侵食
彼らは、階段を下りて、６階に一歩踏み込んだ途端、咳き込んだ。
壁や床をカビとも植物ともつかないものが這い、時折、花弁のような部分から細かい胞子を吹き出しているため、視界はうっすらと緑がかるほどだ。
「これは…病気になりそうだな」
普段は首に巻いている布を引き上げて口元を覆いながら、グレッグがうんざりしたように呟いた。
「そんなっけほけほっのんきな感想っけほっ！」
一際甲高い咳込みを続けていたサラが、涙をうっすらと浮かべて折っていた体を伸ばした。
水袋を傾けて布を濡らし、口元に当てて、ルイも溜息を吐き…大きく吐いた息はその分吸い込まねばならないことに気づいて、顔をしかめた。
「これだと、手が一本ふさがるわね。…忍者みたいな格好、したくなかったんだけど」
「仕方ねーよ。背に腹は代えられないってね。…ま、魔物はいちいち笑わないだろ。俺たちが変な格好してても」
あっさりとリカルドはそう決めて、手持ちの布で口元を覆って後ろで縛った。
「うぅイヤだわイヤだわまるで間抜けな強盗犯人になった気分よそれとも屋敷の大掃除に狩り出された使用人ってとこかしら」
同じく布で顔の下半分を隠し、そこまで喋ったサラだったが、息継ぎした途端に咳き込んだ。
「もうイヤよこんなところ何だってのよ目まで痛くなってきたわ鼻は出るし咳は出るし大嫌いよこんなところ！」
咳の合間にでも、そこまで叫べる根性は大したものだ。
一人静かに皆を見守っていたダークマターは、ふと目を左にやった。
「なるほど。咳は魔物にこちらの位置を教えることにもなるということか」
言って、しゃらん、と刀を抜く。
一人巨人に向かう彼に、慌ててルイとサラは目を見交わした。
今までの経験上、あの巨人は物理攻撃に対する防御力が高く、逆に魔法的な攻撃に弱いはずであったから、低位の魔法でも呪文協力なら一撃で…と、いつも通りに火炎の魔法を唱え始めたはずなのに。
「…焼き尽くす…けほけほけほっ！」
一息で唱えられたはずの呪文が、咳込みで中断する。
完全にシンクロしなければ呪文協力は発動しない。
必死で痙攣する喉を押さえ込みながら何とか呪文を完成させようとするが、その間に。
足下のカビの層を巻き上げもせず、ふわりと舞うようにダークマターの体が宙を滑り。
巨人の首から吹き出す血を浴びることなく、何事もなかったかのように彼らの方へと歩いて戻ってきた。
「俺は、代謝を可能な限り落として、呼吸を最低限にすれば、３０分くらいは胞子を吸い込まずにいられるけど」
得意そうでもなく、ただ淡々とそう言って、小さく首を傾げた。
「やっぱり、無理かなぁ？」
純粋に問われているのは分かっているが、自分の修行が足りないと言われているようで、リカルドは目を落としながら首を振って見せた。
「３０分、完全に胞子を吸い込まずにいるのは無理だが、可能な限り静かに呼吸することは出来無くもない」
忍者のグレッグでさえそれが限界だった。ひょっとしたら、彼ら忍者の頂点に立つあのクイーンガードなら…と考えかけて、眉をひそめる。彼の主君に相応しいのが、自分ではなくあの男だ、と僅かでも感じるのは不愉快なことであったから、さっさとその考えを頭から追い出す。
「言っとくけど、私たちには無理だからね？」
まだ咳き込み続けるサラの背をさすりながら、ルイは堂々と主張した。ただの盗賊上がり及び僧侶で、今は司教な女たちに、そんな肉体を完全にコントロールするような術を、期待する方が間違いだと知っているから、何ら悪びれることはない。
「なら、魔法は、しばらく使えないつもりで行こうか」
長船を鞘に収めて、ダークマターは歩き出す。
彼にとっては、『自分は胞子を吸い込まずにいられる』ということと同じ程度に、『彼らはそれが出来ない』ことが自然に感じられたので、特に責めるような感情は浮かんでこない。
