竹中英太郎の戦前挿絵について調べて行くなかでぶつかった様々な“疑問”。
『百怪、我ガ腸ニ入ル』に記載されているいくつかの「間違い」を始め、もちろん当頁作成者の無知による“疑問”も多々有り、“疑問”とさえ言えないようなものも中にはあるかもしれない。
基本的には、個人的な忘備録としての意味合いで作成したものではありますが、ネットで公開することによって、或いは何らかの情報なり答えなりを得られたら嬉しいなぁとの願いを込めて、以下にいくつか掲示してみることにしました。
お心当たりのある方は、掲示板或いはメールにて御連絡いただけますと幸いです。
なお、画像に関しては、著作権継承者より許可をいただいて掲載させていただいております。


 1. “夢遊病の女”の正体は?

(C)金子紫/湯村の杜 竹中英太郎記念館

『百怪、我ガ腸ニ入ル』に「江川蘭子(大下宇陀児『新青年』昭和5年)」とのキャプションがついて掲載されているこの挿絵。掲載誌とされる「新青年」を実際にあたってみると、この挿絵は使用されていない。
では、この挿絵は一体何処に使用されたモノなのだろうか?
出典作品が不明であるにも関わらず、この挿絵が日の目を浴びることができたというのは、この挿絵が奇跡的に現存している原画の中の一枚として存在しているからである。現存する原画のうち、出典が不明確なのはこの一点だけで、あとの原画は全てその出典は判明している。
◎ 現存する原画で、この挿絵と一緒に管理されていたモノ全ては博文館系の雑誌に掲載されていたこと。
◎ 描かれているサインが主に昭和5年始めから6年終わりの二年間に使用されたモノであること。
◎ 絵のタッチがやはり上記の期間に描かれた作品と似ていること。
以上3点から推察し、同時期に英太郎が主に筆をとっていた博文館系の「新青年」「朝日」「文藝倶楽部」「探偵小説」といったところの雑誌をあたってみたが、この挿絵の掲載は見つからなかった(もちろん100%見落としが無いと断言できるわけではなく、一部まだ別冊付録なども考えると確認しきれていない雑誌もある)。
『百怪、我ガ腸ニ入ル』にある「江川蘭子」という記載から、記憶している限りではそんなことはなかったはずだが…と思いつつも、念の為博文館刊の単行本『江川蘭子』も確認してみたが、やはりこの挿絵は使われていない。
あまり考えたくはない可能性として、何かの作品用として描かれたにも関わらず、紙面の関係などから実際に使用されなかったということも考えられないことではないが、あまり現実的ではないような気もする。
竹中英太郎が挿絵画家として活躍していた時期の博文館以外の雑誌まで探索範囲を拡げてみても、今のところまだこの絵が掲載された雑誌には出会えていない。
一時期、原画の管理をしていた所が、整理上の便宜から付けたものらしいのだが、誰がつけたか“夢遊病の女”という題がこの絵にはついている。 或いはこの題に手掛りがあるのかと調べてみても、これもまた今のところあたりがない。
彼女の正体は何者なのだろうか?


 2. “沙羅双二”って誰?

“沙羅双樹”ではない。“双二”である。著明な時代小説作家である沙羅双樹(明治38年5月6日〜昭和58年1月20日)なら、名前くらいは認識しているが、挿絵を描いていたことがあるなどという話しはあまり聞かない。
まだ本格的に挿絵画家として活躍を始める前、「家の光」に挿絵を寄稿していた竹中英太郎と共に紙面に挿絵画家として名前が掲載されているのが“沙羅双二”である。
『季刊みづゑ』に掲載された尾崎秀樹による「現代挿絵考 9」から引用すると、

『家の光』での英太郎の仕事は、連載小説では加藤武雄の「野茨」(大正15年9月−昭和2年7月)が最初で、この時は沙羅双二と組んで挿画を担当した。

とあり、この文章を見る限りでは、“沙羅双二”という挿絵画家が存在することになる。
しかし、「家の光」以外の同時期に発行されていた数々の雑誌のどれをみても“沙羅双二”という挿絵画家の名前を見ることはできない。

