(26) シリンクス(パンの笛) 一七〇〇年
それは人間の生涯のように短く、悲劇的な、ある秋の日の午後のことだった。屋根は雪の下で傾き、ジャコモは赤く燃える太陽の光のなかで、なんとなく落ち着けなかった。彼はベンヴェヌートのまわりを歩きまわっていた。今回は杖のかわりに、仕事着に箒を押しつけられていた。
「誰を掃き出すつもりだい、ベンヴェヌート?」
「あんたさ。どんなコメディア・デラルテにもおわりはある。つまり『喜劇はおわった』だ」
「おまえ、それを、たった今、思いついたのか?」
「ちょうど、いまだ。あんたの生涯の重要な時に三つの七が出会っている。気がつかないか? いまは一七〇〇年だ。あんたは一六二七年に生まれている。そして今年で七十三歳だ。な、ジャコモじじい」
「ちょっと待った! 第一 その三つの七とおれが何の関係があるというんだ? 春になると、おれにはたくさんの仕事がある。今は、みんなどこかへひっ込んでいる 山椒魚もされこうべの紋様を背につけた髑髏蛾も、十字架を背負った鬼蜘蛛も、おれのヒキガエルも、カタツムリも、黄金虫も、それに……」
「あんたも、どこかへひっ込むといいんだ、やつらみたいに。背を丸めて、冬眠をするんだ。そしてわたしが解ける春になったら、また会えばいい。せいぜい長話でもするこった」「よし、わかった。だがね、ストラディヴァリ家の人間はみんな高齢まで長きするんだよ」 でも、いいかい、あんたはストラディヴァリの人間じゃないぜ。あんたはモローニのもんだ。頭のおかしなシチリア人だ。まだ覚えているかい、シチリアへの旅のことを?」
「覚えている。おれたちがもどるとき、青い騎士がおれたちのすぐ後ろまで迫っていた」「そのころは、あんたはそんなものへいちゃらだったぜ。今はこわいのか?」
「そんなことは言っていない。おれは、そんなものとだって話をすることができる。しかしおれにはまだ仕事がある……。あそこにベッポがいる。ほら、庭のむこうからおれたちに手を振っている。それからエルヴィーラやそのほかの連中が……」
「そいじゃ、その連中と話をすればいい。でも、急ぐんだな、午後は短いぞ。わたしの長年の敵、太陽が真っ赤になって無駄な苦労をしている、ヘヘ。もうすぐ、やつは大砲の弾
みたいに天からころがり落ちるぞ。そこは釣人が穴を空けた氷の上にだ。そこへあんたも
一緒にころがり落ちるさ」
「きさまの手から箒をひったくるぞ、ヘッ!」
「どうぞ、ご随意にだ! 三つの七がそーろった!」
両方とも黙り、お互いににらみ合った。天の真っ赤な円球は形のくずれたベンベヌートの白い姿をピンクのオパール色に染め、ニンジンの鼻は大酒飲みの鼻のようにオレンジ色に焼け、角っぽい目の赤色は大きな庭園の霧にかすんだ空間を貫いている。
大砲の弾を受けた門のようにくずれ落ちたローマ式四阿の壁の上に、カラスの使者がそっと舞いおりると、ベンベヌートはジャガ芋の大きな歯を見せて、木の唇をゆがめて意地悪な苦笑いを浮かべる。
「ベアトリーチェはどうして死ななければならなかったのか教えてくれ。おれが言うのはベアトリーチェ・アマーティのことだ」
「わかっているよ、誰のことだか、名前を言われるまでもなく。あんたはその理由が知りたいのか? 黒い鼻のドクトルたちが言ったんじゃないのか?」
「ああ、言った。彼女は流産をしたんだ。それがもとで高熱が出た。でも、なんてひどい話だ。そんなことはとても納得できない。それはきっと彼女とアントニオとの子供だったんだ。アントニオの芸術をさらに発展させたかもしれない唯一の子供だったのに。同じころ、フランチェスカ・フェラボスキも脳溢血で倒れた。あの二人はすごく幸せになれたことだろうに。おれは弟が若いころから自分の幸福のためにどれほど耐えていたか、よく知っている。やがて、おまえか、ベッポかマルキースか、おまえたちのうちの誰かはしらんがやってきて、彼女を掃き出したんだ」
「それは春だった わたしはもう解けていた。その責任はわたしにはない。誰がやったかも知らない。高熱か……、それじゃ、その子は火事にあったようなものだ。雄鶏のとさかのような赤い炎か。おっと、わたしはそいつを見たよ。いつか月のない晩だった。きっとあいつだよ。たしかベッポが雄鶏の尻尾から抜いた羽根をもっていた。でも、そんなことはなんでもないよ」
「そんな馬鹿なはや合点はよせ。それより、彼女がどんなふうに天国へのぼっていったか言ってみろ。へしもげた天使の羽からばらばらに抜け落ちた羽毛が地上の泥沼をめざして舞い降りてくるように、その天国からあんなような綿雪が降ってくるんだ。どこかの大きな鷹が教会の塔の上で、首から血をながしている鳩の羽根をむしるように、天使の羽根もむしるんだ。そうだろう?