ただ、いざというときに魔法が使えないのが不便なのと。
「けほけほけほっもうイヤ〜〜！！」
アラーム代わりの女がいるせいで、いつも以上に魔物が立ち塞がるのが面倒臭いだけであった。
そうして進んでいく６階は、彼らを存外に疲弊させていった。
咳き込むのもある程度を越せば体力を消費するほどに疲れることであったし、それを押さえようとする努力もまた同様。
先頭を進む彼自身は未だ疲れてはいないが、もうそろそろ代謝を普通に戻さなければならない頃合いになっていた。
「どうする？今回は、一端街に帰るか？」
ちらりと振り返りながら問う彼の耳に、何かの音が響いた。
剣戟では無い、ということは人間対人間の争いではない。だが、怒号と何かが倒れるような音、それから……。
風の舞う音。
どんっと音を立てて彼は扉に拳を打ち当てた。
淡い水色の目の奥に、一瞬かぎろいが立ち上り、すぐに沈む。
「ダークマター？」
「まだ、行けるか？」
彼らに問うその言葉は、先ほどの続きではない。帰るか、行くか、では無く、「行けるか」である。
冷ややかな微笑は、彼らに向けられているのではない。水色の瞳は彼らを見てはいるが、その意識は扉の向こうを『見て』いるのだ。
それを少し寂しく思いながらも、彼らは一斉に頷いた。
扉を開くと、意外と音源が近いことが分かった。
霞んだ視界を通して、何かが争っているのが見える。
重い叫びと共に、障気が濃くなった。
「…ポイズンジャイアント」
ダークマターの呟きに、リカルドは、げっと小さく呻いた。
巨人族の中で、最も強く、最も凶悪。その毒は、戦おうとするだけでも身を侵し、毒の息でも吐かれようものなら、レベルの低い者なら一撃であの世行き。
ヴァーゴが連れているのを見たとき、戦わずにいられたのを心から神に感謝したという相手だ。
だが、彼らのリーダーの体からは、珍しく殺気が溢れている。その唇に浮かぶ微笑は、ポイズンジャイアントの毒の方がマシ、というような代物だ。
蠢く影の一部がこちらに向かってきた。
「邪魔だ、冒険者たち！」
誰かの叫びに、ダークマターの微笑がますます深くなる。
「…ざけんなよ…」
初めて聞く乱暴な口調に、ぎょっとして見直すと、ダークマターは表情はそのままに彼らを呼んだ。
「リカルド」
「はいぃ！？」
「グレッグ」
「何かな？我が主君よ」
「…一撃で、殺れ」
しゃり、と長船が鞘走る。
「うー、一撃は辛いよなー」
「努力は、しよう」
両脇に立った彼らは、苦笑し合って、すでに飛び出しているリーダーの後を追った。
言葉通り一撃で敵を葬った彼らが、解毒の魔法を使おうとしていると、緑の霞の中から一人の人影が飛び出してきた。
「ここにいるべきではない、冒険者たち！」
目元だけが見えるというのは共通だが、実は格によって厳密に色分けされている装束は、ドゥーハン正規忍者兵の証だ。
なおも言い募ろうとした彼だが、目の前に立った侍の顔を見て、ぎょっとしたように言葉を止めた。
ゆっくりと、金髪の頭が傾げられる。
「ふぅん…お前たち、『ダークマター』って男を見つけたら、どうしろって言われてんの？」
吊り上がった唇は、微笑んでいるようであったが、何せ目が恐い。凍り付いた湖の瞳が、一片の笑いもなく彼を真っ向から見据えている。
お前たちの敵う相手ではない。
彼らの長の言葉が甦る。
あれは、許せない相手だが…とにかく、俺に知らせろ。自分たちで始末しようとはするな。
「…自分たちが、命じられているのは『ダークマターと名乗る”僧侶”を見つけたら、知らせろ』であります」
彼は、自分が上司に対する正式な礼をしながら答えているのに気づかなかった。
「…僧侶、ね」
金色の睫毛が、何度か瞬く。
「あいつは、俺が転職しようとしてんの、知ってるはずなんだけど」
皮肉に吊り上がった唇が、さらに何か言いかけて、ふと止まった。
