綺麗・キレイ・奇麗





 「お前は、醜い」
 ずっと司教様に言われてきた。
 実際その通りだと、俺も思う。だから、司教様に怒りを感じたことは一度もなかった。
 「お前は醜い。だがそれも、あの女王のせいだ。いずれお前は女王をその目で見ることになるだろう。女王は美しい。それは、お前や弱い者を踏みつけにした生活に成り立った美しさだ。本来、お前が持っているべき美しさすら、あの女王が搾取したのだ」
 それは、どうだろう。
 昔は、言われるままのことを信じていたが、ある程度自分の頭で判断できる年齢になると、さすがにその理屈はどうだろう、と疑問に思うようになった。
 「お前は醜い。そして、女王は美しい。だが、その美しさはあの女には相応しくないものだ」

 「壊せ」

   「美しいものは、壊してしまえ」

     「お前と同様に、醜く壊してしまえ」





 「みにくい」

 クルガンが呆れたような溜息と共に漏らした。この場合は「醜い」ではなく「見にくい」と言われてるのだろう。
 だが、その言葉は、司教様に呪文のように言われて続けていたことを思い出させるのに十分だった。
 もっとも、司教様には「これは厳然たる事実なのだ」と言わんばかりの重厚さで言われていたものだったが、この男のそれは「どうしてこうなるのだ」という疑問と諦観…ばかりか、妙にこっちが気恥ずかしくなるような暖かさがあった。
 同じように「しょうがない奴だな」と言うのでも、本気で呆れているのではなく、子供が馬鹿なことをしたときに言うような感じというか。
 見かけは俺とあまり変わらない年齢のようだが、こいつはエルフだし、俺は子供に見えているのかもしれない。

 ということで、俺はクルガンに面倒を見られているらしい。
 今も、ペン字の特訓をされている最中である。
 で、俺が苦心惨憺仕上げた1枚を手にとってのセリフが「みにくい」。
 …俺も同感だが。一応、言い訳はしておく。
 「…頭の中では、きちんと書かれている。それを写しているつもりなんだが、上手くいかないものだな」
 実のところ、俺はこの年になって初めて『字を書く』という作業をしたのだ。
 字を書くにはペンとインクと紙が必要だ。司教様の所では、何とか生きていくのに必要な程度の食料を手に入れるのが精一杯で、そんな余分なものを購入する余裕はなかった。
 幸いにして、俺の頭はそれなりに出来ていたので、メモを取るなどの行為も必要なかったし。
 だからといって俺が全くの文盲というわけではない。…クルガンはそう思っていたようだが。
 逆に、読むだけなら司教様の所には山ほどの文献があったので一心不乱に読んだ経験がある。
 自分の境遇から意識を切り離して想いに耽る場でもあったし、もっと低俗に空腹を紛らわせる手段でもあった。
 現代(と言っても、まるきりの最近の文献は無く、最も新しいものでも数十年前のものだったが)から中世、古語で書き綴られた詩の類、それに古代魔法語や古エルフ語まで、ありとあらゆる文章を手当たり次第に読み散らした。
 だから、文章を頭の中で構成することは可能だ。
 可能なのに…何故、そのまま書き写すだけの行為がこんなに難しいのだろう。
 「…先日の、訓練における…村…違うな、対か、対費用…効果は……」
 自分で言うのも何だが、よくこんな文字を読めるものだ、クルガンも。やはり忍者は暗号解読も得手としているということなのだろうか。
 「ふぅ…これがまた、俺には読めるというのが困りものだ。貴様の書類が全部俺の所に回ってきてるんだぞ、今」
 あ、そんなことになっていたのか。
 俺が仕上げた書類は、一体誰が読めてるんだろうと思っていたところだ。
 「俺が注釈を付けて陛下に回してるんだ。全く、無駄もいいところだ」
 「…だから、こうして努力しているだろ」
 これに関しては、確かに俺が悪いので、仕方なく下手に出て、先ほどまでの練習用紙をひらひらと振って見せた。
 真っ黒に埋まったその紙を見て、クルガンは重い溜息を吐いた。
 「だからな、ダークマター。お前の貧乏性は分かったから…文字を上から上から書き重ねるのはやめろ。ただでさえ読めん字が、どうしようもなく訳が分からんぞ」
 俺の感覚では、ただの練習に紙を使うのは贅沢の極み、という気がするのだが、どうやら世の中、紙はそう貴重品でも無かったらしい。
 だがあまりそういうことを言っていると、またこの男が「一体どこの神殿で育ったんだ」とうるさいからなー。こいつにしてみれば、俺の育ちを疑うと言うより、劣悪な環境(クルガン曰く)で孤児を育てているその神殿を調査するべく聞いてくるのだろうが、臑に傷持つ身としては、痛い腹を探られるとまずい。
 反論せずにやり過ごすに限る。
 それにしても、こういうことが重なるにつけ、どうも俺が信じてきた…というか信じるように育てられてきた常識が、次々に崩れていく気がする。
 普通に神殿で育てられた孤児たちは飢えるということをせずに育ってきたらしいし、当然、栄養失調で骨格が歪んだりもしなかったらしいし、それなりに教育も受けているらしいし…。
 俺の境遇は、すべて『あの女』が悪い、と言い聞かされてきた。
 俺は、その考えに飛びついた。
 何故って、それなら、『母親が俺を捨てた』ことを、考えずに済むから。
 そして、司教様の言うことは絶対に正しいし、俺を育ててくれたことには感謝をして然るべきだと思いこんでいた。
 今では…そう、確かに、その考えに疑問は浮かぶようになってはいたが、全く切り捨てることは不可能だった。
 それは、俺の人生の大半を否定することに繋がるから。
 全ての指標を与えてくれていた司教様を否定し、自分の考えで自分の考えを巡らせる。
 簡単なようでいて、それは酷く気力を消費する行為だった。俺自身の深い根底から責めてくる罪悪感と戦い続けなければならない。
 このまま、何も考えることなく、『あの女』を憎んで、機会あれば殺す、ということだけを考える方が余程楽に違いない。
 だが、それでは駄目なのだと…何とか気力を振り絞って自分自身と戦わなければ、と考えさせられるのは、きっとこの忠義心篤い忍者とかあの女僧侶とかガード長とか…認めたくはないが女王も含む、が自分というものをしっかり持った人たちだからだ。
 俺は醜くてこの綺麗な人たちと並ぶべくもない存在だが、まあちょっとは足掻いてみないと自分が恥ずかしい。

