虚ろなる身に詰まるもの



 敵を、屠る。
 味方が、死ぬ。
 自分が、傷つく。

 そんな『些細な』ことでは動揺しないよう、訓練されてきた。
 そうして身に付いた、感情を殺す術を実践できる自分を、誇らしく思うことすらなくなっていた。

 それなのに。
 最初、感じていたのは、寒さだけだった。
 憂鬱な灰色の空を見上げ、舞うような白片をただ眺めているだけ。
 背中に感じる、石畳の冷たさ。
 腹部から流れ出る生命の熱さ。
 刻一刻と失われる体温。
 これが、死か。
 彼は、ただそう思っただけだった。
 冷静に、自分の身体の状態から、完全に心拍停止するまでの時間すら推測できるほどだった。
 
 それなのに。
 視界が霞み、灰色の世界が黒い闇に取って代わった途端。
 胸の奥からせり上げるものがあった。
 飲み下せない不快な塊。
 死ニタクナイ。
 彼は、自分がそう考えていることそのものに恐慌を来した。
 死は静謐であるべきであり、死にたくないと足掻くのは醜いことである。
 必死に、先ほどまで自分を覆っていた冷静さを取り戻そうとする。
 だが、それ以上の勢いで、自分の中の矮小な部分が叫び始める。
 死にたくない、死にたくない!
 私は、まだ何もしていない!
 私は空っぽだ!何かを守ったという満足感も、達成感も何もない!


 私には、何も、無い!!





 彼は、ゆっくりと目を開いた。
 目を開けても未だ暗闇の中であることに、些か恐怖を抱きかけるが、それが単にまだ夜でありランプの一つも点けていないせいであることに気づき、ゆっくりと体の力を抜く。
 じんわりと冷や汗が下着を濡らし、背中から不快な冷たさが染み込んでくる。
 彼は大きく息を吐き、着替えるために身を起こした。
 夜はまだ深い。
 眠れぬにせよ、体を休めることは大事だ。
 ことに、迷宮に潜るとあっては。
 夜が明けたら、迷宮へ向かう。魔物と対峙する。
 考えると、よけい眠れなくなる。
 あんな浅い階層に出現するような魔物如き、忍者の敵では無いはずだ。
 そう、理性では分かっているのに……あの爪が当たれば死ぬかもしれない、この攻撃が外れれば反撃されるかもしれない…考えてはいけないのに、振り払えば振り払うほど、嫌な予想が湧き上がり、身体を竦ませるのだ。
 こんなことではいけないな、と、ふと思う。
 彼だけの問題ではないのだ。
 彼が怖じ気づいて足を引っ張れば、残り二人の負担が増える。
 あの陽気な戦士は、口ではぎゃーぎゃー文句を言いつつ、彼に気を使いつつ戦っている。
 無表情なエルフは、彼が怪我をすれば、それがたとえかすり傷でも優先的に治癒魔法を使う。
 それは、忍者集団のように効率的な戦い方では決してなかったけれど、彼にはとても心地よく感じられた。
 だからこそ、甘えてはいけないのだ。
 早く、彼らの役に立つように。
 戦士と肩を並べ、背後の僧侶を守れるようにならなくては。
 気負うと、よけい眠れそうにもないな、と彼は苦笑し、極力何も考えないように目を閉じた。



