横溝正史 著『悪魔の手毬唄』を読んだことある方の多くは、おそらく角川文庫版で読まれたことでしょう。
 この角川文庫版も横溝正史生誕百周年の記念としてカバーデザインを一新したことは、まだ目新しい出来事なのでファンであれば誰もが知っていることかもしれません。ところで、最近『ファン』に戻ってきた当HP管理人は、お恥ずかしい話しですが、いつの頃から巻末に『本文中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考えあわせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。』という注釈がつくようになっていたのか、まったく気がついていませんでした。
 確かに、よくよく見比べてみると、『お臀』が『おしり』に、『悧巧ぶる』が『利口ぶる』に『但し』が『ただし』になっていたりと、常用漢字とか当用漢字とかいった部分での解釈なのか、いくつかの細かな箇所が昔の版と違っています。それにしては、今ではもう殆ど使われることのないであろう漢字であっても前の版からすでにルビがふってあるものは、そのままになっていたりと、よく基準がわからないのですが…。
 なかでも、「さしわたしにして、十五丁(約一六五〇メートル)
《平成九年改版再版発行 178頁より引用》」といった尺貫法までが親切にメートル法表記がつけられていることにはビックリしてしまいました。
「昔、読んだ時は尺貫法もあまりよくわからなかったから、辞書で調べたもんだけどなぁ…」と独りごちた後、確かに、現在ではあまり馴染みの無くなってしまった言葉なども多く、言葉としてはそれなりに解釈して読み流している部分も多いのかもしれない…との自戒もあって、全く個人的かつ趣味的な『悪魔の手毬唄語用語』でも作ってみようかな…。という安易な思い付きだけで作ってみたのがこの頁です。
 こういったことは、ベストブック社発行のビッグバードノベルス『名探偵金田一耕助の事件簿』でも欄外に簡単な語句解説をつけているといった試みをしているという前例もあります。
 ただし、ここで試みられているのは、そういった学術的、あるいは学問的といった見地であったり、正しい日本語のありかたといったことを真剣に考えてのことといったものではなく、ひとえに個人的な趣味、あるいは好奇心を満足させるためだけのものとご理解下さい。
したがって、掲載語句は作成管理者が確認を要したものを、順に抜き出しているだけですので、これ意外の語句の全てを理解できているかというと、そういうわけでもなく、わかっているのかどうかすらも確かでないものも多くあります。
 なんだ、こんなことも知らなかったのか…と蔑まれようと、構いません。どうせ、その程度の人間ですから。
 それよりも、知らないことをそのままにしておく方が、いろいろと違った発見をすることできるチャンスを逃してしまうかもしれないという意味でも勿体ないことなんだろうな…というのがおおよそのところの作成理念(それ程のものでもありませんが)であります。
 もし、この頁を御覧になった方で、もっとこの言葉にはこんな意味があるのだよ。この言葉の意味を取り違えてやしないかい?…といった御指摘などありましたら、ぜひぜひ教えていただきたいと思っております。
 なお、自分で調べたものに関して、画像等は調べた資料として補足的な意味で引用させていただきましたものもあります。引用に際してのご意見、クレーム等があるような場合や、また、思い違い等によって間違った認識でとらえているままのものもあるかもしれませんので、そういった意味でどちらかに御迷惑をお掛けするようなことがありましたら、それらは全て作成管理者の不手際によるものであります。これらに関しては、お手数を御掛け致しますが こちら よりメールにて御連絡いただいたうえで対処させていただきたく存じます。




 菊判六十四ページ (角川文庫 -2804- 緑304-2  昭和51年3月20日発行20版 P3より引用 {以下引用テキスト同})

 冊子の大きさの規格。今でこそA4とかB5とかというJISで規格されたサイズがノートなどのサイズとして一般的であるのだが、昔の冊子などではこの『菊判』という規格がもちいられていた。
  明治時代に初めて輸入された紙の包装ラベルにダリヤが印刷されていたのでそれを菊に見立てて『菊判』と呼ぶようになったと言う説と、新聞紙の『聞』という文字を「キク」と訓読みして呼び習わしたことから通称として広まったという説とがあるようである。もともとが印刷用の紙のサイズが菊全紙(636×939)であり、そこから何当分できるかということで、サイズが決まったみたいであるが、この場合は16ケの158×234サイズだと考えるのが妥当であろう。A5が148×210、B5が182×257なのでその中間くらいのサイズの冊子だと思うと判り易いかもしれない

  現在では『菊判』といえばこの158×234サイズのことに限定して考えていいようである。この倍のサイズのものは『菊倍判』という別の呼び名になってしまうのである。
  時たまこの『菊判』サイズの本を購入してしまうこともあるが、こういう本が本棚にポツンとあると天地がバラバラになって見栄えが悪くなって気になって仕方ないのである。


 一万三百四十三石 (P8より)

 『石』という単位も今では時代劇でくらいでしかお目にかかることのないものでしょう。
  聞いたところによると、江戸時代の中期までは、一日朝と夕の二食が普通だったようで、当時の人は、その二食で米を都合四合食べたらしく、その四合のお米が採れる田んぼの広さが、およそ畳 二畳分(=一坪)とされ、太陰暦では、一年は360日だったので、一年間に 人ひとりが食べる米を生産する田圃の広さ一坪×360日=360坪が一石と定められていたとのことらしい。今でいうところの約1,188平方メートルである。
 ところで、『石高』というのは、朧げな記憶をたどってみると、秀吉が太閤検地できめた田畑一反につきどれだけ米が収穫できるかを決めてそれにあわせて税を決めるためのもの…だったと思うのだが、だとすると、険しい山や沼地などの米を生産することのできない土地などを持っている領地では、上の具体的な計算方法で算出される実面積と、実際に生産される米の量との比率とが、必ずしも合致しないこともあるように思えるのだが、どうなっていたのであろうか…?
 時代劇などで耳にする『何十石何人扶持』といった侍の位の尺度として使われている『石』も、実際にはそういった広さの土地の所有しているわけではなく、“一石分の米に相当するだけの給金”という基準尺度であるといったものだ
とも聞く。
 う〜む。よくわからない。
 
