横溝正史 著『悪魔の手毬唄』を読んだことある方の多くは、おそらく角川文庫版で読まれたことでしょう。 |
菊判六十四ページ (角川文庫 -2804- 緑304-2 昭和51年3月20日発行20版 P3より引用 {以下引用テキスト同}) |
冊子の大きさの規格。今でこそA4とかB5とかというJISで規格されたサイズがノートなどのサイズとして一般的であるのだが、昔の冊子などではこの『菊判』という規格がもちいられていた。 |
一万三百四十三石 (P8より) |
『石』という単位も今では時代劇でくらいでしかお目にかかることのないものでしょう。 |
ボストン・バッグひとつぶらさげて、 (P11より) |
小旅行用の鞄の総称で、ボストン大学の学生が愛好していたことからこの『ボストンバッグ』の名前が広まった…ということだが、小旅行用の鞄ならなんでもかんでもボストンバックなのかといえば、おそらくはそうでないのだろう。口の両側に手提げ紐がある型のものをほとんどの場合指しているのだろうと思っているのだが、正直なところ、『鞄』の種類とか名称を具体的に述べてみよ…と言われても答えに窮するほど、この知識もまたほとんど持ち合わせていないのである。 ところで、 例えば市川崑監督作品の映画版では、石坂金田一耕助が提げているのはボストンバックではなく、トランクであるし(あれをボストンバッグとは言わないであろう)、テレビ版古谷金田一はボンサックといわれるような縦筒型の巾着式の口の鞄だったような気がする(あれもボストンじゃないと思う)。…そういう意味では『悪魔の手毬唄』の映像化で、ボストンバックらしきバッグを提げていたのは高倉健だけ(片岡鶴太郎版は未見)であるが、この金田一耕助は洋装であるうえに颯爽とオープンカーの助手席からバッグを出すのである。金田一耕助の和装趣味とボストンバッグの取り合わせは映像化に際して、あまり見栄えが良くないとの判断なのだろうか…。 |
満州事変 (P16より) |
歴史…とりわけ戦争に関することとなると滅多なことは言えない。戦争が愚行であるとは思っているが、何事においても多面的に見ればいろいろな言い分もあるわけで、独善的な判断をすることはできない。 しかしながら、この満州事変のような自作自演の愚行は、その後に発展していく不幸な歴史のことを考えれば、恥ずべき歴史の一つと断言してもかまわないであろう。 昭和6年9月18日、奉天駅近くの柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破される。この爆破を中国軍のとった行動として、満鉄の守備を目的に駐屯していた関東軍が中国軍の兵営・北大営と司令部のあった奉天城を攻撃。これを占拠したという事件。この満州占拠へつながる一連の出来事がいわゆる満州事変である…と認識しているのだが、『事変』などという言葉も、どこからどこまでのことを指し示しているのか、なんとも『このこと!』の限定しにくいあやふやな日本語のように思えてならない。 |
モール(P19より) |
クリスマスやなんかのとき、じゃかじゃか飾る…っていうことで、ツリーを飾るアレのことなんだろうなぁ…と思いあたらないこともないのだが、気になるのはその後の磯川警部の言葉である。 「薄い木にいろいろ着色したやつ…」…?薄い木?だってェ!? モールって言ったら、今じゃ、ビニールだかポリエステルだかわからないけど、銀や金や華やかな色に着色したあのキラキラしたやつでしょ?…そうそう、市川崑監督作品版の映画では、ありがたいことにこのシーンを具体的にインサートしてくれてたけど(そう言えば、あの機械は実際に戦前にモールをつくっていたのと同じものだったのだろうか?それとも映画的に文献やら資料から作り出した小道具だったのだろうか?)、あれって、木だったの!?…う〜む。昔はあのキラキラピラピラの部分が木製だったのか?まぁ、昭和6,7年のことだから、現在の製品をそのまま当て嵌めて考えるわけにはいかないのは当たり前だが…。もしそうならば、さぞや重たい飾りだったのではなかろうか? |
ルーズヴェルトがニュー・ディールで男をあげた (P26より) |