おまえもその天から落ちて来たんだ。それを見たはずだ。どうだ、彼女はまっすぐ天国へ飛んでいったか?」
「そう、まっすぐだ。わたしはもうそこへもどっていた。もう、とっくに解けていたので
ね 彼女は死んだわが子の翼に乗って飛んできた」
「そして天使にともなわれて輝く玉座へついたのか?」
「いいや。天使は見えなかった。玉座も。ただ、なにか永遠のもの、光り輝くものだけだった。それはあんたがた生きた人間にはなんの意味もないものだが、あんたがたのすべてがそのなかにあるんだ。あんたがたにとって、それは空間でもあり無でもあるもの。あんたがたにとって、それは実在するものも非実在のものもふくめた総体であるようなものだ。もちろん、そこではあんた方人間の言葉は、いずれにしろ、ほとんど話されない。それでも、あんたは夜、自分でそれを聞くし、知るだろう」
「もう結構。そのことならおまえよりベッポのほうがもっとうまく説明できる。おれにはあまり時間がない。ベッポのところに行ってくる」
案山子はもう遠くのほうからジャコモに唇のない笑顔でほほ笑みかけていた。十字の腕で、リボンと雄鶏の羽根のついた盗賊のとんがり帽子を冗談ぽくもちあげて……。
「これはこれは、ジャコモさん、シニョーレ・ジャコモ・ジュゼッペ・ストラディヴァリウス! たぶん、起こるべき何かが起こらなかったでんですね」
「いや、起こったさ。あのふとっちょの、いまいましいベンヴェヌートが三週間後のある会合のことで、おれを脅迫するつもりらしい」
「そのことなら、おれ、多少は知っている。あんた、今日にも、大あわてさせられるよ。それがそんなにこわいことなのかね?」
「おれはまだいそがしい。おれとしてはピエトロがどうなったかを知りたいんだ。知っているだろう、おまえの放浪の相棒、ピエトロ・グァルネリだ」
「時間はまだある。あんた、安ワインでももってきて、勝手に一杯ひっかけたらいい。そのあいだに、おれ、がピエトロとどんなふうに、どんなところを旅をしたか、どんな旅の結末をむかえたかについて話をする」
ジャコモはポケットからフラスコ型の瓶を取り出して、口のなかにかなりの量を一気に流し込んだ。
クルミもポプラの木々も、みんないっぺんに注目した。枝じゅうに散らばった木の節の
目をちらっちらっと二人のほうに向けて、葉を落として裸になり、赤い太陽の光のなかで
きらきらとまたたく、すべての枝々をとおして、すごく熱心にベッポの話を待ち構えた。 ジャコモはこれまで木の幹や、枝や、ほそい梢のなかに隠されていたゴチック風のレー
ス模様にも、赤さび色の冷光現象にも、いまさらながら目を見張った おれはこんなす
ばらしい光景に、まだ一度もお目にかかったことがない。
一番いいのは木の幹の前にひざまずいて、その一本一本を抱き、その一本一本に愛を告白することだろう。しかしベッポは額の上までかぶさった帽子のひさしの下の片目でジャコモに皮肉っぽい視線を一瞬そそいだだけだった。
「それじゃあ、その若者ピエトロとどんな旅をしたかを知りたいんだな?」
「そうとも、そうとも。だから、さあ、はじめてくれ」
「一度はマントヴァだった おれら『かわいいシラミ』酒場で朝までたらふく飲み明か
した。それから不意に彼が『家にかえらなくちゃあ』って言った。おれ、トランプの『ファラオー』で傭兵の兵隊を何人か身ぐるみはいで、金をふんだくった。それから、ピエトロは家に帰った。でも十五分もしないうちに、もどってきた。まったく打ちのめされていた。『どうした、彼女、おまえをたたき出したのか』と聞いた。でも、彼はテーブルの上にうつぶして、涙にふるえていた。店にいたおれたちみんな、その事の次第を笑ってやったものだ。
長いことたって、ポケットから紙を取り出した。それには次のように書いてあった。
『父が亡くなりました。家に帰ります。あなたから受け取った苦しみと幸せの時の代償に、ただ一つだけお願いします もう二度とクレモナに姿を現わさないで! いつか天国の裁判官の前で会いましょう。ベアトリーチェ……』
