竹中英太郎の挿絵は時として、『挿絵』という本来の役割を超えて“昭和”初期の『エロ・グロ』『モボ・モガ』などといった言葉と併せて当時の風俗表現の代名詞的に使われることもままある。
 今でこそ、そうした昭和初期の風俗全般の資料を“歴史”として見ることができ、いくつもの資料などからもそういった雰囲気を感じることができなくもない。しかし、そういった資料は“歴史”を後年に回想として振り返っての表現であることが多く、漠然と「そういうものだった」と受け止めることは吝かではないものの、やはり同時代を生きた観点からの主観的な生々しさといった面では物足りなさを感じなくもない。
 ここでは、挿絵確認の中で、たまたまみつけたいくつかの資料から、竹中英太郎が挿絵画家として活躍していた“当時”に、竹中英太郎の挿絵がどのように語られていたのか、リアルタイムでの発言を引用し触れてみたいと思う。なお、ここ言う“当時”に関しては、竹中英太郎がプラトン社から刊行されていた『クラク』誌に挿絵を書き始めた昭和2年後半から『名作挿畫全集』に『陰獣』を掲載した昭和10年の末までを一応の期間としてある。

 別頁にも引用してるので重複になるが、まず、年代的に一番古い物として、竹中英太郎がその活躍の場を博文館に移し、挿絵画家として軌道に乗り始めた頃にあたる昭和4年に書かれた三上於菟吉による新聞掲載記事を取り上げておく。



挿畫家に就いて  三上於菟吉

(引用前略)
 絶えず挿畫に意を拂ふ僕は最近、竹中英太郎君を發見して嬉しいことに思つてゐる。氏の年齢閲歴、すべてこれを知らない(。) しかし氏が『新青年』『文藝倶楽部』等に發表される諸作のあるものは、實に魔美を、近代美を、途方もない想像力をあらはしてゐると信じる。
 氏のまげ物さしゑは得意とも見えないが、その筆觸に一種の魅惑がある。現代もののそれに於いては、鬼氣が宿つてゐるかと思はれる場合が多い。恐らくまだ前途の長い方だらうと考へるが、數倍の修業に於いて、たしかに赫々たる光彩を日本さしゑ界にあたへる事が出來ると思ふ(。)
 僕は、その中に良き條件の(さし畫畫家に取つて)刊行物に長篇小説の筆を取る時分には、まげて氏の御助力を願はうと決心してゐる。僕は關係者すじが今後の氏に注目し、そして氏の鬼才を十分に伸展せしめんことを希望するものだ。
昭和四年四月四日 讀賣新聞 文藝欄『讀書界出版界』より引用  (。) は引用者

 この後、博文館での仕事以外にも新聞連載小説や他社雑誌などにも活躍の場を拡げていくことになり、竹中英太郎の名前はさらに注目を引くことになっていく。
 この約一年後である昭和5年に大衆芸術社より刊行された『大衆芸術 美術と文藝』4月号に掲載された「挿繪畫家に就いて」という題名の座談会企画では、岩田専太郎を始め当時の代表的挿絵画家に関しての感想があれこれと語られており、その中の一部で竹中英太郎についても触れられている。



座談会 挿繪畫家に就いて  

(引用前略)
楳本 それから挿畫美術家で最も獨自の境地を開拓して居る竹中英太郎氏はどうですか、まだ非常に研究の道程にあると云ふ點が濃厚だけれども、僕は新しいと云ふだけでもいゝと思ふのだが…。
 あの新しさはグロスから來て居るな
田中 無論西洋雑誌の影響其の儘だね。併しなか々々うまいよ、探偵小説の口繪ぢやもつて來いだ
八尋 あの人はモダンなミステイリヤスだけが僕は宜いと思ふな。それはグロテスクも含んで居るけれども。其のほかのものを畫いちや僕は好かないね
楳本 僕は竹中英太郎氏のエロテシズムを買ふな。グロテスク過ぎると云へば過ぎるやうだけれども…なかなか魅付けるものがあるよ…。
 分らな過ぎる點もあるな
楳本 分る…分るよ…。
八尋 エロテイツクと云ふよりも妖怪味だと思ふな
(以下引用略)

