がノブを回して入ってくる。
 もう少しで磨き終わる剣から目を離さずに、
 「あ、そういえば、朝はすまない。寝坊した」
 と告げれば、忍者はなにやら口の中でもごもごと呟いた。
 珍しい。
 たいていは、勝手に部屋の中にずかずか入って勝手にお茶を入れて勝手に座るのだが、今日は入り口付近で佇んでいる。
 剣を収めて、彼は不審の目でクルガンを見上げた。
 すると、忍者はひどく気まずそうな顔で彼から少し視線を逸らした。
 「…何か?」
 彼には言いにくい何かを持っているのだろう。そう判断して、彼は立ち上がった。
 真剣な話になるなら、お茶でも煎れるか、と彼はテーブルの上の茶器を取った。
 座るよう促すと、クルガンは躊躇いがちに進んできて、座ったには座ったが、すぐに立ち上がれるよう浅く腰掛けている。
 「クルガン?」
 「あ、いや…その〜…だな」
 ここまで歯切れが悪いのも珍しい。
 彼は自分も腰掛けて、クルガンを見つめた。
 慌てたようによけいに目を逸らせて、クルガンは咳払いをした。
 「その…つまり、だ。お前は…その…」
 「だから、何」
 「その〜…俺のことが、す、す、す、す…」
 「す…簀巻き?」
 「何でだ!」
 裏手ツッコミをしてから、クルガンは、思い切ったように、びしっと言った。
 「お前は、俺のことが、好きなのか!?」
 「はぁ」
 とりあえず生返事を返してから、彼は意味を考えた。
 好きか嫌いか、と聞かれたら、そりゃ好きに決まっている。
 「好きだが?」
 クルガンは顔色を赤くして青くして白くして緑にしてそれからまた赤くした。
 「…顔色緑って凄いな。エルフの特殊能力光合成か?」
 感心する彼に、クルガンはひきつった顔で笑った。…多分、笑っているのだと思う。
 「お、お、お、お前…い、いや。ちょっと落ち着け」
 「落ち着くのは、あんたの方だと思うが…」
 言われて、クルガンは大きく深呼吸した。
 「お前は、そういう目で俺を見ていたのか!?」
 ………?
 間があった。
 「そういう…って、何だ?」
 もう一度、クルガンの顔色がすごい勢いでくるくると変わった。
 「つまり。…れ、れ、れ、れ、れ…」
 「れ…煉獄?」
 「れ、れ…ええい!恋愛感情で、俺を見ていたのか!と!」
 恋愛感情。
 えーと。
 恋愛感情、というのは、確か、男女間で行われる一時的な勘違いのことだ。子孫繁栄のために、特定の異性を獲得しようという、本能に付随する脳の部分的活動亢進状態だ。
 さて、その単語は思い出した。
 それで、だ。
 「…あんたは、俺にとって異性では無いと判断していたんだが。…実は女性だったのか?」
 がつっがんっ。
 激しい音は、彼の後頭部及び、打ち付けた額から起こった。
 「…痛い…」
 「誰が、女だ!」
 「だって、恋愛感情がどうとか言うから」
 恨めしそうに見上げつつ後頭部と額を撫でていると、忍者はもごもごと口の中で謝罪して、彼にフィールをかけた。
 「さっきから、あんたが何を言いたいのか、さっぱり分からない」
 正直にそう言うと、クルガンはちょっと目を見開いてから、じっと彼を見つめた。
 それから、ようやくイスに深く腰掛けて、ふーっと息を吐いた。
 「まあ、考えてみれば、お前がそんな奴とは思えんしな。何かの間違いだとは思ったんだが」
 いきなり力を抜いたクルガンに、彼も力を抜いた。
 すでに出きったお茶を、ようやくカップに入れる。
 クルガンは不味そうにそれを啜ってから、力無い声で言った。
 「お前が、俺に、恋愛感情を、抱いている。そういう噂が耳に入ったものでな」
 いちいち区切られた単語を、一つ一つ吟味する。
 えーと、恋愛感情…恋愛感情…俺がクルガンを『好き』………
 「あぁ!」
 彼は、ぽん、と手を鳴らした。
 バネ仕掛けのようにクルガンが飛び上がった。
 「思い当たることがあるのか!?本気か!?」
 悲鳴のようなそれを聞きつつ、彼は腕を組んで感心した。
 「今日の午後の話なのに、もうあんたの耳に入ったのか。やっぱり忍者の情報収集能力ってすごいな」
 「お、おま、おま、おまえ…!」
 あわあわと、クルガンは腰を浮かせた。
 ここは、彼の部屋。
 隣は、寝室。
 彼は薄い寝衣一枚で、すぐそこに座っている。
 自分が襲われるとか、そんなもん返り討ちにしてくれる、とか、いや返り討ちって何だ、俺にその気は無い!とか、そんなことを改めて意識しているというのでも無いのだが、クルガンはすぐに逃げられ…いや戦略的後ろに前進が可能なよう、力を撓めた。
 「そういえば、それもあんたに言わなきゃって思ってたんだった。すっかり忘れてた」