それだけだった。インキが涙でにじんで、字が判読もできなくなるまで長いあいだ泣き続けた。やがて、おれたち、また飲みはじめた。来る日も来る日も、町から町へ。あるとき、おれたち、フィレンツェの通りで、赤いチューリップの色の四頭立ての馬車に出会った。
『おい、いい具合に、金にありつけたぞ。あの旦那にお慈悲をあおげ』と、おれ、ピエトロにけしかけた。『恥ずかしいことなんかあるもんか。おまえのほうが、あの旦那より大きな値打ちがあるんだ……』
で、おれたち、馬車の行く手に立ちはだかった。だれも、おれを、見ない、馬だけだ。馬車がとまったとき、ピエトロが馬車のほうに近寄った。誰かが彼の帽子に金貨を一握り投げ込んだ。馬車は走り去った。ピエトロは道路の上にぶっ倒れて転げまわった。おれ、彼がいかれたのかと思った。たぶん、恥ずかしかったのだろう。すぐに、おれ、かわいそうな気がした。おれ、彼にそんなこと期待してはいない。おれ、たずねた。
『おいこんなフィレンツェの町の真ん中で、なんでのたうつんだ? どうしてフィエソル山の頂上からころげ落ちるんだ? どうして地震を起こすんだい? ラテン詩人を地下の世界から呼び出そうとしても無理じゃないのか? ラヴェンナの空が血のように赤いのはそのためなのか?』
おれ、彼をなだめすかした。おれたち、金貨を数えた。やがて、おれたち、その金で飲みに飲み、カードやサイコロの賭博をして負けに負けた。おれたち、すでに、一文もなかった。そのときになって、はじめて、彼、打ち明けた。
あの馬車にはメディチ家の紋章がついていて、そのなかに、アントニオが、あんたの弟が乗っていたと。それともあんたの弟の姿をした悪魔だ。しかし、おれ、ただ笑っただけだった。それが悪魔でなかったと誰に言える? どうだ? それからおれたち、また方々をさまよい歩いた。
ピエトロはすごく疲れていた。でもおれ、彼を絶えず追い立て続けた。彼に金がなくなると、おれ、彼のポケットに新しい金貨をそっとしのび込ませた。彼はもう、金をもっているのか、もっていないのかもわからなくなった。ただ、ポケットのなかを探るだけだ。 そのころ、彼の血になにか異常が起こりはじめた。彼はフランスの例のいまいましい病気を、どこだかパドヴァの女郎屋でうつされたらしい。彼が重症だということは、おれにはわかった おれたち、あそこまで来たとき、おれの名づけ親がどこかでチリンチリンと鳴っているのが聞こえた。山羊も鈴を鳴らしていた。まるで誰かが骸骨の指で鈴をはじいているようだった。こうして病気がピエトロをおれから奪っておった。
すでに打つ術はなかったんだ。ボローニャに着いたときには、もう喉も口も腫物だらけだった。黒い鼻の医者は彼にうす黒い塗り薬をくれた。それを一年ばかり塗っていた。やがて、とうとう彼はかわいそうなことになってしまった。おれ、彼を名づけ親のお婆さんに引き渡した。
彼はラヴェンナの通りで死んだ。善人たちが彼を葬ってくれた。誰も彼の名前を知らない。おれ、彼を裏切らなかった。だから、この話をするのはあんただけだ」
「わかった、わかった。じゃ、それがピエトロについての話だな」
「そういうこと。で、今度は、おれが聞く。ベアトリーチェはどうなった?」
「おまえは聞かなかったのか、さっき庭でベンヴェヌートにはなしたのを?」
「おれ、あいつの言葉はわからない。あいつは天から来る それにおれの体じゅうを黒
い虫がはいまわっていた。おれにとまってカラスが鳴いていた」
「おまえが理解できないのなら、まだ理解してはいかん。今はおれは行く。おれにはまだたくさん仕事が残っている」
ジャコモは雪でおおわれたごみの山から駆けおりて、裸の低木と雪の山とのあいだをよろよろしながら歩いて行った。そして霜、夜が雪だまりにそっとしのび込ませた霜が、すでにその表面を凍らせようとしているのを感じた。