なんにせよ、この10,343石というのがどれくらいの規模なのか、具体的な尺度として認識出来ないのが、単に勉強不足なだけなのかはともかくとして、時代劇などでは耳にすることがあっても、あまり気にして考えたことがなかったものだと再認識した部分であった。
【補填(2002.7.27) 徳川幕府時代に一万石以上の領地を与えられた者を“大名”と呼び、作中の伊東家もこのギリギリの石高にあたる。
横溝正史が疎開していた現岡山県真備町岡田地区にあたる「岡田藩」の石高もこの『伊東家』の石高と同じであり、岡田藩を治めていた領主も『伊東氏』であることは大変興味深い。岡田藩の伊東家については真備町の「ふるさと歴史館」にくわしいコーナーも設けてあるようなので、「ふるさと歴史館」を訪れる機会があれば、横溝正史のコーナーと合わせて見てみるのもまた面白いところであろう。


 ボストン・バッグひとつぶらさげて、 (P11より)

 小旅行用の鞄の総称で、ボストン大学の学生が愛好していたことからこの『ボストンバッグ』の名前が広まった…ということだが、小旅行用の鞄ならなんでもかんでもボストンバックなのかといえば、おそらくはそうでないのだろう。口の両側に手提げ紐がある型のものをほとんどの場合指しているのだろうと思っているのだが、正直なところ、『鞄』の種類とか名称を具体的に述べてみよ…と言われても答えに窮するほど、この知識もまたほとんど持ち合わせていないのである。
 ところで、 例えば市川崑監督作品の映画版では、石坂金田一耕助が提げているのはボストンバックではなく、トランクであるし(あれをボストンバッグとは言わないであろう)、テレビ版古谷金田一はボンサックといわれるような縦筒型の巾着式の口の鞄だったような気がする(あれもボストンじゃないと思う)。…そういう意味では『悪魔の手毬唄』の映像化で、ボストンバックらしきバッグを提げていたのは高倉健だけ(片岡鶴太郎版は未見)であるが、この金田一耕助は洋装であるうえに颯爽とオープンカーの助手席からバッグを出すのである。金田一耕助の和装趣味とボストンバッグの取り合わせは映像化に際して、あまり見栄えが良くないとの判断なのだろうか…。

 満州事変 (P16より)

 歴史…とりわけ戦争に関することとなると滅多なことは言えない。戦争が愚行であるとは思っているが、何事においても多面的に見ればいろいろな言い分もあるわけで、独善的な判断をすることはできない。
 しかしながら、この満州事変のような自作自演の愚行は、その後に発展していく不幸な歴史のことを考えれば、恥ずべき歴史の一つと断言してもかまわないであろう。
 昭和6年9月18日、奉天駅近くの柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破される。この爆破を中国軍のとった行動として、満鉄の守備を目的に駐屯していた関東軍が中国軍の兵営・北大営と司令部のあった奉天城を攻撃。これを占拠したという事件。この満州占拠へつながる一連の出来事がいわゆる満州事変である…と認識しているのだが、『事変』などという言葉も、どこからどこまでのことを指し示しているのか、なんとも『このこと!』の限定しにくいあやふやな日本語のように思えてならない。

 モール(P19より)

 クリスマスやなんかのとき、じゃかじゃか飾る…っていうことで、ツリーを飾るアレのことなんだろうなぁ…と思いあたらないこともないのだが、気になるのはその後の磯川警部の言葉である。
  「薄い木にいろいろ着色したやつ…」…?薄い木?だってェ!?
  モールって言ったら、今じゃ、ビニールだかポリエステルだかわからないけど、銀や金や華やかな色に着色したあのキラキラしたやつでしょ?…そうそう、市川崑監督作品版の映画では、ありがたいことにこのシーンを具体的にインサートしてくれてたけど(そう言えば、あの機械は実際に戦前にモールをつくっていたのと同じものだったのだろうか?それとも映画的に文献やら資料から作り出した小道具だったのだろうか?)、あれって、木だったの!?…う〜む。昔はあのキラキラピラピラの部分が木製だったのか?まぁ、昭和6,7年のことだから、現在の製品をそのまま当て嵌めて考えるわけにはいかないのは当たり前だが…。もしそうならば、さぞや重たい飾りだったのではなかろうか?

 ルーズヴェルトがニュー・ディールで男をあげた (P26より)

 1929年のアメリカで起こった株価大暴落、世に言う『暗黒の木曜日』以来失業者1500万人を超える大不況を打開すべく、この年大統領になったルーズヴェルトが打ち出した緊急措置法の制定。
 思えば、この何年も続いているいわゆる『平成不況』を何とかしようとしているどこぞの内閣総理大臣殿も就任当時はエラク男前に見えないこともなかったが、ここのところの仕事ぶりは一体どうなっているのであろうか?…彼にも頑張ってもらって男をあげてもらいたいものである。

