竹中英太郎の挿絵に関しての記述のみ抜粋引用したので、幾つかの点について付記しておいた方がいいかもしれない。
まず、この著者である酒井潔に関してだが、これは、 別冊太陽『城市郎コレクション 発禁本 明治・大正・昭和・平成』(1999.7
平凡社 刊)に比較的わかりやすい解説が掲載されているので、こちらから引用すると、
梅村北明の盟友、魔道研究のパイオニア、ひいてはその道を齧る澁澤龍彦に先鞭をつけた酒井潔(本名・精一)は、明治二十八年名古屋に生まれる。中学時代から絵心に長け、父隠居後家督相続した事業家の兄にけ医術肌の才幹を嘱望されて上京し、英仏語を学びながら美術学校を卒業。郊外にアトリエを構え、絵仕事の傍ら西欧好色文献に興味をそそられ蒐集探求に励む。大正十四年、それまで未開のジャンルであった魔術や、秘(媚)薬の考証に全力を傾け、画業を放擲する。
その頃「文芸市場」同人らに近づき、特にボス的存在である積極的活動家の梅原北明と、書斎派学者肌の潔とは、両極端の性格的陰陽が合致し親交を深め、酒井は包蔵する才智を存分に発揮する機会に恵まれ、論攷・翻訳・装幀・挿絵に、マルチ・ディレッタント振りを開花。昭和四年北明と袂別後もエロとグロとの開拓に力を注ぎ、軟派文献史上名だたる著訳書をものにするが、北明同様時流に押し切られ、昭和十年、生まれ故郷に隠栖する。潔、四十一歳。 |
とあり、なるほどそういう人の竹中英太郎感ということであれば、こういう風になるものなのかと納得できなくもない。
冒頭にある「第二類型の挿繪畫家」という記述に関しては、この連載にあたり、当時の挿絵画家を“挿絵といえども厳密なる写実であれねばならず、挿絵画家は造形において写真術と同等の表現力をもたねばならない。すなわち間違いなく時代風俗の記録者であるべきである。”
とした前提での『写実派』を第一類型、写実にとらわれすぎることなく画家としての感性を表現するタイプを『非写実的派』を第二類型と、おおよそ二つに大別して語っているためで、第一類型としては、林唯一を筆頭に、岩田專太郎、松野一夫、内藤賛といった名前が並び、「第二類型の挿繪畫家」としては竹中英太郎の他坪内節太郎などについて触れている。また、なによりもこの連載で面白いのは、竹中英太郎の挿絵について語っている回だけのみならず、他の岩田専太郎や内藤賛などといった竹中英太郎と引けをとらない人気挿絵画家の挿絵を評する時にも竹中英太郎の挿絵を引き合いに出して語られていることなどもあることである。
例えば、江戸川乱歩「吸血鬼」に岩田専太郎が描いた挿絵をとって曰く、
あの連載挿繪は、洋畫式の自由な表現をしたり、映畫のアングルを利用した手法を試みたりして、英太郎氏等のやり方とは、又違ふ描冩で、相當原作のグロ味を生す事に成功して居た。
近頃「新青年」なんかに、英太郎そつくりの作を發表して居られる様だが、あれは全然なつてない。英太郎の畫境は全くユニツクな物で、外形だけ眞似たつて、あの本當の變てこな味は出るものでない。專太郎ともあるものが英太郎の眞似をするなんて法はない。以後斷然止めてほしい。これは他の英太郎追従者達にも呈する苦言である。
また、甲賀三郎「焦げた聖書」における内藤賛の挿絵には、
これも前期した『焦げた聖書』の挿畫の一枚であるが、一見すると、まるで竹中英太郎の繪である。尤もよく見れば、眞中の人物の顔なんかは(引用者注…挿絵の中央に人物の顔が描かれた挿絵が掲載されているが、ここでは画像の引用は省略する)、竹中氏のより確實に描けて居て、内藤氏のデツサンを觀取し得るが、文字の書き方なんかは、如何にも英太郎氏の眞似であり過ぎる。英太郎式の挿繪は、英太郎氏一人で結構だ。俊才内藤氏が、何んの為に竹中氏を眞似る必要がある?否絶對に眞似てはいけないのだ。
酒井潔が竹中英太郎の挿絵をいかに高く評価していたがよくわかるが、「ゲオログ・グロツスの味を巧みに自家藥籠中のものとして」とあるような評価にしてもそうだが、少々贔屓目過ぎるような気もしなくもない。他の挿絵画家達に「竹中英太郎の真似はよくない」と言ったところで、その竹中英太郎自身からして元々は人の真似を取り入れて自らの画風を作り上げていったのだということも無視することはできない。
因に、『ゲオログ・グロツス』 とあるのは、新即物主義とかダダイズムの画家といわれるゲオルグ(ジョージ)・グロッス George Grosz(1893-1959)のことと思われるが、果たして竹中英太郎にそうした画家の影響があったかどうかも疑問に思わなくも無い。
酒井潔は、翌昭和8年にも『書物展望』誌において、『現代一流雑誌挿繪論』という連載をするが、こちらでは、当の竹中英太郎の挿絵が雑誌誌面を飾ることが少なくなっていたこともあり、具体的にほとんど取り上げることなく期待を表明するに留めている。
若干時間的推移こそあるものの、いみじくも、小説家、一部画壇、編集者、研究者といったそれぞれ挿絵画家とは違った立場にある人物からの声を並べることになった。できることならばここで同業者である当時の挿絵画家からの生の声も並べてひとまずの締めとしたいところではあるが、残念ながら、そうした記述を目にすることはできていない。『オール讀物』昭和6年9月号(刊)に掲載された『人気花形大衆作家と挿繪畫家の座談會』などは当時の挿絵画家達の生の声を聞くことのできる大変面白い企画であるが、残念ながらここに竹中英太郎は出席しておらず、欠席者である竹中英太郎の話題もここでは触れられていない。
こうした当時の竹中英太郎挿絵に関しての批評などに関しては、あまり検証されているとは言えず、これからの調査いかんによっては、また色々と面白い逸話なども発見されるかもしれない。
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