 「なっ!何をだっ!先に言っておくがな、俺は決してお前が嫌いでは無い!嫌いではないが、それが恋愛感情として好きには全く関係ないと言うか!」
 口早に言われたそれに、彼は首を傾げた。
 よくは分からないが、とりあえず『嫌いではない』と言う部分は分かったので、首を傾げつつ礼を言ってみる。
 「はぁ…それは、どうも、ありがとう」
 「………あ?」
 動きの止まったクルガンに、彼は一体この人は何を言いたいんだろう、と思いつつも、とりあえず自分の用件を伝えることにした。
 「ソフィア僧侶に、以前、女性に告白されたら『他に好きな人がいる』って言えば、すぐに引き下がるって聞いたから、今日試してみたんだ。そしたら、引き下がってくれずに、『誰が好きなんですか』って聞いてきて」
 「そ…それで…」
 クルガンが、ぎしぎしと軋みを上げながら首を彼の方に回した。
 まるでそのまま一回転しそうな雰囲気だ。
 「で、その時あんたが通りがかる気配がしたんで、あんたの名前を言ったんだ。その部分は、ソフィア僧侶が言った通りだったな。相手がクイーンガードなら、すぐに引き下がってくれた」
 がつっ。
 今度の音は、クルガンが額をテーブルに打ち付けたものだった。
 まあ、どっちも額当ての後ろには金属片を仕込んであるから良いようなものの、そうでなかったら額かテーブルが割れていそうだ。
 「お、お前…なんで俺なんだ…普通は女性の名を挙げるものだろう…」
 「えー、だって好きな女性なんていないし、迷惑がかかるし」
 「俺ならいいのかっ!良いのか!?あぁ!?」
 胸ぐらを掴み上げられて、彼は反省した。
 やはり事前に許可を必要としたらしい。
 「…ごめんなさい」
 あう、と涙ぐんで見上げると、クルガンが、ぱっと手を離した。
 「い、いや、そりゃ、別に、俺としては他に好いた女がいるわけでなし、直接的に迷惑を被ることもないんだが…」
 「…でも、迷惑だったんだな…すまない。あんたのことまで、気が回らなかった。あんたなら、後で言えば、分かってくれるかと思って…」
 どうしよう、と彼は悩んだ。
 いったん広まった噂ってやつは、刈り取るのは厄介だ。
 否定して回っても、余計に燃え広がるものだ。
 そういう時には、もっとスキャンダラスな人の好奇心を刺激する噂を重ねて流せば、そっちに流れてくれるものだが、この場合どうしたら良いんだろう。
 その1。彼が誰かと婚約または結婚する。
 その2。クルガンが誰かと以下略。
 彼に誰かと結婚する意志はない。ならクルガンは…って、ついさっき「他に好いた女もいない」とか言っていた。
 あれ?そういえばソフィアは良いのか?と思ったが、きっと話せばすぐに分かってくれるので、迷惑では無いんだろう、と結論づける。
 「えと…あんたがソフィア僧侶と結婚でもしたら、噂なんて消えると思うが…」
 「貴様!お前のつまらん一言のために、俺を地獄に叩き込むつもりか!」
 地獄って何だ。
 そういえば、『結婚は地獄の第一歩』という言葉もあるから、きっと『結婚』という単語の代わりに『地獄』という表現を使ったんだろう、と納得する。
 「なら、どうするんだ?」
 情報収集及び情報操作のプロである忍者の長は、腕を組んで天井を見上げた。
 指がとんとんと腕を叩いているところを見ると、考えている最中らしい。
 邪魔せず不味いお茶を飲んでいると、そのうちクルガンが、うん、と頷いた。
 「放置しよう」
 「……は?」
 「面倒くさい。こうなったら自棄だ。自然消滅まで放置」
 …それって、一番まずい対処法なんじゃ…と彼は思ったが、実際迷惑だと言っている本人がそれでいいというなら、まあいっか、と思ったので何も言わなかった。
 クルガンは、大きく息を吐きながら立ち上がった。
 「俺は疲れた。もう寝るぞ」
 「あ、お疲れさまでした。お休みなさい」
 咄嗟に型通りに挨拶した彼に、クルガンはようやく、にやりといつものように笑って、彼の頭を軽く叩いた。
 「明日は寝坊するなよ?」
 「…善処します」
 曖昧に答える彼に、もう一度笑ってクルガンは部屋を出ていった。

 23時半。
 彼はベッドの中で祈りを捧げた。
  今日も一日、平穏無事でした。
  明日も、平穏でありますように。

 そうして、クイーンガード・ダークマターの一日が終わったのだった。




…パズルの直後だったため、ちょっと息抜きがてらほのぼのしたものを書こうとしたんですよ。
そしたら、これがああなるかと思うと、余計切なくなりましたよ('A`)


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