毛皮の中のシラミ                

LN・1925.12.31


   順をおって話すとこうです。

   まず、私は電車のなかで新聞を読んで得いる男性を見ました。次に寒さに膝をぴったりくっつけている凍えた娘を見ました。その次には帽子につけた羽根を震わせながら老婦人が座っていました。それから小さな子供とお母さん。次に控えたのが毛皮のコートを着込んだご婦人でした。
 年配でもないし、若くもないと思っていましたが、初め私は特に何も考えませんでした。でも、やがて、そういえば毛皮を着たご婦人たちが小さな子供を連れているところを見たことがないな(たぶん、若い女性は毛皮をもっていない)ということに、ふと気がついたのです。そして彼女のご主人はもしかしたら、この太った女性がこんな毛皮を持つためには、他の誰かから、きっと絞り取ったからに違いないという恐ろしい思いが突然浮かんだのです。

   もともと毛皮は、原始時代から単に防寒具だったばかりでなく、狩猟のトロフィーでもあったことを思い出しました。それに洞穴の王様が毛皮を着たのは、ただリューマチや腰痛のためばかりでなく、いかに大きな強い獣を倒して、その皮をはいだかを誇るためのものでもあったはずです。そこで私にこんな考えが浮かび始めました。 婦人を覆っているこの毛皮は狩猟のトロフィーなんだ。要するにこの毛皮は、この婦人がいかに大きな獲物からこの毛皮をはいだかの証拠を示しているのだ。だからこんなに自慢気にここに座り、私たちみんなの驚嘆を一身に集めているのだと――。こんなトロフィーにくるまるためには、少なくとも銀行の頭取か大事業家をものにしなかければならなかったでしょう。でも、それはそれで、また別の問題です。

   ことによっては、私は前線の歩哨か煉瓦商のように野蛮で、社会的に無教養になることがあります。毛皮を着た女性を見ると毛皮加工業者もカムチャッカの狩猟者も生きていかなきゃならないんだからという思いと、この毛皮一枚でわが国の一家族が一年間生きてゆけるのだという思いまでもがしてきます。もし、ジャケットよりもシャツのほうが肌身に近いというのであれば、毛皮よりもジャケットの方が肌身に近いはずです。しかもこのような毛皮にかかる値段で、恐らく五百着のジャケットをあつらえることができるでしょう。
   五百着のジャケットを生産するほうが一着の毛皮のコートを生産するよりも大勢の人を養っていくことができると思います。それに五百着のコートは毛を表に向けた毛皮のコート一枚より大勢の人を温められます。毛皮を必要としているのは決して最も裕福な人たちではなく、最も貧しい、そして最も寒さに震えている人たちということは断言できると思います。しかし現状では、最も貧しい人たちは、せいぜい、ジャケットかトリコットのシャツです。

   私はいつも不思議に思うのですが、このような女性たちは、いったいなんで毛皮のような効果で貴重なものに身を包むことがそれほどまでに価値があり、名誉なことと思うのでしょうね? 自分の奥さんを最も高価な毛皮でくるむ男性の狂気なら理解することができます。なぜなら、狂気は悲劇的で、理解されるにふさわしいからです。でも、最も高価な毛皮にくるまれることを熱望する女性の愚かさを理解することはできません。なぜなら愚かさは理解されるどころか吐き気をもよおすからです。 私は馬の毛織の長衣を着て、動物の毛皮をまとっている隠遁者の立場なら同感することができます。なぜなら、自分を哀れな未完成のものと考えているのがわかるからです。しかし絹や動物の毛皮を着ている太った女性の立場は、私の理性では耐えることができません。なぜなら自分を特別高貴な、完璧な生物と考えていることが見え見えだからです。

   なんだと! それじゃ、毛皮を着るというのは無精ひげを生やした男たちをたぶらかすためなのか?  紳士諸君、この恥知らずな偽りの一つの結末をつけましょう。私たちは決定的有効性をもつ次の事実の認識に行き着きます。すなわち、女性は私たち男性を驚嘆させるために身を繕うのではない。むしろそれは同性の驚嘆を呼ぶためであるとね。     正直のところ、女性がどのような流行の服装をしているのか、原則として、私たち男性には全く分かりません。また、私たちの誰もが今年のデザインは広井の狭いのか、前か後ろか、上か下かを空で言うなんて、誰にだって、出来はしません。正常な男性なら、誰だって真珠の首飾りや毛皮には見向きもしないものです。誰もそんなものに惚れ込んだりしません。流行や派手な装いは、言葉の素朴な文字どおりの意味で、女性の問題です。その争いは女性の間であればこそ演じられるもので、男性に対する優位を競う争いではありません。つまり、女性同士の間の優劣の争いなのです。だから、その飾りは性の優位を誇る頭飾りではなく、社会的な誇りの象徴なのです。それをけしかけるのはエロスの仕業ではなくて、冥府の王プルトーンの仕業です。

   男はどれだけ稼ぐかによって社会的に評価され、位置づけられます。女性はどれだけ使うかによって評価されます。百万を稼ぐ男と砕石を打つ男との間には、毛皮をまとう女性と子供の靴下も買えない女性との間の差よりも社会的不平等感は小さいのです。砕石を打つ男に対して私たちは、誰か砕石を打つものが世界には必要なのだと言うことができます。しかし一枚の満足なスカートももっていない女性にたいして、満足なスカートを一枚も持っていない女性も世界には必要なのだとは言えません。 銀行を経営したり、ホップを輸出する人は砕石を打つ人よりは能力があるかもしれません。だからといってホップを輸出する人の奥さんは、砕石を打つ人の奥さんより能力がある必要はまったくありません。ただ通常は、他の女性より大きな幸運をつかんだにすぎません。男たちの間での社会的不平等は、女性たちの間では残酷な不平等になるのです。しかし、世界にとって幸いなことは、女性たちが集団性の本能をもっていないことです。 私は毛皮が禁止されることは望みませんが、そのなかにシラミを放ってやりたいとは思います。