(三)

 山梨県に向かう車の中で、果たして『悪魔の手毬唄』にこだわっていたのは、由里子だったのだろうか?それとも自分だったのではないのだろうか…という妙な思いにかられていた。この一週間、ただそうすることが自分にとって必要なことのような思いで『悪魔の手毬唄』を読み返し続けていたが、由里子から時折来るメールはこれまでと変わり無いもので『悪魔の手毬唄』の『あ』の字すらなかったというのに、自分のおかしな思い込みだけで由里子という女に不要なフィルターを掛けて見るようなことをしていなかったか…。気にかかるのなら、なぜメールの返信の中で直接由里子にそのことを尋ねてみようとしなかったのか。事実、由里子に『悪魔の手毬唄』を読み返していることさえ気恥ずかしさから伝えていなかったのだ。およそ自分らしくないことをしているな…という思いにかられて、石和に着いた時には、『悪魔の手毬唄』に触れることはやめようと思っていた。
 店に入るといつもと変わらぬ顔が出迎えてくれた。
「おぉ、また“横浜”がユリに会いにわざわざ来よった」
 常連客のなかでも他愛のないバカ話しなどを交わしあうようになった人たちからは“横浜”から来る由里子に会いにわざわざ来る変わり者で通るようになってきたこともあって、私も面白半分に「はいはい、どうせ酔狂に生きてますんでね…」と答えるようにしている。なまじ露骨に自分の本音をさらけだしてみたところで、所詮こういった地元密着型の店ではいくら顔馴染みになろうとも他所者として受け入れられるか否かだけであって、仲間にはなりきれないのは仕方のないことだとわかっていたし、それでなくとも由里子のような女はこういった店では男たちの関心の的でもあったので、不用意な態度は諍いの元になりかねない。一度など大人しく黙って呑んでいただけにも関わらず、誰か他の客から「由里子目当てに横浜から来ている男がいる」と耳打ちされたらしい酒に酔った男に「何調子こいてるんだ」といきなりからまれ、間に入って男を押しとどめてくれたママや他の客の人たちがいなかったら喧嘩沙汰になっていたかもしれなかったということもあった。その時もからんできた男が帰っていった後でママや止めに入ってくれた客から「気を悪くするな」となだめられ、『他所者』としての自分を強く思い知らされた。
 由里子目当ての客は私に限ったことではなく多くいたし、中には携帯のメールアドレスをしつこく由里子から聞き出し、毎日のようにメールをおくってくるといった男もいるらしいが、由里子はそういった客との店以外での付き合いは一切することなく、偶然町で顔をあわせてお茶を誘われても「またお店でね」と断り続けているらしい。これはアルバイトとはいえ水商売をしている女としては潔癖すぎるのではないかと思われたが、それでいて店での由里子は際どい下ネタなども平気で口にし、開けっ広げに客の冗談にも対応して笑い転げたりしていておよそ潔癖とは懸け離れた媚態すら時折見せたりもしていた。店は店、それ以外は別とキッパリ割り切っているのかもしれないが、都会でならともかく、石和のそれも地元の客がメインの店で働いていて、狭い地域のなかで誰でも顔をあわすことがあるようなところでこういった態度でいる由里子の態度は異色と言えるかもしれない。
 まるで女優が役を演じているような雰囲気に似ていなくもないなとすら思わせる感じでもあったが、由里子に芝居経験があるとか女優やタレントといったものに憧れていたことがあるという話しを聞いたこともなかった。
 そんな由里子であったから、最初はどこか別の出身で、水商売でこの石和に流れてきていたのかとすら思っていたくらいだったので、生まれも育ちも山梨で、前にも書いたが平日の昼間は役場で働いて、スナックでの仕事はママに頼まれてのアルバイトであると聞いた時には驚いたものであった。
「はぁ〜ぃ、『あっちゃん』。いらっしゃ〜い」
 と子供のように由里子は手を振って店の奥から迎え入れてくれた。店では必ず私を『あっちゃん』と呼ぶようになってしまったが、それ以外…二人で食事をしたり、メールなどでは絶対に『木村さん』以外の呼び方をしないという頑なまでのこだわり方もまた由里子らしいということなのだろうと楽しんでいた。