 「分かった、分かった。お前を責めてるんじゃないから、そんな情けない顔をするな。…俺が虐めてるみたいな気分にさせられる」
 クルガンが、俺の頭をぽんぽんと叩いた。…まるで子供扱いだ。
 えーと、何の話をしていたんだっけ……あぁ、紙を埋め尽くしたのを咎められて、俺がへこんだと思ったのか。そのくらいで落ち込むような俺か。
 しかし追求されるのも面倒くさい。誤魔化し続けるとしよう。
 俺は、思い切り情けない声を作って、クルガンを上目遣いで見上げながら訴えた。
 「腹、減った」
 ずる、とクルガンの体が20°くらい傾いだ。と同時に、すぱーん!と俺の頭が景気の良い音を立てた。
 「…痛い」
 本で殴るのは反則だ。
 「分かった。悪かったから…涙目で見上げるな!大の男が!」
 しょうがないだろう。涙目なのは、実際非常に痛かったからだし、見上げるのはクルガンは立っていて、俺は座っているからだ。
 だから、そんなに嫌そうに見なくても…と思いつつも、俺は、この目の前の男が涙目で俺を見上げている図を想像してみた。
 ……気色悪い。
 うむ、確かに大の男のそういう図は見たくないな。
 「何をニヤニヤしている!」
 「いや、あんたが涙目で俺を見上げている図を想像してみて、確かに気色悪いな、と…」
 「勝手に、人の顔でおぞましいものを想像するな!!」
 「…おぞましい、とまで言うか…仮にも自分の顔に向かって」
 「貴様の想像がおぞましいと言ってるんだ!」
 すぱーん!
 またクルガンの手にしていた本が俺の頭にヒットした。
 しくしく…痛い…。
 「あんまり殴られると、馬鹿になるじゃないか!」
 「それ以上馬鹿になるか!」
 「…エルフのくせに、古エルフ語の詩も読めなかった奴に言われたくない」
 うぐ、とクルガンが詰まった声を漏らして、一歩下がった。
 ふふん、この武闘派エルフが。
 しかし数秒後には、クルガンはやけに胸を張って言い放った。
 「それはそれ、これはこれ!」
 …何だ、それは。
 だが、無意味に自信満々なその姿は、実にクルガンらしくて、思わず吹き出していた。
 釣られたようにクルガンも笑い出す。
 ひとしきり二人で笑ったところで、クルガンが俺の肩をぽんと叩いた。
 今回のケンカ(ってほどでもないが)終了、という合図だ。
 俺もようやく笑いを収めて机に伏せていた顔を上げる。
 今まで笑っていて力のこもっていた腹筋が脱力した途端。
 ぐぅ、と胃の腑が鳴った。
 「あぁ、腹が減っていたんだったな」
 まだ少し目尻に笑い皺を寄せたまま、クルガンが俺の頭を軽く叩いた。
 「そろそろお茶の時間だろう。陛下の所に御邪魔させて貰うか」
 そうして、俺たちは連れだって、女王の執務室に向かうことにした。 