かつてシニョーレ・アレッサンドロのものだった、虫食いだらけの毛皮のコートをこごえた老いの手足にぴったり引きつけて、家のなかへ急いだ。凍りついたドアをやっとの思いで引き開けると、よろけながら地下室の階段をおりて行った。最後の段ですべって、尻もちをついた。起きあがると、うなりながら尻をさすった。
「マルキース、ここへ、出てきなさい、マルキース。わしは明りをもっておらんのだ。だから、わしはあんたを探せないんだ? 樽のなかはもうとっくに空だし、生地の巻物も毛糸の包みも、もうとっくにユダヤ人のところだ。わしがあんたを探しにきているんだということは、ようく承知だろうが」
暗がりのなかでいざり車のきしむ音と見えない剣ががちゃがちゃ鳴る音が聞こえた。
「やあ、ごきげんはいかがかな、旧友マルキース。こう呼んだからといって、どうか、友情の押し売りとは思わんでいただきたい。それにしても、ここは快い暖かさだな。ところで、わしはもうすぐ死にそうなんだ。あんたに興味があろうとなかろうと、わたしはあんたと二三、話したいことがある。だが、まあ、せめて、興味のありそうな顔くらいして見せてくれ。
じゃあ、はじめていいかな。さてと、わたしはもう遺言の手配はした。わしの弟は本物の精廉潔白の騎士じゃった。父が死んだとき、弟のアントニオは何もかも、屋敷も全部、そのほかあらゆるものもな、わしに譲った。たとえ何やかやと女房の愚痴を聞かされるはめになったとしても、わしからびた一文取ろうとしなかった。その女房が何度か脳溢血に
襲われたというのも、理由はといえば、たぶん、そのことと、やきもちだったろう ベ
アトリーチェのことだよ。
だが、重要なのはそんなことじゃない。あんたも知ってのとおり、なあ親愛なるマルキース、この老ジャコモは金のことなんぞ屁とも思っておらん、ヘヘ。わしがあのいまいましい金庫をここに放りっぱなしだということは、あんたが証人だ。そこの屋敷側の右の隅っこだ。すまんが、そのことは覚えといてくれ。いいか、そのなかにはかなりたくさんの金が入っている。その箱を、わしはやっとの思いでここまで引きずってきたんじゃ。親父が残した全財産だ! それに、わしがこれまでそいつに指一本触れとらんことはあんたもよーくご存じだ。わしの必要な分は、生地と毛糸があれば十分だった。少々の酒、食い物もほんの少しあればいい、それに、だれでもいい、女がな……。
わしは遺言を その金庫について 残しておかにゃならんと思うくらいに年をとってしもうた。わしはそれを皮の鞄のなかに入れておいた。どうだ、わしがどんなに几帳面な人間になったかがわかるじゃろう?」
「…………」
「だからといって、そのことではあんまりわしに期待をかけてもらっても困る。そんなものをもって公証人のところに行くのが、どうも、おっくうなんだよ。そんなことは、もう……。わしが、弟の五人の子供のうちの、三人のことしか考えておらんからといって、わしを悪く思わんでくれ。
ジュリオ、こいつは悪党だ。どっちにしろいつも自分のものは自分のもとというやつだ。それどころか、必要以上にかせぐだろう。
フランチェスコもいやなやつだ。そのことはもう何度も話したな。わしを気違い扱いするからじゃない。その点は間違っておらん。まったく病的に几帳面で、細かくて、自分以外に誰のことにも気を配らん。バイオリンを好きでもないのに、バイオリンを作っているが、それだって、ただ父親の名前を利用するためだけだ。もし親父が桶屋だったら桶を作っているだろう。それがやつの汚さだ。わしが自分の無為を信じるように、人間は自分の仕事を信じるべきだ。わしはこの金貨をこいつに遺してやったらどうかと思うこともある。それのほうが復讐になるかもしれん。ただ、かえって、やつを大喜びさせるかもしれん。だから、わしはそんなことはしないのだ。
カテリーナとアレッサンドロ、オモボノはわしの可愛い子供だ。この子たちにみんなやる 均等に分けてな。それに、この家もだ。この子たちはわしとずいぶん遊んだものだ。そしてわしは幸せだった。
あんたには子供はおありか、マルキース?
