雪の降る街




 さやさやさやさや。

 周囲に音が満ちている。

 さやさやさやさや。

 風の、音。

 優しい、風の、音。

 彼は、ふわりと身を起こした。
 どこにも、床も壁もない。だから、『身を起こした』のかどうかははっきりしなかったが、ともかく、彼は宙に漂っていた意識を自分の体に収束させた。

 さやさやさやさや。

 春の風が、若葉を揺らす音。

 綺麗な世界だった。

 柔らかな日差しの中で、笑い合っている人たち。

 さやさやさやさや。

 綺麗な世界。綺麗な人。綺麗な音。

 大好きだった。

 守りたかった。

 彼が見つめる中、中心に座る優美な女性がこちらに気づいて、微笑んだ。
 そうして、周囲の3人も彼を見る。
 誰何する鋭い目が、彼を認めて和らぐ。
 無言で、来い、と顎をしゃくる。
 そうして、彼女は、「いらっしゃい」と手を伸ばした。

 彼も手を伸ばした。
 そうして、透明な壁に掌を付ける。
  
 俺は、そこへは、行けません。

  なぜならば。

    なぜならば。

      なぜならば。

 彼は、立ち上がった。
 同時に、目の前の綺麗な世界が消え失せる。
 
 かさかさかさかさ。

 音がする。

 乾いた、風の、音。

 彼の周囲を、古びた紙が埋め尽くす。

 かさかさかさかさ。

 轟、と音を立てて渦巻く紙が、彼の差し出した手の上に、書物の形となって収まる。

 大好きだった。
 守りたかった。
 笑っていて欲しかった。
 だから、せめて。

 もう一度、微笑んで貰えれば。

 迷宮を、歩む。
 素足の裏は、細かい傷が無数について血が流れていたけれど。冷え切った石の床に、貼り付くようだったけれど。
 虚ろな体を引きずって、彼は歩む。
 
 水晶に、手を伸ばす。
 魔力の塊であるこれを利用すれば。

 材料なら、ある。
 人間一人分の組成の材料。
 魂を器に固定するには、強大なエネルギーが必要なはずだったが、そもそもこの『世界』には力場が形成されていた。結びつけることは、他の場所よりも容易なはず。
 
 『材料』を原子レベルに分解する。
 それに、彼の血液を一滴垂らす。
 血液中の遺伝子によってもたらされる設計図の通りに肉体が形成されるはず。

 彼は、ふと、手を止めた。

 『彼』を造ることに、意味はあるのだろうか。

 醜くて、心まで歪んでしまって、他人を信頼出来なかった『彼』を。
 『彼』を信頼してくれる、ということを信じられなかった、弱い『彼』を。

 彼は、考える。

 ともすれば、拡散してしまいそうな意識を必死で繋ぎ止めて、彼は考える。

 もっと、人を信じられるような。
 もっと、誰からも愛されるような。

 もう、誰にも、捨てられないような。

 どうせなら、綺麗な器が良い。
 誰からも愛される、綺麗な器が良い。

 綺麗……ソフィアや、クルガンのような。

 そうして、出来上がった器に、彼は満足した。

 綺麗なものが、好きだった。

 春の日差し。
   流れる水面の煌めき。
     伸びていく若葉。
 白磁のティーカップ。
   華やかなレース編みのテーブルクロス。
     昼下がりの鐘の音。
 陛下。ソフィア。クルガン。長。
   陽気な傭兵たち。
     静かな忍者兵たち。
       城内の様々な人たち。
 
 笑っていて欲しかったんです。
    守りたかったんです。

 神様、だから。

   せめて、ただ、もう一度だけ。





 何の前触れもなく、彼は目を開いた。
 天井の模様。揺れる窓の音。シーツの冷たい感触。
 ここは、冒険者の宿。

 彼は立ち上がって、窓に近寄った。
 室内の暖炉の火に照らされて、窓はまるで鏡のように彼を写す。

 雪のように白い肌。小さな顔を縁取る、落ち着いた色合いの濡れたような髪。
 細いおとがいに、薄紅色の小さな唇。そして、真横にのびた、長い耳。
 エルフ特有の華奢な顔立ちは、確かに『綺麗』だった。
 武人には見えない優美な痩身は、綺麗な世界に存在しても違和感はないだろう。
 『彼』が望んだように。
 ふん、と彼は鼻を鳴らした。
 無機質な水色の瞳を見つめ返して、誰にともなく言う。
 「中身が伴ってなきゃ、何の意味も無いだろう」
 ベッドに戻って、横のイスに畳まれていた上着に手を通す。
 屈んでブーツを履きながら、ふと、言葉をこぼす。
 「綺麗な人に、笑っていて、欲しかった」
 ようやく、自分の焦燥感の意味を知り、彼は苦く笑った。
 「迷惑な話だ」
 けれど、同時に知っている。
 『彼』が望んだことを達成しない限り、いつまでもこの胸の炎はじりじりと身を焦がしていくのだ。
 居ても立ってもいられない、泣き出したくなるような不快な感覚に苛まれる。
 ベッドに腰掛けて、天井を見上げた。
 「…何故、自分でやらなかったんだ?…ダークマター・オリジナル」
 呟きに答える者は、誰もいない。
 そして、多分、答えもまた、己の身のうちに。
 
 「笑っていて、欲しかった」
 けれど、女王陛下は『神』に囚われ。ソフィアもまた。
 長は、もう2度と笑わないだろう。陛下を取り戻すまで。そして、陛下を神から取り戻す、とは、陛下の魂を天へと返す、という意味だ。ならば、長が笑うことはない。もう、決して、2度と。
 残っているのは。
 彼は、うんざりと溜息を吐いた。
 「あれを、笑わせろ、と」
 見る度に、胸がじくじくするあの男を、笑わせろ、と。
 何故、その不快な感覚が襲うかは、水晶を見ることで理解した。
 彼は髪を掻きむしり、呟いた。
 「そんなに謝りたいなら、自分で謝れ、オリジナル。俺は、あいつに何も負い目は無い。…俺は、謝らないぞ、絶対に」
 だとすれば。
 オリジナルに謝らせようとするならば。