 「あら、ちょうど良かったわ。今からお茶にしようと思っていたところよ」
 行ってみると、女王と女僧侶は部屋におらず、テラスを抜けて庭に出ていた。
 そこでテーブルの準備をしているところを見ると、そこでお茶にするつもりだったようだ。
 確かに今日は天気も良く日差しが暖かい。外でお茶を飲むのは気持ちよいだろう。
 …ちょっと気になるのは、その大理石のテーブルはもっと向こうの方にあったものじゃないかと記憶してるんだが…ソフィア様が運んだのか?どーゆー膂力をしてるんだ、この女エルフ。
 「外、か。陛下の御身を案ずるなら、いささか安全に欠けるが…」
 クルガンは素早く周囲を見回している。
 だが、ソフィア様が素っ気なく手元を見ながら言った。
 「クイーンガードが3人もいて、お茶もできないというのなら、私たちにガードの資格はないんじゃなくて?」
 何となく論理的に齟齬があるようにも思ったが、まあ女王の身の安全という点に関しては俺の悩むことでもないので、黙ってテラスの入り口から彼らを眺めた。
 柔らかな陽光に緑鮮やかな芝生。その上に白い大理石のテーブルが鎮座し、優雅に座る女王と、傍らでポットからお茶を注ぐエルフの女僧侶。それに少し離れた位置で周囲に鋭い目を配るエルフ忍者。
 それは絵画のような光景だった。
 俺の目には眩しすぎるほど。

 女王は、綺麗だ。
 透き通るような肌、艶やかな髪。
 小さな卵形の顔の中心には一分の歪みもない鼻があり、柳眉と呼ぶに相応しい眉も紅を差したような唇も、女官が整えたわけでもないのに完璧な形を描いている。
 瞳はいつも穏やかな光をたたえて、さながら慈母のように相手を包み込むように見つめる。
 重い物を持ったことがなさそうなたおやかな指先は、彼女が触れる白磁のようで、本当に折れるのではないかと心配になるほどに繊細だ。
 
 ソフィアとかいう女僧侶も、綺麗だ。
 女王が繊細な白磁だとすれば、彼女は春の日差しだ。
 本来ならエルフの方が『繊細』という言葉に似つかわしいのだろうが、彼女は『壊れ物』という気がしない。
 くるくるとよく変わる表情に、鈴を転がすような声。
 暖かな雰囲気は女王にも通じるものがあったが、彼女は大の男を殴り倒すような大胆さも持っている。
 初めて見たときには吃驚したものだ。にこやかな表情が変わらないまま、手にした杖をクルガンの後頭部にめり込ませたのだから。
 もっとも、あの男も仮にも忍者兵を束ねる長だ。避けようと思えば避けられる攻撃ではある。
 何故唯々諾々と攻撃を受けるのか聞いてみたら、そりゃもう苦い顔で
「何故、ソフィアが俺を殴るか?それは、ソフィアが殴りたい気分だからだ。それを損ねてみろ、結果として被害は大きくなる。素直にその場で殴られておいた方が余程マシだ」
 …俺には、よく分からなかった。
 いや、話が逸れてる。
 そう、彼女が綺麗だ、という話だ。
 彼女の美しさというのは、生命力そのもの、という感じがする。
 時に強かでさえあるほどに圧倒的な迫力を持った美しさだ。

 クルガンでさえ俺の目には綺麗に映る。
 そりゃ、あのせっかく綺麗なくせに櫛も入れずに適当に束ねた金髪とか、ぼろぼろになってるのにまだ使ってるシャツとかを見れば、一般的に言う『美男子』からはほど遠いのかもしれないが、エルフのくせに鍛えられた肉体とか、隙のない動きとかは見惚れるほどに綺麗だ。
 以前そう素直に感想を漏らしたら、「気色悪いことを言うな!」とそれはもう激烈なツッコミを食らった。もうあれはツッコミというレベルでは無く、殴打、という気もするが。
 綺麗なことは良いことなのに、何故そんなに怒るのだろう?
 
