その感情に名前を付けるなら
迷宮から帰ってきて、暖かな宿屋に入るほど、ほっとするものはない。
彼らは、各自部屋で濡れてしまった装備を外し、乾いた心地よい衣服に着替えてから、一つの部屋に集まった。
座り込んで武器の手入れをする男たちを尻目に、ルイは酒を垂らした熱いお茶のカップを手に、窓際に立った。
「私さ、こういうのって好きよ」
メイスに付着した血を丁寧に拭っていたダークマターが、不思議そうな目で彼女を見上げた。
「そりゃ、雪にはたいがい飽き飽きだけど。でも、外が寒いからこそ、暖かいお茶が美味しいし、暖炉が嬉しくなるのよね」
「あそれって分かるわ夏には暖炉なんて汚れるだけで邪魔ねなんて思うんだけど実際冬にも掃除しないとすぐ詰まっちゃって面倒ではあるんだけどでもやっぱりこの火の色っていうか暖かい感じがすごく幸せを感じるわよね」
ブーツを火にかざして乾かしながら、サラがこくこくと頷いた。
「俺は、やかんがしゅんしゅん音を立ててて、湯気がもわーってのも好きだな。冬ーっ!って感じだろ?」
「皆、寒いから、暖かい方が、良い?」
何か、自分の言葉を一つ一つ確かめるかのような言い方で、ダークマターは首を傾げた。
「うーん…ちょっと違うかな?きん、と冴えた冬の夜に見る星空だって好きだもの。…今は、見えないけどね」
「猫が丸まってんのを見るのも好きだな、俺は」
「ふむ、私は犬派だが」
「忠義に篤いものな」
茶化すリカルドにグレッグは手を上げかけて、ダークマターの様子に気づきそのまま手を握った。
「どうかしたか?」
首を傾げたまま睫毛を半ば閉じかけていたダークマターは、ゆっくりとその瞼を上げた。
硝子玉のような瞳が、グレッグを見返し、困ったように笑った。
「好き、って、どんな感じだ?」
「好き、とは……」
鸚鵡返しに聞き返してから、やはり困ったようにグレッグは言葉を止めた。
「面白い、こと?」
「いやー、ちょっと違うような気が…」
真剣に腕を組んで考えるリカルドは、うんうんと唸る。
「何つーか、こう…嫌いの反対?」
「当たり前じゃない」
ルイは呆れたように言って、新しいカップにお茶を入れた。
手渡されたダークマターは、それにふぅふぅと息を吹きかける。
「あら、猫舌?」
「猫舌って?」
「熱いものが飲めないってこと」
「あぁ、それ」
また目を落として息を吹きかけ、ようやく僅かに啜った。
「ねぇ、ダークマター。それ、『好き』?」
問われたダークマターは、また困惑したように首を傾げた。
もう一度、啜って、鼻に小さく皺を寄せる。
「好きって…美味しいってこと?」
「…イコールじゃないわね…」
ルイは、両手を拡げて肩をすくめた。
「どう、説明すればいいのかしら」
「あら言葉で説明するものじゃないと思うわ感じ方の問題だもの好きなものは人それぞれだし同じものを好きって言ってもその『好き』は同じものじゃないはずだし難しいわねそうねたとえば好きって思い浮かべたら胸が暖かくなるってことっていうのはどう?」
「サラだって言葉で説明しようとしてるじゃないの」
ダークマターはお茶の表面に目を落として、独り言のように呟いた。
「俺には、よく、分からないから」
それから、手を伸ばして暖炉にかざした。
「時々」
その顔に、表情は無い。
「俺は、死んでるんじゃないか、と思う」
ゆっくりと、その手を握ったり開いたりしながら。