 彼は、掛け声と共にベッドから立ち上がった。
 そうして、部屋の扉に手をかける。
 「謝らない。謝らないったら、謝らない」
 呪文のように呟いてみる。
 言霊のように縛り付ける『彼』の意志を思えば、さっさと謝ってしまえば楽になるのだろうが、そんな逃げ方はしたくなかった。
 何より。
 謝る、とは、『彼』と己が同一人物であると認めるということ。
 冗談じゃない、と彼は思う。
 あんなに感情豊かで皆に愛されていた、そして世界を愛していた人間と同じであるはずがない。
 何故って、彼には。
 彼には、何の感情も無いのだから。
 世界なんて、愛せない。
 人間なんて、愛せない。
 大事なはずの仲間でさえ、愛することが出来ないのだから。
 ふん、と鼻を鳴らして、彼は部屋を出ていった。


 階段を降りていくと、すぐにグレッグが立ち上がって寄ってきた。他のメンバーも顔を向けて彼を見つめる。
 探るような視線に、彼は少し微笑んで見せた。
 「平気」
 「…だと、良いけどね」
 ルイの手招きに従って腰を下ろすと、サラがカウンターからお茶を持って来た。
 「やあねえ段々人が少なくなっちゃってすっかりお茶もセルフサービスだわまああるだけマシなんだけど」
 「何か食うか?適当に見繕って来れば、パンとスープくらいならあるぜ?」
 リカルドも半分立ち上がって目をキッチンに向ける。
 そこにいたはずのコックはいない。その意味に薄々気づいていながら、彼らはそれには触れなかった。
 彼は首を傾げた。
 丸一日以上、腹には何も入っていないはずだったが、まるで空腹を感じない。それでも、何か食べておくべきだろう、という判断の元、小さく頷く。
 リカルドが身軽くカウンターを乗り越え、厨房に消えた。
 その時。
 ばたん、と宿の戸が大きく開いた。
 雪混じりの風と共に入ってきた男を目にして、彼の唇が不機嫌そうに歪んだ。
 「…やれやれ、ここか。酒場の方かと思ったぞ」
 同じく不機嫌そうにエルフは言って、ずかずかと彼らのテーブルに向かってきた。
 外套を脱いで背後のイスに放り投げる。
 手にした包みを彼の前に置いて、クルガンは、どっかりとイスに腰掛けた。
 彼らのテーブルとは別の、だが隣のテーブルの一番彼らに近いイス。
 未だ『仲間』ではないが、赤の他人でもない。その間柄を示しているようで興味深い位置だった。
 彼は唇を歪めたまま紙の包みを剥がしていく。そして、予想通り表れたものに俯いた。
 くつくつと喉を鳴らして、彼は声を上げた。
 「リカルド、パンはいらない」
 「あん?スープだけじゃ腹減る……って、来てたのか、あんた」
 厨房から顔を覗かせたリカルドが、クルガンを認めて途端声を低くした。
 敵意を発散するリカルドとグレッグとは対照的にサラとルイは興味深そうに表れた物を見つめた。
 「ふぅん、これが、あの」
 「ダークマター御用達のスコーンなのね美味しそうだわねぇ一個貰っちゃ駄目?」
 言いつつすでに延びている手から、咄嗟に抱え込むように紙包みを引き寄せた彼は、鼻に皺を寄せて考えてから、しぶしぶと1個サラに差し出した。
 「1個だけだよ。後は、全部、俺のだからね」
 「…相変わらず意地汚い奴だな、お前は…」
 呆れたような物言いだったが、どこか嬉しさが滲んでいるのに気づいて、グレッグが歯軋りをした。
 「餌付けとは、卑怯なり〜」
 クルガンは、聞こえないふりをすることに決め込んだようだ。そちらを見もせずに、悠然と天井を見上げている。
 スコーンにかぶりつき、手に垂れるクリームを舐め取ったダークマターが、ぼそりと呟いた。
 「聞いても良い?」
 「…聞くな」
 「今、このドゥーハンでこれだけの材料が揃ってるって言ったら、城の厨房しか思いつかないんだけど」
 「聞くな、と言ったぞ」
 「城の様子はどうだった?あんたは反逆者扱い?それとも、まだそこまで行ってない?」
 ようやく、クルガンは天井から視線を戻した。
 自分で尋ねておいて、答えには興味がなさそうにひたすらスコーンを貪り食っているダークマターをじろりと見てから、クルガンは溜息混じりに答えた。
 「一言で言えば…最悪だ」
 ちろり、と水色の目が上げられる。
 ルイやグレッグの体にも緊張が走る。
 「まるで、何事も無かったかのようだ。…長は不在、陛下も不在。命令系統は滅茶苦茶。反逆者のユージンは未だ捕らえられず、魔物は変わらず迷宮にいる。…それなのに、まるで『何もなかったかのように』淡々と彷徨いてる奴らを見るのは…正直、あまりいい気分では無かったな」
 彼らも、その光景を思い浮かべてみた。
 混乱して然るべき時に、『何事もなかったかのように』静かに生活を続けている人々。
 まるで…そう、彼らの方が異端者であるかのような錯覚さえ引き起こすほど。
 「…あんたの部下は?」
 「聞くな」
 簡潔な答えに、彼もまた「そう」とだけ返した。
 「お前の部下は、端っから壊滅状態だ。もともと傭兵は攻撃力は高いが防御は薄い。お前が指揮していたからあれだけの生還率を誇ったが、単体で迷宮に送り込まれては…」
 「どうせ、露払い的に、放り込まれたんだろ」
 問いかけと言うよりは低く怨ずるような声に、クルガンは僅かに目を逸らせて呟いた。
 「すまん」
 「…あんたに謝られることじゃないけど」
 ようやく食べ終えてぺろりと唇を舐めた顔に、ごく自然な動作でクルガンの手が伸びて口の脇の食べかすを拭い取った。
 何となく凍り付いた空気を気にも留めず、ダークマターはイスの背に腕を乗せて、クルガンの方を向いた。
 「で?あんたはどうすんの?」
 「どうする、とは?」
 「一人で突っ込むよりは、俺と一緒の方が任務達成率は高いと思うけど」
 いきなり核心を突いた問いの割には、どうでもよさそうな口調だ。
 ふん、と偉そうな態度で腕を組み、クルガンが問いで返す。
 「俺に選択権があるのか?」
 「あるよ。あんたのお好きなように」
 じろり、と量るようにクルガンは彼を見た。しかし、本気で目には熱意が無い。謝らせよう、とか、仲間にしたい、とかの希望が全くなく、本当に「どうでもよい」らしい、と気づいて、クルガンは肩をすくめた。
 「では、お前と行くことにしよう」
 「あっそ。じゃ、前回同様、俺の隣でいいね」