 明けることのない曇天に雪が吹き荒ぶドゥーハンでは、たとえ朝でもさして明るくもなく暖かくもない。
 それでも一応夜が明けてから腹ごしらえをし、冒険者たちは迷宮へ向かった。
 「よっし、今日はもう少し足を延ばして、真ん中くらいまで行ってみるか。で、王宮管理室でも覗く、と」
 剣を振り回して準備運動をしながらリカルドが今日の予定を述べた。
 昨日は、お互いに実力が不明なこともあり、入り口付近でふらふらとはぐれてきた魔物と戦って終了したのだ。
 リカルドは「かーっ!やっぱ体が鈍っちまってる〜!」と叫び、グレッグは予想通り下っ端の魔物如きに硬直し。
 ダークマターは…よく分からなかった。
 最初自分もメイスを持って前線に立とうとしたところをリカルドに止められ、後衛から手投げナイフを放っていた。最初は不器用で、リカルドの後頭部に当てたりして「俺を殺す気かーっ!」と怒鳴られたりもしたが(金属製の兜をかぶっていたので結果的には傷一つ無かった)、徐々にコツを習得したのか二人の間から器用に敵を攻撃していた。
 だが、敵を仕留めても、自分が傷を負っても、顔色一つ変わらない。淡々とやるべきことを続けるだけだ。
 それは、彼の所属する職業のもののようであったし、同時に全く異質なものにも見えた。
 彼らは感情の揺れを最低限に押さえることを無意識に行っている。それはつまり、彼らにも感情はあるということに他ならない。
 だが、ダークマターは、そもそも感情が存在するのか否かすら、他人には窺い知れなかった。
 よほど完璧に感情をコントロールしているのか?それとも本当に感情が無いのか?
 興味深い、と彼は思った。
 今も、ダークマターはリカルドに異論を唱えることなく、興味なさそうに迷宮の入り口へ向かっている。
 「だーっ!勝手に一人ですたすた行くな〜!」
 リカルドが雪を蹴立ててそれを追う。
 彼も追いつつ、思案に耽った。
 感情がないとすれば、そも『迷宮に向かいたい』という欲求は、一体なにから生まれたものなのか?


 扉に耳を澄ませ、向こう側に敵が待ち構えていないことを確認し、ゆっくりと開く。
 同時に、傍らの戦士が彼と位置を入れ替える。
 罠を関知するのは忍者である彼の役目、そして未知なる部屋に入る先頭は戦士であるリカルドの役目。打ち合わせた訳ではないが、昨日からそのような役割分担が出来ていた。
 本来なら、彼が部屋に入る役目を負うべきなのだが(職業といい、位置入れ替えにおけるタイムラグの危険性といい)、魔物と出会うかもしれないと思っただけで冷や汗が出るため、リカルドに押しつけた。
 そうして背後の安全を確保しつつ迷宮を進んでいく。
 細い通路を抜けた後、やや開けた場所に出てきた。
 「ここを右に行けば、王宮管理室があるはずだぜ。うん、今日は順調に進んだよな」
 ここまで大した怪我を負うこともなくやってこれたため、リカルドの声は明るい。
 こういう会話は、だいたいダークマターには無視されるため(本人に悪意は無いんだろうが)、リカルドの視線は自然とグレッグに向けられる。
 そして、彼の異変に気づく。
 「あー、どした?」
 気まずそうに聞くリカルドの声が遠い。
 後頭部が、がんがんと脈打つ。
 背筋に冷たい汗が這う。
 「あちらは…」
 指し示した手は、自分でも情けなくなるほどに震えていた。
 「私が…死にかけた祭壇だ」
 それは、分岐点からまっすぐに進んだ場所。
 もっと下の階へと続く階段があるはずだった。
 それを調べていて、背後から魔物に襲われた。
 脇腹をごっそりと持っていかれ、辛うじて相手を倒したところで力尽きた。
 「すまない…私は、臆病者だ…」
 こんな両脇からも背後からも敵が出現しておかしくないような場所で、足が竦んで動けない。
 危険。
 迷惑。
 