「時々、楽しい、と思うときがある。そんな時は、笑える。だけど、長くは続かない。あとは、いつでも灰色の世界にいる気がする。あんたたちを、『好き』だと思えたら良い、と思う。だけど、やっぱり」
目を伏せて淡々と告げる。
「霧の向こうにいるみたいに、はっきりしない。別の世界にいるみたいだ。…やっぱり、俺は、おかしいんだろうね」
ぼんやりと、夢を見ているかのような瞳が、彼らを見回した。
本来なら、悲しそうにするところなのだろうが、まだ彼に『悲しい』という感情は存在しなかった。
ダークマターに生まれた感情は、まだ、『楽しい』『面白い』が、時折。それ以外、つまり世界の大半は『どうでもいい』で成り立っていた。
グレッグが、ダークマターの手を取った。
「君が、我々のことを好きであれ、嫌いであれ。私は君のことが好きだから、どこまでも付いていくつもりだよ。我が主君よ」
「どさくさに紛れて、口説くな、このクソ忍者!」
げしっとグレッグの後頭部を一発殴ってから、リカルドはにやりと笑った。
「まあ、同感だがな。俺も、あんたのことが『好き』だから、一緒にいるんだぜ?」
言ってから、天井を仰ぐ。
「かーっ!照れるねーっ!」
その膝に後ろから蹴りを入れて体勢を崩させ、その間にまたグレッグはダークマターの手を握りしめて目を覗き込んだ。
「冗談は、ともかく。君は、我々と、他の人間のことは区別しているだろう?私は、それで十分だと思うのだが。何、そのうち全ての感情が揃えば、我々のことを好きだと分かるようになるだろう。まあ、私としては」
そして、ぬけぬけと言い放つ。
「私だけを好きと言って貰っても、いっこうに構わぬのだが」
「だから!口説くなってんだよ、このクソ忍者!」
今度は背後から羽交い締めにしてリカルドはグレッグを引き剥がした。
そのまま床で転げ回る二人を、呆気にとられたように見ていたダークマターの顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「…男って、アホね…」
「そういうところが可愛いと思うんだけどどうかしらルイ姉さんはそう思わない?」
「まあね…可愛い、と言えば、可愛い、かしら」
女二人はくすくすと笑い合い、危うく蹴られかけたダークマターを手招きして安全地帯に呼び寄せる。
「ところでねぇ。あの忍者は本気でダークマターのことが好きなのかしら?だったら、守ってあげないとね。夜二人きりにさせない、とか」
「あら違うと思うわグレッグは普通に女性が好きって言ってたけどだけどただ好みの女性のタイプはそのルイ姉さんと反対というか」
ちょっと気まずそうにルイを見上げて、小さく舌を出した。
「ごめんなさいねルイ姉さんが入って来たときあんなグラマーな女性が好きなんでしょ胸が肘に当たって嬉しそうな顔してたものねって言ったらいや私は胸の小さいどちらかというと未成熟な感じの女性が好きだなって言ってたから」
「あら。ま、別に気にしたりはしないわよ。だけど」
自分の胸を見下ろし、それから、ダークマターを指さした。
「『胸の小さい、未成熟な女性』?」
はぁ?とダークマターは眉を寄せた。
「俺…男だけど?」
「あぁそうねぇ確かにまだ未発達な少女ぽいと言えばそんな感じよねぇだったらダークマター危ないのかしら困ったわ胸が小さいのが好みならダークマターは確かにぴったりよね胸は薄いし」
「…俺、男だから…胸は無いのが当たり前だと思うんだけど…」
ますます困惑して眉の寄るダークマターに、ルイは笑って肩を叩いた。
