毛皮を持たないシラミ             

LN-1926.1.12.


    当然の報いです。私が本誌に毛皮について書いたために、多くの女性から、そればかりか男性からもひどい非難を受けました。もし私が世の中の無情やぜいたくの罪についてまったく普遍的に書いたのだったら、きっと、そのことで誰も私を非難はしなかったでしょう。反対に私は一般的な励ましの同意をもって迎えられたにちがいありません。
    毛皮を着た人は六人乗りの自動車を犯罪的なぜいたくだという主張に喜んで賛成するでしょう。車に乗った人は、もし誰かがヨットを持っていたら、おそらくそれは犯罪的なぜいたくだと考えるでしょう。ヨットもった人は九人の子供の父親であることを犯罪的なぜいたくだと、たぶん、認めるでしょうね、などなど。
    世界は自分自身の皮膚を守るかのように、自分の毛皮を守る決意を固めているようです。みなさんは人間的毛皮に触れないときだけ、人間的良心に触れることができるのです。この問題について言いたいことは山ほどあるのですが、今日は別の側面から反論を試みたいので、そのことについてはまた別の機会に再度触れることにしましょう。
    ある非難者は「あなたの文章の調子はぶしつけである」を苦情をいっています。「あなたはこんなふうにして社会的矛盾が正せると思っているのですか? それは人間の感情的側面に訴え、隣人に対する愛を呼びかけ、弱者に対する強者の義務感を呼び覚ますことにはならず、むしろ憎しみを植えつけるこのにはならないでしょうか? 反感を掻き立てられた情熱は、まさにあなたが望まれたところに集中されるとは思いませんか?」  

    ここで私は「あなた方は全く私を誤解していらっしゃる。私の真意は情熱をけしかけたり、像をの念を掻き立てたりすることとはほど遠いものだった」と、本当は言うべきなのでしょう。でも私はそうは言いません。なぜなら私には、情熱をけしかけ、憎悪の念を掻き立てる意図がいささかあったからです。しかし私には毛皮を着たご婦人にたいする群衆の憎悪を呼び覚まそうということではなく、毛皮にくるまったご婦人の自分の毛皮に対する憎悪心を目覚めさせることが問題だったのです。
    私にとって大切だったのは、たとえば、この世のなかに生きているのは虚栄のためばかりではなく、この「涙の谷間」の中でお金によって、また男にしろ女にしろその善意によって、何かもっと別の、何かもっと有用なことができるのだと、非常に裕福なご婦人方が情熱的に意思表示なさるように、ある種の情熱を刺激することだったのです。

         事実、私は情熱のある種の挑発なしには、この極めて異常な社会的矛盾など決しえ癒すことはできないと考えています。貧しき人々の、富める人への憎しみを呼び覚ます必要などまったくありません。その憎しみならすでに存在しています。この疑うべくもない事実に目をつむってはいけません。貧しい人たちに貧困は不正義だとと言えと教える必要はありません。しかし、資本家たちにはそのことが、二たす二が四であるのと同じくらい自明のことだとわからせる必要があります。みなさん方は「社会矛盾の解消」を単なる貧しい人びと、または十分持っていない人びとだけの問題にしてしまっています。
    しかも、その問題をその問題を全くのところ陰鬱で粗暴な運動にしてしまっているのです。しかし、社会矛盾の解消が必要だということを、まさに金持ちにたいして熱烈に言っている教えがすでにあったのです。その挑発的な教えは「キリスト教」という名でした。

    もし、この世のなかに貧困と現実的欠乏があるとしたら、それじゃ、すみませんが、この事実を優しく穏やかに指摘するのは止めましょう。貧困は不快なことです。じゃ、その問題を不躾な、不快きわまりない方法で報告しましょう。涙にくれる孤児たち、それに感動的な母親たちのことを哀調をおびた響きで書くのはいささか不正直かもしれませんね。
    貧困は下品で、非常で、醜悪で、不潔なものです。貧困を否定する際の最大の論拠は、人間の心は善良で、慈悲に満ちているということではなく、人間的貧困は非常に恐ろしいということです。ちきゅうじょうのすべての人間は暖かくて美しい毛皮のコートを持つべきであると主張することは非常な思いやりかもしれんません。しかし、すべての人間はその前にせめてジャケットを持つべきであるという意見を述べるのは非常に不躾なことなのですね。

    ある種の社会的不公平について、快い、楽しい方法で考えることなど実際問題として不可能です。たったいまキャビアを食べたばかりの人に、パンを買うお金もない人がいるという話をするのは、いささか非文明的な行為です。しかし、この点に関して最も非文明的なのは、それが事実だということです。    「社会的矛盾の解消」を語るなら、貧しい人びとは自力で、奇跡的に豊かになり、生活も楽になるだろうなんて想像することはできません。矛盾の解消は上から下へも行われる必要があるように思われます。

    世界中のすべての女性は真珠の首飾りを持つべきであると主張するのは可能でしょう。失し世界の現状では、むしろ私たちのほうがたくさんもつ必要があります。実情は、何千という病院用ベッドのための、暖房施設のための、養護施設のための、そのほか人間にとって非常に必要と思われるたくさんのことのためのお金が私たちにはないのです。そして同様に、誰かの多少ピンク色に染まった耳もとでダイヤモンドがカチカチと鳴ったり、それが銀の狐と言われようと月の子牛と言われようと、それを求める肉体が手に入れうる最も高価なものにくるまれるためには、そこにもここにもたくさんのお金があるというのも事実です。

    もし、誰かがこのようなことを快く感情をこめて表現できるとしたら、教えを請いたいものです。そして、もし、少なくとも最低限必要なものを調え、こんな具合に叫ばなくてもお金がわが国にあることがわかったら、私は公にすべての毛皮に謝ります。あなた方は、むしろ私が隣人に向かって愛を宣言すべきだろうとおっしゃいます。たぶん、いつかはそうなるでしょう。
    しかし、隣人にたいして恥を主張することから始めましょうよ。私たちは愛を動物や植物にたいして持つことができます。この愛は未だ不公平に対する痛々しい、不安な償いでないからです。動物は人間でないから不公平だといって胸を痛める人はありません。もし私が何か挑発的なことをやってみるとしたら、お金持ちが貧乏になるようにではなく、お金持が他人の貧しさを引き受けてくれるように挑発したいと思います。

    私は人間はお金など全くもってはいけないなどと乱暴なことを言うつもりはありません。むしろお金は沢山もつべきです。それは他の人びとを貧しい境遇に追いやらないためです。もし誰かのこの情熱を挑発することに成功したら、そんな情熱なら、きっと怖いものなしです。本物の毛皮にだってびくともしませんよ。