危険。
 どう叱咤しても、足は動くどころか、体中の力が抜けるような心地で。
 「参ったなー。どうする?ダークマター」
 頭を掻き掻きリカルドが聞く。のんきな口調の割には、目は油断無くあたりを見回している。
 「リカルド。あっちには、何がある?」
 平坦な声とともに、手が上げられた。
 指さす方向にも道が延びている。
 「あぁ、あれは、確か…」
 記憶を辿り、リカルドは目を細めた。
 「確か、行き止まりだ。ちょっとした小部屋になってるだけだったはずだ」
 「じゃ、あっちにとりあえず行こう。グレッグが落ち着くまで」
 いつ襲撃に会うか分からないこんな場所にいるのは、ダークマターもいやだったのか、ともかく場所を移そうと提案する。
 「ま、そんなとこが妥当だろうな」
 リカルドも頷き、グレッグの腕を取って引きずるようにそちらに向かった。
 扉の前で、一瞬、リカルドは逡巡した。
 「こーゆーとこには、えてして魔物が巣くってたりするんだよなー」
 扉の向こうの気配を探ってくれる忍者は役に立たない。
 自分は金属鎧をがちゃがちゃと鳴らしながらここに来ている。
 仮に魔物がいたとしたら、待ち伏せ絶好調(意味不明)だなぁと思いつつも、男は気合いだっ!と扉を蹴り開けた。
 すかさず左右から迫る影が二つ。
 「うっわ、お約束!」
 右手の剣をかざしつつ、左手に持っていたグレッグの腕を放し、背後に押しやる。
 しかし、硬直した体はよろめいて、入り口の枠にぶつかった。
 
 危険。
 
敵。
 
死。
 
死。
 
死。


 自分の体が、鉛のように重い。
 時間が引き延ばされるような感覚がする。
 恐ろしくゆっくりと、魔物が迫る。
 女の顔に、白い毛皮をまとった獰猛な魔物。
 その爪は、皮鎧程度なら易々と引き裂く。
 魔物が近づく。
 その生臭い吐息すら感じるような気がした。
 
 もう一体を相手にしているリカルドが、何か叫んだ気がした。
 だが、耳の奥でがんがんと血液が流れる音が響き、何を言ったか聞き取れない。
 
 爪が、振り上げられた。

 死ぬのか。

 彼は、そう思った。
 何もないまま、また、死ぬのか。

 だが、衝撃はいつまで待っても来なかった。

 いや、違う。
 
 何故、自分が目にしているのは、室内ではなく外の通路なのだろう。
 彼は疑問に思う。
 何故。
 濃厚な血臭に、どうにか体を動かし、背後を振り返った。

 魔物は、突然獲物が消えたことに怒りを覚えた。
 だが、代わりに、青い僧衣が現れる。
 それが僧侶の服装であるとの理解は無いにせよ、引き裂きやすい餌であることは、経験上知っていた。
 美しい女の顔に邪悪な歓喜を浮かべて、魔物は爪をふるった。
 柔らかな生き物の皮膚ががぼりと裂け、温かなはらわたが溢れ出る。
 魔物は、それが好物であった。
 うっとりと目を細めた魔物は、何かがおかしいことに勘づく。
 いつもなら聞こえるはずの獲物の絶叫が聞こえない。
 本能のままに飛びすさった魔物の頭を、重い物がかすめた。
 見上げる魔物の目に、ひどく無感情な獲物の顔が映る。
 恐怖も敵意も何もない、屍人のような目が。
 キケン。
 何故かは分からぬままに逃げようとする魔物だが、先程かすめた打撃が足をふらつかせた。
 