大衆芸術社 『大衆芸術 美術と文藝』 昭和5年4月号より引用

 この座談会出席者は、引用文中にある発言者名から順に、楳本捨三、芝佳吉、田中文雄、八尋不二。この他に引用部にはないが、鈴木大麻、青山倭文二、八ッ井舜圭という名前が並んでいる。
 引用した竹中英太郎に関しての部分に関しては、比較的無難な言い回しで語られているが、他の挿絵画家に関しては「僕は嫌い」「非常に不愉快な感じがする」「あゝ云ふものは近いうちに葬られるでせう」などといったような言葉も随所にみられ、かなり歯に衣を着せぬ言いたい放題の座談会になっている。掲載誌が『大衆芸術 美術と文藝』という名前であっても、『大衆』よりも比較的『芸術』の方に重きをおいた『純畫壇』側に近い立場にある雑誌であることと、当時の挿絵画家たちと『純畫壇』との在り方のような物もおそらくは背景にあって、こういった座談会内容になったのだろうと思えなくもなく、そういった面でみるとなかなか興味深い座談会ではある。しかし、「あゝ云ふものは近いうちに葬られるでせう」と評されている高畠華宵と、その発言者である鈴木大麻という日本画家と、果たして現在の知名度という点においてどちらが…という部分だけを引き合いに出すまでもなく、相対的な見識というよりは個人的な嗜好での評価といっていいようなものが多く、語られている評価事体に関してはそれ程真剣に受け止めばならないかというと、ちょっと首を傾げたくなるような内容という感が否めないこともない。ともあれ、ここで語られている中で、一番興味深く受け止めたいのは、現代でこそ『レトロな昭和』的イメージでとらえられがちな竹中英太郎の挿絵が当時にあっては『新しい』モノであったという認識でもてはやされていたらしいということであろう。

 では、そういった『伝統』的なことに囚われがちな面も見受けられる美術界方面とは直接の関連もなく、『伝統』とは対極的とも言える、当時流行の『モダン』文化先端を走っており、竹中英太郎の活躍の舞台でもあった『新青年』においてはどうとらえられていたかとこともやはり気になるところである。
 しかし、残念ながら 『読物』がメインといった傾向の雑誌であるだけに、直接『挿絵』だけに焦点をあてた記述はあまり見ることはできない。
 わずかに、昭和5年11月号の巻末にある編集後記『戸崎町風土記』に見ることができる文章くらいだろうか。



戸崎町風土記  

(引用前略)
◇いつもこの欄で書かうと思つては機を失してゐるのだが、それは新青年の挿畫畫家のことだ。現在新青年と切つても切れぬ間柄にある畫家、つまり、新青年から生れた人々は、何よりも先づ松野一夫氏、それから竹中英太郎、内藤賛、坪内節太郎、尾崎三郎の諸君がある。松野氏については賛言の必要なし。竹中氏の内容的美しさ、内藤氏の美しい線、坪内氏のアイデアの面白さ、尾崎氏のノーブルなモダニズム、各々本誌にはなくてならぬ人々。それに加へて、山名文夫、武井武雄、初山滋、諸家。稀に岩田専太郎、田中比左良の二氏を煩はして、誌面は本誌獨特の光彩を放つ。文章と挿畫とのよきコムビネーションは雑誌の価値を何倍にもする。こゝで諸氏に厚く御禮をのべたい。
(以下引用略)

博文館 『新青年』 昭和5年11月号より引用

 文章は、J・Mこと、当時の『新青年』編集長である水谷準によるもの。
 竹中英太郎の挿絵を評して「内容的美しさ」というのも、さすが作家でもある水谷準というところであろうか。簡単に『エロ・グロ』と語られがちな竹中英太郎の挿絵ではあるが、そういった表現を用いる事無く、竹中英太郎の描く挿絵の内側に秘められた部分を捉えているのは、やはり単純に誌面を飾る挿絵だけを見て語っているのではなく、編集者と挿絵画家としての付き合いなども少なからず配慮されての表現なのだろうという風にも見えなくもない。

 昭和6年になると『書物展望』という雑誌に『最近挿繪界展望』と題された連載が六回に渡って掲載される。各回でそれぞれ当時を代表する挿絵画家の挿絵を引用しながら、批評をするという企画で、その第六回に竹中英太郎は取り上げられている。