視線を追えば、彼らの長と毒の巨人が戦っているところで。
「くそっ！長を呼べ！長の魔力が必要だ！」
彼らの長が巨人に斬りかかると、その紫色の皮膚から障気が溢れ出す。
背後の忍者兵が、数人咳き込み、一人がぐらりと膝を突いた。
「…何、やってんの、あいつ」
これ以上はない、というくらい不機嫌な声が地を這った。
「何やって…って。戦ってんだろ」
リカルドが、肩を竦めながら答えた。どう見ても、返事を求められている様子ではなかったけれど。
「馬っ鹿じゃねーの、あいつ一人なら、さっさと首切れんのに、後ろの奴らでも庇ってんのか？だいたい、傷を負った奴らは反応が鈍くなるってのを忘れてるから、タイミングが合わせられないんだよ、自分は痛みを忘れるからって、すぐ…」
ぶつぶつと呟いて、苛立たしげに壁を叩いた。
「それで、我らが主君は、何をしたいのかな？」
やや笑いを含んだ声で、グレッグが聞いた。
ダークマターは、しばらくそのままの姿勢でいた。
「……イライラする」
そのうち、ぽつりと小さな言葉がこぼれ。
「どーしようもなく！イライラする！」
ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえそうだ。
凍り付いた湖の瞳から、青白い炎が立ち上るようで。
「何を…」
躊躇いがちに声を掛けかけた忍者兵の肩を、ぽんと叩いて、ルイがウィンクした。
「大丈夫よ。私たちのリーダーは、ああ見えて善人だから」
ダークマターが、思い切ったように壁から離れた。
目線は前方に見据えたまま、感情の無い声で命じる。
「…総員、俺が魔法を放った後、即座にこの場を撤退せよ。集合場所は、座標平面４：００（よんふたまる）…」
「…分かんねーって！」
速攻で突っ込んだリカルドを、驚いたような顔で振り返り、２，３度瞬いて、苦笑した。
「あぁ、そうかも。えーと、さっきの広めの通路の端っこあたり」
全員が頷いたのを確認して、もう一度向き直り。
「神よ、我が敵を撃ち抜く力に実体を与え給え」
右手に灯る光。
忍者兵は一瞬身じろいだ。その呪文は僧侶の初歩魔法バレッツと思えたが、それはポイズンジャイアントには大した影響を与えない…ということは、彼らの長に向けられているのではないかと感じたのだ。
だが、不安に見守る中、すぐに手から飛び出すはずの魔法はいつまでも右手の先にわだかまっている。
「…神よ、我がはらからを…ってのはすごく業腹なんで言いたくないけど…とにかく、癒し給え…！」
今度は、左手が光る。
２種類の僧侶魔法を同時に唱える…いや、片方をその場に留めて、２つめを唱えるのを見たのは、忍者兵にとって初めてであった。
だが、何をしようとしているのかは、未だ分からない。
攻撃魔法は、すぐに手から飛び出して敵を撃ち抜く魔法のはずで、癒しの魔法は『すぐ側にいる者を治癒させる』魔法であるはずだった。
固唾を飲んで見守る中、ダークマターは、ゆっくりと両手を合わせていく。
ぴしりっと乾いた音と共に、掌から鮮血が滴り落ちた。
「…暴れんじゃねーよ…」
呟いて、傍目にもびりびりと震える２種類の光を近づけて。
「行け」
一言、小さな命令の元、無理矢理その場に留められていたバレッツは、放たれた奔馬のように嬉しそうに敵へと一直線に飛んでいった。
…その背に、治癒魔法を乗せるようにして。
クルガンは、イライラと忍者刀を握り直した。
彼もまた、傷ついてはいたが、戦闘中には気分が高揚していて痛みを感じることは無い。従って、多少の傷があろうとも、彼のスピードには何の影響も及ぼさなかった。
だが、部下たちは違う。
毒に侵され、傷つくと、途端に動きが鈍くなる。
今、不満を言っても仕方がないのは理解しているが、むしろ足手まといな者たちを庇いながら戦うのは、彼の性分には合わなかった。