1929年のアメリカで起こった株価大暴落、世に言う『暗黒の木曜日』以来失業者1500万人を超える大不況を打開すべく、この年大統領になったルーズヴェルトが打ち出した緊急措置法の制定。 思えば、この何年も続いているいわゆる『平成不況』を何とかしようとしているどこぞの内閣総理大臣殿も就任当時はエラク男前に見えないこともなかったが、ここのところの仕事ぶりは一体どうなっているのであろうか?…彼にも頑張ってもらって男をあげてもらいたいものである。 |
ワンステージ何十万がとこ転げ込む (P30より) | ||
大空ゆかりの人気者ぶりに関しての記述。 昭和30年頃、唄って映画に出て…といった人気振りから想像すると、まず美空ひばりのことが思い浮かぶところであろう。グラマー・ガールかどうかは別として…。 昭和30年頃、雪村いづみ、江利チエミらと三人娘として人気を泊していたが、三人娘といえば、『悪魔の手毬唄』でも由良泰子、仁礼文子と、手毬唄に唄われている三つの屋号の家の娘が思い浮かぶが、と、考えると泰子が江利チエミで、文子が雪村いづみ…といったところであろうか?もっとも、細かな小説内の描写からみると当て嵌まらないことも多いので、あまりにも安易な例えだと言われてしまえばそれきりであるのだが…。ちなみに三人とも1937(昭和12)年生まれなので、昭和30年だとまだ18歳だったのだ!(右画像 研秀出版 刊「グラフィックカラー昭和史 12 『大衆と文化(戦後)』」より引用) ちなみに、当時の大卒者平均月収が12,000円程度といった時代の『ワンステージ何十万』なのだから、大空ゆかりの大スター振りが計り知れる。 |
パナマ帽に相当くたびれた白絣、よれよれの夏袴といういでたち (P31より) |
基本的に和装にしろ洋装にしろ服に関しての知識が哀しいほどまでに私には欠落している。 |
村のロメオというところで、 (P33より) |
『ロメオ』!? ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『Romeo And Juliet(1595/96)』の『ロメオ』…と考えていいのだろうか? でも、ロメオって、ジュリエットというパートナーと対になっていてこそ意味があるんじゃないのか?敵対する一族の相手と恋に落ちる若い恋人たちの悲劇だからこそ名作として語られているわけで、ただの二枚目の代名詞として使われていると思うとなんだか変な感じがする。歌名雄の家である「亀の湯」と泰子の家「枡屋」が敵対していた様子はないし、むしろ敵対していたのは「枡屋」と「秤屋」であって、「亀の湯」は関係ない。むりやりこじつければ「亀の湯」と敵対する必然が考えられるのは「錠前屋」くらいだが、だとすると、歌名雄の恋人は千恵子でなければ、『ロメオとジュリエット』は成立しない。…なんで、『ロメオ』なんてあだ名で呼ばれていたんだろ? それとも、『獄門島』の「愛染かつら」みたいな扱いなのだろうか? ところで、横溝正史には『悪魔の手毬唄』以前にも「ロミオとジュリエット」が出て来る作品があり、こちらでは「ロミオ」と表記されている。 やっぱり『対立する二つ家』というモチーフが好きなんでしょうね。 【補填(2003.3.24)】開設当初このページを御覧になられた方々よりいくつか、ケラ−という作家の「村のロメオとユリア」という作品の存在について御指摘をうけた。確かに「村のロメオ」という表記だけに関して言えば接点あるものの、読んでみればこの作品の冒頭にすでに、 「この事件を物語ることが必ずしも無益な模倣でなかろうというのは、この話は実話であって、文学上の古い大作の素材となった美しい説話は、皆それぞれに、どんなに深くこの人生に根ざしているかということの実証ともなるからである。」 と作者本人が語っているように『スイス版ロミオとジュリエット』だという意味でのタイトルであることは明確であり、私の読む限りにおいては実際内容もそういったものである。つまりタイトルという意味だけで言えばシェイクスピアであろうがケラ−であろうがどちらでも差はなおのである。また、「ロメオ」と「ロミオ」の表記の違いは時代的なこともあるのだろうということで、あまり問題にしていないのである。上記してある『悪魔の手毬唄』以前にも「ロミオとジュリエット」が出て来る作品云々というのは念の為の意味でしかない。疑問なのは、あくまでもそのモチーフと歌名雄のあだ名がついた関連であり、経緯について、なぜ?と首を傾げたくなるということだけなのである。もちろん、ケラ−の「村のロメオとユリア」が昭和30年頃に、人のあだ名に使われる程のなんらかの話題になっていたとでもいった話しでもあれば別 ではあるが、今のところそのような事実を目にするには至っていない。この補填をしないままだと同様の御指摘をまたいただくことになるかもしれないので、御指摘下さった方々に感謝を込めて一応付記しておきます。 |