 魔物が最後に聞いた音は、ぐしゃり、という自分の頭蓋骨が砕ける音であった。


 
 グレッグは、乾ききって喉に張り付く舌を無理矢理動かして叫んだ。
 「ダークマター!」
 リカルドももう一体をほふって駆けつける。
 震える手で、膝を突くダークマターの肩を抱き、横たえようとした。
 「何を、慌てているんだ?まずは、扉を閉めて、安全を確保してくれ」
 相変わらず無感情な声が、淡々と命じる。
 すぐ側まで来ていたリカルドがきびすを返して、扉に簡単なバリケードを築いた。
 「やれやれ。帰ったら、宿の者に針と糸を借りなきゃな。いや、いっそ買い換えるか?血のシミ落とすの大変そうだし」
 ダークマターは、はみ出している自分の腸ではなく、切り裂かれた僧衣を摘んで一人ごちた。
 その間にも、血はどくどくと脈打つように流れ出し、顔色がどんどんと失われていく。
 皮の水筒を傾けて腸を洗うダークマターの手を取り、彼は震える声で問うた。
 「君は…死ぬのが恐くないのか?」
 小さく治癒の魔法を唱えてから、ダークマターは彼を振り向いた。
 僅かに眉を上げて、小首を傾げる姿は、何を言われているのか全く理解できていないようだった。
 「恐いも何も…このくらいでは、死なないし」
 それは、かつての自分の姿。
 あるいは、あるべき理想の姿。
 だが、突如として巻き怒った怒りのままに、彼はダークマターの肩を揺さぶった。
 「だが!もう一撃食らっていれば、確実に死んでいた!」
 「食らってない。だから、致命傷ではない。故に、怯える必要は無い」
 淡々と並べて、また治癒魔法をかける。覗いていた白い腹部に、僅かに赤い線を残して、ダークマターは立ち上がった。
 「君に…」
 食いしばった歯の間から、息が漏れる。
 「君に、私の気持ちは、分からない」
 「そうだろうね」
 気の無い応えを返し、ダークマターは確かめるようにその場で飛んだ。
 「バランサー正常。血液の喪失による身体機能への影響は最小限。戦闘の続行に支障無し」
 あくまで淡々と自分の体調を確認するダークマターから目を逸らす。
 『恐怖を乗り越えたい』
 ダークマターは、この依頼を受けるには、不適格もいいところだ。
 そもそも本人に『恐怖』が理解できていないのだから。
 彼が恐怖を乗り越える手伝いなど……。
 そこまで考えて、彼はふと首を傾げた。
 それでは、私は、同情されたかったのだろうか?
 恐怖に怯える自分に共感してもらって、優しく包み込んで貰いたかったのか?
 そんなことが、何の解決になる。
 そもそも、恐怖を克服する、とは他人の力を借りるものであったのだろうか。
 急に、自分が出した依頼が恥ずかしくなって、彼は唇を噛んだ。
 街に帰ったら、彼らに謝りパーティーを抜けよう。
 彼は役に立つどころか、足を引っ張っている。…今のように。
 この3人で共に迷宮に挑むことを、心地よく感じ始めていたので多少残念だが、彼のせいで二人を危険に晒すわけには行かない。
 そう決心して、もう帰還しようと言いかけたところを、ダークマターに先を越された。
 「それで、あんたの調子は?」
 「私の?」
 一瞬、虚を突かれて目を見開く。
 戦闘に参加していなかった彼の調子など聞くまでもない。だが、イヤミを言うような性格ではない…というか、イヤミを言う能力があるのかどうかも不明だが…となれば、一体、何を言われているのだろう。
 扉を背にしていたリカルドが、のそりと動いた。
 「おいおい、このままあっちに行くつもりじゃねーだろうなっ」
 あっち、と親指で指された方向は、祭壇へと続く道。
 そういえば、そもそもこの部屋に入ったのは、彼が恐怖故に動けなくなったせいだった。
 「行かないのか?グレッグがどうしても行きたくないなら、止めるけど」
 自分が大怪我をしたことについては、自覚がないらしい。
 リカルドがちらりと彼を見る。
 彼は、祭壇に向かうことを想像してみた。
 だが、分岐点で感じたような体の強ばりは無い。
 ダークマターに対する呆れと怒りで、体の震えはどこかに行ってしまったらしい。
 「私なら、心配無用だ」
 彼も、このまま進むのには躊躇いがあった。だがそれは、自身の恐怖というより、むしろダークマターへの心配であり、ダークマター本人はそれを不要と考えるであろうと、素直にそう申告した。
 何より、これで彼らとの道行きが終わってしまうのは、少し寂しかったせいもある。
 思った通り、ダークマターはあっさりと頷いた。
 「じゃあ、問題無いな。行こう」
 「待てーい!お前…じゃなかった、あんたは今、死にかけたんだぞ!」
 「おまえ、で良いけど」
 「じゃあ、お前…いや、そうじゃなくってだなぁ!普通、帰って大人しくしよう、とか思わないか?」
 「さあ。普通がどんなのか知らないけど。俺は不要だと思うけどね」
 「あーもう!」
 頭を掻きむしるリカルドに、思わず笑う。
 「こらこのクソ忍者!元はと言えば、てめーのことだ!笑うな!」
 「いや、失敬」
 顔を真っ赤にして怒鳴るリカルドがおかしくて、どうにも笑いが止まらない。
 喉を鳴らし続ける彼を見るダークマターの目は、奇妙な色を湛えていた。
 冷ややかというのではなく。
 何かに焦がれているような、だが熱は全く無く、倦んだような。
 だが、彼がようやく笑いを収めて、次の場所へ移ろうとする頃には、相変わらずの無感情に戻っていた。
 人形のように整った、そのせいで余計に不気味に見える乏しい表情で、ダークマターは扉に手をかけた。
 