よしよし、そんなにすぐに感動しなくてもいい。なに? 娘と息子か。ほほう、で、二人は大きくなってどうなった……?」
「…………」
「なに、街娼と大司教だと? この組み合わせは悪くはないな。しかし、いま、もう一つお願いなんだがな。あんたの指輪の封印が必要なんだよ」
「…………」
「もちろん、ストラディヴァリ家にも五百年来の封印があったんだ。だが、フェラーラで昔、飲のんだか、サイコロ賭博ですってしまったかだ。もう覚えていない。こんな馬鹿なことをするのは恥だ、そうだろう? しかし、もう、起こったことだ。今は、あんたの封印をお願いしたいんだ。遺言には何か押しとかんとな。ちょっと待った。そいつを取りに上に行ってくる」
「…………」
「さあて、もう、もどってきたぞ。スペイン臘ももってきた。このローソクの火で溶かすからな。じゃ、ここにたらすぞ。ここに印を押してくれ。ありがとう。こいつをこの鞄に入れて、そこに隠しておくからな。それで、みんながこいつを探しにきたら、ぎーぎー鳴らして、どこにあるか教えてやってくれ。ありがとう。じゃあ、これで、もう行くからな。しかし、またどこかで会おう。まだ、わしに言いたいことがあるかな?」
「…………」
「そいじゃ、さようなら。どっか天国か地獄の飲屋で……。そのときまでにはその足を取りもどせるよう願っているぞ、マルキース。そしたら、わしらはちゃんと両足で地面を踏んづけて歩こうじゃないか。じゃあ、もし連中がそいつを見つけにきたら……、ぎーぎー鳴らしてくれよ。これからは、あんたも仲間なしにすごさなきゃならんのは気の毒だ。きっと、退屈だろうな 独りぼっちだからな。
だって、いわゆる正常な連中はあんたに気がつかんからなあ。こんなところには見切りをつけて、どこか別の頭のおかしなやつを見つけたほうがいいぞ。あんたのような病的な想像はな、親愛なるマルキース、おかしなやつの頭蓋骨のなかでしか目を覚まさん。だからあんたも少し放浪しなきゃならんな。ただし この地下室からどうやって上にあがる
かね? よし、そのときはわしが来て、あんたを助けてあげよう。
たぶん、わしみたいな変人がほかにいたら、そいつの変な脳みそのなかになら、わしがはいり込めるような場所くらいあるだろう。そうしたらあんたの世話ができる。だけど、なければ……、わしら、永久におさらばだ。しかし、わしは、いずれ、だれか小説家を探し出してみせる。やつらの想像力はときどき狂気の領域にまで入り込んでくるからな。わしは作家の夢のなかに出てきて、あらためて生まれる。そしたら、あんたをこの地下室から助け出してやろう。しかし、今は、ちょっとしゃべりすぎた。これでお別れだ」
車がきしんだ。そしてジャコモは大急ぎで階段を駆けあがっていった。最後の段でまたも足をすべらせ、もうちょっとでころげ落ちそうになった。膝をついて、うめき、足をなでた。やがて何ごとか低くうなり、屋根裏部屋への階段をのぼっていった。
彼は気のふれたエルヴィーラを探した。しかし彼女は現われなかった。
「ええい、こんちきしょう、どこに隠れているんだ。わしにはまだ仕事があるということが、どうしておまえにはわからないんだ? ええい、おまえはどこにもぐりこんだ?」
屋根の隙間のあいだから、闇のなかに赤い光の筋がもれてきた。それは驚くべきくっきりとした陰影を作り出し、何やら得体のしれないがらくたに表情を与え、どこかで腐りかかったごみのやまを秘密めいた生命感でみたしていた。ただ、ここの本当の住人だけが、ここのどこかにひそんでいた。
「月の出を待っているのか? それじゃ、もう、おそすぎだ。おまえともう一度話がしたいんだ。出てこい!」
一つの長持の蓋の上に、こごえたどぶネズミがじっと身動きもせずに横たわっている。炎のように赤い光が一瞬その上にとまったが、やがて先へと移動していった。ジャコモにはそのネズミが巨大な円形劇場に横たわっているように、そして沈みゆく太陽が終結を迎えた悲劇に最後の光線を投げかけたかのようにも見えた。
ジャコモはふるえながら、ふたたび闇に沈んだ長持のそばに立った。やがて折れまがったかのような足で、階段をきしませながら降りていった。道路に面した下の門で気が狂ったように誰かがノッカーをたたくのを聞いたとき、彼はまだ小さなせむしのアルベルト・マグヌスとも、神父や苦行僧とも話がしたかった。