青髭さんの五番目の妻 (P54より) |
グリム童話、あるいはシャルル・ペローによる童話の『青髭』のことなんだろうな…。やっぱり。 |
神戸市兵庫区西柳原二ノ三六 (P57より) |
金田一耕助が代筆してあげた手紙の宛先である。…はて、横溝正史の作品でこれほどまでにハッキリと住所の記述をしているものってあったかな?…と気になった一節である。それだけの為にいちいち全部の作品をひっくり返してみようとまでは思わないが、ちょっと気になったので実際に地図で調べてみたら西柳原二番地までは現在も存在しているのだが、三六まではないようである。…昭和30年にはあったのだろうか? |
蜜柑箱にほごを貼ってつくった机 (P102より) |
蜜柑箱というものも八百屋、果物屋、スーパーマーケットなどで見られるのは段ボール製のものばかりで、とても机などにはできそうもない現在からしてみれば、おそらくは木製のものだと思われるこの『蜜柑箱』も見過ごされがちな『時代』なのかもしれない。 『ほご』も今ではあまり使われなくなってしまっている言葉かもしれない。辞書で調べてみたら「書き捨てたいらない紙。ダメなもの。」と言った意味で、「約束を反故にする→約束をやぶる」といった使い方が書いてあった。 放庵さんは木製の木箱にいらなくなった紙を貼っていたのか…。他にも放庵さんの世捨て人的な貧しい生活ぶりはいろいろ書かれているが、私的に一番「お庄屋」の没落振りを感じた文である。 |
山椒魚 (P109より) |
『悪魔の手毬唄』には『山椒魚』という単語は多くでてくるが、その一つたりとも『オオサンショウウオ』とはなっていない。 |
沢桔梗 (P133より) |
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8〜9月が花期で、紫色の花が茎頂に咲く。水辺、湿地などに群生する多年生草木。茎は直立して50〜100cmくらいになり、葉は葉柄がなく、長さ4〜7cmくらいの披針形で密に互生している。 作中にもあるように、全草にアルカロイドであるロベリンを含んでいて毒性がある。しかし、このロベリンという成分、現在でこそほとんど使われていないようだが、昔は呼吸興奮薬である塩酸ロベリンの代用として薬用としても使われていたこともあるらしい。薬草辞典などにもこの沢桔梗は紹介されているのである。 ところで、市川崑監督作品映画版では設定が夏ではなかったこともあって沢桔梗ではなく「山トリカブト」に変えられてたし、テレビ古谷版では「沢桔梗」と言ってはいたものの、あの花はちょっと沢桔梗とは違っているようでしたが…(片岡鶴太郎版は未見)?。 花言葉は『高貴』・『特異な才能』。 |
コナン・ドイルの炉辺物語であろう。 (P157より) |
改造社版 コナン・ドイル全集第8巻 「訳者の言葉」より |
なんでも満映たらちゅう映画会社にいた男 (P179より) |
満州映画協会の略。満映に関しては多くの書籍も出ているし、あの当時を舞台にした小説などにも甘粕正彦、石原莞爾、李香蘭=山口淑子などといった名前とともに、よくお目にかかる名前である。 |
平やんとこの竹藪のすぐねき (P190より) |
『ねき』というのが「そば」の意味であるというのは、注釈があるのでわかっているのだが、これを実際に口語として話す時、イントネーションがよくわからない。映画やテレビなどの横溝/金田一モノで、原作に沿った形で岡山弁で役者さんたちが話しているものもあるが、あれはあれで正しいのであろうか?仮に正しいとしても、この「ねき」だけは耳にしたことがないような気がする。 ま、そんなことはともあれ、それよりも気にかかって仕方ないのは、実は『平やん』の方なのである。 …一体、この『平やん』とは何なのであろうか?普通に解釈すれば、「平さんのお宅のところにある竹藪のすぐそば」ということになって、つまりは平やんというのは人のことなのだろうと推測できるが、この台詞以前もこの台詞以降にも『平やん』と呼ばれる人物はこの物語りの中に登場していない。