 ワンステージ何十万がとこ転げ込む (P30より)
 大空ゆかりの人気者ぶりに関しての記述。
 昭和30年頃、唄って映画に出て…といった人気振りから想像すると、まず美空ひばりのことが思い浮かぶところであろう。グラマー・ガールかどうかは別として…。
 昭和30年頃、雪村いづみ、江利チエミらと三人娘として人気を泊していたが、三人娘といえば、『悪魔の手毬唄』でも由良泰子、仁礼文子と、手毬唄に唄われている三つの屋号の家の娘が思い浮かぶが、と、考えると泰子が江利チエミで、文子が雪村いづみ…といったところであろうか?もっとも、細かな小説内の描写からみると当て嵌まらないことも多いので、あまりにも安易な例えだと言われてしまえばそれきりであるのだが…。ちなみに三人とも1937(昭和12)年生まれなので、昭和30年だとまだ18歳だったのだ!(右画像 研秀出版 刊「グラフィックカラー昭和史 12 『大衆と文化(戦後)』」より引用)
  ちなみに、当時の大卒者平均月収が12,000円程度といった時代の『ワンステージ何十万』なのだから、大空ゆかりの大スター振りが計り知れる。

 パナマ帽に相当くたびれた白絣、よれよれの夏袴といういでたち (P31より)

 基本的に和装にしろ洋装にしろ服に関しての知識が哀しいほどまでに私には欠落している。
 昔はパナマ帽と言われても、テンガロンハットとかシルクハットみたいな帽子の形の種類なのかな…とすら思っていたくらいで、後日、帽子専門店で教えてもらって違うことを知った。パナマ産の繊維素材でつくられたものだけが、パナマ帽というのだそうだ。したがって、パナマ帽といっても形はいろいろとあるのだそうで、こちら とか こちら などではいろいろと帽子のことを勉強できます。
 ちなみに、白絣や、他頁にもいろいろと出て来る「簡単服」「おじや縮み」「姉さまかぶり」「尻切れ草履」等々。…おおよそこういったものであろう…くらいのイメージしか持ち合わせていないので、どんなもの?と問われても答えられない。したがって以下にそういった服飾関係の語句に関しての記載がないのは、まだ勉強中とご理解していただきたいです。…そのうち時間をとってキチンと勉強することにしよう。


 村のロメオというところで、 (P33より)

 『ロメオ』!?
 ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『Romeo And Juliet(1595/96)』の『ロメオ』…と考えていいのだろうか?
 でも、ロメオって、ジュリエットというパートナーと対になっていてこそ意味があるんじゃないのか?敵対する一族の相手と恋に落ちる若い恋人たちの悲劇だからこそ名作として語られているわけで、ただの二枚目の代名詞として使われていると思うとなんだか変な感じがする。歌名雄の家である「亀の湯」と泰子の家「枡屋」が敵対していた様子はないし、むしろ敵対していたのは「枡屋」と「秤屋」であって、「亀の湯」は関係ない。むりやりこじつければ「亀の湯」と敵対する必然が考えられるのは「錠前屋」くらいだが、だとすると、歌名雄の恋人は千恵子でなければ、『ロメオとジュリエット』は成立しない。…なんで、『ロメオ』なんてあだ名で呼ばれていたんだろ?
 それとも、『獄門島』の「愛染かつら」みたいな扱いなのだろうか?
 ところで、横溝正史には『悪魔の手毬唄』以前にも「ロミオとジュリエット」が出て来る作品があり、こちらでは「ロミオ」と表記されている。
 やっぱり『対立する二つ家』というモチーフが好きなんでしょうね。
【補填(2003.3.24)開設当初このページを御覧になられた方々よりいくつか、ケラ−という作家の「村のロメオとユリア」という作品の存在について御指摘をうけた。確かに「村のロメオ」という表記だけに関して言えば接点あるものの、読んでみればこの作品の冒頭にすでに、 「この事件を物語ることが必ずしも無益な模倣でなかろうというのは、この話は実話であって、文学上の古い大作の素材となった美しい説話は、皆それぞれに、どんなに深くこの人生に根ざしているかということの実証ともなるからである。」 と作者本人が語っているように『スイス版ロミオとジュリエット』だという意味でのタイトルであることは明確であり、私の読む限りにおいては実際内容もそういったものである。つまりタイトルという意味だけで言えばシェイクスピアであろうがケラ−であろうがどちらでも差はなおのである。また、「ロメオ」と「ロミオ」の表記の違いは時代的なこともあるのだろうということで、あまり問題にしていないのである。上記してある『悪魔の手毬唄』以前にも「ロミオとジュリエット」が出て来る作品云々というのは念の為の意味でしかない。疑問なのは、あくまでもそのモチーフと歌名雄のあだ名がついた関連であり、経緯について、なぜ?と首を傾げたくなるということだけなのである。もちろん、ケラ−の「村のロメオとユリア」が昭和30年頃に、人のあだ名に使われる程のなんらかの話題になっていたとでもいった話しでもあれば別 ではあるが、今のところそのような事実を目にするには至っていない。この補填をしないままだと同様の御指摘をまたいただくことになるかもしれないので、御指摘下さった方々に感謝を込めて一応付記しておきます。

 青髭さんの五番目の妻 (P54より)