 たった二人残ったクイーンガードだ、とか。
 勘違いの挙げ句に、殺されかけた相手だとか。
 見ているとイライラするから殺してやると言った相手だとか。
 それなりに含むところがありそうなものなのに、随分とあっさり了承するものだ。
 しかし、そこを問いつめたところで無駄になることは簡単に予想できたので、クルガンもまた淡々と答えた。
 「まあな。お前となら、アレイドも出しやすい」
 「ま、問題は、そこなんだけど」
 そこで初めてダークマターは周囲を見た。
 そりゃもう嫌そうな顔をしたリカルドとグレッグ。それにその二人をどうしようかと困った顔で見ているサラとルイ。
 4人に、感情のない声で言い放つ。
 「そういうことだから。何とか、これと合わせて」
 「これ、か!」
 とりあえず突っ込んでおいてから、クルガンも4人を見回した。
 「よろしく頼む」
 クルガンとしては最大限に愛想が良かったのだが、そんなことは彼らは知らなかったし、どうでも良かった。
 「…リーダーが決めたことには従う。そりゃいいんだけどよ。…もう少し腰が低くならんもんかね」
 「我が主君の命とあらば従うが。…後輩としての遠慮というものが、全く無いな」
 まあ、あの疾風のクルガンに、遠慮がましく「すみませんがお世話になります」などと頭を下げられても、対処に困るだろうが、堂々とリーダーの隣に立つのが当然、と言った顔をされるのも腹が立つ。
 がうがうと唸りそうな目でクルガンを睨むリカルドに、ダークマターの気のない声がかかった。
 「何、そんなにクルガン嫌い?これでも戦闘能力はドゥーハン屈指なんだけど。回避も高いから囮にも最適だし」
 だから「これでも」って何だ、とか、囮目的か!とかのツッコミは、とりあえず頭の中だけに留めておいた。
 「い、いや、嫌い…ってんじゃなくて、なぁ…」
 「俺とクルガンはタイミング合うから、あとはリカルドが大事なんだけど」
 「あぁ…、当然の如くに『自分とクルガンは合う』と言わないでくれ…」
 しくしくと泣きながらグレッグは呟いた後、微笑を張り付かせた顔を上げた。
 「私は、構わない。我が主君の命とあらば、誰とでも合わせて見せよう」
 「あ、ずりぃぞ、グレッグ!」
 怒鳴ってから、あーうーと口を開きかけたり頭を抱えたりするリカルドを、ぼんやりと見つめつつ、ダークマターはカップのスープを啜った。
 同じく「自分には関係ありません」みたいな顔をしているクルガンをちらりと見る。
 「あんたの方で合わす気、ある?」
 「無い」
 「…潔い返事ですね…」
 あぁあ、と溜息吐いて、スープを飲み干した。
 「リカルド、グレッグ、ついでにクルガン。リーダー命令。今日一日で、仲良くなること」
 「あら、じゃあ今日は迷宮に行かないのね?」
 「そ。今日はお休み。明日の朝から、また潜るよー」
 のんびりとしていられない事態だと言うことは、彼らも重々承知していた。
 しかし、同時に、疲れた体(と心)で迷宮に挑むのは自殺行為だということも知っていた。
 「いいわねたまにはそういうのも私たち出会ってからずっと毎日迷宮と街を行ったり来たりしてるものね」
 「とは言ってもねぇ…娯楽施設が開いてるとも思えないのよねぇ…」
 ルイは頭の中で、閃光前に遊んでいた店をピックアップした。ここは潰れた、ここはあれから行ってない、ここは……。
 考えているうちに、ひどく記憶が曖昧な場所があることに気づく。
 そこは、確か。
 閃光があった頃、気に入っていてほとんど入り浸っていたのに、それから全く行ってない。
 まるで、その存在を忘れてしまっていたかのように。
 何故ならば。
 ルイは頭を振った。これ以上考えるな、と何かが警告している。
 答えは薄々知っていたけれど、警告に素直に従うことにした。
 両腕を組んで、うんうん唸っていたリカルドが、ぽつりと呟いた。
 「…俺さぁ、やってみてぇことがあったんだよなぁ」
 全員の視線を受けて、決まり悪そうに咳払いをして、それでも意を決したように言い切った。
 「ナンパ」
 数秒の沈黙があった。
 「…はぁ?」
 「いや、なんつーかよ。イナカじゃ憧れだったんだよなー。ドゥーハンという都会で綺麗な姉ちゃんをナンパ!俺が来たときには、すでに雪に埋もれてて………あれ?…いや、待てよ、そうじゃなくて……」
 自分で言っておいて、ふと首を傾げるリカルドに、自分と同じような思考を見つけて、ルイは声をかけた。
 「ま、どうでもいいじゃない、その辺の詳しいことは。とにかく、ナンパしたいのね?」
 虚ろに自分の手を見ていたリカルドが、その言葉に、いきなり叩き起こされたような顔になってきょろきょろと周囲を見回した。
 「お、おう。そうなんだよな。一度で良いからナンパしてみたい!これは、男のロマンだ!」
 握り拳を天井に突き上げるリカルドを無感動な目で見つめて、ダークマターは素っ気なく言った。
 「ま、好きにすれば?女性が外を彷徨いてるかどうかは保証しないけど」
 「ふん、くだらん」
 同じく興味なさそうに呟くクルガンを睨んで、リカルドはびしっと指を突きつけた。
 「協力しろ!」
 「…はぁ?」
 「はっきり言って、俺一人でナンパが成功するなんざ思っちゃいねぇよ!だがしかぁし!撒き餌がいる今ならば!」
 びしっと突きつけられた指は、クルガンとダークマターの顔を交互に差していた。
 「…撒き餌…って、何」
 「こいつは撒き餌にはならんだろう。どう見ても、せいぜい友釣りだ」
 「…認めたくはないが、うまいな。座布団一枚だ」
 忍者二人の視線に怪訝そうな顔を返したが、それ以上説明を求めることなくダークマターは黙って座っていた。
 「え〜?しかし、ダークマターはモテモテだったじゃねぇか」
 「そりゃ、外見と一見と中身のギャップに惹かれる女が多かったというだけだ。初見での速攻近接戦なら、俺の方が勝率は高い」
 ふん、と偉そうに胸を張る元同僚を気のない視線で振り返って、ダークマターは顎に手を突いた。
 「んじゃ、行って来たら?リカルドとグレッグとクルガンで」
 「私は興味無いのだが?」
 「二人が空振る様子をレポートしてきて」
 「それならば」
 「「空振りと決めつけるな!」」
 いきなりタイミングの合っている二人であった。