登場していなくても、別に困ることはないであろうと、『平やん』を一人の名前と解釈している向きもあるようだが、果たして横溝正史がそんなことするだろうか?いや、横溝正史でなくとも、人に場所を説明する時、相手が知る由もない人物を突然引き合いに出して、「××さんの家の側だよ…」などと不親切なことを普通はしないのではないだろうか。だとすると、この『平やん』とは?…あるいは、この物語りには『平』の文字のつく名前をもっている登場人物は何人か出て来ているので、それらのウチの誰かか?…とも考えられないこともないが、仁礼嘉平、直平は里子よりも年輩なので『やん』付けで呼ぶようなことはあるまい。それでは、勝平なら、歳も近いし…と思ったが、勝平は村の青年団の中では「勝っちゃん」なのである。同年代の集まりの中で「勝っちゃん」と皆が呼んでいる人物を里子だけが『平やん』と呼んでいるのか?と考えると不自然である。 だとすると、やはり『平やん』と呼ばれる別の人物がいるのであろうか…? それとも、無茶苦茶な解釈かもしれないが、『平やん』とは人の名前ではなく、実は岡山弁であって、注釈がないだけ…という考え方は無理がありすぎるだろうか?…と、岡山弁を完全に理解でるわけでもない人間にとってはこんな無茶もまかりとおってしまうのである。 しかし、ホントにこの『平やん』だけは何度読み返しても引っ掛かってしかたないのだ。 一体他の人はこの部分をどう解釈しているのだろうか? 誰か「『平やん』なんて岡山弁は無い」ということが言明出来るだけでも構いませんので教えて下さい!! 【補填(2002.7.27)】 『平やん』という言葉が直接意味をもつ岡山弁はやはり無いらしい。 |
戦後スタンバーグ監督が日本へきて、アナタハン島を舞台にして、(P211より) |
『モロッコ』の話しの続きからでてきたこの一節、『モロッコ』ならもちろん観たこともあるし、スタンバーグとデートリッヒの名コンビの映画なら他に『嘆きの天使(1930)』『間諜X27(1931)』『ブロンド・ヴィナス(1932)』『上海特急(1932)』『恋のページェント(1934)』『西班牙(スペイン)狂想曲(1935)』と全部で7本も作られていたことくらいなら知っていたが、この「日本へきて〜」といった部分に関しては思い当たるものがなかった。調べてみると、1953年に大和プロというところの製作で、東宝が配給した日米合作映画『アナタハン』という映画をスタンバーグは監督しており、この作品がスタンバーグの遺作でもあるようである。 |
里見義郎はん (P214より) |
実在の活弁士さんらしい。…が、どれくらい人気があった人かまではよくわからない。 |
ちょっと横山大観に似ている。 (P228より) | ||
本多医院の大先生をはじめて紹介されたときの金田一耕助の印象。 横山大観の名前くらいなら知っているが、その容貌がどうであったかと言われてもなかなか思い出せない。 右画像は晩年の大観のもの。 (朝日新聞社 刊「アサヒグラフ 別冊 1986 冬 美術特集 横山大観」より引用) 念の為、横山大観とは…。 1868(明治元年)水戸市生まれの日本画家。現代絵画界の先達にして先駆。ある紹介文では「横山大観なくして現代日本絵画は有り得ない」とまで言わしめるほどのお方。 「無我(1897)」 「屈原(1898)」といったところは私でさえ見たことがあるほどの代表作であるが、もちろんその他にも数多くの名画をのこしている。昭和12年第1回文化勲章を受賞。 と、いうくらいの凄い方なのだ…ということはくらいはわかっていたつもりだが、それにしても、果たして人の顔を評して「誰々に似ている」という例えをするのに、大観の名前がでてくるというほど、昭和20年代終りから30年代にかけては、ポピュラーだったのだろうか? 年表でみると昭和33年に亡くなられていているので、その晩年と年代的には合致するが、やはりそのあたりのことでマスコミでも騒がれていたりしていたのだろうか? 財団法人 横山大観記念館 HP |
京マチ子に似た顔をさえざえしている。 (P251より) | |||
大空ゆかりこと別所千恵子のことをこう書いてある。 |
シャンソンの「枯葉」のようである。 (P258より) |