 結局、怪我をしたダークマターを背後に守る形で、彼らは通路を進んでいった。
 萎縮していたはずの彼だが、背後のダークマターを守らねば、と思うと、不思議なほどに気分が高揚するのを感じていた。
 それは、決して楽しいと感じているわけではなく。
 昔、そう、感情をコントロールする術を身につけるよりもっと前に、戦いに赴くとき感じた不思議な昂揚に似ていた。
 確かに、まだ恐怖はある。
 だがそれ以上に背後の者を守らねば、という使命感が彼を奮い立たせていた。
 扉を開く。
 正面にある祭壇を視界に捉えつつも、見るべきものは、敵。
 予想通り、壁の窪みから複数の魔物の気配が漂ってくる。
 そっと息を潜めて待ち伏せしているもの、そんな知能もなく彼らを倒すべく這い出て来るもの…。
 剣を構えるリカルドに、ダークマターが冷静に指示する。
 「扉を背にするのは危険だ。どこかの窪みを背にして、来る奴は各個撃破、その後こちらから仕掛ける方がいいだろう」
 「わかった」
 四の五の言わずにリカルドは頷き、手近な窪みに目をこらす。
 「私が、安全を確保しよう」
 彼は止められる前にするりと隊列を抜けた。
 単独で突出した彼に、魔物の粘い視線が集中する。
 目を付けた窪みの角を回ると、鋭い怪鳥の叫び声が頭上から響いた。
 蹴爪をかわし、奥にいた妖猫と対峙する。
 じわり、と滲む汗を頭から追いやり、ただ敵の首筋を狙うべく集中した。
 足が床を蹴り、一気に間合いを詰める。
 爪を避け、手にした短刀を滑らようとした瞬間。
 再び、頭上から怪鳥の叫びが聞こえた。
 あの、鋭い蹴爪は、妖猫の爪ほどではないにせよ、結構鋭い。
 仮に首筋を狙われれば、運が悪ければ即死もあり得る。
 だが、頭上の魔物を迎え撃つにも、動作を止めるにも、遅すぎた。
 ままよ、と妖猫の首に短刀を打ち込む。
 勢いのまま滑らせると、魔物の首から鮮やかな鮮血が滝のように噴き出した。
 体の位置は止めぬまま魔物の脇を擦り抜ける。
 次の瞬間。
 轟、と空気が焦げた。
 熱気に押されるように前に飛び、壁を背にして振り返る。
 彼の前に、断末魔の叫びを上げつつ、黒こげになった怪鳥がぼとりと落ちた。
 のたうち回る体の動きが、徐々に弱る。
 それが全く動かなくなった頃、ばたばたとリカルドが駆けてきた。
 「あんた僧侶なのに、何で魔術師の使うような魔法使えるんだよ!」
 「さあ」
 相変わらず誠意のない返事をしつつ、ダークマターもその後ろに付いて来ていた。
 「君が?」
 語彙を省いて一言で問う。
 返ってきたのは、ちょっと肩をすくめる姿のみであった。
 彼の方も、返事を期待していたわけではない。まさかリカルドが魔法を使えるとは思えず、ならばあの魔法を放ったのはダークマター以外になかったからだ。
 「そういう隠し芸があるんなら、言っといてくれよな!」
 広間の方に剣を構えつつ、リカルドはまだ文句を言っている。
 彼もまたリカルドに並ぶため前に出た。
 交代で後ろに回ったダークマターの返事は、結局戦闘が終了するまで、全く無かったのだった。