最近挿繪界展望(六) 酒井潔
(引用前略)
 現代物では此の第二類型の挿繪畫家は、と云へば、誰しも竹中英太郎氏を想起する筈だ。英太郎氏が、ゲオログ・グロツスの味を巧みに自家藥籠中のものとして、今日特異の描法を樹立したのは、「新青年」誌上で、江戸川亂歩氏の『陰獣』に挿繪を描いた頃からだつたと思ふ。
 それ以前は、博文館の娯樂雑誌に、甚だ幼稚なものを描いて、少しも存在を認められて居なかつた。今其の當時の、髷物なんかに、竹中英太郎畫とあるのを一見したら、誰だつて、其の畫家が現在の英太郎と同一であるのかと、驚くに違ひない。
 前頁(引用者注…原文では“前頁”にレイアウトされていたが、ここでは右に示す)の圖は、昭和六年五月三日の「サンデー毎日」山崎海平作『南郷エロ探偵社長』の挿繪だが、斯うしたビアズレ式、細畫に英太郎流のグロ味を出し得た、上出來のサンプルである。
 どちらかと云へば、英太郎の繪は、薄墨をにじませた樣な陰惨なエロ・グロ物が特徴だが、此の繪の様に、朗らかな物も、仲々巧に描きこなせる點、敬服に値する。

画像3点共 (C)金子紫/湯村の杜 竹中英太郎記念館
 同氏の繪が持つ、第一の強味は、あのなグロ畫面に一杯に漲り渡る(引用者注…原文まま)、不思議なエロ味である。ことに女性の描冩に於て、其の感が深い。右の圖(引用者注…原文の紙面レイアウト上で右に配置されていたが、ここでは左に示す)は、「新青年」(昭和六年四月増大號)夢野久作『ココナットの實』の挿繪である。これなどは最も英太郎の味を出し得たもので、かなり鋭いエロ感がありながら、ケン閲には引つかゝらない用意がしてある。この點いつも同氏の作を見る度に感心する事だが、一寸他に眞似手のない、見事な藝當である。
 然し英太郎氏は、題材によつて、随分ムラが出來る樣だ。即ち亂歩氏とか、夢野氏とか云ふ作家のものは、實にピッタリと當てはまつた挿繪を描いて、常に成功して居る。所が、他の色々の雑誌に發表する繪になると、必しも上出來と許りは云はれない。それが證據に次の繪(引用者注…右下画像)を見給へ。
 これは「文藝春秋オール讀物號」昭和六年九月號の池崎忠孝作『新ポエニ役』の挿繪だから、先づ最近の作品と云へる。而も決して投げやりのものではなく、十分叮重に描かれて居る。
 然し其の出來榮に至つては、どこに英太郎の味があるか、見出すに苦しむ程で、何もこんな繪を英太郎が、骨折つて描く必要なんか、ちつともないのである、一體こんなものを英太郎に描かせる編輯者の頭がどうかして居る。
 矢張り英太郎は、英太郎獨自の境地へ、グングン進んで行つて貰ひ度い。あゝした調子の繪が、優れたユニックな本物である事は、多くの英太郎追従者の作が、一向物にならない所を見てもよく分る。 (引用後略)
書物展望社 『書物展望』 昭和7年1月号より引用


 竹中英太郎の挿絵に関しての記述のみ抜粋引用したので、幾つかの点について付記しておいた方がいいかもしれない。
まず、この著者である酒井潔に関してだが、これは、 別冊太陽『城市郎コレクション 発禁本 明治・大正・昭和・平成』(1999.7 平凡社 刊)に比較的わかりやすい解説が掲載されているので、こちらから引用すると、

 梅村北明の盟友、魔道研究のパイオニア、ひいてはその道を齧る澁澤龍彦に先鞭をつけた酒井潔(本名・精一)は、明治二十八年名古屋に生まれる。中学時代から絵心に長け、父隠居後家督相続した事業家の兄にけ医術肌の才幹を嘱望されて上京し、英仏語を学びながら美術学校を卒業。郊外にアトリエを構え、絵仕事の傍ら西欧好色文献に興味をそそられ蒐集探求に励む。大正十四年、それまで未開のジャンルであった魔術や、秘(媚)薬の考証に全力を傾け、画業を放擲する。
 その頃「文芸市場」同人らに近づき、特にボス的存在である積極的活動家の梅原北明と、書斎派学者肌の潔とは、両極端の性格的陰陽が合致し親交を深め、酒井は包蔵する才智を存分に発揮する機会に恵まれ、論攷・翻訳・装幀・挿絵に、マルチ・ディレッタント振りを開花。昭和四年北明と袂別後もエロとグロとの開拓に力を注ぎ、軟派文献史上名だたる著訳書をものにするが、北明同様時流に押し切られ、昭和十年、生まれ故郷に隠栖する。潔、四十一歳。