足並みの揃わぬ者たちではアレイドは使えない。いっそ部下たちは下げて、自分だけが切り込むべきか、と考えた時。
視界の外から、光の束が走ってきた。
それがポイズンジャイアントの目前で、いきなり弾ける。
二つに分かれた光は、一つはポイズンジャイアントの顔面に叩き込まれ。
もう一つの光は、更に分裂しながら彼と後ろの部下たちを包み込む。
傷が癒されていくのを感じながら、彼は一声命じた。
「立体殺法！」
体力が戻った忍者兵たちが、速やかに命に従い、宙を舞う。
巨人の首を切り裂きながらも、彼の耳は光が飛んできた方向へと集中していた。
咳込みと、複数の足音。
地響きを立てて崩れた巨人から飛び退いて、忍者刀を拭いながら、そちらを見やるが、もうそこには誰もいなかった。
「ふん…俺を殺すんじゃなかったのか？」
忍者兵たちは、解毒の薬を配分し、それから彼らの長を見て、ぎょっとした。
最近はずっと不機嫌そのものであった長の顔に、実に楽しそうな笑みが浮かんでいたので。
咳き込むダークマターの体を抱きかかえるようにしながらリカルドとグレッグは指示されていた位置まで走ってきた。もちろん、サラとルイも一緒だ。
目に涙を浮かべながら咳き込むダークマターに、水袋を差し出して、ルイは背中をさすってやった。
「キミも、ついにカビカビの仲間入りね」
「……さすがに、俺も、限界……げほげほっ！」
「２種類の魔法なんて一度に唱えたりするから負担がかかるんだわそういう規定外のことしたらリバウンド来るって知ってるでしょほら掌貸して治癒魔法かけたげるから神様神様この人はちょっと馬鹿だけどいい人なんです癒して下さいませ全くもう魔力だって随分消費しちゃったんじゃないの今日はもう帰るのかしら」
反論せずに手をサラに預けていたダークマターは、ふと目を上げた。
「…何で、付いてきてんの？ティグ」
聞き慣れない単語に、彼らは一斉にダークマターの視線の方向を見る。
そこには、先ほどの忍者兵が佇んでいた。
「…あー、いやその…口を挟めずにおりまして…」
「さっさと、あっち戻れば？」
気まずそうに咳払いをして、ふん、と頭を背けているダークマターに、懐から取り出した瓶を差し出す。
「先ほど、協力して頂いた『冒険者』に、解毒の薬を献上しようと思っていたのだが」
微妙に、尊敬語だの謙譲語だのが入り乱れていて、彼が目の前の侍を『上司』と扱って良いのか、ただの行きずりの冒険者と扱って良いのか決めかねていることを推測させた。
だが、ダークマターはますます不機嫌そうに睨み付け、マントの裾を払った。
「てめーの目は節穴か。俺たちは現在毒に侵されておらず、自分とこの長は毒ってんだろーに。さっさと戻って、あの馬鹿に使えばいーじゃんか」
「……はぁ……」
元気一杯に戦闘していた彼らの長を思い浮かべる。
毒に侵されているとは到底思えないような姿だったが、この侍が言うなら間違いないことだろう。もしも、本当にあのクイーンガードなら、冷静な観察眼は他の追従を許さないはずであったし、何より、彼らの長については彼などより余程詳しいはずであったから。
「では、そうさせて頂きます」
薬を手にしたまま、思わず敬礼したことに気づいて、自分で自分に苦笑する。
そのままきびすを返すダークマターに、ふと思い出して問う。
「あの…ティグ、と呼ばれましたか？」
もしも、彼の名を知っているのなら。
目の前の侍は、エルフではあるけれど間違いなくあの『凍てつく瞳のダークマター』であるということで。
金髪の三つ編みが、僅かに揺れた。
振り返ることなく、感情のない声がだけがかけられる。
「…リーシェは、元気なのか？」
「いえ…妹は、閃光で…」
「ふぅん…さぞかし、イアルは落ちこんだだろうねぇ」
「は…」
そのまま、仲間たちの元に歩み寄り、リープの魔法で転移する。
残るのは、吹き上げられたカビの胞子だけ。