 「男って、つくづくアホね〜」
 3人が出ていった後の宿屋で、ルイがもう何度になるか分からない感想を漏らした。
 「俺も男なんだけどね」
 どうでもよさそうに返して、ダークマターはのびをした。
 「俺、もう一回寝るけど」
 「あら私はどうしようかしら酒場の方に移る?ルイ姉さん」
 「そうねぇ…」
 ルイは指を顎に当てて少し考えて、それから金色の目を光らせた。
 「どうせ無駄足踏んで帰ってくるだろうけど、なーんか悔しいわよねぇ。こんなにいい女が二人もいるのに、ナンパに出かけるなんて…ねぇ」
 「そうよねそうよね何よあいつそんなに綺麗な姉ちゃんに声かけたいなら勝手にしなさいよって感じよまったく」
 「…私はちょっと出てくるわ。道具と服を揃えてきて…目一杯お洒落にして出迎えてやろうじゃないの」
 「それいい!それいいわルイ姉さん!目に物見せてやりたいわ!」
 きゃっきゃっと手を鳴らしている女性二人を置いて、ダークマターは気怠げに階段を上り始めた。
 その背中にルイが声をかける。
 「後で、起こすわよ!」
 「…はい」
 男連中が帰ってきたら起こされるのだろう、と判断して、ダークマターは素直に頷いた。


 幸い、今日は比較的風が穏やかだ。
 静かにしんしんと降ってくる雪の中、ざっくざっくと踏みしめる音だけが響く。
 「…おい。一体、どこに行くつもりだ」
 「とりあえずは酒場かなー。歌姫の来る酒場があるんだ」
 「…いれば、いいがな」
 しばらく、また沈黙だけが続いた。
 そのうち、リカルドがぼそりと呟いた。
 「別にな、あんたが気に入らないってんじゃねぇんだけどよ」
 「あぁ」
 「ダークマターは、ただの冒険初心者だと思ってたからなー。一緒に成長して、笑ったり怒ったり…感情が出せるようになるのも見てきて……それが、だ!」
 ぐるりと振り向いて、後ろ向きで歩きながら、リカルドはクルガンの鼻先に指を突きつけた。
 「いきなり出てきやがって、いきなり隣を占めやがる!しかも、ダークマターの方も、あっさり信頼してやがる!俺たちが少しずつ築いてきたってぇのに!」
「…まあ、俺の方も、少しずつあいつと信頼を築いてきたからな。2年がかりの信頼だ。お前たちとは時間が違う」
 そこまで言って、クルガンは天を見上げた。
 灰色の空から、白い欠片が次々と降り注ぐ。
 「…本当に、信頼出来ていたか、というと、それが問題だったのだが」
 信頼していた。
 背中を預けられる実力の持ち主として。
 だが、陛下の御ためになるか、といった点で、信頼しきれなかった。
 あちらも同様。
 クルガンを「戦友」として信頼はしていただろう。
 だが、無条件に信用してくる『友』とは思えなかったのだろう。
 そして、その二人の疑いが。
 深い悔恨と罪悪感に、クルガンは胸を押さえた。