 グリム童話、あるいはシャルル・ペローによる童話の『青髭』のことなんだろうな…。やっぱり。
  単純に何人も妻をもった男のことをこういう風に例えただけなんだろうけど、この『青髭』の話しこそ、娶った妻を次々と殺したうえで新しい妻を迎えているという猟奇殺人的な話しで、なんとなく横溝的ですらあるので、何か意味でもあるのかな…と、つい深読みしてしまいそうになる。
 また「青髭」のモデルはフランスに実在したジル・ド・レ公だという説もあり、ただし彼が殺したのは主に美少年であったといわれているようなので、こうなると更に横溝的だなぁ…と思ってしまう。
【補填(2003.9.27)「悪魔の手毬唄」が宝石誌上に連載を始める前に「人を殺して名をのこす」という予告が掲載された(昭和32年5月号)。この予告題名に関しての回想が「探偵小説五十年」にも収録されている「『悪魔の手毬唄』楽屋話」(初出「宝石」昭和34年2月号)に横溝正史自らが語られている。さて、その「『悪魔の手毬唄』楽屋話」には、他にもいろいろと興味深い話があるが、なかでも特に気になったのが、横光利一の「時機を待つ間」という作品のことについて語られている部分である。横溝正史は自らこの「時機を待つ間」からいくつかのイメージを拝借していることを語っているが、実際に「時機を待つ間」を読んでみると、この「『悪魔の手毬唄』楽屋話」では語りつくされていないこともあることに気付く。
実際、「時機を待つ間」自体はどうということのない作品だが、「悪魔の手毬唄」との関係を考えならが読んでみると、吃驚するような発見がいくつも見受けられる。「悪魔の手毬唄」ファンなら必読の作品だといえよう。短編なので、最寄りの図書館などで全集のなかから見つけていただくことで読むことは可能である。また、同じ横光利一の作品で「家族會議 」という作品も、作品の内容こそ「悪魔の手毬唄」とは何の関係も見受けられないが、ちょっとニヤリとさせられるような言葉が登場して、興味深い。


 神戸市兵庫区西柳原二ノ三六 (P57より)

 金田一耕助が代筆してあげた手紙の宛先である。…はて、横溝正史の作品でこれほどまでにハッキリと住所の記述をしているものってあったかな?…と気になった一節である。それだけの為にいちいち全部の作品をひっくり返してみようとまでは思わないが、ちょっと気になったので実際に地図で調べてみたら西柳原二番地までは現在も存在しているのだが、三六まではないようである。…昭和30年にはあったのだろうか?
  さらに付け加えるならば、この西柳原というのが、横溝正史の生まれた神戸市東川崎町からそう遠くない所であることにも興味をそそられる。幼少期に何かこの西柳原という場所での思い出とかがあったのだろうか…などと想像してみるのもまた面 白い。
【補填(2003.3.24) ひょんなことから、『西柳原』という地名と横溝正史を結び付ける可能性に遭遇した。昭和12年のモノなので、果 たして直接、この『悪魔の手毬唄』に登場してきた番地とまで関連あるかまではわからないが、「シュピオ」という雑誌の昭和12年五月号に「探偵文壇住所録」という、現代では信じられないようなページがあり、この中に「西田政治」の住所が西柳原になっているのが掲載されていた。
 今さらここで西田政治について書き並べる必要もないであろうし、『悪魔の手毬唄』が書かれ、また事件のおこったとされる30年といった当時に実際、西田政治がこの『西柳原』にいたのかどうかさえわかっていないが、ひとつの接点としては面 白い発見だと思い、ここに付記しておきます。


 蜜柑箱にほごを貼ってつくった机 (P102より)

 蜜柑箱というものも八百屋、果物屋、スーパーマーケットなどで見られるのは段ボール製のものばかりで、とても机などにはできそうもない現在からしてみれば、おそらくは木製のものだと思われるこの『蜜柑箱』も見過ごされがちな『時代』なのかもしれない。
 『ほご』も今ではあまり使われなくなってしまっている言葉かもしれない。辞書で調べてみたら「書き捨てたいらない紙。ダメなもの。」と言った意味で、「約束を反故にする→約束をやぶる」といった使い方が書いてあった。
 放庵さんは木製の木箱にいらなくなった紙を貼っていたのか…。他にも放庵さんの世捨て人的な貧しい生活ぶりはいろいろ書かれているが、私的に一番「お庄屋」の没落振りを感じた文である。

 山椒魚 (P109より)

 『悪魔の手毬唄』には『山椒魚』という単語は多くでてくるが、その一つたりとも『オオサンショウウオ』とはなっていない。
  確かに「やもりかいもりを拡大したような生物が、瓶いっぱいにのらりくらりとうごめいている。〜」とその後に書かれている上、岡山県山間部では、湯原温泉に大山椒魚保護センターというのもあるくらい大山椒魚の生息地として知られているらしいので、横溝正史の言わんとしている『山椒魚』が『大山椒魚』を指していることは間違いないのだろう。
  日本には山椒魚は全部で19種も分類できる種類がいるらしいのだが(…もっとも、大山椒魚以外の18種は最大でも20センチ程度の大きさにしかならない小型のもので、やはり無気味さといったら大山椒魚の右にでるものはないのだが)、この大山椒魚に関してのみ言えば、岐阜県以西の本州山間部や四国、九州北東部などには生息しているものの、関東以北ではほとんど生息していないらしい。だから、関東に住む人間にしてみれば、おいそれと大山椒魚を見てみたいと思ってもなかなか大変なのである。
 大山椒魚は昭和27年に生息数が著しく減ったため特別天然記念物に指定されているので、磯川警部がおっしゃっているように「こいつを食うとひどく精力がつくということだが…」といった目的のため捕獲することは現在は禁止されています。…いや、それよりも、いくら精力がつくからといってこの大山椒魚を食べるとは…。…確かに、はんざき(あるいはハンザケ)という別 名でも呼ばれているように、身体が半分に千切れても生きているらしいという程の生命力をもっているなら、その生命力にあやかって…くらいの意味はあったのかもしれませんけど、それにしても、あの姿をそのまま食べられます?
 そういった意味では、この大山椒魚以外の小型の山椒魚の方は、いもりややもりと同じように、強壮剤的効用を目的として黒焼きにしたり、酒に漬け込んだりしてあるものが今でもあるようです。
 横浜界隈に住んでいる方なら、あるいは知っているかも知れませんが、横浜は伊勢佐木町にある『へびや(黒田救命堂)』には大山椒魚のはく製があるらしいと聞いたので、マジかよォ?…なんて思ってたら、なんとHPにまでアップされてました。
【補填(2003.11.16) 『悪魔の手毬唄』における「山椒魚」に関しては、横溝正史自身による「『悪魔の手毬唄』楽屋話」でも語られているが、横光利一の「時機を待つ間」という作品との関わりを抜きにしては考えられない。