「そうね。男だものね。キミは気にしなくて良いわ」
サラも勢いこんで、熱意に輝く瞳を向けた。
「そうよダークマターは気にしないで頂戴いざとなったら私たちが貴方を守ってあげるからっ」
ねーっと手を合わせる女性二人に、ダークマターの呟きは聞き流された。
「…何から、誰を?」
そうして、男二人に混じってどたばたを始めた彼女たちを見つめる。
自分には『好き』というものがよく分からないけれど、確かに彼らが自分を『好き』という気持ちに嘘は無いのだろう。
自分が何をやっても許される、そんな包み込むような暖かさは、心地よいようでいて…なんだか落ち着かない気もした。
俺には、それを受ける資格は無いから。
一瞬、浮かんだ考えに、戸惑う。
時折、感じるのだ。
自分は、そこに在るべきものでは無い、と。
どこから来たのか、そもそもいつ生まれたのか、己とは何だったのか。
何も分からないまま、ただ、そこに在る。
まるで、深い水底にいるかのように、遠く表層で感情が揺れても、己に届く前に消えてしまう。
こんな風でも。
本当に、『いつか、全ての感情が揃い』『彼らを好きと感じる』ようになるのだろうか。
だが、それを疑問に思うことこそあれ、彼は『不安』にはならなかった。それもまた、『感情』であったから。
陰鬱な墓場の地下を、彼らは歩いていた。
「ようやく、先に進めそうな気がしてきたわね」
ルイの声には、うんざりした調子と同時に、先が見えてきたという安堵感が滲んでいた。
地下4階に来てからと言うもの、墓場と、地下の納骨堂が所々で繋がってしまい、何度も穴に落ちては戻って来るというのを繰り返していたからである。
誰が設置したかは知らないが、納骨堂から上の墓地へと繋がるワープがあったのが、せめてもの救いであった。
今までとは違い、墓地を囲むような一直線の地下通路に、誰もが、ようやくこれまでとは違う場所へ進めそうだ、と気を緩めていた。
それでも、扉があれば、向こうに何があるか分からない、とグレッグが耳を当てて探り、何もなさそうだ、という言葉に安心したリカルドが、何の気無しにばたんと開けた。
途端、目に入った人影に、リカルドの体に緊張が走った。
その後ろから覗き込んだグレッグが、気まずそうに乾いた笑いを漏らす。
「いや、魔物はいないのは、間違ってはいなかったが」
「…忍者兵…」
グレッグが気配を感じ取れなかったところを見ると、かなり高レベルの者たちなのだろう、ドゥーハンでも悪評高い忍者兵がそこに数名何事かを言い交わしていた。
そのうち、派手な色彩の男が、命令を下し終えてから、こちらを振り向き、事務的な口調で、
「冒険者たちか。あまり深入りはせぬことだ」
と、言い捨て。
そのまま部下同様に彼らとは反対側の扉に向かいかけて。
振り向いた。
まだ、その目に映るのは、先頭の軽戦士と一般忍者のみであったが、視線は彼らを通り抜けてドアから現れぬただ一人に向けられていた。
「…まさか…」
嗄れた声が、振り絞るように出される。
「まさか、お前、なのか…!」
彼は、リカルドがドアを開けるその前から、奇妙な感覚に襲われていた。
どくん。
心臓が、大きく跳ねる。
どくん。どくん。
同時に、頭の中を、不快な囂々とした響きが満たす。
どくんどくんどくんどくんどくん。
その、ドアを、開けるな
どくどくどくどくどくどくどくどく。
そう言いたかったのに、身体はぴくりとも動かなかった。
代わりに、心臓だけが血液を激しく送り出している。