ティグ、と呼ばれた忍者兵は、クイーンガードが消えた後も、ずっとそこから目が離せずにいた。
不意に思い出す。
いつも通りに任務から帰ってきたとき、駆け寄った妹が照れ臭そうに言う。
「あのねぇ、兄さん。あたし、忍者兵を抜けることにしたの。…結婚、申しこまれちゃった」
今まで、そんな気配には全く気づいていなかった彼は、ひどく慌てて問いただす。
あまりに日差しが眩しくて、妹の顔は見えないが、声は喜びに飛び跳ねている。
妹が長に挨拶する、と言うときには、彼も共に行った。
そうすると、長の横にはあのクイーンガードもいて、妹をまじまじと見て、手を叩いた。
「あぁ、イアルが忍者兵の娘と結婚するって言っていたが、君がリーシェか」
「はい、ダークマター様」
「イアルは、ちょっと血が上ると周りが見えてないきらいがあるけど」
そうして、首を傾げると、色褪せた金色の髪がふわりと風に舞った。
「なるべく、無事に生きて帰すように努力する」
もの凄く遠回りな言い方であったが、それもまた祝福の言葉であった。
後に、新しくできた義弟に、このクイーンガードは一見取っつきにくくて冷たいように見えるけれど、部下の名前や家庭事情をほとんど暗記していて、新婚だとかもうすぐ子供が産まれるだとかいう兵には殊の外安全に気を使うのだ、と聞いた。
イアル。
義弟の名だ。
リーシェと結婚して。
だが、あの閃光で、リーシェは……
ティグは、ふと頭を押さえた。
今、現在、リーシェはここにいない。
それは、確かなことだ。
ここにいない、ということは、即ち、彼女は閃光で死んだ、ということに他ならない。
本当に、そうだっただろうか？
突然、疑問が沸き上がった。
リーシェは、死んだのだ。
何故なら、生きているなら、ここにいるはずだから。
今まで、何の疑問も持たなかったことが、たった一言で揺れ動く。
「さぞかし、イアルは落ちこんだだろうねぇ」
覚えていない、のだ。
その時、義弟は、どんな反応を示したのか。
いや。
彼自身は、どんな反応を示したのか。
覚えていない。
何故なら。
本当は、見ていない、のだ。
リーシェがどうなったのか、本当は、知らない、のだ。
何故なら。
なぜなら、彼も、そのとき………
ことん、と何かが落ちる音がした。
虚ろな視界の中で、解毒の薬の瓶が床に転がっているのが見えた。
咄嗟に手を伸ばしたつもりなのに、自分の手が見えない。
彼は確かめるように、手を翳した…つもりだった。
だが、何もかもが、もう、影でしかなかった。
「長に、報告しなければ」
彼が最後に考えたのは、そんなことであった。
兵の点呼を終え、クルガンは先へ進もうとして、ふと足を止めた。
「…１名、足りないな。ティグはどうした？」
「紛れ込んだ冒険者たちを送っていったと思われますが」
「そうか」
ふと、馬鹿な真似をしていなければ良いが、と浮かんだ考えを、頭を振り追い出す。
それ以上考えると、どちらの心配をしているのか、自分でもよく分からなくなるので。
「合流場所を、その辺の壁にでも書いておけ。待つ暇は無いからな」
「はっ！」
彼らだけに通じる暗号で合流場所を書き留め、彼らは先へと進む。
この階には女王陛下が囚われていると推測されていた。
湧き出る低級な魔神たちを打ち破り、陛下をお救いせねばならない今、一人の兵を待っているわけにはいかなかった。
そうして、その後の目まぐるしい展開の中で、彼は忘れてしまう。
一人帰ってこなかった兵がいたことを。
彼は、この後、永遠に知ることはない。
手にしていた解毒の薬瓶だけを残して、消え失せてしまった兵がいたことを。
そして、勿論それは、地上に戻ったエルフにとっても同様。
僅かな記憶の断片を、心に浮かぶまま口にしたことが、一人の忍者兵を消滅させたのを、彼はこの後、永遠に知ることはないのだった。