 だから、せめて。

 今そこにいるあいつを、信頼せねば。

 「念のため、確認しておきたいのだが」
 クルガンの様子は見ていても気づかないふりで、グレッグは陰鬱に言った。
 「我が主君を、恋愛感情で見ていたりはしないのだな?」
 ずるり。
 一瞬体勢を崩して、クルガンは無言でグレッグを振り返った。
 「…男同士で、気色の悪いことを言うな!」
 「気色悪い?ふん、忍者兵頭領がずいぶんと頭の固いことだ。…戦場では、よくあることではないか」
 「お前も水晶を見たなら分かるだろうが!俺はこれっぽっちも男には興味が無い!」
 「男全般には無くても、ダークマターは別だ、とか言いそうでな」
 「言うか!」
 怒鳴ってから、クルガンは顔色を少し青ざめさせた。一歩ずりっと下がる。
 「まさか…貴様こそ、あれに恋愛感情を持っているのではあるまいな!?」
 「ふん、私のは、あくまで主君に対する忠誠に基づく愛情だ。そこら辺のくだらん恋愛感情と一緒にして貰っては困る」
 「…おまえさんの『主君に対する忠誠』ってのは、どっか歪んでるけどなー」
 とりあえず茶々を入れてから、リカルドは止めていた足を動かすのを再開した。
 「あ〜あ、ホントに人っ子一人歩いちゃいねぇな〜」
 「誰も好きこのんで、雪の中をうろつかんだろう」
 「それはそれとしてよー。花街って、どんなんだったんだ?」
 「ん?…花街は…花街だが」
 クルガンはがりがりと頭を掻いた。
 微妙に思い出したくないそれの記憶を探って、当たり障りの無い言葉を探す。
 「つまり…昔は、金さえ出せば、額に応じて後腐れ無く出来たんだがな。最低ランクだとその辺の草むら。最高…とは言わんが、高レベルだと超高級宿屋で色々サービス付き」
 「俺は、エルフってのは、もっとこう…性欲がねぇのかと思ってたぜ」
 「エルフと言っても、男は男だからな。抜くもんは抜かんと、調子が悪い」
 言って、首をすくめて周囲を見回す。
 過去の記憶からして、そういうことを言うと、どこからともなく拳が降ってきたらしい。
 だが、誰も突っ込む者はいない。
 それはそれで寂しいことだ、と思いながら、クルガンは続けた。
 「誰だって、右手よりは女の方が良いだろうが」
 「そりゃそうだ。おぉっ!いきなり親近感が湧いてきたぜ!」
 喜んで良いのやら悪いのやら。
 何とも言えない気分になりながらも、こんなフツーの男同士の話は部下ともしたことがないし、まあ、それなりに楽しいものだな、とちょっと気分を良くする。
 言うまでもなく、ダークマターとそんな話は出来なかったし。
 あいつはもう、性欲なんてもんをどこかに置き忘れてきたのか、全く話は通じないわ、女性擁護に回るわ…。
 「…そういえば、便利な奴だったな、ダークマターは」
 しみじみと過去のダークマターを思い出して、ふと呟いたクルガンの目の前で、リカルドが派手にすっ転んだ。
 「何をやって…」
 手を貸そうとしたクルガンの背後で、ざわりと殺気が立ち上った。
 「ふ…ふふ…頸動脈が良いか、それとも心の臓を一突きが良いか…ちなみにどちらもオプションで<ぴー>は切り取ってやろう…」
 目の据わったグレッグが苦無を手に呟いている。
 咄嗟に自分も短刀を構えながら、クルガンは困惑した。
 何故いきなり敵対行動に出られるのか。
 それまでの会話をリピート。
 えー、ダークマターは便利。
 更に巻き戻し。
 右手よりは女がいい。
 ……………。
 「ちょっと待て。お前ら、気色の悪い勘違いしているのではあるまいなっ!」
 「話の流れだと、ダークマターが便利ってのはそう言うことだろうが!」
 「ふ…ふふ…せめて苦しまないように殺ってやろう…なに、後のことは私が引き受けよう…」
 ふふふふ…と迫るグレッグの顔に思い切り蹴りを入れながら、クルガンは絶叫した。
 「だから!気色の悪い想像をするな!」
 顔にべったりと跡を付けられたグレッグを助け起こしながら、リカルドも叫び返した。
 「なら、どういう意味だってんだ!」
 「つまり!あいつの治癒魔法が便利だった、と!」
 しばしの沈黙の後、立ち上がったリカルドとグレッグが、「あ?」と間抜けな声を出した。
 そっぽを向きつつ、クルガンが苦く言う。
 「つまり、だ。花街に行くと、たまーにお釣りを貰って来ることがあったんだが」
 この場合の『お釣り』とは、金銭の話ではない。
 「かつては、背に腹は代えられないんでソフィアに癒して貰ってたんだが、あいつに頼むと、もれなく説教及び拳が付いてきたからな。かといって他の連中に頼んで噂になるのも嫌だったしな」
 「…で?」
 「ダークマターだと、『任務で接触した相手からうつされた』とでも言えば『大丈夫か?気を付けて』という労いの言葉付きで、さくっと治してくれるし、それ以上詮索しないし噂にもならんし、で、実に便利だったな〜と」
 リカルドとグレッグは顔を見合わせた。
 「…クイーンガードでも、病気を貰ったりするのか…」
 「そりゃ、単に確率の問題だからな。鍛えてどうこうなるもんでなし」
 「余計な種を蒔いたりはせぬのだろうか…」
 「そんなヘマはせん。…多分」
 「…あんたってさー」
 リカルドが溜息を吐いて、まじまじとクルガンを見つめた。
 「割と、フツーの男だよなー」
 このドゥーハンでたった4人しかいなかったクイーンガードに向かって言うには、実に不敬な言葉であったが、その声の響きは、感動と好感が滲み出ていた。
 ふん、とクルガンは鼻を鳴らした。
 「そりゃそうだ。クイーンガードと言っても、メシも食えば、寝もする。怪我もすれば病気にもなる。…ちょっと戦闘能力が他の奴より高いってだけで、俺たちは極々一般人だ」
 「そうかー、そうだよなー…ま、ちっと夢が壊れたけどよ」
 「そりゃ、悪かったな」
 元々気の良い男であるリカルドは、あっさりとクルガンに対する偏見を修正した。完全に捨てきった訳ではないが。なんと言っても、ダークマターの信頼を横からかっさらったのには違いなかったし。
 そしてグレッグは。
 「認めない…認めないぞ…我が主君は『特別な』御方なのだ…」
 ぶつぶつと呟いていたが、リカルドとクルガンは聞こえないことにした。