この尾崎秀樹の文章に出会う前、“沙羅双二”などという仰々しい名前は、まずペンネームでしかあり得ないとしたうえで、“沙羅双二”とサインのある挿絵のいくつかの中には、竹中英太郎の挿絵だろうとしか思えないようなモノもあったので、単純に“沙羅双二”とは竹中英太郎のペンネームだったのではないかと考えていた。そんなおり、尾崎秀樹の「組んで」とある解説を見て、困惑させられてしまったと言えなくも無い。

「家の光」に『野茨』が連載されていた全11回の中で、第2回だけ、目次に作者名と並んで『竹中英太郎畫』とあり、それ以外の号の目次では、全て挿絵の担当は“沙羅双二”とされている。ここから二人の関係が少しずつ複雑になるのだが、『竹中英太郎畫』とある第2回であっても、これが本文題字横になると『沙羅双二畫』となっており、実際に挿絵横のサインも沙羅双二とある。逆に、『沙羅双二畫』とある回の挿絵の中にも、挿絵の横に「英」や「Ta.E」「英太郎」とサインのあるモノもあり、こうしたごっちゃになった挿絵画家名とサインの関係から尾崎秀樹は「組んで」としたのかもしれない。
“沙羅双二”と竹中英太郎が描いたと思われる挿絵とカットは、『野茨』だけのみならず、目次カットや小説、講演頁カットなど当時の「家の光」には数多く見られる。それらの挿絵やカットを見て、どちらが描いたものか判別することは、サインがなければほとんど不可能といっても過言ではない。

そんな(尾崎秀樹の言うところの)パートナーであった“沙羅双二”の名前はある時からぱったりと「家の光」から消える。
二人が「組んで」やっていたと言われる『野茨』の連載が終わった次の号から“沙羅双二”の名前はその後「家の光」に見る事はない。その昭和2年7月号から前田曙山の「清き罪」の連載が始まり、竹中英太郎がその挿絵を担当している。
これは何を意味するものなのだろうか。

その後、改めて、二人説を確かめようと、いろいろと当時の雑誌などを見返してみて、もしかしたら…と竹中英太郎以外の挿絵画家で、“沙羅双二”と名乗ってもおかしくないような絵を当時描いていたことのある人物もひとり容疑者として浮かんできたものの、どうもこれという決め手になる物証がなく、“沙羅双二”の正体を決定付けられるには至っていない。
果たして尾崎秀樹は“沙羅双二”の正体を知っていたのだろうか。そして、それは何をみればわかるのだろうか?
…まぁ、「現代挿絵考 9」にあっても、夢野久作「斜光」の挿絵を竹中英太郎だと書いてあるくらいだから…と思わなくもないが…。


 3. “邦枝完二”はいずこから?

『百怪、我ガ腸ニ入ル』巻末の“画譜”には、多くの間違いがあるが、まだその真偽が明確にされていない記載も多い。
例えば、昭和5年の項にある
 「読売新聞」・邦枝完二の『女学生殺し』、
とある一節である。
読売新聞の昭和5年には邦枝完二の小説掲載は無い。 その少し前、昭和3年8月25日から翌4年2月18日まで『大空に描く』という小説を連載していたが、この作品での挿絵は竹中英太郎ではなく野崎貞雄である。その後、邦枝完二の小説連載は竹中英太郎が挿絵画家として活躍していた期間には無い。あるいは連載ではなく、日曜版にある実録モノか何かの一面読切の作品かもしれないと思い、調べてみたが、それらしいものの掲載も見つからない。新聞名の間違いかとも思ったが、昭和5年に同名の邦枝完二による小説連載はない。
「読売新聞」だけであれば、昭和4年6月15日から11月22日まで三上於菟吉の「情火」の連載があり、この作品で竹中英太郎は挿絵を描いている。しかし、昭和5年には、「読売新聞」紙上に竹中英太郎の文字は見られない。
では、『女学生殺し』はどうか…。そのような題名の作品は邦枝完二の作品歴に見られないし、別の作家によるものも昭和5年に見つけることはできなかった。ただし、昭和4年年末に起きた実際の事件として「千駄ヶ谷の女学生殺し」という事件があり、昭和5年当時に紙面に見ることもできる。
更に後の昭和8年「時事新報」に高井壮吉が連載した『捕物秘帖』の中で取扱われた一事件としても新聞連載されており、この時の挿絵を竹中英太郎は担当している。
“読売新聞”“邦枝完二”“女学生殺し”という三つのキーワードはそれぞれ微妙に昭和5年と食い違いながらもそれぞれ独自に関係を持ちつつ、それでいて三つがいっしょに竹中英太郎と繋がることはない。なによりも、竹中英太郎と“読売新聞”“女学生殺し”の二つは接点があるにも関わらず、“邦枝完二”に至っては竹中英太郎との接点すら見つけられない。
それでありながらも 「読売新聞」・邦枝完二の『女学生殺し』、とは一体どういうことなのだろう。
或いはまだまだ私の知らない数多くの事柄のひとつとして、ちゃんとこの三つのキーワードは何の不自然さもなく一つに融合された形で竹中英太郎と繋がっているのだろうか? せめて邦枝完二がどこから引っ張り出されて来たものかくらいは知りたいものだとは思うのだが…。