 沢桔梗 (P133より)

 8〜9月が花期で、紫色の花が茎頂に咲く。水辺、湿地などに群生する多年生草木。茎は直立して50〜100cmくらいになり、葉は葉柄がなく、長さ4〜7cmくらいの披針形で密に互生している。
  作中にもあるように、全草にアルカロイドであるロベリンを含んでいて毒性がある。しかし、このロベリンという成分、現在でこそほとんど使われていないようだが、昔は呼吸興奮薬である塩酸ロベリンの代用として薬用としても使われていたこともあるらしい。薬草辞典などにもこの沢桔梗は紹介されているのである。
 ところで、市川崑監督作品映画版では設定が夏ではなかったこともあって沢桔梗ではなく「山トリカブト」に変えられてたし、テレビ古谷版では「沢桔梗」と言ってはいたものの、あの花はちょっと沢桔梗とは違っているようでしたが…(片岡鶴太郎版は未見)?。
 花言葉は『高貴』・『特異な才能』。

 コナン・ドイルの炉辺物語であろう。 (P157より)

 改造社版 コナン・ドイル全集第8巻 「訳者の言葉」より
“「炉辺物語」はかの有名なるシャアロック・ホウムズ物語の前奏曲ともいうべき短編を集めたものである。ホウムズ物語のごとく、故意に探偵に探偵を登場させて、それに解決させるといういうが如き無理がないだけに、ここに集められた短編は、極く淡々と物語を進めながら、しかも、後年ホウムズ物語に見られた、あの神秘的な雰囲気、ならびにあの麗筆はすでにここに萌芽している。読者によってはホウムズ物語よりも、むしろこの珠玉 の如き短編に、より多くの愛着を感じる者もすくなくないだろうと思う。”
 この訳者こそが横溝正史自信であったことは、なかなかどうして面白い話である。
 横溝正史 訳のものを入手しようとするのも大変だろうと思って調べてみたところ、新潮文庫 ドイル傑作集3(恐怖編)延原謙 訳に『革の漏斗(The Leather Funnel )
』は収録されているらしいが、この文庫が今もって在版なのか、あるいはすでに絶版なのかまでは確認できていない。
【補填(2003.3.24) この後、改造社版のものではないが、「探偵小説」誌に掲載された横溝正史訳の『革の漏斗』を読むことができた。内容は『悪魔の手毬唄』とは何の関係もないのでここで述べることはしないが、ちょっと面 白いと思ったのは、この『革の漏斗』の掲載された昭和7年4月号の「探偵小説」誌には、当時「探偵小説」誌編集長であった横溝正史による編集後期も載っているのだが、この号のひとつの特集に女性犯罪をあらゆる角度から眺めてみるという企画がある。後記より引用すると、<『ひでえ、女、オンパレード』『犯罪の裏面 に女あり?』『女性犯罪者列傅』 等々々、近來の好讀物であることゝ信じる>とあったりする。なんとなく、成る程ね…と思わせさせるような気がするのだが…。


 なんでも満映たらちゅう映画会社にいた男 (P179より)

 満州映画協会の略。満映に関しては多くの書籍も出ているし、あの当時を舞台にした小説などにも甘粕正彦、石原莞爾、李香蘭=山口淑子などといった名前とともに、よくお目にかかる名前である。
 もともとが、映画界といった世界からして胡散臭いところなのに、その上『軍』などという更に臭いが強いものが加わってくるのであるから、
もうこれっきゃないってくらいにいかがわしさがプンプン臭ってきそうである。関東軍のとってきた暗躍だとか侵略といった暗い行動と『映画』という一見華やかなそうなものとの取り合わせが微妙なコントラストで交わっているのが興味を駆りたてられるところなのなのだろう。


 平やんとこの竹藪のすぐねき (P190より)

 『ねき』というのが「そば」の意味であるというのは、注釈があるのでわかっているのだが、これを実際に口語として話す時、イントネーションがよくわからない。映画やテレビなどの横溝/金田一モノで、原作に沿った形で岡山弁で役者さんたちが話しているものもあるが、あれはあれで正しいのであろうか?仮に正しいとしても、この「ねき」だけは耳にしたことがないような気がする。
 ま、そんなことはともあれ、それよりも気にかかって仕方ないのは、実は『平やん』の方なのである。
 …一体、この『平やん』とは何なのであろうか?普通に解釈すれば、「平さんのお宅のところにある竹藪のすぐそば」ということになって、つまりは平やんというのは人のことなのだろうと推測できるが、この台詞以前もこの台詞以降にも『平やん』と呼ばれる人物はこの物語りの中に登場していない。登場していなくても、別に困ることはないであろうと、『平やん』を一人の名前と解釈している向きもあるようだが、果たして横溝正史がそんなことするだろうか?いや、横溝正史でなくとも、人に場所を説明する時、相手が知る由もない人物を突然引き合いに出して、「××さんの家の側だよ…」などと不親切なことを普通はしないのではないだろうか。だとすると、この『平やん』とは?…あるいは、この物語りには『平』の文字のつく名前をもっている登場人物は何人か出て来ているので、それらのウチの誰かか?…とも考えられないこともないが、仁礼嘉平、直平は里子よりも年輩なので『やん』付けで呼ぶようなことはあるまい。それでは、勝平なら、歳も近いし…と思ったが、勝平は村の青年団の中では「勝っちゃん」なのである。同年代の集まりの中で「勝っちゃん」と皆が呼んでいる人物を里子だけが『平やん』と呼んでいるのか?と考えると不自然である。
 だとすると、やはり『平やん』と呼ばれる別の人物がいるのであろうか…?
 それとも、無茶苦茶な解釈かもしれないが、『平やん』とは人の名前ではなく、実は岡山弁であって、注釈がないだけ…という考え方は無理がありすぎるだろうか?…と、岡山弁を完全に理解でるわけでもない人間にとってはこんな無茶もまかりとおってしまうのである。
 しかし、ホントにこの『平やん』だけは何度読み返しても引っ掛かってしかたないのだ。
 一体他の人はこの部分をどう解釈しているのだろうか?
 誰か「『平やん』なんて岡山弁は無い」ということが言明出来るだけでも構いませんので教えて下さい!!
【補填(2002.7.27) 『平やん』という言葉が直接意味をもつ岡山弁はやはり無いらしい。