 広間に巣くっていた魔物を全て駆逐し、彼らは祭壇の前に来ていた。
 天からは、彼が死にかけた時と同様に、はらはらと途切れることなく雪が舞っている。
 祭壇に積もった雪を払いのけながら、彼は目を閉じた。
 虚無に飲み込まれるような、恐怖。
 自分の人生には何もなかったという、絶望。
 それらは容易に呼び起こせる感情だったが、不思議と体は震えなかった。
 「おかしなものだな」
 誰に語りかけるでもなく、彼は低く言った。
 「ここに来れば、どんなに怯えるかと思ったが…私にとって、恐怖の対象は、この場所というのではなかったらしい」
 祭壇に手を突きつつ、空を見上げる。
 見ていると、どちらからどちらへ降っているのか分からなくなるような気さえしてくる。
 しばらく声もなく眺めていると、視界の端に動くものが映り、そちらを見やった。
 すると。
 足下に、ダークマターが横たわっていた。
 「…ひょっとして、疲れた…のかな?」
 全く自信がない声で問う。
 ダークマターは無言でしばし天を眺めていたが、無表情のまま身を起こした。
 「やっぱり、俺には、分からないな」
 ぽつん、と吐かれた言葉に、どうやら彼の気持ちを理解しようとしてやったことだと分かり、幾分驚かされる。
 まさかとは思うが、ダークマターは無表情なりに彼の言った「君には私の気持ちは分からない」という言葉が気にかかっていたのだろうか。
 「君は」
 あまり相手のプライバシーには触れぬよう、言わないでいた、そして言うつもりもなかった言葉が、口から滑り出る。
 「君は、感情が無いのか?」
 いったん、出てしまった言葉は止められない。いっそ全部言ってしまえ、と腹をくくる。
 「聞いてみたかったのだ。君のその無感動は、訓練されたものなのか?それとも、本当に…死すら君を怯えさせることは無いのか?」
 しばしの沈黙。
 気まずそうにリカルドが、彼とダークマターとを見比べる。
 何度か口を開きかけては、頭を掻いて黙る、というのを繰り返している。
 ずいぶんと長い時間が経った気がした。
 ゆっくりと、天に向けられていた瞳が、彼に向けられる。
 空洞のような瞳は、相変わらず焦点が合っていないような、奇妙な居心地悪さを感じさせた。
 「俺は、あんたが羨ましい」
 言葉の割には、全く熱のこもらない言葉が、そぅっと流れた。
 「俺には、何もない。死への恐怖も無いが、代わりに、生への熱望も無い。苦しいと思わない代わりに、楽しいとも思わない。それは」
 笑いの形に、目が細められる。
 「それは、生きているとは言わないんじゃないかな」
 やはり、と思う。
 では、彼は本当に感情が無いのだ。
 コントロールするまでもなく、そもそも感情というものが存在しない。
 だが。
 彼は、ふと気づく。
 だが、本当に。欠片も感情が存在しないなら、『感情がないことが面白くなく、彼を羨ましいと思う』ことすら無いのではないか?
 思っていたことが顔に出たのか、ダークマターは笑いの表情を張り付かせたまま、首を傾げた。
 「ここで笑うべきだ、とか、苦しいと思うべきだ、という判断はできるよ。だけど、実際にそう感じることはないし、それが出来ないことが悲しいとも思わない。ただ…」
 いったん切って、唇を舐める。
 「自分は、異常だと判断するだけ。感情があれば、この灰色の世界は、ちょっとは楽しいところかな?」
 投げかけられた問いを噛み締める。
 楽しい、だろうか、この世界は。
 閃光によって壊滅状態の街。這い出る不死者。魔物に冒険者たち。
 だが、ささやかながらも人々は生活し、日々の糧を得て、それぞれに小さな幸せを見つけて騒いだりもしている。
 彼自身も、恐怖に囚われはしたが、ずっと毎日が暗く閉ざされているばかりではなかった。
 敗残者となったからこそ、暖かな言葉が身に染みることもあれば、小さな路傍の花に心安らいだりもした。
 「あぁ。…楽しいところだよ、この世界は」
 力強く、彼は頷いて見せた。
 「辛いことも、悲しいこともあるが、同時に、楽しいことも嬉しいこともある。現に、私は、君たちとこうして冒険をすることを楽しんでいる。君が助けてくれて、嬉しかった」