 由里子はその後も入れ代わり立ち代わりやってくる常連客たちの応対をしながら、折に触れカウンターに置かれた私の前のグラスの減り方に気を配っては薄い水割りを作ったりと忙しく立ち回っていた。由里子という女をしばらく見続けてきた甲斐もあって、ある程度は予想できていたこととはいえ、これまでと全く変わらない素振りでいる由里子は、私でさえ先週のことがはたして本当のことであったのかと思ってしまう程堂に入ったものであり、私を驚かせると同時に楽しませてくれた。別にメールなどで『店では他の客のこともあるし、あまりベタベタし過ぎないように…』などと打ち合わせなどをしたわけでもなく、私としてもこの店の中でまで由里子を自分の女だという扱いをする気はなかったし、そうするべきでもないと思っていたので、そういった由里子の態度はありがたかったし、そういう由里子らしさを自分でもわかるようになっていたことに嬉しくも感じていた。それでいてカウンターに座っている私の後ろを客の帰ったテーブルを片付ける為に通る時など、さり気なく私の肩に手を置いてみせるなどの気配りまでみせるあたり、この女に逢いに来るためだけの片道150kmなど大した距離じゃないな…などと考えて一人でほくそ笑んでいた。
 深夜もだいぶ過ぎ、閉店間際となると、この日は珍しくほとんどの客がいなくなり、私ともう一人だけとなっていた。もう一人の客がママの古くからの馴染みであったこともあって、自然由里子は私の横のストゥ−ルに腰を降ろした。
「あぁ〜、もう今日はなんだか疲れちゃった…」
 と甘えるように私の肩に頭をもられかけてこられると、それまでは、今日はこのまますんなりと帰ろうかとも考えていたが、やはり由里子と一緒にいたいという誘惑に勝てなくなり、
「今日も急いで帰らないといけないわけじゃないんだけど…」
 と由里子にだけ聞こえるように耳元に囁きかけてみた。すると、パッと肩から頭を持ち上げると耳たぶまで真っ赤になりながら、「バカ」と一言恥ずかしそうに言うとカウンターの奥に入って洗いものを始めてしまった。さっきまでベテランのホステス並みに振舞っていたかと思うと突然この豹変ぶりなのだから、由里子の反応の仕方だけはまったく予測しきれないことが多くて面喰らわされてしまうことが多い。
 あまりにも反応が惚けたままのものだったので、今夜は由里子と過すことは叶わないかなと思っていると、店を出際に「先に帰ってるから少ししてから来て」とママの目を盗むように耳打ちし返してきた。
 私はもちろん店を出てから車を無難なところに駐車し、なんとかタクシーをつかまえて由里子の部屋へ向かった。不思議と一度通った場所を憶えているのは得意だったので、タクシーの運転手に由里子の部屋の前まで説明してもよかったのだが、狭い地域のなかのことなので、由里子とタクシーの運転手が知り合いかもしれないかと考えると、部屋の前まで乗り付けるのを躊躇して500メートル程手前で車を降りて歩くことにした。歩きながら気の回し過ぎとも思えて苦笑してしまったが、店の常連客に何人か仕事あがりのタクシードライバーがいることを考えると不用意なことはできない。
 由里子の部屋のドアを控え目にノックすると、まだ店でのスーツ姿のままの由里子は静かに招き入れてくれた。
「遅かったのね…」
 と私の胸の中に顔を埋めながら言うのでタクシーのことを話して聞かせると、由里子は私の顔を見上げながら
「…ホント、木村さんて、変わってるよね…。別に横浜ナンバーの車がウチの前に停まってたって良かったのに…。普通ならこれ見よがしに車横付けしたりするじゃない。男って。…でも木村さんはいろいろ気を使ってくれるんだよね…。」
 と妙な感心のされかたをしてしまった。これが誉め言葉なのか、そうでないものなのか判断しにくかったが、そんなことを問いただしても意味があるようにも思えず、なによりも腕の中にいる由里子の存在がそれ以上の言葉を必要としていないことを告げていたので、変わっていると言われようがそうでなかろうが関係ないとばかりに、あとは男の本能のままに従うことにした。


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