…なんで、シャンソンの「枯葉』を唄ったんだろう?否、横溝正史はこの唄を大空ゆかりに唄わせたのだろう? |
マユ玉 (P289より) |
マユ玉というものも、現在の都会に住むサラリーマン家庭などではおよそ見ることのできないものであろう。元々は養蚕農家で豊作(っていうのかな?)を祈願するためのもので、木の枝に繭を刺して祀ってあったのだが、それに色々と飾り物がついたり、繭の変わりに餅になって、その餅を焼いて食べて無病息災を祈る…とかいう縁起担ぎの品になっているらしい。実際に現物は見たこと無いのである。そういったモノが事件の重要なキーになっているのだから、やがて、この『悪魔の手毬唄』が古典となってしまう時代には、きっと詳しい注釈がつくことになってしまうのかもしれない。 |
きれいな毛糸でかがった手毬である。 (P312より) |
『手毬』ももう一般的な遊具としてよりは、民芸品としての置き物的な存在になりつつある。もちろん玩具屋などには売っていないし、いろいろと聞いて廻ってみても都会ではどこで売っているのかすらハッキリしない。…浅草の外国人観光客向け土産物店でぶら下げる飾りみたいな小型の手毬を見つけたが、これだと満足できなかったので、長野県は松本まで行って、『松本てまり』を実際に見て来た。こちらも一般遊具というよりは、伝統工芸品としてのお土産になってしまっている感があるが、少なくともぶら下げて飾っておくための紐がついていないだけ“毬”らしい。 こういった『手毬』も松本の他、青森県八戸の『八戸くけまり』や、栃木県『野州てまり』、あるいは『越後てまり』『加賀てまり』『讃岐かがり手毬』等々といった各地で民芸品として受け継がれているものもあるが、遊具としてすたれてきたのは、よく跳ねるゴムボールの普及かららしい。 民芸品としての『手毬』も直径10cmくらいのものから30cmくらいの大きさのものまで様々であるが、果たしてこの小説に出て来た手毬はどれくらいのサイズのものであるのだろうか。…多くの横溝ファンは映画やテレビドラマのイメージから20cmくらいの大きさのものを想像しているのではなかろうか。しかし、もう一度原作をよく読み直してみて欲しい。五百子刀自は袂からこの手毬をさぐり出しているのである。20cmもあるものを袂にはなかなか入れておけまい。と、すると10cmからせいぜい15cm程度のものではなかろうか…と思われるのである。昔は手毬事体があまり跳ねないものであったので、このくらいの小さな手毬を座ってついて遊んでいたりしていたらしく、ゴムマリを立ったままついて足のしたを潜らせたりして遊ぶのは所謂糸でかがった手毬ではあまりポピュラーな遊び方ではなかったらしい。ドラマや映画の絵的な都合良さ『見栄え』を優先させたイメージばかりを“事実”であるかのように信じていると、案外見落としがちになる真実もあるのである。その点、『宝石』連載時の挿絵では、ちゃんと小さな手毬になっていたのは凄いことである。 手毬に関しては、日本郷土玩具博物館のHPに、1997年度企画展の紹介として学芸員の方の判り易い研究レポートを見る事ができる。 |
西条山は霧深し、 (P320より) |
西条山は霧ふかし |
『家の光』いう雑誌ご存じですじゃろう、 (P328より) |
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全くモノを知らないでいるというのは、恐ろしいもので、この『家の光』という雑誌のことも全然理解していないまま、「よくわかんないけど、今でいうところの『生活の〜』とか『家庭の〜』などと言った家庭雑誌みたいなものなのかな…」くらいの認識で、実在する雑誌のことなのか、それとも横溝正史の創作としてだけの雑誌名なのかも気にしないまま読み飛ばしていたが、改めて気になって調べてしてみて驚いた。 |
ここに並べた語句に限らず、作中の言葉で意味のわかっていないものをそのまま読み流してしまったとしても、『悪魔の手毬唄』の面白さ、横溝正史の他の作品の素晴らしさが変わることはないでしょう。 |
▼▼▼▼▼ こちらのHPなどで試みられていることも、横溝作品の面白さを掻き立てる方法論として面白いです。▼▼▼▼▼
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