それは崖際のちいさな小石




 切り立った崖の、端ぎりぎりに乗っているちいさな小石。
 それは、何と言うことは無い物。
 普通なら、その存在にすら気づかない。
 仮に、気づいたとしたら、踏まぬよう避ける物。

 だが、その崖際を、危なっかしくもふらふらと歩いてくる男がいればどうなるか?
 もしも踏んでしまったら。
 バランスを崩して、崖を転がり落ちることは必須。
 さあ、彼の足が、踏み込まれる。

 小石の上に。





 クルガンは、厨房から出てきた時に、ソフィアに出会ってしまい軽く舌打ちした。
 もちろんソフィアがそんなクルガンの様子に気づかぬはずもなく。
 「あら、こんばんは、クルガン。厨房で、何をしていたの?」
 柔らかく微笑んで、首を傾げる様子は、本当にただ聞いているように見えるが、絶対にわざとだ、とクルガンは思った。
 どうせ、匂いが漂っているのだ。分からぬはずは無い。
 それでもさっさとその場から離れたくて、ぶっきらぼうに
 「お前には、関係ない」
 と言い捨て、早足で立ち去り……首を引っ張られ、ぐえ、とうめき声を上げた。
 杖の先端の曲がったところをクルガンの首に引っかけて立ち止まらせたソフィアは、にっこり、とまた、それはそれは優しく微笑んだ。
 「そう?私には、関係ないの?」
 こういう風に笑うソフィアに逆らって、ろくな目にあった試しがない。
 クルガンは、諦めて彼女の方を向き、手にした物を見せた。
 「…スコーンを焼いていた。それだけだ」
 「誰に?」
 ちっ、と舌打ちし、クルガンは押し殺した声で答える。
 「分かってて、聞くな」
 「そうね。わざわざ、自分のために焼いたりはしないわよね」
 ソフィアの白い指が、駕籠に掛けていたチェックの布をめくる。
 「ほかほかのスコーン。バターもたっぷり。…まあ、よくこの季節に木苺のジャムなんてあったわね。作ったの?」
 「…分かってて、聞くな」
 もう一度、クルガンは答えた。
 うふふ、とソフィアも、もう一度笑う。
 厨房前の廊下で。
 可愛らしい駕籠を下げている忍者と微笑む癒し手、という図は、一見微笑ましくはあったが。
 何故か周囲は急速に温度を下げ、背後で竜虎が牽制し合っているような空気を醸し出していた。
 「本当に、ダークマターは、貴方のスコーンが好きね」
 「…初めて食った甘い物らしいからな。刷込現象、というやつだろう」
 「うふふふふ…貴方は運が良いのね…」
 「あぁ、そうだな。『クルガンのが一番美味しい』と、ねだるしな」
 はっはっは、とわざとらしい笑い声で、顔色一つ変えずにクルガンはやけくそ気味に言いのけた。
 「まあ…うふふふふふふ…ついに開き直ったのね…」
 「はははははは……」
 
 周囲は、ひたすら暴風警報であった。



 早足でダークマターの部屋にと向かいながら、クルガンは駕籠の温度を感じ取っていた。
 この分なら、温かいうちに食べさせることが出来るだろう。
 クルガンは、特に料理好きということはない。まあ、野営用に人並みに食べられる物を作ることが出来る、というレベルだ。
 それが、何を間違ったのか、たまたまダークマターが腹を空かせた時に居合わせ、真顔で「厨房にいるネズミでも捕って食う」などと言われて、ついその辺にある物でスコーンを作ってしまったのが運の尽きだった。
 それまで凍り付いたような表情で無愛想だった奴が、一口食べて吃驚したような顔をして、それからふにゃっと幸せそうに口元を綻ばせて…「初めて、こんなに美味い物食べた」なんて言うものだから、つい「こんなもん、いつでも作ってやる」などと約束してしまったのだった。
 以降、時々、何やってるんだ俺は、と正気に返りつつも、「クルガンのじゃないとイヤだ」と本気で言う馬鹿のために、厨房に忍び込んでいるのだが。
 本当にもう、あの馬鹿は社交辞令というものを知らないから、お茶請けのソフィア製スコーンを一口囓っただけで「クルガンのが良い」と本人を目の前に言ってしまい、そのツケは俺に回って…と、ちょっと思い出しただけで痛んだ鳩尾をさすりながらも、やはり何となく優越感を感じたのも事実で。
 人に心を閉ざして、触れる者を凍てつかせるような瞳をした男が。
 だんだん、照れたように笑うようになる。
 彼を認めた途端に、ふと表情が和らぐようになる。
 自分にしか懐かない猛獣を飼い慣らしたら、こんな気分になるだろうか。くすぐったいような、誇らしいような、そんな気分に。
 とすれば、これは餌付けか、とクルガンは自分の連想に少し笑って、慌てて表情を引き締めた。
 歩きながらにやけている姿は、自分のスタイルには合わないので。