 「そう」
 素っ気なく返事をしてから、ダークマターは彼をじっと見つめた。
 「ごめん。ここで喜ぶべきなんだろうけど」
 「いや…別に構わない。君が感じるように感じてくれれば、それでいい」
 「待った〜!俺は、気になるぞ!」
 我慢できない、という風にリカルドが遮った。
 ダークマターの肩を掴み、揺さぶる。
 「一体、いつからそんななんだ?ガキの頃からそんなんなのか?それって滅茶苦茶可哀想じゃねぇか!」
 可哀想、というのはダークマターに対して失礼ではないかと彼は思ったのだが、言われた本人は気にしていないようだった。
 「いつからって………さあ」
 お約束の返答をされて、リカルドが、だぁっと吠える。
 「そりゃ、興味本位で聞いてるけどよ!言ってくれたって良いじゃないか!俺たちは、仲間だろ!?」
 …興味本位って…はっきり言うな。
 それから、たった2日で仲間ヅラして相手の内面にまで踏み込むのはどうだろうか。
 この戦士は、馬鹿なところが憎めないのだが…本当に馬鹿だな、と彼は思った。
 ダークマターはリカルドの両手から逃れて、少し離れたところで足をとんっと鳴らした。
 「いつから、か。厳密には、2日前から、かな?」
 「はあ!?」
 リカルドの叫びは、彼も同感であった。
 たった2日前からのことであるのか?
 「だって、俺の記憶が2日前から始まってるから」
 あっさりと続けられ、一瞬、思考が停止する。
 理解できたときには、彼もリカルドと同様に叫んでいた。
 「まさか、君は、記憶喪失者だったのか?!」
 「そうなんじゃない?」
 何を驚いているのか、さっぱり分からない、という顔でダークマターは答えた。
 「え?え?え?だとすると、あんた、じゃあ、マジで僧侶魔法がどれくらい使えるか〜とか、魔物殺せるか〜とか分からなかったってわけか!?」
 「あぁ、そうだな」
 何でもない風に答えるが、おおごとのような気がする。
 よくもまあ、自分の実力も分からないままに迷宮に潜ろうとしたものだ。
 というよりむしろ、記憶が無く突然そこにいて、いきなり迷宮に潜ろうとするという発想自体が信じられない。
 だが、そこまで考えて、彼は思いだした。
 ダークマターが、街の入り口で『迷宮に潜れば自分を見つけられる』と言われた、ということを。
 迷宮の最初で出会った白髪の剣士に言われたようだが、寄る辺無いところに言われたものならば、それが行動指針となっても不思議ではない。
 とはいえ、剛胆なことに変わりはない…と感嘆しかけて、ダークマターにとっては『どうでもよいこと』だったのかもしれないと考え直す。
 「君は、何故、それを今頃言うのかな?」
 「それは、無論、会ったばかりの人間に自分の弱みを言う気にはならなかったからだ」
 「うっわ、水臭い!」
 またしても、俺たち仲間だろ論法を繰り出すリカルドを押しやって、彼はダークマターの瞳を覗き込んだ。
 「逆だ。君が、そう判断するのは理解できる。私でもそうしただろう。分からないのは、今、何故、言う気になってくれたのか、だ」
 小首を傾げて、ダークマターは彼を見上げる。
 もしもダークマターが感情豊かだったなら、どんな青年だったのだろう、と彼はふと思った。
 エルフ族の優美な肉体に、やや幼い風貌を残した顔。さぞかし女性にもてるだろう。
 いや、今はそんなことを考えている時じゃなくて。
 「自惚れてもいいのかな?我々が、君の信用を勝ち得た、と」
 無言で、ダークマターは彼を見つめている。
 もう、その無表情さに居心地悪くなったりはしない。
 きっと、この凍り付いた瞳の奥には、柔らかな感情が存在するはずだと信じているから。
 「更に言うなら。このタイミングで言うということは、私のために言ってくれたのかな?私が恐怖を感じていることも、生きている証であって、唾棄すべきことばかりではない、と」
 不意にダークマターがきびすを返した。
 数歩、広間からの出口へ向かって進んだ後、振り返った。