 対して、俺はどうか?
 これが微妙に醜い程度なら、彼らに対する劣等感に苦しむことにもなろう。
 しかし、ここまでかけ離れていれば、比べることすらおこがましい。卑小な身で夜空を見上げるように、ただただ見上げるばかりだ。
 ずっと地下で過ごしていたせいで青白く生気のない肌。ぱさぱさで色の抜けた髪。
 そして、誰が見ても明らかに歪んだ骨格。これは、俺は栄養失調のせいだと思っていたのだが、クルガンに言わせると、骨折したところをきちんと整復しないままに中途半端に治癒したせいで、骨が妙な具合にくっついているらしい。
 まあ、この左右非対称な体から繰り出される剣は、予想を外れた軌跡を描くのでやり合いにくい、とも言われたので、それはそれで有用なのではないかとも思うのだが。
 ただこの細い骨格では、どう頑張っても筋肉が付かない。
 おかげで俺は、剣士としては致命的に筋力が足りないだろう。その分、幸い魔力がそこそこあるので補助魔法で何とか人並みに保っているが。
 こんなに醜い俺だが、何故か女性の保護本能はくすぐるらしい。
 そもそも女性には、哀れなものを保護してやりたいという本能があるのか、それとも「私は、こんなに醜いものにも優しくできるのよ」という優越感を感じたいが故なのだろうか。
 そうでもなければ、俺はクイーンガードに認められていないだろう。
 俺が言うのも何だが、普通こんな住所不定(地下神殿を住所として申請するわけにはいかないし)無職(あえて言うなら暗殺者?)出自不明(俺はどこの出身かなんて覚えてないし思い出したくもない)の人間を、大事な大事な女王のガードに取り立てるか?
 剣と魔法の腕でとりあえず条件はクリアしたらしいが、クイーンガードを認定するのは最終的には女王の権限だ。
 その女王が、俺を一目で気に入って取り立てた、というのだからよく分からない。
 ちなみに女エルフも賛成、クルガンは反対、ガード長は中立だったらしい。気の毒な話だ(いや、クルガンにとって)。

 「壊せ」
 
   「美しいものは、壊してしまえ」


 不意に、耳の奥に声が甦る。
 振り払えぬ羽音のように、不愉快な響きが俺の頭を満たす。

 「ダークマター?貴方もこっちにいらっしゃいな」
 その透き通るような優しい声音が、俺の中の不快な雑音を通り抜けて脳髄に達した。
 徐々に羽音が消え、小鳥のさえずりや木々の擦れる音といった現実に戻る。
 クルガンがこちらを窺うような目で見ているのが分かる。
 俺は今、どんな表情をしていただろうか?敵意を露にはしていなかっただろうか?
 クルガンの顔からは、それは読み取れない。
 俺は、ただ無言で、示されたイスに浅く腰掛けた。
 「もう少し待ってね、今、葉っぱを蒸らしているところなの」
 湯がなみなみと入った銀のポットは結構な重量があると思うのだが、手元をぶらしもせずに持ち上げてみせる。
 女王とは目を合わせられず、俺はテーブルの上を何とはなしに見回した。
 中央に、黄色いグラスにその辺で摘んだような花が生けられていた。雑草にも近いようなその花は、こんな屋外でのお茶には豪勢なバラよりも余程似合っているように見えた。
 俺の視線に気づいたのか、女王が一本そこから花を取り、俺に差し出した。
 「マーゼルの花…小さい頃は、この庭でよく、この花を探しては花冠を作ったものです」
 白い多重の花弁が揺れる。差し出されたものをそのままにもしてはおけず、俺は躊躇いながらも、その細い茎を指で摘んだ。
 小さくて繊細な、花。
 それを渡す、指も白くて細くて壊れ物のようで。