 ダークマターという男は、確かにどこかおかしいところはあった。
 じっくり話してみれば分かるが、元々の性根は善良なのは間違いない。
 だが、だからこそ、時折見せる奇妙な思いこみが異質に映る。
 身に染みついている戦闘技術は、剣を主体としたもののようであって、基本には体術である。
 自分の身体一つで他人を殺せる能力。
 そして、最初に見え隠れしていた陛下への敵意。
 だがそれは、敬意へと変わったはず。
 ダークマターは、色々なものに驚く。そして、自分の思いこみを考え直すだけの柔軟な思考も持っている。
 言葉の断片から推測するに、彼はただ、育てた奴が悪意と呪詛を吹き込んで糧としただけなのだ。
 きっと、己の過ちに気づき、心を正したことだろう。
 それならば。
 ダークマターは、彼の生涯の友となり得る男だろう。
 彼と同等の戦闘力を持ち、共に陛下をお護りする盾となり、笑い合える仲になれるはず。
 クルガンは、そうなる未来を信じていた。

 信じている、と自分では、思い込んでいた。

 「きっと」
    「〜〜はず」

 僅かに残る、拭い切れない不信。
 自分ですら気づかないほど心の奥底に残る、疑念。

 
 彼は、崖縁をふらふらと歩いている。
 「信頼」と「疑念」の狭間を、目隠しで。
 それでも、バランスは取れていて、そのまま安定した地面に辿り着きそうだった。
 
 そして、足下に、ちいさな小石。




 もうすっかり夜も更けて、あたりは静寂に満ちている。
 遠くの歩哨のこつこつと歩く音すら響くような静けさを壊すのが躊躇われて、クルガンはダークマターの部屋のドアを、ノック無しに、す、と開いた。
 途端、感じる『何か』の気配。
 本能のままに仰け反らせた顔の真横を、風切り音が過ぎていく。
 はらり、と髪が数本、宙に舞った。
 室内から慌てたようにばたばたとした足音が聞こえ、ドアがばたんと開かれる。
 ダークマターの瞳が、彼を認めて見開かれた。
 「クルガン…!」
 動揺を隠さず、ダークマターはクルガンの体をぺたぺたと触った。
 「怪我、無いか?…吃驚した…まさか、人が来るなんて、思ってなかったから…」
 「…こっちも、驚いたぞ。まさか、いきなり攻撃されるとは思わなかったからな」
 クルガンは、茶化すように言って肩をすくめた。
 仮に攻撃の意志があったなら、ドアの向こうからでもそれは感じたはず。
 気づかなかったのは、それには何の意図も無いものであったから。
 ふと、振り返ると、壁には、細身の短剣が突き刺さっていた。
 ダークマターが動く前に、彼は壁に向かい、それを抜き取る。
 「…びっくりした…」
 もう一度言って、口元を押さえているダークマターを促して部屋に入った。
 簡素な客間の奥の扉が開かれている。
 そこは寝室に通じるドアのはず。
 少し乱れたベッドのシーツが、ダークマターはそこに寝ていたのではなく、ただ腰掛けていたことを推測させる。
 入り口のドアを見れば、掛けられた小さな的。
 投擲の訓練に用いられる、ごく一般的な物だったが、異様なのはただ一つ。
 直径1cmにも満たない中心だけがえぐれていること。
 室内であれば、確かに寝室からこの入り口のドアまでが、最も長い直線距離であろう。
 この約15mの距離を、1cmの的に集めるその技術は、忍者にも通じるもの。
 つまり……遠距離から、目的の急所を貫く能力。
 武人であれば、投擲武器の習熟も、嗜みの1種とも思えるが、あまりにその能力は高すぎた。
 ダークマターの基本武器は細身の剣。それも、片刃のやや湾曲する、『刀』と呼ばれるものを好んでいた。
 本人曰く、刀が折れても戦えるように、と体一つで戦えるだけの能力もある。
 僧侶魔法の基本、それに魔術師の魔法もいくつか。
 それに……毒に対する、異様なほどの知識。
 逆に、時折見せる、非常識ぶり。
 クルガンは、手にした短刀を見つめた。
 柄のない、細身の円筒形のそれは、刃と持ち手の部分が差し込み式になっているらしい。
 捻れば外れ、刃を内にして収納することが出来る。そして、そうすれば……掌に収まる小ささであった。
 ふつふつと湧き上がる、疑念。
 更にじっくりと眺めれば、外見の銀は、つるりとしていると見えたものが、かつては存在した装飾がすり減ったものと分かった。
 それは、つまり、これが何年もの間、人の手で扱われ続けたことを意味する。
 これが、ただの投げナイフの一種であれば、いかにか安堵することか。
 だが、忍者は見つけてしまう。
 円筒形の刃に掘られた深いV字の溝を。それは、突き刺せば傷を塞ぐことなく血液を逆流させる目的で付けられたもの。あるいは、逆に。毒を流し込むための、溝。
 よくよく見れば、V字の底に、かすかにこびり付く、焦げ茶色のかす。それは、血痕を思わせる。
 そして、銀という安定した物質でありながら、溶けたようないびつな筋。それは、毒に浸したがゆえではないのか?
 やはり、そうなのだ。
 疑っていた通り。
 恐れていた通り。
 これは、暗殺者の武器なのだ。