【2012.12.12付記】 「なんだ、そんなことだったのか?」
 竹中英太郎と“邦枝完二”“女学生殺し”というキーワードの接点に気付かないままこれまでいたが、ひょんなことから呆気無くその関連に出くわしてしまった。
 何の事は無い。竹中英太郎と“邦枝完二”の共通項を探そうとしていたからみつけることができなかっただけなのだ。そこに“竹中労”というフィルターを通すという可能性にもっと早く気が付いていたら、こんなに苦労することも無かったに違い無い。
 つまりはこうだ。
 竹中労の著作「聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代(3)夏の巻 衆生病む」(潮出版社刊 S61)の第六章「誰そ我に、ピストルにても撃てよかし」の中にこんな一節があった。

 ……ああ、わすれていたわ。『明暗』が朝日新聞に連載されて、私が挿絵のモデルに頼まれたの。画家は橋口五葉さん、そのころ夏目漱石ってそんな偉い人と知らなかったのね。五葉さんのアトリエにいらして、お茶を飲んだあとご自分で茶碗を洗うんです。私のもついでに。へえ!この人が帝大の先生、なんて思っていたらまあ、どんどん文豪になっちゃった。私って幸せ、みんなに可愛がってもらったの。
 ついでにモデルまで有名になって、時事新報の記者が取材にきました。邦枝完二、あなたのお父様が挿絵を描いていらっしゃるでしょ。(註・竹中英太郎、昭和初期の流行画家)。そう、『女学生殺し』。まだ小説家になる前のことで月給二十五円、それで結婚を申しこまれたの。押しの一手、毎日くるんです。漠とは初恋プラトニック・ラブ。邦枝とついに結婚しちゃった。かぞえで十七、大正と年号があらたまる直前ね、文金高島田でポーッ(笑)