 戦後スタンバーグ監督が日本へきて、アナタハン島を舞台にして、(P211より)

 『モロッコ』の話しの続きからでてきたこの一節、『モロッコ』ならもちろん観たこともあるし、スタンバーグとデートリッヒの名コンビの映画なら他に『嘆きの天使(1930)』『間諜X27(1931)』『ブロンド・ヴィナス(1932)』『上海特急(1932)』『恋のページェント(1934)』『西班牙(スペイン)狂想曲(1935)』と全部で7本も作られていたことくらいなら知っていたが、この「日本へきて〜」といった部分に関しては思い当たるものがなかった。調べてみると、1953年に大和プロというところの製作で、東宝が配給した日米合作映画『アナタハン』という映画をスタンバーグは監督しており、この作品がスタンバーグの遺作でもあるようである。
 ところで、この『アナタハン』であるが、実際に第二次大戦後にあった実話を元にした映画らしいのだが、この実話というのが凄い話である。
 終戦を信じず、マリアナ諸島アナタハン島に取り残された32人の男が、たった一人だけの女をめぐって男たちが殺しあったという事件だったらしいのである。昭和26年にこの丸7年におよぶアナタハン島での生活を終えるまでに生存者は20名になっていたらしい。後にこの女が日本に帰国して来て、『アナタハンの女王』として戦後の日本で大ブームになり、帰国後ブロマイドが飛ぶように売れるわ、銀座や浅草の舞台に出るわ、本人が主演しての(!)の映画『アナタハンの真相はこれだ(新大都映画 製作/昭和28年4月)』などという映画まで作られるわの大騒ぎだったらしい。
 そんななかでのスタンバーグ招聘での日米合作映画であったらしいが、こちらは、先に作られた『アナタハンの真相はこれだ』の方がエログロキワ物映画だった為、その影響もあってか、
日本ではさっぱりあたらなかったようである。しかし、第14回のヴェネチア映画祭に日本語の台詞を度外視してナレーションに置き換えたものを出品したら、やはりいかな戦時中のこととはいえ、出色な出来事をモデルにした映画であるということからか、そこそこ評判はよかったらしい。
 ちなみに、スタンバーグは昭和27年8月5日に来日していたらしく、映画『アナタハン』は翌28年6月に公開された。
 こちらの主演は根岸明美。若かかりし頃の中山(キリヤマ隊長)昭二も出演していて、音楽は伊福部昭。


 里見義郎はん (P214より)

 実在の活弁士さんらしい。…が、どれくらい人気があった人かまではよくわからない。
 ただ、日本コロムビア株式会社から発売されている『懐かしの活弁集―流行歌・映画説明集』という5枚組CDの中に『椿姫(弁士・里見義郎)』といった文字を見ることができる。当時何十(何百)といた活弁士のなかで、こうして原盤が残されていてCD化されるといっただけでも、その人気振りを推し量 るべきなのだろうか…さすがにこれを確認するためだけに10,000円はだせないよなぁ…。
【補填(2003.7.11) 岩波書店発行の「同時代ライブラリー 21 活辯時代」御園京平 著 には活動弁士のことが詳しく書かれており、その中に里見義郎による「椿姫」の中の弁説と思われる文章が数ページにわたって掲載されている。また、資料によると、大正15年度の大阪千日前-道頓堀の松竹座(洋画封切館)に里見義郎の名前を見ることができる。さらに、驚かされたのが、この里見義郎の名前の横に、『南座(マキノ封切) 青柳鉄郎』という名前を発見!!青柳鉄郎!!さすがに、史郎ではないものの、この人は!?…もうこうなったら里見義郎よりもこちらの方が気になってしかたないのだが、さすがに大阪関西圏を活動の場としていた弁士さんだったようで、なかなか有力な資料の発見には至っていない。果 たして続報は届けられるのであろうか。もし、なにか御存じの方、是非御一報下さい。


 ちょっと横山大観に似ている。 (P228より)
 本多医院の大先生をはじめて紹介されたときの金田一耕助の印象。
 横山大観の名前くらいなら知っているが、その容貌がどうであったかと言われてもなかなか思い出せない。 右画像は晩年の大観のもの。
 (朝日新聞社 刊「アサヒグラフ 別冊 1986 冬 美術特集 横山大観」より引用) 
 念の為、横山大観とは…。
 1868(明治元年)水戸市生まれの日本画家。現代絵画界の先達にして先駆。ある紹介文では「横山大観なくして現代日本絵画は有り得ない」とまで言わしめるほどのお方。
 「無我(1897)」 「屈原(1898)」といったところは私でさえ見たことがあるほどの代表作であるが、もちろんその他にも数多くの名画をのこしている。昭和12年第1回文化勲章を受賞。
 と、いうくらいの凄い方なのだ…ということはくらいはわかっていたつもりだが、それにしても、果たして人の顔を評して「誰々に似ている」という例えをするのに、大観の名前がでてくるというほど、昭和20年代終りから30年代にかけては、ポピュラーだったのだろうか?
 年表でみると昭和33年に亡くなられていているので、その晩年と年代的には合致するが、やはりそのあたりのことでマスコミでも騒がれていたりしていたのだろうか?
 財団法人 横山大観記念館 HP