 「さあ」

 そう言って、微笑んだ。

 隣のリカルドが息を飲んだのが分かった。
 彼も、少し笑って見せつつ、隣の男を促して、歩き始めた。
 「君は、とても綺麗に笑うのだな」
 え、と僅かに困惑したような顔で、ダークマターは彼を見つめた。
 「俺、笑ってた?」
 「あぁ、確かに」
 頷く彼の横で、感極まった、とばかりにリカルドが叫ぶ。
 「ダークマター〜〜!!良かったな〜!」
 駆け寄って、がしぃっ!と抱き締めた。
 じたばたと抵抗するダークマターの顔は、やはりどこか困惑したような気配があって。
 「君はきっと、これから笑ったり怒ったりできるようになるのだろう。私は、それまで」
 彼は、憑き物が落ちたようなすっきりした顔で天を仰いだ。
 「君を守ることにしよう」
 リカルドに羽交い締めにされたまま、ダークマターは眉をひそめた。
 その声はまだ平板だったけれど。
 「…あんたは、あんたの好きなようにすればいい。俺を守る、とか考えて貰う必要はない」
 「なに。私がそうしたいだけだ。忍者のサガ、というやつだろうか。使命があれば、いかなる困難な状況にでも立ち向かっていける気がするよ」
 「あんたがそうしたいなら、そうすればいいけど」
 ぼそぼそと綴られる言葉に感情は込められていないが、それは拒否ではない。
 
 彼は、祭壇を振り返った。
 そこにいるのは忍者の亡霊。
 自分には何も残らないことを嘆き悲しみつつ、絶望の淵で藻掻き苦しむだけの悲しい存在。
 
 だが、私は、違う。
 私はまだ生きている。
 生きているからこそ、死に怯えもし、己の浅薄さを嘆くこともできる。
 同時に、楽しいことも嬉しいことも全てこの身のうちに持っている。

 やはり死ぬのは恐いけれど。
 それも、また、私。


 懐かしいものを見るように、彼は目を細めて祭壇を見つめ。
 それから、きびすを返した。
 確固たる足取りで、仲間たちの後を追う。
 


 そして、2度と振り返らない。





あとがき
せっかく、グレッグ、最後を決めてんのに、
1→5Fショートカット作ったら、8Fショートカットが出来るまでは、
毎回、祭壇通るんだよなー(笑)。
それを思い出したときは、どうしようかと思ったよ、ホンマ。
いっそSSではショートカットは無いという事に……


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