 章題の後に「断片的な回想(石井八重子さん・聞書)−房総・大東海岸のお宅にて−」とある。石井漠の夫人の回想だ。
 この文章の中に「邦枝完二」「女学生殺し」「竹中英太郎」がそろって登場してくれているではないか。しかし、この回想だけからみると「昭和5年「読売新聞」・邦枝完二の『女学生殺し』」という結論には到底結びつくものではない。しかも、文章を読めば石井夫人が「たしかそうだったわよね」的に口述しているだけで、「そう、『女学生殺し』」なんて会話からはインタビュー側からの誘導に乗って返答しているような節も感じなくは無い(事実、この引用文の直前には「あなたはツーと言えばカーだわね、よく御存じ」とインタビュアーを誉め称えるような言葉もある)。
 竹中労が石井八重子夫人から回想を聞き取った際に出て来た「邦枝完二『女学生殺し』」が何らかの流れのなかで「昭和5年」「読売新聞」とつながり誤情報になったのだろう。前述の通り、昭和5年に読売新聞紙上には「邦枝完二『女学生殺し』」は無いのだから。
 しかし、だ。何の根拠もなく、石井夫人が「あなたのお父様が挿絵を描いていらっしゃるでしょ」と語る必然はどこから生まれたのだろう?
 単にインタビュアーである竹中労に対してのリップサービスとして話を面白くしているという可能性も無いではないが、果してそんなことで無理から邦枝完二の思い出と竹中英太郎を結び付ける必要はあまり感じられない。…むしろ、思いの他、意外ともいえる発言が飛び出してきたことから、インタビュアーである竹中労も不思議な因縁ともいえる物を感じて、この章の終わりに石井漠と竹中英太郎の繋がりなども付記していたりしたのではないかとすら感じないこともない。
 と、すると、考えられる可能性はもう一つ。つまり、昭和8年「時事新報」で連載された『捕物秘帖』の著者である「高井壮吉」というのは、実は邦枝完二の別筆名だったのではないか?ということである。であれば、石井夫人の話しは何の不思議もなく受け入れられる。前述の通り、『捕物秘帖』には「千駄ヶ谷の女学生殺し」という事件も取り扱われており、その挿絵を担当したのは竹中英太郎だ。そうであれば、竹中労の記述についても「昭和5年」という記載と「読売新聞」という記述が間違っていただけということになる。
 もちろん邦枝完二=高井壮吉といった事実はこれまで詳らかにされてはいない。しかしながら、時事新報の記者をしていた邦枝完二が帝国劇場文芸部を経て大正12年から文筆に専念するようになり、昭和3年に「東洲斎写楽」を発表し、前出の「大空に描く」や昭和6年の「歌磨」などで所謂大衆小説家として名を馳せてきた頃、古巣の時事新報紙上にも『捕物秘帖』を書いてもらえないかと頼まれたものの、「邦枝完二」の名前で新聞紙上に実録犯罪小説を掲載するには躊躇いがあり、やむなく使ったのが「高井壮吉」だったとしたらどうだろう? 後に「お伝地獄」「浮名三味線」「おせん」等々の一環した江戸情緒と官能美を描く時代風俗小説家としての「邦枝完二」の名前からすると、実録犯罪小説といった風合いは相応しくないと考えたのではないか?
 面白いことに、「歌磨」が昭和6年の後、主な著作としてあげられる「樋口一葉」は昭和9年、「お伝地獄」は昭和10年と、『捕物秘帖』が連載されていた昭和8年8月から昭和9年8月の間、邦枝完二の代表とされる作品はあまり見受けられない(もちろん詳しく調査すればいくらでもでてくるのかもしれないが…)。
 「高井壮吉」という名前もこの『捕物秘帖』以外にはどこにも見ることができないというのはどういうことなのか。それなりの新聞社が一年近くも新聞小説の連載をしたというのにである。第一、全くの無名新人に一年も連載を任せるか?想像を膨らませるだけの状況は揃っているようにも思える。
 まぁ、こうした想像をすることは勝手だろう。あくまでもこれは想像の域をでないわけで、この想像を発展させるには荷が重すぎる。「高井壮吉」という作家の直筆原稿なりがあって、「高井壮吉」とは実在した別人物であるという証明でもあるか、あるいは、邦枝完二の研究者(そういった人がいるかどうかも知りませんが…)なりが事実を突き止めてくれることを祈るばかりである。
 ここでは、あくまでも竹中英太郎の挿絵について語っていればよいのであって、今回たまたまちょっとした可能性を目にしてしまったというだけのことで、少なくとも「昭和5年「読売新聞」・邦枝完二の『女学生殺し』」といった誤った表記のママよりはましではないかというに過ぎない。


 4. ゴー・ストップ

竹中英太郎の装幀仕事の例として、比較的頻繁に触れられる一つに、貴司山治の「ゴー・ストップ」がある(『百怪、我ガ腸ニ入ル』巻末画譜では昭和6年としてあるが、中央公論社から発行されたのは昭和5年)。
『夜想<3>』に掲載された竹中労(掲載時著者名としては“たけなかつとむ”としてある)の『断想・竹中英太郎』の一節によると、

 氏の代表作『ゴー・ストップ』(昭和5)の装幀は、父の手になった。貴司氏によれば、「竹中英太郎でなくちゃ嫌だと版元にグダをこねて」、編集者と一緒に父と会って依頼したのだという。「驚いたのは、父上が(と貴司氏は呼ぶのであった)、ボクより七つも年下だったことだ。口数のすくない、謙虚な態度で、二ツ返事でひきうけてくれた」