 
 ただ雪の中を彷徨いただけで帰っていった彼らは、宿に一歩入って、言葉を失った。
 1階のロビーには、3つの人影があった。
 とりあえず、一番早く動けるようになったクルガンが、絞り出すように呻いた。
 「何を…やっとるんだ…」
 自分に言われたと判断したのだろう、水色の瞳がちらりと動いた。
 「何って…女装」
 「いや、それは、見て分かるが」
 俺が聞きたいのは『何故』か、ということだが、とクルガンは頭を押さえた。
 そのまま、手近なイスにがっくりと座り込む。
 リカルドが悲鳴を上げた。
 「え…ま、まさか、ダークマター…なのか!?」
 「見て、分からんのか…」
 元々中性的な顔立ちには白粉がはたかれ、頬紅が乗せられている。そして唇はくっきり深紅に彩られ、目元にはうっすらアイシャドウ。
 金髪は手の込んだ形に結い上げられ、大きなリボンが飾られている。
 薄い胸や喉仏を隠すようなふんわりした衣装に包まれた姿は、どこから見ても少女であった。
 「ふっ、どう!?この完璧な疑似餌具合は!」
 勝ち誇ったようにルイがダークマターの手を取って、ぐるりと一回転させる。それにつれて、淡いピンク色のリボンがふわりと舞った。
 「…撒き餌でも友釣りでも疑似餌でもいいんだけどね…」
 どうでもよさそうに呟いて、ダークマターはなすがままに突っ立っていた。
 ルイもいつもの服装ではない。まるで貴族の娘のように、レースがたっぷりと使われたドレスに身を包んでいる。
 袖口の豪華なレースを弄りながら、ほぉっと溜息を吐いた。
 「実は、私も夢だったのよねー。こういうお嬢様なドレス着てみるのって。今じゃ、全然性格に合わないからって、諦めてたのよ」
 首やら額やら耳やらにはごてごてと宝石が飾られている。どこから手に入れたのかは、誰も突っ込まなかった。
 「ダークマターもすっごい似合うわよねー。私の見立てに間違いなし!」
 まあ、よくよく並べて見てみれば、さすがに肩のあたりの線や骨張った手のあたりなんかが女性とは異なっていたが。
 宿に入って初めて、グレッグが動いた。
 ふらりとダークマターの前まで来て、淑女にするように恭しく手を取った。
 「結婚して下さい」
 「出来ません」
 「それは、残念」
 両者至極真面目な声でやりとりしたが、即座にセリフが出てきているあたり、冗談なのだろう。
 ……多分。
 グレッグはダークマターを検分するようにぱたぱたと叩いた。
 「いやー、実に私好みだ、もったいない。薄い胸と尻といい、細い腰といい」
 「…エルフなら、たいてい細いけどね」
 グレッグの目が、ちらりとクルガンを向いた。
 無言でもう一度ダークマターに戻して、吐きそうな顔をしてみせる。
 「えーと、一部の変わり者を除いて」
 「誰が変わり者か!」
 「他のエルフが詩でも読んでるときに、筋肉鍛えてた誰かさん」
 ぐっと言葉に詰まった誰かさんから目を離して、ダークマターは気のない声で言った。
 「で、グレッグ。いつまで胸を触ってんのさ」
 「いやー、このパットは邪魔だな、と」
 「パット入ってないと、胸のところが余るから仕方ないじゃないか」
 「惜しいな、せっかく薄い胸なのに」
 残念そうに手を離したグレッグの目は本気だった。
 乳房に乳腺組織と脂肪が付いているのが女性の特長だろうに、わざわざそれが少ないものを好むというのはよく分からないな、とダークマターは思った。
 思っただけで、口には出さなかったが。
 「うふふ〜ルイ姉さんに借りたのよどう?この服」
 「うっわー……すげぇな、そりゃ……」
 サラはサラで、リカルド相手に鬱憤を晴らしていた。
 サラが着ているのは、いわゆるボディコン。
 ダークマターとは逆に、女性の部分を強調したドレスである。
 「こういうのを一度着てみたいと思ってたのよー敬虔な僧侶としては駄目っぽいから諦めてたんだけど何て言うかこう大人の女性って感じでしょ私だってもう一人前の女性なんだしね」
 「い、いやもう、十分、一人前だと、思いまふ…」
 ちょっと鼻を押さえながらリカルドが答えた。
 少女から女性への過渡期特有のややふっくらした肉付きが、特に寄せられた胸とぎりぎりまで見せた太股のラインで強調されている。
 「やぁんリカルド鼻血!?私も男性の色情を誘うだけの魅力が育ったのね!」
 きゃははは、と甲高く笑う様子は、微妙に子供らしくて服装とは食い違っていたが。
 「…色情って…お前ねー…」
 おっとっと、と上を向いたリカルドを満足そうに見て、サラは胸を張った。
 「どう!?外にナンパになんか行かなくてもすぐ側にいい女がいるのが分かった!?」
 なるほど、それでいきなり仮装なんてもんをしてるのか、とクルガンは納得した。『お洒落』ではなく『仮装』なところが実に失礼である。
 「いくらいい女でも男性ではな…」
 グレッグは本気で呟いているようだったが、誰も相手にしなかった。
 「いやー、結局ナンパも失敗したんだけどなー。誰もいないんでナンパのしようも無かったって言うか!」
 あっはっは、と大声で笑うリカルドには、女心が全く伝わっていなかった。
 ルイはこっそりと溜息を吐いて、サラの肩を叩いた。
 「ま、頑張りなさいね。これのどこがいいのか分からないけど」
 「そそそそんなんじゃないわよルイ姉さん!」
 赤い顔できゃあきゃあ言うサラをちらりと見て、ダークマターが淡い水色の瞳をリカルドに向けた。
 「誰も、いなかった?」
 くっきりハート型の唇が動くのを何とも言えない顔つきで見ていたリカルドが、はっ、としたように慌てて頷いた。
 「道には誰もいねぇ。大通りでも。で、いつもとは違う酒場に行ったんだけどよー。歌姫の姉ちゃんは、いなくなった男を待ち続けるってな歌を歌い続けるばっかでこっちを見ようともしねーし」
 「女が全くいない、というと語弊があるがな。『生きた女』はどこにもいなかった、と言うべきか」
 あっさりと言い切ったクルガンに、ダークマターは怒ったような目を向けた。
 ぴたり、と皆の口が閉じられる。
 リカルドがぎこちない笑みを浮かべた。
 「やっぱ、あんたもそう思ったか」
 とてもとても静かな街。
 周りの出来事を、全く気にしていないような人々。
 それは、まるで。
 「生きてるって言うのは」
 ダークマターが、尖った声で肩を揺すった。
 「自分の意志で動けるっていうこと。なら、俺たちは生きている。それでいいじゃんか」
 「ま、そうだな」
 やはりあっさりとクルガンは頷いた。自分が死んでいるかも、なんて考えたこともないのだろう男は強い。
 「あ〜、そうだよな。俺たちは、自分の意志で動いてて、それでこれからクソ忌々しい司教の野郎をぶっ飛ばして、それから糞ったれな神様とやらを殴りに行くんだよな。それで、いっか」
 切り替えの早いリカルドも、さっさと嫌な考えに蓋をした。
 「我が主君の命のままに」
 深く一礼するグレッグは、実は何も考えてないのかもしれない。
 「そうよねそうよね私たちは造り上げられた嘘の神様を倒して女王様の魂を助けるのよね」
 うんうん、とサラも頷いた。彼女の場合、『誰かのため』と考えると俄然やる気が出るのだ。使命を帯びれば、他の悩みなんて吹き飛ぶ、という大変一途な思考が可能だった。
 「まあね、楽しければそれでいいわね」
 刹那主義のルイは、元々将来のことを思い悩むことはない。『今』だけを考えるならば、気のおけない仲間と共に迷宮に挑む、それを楽しむ余裕があった。
 ダークマターは、各人の顔を確認するように見回して、頷いた。
 「OK。じゃ、明日には9階に潜るから。でもって、とりあえずは…」
 「腹ごしらえ!」
 叫んだリカルドに苦笑して、自分のドレスの裾を摘み上げた。
 「これ脱ぐまで待ってくれる?」
 「そのくらいは待ってるって」
 「あら、そのまま行けばいいのに」
 「歩きにくいよ、雪の上は」
 「…そういう問題か?」
 酒場に向かうため、いつもの服装に着替えよう、と宿屋に残っていた3人は2階の部屋に戻った。
 残った男3人は、手持ち無沙汰にぼんやりとイスに座っていたが、その中でクルガンが気配薄く席を立った。
 じろり、とグレッグの目が動いたが、それを振り返りもせず足音もなく2階へ上がっていく。
 「…止めないのか?珍しい」
 「我が主君の着替えを覗こうとでも言うなら止めるがな」
 なんだかんだ難癖付けても、本当に恋愛感情の欠片もないのは承知している。
 それでも行くというなら、それなりの理由があるのだろう、とグレッグは不本意ながら邪魔はしないことにした。