 「壊せ」
   
    
「美しいものは、壊してしまえ」

          
「壊せ」

              
「壊せ!」




 じんわりと、羽音が去った。
 針の穴のように狭まっていた視界が、ゆるやかに光を取り戻す。
 体中の毛穴から、どっと冷や汗が吹き出て、急速に体温が下がった気がした。
 「おい」
 悲鳴を上げそうなほどに強い力で肩を掴まれ、俺はのろのろとその手の主を見上げた。
 クルガンは探るように睨めつけてくる。その目には、親愛の情など一欠片もない。そこにあるのは、大事な女王を守るために敵対者を排除するという強靱な信念だ。
 俺は、こいつに疑われるような何かをしたらしい。最近は、だいぶ警戒心を解いて貰っていたというのに。
 他人事のようにそんなことを考えながら、俺はぼんやりと殺気のこもった視線を受け止めた。
 不意に、クルガンの手が緩む。
 視界を覆っていたクルガンの体が脇に避けられ、代わりに女が俺の前に立った。
 「まあ、ダークマター、大丈夫?顔が真っ青だわ」
 やけに暖かい手が、俺の頬を包んだ。
 「具合が悪いの?それとも、あの花に虻でもいたのかしら?」
 「……花……」
 そう、あの花だ。
 白くて小さな、あの花。
 のろのろと視線を動かすと、クルガンが不機嫌に顎をしゃくって見せた。それの示す方向を見下ろすと。
 花は、俺の靴の下にあった。
 泥にまみれて、花弁はぐちゃぐちゃに引きちぎられて、それは無惨な姿をさらしていた。
 俺は屈み込み、それを摘み上げた。
 先ほどまで、重そうにしながらも昂然ともたげていた頭が、ぐんにゃりと垂れ下がる。
 つい数分前までは美しかった花。

   「壊せ」
   
      
「美しいものは壊してしまえ」
  
          
「お前と同じく、醜く……!」

 女王も。
 俺の憎むこの女も。
 こんな風に醜くなってしまうのだろうか?
 
 俺は、まるで火でも掴んでいるかのように、それを放り投げた。
 「ダークマター?」
 僧侶の声に、咎める色はない。ただ不審に問うだけだ。
 「ダークマター。震えているわ。どうしたの?寒いの?」
 掌が、俺の額に触れる。
 寒い?そう、確かに体が凍えている。体の芯から震えが止まらない。
 この症状には覚えがある。
 俺は……
 「こわい」
 それは、恐怖。
 何が恐いのかは、俺にもよく分からない。
 俺の正体がバレかけていることに関しての恐怖ではない。
 理性ではなく、内なる指示に体が勝手に従ったことに怯えているのでもない。
 俺は、ただ。
 「分からない。けど、こわい」
 あんな小さな花が恐いわけはない。だが、その理性とは裏腹に、俺の体の震えは止まらない。
 急に、俺の頭が引き寄せられた。
 ふにゃっとした感触が顔を包む。
 天気の良い日の森の中のような匂いが俺の鼻を刺激する。
 えっと…これは…。
 2,3度目をしばたかせて、ようやく俺は、女僧侶に抱き締められていることに気づいた。
 それも、頭を胸に抱えられるという、まるで子供が母親にされるような形で。
 「ち、ちょっと…ソフィア様…」
 じたばた身藻掻いても、背中に回る腕の力は緩まない。
 「大丈夫よ、ダークマター。大丈夫」
 子守歌のように繰り返される声。
 昔、そう、遠い昔に、誰かにそうされたように。
 ゆったりとその声に流されかけて

    だが、その女は、俺を、捨てたのだ。

 瞬時に、意識が清明になった。
 俺の末端まで、理性が支配するのを感じる。
 「失礼、ソフィア僧侶。もう、平気ですから」
 冷淡な声が、俺の喉から発せられた。
 さっきまでびくともしなかった両腕の檻が緩められる。
 俺はそこから抜け出して、自分で放り捨てた花を探し、拾い上げた。
 相変わらず、醜い、薄汚れた花。
 俺のように。

