(一)

 この風変わりな物語をお話するにあたって、私はどのように記述していったらよいのか、尠からず迷わざるを得ない。話し自体が、人にはおよそ荒唐無稽としか聞こえないようなものであることもそうだが、私自身が、何をどうしていいものか判断しきれないような退っ引きならない状態にはまり込んでしまっているからでもある。
 更に言えば、こういう文章の記述などといったことに不馴れな私には、プロの作家のようにキチンと順序立てて記述するといった技術なども持ち合わせていないので、思うままに書き連ねていくしかないのだが、果たしてそれで私の陥っている困惑をキチンと伝えることができるか、否、それ以前に、話し自体を理解してもらえるものかすら不安を覚えてしまう。
 あぁ、それでも私はこの話しを記述しなければならないのだ。
 記述し、これから書き連ねていく話しを私の胸の中にだけ収めておくことから開放することだけが、今の困惑状態から抜け出せる一縷の光明なのだ。

 私が始めて結城由里子と一夜を彼女の部屋で共にした後、自分の耳を疑いたくなるような告白を聞いたのは、由里子と知り合って三ヶ月が過ぎようかという頃だった。
 薄らと白み始めた窓外からカーテン越しに差し込むわずかばかりの明るさが、おそらくは彼女が学生時代から使っていたものであろう勉強机の上に置かれた一冊の本を照らしているのに気付き、一見してその本がかなり年代を経た古いものらしいことに興味を惹かれ、私はベットをそっと抜け出した。
 単行本サイズの本は、百貨店の包装紙がカバー変わりにされていて、そういったこともまた最近ではあまり見かけることもなかっただけに興味を惹かれたこともあったが、なによりもその包装紙が茶色く変色し、ボロボロになりかかっていることが、この綺麗に整理され掃除も行き届いている部屋の主の持ち物としては不釣り合いなような気がしたのだ。
 本を手にし、パラパラと捲って見ると、『金田一耕助』『磯川警部』といった文字が目に飛び込んできて、驚いて扉をみると、それは横溝正史の『悪魔の手毬唄』だった。
 私が学生時代に読み、知っていた横溝正史の小説といえば、文庫本で出版されていた一連のシリーズだけしか知らなかっただけに、こういった古い単行本があったということにも驚いたが、よりによってその古い単行本…それも『悪魔の手毬唄』のような作品が、由里子のような女の部屋の机の上に何気に置いてあるということも不思議でならなかった。
 奥付を見ると昭和三十四年とあり、私が生まれる以前に出版されていた本だということにも驚かされた。
 例えば古本収集マニアであるとか、特別読書家であり、部屋中本棚があって本に埋もれて生活しているというような人であったり、そういう本と関係した仕事でもしているのであれば、あるいはこのような本が机の上に乗っていてもおかしくはないのかもしれない。しかし、本棚らしきものは部屋の中にひとつも無く、本といえばこの一冊だけだと言っていいくらいであり、ましてや私が知る限りにおいては、由里子の仕事はこのような本とは何の関係も無いはずである。訝し気な気持ちでありながらも、横溝正史の小説との久し振りの再会に懐かしさをも感じながら頁をめくっていると、
「珍しい本でしょ…」
 と、ベットの中から由里子の声がし、悪戯をしているところを見つかった子供のようなバツの悪さを感じながら『悪魔の手毬唄』を手にしたままベットに戻って由里子のすぐ横に腰を下ろした。
「父の形見みたいなモンなの…それ」
 由里子は横になったまま穏やかな微笑みを浮かべて私の好奇心に満ちた視線に答えた。
「お父さん、亡くなられてたんだ…」
「もう三十年以上も前にね。…あたしが三歳になる少し前だったから、あまり父の事は憶えてないんだ…」
「そっか。…ごめん」
「いいの。…でも変でしょ。普通、形見っていったらもう少しそれっぽい物あるじゃない。時計だとか、身に付けていた物とかで。…でも、父にしてみたら…。うぅん、あたしや母にとってもこの本は特別でね。だから、父が亡くなった後、母が大事にこの本を取っておいて、それをあたしが譲り受けたの」
「特別?…出版に携わってたとか?」
「……」
 由里子は私の質問に少しの間答えを躊躇したが、パッと上半身を起こしたかと思うと、さっとシーツで身体を被い隠し、枕を背もたれにしてベットの上に座り直すと逆に尋ねてきた。
「ねぇ。…その『悪魔の手毬唄』って、木村さん、読んだことある?」
「あるよ。…ちょうど学生の頃、ブームだったしね。俺もハマってた。だからさっきもパラパラ見て、『金田一耕助』とかあったの見て懐かしくなっちゃってさ、つい勝手に見させてもらっちゃった。…帰って押し入れ探したら、まだウチにもあるかもね…」
「そう…。…なら、こんな話ししてもわかってくれるかな…」
「何?こんな話しって?」
「木村さん、『悪魔の手毬唄』読んでどう思った?」
「どぉって…。…いかにも横溝正史っぽくって、面白かったよ。…金田一モノの中じゃ一番好きかもしれない…」
「そっか…」
「『そっか』って、こんな簡単な感想じゃ何かいけなかった?」
 由里子の不満気な表情に符に落ちないものを感じながら尋ねると、由里子は軽くかぶりを振り、私の手から『悪魔の手毬唄』を取りながら言った。
「うぅん…。そんなことないけど。…ねェ。この結末って、これでいいのかな?」
「結末?…たしか、磯川警部の手紙で、金田一耕助との別れ際『リカさんを愛してらしたんですね』とか言われて、あっと驚いた…とかいうんだったっけ?」
 何年、否、十何年も前に読んだきりのうろ覚えの記憶を頼りに答えると、由里子は嬉しそうに笑みを浮かべながら言った。
「凄い凄い。今まで『悪魔の手毬唄』って言ってちゃんとそれだけ言えたの木村さんが始めてだわ。…でも、それは、小説の終りのことでしょ。…あたしの言いたいのは事件解明の結末のことなんだけど…」
「事件解明?…犯人のこと?」
 そう答えながら、そういえば遠い昔、一連の横溝ブームから端を発して推理小説などが流行り、登場する探偵の推理にアンフェアだとか推理の仕方がおかしいとかいったクレームをつけたりすることもまた副産物としてもてはやされたりしていたことがあったようなことをボンヤリと思い出していた。由里子の言わんとしていることもまたそういったことなのかなと思ったが、正直なところ『悪魔の手毬唄』の細かな部分まで思い出せるとも思えなかったし、折角のこの朝の気分をそういったことで台無しにしたくなかったので、あまり深くこの話しを進めたいとは思わなかった。
「名探偵由里子の推理を聞いてみたい気もするけど、俺も帰らなきゃいけないし、こんな風に裸のままでベットの上で名探偵の推理とかって感じじゃないんじゃない?…それより、もう一度…」
 由里子の身体を抱きしめて唇を重ねると、由里子も応えるように求めてきたが、唇を離したほんの一瞬、
「そうだよね…」
 と洩らすように口から出た言葉と、あの遠いところを見るような眼差しが、胸の奥にひっかかった。


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