 とあり、なるほどそういう人の竹中英太郎感ということであれば、こういう風になるものなのかと納得できなくもない。
 冒頭にある「第二類型の挿繪畫家」という記述に関しては、この連載にあたり、当時の挿絵画家を“挿絵といえども厳密なる写実であれねばならず、挿絵画家は造形において写真術と同等の表現力をもたねばならない。すなわち間違いなく時代風俗の記録者であるべきである。” とした前提での『写実派』を第一類型、写実にとらわれすぎることなく画家としての感性を表現するタイプを『非写実的派』を第二類型と、おおよそ二つに大別して語っているためで、第一類型としては、林唯一を筆頭に、岩田專太郎、松野一夫、内藤賛といった名前が並び、「第二類型の挿繪畫家」としては竹中英太郎の他坪内節太郎などについて触れている。また、なによりもこの連載で面白いのは、竹中英太郎の挿絵について語っている回だけのみならず、他の岩田専太郎や内藤賛などといった竹中英太郎と引けをとらない人気挿絵画家の挿絵を評する時にも竹中英太郎の挿絵を引き合いに出して語られていることなどもあることである。
 例えば、江戸川乱歩「吸血鬼」に岩田専太郎が描いた挿絵をとって曰く、  

 あの連載挿繪は、洋畫式の自由な表現をしたり、映畫のアングルを利用した手法を試みたりして、英太郎氏等のやり方とは、又違ふ描冩で、相當原作のグロ味を生す事に成功して居た。  
 近頃「新青年」なんかに、英太郎そつくりの作を發表して居られる様だが、あれは全然なつてない。英太郎の畫境は全くユニツクな物で、外形だけ眞似たつて、あの本當の變てこな味は出るものでない。專太郎ともあるものが英太郎の眞似をするなんて法はない。以後斷然止めてほしい。これは他の英太郎追従者達にも呈する苦言である。

 また、甲賀三郎「焦げた聖書」における内藤賛の挿絵には、  

 これも前期した『焦げた聖書』の挿畫の一枚であるが、一見すると、まるで竹中英太郎の繪である。尤もよく見れば、眞中の人物の顔なんかは(引用者注…挿絵の中央に人物の顔が描かれた挿絵が掲載されているが、ここでは画像の引用は省略する)、竹中氏のより確實に描けて居て、内藤氏のデツサンを觀取し得るが、文字の書き方なんかは、如何にも英太郎氏の眞似であり過ぎる。英太郎式の挿繪は、英太郎氏一人で結構だ。俊才内藤氏が、何んの為に竹中氏を眞似る必要がある?否絶對に眞似てはいけないのだ。

 酒井潔が竹中英太郎の挿絵をいかに高く評価していたがよくわかるが、「ゲオログ・グロツスの味を巧みに自家藥籠中のものとして」とあるような評価にしてもそうだが、少々贔屓目過ぎるような気もしなくもない。他の挿絵画家達に「竹中英太郎の真似はよくない」と言ったところで、その竹中英太郎自身からして元々は人の真似を取り入れて自らの画風を作り上げていったのだということも無視することはできない。
 因に、『ゲオログ・グロツス』 とあるのは、新即物主義とかダダイズムの画家といわれるゲオルグ(ジョージ)・グロッス George Grosz(1893-1959)のことと思われるが、果たして竹中英太郎にそうした画家の影響があったかどうかも疑問に思わなくも無い。

 酒井潔は、翌昭和8年にも『書物展望』誌において、『現代一流雑誌挿繪論』という連載をするが、こちらでは、当の竹中英太郎の挿絵が雑誌誌面を飾ることが少なくなっていたこともあり、具体的にほとんど取り上げることなく期待を表明するに留めている。

 若干時間的推移こそあるものの、いみじくも、小説家、一部画壇、編集者、研究者といったそれぞれ挿絵画家とは違った立場にある人物からの声を並べることになった。できることならばここで同業者である当時の挿絵画家からの生の声も並べてひとまずの締めとしたいところではあるが、残念ながら、そうした記述を目にすることはできていない。『オール讀物』昭和6年9月号(刊)に掲載された『人気花形大衆作家と挿繪畫家の座談會』などは当時の挿絵画家達の生の声を聞くことのできる大変面白い企画であるが、残念ながらここに竹中英太郎は出席しておらず、欠席者である竹中英太郎の話題もここでは触れられていない。

 こうした当時の竹中英太郎挿絵に関しての批評などに関しては、あまり検証されているとは言えず、これからの調査いかんによっては、また色々と面白い逸話なども発見されるかもしれない。


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