とある。こちらでは昭和5年としてあるので、やはり中央公論社から刊行されたものを指して竹中英太郎装幀と言っているのだと思われる。
しかし、 実際に中央公論社発行の「ゴー・ストップ」を確認してみると、その装幀表紙絵には「ken」とサインがあるだけで、装幀者の記載はない。この「ken」のサインを調べてみると、当時流行していたプロレタリア文学の装幀などをいくつも担当した吉田謙吉によるモノのようである。はて、これはどうしたことか。…と、思っていると、この「ゴー・ストップ」は、刊行早々検閲にあい、発禁処分をうけていることがわかった。中央公論社はすぐさま対応し、改訂版として出し直したらしいのである(このあたりの事情は特に詳しいわけではないので略す)。と、いうことは、確認した「ゴー・ストップ」とは違う改訂前の物というのが存在し、或いは装幀が違っているなどということがあるのだろうか…。とのわずかな期待を抱いたが、そんな淡い期待はあっという間に打ち砕かれることになった。改訂前の書籍を見ることができたのだが、装幀に関しては、やはり改訂後と違いはなかった。
引用した文章を見る限りにおいては、貴司山治自らの言葉として「ゴー・ストップ」の装幀を…と言っているわけではない。例によって他の作品との思い違いか…と、同時期に刊行された貴司山治の書籍をあたってみたが、改造社「暴露讀本」(昭和5) 、日本評論社「敵の娘」(昭和5) 共にシリーズ物の一冊であり、別作家の作品も同装幀になっていたので、貴司山治が「グダをこねて」依頼したものとは考えにくいし、先進社からの「同志愛」(昭和5)に至っては、「ゴー・ストップ」と良く似たレタリング文字が特徴的な装幀で、こちらは装幀者として吉田謙吉と明記してある。よもやと思い、春陽堂から刊行されていた日本小説文庫に納められた「ゴー・ストップ」も見たが、こちらは別人による挿絵があるのみであった。
「ゴー・ストップ」が刊行された中央公論社から同じく刊行されていた雑誌で、「婦人公論」があり、ここで貴司山治は昭和5年1月号から「同志愛」を連載している。この時の挿絵を竹中英太郎が担当している。或いは、この雑誌連載の時の挿絵の依頼のことを、装幀と思い違いをしているということは考えられないだろうか?それとも、まだ見ぬ竹中英太郎装幀の「ゴー・ストップ」、或いは別の書籍というのが存在するのだろうか?

【2006.4.24 付記】貴司山治『ゴー・ストップ』の装幀に関しては、竹中英太郎によるモノは無いと思われるとの御教示を頂けたので、竹中労の証言にある“貴司山治の話”の内容に関しての確認はともかく、『ゴー・ストップ』に関しては吉田謙吉装幀ということで決着。今後、竹中英太郎ファンとおっしゃられる方で、装幀目的のみで『ゴー・ストップ』を購入しようかとお考えの方は注意されたし。

貴司山治資料館


 5. 二つの黄金仮面

昭和6年平凡社から刊行された『江戸川乱歩全集』に付録としてついていた小冊子「探偵趣味」。この第1号の表紙絵は岩田専太郎によるものと一般的には言われている。江戸川乱歩自身の言葉として、「探偵小説四十年」などにもそう記載されており、おそらくはこの「探偵小説四十年」の記載がすべての基になっているのではないだろうか。
しかし、である。本当にこの「探偵趣味」第1号の表紙絵は岩田専太郎によるものなのだろうか。
乱歩による 「探偵小説四十年」にはこのように書かれている。

「江戸川乱歩全集」の発表と同時に、内容見本を印刷した。これも貼雑帳に貼ってあるが、新聞一頁ほどのやや厚い用紙に裏表印刷し、それを四つ折にした、つまり八頁の冊子型のもので、表紙には岩田専太郎君に描いてもらった黄金仮面が一杯に色刷になっており、(引用者中略)「探偵趣味」の編集は、旧友井上勝喜君を煩わした。表紙は第一号は岩田専太郎くんの黄金仮面、二号以降はすべて竹中英太郎君の異様な画風の表紙でつづけた。