   「壊してしまえ。お前と同じように醜く」

 ふと目を上げると、苦虫を噛み潰したような顔でこっちを睨んでいるクルガンと目が合った。
 俺はテーブルを回ってクルガンの前に立ち、それから足下に屈み込んだ。
 こいつの前で首を晒すのは、どうも刃の上に立っているような感じがして落ち着かないのだが、今は俺に敵意がないことを示すためにもそうする必要があった。
 俺は、足下の泥をすくい上げ、仏頂面のまま俺のすることを見ているクルガンの顔に擦り付けた。
 「…いきなり、何をする、貴様」
 激昂するかと思いきや、クルガンは静かに俺を見つめるばかりだ。
 俺を敵と認識し、冷徹な理性がこいつを支配しているのだ。
 クルガンの赤い瞳は、とても清冽な光を放っていて、いっそ気持ちよいほどだった。

 一通り、クルガンの顔に泥を塗りたくった俺は、自分の成果を検分する。
 「…良かった」
 俺の口からこぼれたそれに、クルガンの片眉がぴくりと上がった。
 「何が」
 「泥にまみれても、あんたは綺麗だな、と」
 がたんっ!
 クルガンの足が、大理石のイスにぶつかって大きな音を立てた。
 「き、貴様、そういう気色の悪いことを言うな、と!」
 鳥肌立てて叫ぶのを後目に、俺は手の中の花を見下ろした。
 「きっと、これは、本物じゃないんだな」
 「はあ?」
 「本当に綺麗なら、泥に汚れても綺麗なままだろうから、きっと、これは本当の綺麗じゃなかったんだ」
 「…訳がわからん」
 「同感だ」
 「貴様が言うな!」
 いつものように俺の頭を小突きながら、クルガンが喚く。
 それが嬉しくて、ついにんまりしたのを見咎められて、また頭を叩かれた。
 「ねえ、ダークマター。私も、綺麗かしら?」
 はしゃぐような声に振り向くと、女エルフが何を考えているのか、自分で自分の頬に泥を塗っていたところだった。
 白い頬に、黒く幾筋もの筋が付く。
 「…全然」
 そう呟く俺に、クルガンが耳を引っ張り「おい!」と焦った声を吹き込んだ。
 「全然、お変わり無く、綺麗です、ソフィア僧侶」
 安堵の溜息が、耳元で揺れた。
 でも、世辞でも何でもなく、本当にこの女は綺麗で、泥を塗っても全く変わりはなかったのだ。
 その時、柔らかな笑い声が聞こえて、俺はそちらを向き…驚愕した。
 女王も、身を屈めている。
 そして、その手には掬い上げられた泥。
 「ちょっと、待って下さい!」
 「わたくしも、綺麗でしょうか?」 
 俺は、その手をひっ掴もうとしたのだが、間に合わず、白い繊手が、ゆっくりと顔に泥を捌いた。
 信じられない。
 女王が、顔に泥を付けるなんて。
 予想もしなかった光景に、一瞬呆然とする。
 その間に、溜息とともにクルガンがナプキンを差し出したが、女王は返事を待っているらしく、それを手にしたまま俺を見上げている。
 「お綺麗です」
 どうにか、俺は声を振り絞った。
 「お綺麗ですが…似合わないので、どうかおやめ下さい!」
 本当に。
 泥が付いていても綺麗ではあったのだけれど、それは冒涜とさえ言えるほどに似合わなかった。
 「わたくしも、子供の頃はやんちゃで、泥まみれになって遊んだものです」
 満足そうに微笑み、女王はようやく顔を拭いた。
 俺は詰めていた息を吐き、体の力を抜いた。
 「お戯れが過ぎます、陛下」
 苦言を呈しつつクルガンが、女王の前に突っ立ていた俺を押す。
 ふらついた身体が触れたものに、そのまま腰掛ける。
 ふぅ、と息を吐き、次に顔を上げた時には、皆、泥を拭い変わりない姿でテーブルを囲んでいた。

 いつもと変わりない、綺麗な姿で。


 
  「壊せ」

   「美しいものは、壊してしまえ」

     
「お前と同様に、醜く壊してしまえ」






 だけど、司教様。

 本当に綺麗なものを壊す力は、俺にはありません。


 それに、どうやら。

 俺は、綺麗なものが、好きみたいです。










どんどんシリアスになるSS。
そして、どんどん腐臭が強くなっている悪寒。

でも、言い訳するなら、
ダークマターにとってクルガンは『初めてのオトモダチ』ですよ。
懐いて当然かと。
ちなみに女性はまだ恐いです。母親に捨てられたイメージと、
単に地下神殿に女性がいなかったので、どう接したらいいのかわからんのとで。




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