 おざなりなノックと同時に、クルガンはダークマターの部屋に入った。
 ドレスを半分脱いだ状態で、振り向きもせずにダークマターはつけつけと言った。
 「何。俺の裸でも見る気あるわけ?」
 コンマ数秒の沈黙の後、クルガンは静かに言った。
 「無理に笑うな」
 一瞬、ダークマターは動きを止めた。だが、黙々とドレスを脱ぎ落とす。慣れた動作で鎧をつけていき、いつもの姿になったところで、ようやくクルガンを振り向いた。
 「そんなに、ばれるほど変だった?」
 ちょっと困ったように眉を上げて、クルガンは懐から出したハンカチを放り投げた。
 「とりあえず先に化粧を落とせ。その格好でその顔だと気持ち悪い」
 「うっわ、失礼なこと言ってるし」
 ぶつぶつ言いながら、顔を拭う。だが、ただごしごしと擦る様子に、溜息を吐いてクルガンは近づいた。
 「貸してみろ。すごいことになってるぞ」
 顔全体に口紅だのアイシャドウだのが広がっているのを、何度もハンカチの部分を変えながら拭ってやる。
 そして、独り言のように呟いた。
 「変…ではないがな。だが…何となく」
 「記憶を取り戻したおかげで、前よりバリエーションが増えたから、シチュエーションに合った表情をうまく使ったつもりだったんだけど」
 「使う、という時点で駄目だろう」
 ぐちゃぐちゃになったハンカチを丸めて放り投げて、クルガンは肩をすくめた。
 「笑いたくないのなら、笑う必要は無いだろう。どうせ笑わなくてもあいつらはお前の仲間であることを止めたりしない」
 それを聞いて、ダークマターの顔に浮かびかけていた苦笑が、それこそ拭い取ったかのように綺麗に消え失せた。
 人形のような全くの無表情に、ガラス玉のような瞳で、クルガンを見つめ返す。
 「笑いたくなければ笑わない、っていうなら、俺はずっと笑えないんだけどね」
 「笑わねばならんのか?」
 「使わなきゃ、表情筋が萎縮するよ」
 冗談のように言って、途端に微笑みを浮かべてみせる。柔らかく、目まで優しい光を湛えたそれは、クルガンに懐かしさを覚えさせたが、同時に全く異なってもいた。
 「お前が言うほど、お前に感情が無いとは思えんのだが?」
 「そりゃ、あんたは特別」
 あっさり言って、ダークマターは表情を消した。自分の頬を引っ張って、笑いの形に顔を動かす。
 「あんたに対する罪悪感に基づくイライラは、最初から俺に強力に刷り込まれてるからね。今の『俺』の心の動きとは全く関係ない」
 だから、クルガンに対して怒ったり悲しんだりするのは当然なのだ、とダークマターは理解している。
 彼にとって、感情とはひどくあやふやなものだ。
 かすかな、本当にかすかな心の動きを、浮かんで消える前に捉えて、記憶と照らし合わせてやっと「これは楽しみなのだ」「これは悲しみなのだ」と理解し、表情と態度、言葉を選択する。
 それは、機械的な作業であって、彼の心を本当に震わせることはない。
 「はい、この話はこれでおしまい。これでも普通の人間のふりして人間関係を円満にしようと俺なりに努力してんだからさ。水差さないでくれる?」
 つけつけと言って、ダークマターは扉に向かって歩き出した。
 その前に、腕がにゅっと伸ばされる。まだ話は終わっていない、と言いたいらしい。
 「何」
 「お前は、普通の人間だろう。それ以外の何だと言うんだ」
 ぶっきらぼうな言葉の裏には、本気で訝しげな様子と、暖かな気遣いが混在していた。
 こいつは、俺を『友』として接することに決めたらしい、とダークマターは目の前のエルフを冷たく睨んだ。
 かつて、『彼』にそうしたように。
 彼は『彼』ではないのに。
 「俺は、ただの劣化コピーだよ。87%しか無い、ね」
 誤解のしようが無いよう、きっぱりと言い切る。
 それでもまだ分かっていないらしく眉を顰める男の紅い目まっすぐ見つめて、叫んだ。
 「だから…あいつを見る目で、俺を見るな!」
 もういない死者を悼む目で。
 彼の中の『彼』を探す目で。
 それでも退けない腕に、がぶりと噛みついてやった。
 クルガンは、怒る代わりに眉を互い違いに上げた。そして、噛みつかれた腕はそのままに、逆の手で彼の頭を撫でた。
 「怯えた野良猫みたいな反応をするな。…それとも、俺が恐いのか?」
 そんなわけは無いだろう、と茶化す男の目に、何かを思い出すような、懐かしむような色があるのを見つけて、ダークマターはますます歯に力を込めた。
 口の中に流れ込んだ血を吐き捨てて、鼻先が触れそうなほど顔を近づける。
 「俺はあいつと違って。……あんたのことが、大っ嫌いだっ!」
 無感動な水色の瞳に、そのときは炎が宿ったことを、彼自身も気づかなかった。
 ぷいっと顔を背けて、扉を荒々しく開け、階下に駆け下りる。
 下からも、叫んだのが聞こえていたのだろう、何事か、と問う目で見られ、彼は声を上げた。
 「何でもない!さっさと酒場に行くよ!」