 京マチ子に似た顔をさえざえしている。 (P251より)

 大空ゆかりこと別所千恵子のことをこう書いてある。
 京マチ子という女優さんも現在ではたいそう芸歴の長い方となってしまっており、横溝正史ファンの方々の中には、京マチ子といったら1977(昭和52)年にTBS系で放送された『横溝正史シリーズ』の『犬神家の一族』で犬神松子役を演じた女優さんという印象を強くもっておられる方もいることでしょう。
  しかしながら、ここでは、昭和32年に書かれた文章ということを忘れるわけにはいかないので、その頃の京マチ子とはどうであったか…というところを確認してみたい。右画像は、折しも『悪魔の手毬唄』が掲載されている『宝石』の昭和32年10月号にやはり掲載されている大映映画 『穴』(市川崑監督作品)という作品のポスター風広告より引用したものであり、ここで主演しているのが京マチ子である。
  1924(大正13)年生まれということなので、この年32、3歳といったところでしょうか。ま、あくまでも容貌のことだけなので、歳は関係ないっちゃ関係ないんですが…。
 ついでにちょっと時代を遡ってみると、1956年「赤線地帯(溝口健二監督作品)」、1953年「雨月物語(溝口健二監督作品)ヴェネチア映画祭監督賞受賞」、「地獄門(衣笠貞之助監督作品)カンヌ映画祭グランプリ受賞」、1953年「羅生門(黒沢明監督作品)ヴェネチア映画祭グランプリ受賞」、1956年「赤線地帯(溝口健二監督作品)」などなどなど…。まさしく国際的大作、名作などに引っ張りだこの大女優さん、いや、トップ女優であったのだ!単純に『グラマーガール』というだけの女優さんなどでは決してなかったのだ。
 大映映画は角川大映となりましたが、Aiiというコンテンツ配信のサイトにはこんな頁もあったりします。


 シャンソンの「枯葉」のようである。 (P258より)

 …なんで、シャンソンの「枯葉』を唄ったんだろう?否、横溝正史はこの唄を大空ゆかりに唄わせたのだろう?
 他にも唄はいくらでもある。…それなのに、この選曲である。
 「枯葉」といったらシャンソンの名曲としてスタンダードを集めたアルバムになら必ず入っているといっても過言ではないであろう曲で、そのもの哀しいメロディは誰でもが知っている恋人たちの別れを唄った曲である。確かに「別れ」って言ったら「別れ」の唄だが、お通夜の席で唄うに相応しい曲なのかな…と思うと首を傾げたくなる。…もっとも、お通夜に相応しい唄なんてあるのかと問われると答えに困るが…。
 「枯葉」はジョゼフ・コスマが作った既成曲に、詩人ジャック・プレベールが歌詞をつけたものなのだそうだ。イヴ・モンタンが映画『夜の門』でこの唄を唄い、ヒットさせたのが1946年。日本で誰がこの曲を唄ってヒットさせたのかまでは調べきれなかったが、当時であればやはり越路吹雪あたりになるのであろうか?
 昭和20年代後半から30年頃にかけては越路吹雪も
そうだが、江利チエミや雪村いづみなどがJAZZやワルツ、マンボ、ポップスといった海外の曲を唄ってヒットさせていた時代でもある。
 大空ゆかりは他にも盆踊りの会場で唄を披露しているようだが、そちらでは何を唄ったかまで記述されてはいない。なぜ、「枯葉」だけがクローズアップされたのだろうか?


 マユ玉 (P289より)

 マユ玉というものも、現在の都会に住むサラリーマン家庭などではおよそ見ることのできないものであろう。元々は養蚕農家で豊作(っていうのかな?)を祈願するためのもので、木の枝に繭を刺して祀ってあったのだが、それに色々と飾り物がついたり、繭の変わりに餅になって、その餅を焼いて食べて無病息災を祈る…とかいう縁起担ぎの品になっているらしい。実際に現物は見たこと無いのである。そういったモノが事件の重要なキーになっているのだから、やがて、この『悪魔の手毬唄』が古典となってしまう時代には、きっと詳しい注釈がつくことになってしまうのかもしれない。

 きれいな毛糸でかがった手毬である。 (P312より)

 『手毬』ももう一般的な遊具としてよりは、民芸品としての置き物的な存在になりつつある。もちろん玩具屋などには売っていないし、いろいろと聞いて廻ってみても都会ではどこで売っているのかすらハッキリしない。…浅草の外国人観光客向け土産物店でぶら下げる飾りみたいな小型の手毬を見つけたが、これだと満足できなかったので、長野県は松本まで行って、『松本てまり』を実際に見て来た。こちらも一般遊具というよりは、伝統工芸品としてのお土産になってしまっている感があるが、少なくともぶら下げて飾っておくための紐がついていないだけ“毬”らしい。
 こういった『手毬』も松本の他、青森県八戸の『八戸くけまり』や、栃木県『野州てまり』、あるいは『越後てまり』『加賀てまり』『讃岐かがり手毬』等々といった各地で民芸品として受け継がれているものもあるが、遊具としてすたれてきたのは、よく跳ねるゴムボールの普及かららしい。
 民芸品としての『手毬』も直径10cmくらいのものから30cmくらいの大きさのものまで様々であるが、果たしてこの小説に出て来た手毬はどれくらいのサイズのものであるのだろうか。…多くの横溝ファンは映画やテレビドラマのイメージから20cmくらいの大きさのものを想像しているのではなかろうか。しかし、もう一度原作をよく読み直してみて欲しい。五百子刀自は袂からこの手毬をさぐり出しているのである。20cmもあるものを袂にはなかなか入れておけまい。と、すると10cmからせいぜい15cm程度のものではなかろうか…と思われるのである。昔は手毬事体があまり跳ねないものであったので、このくらいの小さな手毬を座ってついて遊んでいたりしていたらしく、ゴムマリを立ったままついて足のしたを潜らせたりして遊ぶのは所謂糸でかがった手毬ではあまりポピュラーな遊び方ではなかったらしい。ドラマや映画の絵的な都合良さ『見栄え』を優先させたイメージばかりを“事実”であるかのように信じていると、案外見落としがちになる真実もあるのである。その点、『宝石』連載時の挿絵では、ちゃんと小さな手毬になっていたのは凄いことである。
 手毬に関しては、日本郷土玩具博物館のHPに、1997年度企画展の紹介として学芸員の方の判り易い研究レポートを見る事ができる。