「わしに、何の用だ? わしは門に錠をかけなかったはずだが。そうとも、わしはたしかに錠をかけなかった。なんで、そんなに騒ぎたてるのだ? なぜだろう? そうか、ベンベヌートだな、錠をかけたのは。あの三つの七のせいか。わしはもうここからは出てはいかんのだ。それでも、もしわしが外に出たら、ヘヘ、どういうことになるかな? どうなる? もし、わしが……」
彼は足を引きずりながら、窓のほうへ行き、開けて、誰がたたいているのか見ようとした。しかし窓は窓枠に凍りついて開かなかった。さらに開けようと苦労をし続けた。どうしようもない腹立たしさから、いっそカナテコでこじあけてやろうかという思いが浮かんだが、やがて彼は鉛の枠に入った丸いガラスにげんこつをぶっつけた。ガラスにひびが入ったが、鉛の枠がガラスを放さなかった。
紫色の血管の浮き出た血のついた拳はもう十分な力を残してはいなかった。しかし窓はゆるんでいた げんこつの一撃が窓を開けたのだった。ジャコモはそのなかに大きな赤い、ジャガ芋の鼻をつっこんだ。門の前には誰も立っていなかった。道路の上にも生きたものの影はなかった。彼はもう一度窓を閉めようとしたがノッカーの音がふたたびした。
「誰だ? 門は開いてるぞ。どうしてそんなにたたくんだ? この野郎。そこにいるのは誰だ?」
そこには誰もいなかった。誰も見えなかった。だがノッカーの音だけが騒々しく鳴り続けた。その瞬間、老人の体中に汗が吹き出した。彼は窓を開けっぱなしにしたまま、何かが自分に飛びかかって来ないだろうかと考えながら、自分には階段をおりていくだけの力がすでにないのを感じた。
彼はソファーの上に倒れ込んだ。ソファーに張られた布地から詰物の麻くずがはみ出し、なにかおとぎ話のなかの人物の亜麻色のひげのように見えた。彼はそれを見て、悪霊たちが自分を地下の世界に引きずり込むために、その麻くずのひげを足に巻きつけようとしているような気がした。
「おい! 神父! 神父! とにかくここに来てくれ!」
神父はやって来なかった。そしてアルベルトゥス・マグヌスも呼んだ。
「今になって、みんなおれを置き去りにしようというのか? それはどういうことだ?
今、やっと、おれはおまえたちの国へ行こうとしているのだぞ? どうしておれを避けるんだ? それとも、やつらはこの地下の世界にだけ生きているのだろうか それなのに、おれは天国に行かなくちゃならんのか?
おれはすべてを告白するために神父が必要なんだ。おれは異端の教徒だ。だが今は……、おれは死の祝福が欲しいんだ。おーい、神父、おれは最後の祈りをしてほしいんだ!」
何もぴくりとも動かなかった。赤い球体には穴があき、天から落ちて、ポー川の氷の上にころがった。そして氷のなかに空いた穴のなかに消えてしまった。
「アルベルトゥス・マグヌス、暖炉に火を起こせ。そして昔のように錬金術の道具で何か作ってみろ。おれはおまえの釜や蒸留器や試験管や、成分同志の争いや、赤い獅子や賢者の石やサラマンダーを見たい。
いや、違う。おれは嘘をついている。おれは暖まりたいだけなんだ。おれはきっとあのどぶネズミのように、凍えて死んでしまう。おまえたちがおれを放っておくなら、おれはここで死ぬ」
だれも答えない。ただ開けた窓のガラスだけが、風の凍りつくような息のなかでばたんばたんと鳴っていた。
「フアード、子供を連れてきてくれ。おれはここで子供たちに会いたい。おまえは奇跡を起こすことのできる苦行僧ではないか。おれをここから出してくれ。おれはいやなんだ、ここで、こんなふうに……」
ジャコモは重い足どりでドアのところへたどりつき、最後の力をふりしぼってドアを開けた。廊下ではいくらか元気が出たようだった。彼は恐ろしい深みへの階段をおりていた。 庭へ出たとき、すでにあたりは暗くなっていた。
足を引きずりながら雪の山のあいだをあちこちに歩きまわりながら、どうして表の門に出ないのだろうと考えていた。だが、助けは呼ばなかった。彼はバンヴェヌートを探して、アルベルト・マグヌスやその他の連中が彼を置き去りにしたのかをたずねようと思った。ベンヴェヌートはどこにもいなかった。