 残されたクルガンは、肩をすくめて一歩踏みだし、腕に走った僅かな痛みに顔を顰めた。
 くっきり歯形の残った腕からは血が滲んでいる。
 治癒魔法をかけるほどでも無し、舐めておけば治る、と腕を上げかけたところで。
 「…それを舐めれば、間接キッスだということに承知の上での行動かね?」
 陰鬱な声に動きを止めて、小さく「フィール」と呟いた。
 部屋の影に蟠るように立っていたグレッグが、彼の横を通り過ぎようとして、振り返った。
 「何より気にくわないのは。…君が相手だと、感情が出ることだ」
 それきり何も言わずに階段に向かうグレッグの背中に、クルガンは小さく呟いた。
 「…だから、感情が無いってことは無い、と言ってるんだが」
 クルガンにとってみれば、ダークマターは『ダークマター』以外の何者でもなく。
 かつての彼も感情をほとんど見せなかった。それが徐々に蕾がほころぶように柔らかな感情を見せるようになった過程を知っている。
 だから、今のダークマターも、そんなようなものだと思っている。
 なにせ、クルガンにはやたらと突っかかってくるのだ。
 これで『感情が無い』と信じる方がおかしい。
 
 クルガンは、頭を振って、足を踏み出した。
 扉が開く重い音がする。どうやら自分を置いて、彼らは酒場に向かっているらしい。
 苦笑して、手すりを乗り越え一階に降り立つ。
 誰もいない宿屋を出ていき、視界の悪い中でも目立つ紺色のマントと金色の髪を見つめながら、ふと思う。

 信頼出来なかった。
 一度は『信頼できる友』と考えたのに、本当には『信頼』出来ていなかった。
 それゆえに、ああなってしまったのなら。
 姿は異なっていても、今のあいつを信頼しよう。
 かつてのあいつがそうだったように、柔らかく笑うことが出来るよう尽力しよう。
 それが、『彼』に対して出来る、残された唯一の贖罪。

    せめて、ただ、もう一度だけ、微笑みが見られるよう。



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