ドアが、開く。
『その存在』を、もっと確かに感じる。
うるさいぞ、俺の、心臓。
喉元に迫り上げるような脈は、不愉快な感触でしかなかった。
リカルドとグレッグは、視線に押しのけられるように、自然に一歩退いていた。
そして、道が、開かれる。
彼らは、真っ向から、対面する。
「ダークマター……!」
食いしばった歯の間から、獰猛な野獣の咆吼にも似た叫びが漏れた。
彼の手が動いたのは、誰の目にも留まらなかった。
彼は、淡い水色の瞳を見開いたまま、瞬き一つしなかった。
最近では僅かではあったが緩んできていた表情が、凍り付いたように固まっている。
だが、右手だけが、条件反射のように上げられた。
青いマントが翻る。
「…やはり、お前、なのだな…」
彼は、その金髪のエルフの手に吸い込まれた棒手裏剣を確認して呻いた。
その辺の冒険者如きに避けられるものではない。相手もまた、避けはしなかったが、代わりに手を犠牲にした。
だが、骨も腱も血管も筋肉も。手裏剣が鋭いが故に、傷つけることなく、ただ刺さっている。
偶然ではあり得ない。
彼を相手に、こんな真似が出来るのは。
この『疾風のクルガン』相手に、真っ向から渡り合えるのは。
「何故、お前が生きている…ダークマター!!」
不快不快不快不快不快。
灰色の世界の中に、突然飛び込んできた極彩色のそれ。
彼は、自身の網膜に映った姿が生み出した、己の感情と戦っていた。
ごめん、 。
頭の片隅を、何かがかすめて行った。
相手が、怒り狂い、己を滅しようとしているのは理解できた。
敵、というものは、これまで何度も出会ったことがある。
だが、こんなに不快なものをもたらした存在は、初めてだ。
「お前は、俺の存在を、危うくする」
彼の口から、抑揚のない言葉が流れた。
「ならば」
彼は、左手で己の右手に刺さるものを抜き取った。
「お前の存在を、消すのみだ」
何事が起きているのか、全く分からぬままに突っ立っていた彼らは、周囲に巻き起こった風に、目を見開いた。
風が、舞っている。
そうとしか捉えられぬような速度で、彼らのリーダーと、忍者兵の長が戦っている。
「ダークマター!」
叫んで加勢しようとしたリカルドは、グレッグに止められた。
「我らの出る幕ではない」
「んなこと言ってる場合か!ダークマターが…!」
「分かっている」
グレッグは、蒼白な顔ではあったが、その目は臆病風どころか爛々と輝いていた。
「機会を待て、リカルド。いつか、均衡が崩れる。その時には…」
ひゅっと風を鳴らして、忍者刀が引き抜かれた。
「一命を賭してでも、我らの主君を救うぞ!」
「くっ。さすがに、私の主君、とは言わなかったかよ」
リカルドも、いつでも動けるように力を撓めながら、僅かに笑った。
背後では、サラとルイがいつでも雷を放てるように詠唱を延ばし、魔力を周囲に溜めている。
彼らは、あまりにもかけ離れた高位の者たちが戦っているところに割り込む能力は無かった。
むしろ、彼の邪魔になることを懼れたから。
だが、もしも、彼らが離れたなら。
たとえ、死が待ち受けていようとも、彼らの大事な仲間を助けるのを躊躇いはしなかった。
彼は、戸惑っていた。
怒りのままに戦いを仕掛けはしたが、改めて部屋の内部に現れた彼を見れば、まるで別人のようであったから。
あいつは、こんなに綺麗な髪をしていたか?
あいつは、こんなに滑らかな肌をしていたか?
あいつは、こんな風に、俺を見たか?