当時、自らの最初の全集刊行にあたり、その宣伝などにもいろいろと気を配り、興味と関心をもっていた様子は見受けられる。
さて、そうした江戸川乱歩の関心は関心として置いておくとして、ここで留意しておきたいのは内容見本の表紙と「探偵趣味」の表紙それぞれは、同じように黄金仮面をデザインしたものであるものの、それらが別の絵であるということである。
一見しただけでは、似たデザインだけに、同じモノを使い廻ししたかのようにも見ることができるが、この二つの黄金仮面はよくみると明らかに別のモノである(この二つを比較して見よと言われても、原物を実際に見ることは今では大変にむずかしいことであり、ここにそれを掲載できないのは甚だ心苦しく思い、また残念でもあるのだが御了承いただきたい。江戸川乱歩関係の書籍や、或いはネットなどでも検索すれば見ることは可能である)。
一つの画題に対して、わざわざ別の絵を一人の画家に依頼するということはあるのだろうか? 確かに、この場合、それぞれの表紙には書き文字で題名が描かれているので、或いは転用ができずに別のものを依頼したという可能性も考えられないわけではない。しかし、普通に考えるならば、同じ絵を使い回す方が効率的ではないかと感じる。特に、この場合は、付録小冊子の表紙と、全集内容見本の表紙という、同じものを使っても何の不思議もないケースである。
全集内容見本の表紙にある黄金仮面はおそらく間違い無く岩田専太郎によるものであろう。絵の筆使いから見ても、竹中英太郎のものではない。
しかし、「探偵趣味」の表紙の黄金仮面となると、これはまた微妙に違ってくる。岩田専太郎にできない筆使いであるとは言えないし、竹中英太郎のタッチにも似ているように感じられなくもない。 「探偵趣味」の題字にしても、2号以降の、明らかに竹中英太郎によるものと一目でわかるようなレタリングと違い、岩田専太郎のモノとも竹中英太郎じゃないか…ともとれるようなレタリングである。
ひとつ気になるのは、仮にこれまで言われているようにこの表紙が岩田専太郎のモノだとして、その中にある「地獄風景」の挿絵をなぜ竹中英太郎がやっているのか…ということである。ちなみに、「地獄風景」第一回の挿絵には、その挿絵担当画家の名前は明記されておらず、また、挿絵の中に画家を特定できるサインも見られないが、岩田専太郎の挿絵とはとても思えないし、竹中英太郎らしい挿絵とはあまり言えないが、おそらくは竹中英太郎のモノではないかと思われるいくつかの特徴はあるので、ここでは第一回の挿絵は竹中英太郎のモノだという前提で話しを続ける。
「探偵趣味」2号から9号までのように、表紙も「地獄風景」の挿絵も竹中英太郎というのは極めて分かりやすい。しかし、1号だけ表紙と収録小説の挿絵をわざわざ別の挿絵画家に頼むというのは、この場合ちょっと不自然なような気もする。11号の表紙は竹中英太郎でありながら、「地獄風景」の挿絵は横山隆一がやっているじゃないかという反証はあるかもしれない。しかし、例えば、表紙はすでに前もって書きあがっていて、挿絵の方は小説のあがり待ちをしていた段になって、挿絵画家の都合で急遽代役がたてられたということであれば、11号に関しては考えられないことではない。「文藝倶楽部」で吉川英治の「續鳴門秘帖」が掲載されていた際にも、同様に鴨下晃湖の代りに竹中英太郎自身が筆をとっているといった例もある。では、同じ理屈を1号に当てはめることもできるのではないかとも思えるが、第1号と、月々の発行が決まっている途中の号とでは、その準備期間などから考えても全く同じ条件と考えてもいいものだろうか。創刊号であれば、準備期間も他の月とは違いそれなりにあっただろうし、それにも関わらず、急遽代役でというのも話しとしてはちょっと不自然なような気もする。
改めて「探偵小説四十年」の文章を見てみると、「探偵趣味」の編集は、旧友井上勝喜君を煩わした。とあり、或いは付録編集にあたり江戸川乱歩自身もそれなりに口を挟んではいたかもしれないが、基本的には江戸川乱歩自身が編集していたのではなく、別人に任せているのがわかり、直接編集をしていないせいか、それ以前に書かれている内容見本や宣伝のことなどと比べると、「探偵趣味」については実にあっさりと書いているだけであるような印象がする。
もしかしたら、似たような黄金仮面の絵を見て、単純に江戸川乱歩が、「探偵趣味」の表紙にある黄金仮面も全集内容見本の黄金仮面と同じものであるから岩田専太郎が描いたものをそのまま使ったのだろうと思い違いをしていたということは考えられないだろうか。

