あとがきのようなもの


 素人の手慰みでしかない駄作に「あとがき」もヘッタクレもないものだが、
ついでなので、ちょっとだけ言い訳めいた思い入れを書き残させてもらいたい。

「金田一耕助さん あなたの推理は間違いだらけ!(佐藤 友之 著)
」という本が刊行されたのは、
私がまだ学生だった頃で、いわゆる横溝正史ブームの最中であったと思う。

 当時、『金田一耕助』の探偵譚を読みあさっていて、その名前に絶対的なものを感じていた子供には、
ちょっとしたカルチャーショックと言ってももいいほどのものであった。
 たとえ巻頭に『まえがきにかえて』というラブレターという触れ込みで何と語られていようと、
『金田一耕助』の推理に、イチャモンをつけるなんて、あまりにも不遜なことのように思えて仕方なかったのである。
 さらに言えば、当時はまだ横溝正史も健在であり(このすぐ後に『悪霊島』が連載開始される)、
それなのに、こんな本を出したりしていいの?と、まさしく晴天の霹靂といった衝撃すら感じたのであった。

 しかしながら、それまで、金田一耕助という名探偵の言葉をただただ盲目的に信じきっていて、
その『推理』に対して疑いをもつということなど露ほども考えられなかった子供にしてみれば、
金田一耕助であってしても「間違ってない?」と突っ込まれる余地を残しているのだと、
言い換えれば、金田一耕助は必ずしも完璧でないのだと、改めて思い知らされたのと同時に、
自分の判断で疑ってみるという考え方もまたありなのだという新しいモノの見方との遭遇でもあった。

 そういった考え方への出逢いは、そのままその本、
「金田一耕助さん あなたの推理は間違いだらけ!」に向けられることによって育まれることとなった。
つまりは、「金田一耕助さん あなたの推理は間違いだらけ!」もまた間違いだらけなのではないか…
という考え方への挑戦であった。

 『悪魔の手毬唄』を取り上げたのは、「金田一耕助さん あなたの推理は間違いだらけ!」で
最初にとりあげられているからだけではなく、もちろん、自分が一番好きな作品だったからで、
そんな好きな作品にケチをつけられたかのような感じがして、幼稚な義憤めいた感情もあったのかもしれない。

「獄門島」は確かに素晴らしい作品ではあるが、
個人的には、やはり『悪魔の手毬唄』が一番好きな気持ちは今も変わっていない。
決して最高傑作だとか、ベストだとか言うつもりもない。
ただ、『好き』なだけなのである。

 何度となく『悪魔の手毬唄』を読み返し、文庫本に線をいれたり、書き込みをいれたり、
ノートにメモをとって、登場人物の行動を時間経過にあわせて書き出したりと、
日頃の学業への取り組み方とは全然ちがった熱の入れようであった。

 しかしながら、所詮、まだ世間といったものの右も左も判らぬ子供の考えることである。

 これといった結論がでるわけでもなく、ただあれこれと思いつきはあっても、
『推理』をまとめるなどということまでには至ることなく、いたずらに疑問ばかりが重なっていくだけだった。

 そうこうしているうちに、子供はちょっとだけ大人の世界に触れるようになり、
いろいろと見聞を広めていくなかで、やがて、横溝正史以外の世界へと目を向けるようになり、
この 「『金田一耕助さん あなたの推理は間違いだらけ!』も間違いだらけ」という挑戦はそのまま
押し入れと記憶の片隅へと分散されて仕舞い込まれることとなってしまったのであった。
 悪く言えば、さんざん考えても結論にまでもっていけない自分の能力の限界を知り、逃げたのである。

 気がついてみると、それから二十年近い時間を経てしまっていた。

 十数年振りに、横溝正史の世界と再会したときには、
まさかこれをこんな形で再構成しようとは思ってもいなかったし、
ましてや、HPをつくって、そこに載せてみようとなどとは露とも考えてはいなかったが、
思い返してみると、一番自分のなかで思い入れの強いのもまさしくここなのである。
これを無視したままでいるわけにはいかないのかもしれない…と思うようになってしまったのだ。

 もちろん、こんなものを載せたからといって横溝作品に対してどうこうという気持ちはない。
 ただ、自分の幼年期の思いへ、ひとつ区切りをつけてやるのもいいかな…程度の気持ちからのことである。
理性的な思考といったものよりも、ただの感情の高ぶりだけと言っても構わないかもしれない。

 幸い(?)にも、時の流れは、少しだけいろいろなモノの考え方もできるようになっていたので、
あの頃の子供に成し遂げられなかったものを、それなりに誤魔化しながらも一応の締めくることはできた。
 もちろん、文章力の無さや、構成の不味さなど、真剣に指摘されてしまえば、
ただただ恥じ入るだけで、人様にお目にかけられるものなどではないかもしれないが、
それよりもなによりも、これを自分の中で完結させることだけを真っ当したかっただけの作成なのである。

 もちろん、内容や、その設定等々に関しては、昔考えていた部分に多少アレンジは施した。
 こんな小説風(というのもおこがましいが)になるとは自分も予想していなかったのだが、
レポートや報告書のような体裁で大真面目に書くのも恥ずかしいような気もしたし、
どうせ同じ恥ずかしい思いをするのなら、もう少しシャレめかしてやってみたほうが楽しめるかな…
くらいのノリでこうなってしまった…というだけの成り行きなののである。

 それが証拠に(?)最初の書き出しは、モロに横溝正史の「孔雀屏風」を引用させていただき、
出だしだけでも少しパロディ的な感じにしてみたかったとの痕跡はあるのだ 。
もっと横溝調の文章にできないものかとも考えたものの、所詮そこは素人の哀しさ、
自分の能力はそこまでには及ばず、あとはズルズルと成り行きまかせに、文字を羅列するばかりである。

こういった考察などは、横溝作品からしてもう発表から時代を経てしまっていることもあり、
あるいはあちらこちらですでに試みられていることで、 取り立てて珍しいことではないかもしれないが、
生憎、そう言ったものに関しては勉強不足であり、その不勉強さを盾に、
「ま、同じようなことを考える人は他にもいるかもしれないが、
もしそのことで、とやかく言われるようなことがあったら、その時また考えよう」
と、 極めて安易に作成されているのである。

そんな『ど素人』の安易なオマージュだと、笑い飛ばしながら読みながしてもらえると幸いである。


襟裳屋 2002


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