そして。
エルフの耳と、均衡のとれた肉体が、彼の打ち込みを鈍らせる。
「…お前は、何者だ?」
短刀を振るいながら、思わず発していた問いは、思いがけない効果を生んだ。
「お前は、何者だ?」
それは、あまりにも、彼の核心を突いていて。
「あははははははははははははははははは!!!」
表情が変わらぬままに、口から漏れた哄笑は、周囲に恐ろしいほど響いた。
「俺が、何者か、だって!?…そんなことは!」
一瞬、隙の出来た身体に、メイスが重い音を立てて打ち込まれた。
「多分、あんたの方が、よく、知っているよ」
だからこそ。
お前の存在は、俺の存在を、危うくする。
肋骨をへし折られ、さすがに呻きとともに膝を突く。
見上げた先には、狂おしいほどの笑顔を浮かべた美しいエルフがいた。
「…不愉快だ」
笑った顔に、空洞のような瞳が、酷く異質に写った。
「お前の存在は、不愉快だ」
その単語を、まるで噛み締めるかのようにゆっくりと発音して、彼は、メイスを振り上げた。
彼の手が、大腿の短刀へ走る。
メイスの一撃を受けてでも、彼の頸動脈をかき切る自信があった。…躊躇いさえ、しなければ。
振り上げられたメイスが、ずる、と滑りかけた。右手からじわじわと流れていた血のせいだ。
握り直すのに、隙が出来る。
だが、彼の一撃は宙を切った。
代わりに、放たれたナイフをそれで薙払う。
「…冒険者風情が…」
彼は、ただ純粋に怒りを覚えた。
今まで探し求めていた、もう失ったと思っていた相手にようやく出会えたというのに、それに水を差す者たちに。
「俺の邪魔を、するなぁあっっ!!」
リカルドは、力尽くで引き戻した彼の顔が、相変わらず凍り付いているのに気づき、戸惑った。
「…俺の、邪魔をするな」
笑顔のまま言われたにも関わらず、死神と戦ったときと同様かそれ以上に寒気を感じて後ずさる。
だが、その笑顔を、グレッグが2度3度と張り飛ばした。
「おい…」
「ダークマター。我が主君よ。我々が、勝利を得るために、命令を」
ゆっくりと、瞬きが落ちる。
「いいか?君は我々のリーダーだ。私たちの力を利用し、彼を打ち負かすと良い」
「放電の準備はばっちりよ♪」
二人の女性が、両手に雷をまとっている。いつから留めておいたのだろうか、術者である彼女たち自身の手にもミミズ腫れが走っていた。
もう一度、ゆっくりと瞬きが落ちた。
再び水色の瞳が現れた時には、無表情に変わりなかったが、確かに何かが変わっていた。
「ルイ、それを放った後には、グレッグとともに投げナイフで待機、敵攻撃を牽制、リカルド囮、サラは魔力で絡め取れ」
彼らのみに通じる暗号で口早に命じた後、振り返りもせずに切り込んだ。
「やれやれ、俺は囮かよっと」
口中だけで呟きながら、その役目を果たすべく、全力で『敵』に接近する。
両手持ちの重い一撃は難なく避けられ、逆に刃の側面に受けた蹴り一つで大剣にヒビが走る。
うげ、と呻きながら飛びすさったリカルドの目に、メイスで打ちかかるダークマターの姿が映った。
すでに体勢を整えている忍者兵の長には通じない、と見た瞬間。
部屋の中心を雷が質量すら伴って走り抜けた。
「がっ!」
小さく叫んだところに、ダークマターのメイスが襲う。
辛うじて振り上げられた短刀が叩き落とされる。
考えてみれば、すでに胸郭をへし折られていたのだ。その状態で自分の攻撃は軽々と避けた、その相手の力量に、リカルドはただただ感心した。
そこで、サラの魔力が相手の体を絡め取り、床へと押しつけた。
仰向けに床に横たわっている『敵』を見て、彼はかすかに笑った。
これを振り下ろせば、もう、この不快な感覚は終わるのだ。
そして、彼はメイスを振りかざす。
そのまま、ダークマターの動きが止まる。
リカルドは、折れた剣を片手にゆっくりと、彼に向かって数歩進んだ。
「…ダークマター?」
淡い水色の虹彩に浮かぶ瞳孔は、いつでも開きがちではあったが、今は、完全に開ききって、まるで白目に瞳孔だけが浮かんでいるかのように見える。
「…るさい…」
自分に言われたのか、とリカルドは足を止めた。
だが、彼の目は、ただひたすらに、『敵』を見つめていて。