何も、「探偵趣味」第1号の表紙にある黄金仮面の絵は竹中英太郎によるものである。と言いたいわけではない。
事実を語れる人はおそらくはもう誰もいないであろうし、よもや黄金仮面の原画でも現存していて、ハッキリと岩田専太郎によるものであるというサインでもある…といったことがあるとも考えにくい。実際に筆使いなどを科学的に調査でもしなければ詳しいことなど判ることもなかろう。
もちろん、そんなことまでして、ことの真偽をとやかくしようなんて考えはさらさら持ち合わせてはいない。
ただ、ちょっと二つの黄金仮面の笑みが気になって仕方なかったもので、書き留めただけにすぎない。


 6. 風雲紅玉陣

『百怪、我ガ腸ニ入ル』に「白龍殺陣」というキャプション付きで掲載されている挿絵が2点あるが、このキャプションは間違いで、この2点の挿絵は「少女畫報」昭和6年1月号に掲載された橋爪丘の鳩の「風雲紅玉陣」に提供された挿絵である。掲載誌の作品末には興味深い文章が掲載されている。

畫者より
 みなさんには、はじめてお目にかかります。僕は探偵小説の挿繪が主なので、時代ものではいろいろとお叱りをうけるやうなことになりそうです。
はじめはなる丈、今までの華宵さんのものに似せて、おひ々々と、自分のほんとうのものを出してゆくつもりです。みなさんの忌憚なき御批評を俟つ次第です。それから、こんどの挿繪の第二、若衆髷の少年が抱いてゐるのはルルの筈ですが、これは小説の描冩を、より効果的ならしめるために、わざと違へて描いたものです。念のため−
                                                    竹中英太郎

なお、紙面ではこの文章の直ぐ後にこのような一文が続いている。

 此の風雲紅玉陣のさしゑは今度、華宵先生の御都合で竹中先生に代わつてお願ひすることになりましたから不惑(あしからず−読み仮名引用者注)御承知置き下さい                                  編輯部より−

華宵とあるのは、いうまでもなく当時挿絵業界で少年少女モノの第一人者と言える高畠華宵(1888-1966)のことである。
高畠華宵と竹中英太郎に、このような微妙な接点があったというのも他にあまり見られないだけに(目次で名前が並んでいるのは別として)面白いが、それ以上に竹中英太郎の挿絵画家時代当時に書かれた自分の挿絵に関しての文章というのは珍しくもあり、また短い文章ながらその内容もいくつかの点でとても興味深い。竹中英太郎自身が「自分は探偵小説の挿繪が主」だと認識していたらしいということもそうだが、その後に続いている「時代ものではいろいろとお叱りをうけるやうなことになりそうです」というのは、ある意味謙虚な姿勢とも見てとれるし、当時の自分の挿絵に対しての評判などに対しての多少自虐的めいた皮肉な言い回しのようにも感じられないこともない。また、「はじめはなる丈、今までの華宵さんのものに似せて、おひ々々と、自分のほんとうのものを出してゆくつもり」とある竹中英太郎による華宵風挿絵というのも、果たしてどれほど似せられているかという点においては疑問の余地もあるが(そういう意味ではここにその絵を掲載するのも躊躇われる)、そういった読者や作品に対しての自らの仕事の在り方をどうとらえていたのかを垣間見ることのできる興味深い手掛りであることには間違いない。

この「風雲紅玉陣」は上記引用文からもわかるように、連載小説で、この号以前は高畠華宵が挿絵を担当していたわけが、この号から竹中英太郎にバトンタッチされた。連載であり、この1月号で完結していないのだから、この号以降も竹中英太郎が挿絵を担当しているのだろう…と思うのが極めて普通の考え方だろうと思われるし、竹中英太郎自身も今後の挿絵に関しての抱負すら書いているくらいなので、その筈だったのであろう。
しかし、 よく“事実は小説よりも奇なり”と言われるように、実際には翌2月号の「風雲紅玉陣」の挿絵は竹中英太郎ではなく、玉井徳太郎に変わっている。2月号掲載の「風雲紅玉陣」の終わりに、また編集部からの『御断り』が掲載されている。