 西条山は霧深し、 (P320より)

 西条山は霧ふかし
 筑摩の川は波あらし
 はるかに聞こゆる物音は
 逆まく水かつわものか
 のぼる朝日に旗の手の
 きらめく暇にくるくるくる
 
 
車がかりの陣ぞなえ
 めぐる合図の鬨の声
 あわせる甲斐も嵐ふく
 敵を木の葉とかきみだす
 川中島のたたかいは
 かたるも聞くもましや

 作詞/旗野十一郎 作曲/小山作之助 という明治前期の唱歌で『川中島』という唄らしい。

 ちなみに私は手毬唄といわれると『てんてんてんまりてんてまり…』か『あんた方何処さ 肥後さ 肥後どこさ…』を思い出します。  
 香川県のわらべ唄には『うゥちのうゥらの黒猫が お白粉つけて 紅つけて ひィとに見られて チョイと隠す
』というのがあるらしい。
【補填(2003.11.16) 柳原書店 刊『日本のわらべ唄全集』によると、「うちの裏の〜」或いは「うちの裏のちしゃの木に〜」と唄い出し、雀たちが語る手毬歌は、もともと伊達騒動を脚色した歌舞伎「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の御殿の場で、乳母の政岡が幼君鶴喜代のために飯を炊く間、息子の千松が唄う「雀の歌」から出て、歌舞伎狂言の広がりとともに全国各地に手毬歌として伝播しているらしい。前出の『日本のわらべ唄全集』を各県別 で見ても、岡山、兵庫、愛知、富山 、鳥取、長野・岐阜といった地方でのわらべ唄に同様の歌が見受けられる。
…しかし、やはり、「神奈川のわらべ歌」には見ることはできず、私にはピンとこなかったのは仕方のないことだったのかもしれない…と、自己弁護をひとこと付け加えておく。
【補填(2004.10.25) 上補填にて「伽羅先代萩」の御殿の場について記載したが、どうやら「悪魔の手毬唄」執筆当時の横溝正史は、この歌舞伎のことは知っていたが、この唄に関しては全く忘れていたようである。もし覚えていたならば、作中になんとかうまくウンチクの程を披露したかったものであると西田政治に手紙で語っている。


 『家の光』いう雑誌ご存じですじゃろう、 (P328より)


画像は昭和25年新年号のもの

 全くモノを知らないでいるというのは、恐ろしいもので、この『家の光』という雑誌のことも全然理解していないまま、「よくわかんないけど、今でいうところの『生活の〜』とか『家庭の〜』などと言った家庭雑誌みたいなものなのかな…」くらいの認識で、実在する雑誌のことなのか、それとも横溝正史の創作としてだけの雑誌名なのかも気にしないまま読み飛ばしていたが、改めて気になって調べてしてみて驚いた。
  『家の光』という雑誌は、大正14年にJA(農業協同組合)の前身である産業組合によって創刊され、現在も、家庭雑誌として当時と形こそ変わっているとはいえ、しっかりと発行されて続けており、昭和30年頃は娯楽・教養誌として大発行部数を誇っていたようである。
  なるほど、枡屋の御隠居がいかにも引き合いに出しそうな雑誌であり、『ご存じですじゃろう』と知っていても当然とばかりのお言葉もごもっともだったのですね。
 また現在の発行元である、社団法人 家の光協会はHPもあり、そちらで『家の光』創刊からのあゆみなども見る事ができます。
 ついでに、名古屋にある古本屋、だるま書店さんのHPには、戦前から昭和30年ころまでの『家の光』の販売在庫リストなどもあり、こちらで当時の執筆者などの名前も見ることができます。
 そして、これは果たして同じ雑誌のことなのか、それとも同名の別雑誌なのかまでは未確認ですが、かの横溝正史も一度(?)『悪魔の手毬唄』以前に、この『家の光』に作品を掲載したことがあるみたいですね。 さて、この作品名は…。興味のある方は調べてみてください。




 ここに並べた語句に限らず、作中の言葉で意味のわかっていないものをそのまま読み流してしまったとしても、『悪魔の手毬唄』の面白さ、横溝正史の他の作品の素晴らしさが変わることはないでしょう。
 全てをいちいち辞書をひきながら読むのも、場合によっては興醒めになってしまうかもしれません。
 いずれにせよ、ただ何となく読み流してしまうだけよりも、言葉の意味を知ったうえで改めて読んでみるのも、また、ひと味面白さが増すのではないのではなかろうか…という子供じみた発想をちょっと捻ってみた、個人的な試みをちょっとご案内してみたにすぎません。
ご意見・ご感想などありましたら、こちらまでメールにてよろしくお願いいたします。



▼▼▼▼▼ こちらのHPなどで試みられていることも、横溝作品の面白さを掻き立てる方法論として面白いです。▼▼▼▼▼

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