「おーい、ベッポ! ベッポ!」
ベッポさえも答えなかった。ジャコモはなにかにつまずき、固く凍った雪の塊の上に倒れた。彼はすでに四つんばいになってすべり続けていた。手を前のほうに突き出して闇をまさぐった。今は雪までが光っていなかった。木の幹にぶっつかり、低木の茂みにひっかかれた。
しかし彼はさらにはい続けた。庭のはずれまで。ローマ風の四阿の廃墟のまわりをあてずっぽうに動きまわった。指の先にギリシャの石柱の溝が触れた。それはイオニア様式の柱だった。ジャコモはこの柱をほかの二人の飲屋の小悪党とともに円形劇場から盗んできたものだった。今や、これが彼の唯一の知人だった。二千歳の年老いた仲間だ。彼はその旧友を抱き、その下に横たわった。彼はその足元でほほ笑んだ。
「二千年か。完成せる無だ。おれはいったい何を恐れているんだ? だが、見てみたい」 石柱 びくびくするなって。たしかにおまえはファウヌスだ。ファウヌスとケンタウロスとのあいだには大勢の半神が生まれた。彼らは不死だ。おまえもそのなかの一人だ、セレスティエ。
ジャコモ おれはそんな名前じゃない。おまえは思っているな、おれが死ぬべきもの(人間)だと。
石柱 そんなことは思ってはいない。かつて、おまえはそう呼ばれていた。今はまた別の名だ。そんなことは大したことじゃない。おまえは死なない。それ以上のことはおまえには言えない、セレスティエ。もうすぐ、テッサリアの葦の茂みが見えてくる。おおきな葦の茂みだ。それはミダース王の床屋の言葉から生え出した。
ジャコモ どんなふうに?
石柱 古い話だ。ミダース王が、アポロンが笛を吹くとき美しい頬が丸くふくらむといってアポロンを笑った。アポロン神は彼に復讐して、耳をロバの耳のように長くのばした。ミダース王は誰にも見られないように、赤いフリギア帽で耳を隠した。ただ、床屋にだけはそのことを打ち明けた。床屋は黙っていなければならなかった。言ったら死罪に相当する。だが、こんな床屋に黙っていることなんかできるはずがない。地面に穴を掘って、穴のなかにその秘密をささやいた。穴の上に葦が生えた。そして風のなかで葉ずれの音を出すとき、その葉がロバの耳の秘密をささやいたというのだ。
ジャコモ 思い出した。その葦の茂みというのはどこにある?
石柱 聞くまでもない、おまえは見るんだから。しかし、これからもまだロバの耳はフリギア帽のなかに隠されるだろう。
ベンヴェヌート まだ葦の茂みはありますかね? そしたら、あんた七本の葦の笛でシリンクスを作ればいい。
ドメニコ神父 大乳のバルバラのオッパイ、ベアトリーチェのキス、アントニオ・ストラディヴァリの最初のバイオリンの音、花の花弁、子供たちの笑い、動物の言葉、円形劇場の真ん中でのペトラルカのソネット、これが七本の笛のシリンクスだ。
ベッポ 剣をもった酒場の喧嘩、血にぬれた金貨、ほこりっぽい道路、エーデルワイスの咲いた高原、魔法使いの女たちの愛、森のなかの十字架像、黒山羊のひづめ、それがシリンクスだ。
エルヴィーラ 月の光に照らされた屋根裏部屋のほこりのなかのどぶネズミの足跡、秋の夜の腐った梁に映るあわい光の影、泥沼のなかでおぼれた黒い狼、祈る乞食、蜘蛛の巣のまつわりついた割れた瓶、天に召された処女マリア、水びたしになった町、それがシリンクスよ。
苦行僧 つがい合う海の怪物、砂漠の泉、風のなかのシュロの幹、悪魔にとりつかれたものたちの剣の舞い、イスラム寺院の床の千年のあいだにぼろぼろになった絨毯、日除けの絹のテント、天までとどく砂の竜巻をともなった砂漠の熱い砂嵐、これがシリンクスだ。
アルベルトゥス・マグヌス 四大の融合、星の永遠性、物質のうそ、魂の迷い、火の放浪、類似のなかの相違、ワイン・グラスのなかのすべての真理、これがシリンクスだ。
ジャコモ 石柱、ベネヴェント、神父、ベッポ、苦行僧、エルヴィーラ、それに、アルベルトゥス・マグヌス、これがシリンクスだよ、ヘヘヘ。
石柱 主。
ベネヴェント 天の賜物。
ベッポ ラヴェンナへの道。
ドミニコ神父 葦の茂みのパイプ・オルガン。
苦行僧 予言者の小旗。