 前號で變つて又すぐのことですが、さしゑの竹中先生が突然御病氣にお罹りになりましたので、已むを得ず玉井先生に代りをお願ひすることになりました。

果たしてこの“突然御病気”というものがどういったものだったのかを知る術は残念ながら無い。
一つの事実として、確かに昭和6年の2月号として出版されている「新青年」や「朝日」「文藝倶楽部」といった博文館系の雑誌はもとより、他の雑誌のどれをみても竹中英太郎の挿絵は全く見ることができないだけではなく、「少女の友」での連載でもやはり「病気の為」ということで挿絵に代理を頼んでいる。そして、この挿絵のない期間は翌月まで続く。
もちろん、文字通り大病を煩っていただけなのかもしれず、そのことをあれこれと不必要なまでに拡大解釈しても仕方ないのかもしれない。
しかし、このような雑誌掲載のなかでの“病気”というのは、時に“病気”などではなく、諸々の理由から代理を頼まねばならなかったり、或いは休載などの“言い訳”に使われていることなどがあるということもあながち無いことでもない。そして、二ヶ月という比較的長い期間にわたって病気療養をしていたという話しは具体的に伝え残されておらず、また、どうしても竹中英太郎という人物にまつわるいくつかのエピソードのことを併せて考えてしまうと、もしかしたらこの頃に何かまた“活動”がらみで何かしていたとかいうような“想像”が頭に浮かんでもおかしくないのだから困ったものである。
事実、この昭和6年初頭の二ヶ月程の休息を挟んでの後、竹中英太郎の挿絵の仕事量はその画質の向上や評判の高さとは裏腹に減少へ向かう。単純にこれまで無理をして仕事に励んでいたが、健康を害してまで頑張り過ぎないように少し仕事のことを考えねばとの配慮が生まれたとも考えられるところだが、やはりこの後の竹中英太郎の行動へのターニングポイントとなった“何か”の可能性を頭から捨て去ることは難しく、或いはそういったことがわかるようなことがあれば、筆を折った理由にもつながるのではないかという淡い期待すら持ちえてしまうのであれば、必要以上にこの空白の二ヶ月間への興味も膨らんでしまう。

余談ではあるが、この挿絵に関して、このバトンタッチは「華宵がこの出版社ともめたことで、挿絵担当が変わったのではないか」というような話しをうかがい、その時は、「あぁ、こんなところにも世に言う『華宵事件』の影響が関係してくるのかぁ…」とちょっと感慨深くも感じたものだが、ふと思いたって確認してみると、『華宵事件』というのは、大正13年に「少年倶楽部」を出版していた講談社との間で画料のことが問題となって、華宵が講談社から「日本少年」を出版していた実業之日本社にその主な仕事先を鞍替えしたため、「少年倶楽部」の読者がゴソっと「日本少年」に移ってしまったという“事件”であり、大正13年と昭和6年では全然話が噛み合わないことになる。…と、すると、華宵は、所謂『華宵事件』とは別にここでもまた「少女畫報」を出していた東京社とももめたりしていたのだろうか?…それとも単に話しをしてくれた人が、挿絵画家変更という事実だけから思い違いをしただけなのだろうか…。ともあれ、こうした挿絵画家のピンチヒッターというのは、あまり表に出てこないだけに、そういった仕事を竹中英太郎がしていたとしてもなかなか見つけ出すことは容易ではないのだろうなぁ…と感じざるを得ない。

弥生美術館・竹久夢二美術館
高畠華宵大正ロマン館

【2006.6.4 付記】「少女畫報」に連載されていた「風雲紅玉陣」の橋爪丘の鳩という作者であるが、この橋爪丘の鳩というのは、詩人でプロレタリア文学なども発表していた橋爪健(1900-1964)のこと。橋爪健名義でも少年少女向けの作品なども発表しているが、なぜかこの作品の連載時に限り橋爪丘の鳩などという筆名を使っていたようである。しかし、この「風雲紅玉陣」も戦後ポプラ社から出版される際には、作者名を橋爪健にしている。


以下、検証中随時追加予定

『挿絵畫家 竹中英太郎』TOPへ戻る


Copyrighy(C) 2005 Elimoya All Rights Reserved.