「……黙れ……違う、俺は……」
ごとり、と重い物が落ちた音がした。
落ちたメイスを、まだ振り上げているかのような姿勢で、まだダークマターは彼を見つめていた。
開いた瞳孔に、何かが、ちかり、と瞬いた。
「……クルガン……?」
まるで幼子のような、あどけないとさえ言えるような調子で、その言葉は紡がれ。
いきなり、糸が切れた人形のように落ちてきた身体を受け止め、クルガンは小さく呻いた。
慌てて走り寄る冒険者たちに、ふん、と鼻を鳴らし、力の無い体を抱えて起きあがる。
「…毒気が抜かれた。……やる」
完全に気を失っている彼の身体を、最も早く彼の近くに来た戦士に突き出した。
そして、重い重い溜息を一つ吐き。
「分からん…それが、俺の大……俺の敵の名をかたっただけの赤の他人なのか、それとも」
戦士の腕に収まった者の耳を見つめて。
「…分からん。だが、そいつは、俺に敵意があるようだな」
ふん、と鼻を鳴らし、落とした短刀を拾い上げた。
そして、彼らに背中を晒し、出ていこうとする。
今なら、一撃くらいは浴びせられるのではないか。
そう、グレッグは思った。
そのくらい、目の前の背中は無防備なように見えた。
だが、冷や汗が額を伝う。体が動かない。
「逃げるの?」
その問いは、女盗賊の口から発せられた。
ゆっくりと、クイーンガードが振り向く。
金色の猫のように輝く瞳を向けて、ルイはもう一度聞いた。
「彼に、疑問を問い質しもせず、逃げるの?」
グレッグの冷や汗は背筋にまで吹き出し、じんわりと背中を濡らした。
あの『疾風のクルガン』に「逃げるのか」などと言って、生きて帰れるとは思えない。
だが、密かに忍者刀を握り直した彼の予想に反して。
深紅の瞳が細められた。
「そうだな。逃げるのかも、しれん」
今、彼がその気になれば、冒険者たちを一瞬で始末して。
意識の無い彼を殺すことなど造作もないことだったから。
だから、今は、退いてやる。
そんな言葉が風に紛れて聞こえた。
一瞬の後、彼らの前には、空っぽの部屋だけが存在した。
暖かな暖炉の部屋に、彼はいた。
何の前触れもなく、ぱちりと瞼が開く。
覗き込んでいたリカルドが、他の皆に知らせた。
「おーい!ダークマターが気づいたぞ!」
だが、4人が集まってきても、彼は微動だにしなかった。
先ほどまでの意識が無かった時と同様に、ベッドに横たわったまま、天井を見上げている。
「…ダークマター?」
それから、徐々に、その顔に笑みが拡がった。
悪意に満ちた、美しい笑みが。
起き上がった彼は、その微笑んだ表情のまま、彼女に言った。
「ねぇ、ルイ姉さん」
「何?ダークマター」
「俺ね」
瞳は、凍えた湖にも似て。
「『好き』は今でも分からないけど。…『嫌い』は、分かるようになったよ」
ルイは一瞬動きを止めた。
それから、肩をすくめて、おどけたように言う。
「それは、おめでとう、と言うべきなのかしら?それとも、お気の毒に、と言うべきなのかしら?」
「言祝ぐべきや、悼むべきや…」
細い声で歌うように繰り返し、ダークマターは微笑んだ。
「良いこと、なんじゃないの?全ての感情が揃うには、こういう嫌な感情も必要なんだろうからさ」
そうして、甲高い声で笑う。
まるで、彼にしか通じない冗談でも言ったかのように。
彼は、時折、『それ』のことを思い返す。
灰色の水底で、他者の存在も遠い世界にいるような時に現れた強烈な色彩。
『嬉しい』とか『楽しい』とか『面白い』とかは、一瞬感じても、すぐに消え失せ、再び泥のように沈殿してしまうのに、何故か『それ』のことを考えるときだけは、世界がはっきりとクリアになるようだった。
『それ』は、彼に胸の痛みとやるせなさを運んでくる。
破裂しそうな心臓と、叫び出したいような、自分を消し去ってしまいたいような気持ちに囚われるが、それでも、何もないよりマシだった。
まるで、刺さった棘を、痛いと分かっていても触らずにはいられないように。
彼は、時折、『それ』のことを思い返す。
そうして、じくじくと疼く胸に、自分にも感情があることに安堵するのだった。
マンガとの落差は、とりあえず笑うところだ。