 「…クルガン?」
 気づけば、ダークマターが怪訝そうな顔で彼を見つめていた。
 テーブルの上には、いつの間にかお茶が用意されている。
 クルガンは、無言で、振り向きざまに手にしたそれを放った。
 狙い違わず的に突き刺さった短剣に、ダークマターが、さすがだな、と呟いた。
 だが、クルガンは更に沈み込む。
 その柄のない短剣は、ひどく扱いにくいものであったから。
 こんなにも扱いにくいそれを、精確に命中させられるダークマターの能力を思うと、心は自然と彼の素性へと向かう。
 ダークマターが、それを手に戻ってくる。
 隠すようでもなく、彼にそれが知れたことを怯える様子もない極々自然な素振りは、彼の心をやや慰めてはくれたが、疑念を払拭するには至らない。
 一言、聞けば良かったのかもしれない。
 冗談のように、軽く、「使い込まれた武器だな」と。「それで他人を殺したことがあるのか?」と。
 だが、彼はただ、見つめていた。
 ダークマターが、駕籠からスコーンを取り出し、嬉々として皿に取り分けるのを。
 彼に前にもスコーンを置き、それから小首を傾げて彼を見る。
 「クルガン?」
 お預けを食らった犬のような無邪気な瞳。
 「ダークマター」
 ひどく、掠れた声に、ダークマターは驚いたように目をしばたかせ、「風邪か?」と聞いた。
 一口、茶を飲み、もう一度。
 「ダークマター」
 「何?」
 彼の言葉を待っている様子は、ただ不思議そうで。
 自分が疑われているなどとは、全く気づいていないような無警戒さで彼の側に座っている。
 「お前は……」
 本当は、何を言おうとしたのだろうか。
 自分でも分からないままに、彼は口からそれが滑り落ちるのを、他人事のように聞いた。

 「お前は、忠誠心篤い、クイーンガード、だな?」

 僅かに、淡い水色の瞳が見開かれた。
 何度か瞬き、それから、微笑んだ。

 悲しそうに。

 「…そう在りたいと、思っている」

 後に。
 もう、取り返しようがないほど後に。
 その言葉は、彼が過去を悔やみ、暗殺目的でクイーンガードとなったことを哀しんでいるがゆえに出てきた「願いの言葉」だと知ったけれど。

 その時、クルガンは、それが不確かなものに聞こえたのだ。
 「そう在りたいと思っている」
 「でも、本当は、そうでは無い」
 彼には、そう、聞こえてしまったのだ。

 「ダークマター」
 名を呼べば、すぐに見返す瞳。
 「それは、俺が預かっても良いか?」
 テーブルの上の短剣を差せば、ダークマターは首を傾げながらもそれを素直に差し出した。
 「お茶、煎れ直そうか?」
 すっかり冷えてしまったカップを持ち上げ、ダークマターはそう聞いた。
 彼にとって、その短剣は何でもないのだと。そう言っているようで。
 クルガンは唇を歪めて、冷えたお茶を一気に飲み干した。
 「…スコーンも冷えてしまったな。すまない」
 「え…?あ、うん。それは、それで美味しいから」
 
 他愛のない会話を交わし、お茶を飲み、席を立つ。
 いつもと同じようでいて。
 全く違った心持ちで、クルガンは部屋を出る。





 
 それは、それは、ちいさな小石。
 普段なら見過ごすような、ちいさな小石。

 けれど、彼は踏んでしまった。
 そして、バランスを崩し……立ち直る前に、地面が揺れる。
 彼を崖から振り落とす、揺れが。


 そして、その小石は、ダークマターにも影響を及ぼすのだ。
 老司教と対峙したとき。
 いつも袖にしまっている、その遠距離用の武器が無い故に、彼は刀を振るうより他に攻撃法を持たなかった。
 その短剣が手元にあれば、運命は変わっただろうか?
 それは、誰にも分からない。



 それは、それは、ちいさな小石。

 それは、それは、 運命の小石。










いや…なんか、前半と後半、全然別の話がくっついておるようですが。
ちょっと、ほのぼのから一気に突き落としてみたかったん。
…ま、スコーンの話もしたかったけど(笑)。
参考。クルガン製スコーン。↓

この時点で、イマイチな外見のスコーンを焼くクルガンだったが、
だくまた専任お菓子シェフをやってる間に、↓みたいなのまで焼けるようになった(笑)。

実にどうでもいい設定ではある(とうか、ドゥーハンに果物はあるのか、という気もする)


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