エルヴィーラ 鬼蜘蛛と頭蓋骨の紋様を背にもった髑髏蛾。
アルベルトゥス・マグヌス 賢者の石。
ジャコモ これはなんと美しい葦の茂みだろう。わしはこれまで、かつて見たことがない。わしは川の岸辺、せまい通り、大きな道路、山の尾根、野原も山もさまよってきた。しかし葦を見るのははじめてだ。わしの頭の上に葦の鎚矛がゆれている。足元にはスイレンの花。葦の葉の剣はミダース王の秘密をささやき、シギたちは賢そうに、老婆のおしゃべりに似たしゃべりたがり屋の床屋にほほ笑みを投げかけていた。
葦 シュシュシュシュシュシュ、ススススススス、フリギア帽の下にはロバの耳。赤いフリギア帽の下には、スススススススス……
シギ そういうこと。
ツル だって、アポロンを笑ったからよ、笛を吹いているときに。
シーレーノス ここにすぐ帽子をもってきてくれ、鳥たち! おれもそんな耳なんだ。そして見てくれ、あそこの老サチルも相変わらずだ! 急げ、あいつにも一つ。
シーレーノスは沼のなかから、ちょうどあがってきたばかりのジャコモのほうを示した。鳥たちは飛び立ち、やがて、回る輪をだんだん小さくしながら、ふたたび降りてきた。二羽のシギが、くちばしの先に帽子を二個くわえてもってきた。
ジャコモはうれしそうに笑った。それはすごくきれいだった。ウルトラマリーンの空の上には雪のようにしろいチャーミングな鳥が飛び、太陽がそのひらひらする尾羽を金色に染めている そして黒いくちばしに赤い帽子。ジャコモは自分の耳を触ってみた。すると本当に、両方の耳たぶはとんがり、その耳には、この太鼓腹のシーレーノスの耳のように毛が生えていた。これじゃフリギア帽をかぶったほうが快適にちがいない。
やがてシギはくちばしから帽子を放して、二人の真ん前に置いた。彼らはそれを取って、お互いに顔を見合わせて笑いながら耳の上までかぶせた。太陽は裸の肩の上に暖かい光を投げかけ、鳥たちは円を描いて空を飛び、葦はさわさわと葉をゆらせ、蛙はグワグワと鳴き、ジャコモは上機嫌でけむじゃらの山羊の太ももを指でつついていた。
ジャコモはコヌカグサの生えた地面から沼のなかに飛び込んだ。胸のところまでなま暖かい水にひたり、幸せそうにへらへらと笑った。大きなウシバエとクマバチが彼の頭上でぶんぶんと飛びまわった。そして花や神々の愛にまつわる打明け話をした。密生したエニシダのなかからカワウソが飛び出してきて、最近のミーノースの処女誘拐事件について語った。
空はディアとダナエーの出会いを金の雨で輝かせた。ジャコモの前方にビーバーとアナグマが、公平な裁定をくだすために、おごそかに現われた。山の頂は神話を歌った。そしてこれまで果てしなく、理解しがたく思われたものはすべて、究極的な有効性をもって説明された。
そしてみごとなアヤメの花がすべてを越えて成長した。このときファウヌスがシレーノスに、シギに、ビーバーに、アヤメに、ウシバエに話しかけた。
「わしは、何軒かのバイオリン製作者の家庭のなかによって築かれている町、その町の日の当たらない影のなかでよろこびと苦しみがせめぎあっている、そんな、ある未知の町について長い夢を見ていた。明らかにその町の名声はその家庭の上に築かれていた。なぜならそこで製造されるバイオリンは他の追従を許さないものだったからだ。
そこにはある古い円形劇場があった。そして、さらにそれ以外の多くの馬鹿げたこともあった。しかし、もうそんなものは結構だ。わたしはまたここでみなさんのあいだで、気力をとりもどすことができたのは、なんと幸いだったことだろう! エヴォエー!」
やがて口を水面上にあげ、泡を立て、水ごと激しい息をはいた。手のひらで水面をたたき、無数の水玉のダイヤモンドをまき散らした。水のなかに沈み、水藻の冠をかぶって水面に出てきた。コヌカグサの島に飛び上がって、岸のほうへ進んだ。そして一跳び十尋の飛翔で、笑いながら見ていた太陽まで昇っていった。すると濃紺の山頂はいつものように陽気な神話をうたっていた。
日曜日に二千年の古い石柱の根元に凍死して発見された者があったが、それはジャコモ・ストラディヴァリではなかった。たとえ、彼の口がジャガ芋の鼻の下で大きく広がって大笑いをしていたとしても 。